2007年03月31日
出会い
わがままおやじをいつも機嫌よく喋らせてくれた功績は大きい
その彼が今日誕生日を迎えた。お母さんも山口県から駆け付けてくれた。
33年前に君を命がけで産んでくれた人だね。
今夜は母家でバースデイライブ。
会場は満席だ。
誕生日おめでとう!
2007年03月31日
変化の季節
おはよう。
さて今日は3月31日。
人生の変化の時をむかえている人たちもいるだろうね。
卒業や就職や転職や、期待に胸を膨らませている人、一歩前進する人、後退する人、さまざまだと思うけど、何が起きていても人生の河の流れがそのような景色に差しかかったにすぎない。
そこを通らなければ先に進めなくて、そしてその流れは必ず海にたどり着く。
いつもいま、人生で一番必要な事が起きていて、そこには無駄が無い。
しっかりと腹の底に力を入れて、目の前の現実に立ち向かっていってください。
さ、今日も生きるゾ!!
2007年03月30日
2007年03月30日
いまここ塾in宮古

宮古島での「いまここ塾」も3回目を迎えました。
毎回多くの皆さんがかけつけてくれて、嬉しく思っています。
お約束通り、これからも定期的に開催していきますので、よろしくお願いします。
2008年6月6日
T&Kハウス(下地町高千穂)
20:00開演
前売り予約 2500円
お申し込み・お問い合わせ
090-4538-4150 (斉藤)
2007年03月30日
愛と瞑想
さっき、愛と憎しみはひとつのものの両極だって話をしたね。
それが僕らの心(マインド)の限界で、僕らはふだん心を使って生きていて、マインドで人を愛そうとしているんだ。
そして僕らがその心を超えた時、そこに絶対的な「愛」がある。
それは特定の対象に向かう愛ではなく、普遍的な愛だ。
それを神とよぶ人もいる。
心を超える・・・これが瞑想の意味するところ。
だから瞑想と愛は違うアプローチの同じもの。
深い瞑想に入っていくと、そこに愛が存在する。
深い愛に包まれる時、それはとても瞑想的だ。
どちらも神に続く道。
キリスト教を中心とする西洋文明は「愛」の道を選んだ
東洋文明は「瞑想」の道を選んだ。
それはどちらも同じ道。
西洋と東洋が統合される時、そこに新しい文明が花開くように思う。
そんな意味からして、西洋と東洋が出合う「日本」の役割は大きいように思うんだ。
引き続き応援よろしくお願いします
↓
2007年03月30日
愛と憎しみ
ふつう僕たちはこう考える。
愛している人を憎んではいけない
愛している人と争ってはいけない
一見、論理的に聞こえるこの言葉だが、それは間違っている。
愛しているからこそ憎しみが湧いてくるんだ。
この世には愛と憎しみが存在しているのではなく「愛憎」というひとつのものが存在しているのだから。
その「愛憎」の片方に寄れば「愛」だし、もう片方に傾けば「憎しみ」になる。
それが僕らの心の限界で、心は何でも両極の間を行ったりきたりするんだ。
それなのに愛している人を憎んではいけないと考えているから、憎しみや怒りが出てくると心の中で押し殺してしまう。
でもその抑圧されたエネルギーはどこかに消え去るわけじゃない。
いつまでも心の中でふつふつと静かに燃え盛っている。
だから愛せなくなってしまうんだ。
相手を愛したかったら、たくさん争ってたくさん憎しみをぶつけ合うことだ。
するとまた片方の極に移行し、愛が燃え上がることになる。
愛と憎しみは車の両輪。
片方だけを切り取って、前に進むことはできないんだよ。
さて、そんな僕らのこの世の愛を超えた愛も確かに存在する。
その話は後ほど

2007年03月29日
首なし人間

おはよう
今日は魂の成長に役立つ、簡単なレッスンを紹介しよう。
普段僕たちは頭のセンターを使って生きている。
たえまなく考え事をして、何でも判断したり批評したり、それは朝から晩まで続いている。
そこでだ、自分の首から上がなくなってしまったイメージで生きてみるんだ。
まるで頭がなくなってしまった人間のようなつもりで、歩き、そして感じてみる。
最初のうちは「ないつもり」だが、そのうち本当に消えてしまう。
それにはコツがいる。
すぐにはできないと思うけど、何度もトライしていると、ある時ふいにできたりする。
その時、いつもはあまり使うことのなかったハートのセンターが機能しだす。
頭に流れていたエネルギーがハートに向かって流れ出す。
それまで頭を使って世界を見ていたのが、ハートから世界を見ている状態になる。
それはとても気持ちのいい時間だよ。
特に僕みたいにエゴの強い人間には効果テキメン!!
今日は一日、首なし人間で生きてみよう。
2007年03月28日
酔っ払いの懺悔
今夜も母家に知人が来てくれたので、行ってしこたま飲んできた。
酒のせいだろうか・・・今夜は独り言に付き合って欲しい。
年寄りの戯言(たわごと)だと思って聞いて欲しい。
ずいぶん昔の話だ。
僕が北海道のTV局に出演した時、その番組の司会をしていたのが坂本九さんだった。
番組が終わって楽屋で片付けをしていたら、九さんが突然入ってきて
「君の歌、面白いね!青島が君に会いたがっていたよ」
青島幸男さんは、植木等さんの一連の曲の作詞をしていた人で、僕の憧れの作家の一人だった。
あの時代にあの「無責任」の発想は、まさに天才の仕事だと思っていた。
その青島さんが僕の歌を面白いといってくれた。
その歌は「あせるぜ」といって、受験戦争を皮肉り、歴代総理をなめきった歌だった。
そんなこんなで、当時青島さんがやっていたTBSのラジオ番組にゲストに呼んでもらった。
本当はものすごく嬉しかったくせに、若かった僕はそんなことより、政治家になり下がってしまった青島さんに言いたい事があった。
結局生番組の中で大喧嘩になってしまい、聴取者から何事かと局に電話が殺到した。
実は当時、ニッポン放送の看板アナウンサーとも生番組で大喧嘩をしていて、それは相手というより、僕自身に問題があったと今になって思う。
僕は青島さんに、植木等さんやクレージーキャッツに提供したあの歌の発想はどこからきたのか、そんな話を聞いてみたかったのに・・・
今となってはもうどうすることもできない。
今日、植木等さんが亡くなられたというニュースを聞いた。
僕の子供時代の憧れがまたひとつ逝ってしまった。
坂本九さんも、青島幸男さんも、植木等さんも、みんないなくなってしまった。
でも彼らが残してくれた作品は、これからも僕の目標の一つだ。
心からご冥福をお祈りします。
合掌
今夜はしこたま酔っている。
2007年03月28日
常楽我浄 8
おはよう。
9時間も爆睡してしまったけど、気分は爽快!
さて今日は「常楽我浄」の最後の一文字、「浄」を見ていこう。
地上の目線から見た時の「常楽我浄」と、宇宙の目線で見たときの「常楽我浄」
これを学ぶのは、自分の普段の人生と、彼方なる自分を理解するのに役立つよ。
今日も続きの前にこれお願いしますm(_ _)m
↓
続きを読む
2007年03月27日
100回記念
今夜は「いまここ塾」100回記念だった。
大いなるものと一体化するためのレッスンをお伝えした。
また機会を見て、このブログでも紹介させてください。
今夜なにか特別なものをと考えて、随(かんながら)神の原本が12冊だけあったので、それを販売したら数秒間でなくなってしまった。
それだけ多くの人がブログを見てくれているわけで、とても嬉しかった。
たくさんのお花をありがとう。
たくさんの想いをありがとう。
これからも命ある限り、自分の役目を果たしていきます。
2007年03月27日
常楽我浄 7
今朝は宇宙の目線から見た「楽」について話をしたら、こんなことを書いてくれた人がいた。
>身も心も生まれては消えていく単なる現象
まさにそのとおりって思う!
この言葉を拝借して、次の一字「我」の説明に入っていこう。
>身も心も生まれては消えていく単なる現象
それは海に生じる波のようなもの。
波は海面に無数に生じるが、二つとして同じ波はなく、すべて形も大きさも微妙に違っている。
その波同士が、隣の波と比べあい、競い合い、よりよい波になるために、生きている間、絶え間ない葛藤をしているのが、人の人生。
生じた波はいつか必ず消滅するときが来る。
それを知っている波は、なんとか自分の寿命を延ばそうと、その形にしがみつく。
そして日々消滅を恐れている。
どんな努力も自然の摂理には勝てず、遅かれ早かれその波は消滅する運命にある。
ところが消滅した波は、初めて大きな気づきを得るんだ。
「なーんだ、自分は波としての自分にしがみついていたけれど、本当は海そのものだったんだ。
波(自分)はたんに海(全体)の運動現象にすぎず、それは実体じゃなかった
本当の自分は海そのものだったんだ。
自分は全体・神・宇宙そのものだったんだ」
ブッダからの目線では、その海である自分を「我」と呼ぶ。
「常楽我浄」
さ、あとは「浄」の一文字だね。
応援よろしく
↓
2007年03月27日
常楽我浄 6
おはよう。
僕の朝の日課はPCの前に座ること。
そんなわけで今朝も、超マニアックなみなさんへの連続シリーズの続きだよ。
この言葉はいままでに何度も聞いた事があると思う
「神はあなたの中にいる」
あるいは
「あなたと神とは一体だ」
そして頭のどこかで、それは本当かもしれないと思っているでしょ。
続きを読む前にこれを押してください
↓
続きを読む
僕の朝の日課はPCの前に座ること。
そんなわけで今朝も、超マニアックなみなさんへの連続シリーズの続きだよ。
この言葉はいままでに何度も聞いた事があると思う
「神はあなたの中にいる」
あるいは
「あなたと神とは一体だ」
そして頭のどこかで、それは本当かもしれないと思っているでしょ。
続きを読む前にこれを押してください
↓
続きを読む
2007年03月26日
夜明け前
もう20年も前になるけど、ある人が言っていた。
この先、地球に高い波動が大量に降り注いで、多くの人が自己に目覚め覚醒していくって。
昔は突出した魂だけが到達できた悟りの世界に、多くの人たちが突入するって。
いま、それは本当の話だと思っている。
僕のような取るに足らない人間が、このような話をさせてもらい、しかもこんなマニアックな記事を多くの人たちが支持してくれる。
僕たちは、自分たちが感じている以上に凄い時代を生きているのかもしれない。
夜明けは近い
いやもうすでに夜は明けているのかも。
そんなことを分かち合いながら、今日の一日に幕を引きます。
今日もありがとう!
2007年03月26日
常楽我浄 5

さ、それじゃ次は宇宙の目線から見た「常楽我浄」を見ていこう。
うまく説明できるかな。
とにかく書き始めてみるね。
例えばあなたが10年前、世の中を憂い、長い瞑想生活に入り初めて「いまここ」を感じ取ったとしよう。
それは時間を超えていて、ただ超然とあるがままにただ存在していた。
それから10年間、あなたは結婚し子供に恵まれ、会社を起こし富を手に入れた。
しかしそれもつかの間、人に騙され破産に追い込まれ、一家は離散してしまった。
すべてに絶望したあなたは、再び人の世を憂い、山寺にこもった。
そして長い修行の末、またしても10年前と同じ「いまここ」を感じ取る事ができた。
その「いまここ」は10年前と何か変わっただろうか。
続きを読む前にこれを押してください
↓
続きを読む
2007年03月26日
中年ジャンプ

昨日の名護ライブの模様をアップしようと思ったのに、気がついたら深夜12時近くになっていて、やめにした。
その時間までずっとライブやっていたけど、みんな今日は平日で仕事のはずなのに、よく遅くまでいてくれるよね。
沖縄の七不思議の一つは、この人たちはいつ寝るのかということ。
僕は今やっと起きたけど、みんなも仕事モードに入ったのだろうか。
今日は月曜日、また一週間が始まる。
さて今日も「延命十句観音経」の「常楽我浄」の解説に取り組もうかなんて考えているけど、その底辺を流れる「人生は苦である」という思想は、まったくもってその通りと思う。
夢見心地の状態で、ただ幸せなだけで辛いことや悲しい事がないと、時間はあっというまに過ぎてしまって何も残るものがない。
でも苦しみや闇の状態が深ければ、そこに光を求め、人は成長に向かうんじゃないだろうか。
苦しみとは本当の自分に向かうためのチャンスで、それこそが人生の目的なのだから、苦しみのない人生は意味がないのかもしれない。
さて、今日書く内容は、宇宙の視点(ブッダの視点)から見た「常楽我浄」の世界。
苦しみをバネにしてジャンプした世界を描いてみるよ。
それではまた後ほど。
今日も仕事頑張ってね。

2007年03月25日
常楽我浄 4
さて最後の一文字「浄」
心身とは本当は不浄な存在なのに、それを清らかだと感じている錯覚(顛倒)を「浄」という。
人間の身体は、どんな美人だって皮膚一枚がそれらしく覆っているだけで、中身は異臭を発する不浄なものだ。
死ねばすぐに腐りだす。
そんな身体を美しいと思うのは勘違いだよって。
そして心も同じ。
自分は善人で非難されることは何もないとする独善的な考えは間違いだ。
善を取りつくろっても、その背後には、自分さえよければいいという穢れた考えがいつも行きかっている。
正直に見ればそれが人間だ。
にもかかわらず、そこを見ようとしないで、自分は清浄で正しい人間だと主張する間違いを「浄」という。
さてこの4つが地上から見た「常楽我浄」
いよいよ次回からは、宇宙から見た「常楽我浄」
同じその言葉が仏陀の視線からはどう映るのか説明しようね。
ブログ版「いまここ塾」はいかがでしょうか。
実際の「いまここ塾」は、こんなことを喋り続けて、次回で100回目を迎えます。
記念すべきこの日(3月27日)、夜8時に中城村の吉の浦会館に来てください。
駐車場完備 入場無料です。
毎回違った話をさせてもらっています。
今日はこの後、やんばる(沖縄本島北部)まで行くから、もう書けないかも。
むこうからライブの模様を報告できたらアップします。
そんなわけで今日も応援よろしく
↓
2007年03月25日
常楽我浄 3
超マニアックな皆さん、おはよう。
さっそく昨日の続きを始めるよ。
変わりゆくものに対して「変わらないで!」としがみつく「常」も、苦しみを遠ざけて安楽を引き寄せようとする「楽」も、元はといえば「我」への執着から来ている。
あらゆる執着や欲望の根っこにあるのが、この「我」という感覚だ。
これは単に感覚であって実体ではない。
そしてこれは時間という概念と密接関係にある。
時間も感覚であって実体ではない。
この二つは違う形をした同じ錯覚だ。
本当はいつも「いまここ」という時空間しか存在していないのに、僕らは時間が、過去から現在、現在から未来に向かって、直線的に続いているとイメージしている。
そこを「自分」という固定した存在が、連続して生きていると感じている。
でもそれは間違いだ。
時間もなければ、そのような自己も存在しない。
だから言うんだ。
過去生とか霊とかを口にする人は、時間という観念に生きている人たちで、言っていることは幼稚だって。
このブログを読んできた人の中には、自己が存在しないということを理解し始めた人もいるだろう。
僅かでもその感覚を実際に経験すれば、2度と同じ人ではいられない。
それまで「自分」だと信じてきた想像の産物は、たちどころに消えてなくなる。
自己など存在していない。
それを釈迦は「諸法無我」と説いた。
本当は無いにもかかわらず、有ると信じているから、そこに苦しみが生まれる。
それが3つ目の顛倒(てんどう)の「我」
たった一句を説明するのに、ずいぶんと時間がかかっているな。
もう少し頑張るからね。
応援ボタンを押して僕をその気にさせてください。
↓
2007年03月24日
A君の心の中
自分の中の大いなる完全性から見れば、六本木ヒルズも映画のセットみたいなもので、まったく取るに足らない張りぼてだ。
成功者を目指して、自分の優秀性を証明しようとしている田舎者は放っておくしかない。
世の中にはそんな連中がひしめき合っている。
マスコミ関係者、金融関係者、司法関係者、役人、タレント・・・そのほか諸々、自分が何か特別なことに携わっていると思っているから手に負えない。
そんな輩と話をしても5分間で飽きてしまう。
可哀そうだが救いようがないので、なるべく会わないようにしている。
こうやってPCに向かい合っているほうがよっぽど気持ちがいい。
え?そういうのを引きこもりっていうんだって?
放っておいてくれ

さて、明日は名護に行って、また好き勝手喋って、好き勝手唄ってくる。
みんなもいい夢見てね。
オヤスミ
プッシュ大好き、ブッシュは嫌い
↓
2007年03月24日
常楽我浄 2
さて次は「楽」の一字。
本来この世は苦しみに満ちている。
人間は苦しむために生まれてくるとも言える。
安定した母親の胎内から切り離されて、狭い産道を通り抜けるところから苦しみは始まっている。
だから赤ちゃんは泣きながら生まれてくるんだ。
人生も苦しみの連続で、やがて年老いて、病に犯され、そして死んでいく。
そんな苦しみの人生にもかかわらず、多くの人は「人生は幸せだ」「幸せになるために生きるんだ」という立場を変えようとしない。
その姿は無知そのものであり、その無知が苦しみをさらに救いようの無いものにしている。
絶え間なく浸透する苦しみを遠ざけ、楽や幸せをひきつけようとする姿。
そして本来苦しみである人生を、幸せ・安楽と考えてしまう勘違い(顛倒)が「楽」だ。
けっこうシビアな話だけど、釈迦の慈悲は気休めを言わないところ。
徹底的に否定を重ねて、人を真実に招こうとする。
残りの2つはまた後ほど説明するけど、この「常」「楽」「我」「浄」の4つを、違う視点(宇宙の目線)から見ると、まったく違う意味になるんだ。
それこそが「延命十句観音経」で使われている意味だよ。
常楽我浄の四文字は、説明するのにすごく時間がかかる。
こんな話、面白い?
そう思ってくれる超マニアックなあなたのために、今日もPCのキーボードをカタカタ叩く僕であった。
応援ボタン
↓
2007年03月24日
常楽我浄
こうやってまた朝が来て、今日も一日が始まろうとしている。
今日は「延命十句観音経」の次の一句、常楽我浄(じょうらくがーじょう)に入っていこう。
子供の頃からいつも考えていた。
人は何故、生きているのかって。
頑張って働いて、頑張って自分を高めて、苦しみ悩んで、そして死んでいく。
希望を持つことでなんとか自分を励まし、やっとつかんだ幸せはいつだってつかの間で、人生の大部分は苦しみときている。
一番不思議だったのは、そのことを見ようとしないで、毎日の出来事に大騒ぎして生きている人間達の姿だった。
みんな最後は死んじゃうのにな・・って。
子供にしてはずいぶん虚無的な考え方だけど、今でもそれはある面真実だと思う。
ところがもう一つの面から見ると、全然違った人生観と死生観が生まれる。
続きを読む前に押してね
↓
続きを読む







日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!