2007年05月17日
仏陀のエピソード
おはよう。
昨日、荘子のカラッポの船の話をしたね。
自我のない状態についてのたとえ話だ。
それじゃ、釈迦の場合はどんなだったんだろう。
以前「いまここ塾」でも一度話したけど、彼の超越性を彷彿とさせるエピソードを紹介しよう。
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2007年05月16日
カラッポの船
もし自分の中から自分が抜け落ちて、
カラッポの自分が、
目の前の現実をただありのままに見ていたとしたら、
頭にくることなんか何もないんだろうな。
反対に相手も、
こちらの中身がカラッポで、
何も判断していないのがわかれば
反感を持つこともないんだろうな。
そういえば、荘子がこんなことを言っている。
もしあなたがボートを漕いでいるところに、
他のボートが無造作にぶつかってきたとする。
きっとあなたは怒るだろう。
でもそのボートがカラッポで誰も乗っていなかったら
きっとあなたは怒らないだろう
カラッポでいなさい
そうすれば、誰もあなたと争わない。
自我が消えれば、ハッピーライフ
カラッポの自分が、
目の前の現実をただありのままに見ていたとしたら、
頭にくることなんか何もないんだろうな。
反対に相手も、
こちらの中身がカラッポで、
何も判断していないのがわかれば
反感を持つこともないんだろうな。
そういえば、荘子がこんなことを言っている。
もしあなたがボートを漕いでいるところに、
他のボートが無造作にぶつかってきたとする。
きっとあなたは怒るだろう。
でもそのボートがカラッポで誰も乗っていなかったら
きっとあなたは怒らないだろう
カラッポでいなさい
そうすれば、誰もあなたと争わない。
自我が消えれば、ハッピーライフ

2007年04月23日
りんごの木を植えた男

おはよう。
また月曜日の朝だね。
憂鬱にならずに、一日一日をしっかり生きよう

昨日学生達に、これからの経済は与え合うという姿勢によって、より発展するだろうという話をしたからだろうか、今朝起きてすぐに大昔に見たディズニーの短編アニメを思い出した。
それは、ジョニー・アップルシードと呼ばれた男の物語。
この人は、西部開拓時代の実在の人物で、ある日神の啓示を受けて(アニメでは天使が登場する)、たくさんのりんごの種と、一つの鍋と、聖書だけを持って西へ西へと向かうんだ。
道すがら開拓者達にりんごの種や苗木を分けてあげたり、そこら中にりんごの苗木を植えて育てたり・・・
それは何の見返りも求めない、ただただ与えるだけの人生だった。
りんごは様々な調理法があり、また栄養価も高く、食糧難に悩む多くの人々の命を救ったという。
当時はまだいたるところに野獣猛獣が潜む命がけの旅だった。
白人に恨みを持つインディアンとの遭遇も頻繁にあったが、彼は人種を問わずにりんごの木を植えることを奨励し、また会う人ごとに聖書の教えを説いてまわったので、誰からも尊敬され感謝されたそうだ。
彼のメッセージは
「神はあなたの中にいる
神は深い愛であなたを見守っている」
決して動物を殺すことはなく、自然を愛して生きたそうだ。
こうやって書いていると、なんだか泣けてくるな。
いつの時代にも、真実を生きた人がいたんだなって。
その彼は過酷な労働の日々を繰り返すことで無数のりんご園を残し、旅に出て40年後に民家の玄関先で星を仰いで眠ったまま亡くなるんだけど、最後まで何の財産も持たず、たった一本のりんごの木の所有権も主張しなかったそうだ。
今でも彼によって作られた数万ヘクタールのりんご園が残っているという。
与える気持ちというのは「愛」のことで、21世紀は「愛」を基準にした文化が花開くことを、僕達みんなが目指すべきだと思う。
その時、この地上が天国になるのだろう。
それにはまず、自分自身が言葉や行為に注意を向け、愛に基づいた言動を選択していくことなのかもしれない。
そんな自分に少しでも近づきたいものだ。
いつも応援ありがとう(^o^)
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2007年04月19日
達磨さんが笑った

致知(ちち)って雑誌に載った僕のエッセイを見て、ぜひ講演をしてほしいと招いてくれた人がいるんだけど、それがびっくり、母家のまん前にあるKBC学園っていう専門学校の理事長さんたちだった。
こういうことってあるんだね。
家からも歩いて数分。
ルンルンルン♪
昨夜講演をさせてもらったんだけど、その時大受けだった達磨(ダルマ)さんの話をしよう。
達磨はインドから中国へ仏教を伝えた人なんだけど、もともとインド小国の王子で、当時すでに有名な高僧だったんだ。
だから中国では皇帝や大臣や大思想家達が出迎えに行ったんだって。
そしたら向こうから変な男がやってくる。
着の身着のまま・・・そこまではいいが、なんと片方の草履を脱いで自分の頭にくくりつけて歩いてくる。
「なんだ、あの男は?!」
「完全にイカレているんじゃないか」
出迎えた者達に一様に動揺が走った。
長旅で高熱に侵されたのかもしれぬ。
あるいは何か深いわけがあるのかもしれぬ。
「ワシが達磨じゃ」
「・・・・・・・・」
みんなが唖然とする中、やっと皇帝が口を開いた。
「ようこそ・・・・しかしなんとも奇妙なり・・・なぜそなたは草履を頭に乗せておるのか」
そこにいた全員が、なんと答えるかを息を飲んで待っていると、達磨は一言こう答えた。
「ワシはただ、草履を頭に乗せておる」
話は以上だよ

この文章でうまく伝わったかな。
なんでも頭で解釈しようとする人間達への一喝だった。
仏の教えは理屈や理論を超えている。
頭に草履を乗せていることくらいの事を、あるがままに受け容れる事ができない者達に、ワシの深遠なる教えが理解できるものかという意味なんだ。
え?あんまり受けなかった?
昨日は受けたんだけどなァ。
これに懲りずに押しておいてください。
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2007年04月04日
一茶
誰の前でも同じような自分でいたいね。
だってみんな魂は対等なんだから。
社長さんに対しても掃除婦さんに対しても、同じ温かみの笑顔で接したいね。
昔、小林一茶が殿様の前に出た時も、そんな心境で相手にへつらうことなく対等に接したそうだ。
そして残した一句が
鶯(うぐいす)や 御前に出ても 同じ声
昨日のいまここ塾でどうしても出てこなかったこの一句
好きだなァ
2007年02月28日
不死鳥の話
やれやれ、ちょっと一休み。一休みにブログ覗くんだから、けっこうはまったというか生活の一部になったというか。
昨日のいまここ塾では、フクロウと不死鳥の話をしたんだよ。
「燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
これは大昔、司馬遷という人が編纂した史記に出てくる一文。
たとえば小さな仕事にありついた男が、そこに参入しようとした他の人間を、自分の仕事を奪う気だなって必死に防御するんだけど、その人はそんな利益のためじゃなく、もっと大きな志で生きているっていう話。
実はあまり知られていないんだけど、この話よりさらに200年ほど前に、荘子が同じ様な話をしているんだ。
おそらく司馬遷は、その話をもとにして書いたんじゃないかって思う。
しかし荘子のそれは、史記の中の話よりもはるかに深い。
3次元と4次元の違いがある。
その話を昨日したけど、していて面白かったからここにも書きたいんだけど、時間が・・・

僕たちにとって大切なメッセージだから、そのうち必ず書くからね。
「延命十句観音経」の続きもね。
その前に、物置の中を掃除しなきゃ。
じゃ、また

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2007年02月22日
荘子と蝶々
さ、それじゃ朝の話。
「ワシが蝶々の夢を見たのか、それとも蝶々がワシの夢を見ているのか・・・」
答えは
「どちらも自分じゃない」
荘子である自分にしろ、蝶々である自分にしろ、どちらも夢のようなもの。
しかし、その夢を見ている者がいる。
その夢の自分を認識している者がいる。
あえて言えば、それが「自分」だ。
話についてきた?
消し去って、消し去って、消し去って・・・・最後に残るもの。
それは言葉を超えている。
それは体感するしかない。
ただし、その体感はたいしたモンじゃない。
とかく人間は何でも権威づけして、ことを難しくしてしまうけど、その体感は実は常に我々が自分の存在の底辺で感じ続けているものなんだ。
それがあまりにもあたりまえすぎて、いちいち自覚しないだけのこと。
それを悟った人が「私は悟った」と自慢しないのは、自慢するようなことではないからだ。
「あなたという人はこういう人だ」などと規定できるものは何一つない。
規定できるようなものはあなたに属さない。
あなたとは形なきもの。
無限に広がる大いなる存在そのものなのだから。
2007年02月19日
小話
「延命十句観音経」の次の一句の解説の前に、釈迦にまつわる短い話を紹介しよう。
これも「いまここ塾」で話すような内容だ。
さしずめここは「ネットいまここ塾」だね。
或る時、お釈迦さんが道を歩いていた。
彼はすでに有名人で、周りにはいつもたくさんの人がいた。
彼の悟りがどれくらいのものか見届けてやろうとする者達もそこには大勢いた。
すると彼の前方から急に毒蛇が飛び出してきた。
すべてを超越したブッダはその時どうするのかと、人々は一瞬息を飲んだ。
すると彼はすばやく身をかわし、その場を逃げ去った。
それを見て人々はこう言った。
「聖者なのに蛇が怖いんだね」
「すべてを超越しているって噂だったのにね」
でも彼は、実際にすべてを超越していたんだよ。
この話が何を言いたいのかよくわかるように、もうひとつのエピソードを伝えよう。
彼の弟子達が森の中で瞑想していた時のことだ。
そこに一番修行熱心な一人の男がいた。
こともあろうにその男の膝元に毒蛇がニョロニョロと近づいてきた。
男はその気配を感じ凍りついた。
「どうしよう、でもここでうろたえちゃいけない。長年かけてきた精神統一をこんなことで乱すようでは・・・お釈迦様はどんな時でも無になれと教えてくださった。それにここでうろたえたら後輩達にもしめしがつかない」
そんなこんな考えながら、恐怖心を克服しようと頑張って、彼はその場をピクリとも動かなかった。
そして蛇に咬まれて死んでしまった。
それを聞いて釈迦はこう言ったとされる。
「馬鹿な奴だ」
僕らは、つい形にはまっちゃうよね

さ、今日こそ引越し準備するぞ!
今日もよろしく「お願いします
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2007年02月15日
一休さん
おはよう!
今朝はこんな話をしてみよう。
僕が好きなお坊さんの中に一休さんがいる。
あのとんちで有名な一休さんだよ。
彼のぶっ飛んだエピソードは数多く伝えられているけれど、その中にこんな話があるんだ。
ある寒い冬の夜。
薪を燃やして暖を取ろうにも、燃やす薪がなくなってしまった。
仕方なくその辺にあったものを手当たりしだい燃やしていたら、ついに何も燃やすものがなくなってしまった。
いや、一つあった。
本堂に安置してある仏像だ。
それはこの寺に伝わるご本尊で、毎日のように磨き上げ、供え物をし、大切にしているものだった。
彼は鉈(なた)を取り出すと、迷わずその仏像を真っ二つに割って火にくべてしまった。
周りの僧侶達はうろたえ、彼をののしった。
「何をされる・・よりによって仏様を・・・!!」
すると一休は言った。
「何が仏様だ。こんなものはただの木だ。早くこっちに来て火にあたれ。風邪引くぞ」
その同じ一休が、平常時には仏像をそれはそれは大切にしていたという。
一見矛盾して見えるこれら行為が、真実なる人の姿を現していると思う。
並の人間ならば、仏像=仏様=ありがたい=粗末にしたらバチがあたる
と考えて、寒くても我慢して耐え忍ぶだろう。
そのような観念から自由になる事は稀だ。
しかも僕等はそんな観念を無数に持っているときている。
そんな数限りない観念が、日々の行動を制限し、枠にはまった生活パターンを作り出しているのだろう。
ブッダは予測不能だ。
自分という形態を持ち運ぶ事がない。
彼らは流れている。
その場その場の状況に、瞬時に感応する。
言動が首尾一貫している人は、そこに「自己」が存在し、ブッダにはほど遠い。
ところが多くの人は、首尾一貫している人が優れた人だと思っている。
我々は自分のライフスタイルやら信条やら考え方を持ち運ぶ。
それは固まっている。
それは凍り付いている。
ブッダは水のごとく流れ、我々は氷のごとく固まっている。
でも水も氷も、本質は同じ「H2O」で成分は同じだ。
我々とブッダは同じ成分でできているが、違う形態で存在している2種類の同じものだ。
このことは、次の一句「与仏有因」を理解するのに役立つよ。
いつも押さない人も、予測不能の行為で押してみよう
↓

今日の僕は久しぶりに忙しい。
午後の4時を過ぎたらFM沖縄の「For PM」に出演するから聞いてね。
メッセージを送ってくれたらなお嬉しい。
復活ライブのきっかけになった突然の電話出演から丸六年が経ったんだね。
2007年02月03日
ブッダ

そろそろ新刊のタイトルを決めなければいけないんだけど、「これであなたもプチブッダ」は賛否両論だね。
何人かの人が「ブッダ」という言葉に仏教的なニュアンスを感じたみたいだけど、本来は特定の宗教を超えていて「目覚めた人」「覚者」と言う意味なんだ。
それが釈迦そのものを指す言葉としても使われるから、そこが混同するのかもね。
キリストもソクラテスも老子も荘子も、そして名もなく死んでいった多くの覚者たちもみんな「ブッダ」なんだよ。
そしてあなたも「ブッダ」だ。
ただ自分がそうであることを見抜いていないだけで、この世には「ブッダ」しか存在していない。
それはアメニズム(自然崇拝。万物に神が宿っているという思想)に近い。
もともと神道や古神道はこの立場をとっていて、今でも沖縄の宗教観の根本にはこの考え方があるように見える。
これはすべてを受け入れようとする態度に繋がり、21世型の思想とする西洋人も増えている。
特定の宗教を信じるのは個人の自由だけど、自分達の神や教えだけが正しいとなると、それは争いのタネになりやすい。
その神を冗談で茶化そうものなら「私の神を侮辱し傷つけた」ことになる。
神は決して傷つかない。
傷つくようなものは神じゃない。
傷つくのは「私の神」の「私」だ。
侮辱されるのも「神」じゃなくて「私」だ。
「特別な私」が信じている「特別な神」を愚弄したと言って怒るのだ。
ま、いいいか。
とにかく「ブッダ」とはそういう意味なんだけど、やっぱり他のタイトルにしようかな・・・
この絵は表紙のイメージ画像。
タイトルはとりあえず「気楽にいこうね!」になっている。
ここにも面白いタイトルが並んでいるよね
↓
2007年01月23日
水の如く
今朝は老子の話をしよう。
え?難しそうって?
大丈夫、僕が話すんだから難しくなりようがない。
だから行かないで

実はこの人は、実際にいたのかどうかも疑わしい人なんだ。
というのもこの名前、「老」も「子」も先生を表す敬称で、先生の中の先生という意味なので、固有名詞じゃない。
荘子とか孔子とかとは違うんだ。
まっそんな事はどうでもいい。
この人が実在したかどうかよりも、残された言葉たちの凄さに価値があるから。
その中でも「水の如く生きる」という感覚が好き。
水って自分独自の形を持たないでしょ。
四角の器に入れば四角くなるし、丸でも三角でもたちどころにその形に収まる。
自分本来の形はこうだ!って主張しないから、決して争うことがない。
なのにその成分はH2Oで変わらないから、自分を失くしたわけじゃない。
そしていつだって低いところに向かって流れようとする。
だから誰からも嫉妬されずに問題を作らない。
その形態は柔らかく、最もか弱き存在なのに、長い時間をかければ固い岩でも砕いてしまう。
柔が剛を打ち破る・・・柔道の発想の原点だ。
その中国の老子の思想と、インドから達磨が持ってきた仏教が合体して、中国で生まれたのが「禅」の思想。
だから禅家たちは、老子を釈迦と同じように敬っている。
近年になって欧米のリーダー層やインテリ達の間で老子や禅が流行しているけど、日本ではまだそこまでいっていないね。
21世紀の世の中を生きるのに、もっとも適した教えだと思うよ。
「いまここ塾」ではそんな思想を中心に話をしてきたけれど、今年に入ってお休みしている。
それが嬉しいことに、毎日のように皆さんから再開の問い合わせが続いている。
来月から期間限定でもう一度、吉の浦会館でやってみようか。
詳細は午後にでも載せます。
水のようにしなやかにポチッ
↓







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