2023年05月28日
いつも「私」が「ここ」にいて
今日もきっと、いろんなことがあって、いろんなことや、いろんな考えが湧いては去っていくことでしょう。
そんな一日の最後に、一緒に瞑想しませんか。
21時からです。
https://youtube.com/live/MqYwP4XJOi8
そんな一日の最後に、一緒に瞑想しませんか。
21時からです。
https://youtube.com/live/MqYwP4XJOi8
Posted by Toshiro Abe at
09:40
│Comments(8)
2023年05月22日
「今」と「いま」
僕がブログや書籍で、「今」という言葉を「いま」と書いているのには訳があります。
それは、日常でよく使われる「今」と、僕が伝えたい「いま」とでは意味が違うからです。
普通に使う「今」とは、現在という意味だったり、今という瞬間の事だったりします。
「今どうしてる?」
「今さらそれを言う?」
「昔に比べて今は幸せだ」
「今を乗り切るぞ」
「いつやるの?今でしょ」
このような言い回しに違和感を持つ人はいません。
これはこれで正しい表現ですし、誰にでも意味が通じます
他にもこんな会話もあります。
「過去を生きるのではなく、未来を生きるのではなく、今を生きるのだ」
するとこんな感想が出てきます。
「今を生きることが大切なのはわかるけれど、どうやって今にいたらいいかわからない」
この場合の「今」は、過去でも未来でもなく今だという意味です。
過去と未来の間に挟まれた今という瞬間。
しかしこの瞬間は本当に存在するのでしょうか。
瞬間の長さはどれくらいでしょう。
0,001秒くらいでしょうか。
たとえ0,001秒だとしても、0,00001秒に比べたら100倍の長さになります。
「今」とは時間の長さではないはずです。
ということは「今」は0秒ということになり存在しなくなります。
どうやって今にいたらいいか、わからないはずです。
だってそんな今は存在していないのだから。
この「今」とは別に「いま」という表現をしているのは、「いま」とは時間の一部ではないということを伝えるためです。
最近は量子物理学でも言われるようになりましたが、そもそも時間など存在していません。
時間とは人間が編み出した概念であり、便利な道具に過ぎないのです。
なぜ時間が存在しないのかと言えば、いつも「いま」だから。
「いま」は時間という概念を超えていて、いつも「いま」であり永遠です。
これを見抜くのが目覚めです。
何となく伝わりましたか。
「今」を生きようと奮闘する必要はありません。
いつも「いま」だから。
「いま」とはあなたの存在そのものです。
そしてこの宇宙には「いま」しか存在していません。
だから安心していいのです。
「私」という幻想は時間の中に存在しています。
過去からずっと生きてきた「私」を握りしめていますが、過去は存在していないので「私」も存在しません。
目覚めとは、このことへの洞察と言ってもいいでしょう。
やれやれ、言葉は難しい。
今日はこんなところで、みなさんごきげんよう。
それは、日常でよく使われる「今」と、僕が伝えたい「いま」とでは意味が違うからです。
普通に使う「今」とは、現在という意味だったり、今という瞬間の事だったりします。
「今どうしてる?」
「今さらそれを言う?」
「昔に比べて今は幸せだ」
「今を乗り切るぞ」
「いつやるの?今でしょ」
このような言い回しに違和感を持つ人はいません。
これはこれで正しい表現ですし、誰にでも意味が通じます
他にもこんな会話もあります。
「過去を生きるのではなく、未来を生きるのではなく、今を生きるのだ」
するとこんな感想が出てきます。
「今を生きることが大切なのはわかるけれど、どうやって今にいたらいいかわからない」
この場合の「今」は、過去でも未来でもなく今だという意味です。
過去と未来の間に挟まれた今という瞬間。
しかしこの瞬間は本当に存在するのでしょうか。
瞬間の長さはどれくらいでしょう。
0,001秒くらいでしょうか。
たとえ0,001秒だとしても、0,00001秒に比べたら100倍の長さになります。
「今」とは時間の長さではないはずです。
ということは「今」は0秒ということになり存在しなくなります。
どうやって今にいたらいいか、わからないはずです。
だってそんな今は存在していないのだから。
この「今」とは別に「いま」という表現をしているのは、「いま」とは時間の一部ではないということを伝えるためです。
最近は量子物理学でも言われるようになりましたが、そもそも時間など存在していません。
時間とは人間が編み出した概念であり、便利な道具に過ぎないのです。
なぜ時間が存在しないのかと言えば、いつも「いま」だから。
「いま」は時間という概念を超えていて、いつも「いま」であり永遠です。
これを見抜くのが目覚めです。
何となく伝わりましたか。
「今」を生きようと奮闘する必要はありません。
いつも「いま」だから。
「いま」とはあなたの存在そのものです。
そしてこの宇宙には「いま」しか存在していません。
だから安心していいのです。
「私」という幻想は時間の中に存在しています。
過去からずっと生きてきた「私」を握りしめていますが、過去は存在していないので「私」も存在しません。
目覚めとは、このことへの洞察と言ってもいいでしょう。
やれやれ、言葉は難しい。
今日はこんなところで、みなさんごきげんよう。
Posted by Toshiro Abe at
09:43
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2023年05月21日
すべてこともなし
世の中ではいろんなことが起きています。
ひとつの事件や出来事に、これは正しい、これは間違っていると裁いたとしても、それらはすべて、僕たちの心の中のことに過ぎません。
しかも一年もたてば、また新しい事件や出来事が起きていて、またそのことに大騒ぎしていることでしょう。
実際にその事件を知らなければ、事件そのものが存在しないということを知るのは大切です。
だからどのような情報に触れるかは、人生において重要なことになります。
周囲の出来事に対する裁判官になるのではなく、心静かにあるがままの「いま」に落ち着いていましょう。
すべては過ぎ去っていきます。
そしていつも「いま」が残っています。
今夜も一緒に「いま」に帰りませんか。
おかえり
ただ・「いま」
今宵のアドレスはコチラです。
ひとつの事件や出来事に、これは正しい、これは間違っていると裁いたとしても、それらはすべて、僕たちの心の中のことに過ぎません。
しかも一年もたてば、また新しい事件や出来事が起きていて、またそのことに大騒ぎしていることでしょう。
実際にその事件を知らなければ、事件そのものが存在しないということを知るのは大切です。
だからどのような情報に触れるかは、人生において重要なことになります。
周囲の出来事に対する裁判官になるのではなく、心静かにあるがままの「いま」に落ち着いていましょう。
すべては過ぎ去っていきます。
そしていつも「いま」が残っています。
今夜も一緒に「いま」に帰りませんか。
おかえり
ただ・「いま」
今宵のアドレスはコチラです。
Posted by Toshiro Abe at
11:16
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2023年05月19日
瞑想讃歌
最近すこぶる調子がいい。
理由はわかっています。
いまさらですが、朝晩2回の瞑想。
いや、2回だけの瞑想と言っておきます。
マントラの瞑想を始めた当初は、僕もきちんとルール通りにやっていましたが、そのうち慣れてくると、やるときは数時間ぶっ続けでやって、気分が乗らない日は完全スルー。
もうベテランなんだから、気の向くままにやるさという感じでした。
それをまた基本に戻したのは、90日間の瞑想コースを改めて実践してみようと思ったから。
初心に戻って朝晩の習慣にしているわけです。
今日で27日目。
自分が「これだ」と思ったものは人に伝えたくなる性分なので、ここに報告しておきます。
僕が瞑想に本格的に取り組んだのは30歳の頃。
目黒区の大岡山にあったOSHOの日本コミューンで、ダイナミック瞑想やクンダリーニ瞑想をやるために、当時住んでいた世田谷区の下馬からスクーターに乗って通ったものです。
それまでの活動をすべて引退して、初めて「誰でもない人」としての解放感を味わいながら始めた瞑想でした。
ある日突然、自分の内側と外側が一つになり、そのことを見事に解説していてくれたのがOSHOだったので完全にはまりました。
いまでも彼の言葉は他の追随を許さない突出したものだと思います。
そのOSHOはマントラ瞑想(TM瞑想)を奨励していたマハリシ・マヘッシ・ヨーギをよく言わなかったけれど、いま僕はOSHO瞑想よりこちらの方が日本人に合っていると感じます。
なによりこの爽快感と静かな洞察力が、そのことを証明しています。
人によって何が一番しっくりくるか分からないけれど、それは思考で判断するのではなく、とことん実践して分ることです。
あなたなりに自分の心身を調整し存在の真実に誘ってくれる瞑想を見つけて、朝晩二回の習慣を持つことを強くお勧めします。
教義ではなく、ましてや理屈ではなく、実践の時代に入っていると思うからです。
後は、いままでどおり起きることがただ起きていくだけです。
いつも言うように、人生はどこにも向かっていなくて、ただ「いま」があるだけだから。
何が起きても同じこと
ただ「いま」があるだけです。
理由はわかっています。
いまさらですが、朝晩2回の瞑想。
いや、2回だけの瞑想と言っておきます。
マントラの瞑想を始めた当初は、僕もきちんとルール通りにやっていましたが、そのうち慣れてくると、やるときは数時間ぶっ続けでやって、気分が乗らない日は完全スルー。
もうベテランなんだから、気の向くままにやるさという感じでした。
それをまた基本に戻したのは、90日間の瞑想コースを改めて実践してみようと思ったから。
初心に戻って朝晩の習慣にしているわけです。
今日で27日目。
自分が「これだ」と思ったものは人に伝えたくなる性分なので、ここに報告しておきます。
僕が瞑想に本格的に取り組んだのは30歳の頃。
目黒区の大岡山にあったOSHOの日本コミューンで、ダイナミック瞑想やクンダリーニ瞑想をやるために、当時住んでいた世田谷区の下馬からスクーターに乗って通ったものです。
それまでの活動をすべて引退して、初めて「誰でもない人」としての解放感を味わいながら始めた瞑想でした。
ある日突然、自分の内側と外側が一つになり、そのことを見事に解説していてくれたのがOSHOだったので完全にはまりました。
いまでも彼の言葉は他の追随を許さない突出したものだと思います。
そのOSHOはマントラ瞑想(TM瞑想)を奨励していたマハリシ・マヘッシ・ヨーギをよく言わなかったけれど、いま僕はOSHO瞑想よりこちらの方が日本人に合っていると感じます。
なによりこの爽快感と静かな洞察力が、そのことを証明しています。
人によって何が一番しっくりくるか分からないけれど、それは思考で判断するのではなく、とことん実践して分ることです。
あなたなりに自分の心身を調整し存在の真実に誘ってくれる瞑想を見つけて、朝晩二回の習慣を持つことを強くお勧めします。
教義ではなく、ましてや理屈ではなく、実践の時代に入っていると思うからです。
後は、いままでどおり起きることがただ起きていくだけです。
いつも言うように、人生はどこにも向かっていなくて、ただ「いま」があるだけだから。
何が起きても同じこと
ただ「いま」があるだけです。
Posted by Toshiro Abe at
10:23
│Comments(6)
2023年05月14日
メッセージ
このブログを始めた当初は、自分の中に芽生えた森羅万象の真実を、縁があった人たちにどうにか伝えたいと思い、毎日かかさず更新していました。
言葉にできないことを言葉にすることの難しさに苦労しながら、それでもこの真実は万民のものであり、解れば一切の苦悩が消えるので何とか伝えようと思ったのです。
その気持ちはいまでも変わりませんが、言い尽くした感はあります。
言葉にできない理由は真理が難解だからでなく、真理は直接体験でしかないからです。
しかも、それを体験していない時間帯などありません。
いまこの瞬間も、誰一人例外なく実際には真理の海の中にいます。
海の中に生まれ育った魚が、海の存在に気がつかないのと全く同じことが起きています。
魚たちは海を渇望しながら海はどこだと探し回っているのです。
何千年も前に目覚めた魚の言葉を学んだり、神の化身だと自称する魚を崇めたりしながら、いまも探しています。
そんな魚たちに「いまここにあるよ」と言っても、「いまここ」という言葉を頭で解釈してしまうので、結局は取り逃がしてしまいます。
そんな17年間でしたが、こんなつたない文章でも一部の人たちの目覚めに役に立てたようなので、続けてよかったと思っています。
いま時代が変わり始め、当初からの予想通り目覚めの連鎖が起き始めました。
この時代に生じている波が、自然に僕たちを高い次元へと運んでくれることでしょう。。
運ばれる人と運ばれない人がいるというのは分離幻想を信じている人の発言であり、最終的には誰一人例外なく、次の次元に移行すると思っています。
今夜もそんな集いをしましょう。
瞑想会は21時から。
https://youtube.com/live/LWPlriyIzyQ
言葉にできないことを言葉にすることの難しさに苦労しながら、それでもこの真実は万民のものであり、解れば一切の苦悩が消えるので何とか伝えようと思ったのです。
その気持ちはいまでも変わりませんが、言い尽くした感はあります。
言葉にできない理由は真理が難解だからでなく、真理は直接体験でしかないからです。
しかも、それを体験していない時間帯などありません。
いまこの瞬間も、誰一人例外なく実際には真理の海の中にいます。
海の中に生まれ育った魚が、海の存在に気がつかないのと全く同じことが起きています。
魚たちは海を渇望しながら海はどこだと探し回っているのです。
何千年も前に目覚めた魚の言葉を学んだり、神の化身だと自称する魚を崇めたりしながら、いまも探しています。
そんな魚たちに「いまここにあるよ」と言っても、「いまここ」という言葉を頭で解釈してしまうので、結局は取り逃がしてしまいます。
そんな17年間でしたが、こんなつたない文章でも一部の人たちの目覚めに役に立てたようなので、続けてよかったと思っています。
いま時代が変わり始め、当初からの予想通り目覚めの連鎖が起き始めました。
この時代に生じている波が、自然に僕たちを高い次元へと運んでくれることでしょう。。
運ばれる人と運ばれない人がいるというのは分離幻想を信じている人の発言であり、最終的には誰一人例外なく、次の次元に移行すると思っています。
今夜もそんな集いをしましょう。
瞑想会は21時から。
https://youtube.com/live/LWPlriyIzyQ
Posted by Toshiro Abe at
08:30
│Comments(6)
2023年05月10日
オネーチャン、アチキと遊ばない?
ゲームの脳トレをしたら、いまの脳年齢とやらが表示された。
わたくしの脳年齢はなんと・・・!
80歳!!
しかも80歳以上は表示されないので、最高得点だ!
な~んて自慢にもならないけれど、こういう結果を見て思い当たることは山ほどある。
たとえばPCで作業をしていても、10年前と比べて何倍もの時間がかかる。
何かを検索しようとして検索サイトを開くと、何を調べたかったか思い出せない。
数字が覚えられないから、数桁の数字でも何度も見ながら入力することになる。
そりゃそうだ、脳年齢80歳なのだから。
こうして毎年のように能力も体力も劣化しているのに、十数年前に立ち上げた会社は設立以来ずっと右肩上がりで、いまは昔の年収の倍以上を税金で納めている。
エヘン!
税理士さんに言わせると稀なことだそうだ。
厳しい税理士なので、最初はなんて無慈悲な人だと思ったけれど、いまはそのことを感謝している。
ちまちま節税なんかしていたら、気持ちが縮んで増収もなかったように思うから。
実はいまも、もっとお金が欲しいと思っていて、これは人間の果てしない欲望の表れなのか、あるいはゲーム感覚なのか自分でも分からない。
仏教は欲望を否定するけれど、欲がなくなったら人生の醍醐味は半減するんじゃなかろうか。
確かに欲とは、いまではない未来に向かうものだけど、その欲もいま起きているのだから、それはそれでいいと思う。
幾つになろうが異性への関心も変わらない。
若い頃は日本中のいい女と〇〇したいと思ったが、いまはあきらめただけで本音は変わっていないと思う。
何が言いたいのかわからなくなってきたが、これも歳のせいにしておこう。
「いまここ」という真理は変わりようがないが、人間はどこまでいっても人間であることも変わりようがない。
聖人や超人になるより、この平凡な自分を全肯定できたことのほうがずっと嬉しい。
これでいいのだ!と思えたことが、人生で一番の宝だ。
脳年齢は劣っていても、こうして欲を持ち、新しいことに興味を持って飛び込む姿は青春そのものじゃないか。
笑わば笑え。
ワシャこれからも心のままに生きるのだから。
オネーチャン、アチキと遊ばない?
わたくしの脳年齢はなんと・・・!
80歳!!
しかも80歳以上は表示されないので、最高得点だ!
な~んて自慢にもならないけれど、こういう結果を見て思い当たることは山ほどある。
たとえばPCで作業をしていても、10年前と比べて何倍もの時間がかかる。
何かを検索しようとして検索サイトを開くと、何を調べたかったか思い出せない。
数字が覚えられないから、数桁の数字でも何度も見ながら入力することになる。
そりゃそうだ、脳年齢80歳なのだから。
こうして毎年のように能力も体力も劣化しているのに、十数年前に立ち上げた会社は設立以来ずっと右肩上がりで、いまは昔の年収の倍以上を税金で納めている。
エヘン!
税理士さんに言わせると稀なことだそうだ。
厳しい税理士なので、最初はなんて無慈悲な人だと思ったけれど、いまはそのことを感謝している。
ちまちま節税なんかしていたら、気持ちが縮んで増収もなかったように思うから。
実はいまも、もっとお金が欲しいと思っていて、これは人間の果てしない欲望の表れなのか、あるいはゲーム感覚なのか自分でも分からない。
仏教は欲望を否定するけれど、欲がなくなったら人生の醍醐味は半減するんじゃなかろうか。
確かに欲とは、いまではない未来に向かうものだけど、その欲もいま起きているのだから、それはそれでいいと思う。
幾つになろうが異性への関心も変わらない。
若い頃は日本中のいい女と〇〇したいと思ったが、いまはあきらめただけで本音は変わっていないと思う。
何が言いたいのかわからなくなってきたが、これも歳のせいにしておこう。
「いまここ」という真理は変わりようがないが、人間はどこまでいっても人間であることも変わりようがない。
聖人や超人になるより、この平凡な自分を全肯定できたことのほうがずっと嬉しい。
これでいいのだ!と思えたことが、人生で一番の宝だ。
脳年齢は劣っていても、こうして欲を持ち、新しいことに興味を持って飛び込む姿は青春そのものじゃないか。
笑わば笑え。
ワシャこれからも心のままに生きるのだから。
オネーチャン、アチキと遊ばない?
Posted by Toshiro Abe at
09:20
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2023年05月07日
この世という映画館
こうして日々が流れていく中で、起きている出来事に巻き込まれるのではなく、出来事をまるでスクリーンに映った映画のように見つめている、それが瞑想的な生き方です。
すると出来事に対する一喜一憂が減っていき、安心した気持ちで全てを見通せるようになります。
そのためには映画の背後にあるスクリーンを知っていること。
スクリーンの存在を知っていれば物語(出来事)の内容に埋没することがなくなります。
反対にスクリーンを忘れれば、映画の中の出演者としての自分と同化し、それは迷いと不安と苦悩をもたらすことになります。
瞑想の実践は、まさにこのスクリーンに成りきること。
このスクリーンを空(くう)と呼んでもいいでしょう。
いま僕がここに書いたことを少しでも理解できた人は、ゴール間近。
あとは実践あるのみです。
今夜も瞑想会をご提供します。
アドレスはこちらです。
すると出来事に対する一喜一憂が減っていき、安心した気持ちで全てを見通せるようになります。
そのためには映画の背後にあるスクリーンを知っていること。
スクリーンの存在を知っていれば物語(出来事)の内容に埋没することがなくなります。
反対にスクリーンを忘れれば、映画の中の出演者としての自分と同化し、それは迷いと不安と苦悩をもたらすことになります。
瞑想の実践は、まさにこのスクリーンに成りきること。
このスクリーンを空(くう)と呼んでもいいでしょう。
いま僕がここに書いたことを少しでも理解できた人は、ゴール間近。
あとは実践あるのみです。
今夜も瞑想会をご提供します。
アドレスはこちらです。
Posted by Toshiro Abe at
10:24
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