2017年01月31日

輪廻の中心

昨日、東京から沖縄に帰ってきたのですが、那覇空港で自衛隊機がタイヤの故障で滑走路に立ち往生していて着陸できずに、沖縄上空を1時間くらい旋回していました。

結局は予定より2時間近く遅れての到着です。

昨夜は、禅サンガのWeb配信で向禅師との対談があったので、時間通り配信できなくなった状況にさてどうしたものかと。



いつもならここで、お馴染みの思考が駆け巡ったことでしょう。


「なにも今日に限ってこんなことが起きなくても」


「みんなに済まないことになった」


「なんとか間に合う方法はないだろうか」


「なんで自衛隊機がいたんだ」


「困った、困った、どうしよう」



さらには、いろんな感情が湧いたかもしれません。


あせり、憤り、やるせなさ、罪悪感・・・



何か急に都合の悪いことが起きて、その影響が大きい時、様々な思考や感情が駆け巡ることがあります。

その時は、その反応が現実になっていて、人生の一部となります。

人生はそのように作られているのです。



起きたことは、自衛隊機が故障して、搭乗機の着陸ができなくなったということ。

そのことに対して、どんな考えを持ち、どんな感情に浸り、どんな態度を取るのかは人の数だけあることでしょう。


しかし当人に取っては、自分の反応が唯一の現実になります。

そして起きたことへの脚色も、独自のものになっていくのです。



一日のうちに様々なことが起きています。

いちいち覚えていないだけで、無数の出来事に出会っているわけです。

そしてその一つ一つに反応があり、楽しいこと、腹が立つことなど、いろんな思考や感情の世界が来ては去っていきます。


さらには頭の中でも仮の現実が展開しています。

ふいに誰かのことを思い出して、不愉快な気持ちになったり、

将来が不安になったり、

真剣に問題の解決策を考え始めたり、

嬉しい予感がして幸せな気持ちになったり


こうやって、安らかな世界や苦しい世界が、巡り巡っていくことを輪廻と言います。

輪廻とは転生だけでなく、日々の生活の中で繰り返し起きていることです。


この繰り返しを車輪が廻ることに例えて、輪廻というわけです。

思考と感情が作りだす世界を、大きく6つに分類し、その世界をぐるぐる廻ることを、六道輪廻と言います。








さて、自分のことを良く書くみたいで気が引けますが、特に近年になって、起きる出来事にほとんど影響されない自分がいます。

最も愛していた人の死から、昨日のようなアクシデントに至るまで、何が起きても影響されない中心があるのです。


車輪は廻り続けているのですが、その中心は不動です。

中心は何一つ変わるものがなく、いつも静寂にして平安。


それが退屈かと言えば、まったくそんなことはありません。

刻々と「いま」が生まれ続けていて、それはいつも新しいからです。


もちろん周辺の出来事に巻き込まれる瞬間もあります。

思考や感情と同化することもありますが、また中心に戻ってこれます。

まだまだ道半ばですが、あんなに感情の起伏が激しかった人間がこうなるのだから、誰にでも可能だということ。



この中心を見つけることを禅では見性と言いますが、その中心を定着させることが修行の全てです。

悟るために修行する人がいますが、それはあり得ません。

何故なら、何かのための修業は未来志向であり、求めている悟りは「いまここ」にあるからです。


もっと言えば、悟りなど存在しません。

だって元々、あらゆる人は悟っているからです。

車輪の中心を持っていない人などいないのです。



何が起きていても、その中心に永遠の至福があることを忘れないでください。

その中心は、日々の六道輪廻の中でも、あるいは輪廻転生の中でも、決して失われることなく、本当のあなたとして鎮座しています。

だから何があっても大丈夫なのです。




さて、昨夜は空港からの道のりが考えられないくらいスムーズに運び、開始10分前に帰宅することができました。

昨夜の対談模様が上手く収録されていれば、機会をみて公開しますね。






最後まで読んでくれてありがとうございました。

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2017年01月30日

輪廻転生の意味

前世など無いと言い切ってしまうより、それがあるということを前提にした方が、生きる意味が深まってきますね。

苦難によって魂が磨かれ、より高く進化するために何度も生まれ変わっていると考えれば、いまの苦しみにも耐える力が湧いてきます。

結局のところ人生は、どんなストーリーを採用して生きているかなので、輪廻転生を認めて生きるのもありだと思います。



ただそれも使い方であって、身障者に対して前世の報いだとか、不運な出来事は過去の因縁だとか、そういう見方をする人が出てくるので、僕はこの考え方には慎重に臨むべきだと考えています。

なぜなら、どんな現象にも、真逆からの解釈が可能だから。


見方を変えれば、身障者はすでに高い魂であり、だからこその苦難を選んで生まれてきたかもしれず、不運が続く人生も、そのことに立ち向かえるだけの進化がすでになされているから、それを試すために生まれてきたとも考えられます。

乗り越えられない苦難は与えられないという言葉がありますが、そのように考えれば、難易度が高いゲームのステージには、それなりの熟練度が求められるというわけです。


どう考えるかによって現象の見え方が変わってきますね。


やっぱりこうして書いていると、人生というストーリーから抜けた時、初めて安らぎが待っていることを伝えたくなります。

それを解脱と呼びますが、このことを見抜くために、輪廻転生という何本もの映画を、うんざりするほど見続けているのかもしれないですね。

そして、まだ飽きていないのでしょう(笑)



解脱と言うととても難しいことみたいに考えてしまいますが、ただ足を止めるだけの話です。

ストップ瞑想は、それをしている最中に解脱しています。


たまに思い出してやってみてください。

これが個から全体へのアプローチになります。




あれ?

個に徹したメッセージを書こうとしても、ついいままでと同じになってしまうのは、これも僕の業(カルマ)かもしれないですね。


誰もの人生が、何かの方向性によって突き動かされている。

これって何でしょうか。


ただの習慣かなァ。

それとも大いなる計画?


大いなる計画だと思ったほうが気が楽だね。

全部、計画者のせいにできるから(笑)







幸せな出来事は、ただ嬉しい。

不幸な出来事は、魂を磨くため。


そう考えると、なんでもどんと来いだ。






あなたがこれをクリックするように計画されていたらいいなァ。


   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:00Comments(36)

2017年01月29日

前世

じゃ早速、僕の前世の話をしましょう。


( ̄д ̄;) えええっ、もうですか??


あはは。



こんなんじゃないかって思うことはいくつかあるけれど、前世を思う時、たいていはいまより立派な人を想像するでしょ。

でも実際は、いまと同じ庶民だった可能性が高い。

僕の場合なら、落語に出てくる、長屋の八つぁんか熊さんか、それとも裏のご隠居さんか。



前世で思い当たることは何かというと、まずは2歳か3歳か、ものごころ付き始めた頃に、自分はここに生まれるはずじゃなかったのに何を間違えたのかって思ったのをはっきり覚えています。

ということは、当時は何かを知っていたのだろうか。


あとは17歳のころ、なぜか知らないけれど平安貴族の絵巻物に異常な関心があって、それを見ると胸がドキドキした。

その時はさすがに、この時代に自分は生きていたことがあるって感じてました。

いまじゃ、すっかりそんな気持ちは消えてしまったけれど。



大人になってからは、出会う人の中に何かの因縁を感じることがよくあって、そこで想像するのは、やはり他生の縁。

そういうのって理屈抜きにあるよね。


個別魂があるとして思うのは、魂には分類可能な香りのようなものがあって、あっちの世界では同じ村の出身だったなんて感じることもある。


それと同時に、大きさというか、格のようなものもある気がする。

それを高めるために生まれ変わると考えると腑に落ちることも多いから、そういう考えを持っている人は少なくないよね。





人から一方的に前世を指摘されたことも何度かある。

ひとりは、アメリカの有名なシャーマン女性で、歌手のスーザン・オズボーンさんの親友だったことは覚えているんだけど、本人の名前は忘れた。



もう30年近く前のことだけど、

その人、僕と会うなり急に泣き出して


「お懐かしゅうございます」って(^^;)


「はあっ?」

って言ったら


「あなたはエジプトが栄えていたころに、町の広場で台に乗って、大勢の聴衆の前で、永遠の真理について語ってくれていましたね。

私はあなたの大ファンで、いつも一番前で見ていたんですよ」

って。


それで懐かしいって言って泣いているんだから、ほぼ異常な状況でした。


こういう話は排除してきたけれど、実はこのエピソードは後の自分の生き方に影響を与えることになって、早い話がいまの活動をしようって決めた動機の背景には、この話があったんです。


それなのに

「前世なんかあるものか。大いなるひとつの意識に戻った後に、何が生まれ変わるというのだ」

という立場を貫いてきました。


それにね、前世があるとして、たとえそれが大富豪だったとしても、人生は煩わしさで満ちているのは今生と同じで、最後は未練と欲求不満を抱えながら死んでいったことは想像に難く無いわけで、忘れていられるのは恩恵だと思ったほうがいい。


もし全部覚えていたら、とてもじゃないけど生きていられないんじゃないかって思ったりもします。

苦労の思い出は今生だけで十分だ(笑)


釈迦が説いたように、いつの時代でも

「人生は苦しみである」

という真実は変わらないのだと思う。


その苦しみを経験することで魂を磨いていると考えるのは、あながち間違ってないのかもね。


この記事を書いてすぐに大空さんが、僕が以前に書いた前世に関する記事を張り付けてくれたので、ここに張り付けておきます。

僕が子供のころに何となく記憶にあったことを、ボブさんがチャネリング中にいきなり指摘したのでびっくりして書いた記事です。

Fantasy



この多元宇宙では、どの次元から説明するかで、まったく違った理論が展開するので、どこから話すのかは重要なことになるけれど、その話に興味を持って集まってくる人は、似たような次元を感じているということだと思います。


ここにいつも来てくれるあなたもね(^^)




いつもありがとう。

今日もよろしくお願いします。


  



・・・・・・・・・・・・



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Posted by Toshiro Abe at 10:55Comments(41)

2017年01月28日

随(かんながら)神

みなさん、あけましておめでとうございます。

そう、今日は旧暦のお正月。


沖縄の漁師町糸満では、満潮干潮を知る手立てだからでしょうか、いまでも旧の暦を大切にし、今日が本当のお正月です。


盆や節句なども旧暦のほうがピタリときます。

したがってまさに新春、明けましておめでとうございます(^^)


特に今年の旧正月は一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)でもあります。

一粒の籾(もみ)が一万倍にも増えるという意味ですが、今日から新しいことを始めれば大きく実を結ぶ。

しかも旧正月は必ず新月で、新月も願いを叶えるお月様と言われています。

せっかくだから、あなたも便乗しませんか。





アメリカに新政権が誕生し、いいも悪いも何かが変わりだした今日この頃、世界の変化と共に、我々一人一人にも変化の波がやってきているように思います。

それぞれが自分の未来を想像した時に描くビジョンは、過去の素材を組み合わせて作りだしているのであって、未来はまさに未知なるもの。

知らないものは想像することもできません。


特にこの急激な変化の時代にあって、この先自分の人生がどうなっていくのか、まさに想像を超えているような気がします。

これって少し怖いようでもありますが、ワクワクもありますね。


もちろん何が起きても、目の前には「いま」という一つの現実があるだけで、そういう意味では何も変わりません。

いまに在るというのは、車輪の中心軸と共にあるということだから。

どんなに車輪が回っても、中心は動いていないのです。

それが「いま」です。



さて、これまで僕は究極のリアリティである非二元の世界から、森羅万象の仕組みを説明しようとしてきました。

その次元から見れば、すべてはひとつであり、自分などという分離した「個」もなく、すべては全体の表現としてあるだけで、過去も未来もなく、したがって輪廻転生もなく、ただいまがあるがままにあります。

それが本当のあなたであり、本当の僕であり、僕たちはひとつの大きな存在の現れです。


運命のいたずらで、この次元を見せられてから、このことをなんとか説明しようとしてきました。

そのシンボルが「いまここ」であり、「リーラ」です。



それが昨日の夜、ちょっとした心の変化が訪れました。


いままでとは反対に、分離した「個」に徹底することで、個の側から真実の世界にアプローチしてみたいと思いました。


非二元から見ればすべては完璧で、我々はすでにゴールにいますが、「個」から見ればまだまだ完璧には程遠く、高い次元に向かっての進化の途上です。


輪廻転生


魂の進化


どちらも時間の世界のストーリーですが、分離した「個」にとっては真実であり、そんな観点から人生を見ていきたいと思ったのです。




どんな変化の年になるんだろうね。


きっとあなたも、思ってもみなかったものに出合うかもよ。



でも何が起きても大丈夫。


どの道を歩んでも、最初からハッピーエンドは決まっているから。

♪どんな流れも、いつかは海に還る。

これ、ホントの話(^^)



いずれにしても、

か・ん・な・が・ら




今日からブログタイトルが変わります。





いつもありがとうございます。

多くの人の目に触れますように、クリックしてもらえたらありがたいです。

お年賀クリック(^^)


   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:43Comments(67)

2017年01月27日

どう生きたい?

昨日は久しぶりに、Google社の幹部育成を担当していたピョートルさんと、2人で遅くまで会食していました。

共産党政権下のポーランドの寒村に生まれ育ったエリートビジネスマンの彼と、なぜいまこうして親しく話をしているのか、人間の出会いは不思議です。


ピョートルさんとは、生い立ちも経歴も違うし、そもそも人種が違う。

年齢だって僕よりずっと若いし、活動している世界だって全く違う。


ところがとても気心が知れた長年の友のようにして話がはずんでいる。


それはいわゆる「気が合う」からだと思っていたら、彼はこう言いました。


「人と会った時に心がけるのは、その人との共通点です。

違いが山ほどあっても、共通点を見つけようと思えば必ず見つかるもので、そんな共通の話題から入ると話が弾むんですよ」


なるほどそうか。

そんなことは意識しなかったけれど、彼はそんな風に接していてくれていたのか。

どちらかのちょっとした気遣いで、関係というものはずいぶん変わると思いました。


リップサービスかもしれないけれど、彼からすると僕は滅多に会えない相当に面白い人なのだそうです。

僕に言わせれば彼も相当に面白人で、全く知らない世界を生きてきた人と共通点を探しながら会話するというのは、こんなに楽しいものかと思いました。



「阿部さんにとって成功ってなんですか?」


とつぜんそんなことを聞いてきました。

僕が答えたのは


「幸せなお金持ち」



あはは、なんてありきたりな答えだ。


スピリチュアルメッセンジャーらしく


「本当の自分と出会うこと」


くらいのことを言えばよさそうなものを


「幸せなお金持ち」だって(笑)



でも素直にそう思ったんだから仕方がない。

そして誰もがそうなれる可能性を秘めていて、そんなに難しいことじゃなくて、考え方や、感じ方、行動力がその基盤だということで話が一致しました。



次に


「阿部さんのミッションは?」

と聞かれたので



「そんな大層なものは持っていない。

でも、みんなが勘違いして苦しんでいるから、それを解いてあげたい。」


そしたら


「そうですね。僕もみんなを成功に導きたいです」



彼が言う成功が、僕と一致しているかは分からないけれど、やはり人の役に立ちたいという思いは共通していると思いました。




いまは一生懸命に働いて、老後は悠々自適に暮らしたいという人がいますが、そういう考え方は的外れです。


生活に困らなくても、生きがいや幸せを感じなければなんにもならない。


世界中旅行に出かけても、いずれ飽きてしまう。

温泉旅館だって、しょっちゅう行っていたら豪華な食事に辟易としてくる。

これは経験的に断言します。



僕の場合、幸せを感じるのは、

「阿部さんと出会って、生きるのが楽になりました」

って言ってもらえた時。


だからきっと、人が老後と呼ぶ世代になっても、現役で


「大丈夫だよ」

って言っていると思います。


たとえそこが、病院のベッドだとしてもね。


きっと「幸せなお金持ち」のはず(笑)






今夜もまたひとり、みんなも知っている素敵な方と会います。

東京に出てくると、いろんな人に会えて面白い。

またいつか報告しますね。






今日も読んでくれてありがとう。

ここのクリック応援も本当にありがたいと思っています。

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Posted by Toshiro Abe at 10:07Comments(39)

2017年01月26日

人間関係 その3

さて、人間の違いは気質だけでなく、その人の精神がどの段階にフォーカスしているかによっても違ってきます。

前にお話ししたように、この世的な価値観が全てという第一段階、スピリチュアリティに目覚める第二段階、真理への道が何より大切になる第三段階、そして「全てはひとつ」だという最終段階。

このことについては、以前の記事「スピリチュアルについて」で解説したので、参考にしてください。


自分がどの段階の住人かは、自分が付合っている人達を見ればだいたい分かります。

類は友を呼ぶという言葉通り、違う段階の人とは話が合いませんし、自然に離れていく傾向にあります。

だから、スピリチュアルな価値観が何より大切になってきた人は、それまでの友人が離れていくことでしょう。

友達が減ったという経験を持つ人も多いはずです。


中には人間関係が希薄になり、友達も必要でなくなったという人もいることでしょう。

もちろん、いたらいたでいいのですが、いなくても寂しくないのです。

まるで自分が冷たい人間になってしまったように感じるかもしれませんが、実際に起きていることは、孤独を紛らわせるためのニーズとしての人間関係を求めなくなっているだけです。







さて話は変わりますが、人間関係だけでなく、この世を生きるための基本は、自分は自分でOKだという静かな承認だと思います。

「自分を認める」という言葉がありますが、そういうこととも少し違います。

何故なら、認めようとするのは、認めていないことを知っているからです。

認めるとか認めないとか以前に、自分という存在に寛いでいるということ。

その安心感があるかどうかです。


それがないと、いつまでも他者の言動や、自分に対する評価が気になってしまいます。

健全な人間関係を築くことも難しくなっていきます。


対する相手によって、横柄になったり卑屈になったりする人は、基本的に自分という存在に寛いでいない人です。


基盤が弱まっているので、たとえば人の目が過剰に気になるとか、自分が本当にやりたいことが見えなくなってしまうとかいう傾向になっていきます。


我田引水になってしまいますが、特にルートチャクラからハートチャクラまでを整える瞑想は、生きる上でとても効果的だという考えから、いまの活動をさせてもらっています。

もちろんこれも、エネルギーを調整するための手段の一つに過ぎません。

気功も然り、ヨガも然り、自分に合った習慣を身につけるのは、いつの時代にも必要なことだと感じています。



健全な人間関係を築くには、まずは当事者同士が「自分」という問題を解決していることが求められます。

ところが世に多く見られる恋愛や結婚は、独りでいることの寂しさから逃れたかったり、自分が抱える問題を相手がカバーしてくれるのではという期待から生じていることが多く、その結末は言うまでもありません。

一人の問題が二人分になり、さらにそれが膨らんでいくのですから。


これは持論ですが、いまの社会システムの何が個人の尊厳を貶めるのかを徹底的に究明し、それを改善することは、経済発展を追い求める以上に、人間の幸せに貢献すると考えています。

結婚制度や教育制度もそれらの一つです。


成人して社会に出るまでの準備が教育であるならば、各自が自分自身を受け入れられるようにすることが最も大切なことです。

極端に言えば、それさえあれば、人はなんとか自力で生きていけます。

そして霊性に基づいた道徳を学び、慈しみの心を育てる。

他の必要なことの多くは、ロボットとコンピューターがやってくれることでしょう。


この先、想像を超えたテクノロジーに支えられる時代に入っていきますが、そうなればなるほど、人間としての在り方が大切になっていくと思います。







いつも協力ありがとうございます。

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2017年01月25日

人間関係 その2(聖なるあきらめ)

ガッツ(肉体)、ハート(感情)、マインド(思考)、人間には大きく分けて3つのエネルギーセンターがあるという話をしました。

どのセンターを主に使うかによって基本的な性格が決まってきます。


エニアグラムの場合は、それらをさらに3等分し、9つ(ギリシャ語でエニア)の性格があると説きます。

この性格は先天的なものであり、一生変わることがありません。


環境やアクシデントによっても性格が変わることがありますが、それでも根底の性格は気質のようなもので、変わることがないのです。

たいていの場合は、社会で生きるために性格を矯正してきているので、自分の基本的気質が見えにくくなっていますが、それを見つけていくのは興味深い探究です。


エニアグラムは元々、スーフィー(イスラム神秘主義)に口伝で継承されてきた学問で、とても整合性があり、学んでみる価値があります。

少なくとも、人間は同じ情報に対する反応が、こんなにも違うのかという理解に繋がります。


イヤミな同僚、頑固な部下、頼りなさげな上司など、なるほどそういうことだったのかと理解することは、相手を受け入れる力になります。

エニアグラムに関してはネットや書籍でいくらでも学ぶことができるので、ここでは紹介だけに留めておきます。



とにかく知っておきたいのは、人はそれぞれ違う価値観を抱えて生きているということ。

だから人の意見は人の意見であり、そのことに心を悩ます必要はありません。


意見は違って当たり前。

なぜあの人はあんな言い方をするのか、なぜこんな簡単なことに気がつかないのかと言って、いつまでも悩み続ける人がいますが、あの人はあんな言い方をするし、こんな簡単なことに気づかないというだけの話です。

どの人も全体(神)の表現に過ぎません。


人を変えようとしても無駄です。

そのことは、もうとっくに知っていますよね。


ですから、諦めが肝心です。

全体(神)の作品なのだから諦めましょう。


これを「聖なるあきらめ」といいます。






人間関係の悩みや軋轢は、人の言動を自分の世界から判断することから生じています。

だから相手の一言が、自分にプレッシャーをかけていると受け止めて、混乱したりもするのです。


特に傷つくのは、自分の悪口を言われたり、陰口を叩かれたりしたときではないですか。

人は人の批判が大好きなことも知っておきましょう。

人を批判するというのは、自分は正しい人間だということの一番安価な証明です。

人は自分を証明したくて仕方ないので、批判が好きなのです。


人は見たいように見て、言いたいことを言います。

それは僕たちだって同じこと。


だから人を許してあげましょう。


許すと言うと難しいけれど、そのためにはいくつかのことを理解するこです。


一つは、人間とはそういう生き物だということ。

もう一つは、相手がしたことはあなたに対してではなく、相手の世界の中に作りだしたあなたにしたことだということ。

そして究極的には誰一人、本当は傷ついていないということ。


最後の一つは分かりづらいかもしれないけれど、最初の2つは分かるでしょ。

分かれば、許すまでもなく許しています。









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2017年01月24日

人間関係 その1

今日から数日間にわたり、人間関係をテーマに書いてみたいと思います。

書きたいのは人間関係のノウハウだけではありません。

関係の中で何が起きているのかという仕組みのようなもの。

それを理解すれば、ストレスが少なくなるはずです。



まず最初に言っておきたいことは、通常の意識レベルにおいては、他者は煩わしいということ。

何故なら人はみな、全く違う世界に生きているからです。


世界とは、ただひとつ存在する客観的な事実ではなく、各自の思考によって独創的に作られたイメージのようなものです。

他者がどのような世界に住んでいるかは知ることができません。


人は皆、自分本位の物語を生きているのであって、ひとつの同じ舞台に役者たちが登場しているわけではありません。

だからすれ違いや誤解が生じることになり、人間関係が困難なのも当然です。



その一方であらゆる存在を流れる本質は一つであり、それを愛と呼びます。

早い話が、愛があれば問題は起きません。


でも最初に書いた「通常の意識レベル」において愛は見失われています。

「愛もどき」はあるのですが、それは愛ではなく、ある種の取引のようなもの。

愛は使うものでもなく、与えるものでも受け取るものでもなく、我々の本質であり、高次の意識レベルです。


愛において「私」は消えています。

私が無ければ、相互関係も生まれません。

したがって、完全な人間関係とは、愛の中で関係が消滅した時に起きる状態です。



話が難しくなってしまったので元に戻します。


「他者は煩わしい。以上!」

と宣言してしまえば、なんだか爽やかになりませんか(笑)

他者と上手くいかない自分は何かがおかしいとか、他者を煩わしく思う自分は出来そこないだとか、そんな罪悪感は持たずに済みます。


上手くいかなくて当たり前と分かった上で、さてどう向き合っていくか。

まずは、エネルギーの観点から話を進めてみましょう。






僕は常々、この世はエネルギーのキャッチボールだと感じています。

あらゆる存在はエネルギーでできていて、そのエネルギーは何らかの波動を発しています。

周囲からの様々な波動を浴びながら、自らも波動を発して周囲に影響を与えています。

まさにエネルギーのキャッチボールです。


人間関係において気持ちがいい時は、エネルギーの波動が合っている時。

そこでは活発なエネルギー交流がおきています。

気が活発になると、「気持ちがいい」という状態になります。


人間にはいくつかのタイプがあると言いましたが、それはエネルギーの出し方の違いとしても現れます。

人間関係での不快感の多くは、相手が何を言ったかという内容自体ではなく、相手のエネルギーの出し方が自分に合っていない時に起きています。

同じことを他の人から言われても気にならないのはそういう理由です。


気が合わない相手というのは確かにいるのですが、それは文字通り「気」が「合わない」のです。


それではそのような相手と、どのように接したらいいのでしょう。


一番いいのは、自分のエネルギーをオープンにして相手のエネルギーの出し方に抵抗しないで受け入れてあげることです。

でもこれをするためには、相手に影響されないくらいの確固たるエネルギーを持っていることが求められます。

瞑想や坐禅はエネルギーをプールするので、このことが容易くなります。

瞑想を重ねている人が、生きるのが楽になったというのは、そういう理由です。



エネルギーをオープンにするのが難しい場合は、無理しないことです。

逆に閉じることで、不要なストレスを感じなくて済みます。

このことは本能的に知っているので、すでにやっていますよね。


思考タイプやガッツ(肉体)タイプの人の中には、相手が何を感じているかに無頓着な人もいて、自分の正しさから一方的なエネルギーを浴びせてくることもあります。

そのような場合は、さりげなく自分を閉じて、速やかにその場を去るのが賢明でしょう。


でも去れない時もあり、そういう時は思い切ってオープンな状態にしてごらんなさい。

それによって不思議と相手のエネルギーも変わってきます。

相手は気が合い始めたように思うからです。



少し長くなりすぎたので、また明日書きます。


このようなテーマは様々な角度から説明が可能なので、また違った観点から解説してみます。

理解は人生を容易くしてくれるというのが、僕の経験だから。






今日の記事はつい難しい文章になってしまい、何度か書き直したので3時間近くかかってしまいました。

やはり僕は話をする方が得意で、文章を書くのは苦手です。



そんな努力に免じて、今日はクリックしてあげましょう(笑)

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2017年01月23日

人間関係

昨日、人間には大きく分けて3つのタイプがあり、どのエネルギーセンターを主に使っているかの違いがあるという話をしました。

実際には、世界中に70憶のタイプがあり2人として同じ人はいないのですが、人間関係を説明するうえで解りやすいので、あえて3つに分けてみます。


この世のストレスの多くは人間関係から生じているので、昔、方広寺でやっていた企業人向けの研修では、人間について、そして自分とは違うタイプとの付き合い方について講演していました。


一方でこのブログでは、自分、命、神、真理というものを解明することに力を入れてきました。

真理への理解が、すべての問題解決に繋がるからです。


しかし残念なことに、伝えたいことは言葉にできない世界であり、言えば言うほど矛盾が生じ、しかも真理から離れてしまいます。

真理はダイレクトな理解でしかあり得ないのです。


そこで真理と自分を繋ぐ道として、禅的な考え方や生き方を提案し、瞑想を推奨してきました。

禅と瞑想の普及は20年以上になりますが、これからも同じです。



もちろん真理側から見れば、何一つ自己にできることはありません。

究極的には自己など存在していないからです。

しかしその話を聞いたからと言って何かが解決されるわけではありません。


自己には何もできないことを踏まえながら、ギリギリできることが禅と瞑想です。

なぜなら禅は無我へのアプローチであり、瞑想とは瞑想を行う自己の不在だからです。


行為を通して無行為に至る。

分離から入り、サマーディ(一体)に至る。

これが禅と瞑想です。


OSHOからは多くのインスピレーションを得ましたが、この点において完全に一致しています。

OSHOについては、生前に激しいネガティブキャンペーンが展開されたので、悪い印象を持っている人もいますが、彼の言葉はいまも真理に一直線に向かっていて、数十年経った今も色あせることはありません。

そもそも彼は論理を説いているわけではないので、反論などあり得ないのですが・・・






真理へのアプローチは禅と瞑想に任せるとして、今日から何回かにわたってこのブログでは、実際の苦しみの要因である、人間関係について書いてみようと思います。


子供を愛せない親や、虐待の問題、これらも人間とその関係を理解することでずいぶん変わります。

たとえ相手が幼児だとしても、そこにあるのは人間関係だからです。

職場での悩みも、結局は人間関係に行きつきます。

恋愛もしかりで、実は人生とは人との関わりによって生じる物語のことなのです。


数日前に、もしこの世に自分一人しかいないとしたら、という架空の話をしましたが、その時は、自分という認識もありませんし、人生という物語もありません。

実は我々は人間関係の海に生きているのです。


伝えたいことは山ほどあるので、今回の講演で重点的にお話しします。


明日以降のブログでも、エネルギーの観点から見た人間関係を綴ってみようと思います。

このことが何かのヒントになって、より生きやすくなってくれたらと願いながら。







多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。

まずは左のお猿の温泉をポチっとして、行った先にある「リーラ」をクリックして戻ります。

次に右のボタンをクリックして、同じくそこにある「リーラ」をクリックして戻ります。

それで完了です(^^)


    



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【お知らせ】


ハートマントラ瞑想

大阪 2月17日、18日

東京 2月24日、25日

詳細はコチラから



講演会

沖縄 2月14日


大阪 2月19日


東京 2月26日


名古屋 3月20日


博多 4月30日


参加ご希望の方は、各地名をクリックしてください。



動画音声配信

「スピリチュアルエンタテイメント!」

(スーパービジネスマンとの対話・居酒屋阿部家・わかりかけのRadio・各種イベントなど)

  


Posted by Toshiro Abe at 10:02Comments(34)

2017年01月22日

ハート(感情)センター

昨日はとても嬉しいことがあって、その勢いでライブして、お祭りみたいな一日でした。

嬉しいとか悲しいとかいう気持ちがあるから人生は飽きないのでしょう。


でもどちらの感情も自分を取り巻くムードのようなもので、来ては去っていきます。

感情は自分ではないからです。

そのような態度で感情を味わうことができれば、落ち込んだときに、むやみに浸ることがなくなります。



人間には大きく分けて、マインド(思考)とハート(感情)とガッツ(腹)という3つのセンターがあって、人によってどこを中心に生きているかが違います。

これは生まれつきの性分で、一生変わることがありません。


どのセンターにもそれぞれにプラス面とマイナス面があります。

プラス面は、どの中心も生きる上で大切なので、苦労することなくあたりまえに使いこなせること。

マイナス面は、その機能が強くなりすぎた時に起きます。


僕の場合はハートセンターで生きているので、人生を味わい深く生きられた反面、感情に振り回されることもよくありました。

だから今日の様なメッセージが出てくるのでしょう。


ハートセンターは、感情によって生きているという実感を持っているので、落ち込んだ時は苦しいにもかかわらず、無意識にその苦しみをより深く感じようとしてしまうのです、


そのような人は、どこまでが実際に訪れている感情で、どこからがおぼれている感情なのか見極めることが大切です。


今日はハートセンターの人へのアドバイスになりますが、繰り返すと、感情は自分ではなく自分を取り巻くムードだということを理解することが、生きやすくなる秘訣です。







さて今日も、これから瞑想指導をします。

夜はいつものように定例のWeb瞑想会です。


違う場所で瞑想しているのに、なぜかそれを感じ会えるのは不思議な現象です。

どの時間帯でも、世界中で必ず瞑想している人がいるのに、同じ会の中でそれを実行すると、また違った連帯感が生まれるのです。


意識は肉体の中に閉じ込められているのではなく、空間を超えて互いに重なり合っているからだと考えています。

機会を見て、みなさんのこともご招待する日を作りますね。



今日は日曜日。


素敵な一日をお過ごしください(^^)





いつもありがとうございます。

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このブログは、スマホで見ている方が80%だと聞いています。

スマホの場合は画面右にあるインフォメーションが見れないので、今日からはなるべく記事の最後に、イベントのお知らせなどを載せていこうと思います。

いつもそう思いながら、つい忘れてしまいますが・・・(^^;)



【ハートマントラ瞑想】

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Posted by Toshiro Abe at 11:44Comments(23)

2017年01月21日

瞑想と思考

瞑想とは無思考状態のことだと思っている人がいますが、それは違います。

思考が次々に湧いてくることのほうが普通です。

そもそも自分が考えているわけではなく、考えが何処からか湧いてくるのですから、自力で止めることなどできません。


では何が違うのかと言えば、普段の生活では思考と同化していますが、瞑想中は思考の存在に気づいていること。

気づきは、気づいた対象との距離を作るので、気づきがあるということは、思考と離れているということです。


僕はいつも、壊れたラジオを横に置くという表現をします。

絶え間ない思考は、まさに壊れたラジオ。

まずはスイッチが壊れていて止まらないし、チューナーも壊れていて、ある時は先の心配、ある時は終わったことの後悔、ある時は特定の人のこと、ある時は非現実的な妄想、ある時は・・・というように取り留めなく放送されていきます。


もし思考を完全に記録することができれば、その支離滅裂さに驚くことでしょう。

完全に狂っています(笑)






そんな思考から一線を置くのが瞑想と言ってもいいでしょう。


そうやって思考を放っておけば、遠からず消える状態がやってきます。

それはそれで素晴らしい経験で、時が立つのを忘れてしまいます。

というより、無思考状態において時間は消えるのです。

思考が時間を作りだしていると言ってもいいかもしれません。


時間を超えて静止したエネルギーが本来の我々であり、安楽の境地です。




今日は沖縄で、昼は瞑想指導、夜は音楽ライブをします。

そろそろ準備しなければいけないので、今日はこのくらいで。


今日も心安らかな一日でありますように。





ここを訪れた時、一日に一回クリックしてもらえるとありがたいです。

何回もしてくださる方がいますが、ひとつの端末から一日一回分がカウントされます。


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2017年01月20日

瞑想効果と弱点

つい先日、昔なら完全に頭にきていたような出来事がありました。

電気量販店の店員さんのミスで、なんと、5回も無駄足を運ぶことになったのです。


以前なら

2回目で不機嫌になり


3回目で「息を吸って私は静か。息を吐いて私は微笑む」の呪文が始まり


4回目でブチ切れて


5回目は足を運ばない。



それが今回は最初から最後まで笑顔で


「そうですか。そうなんですね」


少し無理した笑顔でしたが、それでも考えられないくらいの変化です。


これはどうしたことだ。



そう、思い当たるのは瞑想効果です。

特にこの数年の変化は著しく、「頭にくる」という経験が見当たりません。


瞑想は歯磨きと同じで、誰もが毎日やったらいいと思っています。

副作用はないし、心身の健康にとってこんなにいいものはありません。


欧米では医学界からも注目されていますし、最近ではご存知のように大手企業が社員の健康管理と業績向上のために取り入れ、実際に効果を生んでいます。

Googleに瞑想を定着させたピョートルさんはその先駆者で、日本の大手企業からも引く手あまたなので、今年は大活躍していくことでしょう。



でもね、瞑想には弱点もあります。

それは本人の意思がなければ続かないということ。


時間を有意義に使うということに慣れ切っているので、瞑想が無駄な時間に思えてしまうのです。

それに、一回一回の瞑想で劇的な変化があるわけでなく、継続させることの中で効果が出てくるということ。


そのうちマインドにつかまって、「瞑想なんて無意味だ」とばかり止めてしまう人もいます。

こういう反抗期は一部の人に訪れるのですが、この時期を乗り越えれば、瞑想が持つ限りない宝を手に入れることが出来ます。


ですから、教える側の役目は、瞑想の指導だけでなく、いかに継続してもらうかが大きなことになるわけです。

そこでいまは、最初の半年間はしつこいくらいにフォローのメルマガを送り、毎週Web瞑想会を開いています。

それでもまだ十分ではないので、将来的には各地にNIKE瞑想の教師が誕生していくことをビジョンにしていて、その最初の教師トレーニングが来月から始まります。

少しずつですが、体制が固まりつつあります。






僕はこうしてメッセージを伝えていますが、最終的には実践ありきなので、これからも禅的な生き方と瞑想を普及させていこうと思っています。

ピョートルさんとの活動も、今年から始まっていきます。


そのピョートルさんと昨年末に開催したコラボ講演会の動画配信が「スピタメ!」で、本日の13時から始まります。

無料サンプルもありますから、覗いてみてください。

「スピリチュアルエンタテイメント!」



お互いに目の前のできることをやって、一隅を照らしていきましょう。






いつもありがとうございます。

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【お知らせ】


2月、大阪と東京のハートマントラ瞑想伝授と指導のお知らせです。

NIKE瞑想では各チャクラに応じた瞑想をお勧めしています。

初めての方は特にこのハートマントラが扱いやすく効果的です。


大阪 2月17日、18日

東京 2月24日、25日


詳細とお申し込みはコチラから
  


Posted by Toshiro Abe at 11:20Comments(35)

2017年01月19日

絶対他力と占い

こうして毎朝ブログを書く習慣のおかげで、一日のメリハリが持てています。


いろんな人生があると思いますが、僕の場合は30代から40代の半ばくらいまでが一番大変で、その後はとても恵まれた日々を過ごさせてもらっています。

とくにこの5,6年は幸運の天使が舞い降りてきたのではと思うくらいの毎日で、このことは天河神社で聞いた占いの通りです。


50歳を過ぎたあたりから限りない幸福を手に入れるとのことでしたが、それを聞いた当時は、そんな先まで待つなんてと思いました。

実際その通りになっていて、その後の活動内容や、それ以外の出来事にも不思議な一致が多かったことから、占いは侮れないと思っています。

もちろんピンキリなんでしょうけど。







起きることしか起きないということは、後から見てみればすべては必然だったというわけです。

ということは、この先も必然が続き、起きることだけが起きていくわけで、それらはすでに決まっているということになります。


その一方で、大まかなストーリーは決められているけれど、自由意思によってそれを変えることができるという考えもあります。

しかし何か一つ変われば、それは全体に影響していくのですから、みんなが自由意思を行使できるのなら、何一つ決まっていないのと同じです。


僕は、彼方から湧いてくる思考もその内容も、そして意志も選択のタイミングも、すべては決められていた通りに起きていると感じています。

これは自力を信じる自我には受け入れがたいことですが、同時に楽ではあります。

結局はどうにもならないのだから「勝手にしやがれ」というわけです(笑)


だからと言って何もしないわけじゃありません。

生きたいように生きて、やりたいようにやって、結果はお任せということです。



僕がやりたいことは、心の苦しみを根本から消滅させるアイデアを話し続けること。

会った人達が元気になること。

あー、楽しかったって言ってもらうこと。


きっと死ぬまでやっていく。

と占いは言っています(笑)






ご協力のおかげで、たくさんの人に見てもらえるようになりました。

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【お知らせ】

2月以降の各地講演会のお知らせです。

大阪では2月16日と17日にマントラ瞑想の伝授と指導をさせてもらいます。

詳細は明日ご案内します。



講演会


沖縄 2月14日


大阪 2月19日


東京 2月26日


名古屋 3月20日


博多 4月30日


参加ご希望の方は、各地名をクリックしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:25Comments(58)

2017年01月18日

シンプルということ

20代のころは典型的な物質主義者で、一度きりの人生を面白おかしく生きることしかないと考えていました。

成功を夢見て、成功したあかつきのリッチな生活を夢見て、マインドはいつも遠くにあるはずのユートピアを夢想していました。


目標が達成されても、それはさらなる目標の通過点。

いま思えば、成功したこともあったのに、そのことを喜ぶのは束の間で、マインドはいつも欠乏状態でした。



あるとき疲れ果て、うんざりし出したころ、初めての気づきが訪れます。

そもそもの問題は、何かが得られない欲求不満などではなく、マインドの質自体ではないのかと。

マインドは底が抜けたバケツのようなもので、これでいいということは決して起きないんだと理解したのです。

その時、ものごころついてから初めてといってもいいような安堵感が訪れました。


この気づきが精神世界への入り口となります。

幸せへのカギは、自分の外側ではなく内側にあると気づいたのです。



こんな小さな気づきで、ここまで心境が変化するのだったら、もし釈迦やキリストが言うようなことを理解したとしたら、どれほどの境地に誘われるのだろうと思い、その日から真理の探究が始まりました。


あいかわらずお金や名声を追いかけている社会を、少し哀れに思いながら、精神世界の本を読みふけりました。


「見つけた。本当の生きる道を見つけたぞ。」

とそんな心境だったと思います。



本に綴られたインドやチベットの覚者たちの言葉は、乾いた砂漠に水をまいたかのごとく、心に浸透していくようでした。

まるで天にも昇るような、ハイな毎日が続きました。


このマインドを超えていこう。

いつの日か、このマインドを落とすんだ。



もはや、お金や名誉は色あせた偽の宝に過ぎず、マインドを超えて悟りを得ることが何よりの願いとなりました。


そんな日々が1年以上続きました。

そしてまたあるとき、ふと思ったのです。


「何か変だぞ。求めているものがお金から悟りに変わっただけで、マインドはあいかわらず底が抜けたバケツのままだ。

求めているものが変わっただけで、マインドの質は何も変わっていない。

違う形で同じゲームをしていただけだった。

そうか、遠くのものを求めるメカニズムこそが、マインドの正体だ」


マインドを超えることや、マインドを無くすことを目指してきたけれど、そもそもその目指すということ自体がマインドだったと思った瞬間、マインドなど最初から無かったと直感しました。


無いものをどう超えようというのか。


マインドを超えるというのは、達成するものではなく、まさに最初からマインドなど存在していなかったということを見抜くことだった。

この気づきが「いまここ」との最初の出会いになりました。



いまここはずっと一緒にあったのですが、僕のほうがいつも複雑に考えていて、シンプルないまに気がつかなかったのです。


「真実は何一つ隠されていない。

真実はいつも目の前にある。」


という覚者の言葉も、このとき初めて理解することができました。




禅にこんな話が伝わっています。


長年修業を続けてきた弟子が、老師に言いました。


「老師様、なぜ究極の真実を教えてくれないのですか。

いつも何かを隠しているのは何故ですか。

それは自力で見つけなければならないのですか」


すると老師は言いました。


「ワシは何も隠しておらん」



それでも弟子は信じられません。

何度も食い下がりましたが、答えは同じままです。



その後二人は、山に散策に出かけました。


老師が突然こう言いました。


「金木犀の香りはするかね」


弟子は

「はい、します」


すると老師は


「ほらごらん、私は何も隠していないじゃないか」






まさにいま、この香りの中に、この山道の中に、鳥の声の中に、そして自分自身の中に、真実はあからさまに顕現している。


それがたとえ街中だろうと、この雑踏の中に、クラクションの音の中に、騒々しさの中に「それ」はある。


ただシンプルに「それ」と共にあるとき、この世のすべての秘密が明らかになるのです。



このことが


「人は皆、すでにゴールにたどり着いている。」


「人は皆、最初から悟りを得ている。」


という言葉の意味です。



シンプルさがそのカギ。


「リラックスして、ただシンプルに在れば、すでにあなたはブッダです。」


この言葉をどう読むか。

何も難しい意味はありません。



ただ言葉のとおり


「リラックスして、ただシンプルに在れば、すでにあなたはブッダです。」









いつもありがとうございます。

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2017年01月17日

愛の中の夢

全部が夢だと言われてもピンときません。

だって、この肉体の感覚は確かにあるし、感情も生々しい。


しかしすでに科学においても、我々が現実と呼んでいるものがいかに不確かなものなのかが報告されています。

これが完全に証明されて、この事実を受けいらざるを得ないことになったとしたら、人はどのように生きていくのでしょう。


この事実を知ったからと言って、何がどうなるわけでもありません。

結局はいままでと同じようにして、よりよい明日を願いながら生きていくのでしょう。


夢なら夢でいいけれど、それならこの夢を思い切り生きようと思うわけです。



起きることに一喜一憂し、ある時は大騒ぎし、いろんなことを自分に言い聞かせながら生きていく。

なぜそうやって生きなければいけないのか理由も分からず、とにかくこうして生きているわけです。



救いはないのか。




いや、救いはあります。


というのは、夢は必ず覚める時が来るということ。

真実は永遠ですが、夢には終わりがあるのです。






そして目覚めた時、ありとあらゆるものが「愛」によって生かされていることを知ります。


これは救いと言うよりは、とてつもない祝福です。


こんな自分が、こんな愛に生かされていたなんて。


夢にうなされている間も、ずっと愛の中にいたなんて。


あー、存在は、何て素晴らしいんだろう。


私は何て素晴らしいんだ。



あえて言うとしたら、この素晴らしさに帰るために、こうして夢を見ているのかも。

このような説明は、完全に正確ではないにせよ、あながち間違いでもありません。


所詮は摩訶不思議な中で起きていることです。


解らないことを無理に解ろうとする必要もない。

だって人間には解らないのだから。



解らなくていいから、今日もこの夢をそれなりに生きるとしよう。


頑張るもよし。


頑張らないもよし。



でもせめて愛を信じて生きよう。


それは確かにある。

いまも僕たちは、愛の中にいる。



すでに昔から、多くの人達がこのことを証言しています。


僕たちが次の証言者かもしれないね。









今日もよろしくお願いします。

所要時間は約10秒間です。


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2017年01月16日

無題

今朝、目が覚めた時、漠然としたストーリーが頭に浮かんでいたのですが、全部が消えてしまわないうちに、とにかく文字に起こしてみます。



久しぶりの休暇をもらい、十年ぶりに故郷の地を訪ねました。

ここは子供のころによく遊んだお城の公園。

あのころと何も変わらない懐かしい景観です。


大志を抱いて都会に出て頑張ってはみたものの、未だしがない勤め人。

恋人の一人もできず、結婚など夢のまた夢です。


同級生だったK子はもうとっくに結婚したことでしょう。

色白で静かな知性を感じさせる一重瞼の日本美人。

TVで見かけるようなギラギラした女性とは一線を画す、理想の女性でした。

あのとき恋を告白していたら、また違った人生があったかもしれません。






穏やかな日差しのベンチにすわり、石垣が続く細い砂利道をぼんやり眺めていると、なんと向こうからあのK子が現れました。

先方もこちらに気がついたようです。

「やあ、久しぶり。ちょうど君のことを考えていたんだ」


するとK子も

「私もなんだか昔が懐かしくなって、久しぶりに来てみたの」



話を聞けばいまもまだ独身で、この夏からは東京のオフィスに就職が決まり、上京してくるとのこと。

そうなった暁には、いろんなところに案内してあげるよなんて話が弾み、その日から遠距離恋愛のような交際が始まりました。


そして二人の仲はとんとん拍子に進み、翌年には結婚。

子供も生まれ、絵に描いたような幸せな日々が続きました。


あまりの幸せに、ある時、ふとこんなことを思いました。


「こんないいことばかり起こるはずがない。

まさか・・・これは夢?」



と次の瞬間、現実がぐにゃっと曲がって消えていき、気が付くとベッドの中。


やっぱり夢だった。

それにしてもリアルな夢だった。


そもそもまだ自分は高校生だ。

憧れのK子との将来を、いつも夢想していたから、こんな夢を見たのだろう。

それにしても幸せな毎日だった。


未練を残しながらしぶしぶベッドから起き上がると、そこに口うるさい親が立ってこちらをにらんでいます。


「いつまで寝ているの。早く学校に行きなさい」


いけない、もうこんな時間だ。

慌てて着替えて、朝食をかきこみ、見慣れた通学路を速足で歩いて、なんとか遅刻せずに学校にたどり着きます。

そもそも今日は学校に行きたくなかったのです。

宿敵ともいえる不良から、放課後に屋上に来るように言われていました。

こちらもそれなりにツッパッテいるのが気に入らないようです。


憂鬱な一日が過ぎて、いよいよ放課後がやってきました。

K子は何も知らずに、友達と楽し気に笑いあって下校の準備をしています

それもそのはず、K子のことは片思いで、ろくに話をしたこともないのですから。

それにこんな出来事は知らないほうがいいでしょう。

たぶん一方的にやられるのは目に見えています。

だって相手は札付きの不良なのですから。


でもここで引き下がったら男がすたる。

今日という今日は決着を付けなければ。



屋上に行くと、相手は凄い形相でこちらを睨んでいます。


そして、いつも以上に凄みをきかせた声で、こう迫ってきました。


「お前は生意気だ。俺に向かってガン飛ばしやがって。その態度を今日で終わらせてやる」


と言うと、いきなりぶつかってきて、あれよあれよという間に屋上の柵まで追い詰められてしまいました。


相手の顔は本気です。

その狂った様な目つきを見ると、本当に突き落とす気かもしれません。


急に恐怖が襲ってきました。


上半身がエビぞりになり、逆さになった校庭が見えます。

あまりの絶望的な状況に、


「夢なら覚めてくれ」


と叫んだとたん、電車の中で目が覚めました。



そういえば今日は朝早くから仕事で、いろんな雑務をこなして疲れ果てていたのでした。

うっかり寝過ごすところでした。


いつもの駅について、階段を下り、改札を抜けると外は雨です。

そこにはK子が傘を持って待っていてくれます。


なんだ、夢の中で見ていた夢だと思っていたことが本当の現実だったんだ。

あーよかった。



この登場人物は、このことが夢だということにまだ気づいていませんが、いずれ目を覚ますことでしょう。

それがお城の公園なのか、ベッドの中なのか、電車の中なのか、わかりませんが・・・




現代版、胡蝶の夢でした(^^)






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2017年01月15日

胡蝶の夢

荘子の説法の中でも、特に知られているこの話ですが、今日はこの話のおさらいから始めてみます。

より分かりやすいように、原文に少し肉付けしてご紹介しましょう。



ひらひらと空中を跳ぶ蝶々がいました。

花が生い茂った草原はまるでパラダイスのようであり、自分の羽も軽やかです。

でも平穏な日々ばかりではありません。

ある時は雨に濡れ、ある時は風にあおられ、生きるのは大変なことも多いのですが、それでも蝶としての毎日を生き抜いています。



そんな蝶の中に、ある日突然、一つの想いが湧きました。


「もしかしたらこれは夢なのではないか。

私は人間だったのではないか」


その瞬間、現実が揺さぶられ、蝶は夢から目覚めました。


その夢を見ていたのは荘子でした。

あまりにリアルな夢の印象はまだ消えません。


蝶々になっていた時は、自分が蝶であることを疑わずに、蝶の生活を謳歌していました。

それが夢だったなんて。


すると荘子の中に、また新しい疑問が湧きました。


「もしかしたらこちらが夢なのかもしれない。

蝶の私が、いまこの夢を見ているのではないだろうか。

荘子の私が、蝶の夢を見ていたのか、

それとも蝶である私が、荘子の夢を見ているのか、

はてどちらであろう。」



この話は面白いですね。


この話をどう解釈するかは人それぞれかもしれません。

荘子も蝶も、それを生きている主体は同じであり、形が変わっても主体は変わらないということが、原文(斉物論)に出てくる意味です。

万物には様々な形態があるけれど、その奥にある主体は同じ一つのものだということです。


さらには、この話は、何もかもすべては夢であるということにもつながります。


我々が生きてきた数十年の人生は、生々しく現実に見えるけれど、蝶が生きていた毎日も同じように現実に見えていたし、まさか夢などとは夢にも思わなかったのです。


一昨年、母が逝ったとき、母という肉体が終焉を迎えたのと同時に、母が見ていた95年の夢が終了したという思いが強く湧きました。

と同時に、その夢を見ていた主体は、いまも変わらず在り続けていることを直感しました。






死ぬときに、この人生が夢のようなものだったということを知る人は、昔からたくさんいたようです。

戦国時代の武将のように、常に生死の狭間を生きていた者たちが最後に残した言葉からも、それは見て取れます。

彼らは死と隣り合わせだっただけに、我々以上に強烈に生きた者たちだと思われます。

にもかかわらず、こんな言葉を残しています。



織田信長  

人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻の如くなり

一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか




上杉謙信  

四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒



明智光秀

逆順無二の門 大道は心源に徹す 

五十五年の夢 覚来めて一元に帰す




豊臣秀吉  

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢  




たとえ夢だとしても、いまの我々にとってこれは現実です。

だから、自分が一番いいと思ったように生きるとしましょう。


本当にこの人生が夢だと分かれば、なんだってチャレンジできますね。



よし、それでは今日、ずっと思い続けてきたあの人に、熱い心を告白してみようか。

うまくいけば丸儲け。

うまくいかなくても、しょせん泡沫の夢なのだから。



なんてね、そうは思っても勇気がなくて出来ない。


勇気がない夢も、またご愛敬。


すべてこともなし(^^)








いつもありがとうございます。

所要時間約10秒。

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2017年01月14日

自然な自分

もし生まれた時から、自分一人だとしたらどんなだろう。

この世に自分一人しかいないとしたら。


現実には、人間は誰かの世話にならなければ育つこともできないけれど、それでも、もし自分しかいなかったとしたら、その時はどんな自分だろう。



最初から誰もいないのだから、寂しいなんて発想もないことだろう。


裸を隠すこともない。

誰もいなければ恥ずかしいなんて気持ちも湧かない。


どんな見せかけもいらないし、作り笑顔など問題外だ。


こういう人になりたいなんていう理想も持たない。

自分を作る必要がない。

完全に自然な状態だ。


そのとき、そこに自我はない。

自我とは他者に対して持つものだから。



そんな自分と、いまこうして社会の中で生きる自分との違いは大きい。

もし一人の時の自分が自然だとしたら、社会で生きる我々は実に不自然だ。


生きるために多くの仮面を付け、人格を身にまとい、面白くなくても笑い、泣きたくても我慢する。

社会で生きる自分は、偽の自分だ。


偽の自分が生きる人生が、真実であるわけがない。

偽の自分と、偽の人生。

しかもそれを維持するために沢山の努力を必要とするのだから、人生は悲しい冗談のようなものだ。



やれやれ、一休みするとしよう。


一日の中で数分でもいいから、誰でもない自分に戻ってみる。

この世に一人しかいないようなつもりで、社会に対する構えを捨ててみる。


そうすれば、そこにくつろぎが現れるだろう。

くつろぎとは、自然の状態に起こることで、不自然さが緊張を作りだしていた。



昨夜の禅サンガでのWebトークは、このくつろぎがテーマだった。

成るべき自分を持たずに、未来への理想を持たずに、いまの中に佇むということ。

人生の重荷を降ろして、一休み。


瞑想とは一休みすることであり、そのくつろぎの中で新しいエネルギーがチャージされていく。



そしてまた活力を取り戻したら、社会に入っていくんだ。

思い切り偽の自分を生きて、楽しんだり傷ついたりしながら、やるべきことをやっていく。



それでいいよね。







今日もよろしくお願いします。

所要時間は約10秒。

あなたの10秒を私に使ってくだされ。


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2017年01月13日

誰も死なない

毎朝こうしてPCの前に座り、何も書かれていない真っ白なページを開き、さて何を書こうかと考えながら、ぼんやり過ごす時間。


窓の外はどんより曇り空。

遠くに見える海も、今日は色を失くしている。


何を書こうか。


何故書くのか。


そう、生意気にも、人様の苦しみが少しでも軽くなればとの思いで、毎朝こうしてモニター画面に向かっています。




人は、生きることに苦しみ、老いや病に苦しみ、そしてやがては死んでいく。

これら代表的な四苦に対する処方箋は、すでに2500年前にインドの覚者から与えられています。

彼は「自分への固執から解放されること」と説きます。



私の肉体


私の思い


私の家族


私の人生


という「私」からの解放。


違う言い方をすれば、そのような「私」など存在していないことを見抜くこと。

「私」という幻想こそが、すべての苦しみの根源なのだから。



言葉にすれば簡単ですが、このような情報を「私」が読み、解釈しているから、その本当の意味は伝わりようがありません。

2500年前から、このジレンマは変わらず続いてきました。


自分という存在を、どの次元で感じ取るか。

全体から切り離されて、独り生きている「私」が自分なのか。

それとも、自分はこの存在全体そのものなのか。






命は個々が持っているのではなく、大きな命の中で個々が生かされているのです。

「私」が命を持っているのではなく、大きな命が「私」を生きています。


「私」とは、命がこの世に表現されるための媒体に過ぎません。

生きているのは「私」ではなく、大いなる命のほうです。

そして、その大いなる命こそが、本当のあなたなのです。



我々は通常、表面的な「私」を自分だと思っていますが、その一方で、自分がいまも生きて在るという感覚も持っています。


目を閉じて、ゆっくり深呼吸してみましょう。

あなたの人生の全てを横に置いても、そこに残る疑いようのない存在感があるでしょ。

その存在こそが、永遠の全体意識そのものであり、本当のあなたです。



肉体が無くなっても「それ」(本当のあなた)は在り続けます。

そもそもいまの肉体が現れる前から、「それ」はあった。

早い話が、あなたは生まれたわけではないのです。

生まれていないのだから死ぬこともない。



このような情報は、存在全体に溶け込んだ時に理解することになります。

それを仏教では涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といいますが、そんなに難しいことではなく、本来のあなたの在りようのことです。


涅槃寂静において初めて、四苦は綺麗さっぱり消えてなくなると釈迦は説きました。


2500年前の異国の覚者に頼らずとも、この真実は我々一人一人の中にいつもあります。

「私」への固執から存在全体に溶け込んだとき、誰もの中で明らかになるシンプルな真実です。




でも、「私」という幻想を見抜こうとすると難しい。

見抜こうとしているのが「私」だから。


したがって、力を抜いてリラックスすること。

完全な受け身になって、すべてを手放すような感じです。


そのような状態によって、「私」は薄れていきます。

やがて完全に消えた時、そこに残るのが全体です。


そしてそれこそが、本当のあなた。




今日も心が平安でありますように。






いつもありがとうございます。

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【お知らせ】


名古屋のトークライブは3月、博多は4月、札幌は5月に予定しています。


大阪 2月19日

東京 2月26日

沖縄 2月28日

名古屋 3月20日

博多 4月30日

札幌 5月21日


準備ができしだい、参加お申し込みを開始します。  


Posted by Toshiro Abe at 10:48Comments(70)

2017年01月12日

一期一会

ここ数日、わかりにくい記事が続いているけれど、今日はその仕上げみたいなもの。

「いま」についておさらいしてみます。


いまを生きると言うと、いまに集中することだと思う人がいるけれどそうではありません。

集中しようとして集中していたら、疲れちゃうし続かない。


そもそも、いまなんていう時間はないのです。

図形で言えば点のようなもので、点は概念であって実体じゃないでしょ。

どんな小さな点にも面積があるから、点とは呼べない。


「いま」も同じで、いまというのは短い時間のことじゃない。

ゼロコンマ何秒という瞬間だって、時間の長さに過ぎないし。


いまを生きるというのは、いま目の前のことに対して、いっさい判断が消えている状態。

いまが、過去から未来にかけての通過点だという感覚が消えている。


いまだけがある。


思考が湧いたとしたら、ただそれが湧いただけ。

「いけない、また思考が出てきた」なんていう判断もない。

思考は湧くけれど、思考に巻き込まれることもない。


でも気がつくとすぐに、

いま人生はこういう状況だから、こういうふうにして対処しようとか、

あれはどうする、これはどうするとか、その手のストーリーに巻き込まれてしまいます。


そこからストーリーが延々と続いて、思考の中にどっぷりつかって、


ああしよう、こうしよう、でもそうならなかったらどうしよう・・・

あの人はなんであんな言い方したんだ

バカにするのもいい加減にしてほしい

私ももっとうまく生きなきゃ

これからはああして、こうして・・・


なんていうお馴染みの世界が始まって、それが人生になっていく。



そのことに気が付いたら、ふと足を止めて、耳を澄まして、目の前を見るでもなく見てみる。

そして、いま呼吸をしていることに気づいてみる。

ゆっくり深く呼吸してみよう。


目の前の「これ」は、ただこのようにあるのだ。


前後を裁断すれば、目の前の見え方が大きく変わって来る。

良いも悪いもない。

ただこのようにある。


この感覚が、いまを生きるということにとても近いのです。

坐禅や瞑想は、この状態の基本レッスンみたいなもの。






自分の思考の世界はとてもリアルで、そこには様々な感情も付いて回るので生々しく、まるで真実みたいに思ってしまいます。


たとえば、自分の世界に登場するAさんという人がいたとしたら、

「Aさんはこういう人だ」

という決めつけがすでにされています。

実際にはAさんにもいろんな側面があり、固定された実体ではないのですが、こういう人だという結論はすでに出していて、そうやって決めたAさんと付き合っています。


こういうことをすべての人に対してやっています。

自分に対してもね。

これが思考の世界であり、過去を持ち運ぶ「時間の世界」です。


いまを生きるというのは、そのようにして決めたストーリーや登場人物をいったんチャラにすること。


もちろんAさんとはこれからも出会うけれど、先入観や決めつけを差しはさまずに、まるで初めて会った新鮮な人のようにして出会うのです。


このような態度を


一期一会


と言います。



起きる現象も、人も、みんな一期一会。



それが、いまを生きるということです。



すぐにはできないけれど、何事も練習。

修行と呼ぶと重苦しくなってしまいますが、禅寺の修業も基本はこのことです。


いまここに心を込める。


いまここに気づいている。



これがリアルな生だから。







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【お知らせ】


2月は久しぶりにソロトークライブを東京、大阪、沖縄で開催します。

準備ができ次第、お知らせします。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:23Comments(43)