2007年03月31日

変化の季節



おはよう。

さて今日は3月31日。

人生の変化の時をむかえている人たちもいるだろうね。



卒業や就職や転職や、期待に胸を膨らませている人、一歩前進する人、後退する人、さまざまだと思うけど、何が起きていても人生の河の流れがそのような景色に差しかかったにすぎない。



そこを通らなければ先に進めなくて、そしてその流れは必ず海にたどり着く。


いつもいま、人生で一番必要な事が起きていて、そこには無駄が無い。




しっかりと腹の底に力を入れて、目の前の現実に立ち向かっていってください。





さ、今日も生きるゾ!!


  


Posted by Toshiro Abe at 07:26Comments(4)日々のメッセージ

2007年03月30日

いまここ塾 in 博多

2010年10月10日(日) Sold Out 

12:20 開場

13:00~15:30


参加費 3000円



会場

アクロス福岡 会議室608


地下鉄空港線 天神駅前




お申し込みはコチラから  


Posted by Toshiro Abe at 17:46Comments(3)

2007年03月30日

愛と瞑想




さっき、愛と憎しみはひとつのものの両極だって話をしたね。

それが僕らの心(マインド)の限界で、僕らはふだん心を使って生きていて、マインドで人を愛そうとしているんだ。


そして僕らがその心を超えた時、そこに絶対的な「愛」がある。

それは特定の対象に向かう愛ではなく、普遍的な愛だ。


それを神とよぶ人もいる。



心を超える・・・これが瞑想の意味するところ。

だから瞑想と愛は違うアプローチの同じもの。



深い瞑想に入っていくと、そこに愛が存在する。

深い愛に包まれる時、それはとても瞑想的だ。



どちらも神に続く道。



キリスト教を中心とする西洋文明は「愛」の道を選んだ

東洋文明は「瞑想」の道を選んだ。


それはどちらも同じ道。



西洋と東洋が統合される時、そこに新しい文明が花開くように思う。


そんな意味からして、西洋と東洋が出合う「日本」の役割は大きいように思うんだ。






  


Posted by Toshiro Abe at 12:50Comments(4)心のメッセージ

2007年03月30日

愛と憎しみ




ふつう僕たちはこう考える。


愛している人を憎んではいけない

愛している人と争ってはいけない



一見、論理的に聞こえるこの言葉だが、それは間違っている。


愛しているからこそ憎しみが湧いてくるんだ。

この世には愛と憎しみが存在しているのではなく「愛憎」というひとつのものが存在しているのだから。

その「愛憎」の片方に寄れば「愛」だし、もう片方に傾けば「憎しみ」になる。



それが僕らの心の限界で、心は何でも両極の間を行ったりきたりするんだ。



それなのに愛している人を憎んではいけないと考えているから、憎しみや怒りが出てくると心の中で押し殺してしまう。

でもその抑圧されたエネルギーはどこかに消え去るわけじゃない。


いつまでも心の中でふつふつと静かに燃え盛っている。


だから愛せなくなってしまうんだ。



相手を愛したかったら、たくさん争ってたくさん憎しみをぶつけ合うことだ。


するとまた片方の極に移行し、愛が燃え上がることになる。



愛と憎しみは車の両輪。

片方だけを切り取って、前に進むことはできないんだよ。



さて、そんな僕らのこの世の愛を超えた愛も確かに存在する。



その話は後ほどニコニコ


  


Posted by Toshiro Abe at 07:25Comments(2)心のメッセージ

2007年03月29日

首なし人間



おはよう

今日は魂の成長に役立つ、簡単なレッスンを紹介しよう。




普段僕たちは頭のセンターを使って生きている。

たえまなく考え事をして、何でも判断したり批評したり、それは朝から晩まで続いている。




そこでだ、自分の首から上がなくなってしまったイメージで生きてみるんだ。


まるで頭がなくなってしまった人間のようなつもりで、歩き、そして感じてみる。


最初のうちは「ないつもり」だが、そのうち本当に消えてしまう。




それにはコツがいる。

すぐにはできないと思うけど、何度もトライしていると、ある時ふいにできたりする。


その時、いつもはあまり使うことのなかったハートのセンターが機能しだす。



頭に流れていたエネルギーがハートに向かって流れ出す。

それまで頭を使って世界を見ていたのが、ハートから世界を見ている状態になる。





それはとても気持ちのいい時間だよ。


特に僕みたいにエゴの強い人間には効果テキメン!!




今日は一日、首なし人間で生きてみよう。





  


Posted by Toshiro Abe at 07:35Comments(8)日々のメッセージ

2007年03月28日

酔っ払いの懺悔



今夜も母家に知人が来てくれたので、行ってしこたま飲んできた。



酒のせいだろうか・・・今夜は独り言に付き合って欲しい。




年寄りの戯言(たわごと)だと思って聞いて欲しい。






ずいぶん昔の話だ。




僕が北海道のTV局に出演した時、その番組の司会をしていたのが坂本九さんだった。



番組が終わって楽屋で片付けをしていたら、九さんが突然入ってきて

「君の歌、面白いね!青島が君に会いたがっていたよ」



青島幸男さんは、植木等さんの一連の曲の作詞をしていた人で、僕の憧れの作家の一人だった。


あの時代にあの「無責任」の発想は、まさに天才の仕事だと思っていた。


その青島さんが僕の歌を面白いといってくれた。




その歌は「あせるぜ」といって、受験戦争を皮肉り、歴代総理をなめきった歌だった。



そんなこんなで、当時青島さんがやっていたTBSのラジオ番組にゲストに呼んでもらった。



本当はものすごく嬉しかったくせに、若かった僕はそんなことより、政治家になり下がってしまった青島さんに言いたい事があった。



結局生番組の中で大喧嘩になってしまい、聴取者から何事かと局に電話が殺到した。




実は当時、ニッポン放送の看板アナウンサーとも生番組で大喧嘩をしていて、それは相手というより、僕自身に問題があったと今になって思う。




僕は青島さんに、植木等さんやクレージーキャッツに提供したあの歌の発想はどこからきたのか、そんな話を聞いてみたかったのに・・・




今となってはもうどうすることもできない。




今日、植木等さんが亡くなられたというニュースを聞いた。




僕の子供時代の憧れがまたひとつ逝ってしまった。




坂本九さんも、青島幸男さんも、植木等さんも、みんないなくなってしまった。




でも彼らが残してくれた作品は、これからも僕の目標の一つだ。





心からご冥福をお祈りします。





合掌





今夜はしこたま酔っている。




  


Posted by Toshiro Abe at 23:16Comments(8)独り言

2007年03月28日

常楽我浄 8



おはよう。

9時間も爆睡してしまったけど、気分は爽快!



さて今日は「常楽我浄」の最後の一文字、「浄」を見ていこう。


地上の目線から見た時の「常楽我浄」と、宇宙の目線で見たときの「常楽我浄」



これを学ぶのは、自分の普段の人生と、彼方なる自分を理解するのに役立つよ。




約15年間にわたり、多くの人たちの悩みや苦しみと出会い、その苦しみが少しでもなくなるようにと様々な話やレッスンを提供してきた。



ちょっと話がハードになるけれど、その中に、幼少の頃、心無い周囲の大人によって性的いたずらをされた女性たちが少なからずいた。

その経験がその人自身やその人の人生に与えた影響は想像以上に大きい。


しかもそのような出来事を親にも誰にも言えず、ずっと一人で苦しんできた人たちも多く、そのような事件は表面化するのは一部で、僕の経験から言うと実際にはかなりの数にのぼるのではと思う。


そんな人たちに必ず伝えてきたのは

「あなたのせいじゃないし、あなたは少しも穢れていない」


そしてその言葉は気休めじゃなく、事実だ。

もちろんそう言われてもすぐに傷が癒えるわけじゃない。
でも何度でも繰り返し伝えよう。

「あなたのせいじゃないし、あなたは少しも穢れていない」



僕たちの本質は現象界とは違う次元に存在し、それは起きた出来事に影響されることは無いんだ。


それを理解するのにも大空の話は役に立つ。



僕らの人生には雷のように心を引き裂く出来事や、嵐や、雨や、様々な受け容れがたい出来事が起きていく。

そのたびに僕らは傷つき悩み、恨みや怒りや嫉妬のような感情を溜め込んでいく。

その感情が内側に向かえば、罪悪感や自己嫌悪となる。


いつしか素直な気持ちは失われ、自分が自分ではなくなり、さらにはそんな自分を責めたり罰したりするので悪循環に陥ってしまう。



しかし何十年間も否定的などす黒い雲に覆われていようと、空を引き裂くような稲妻が何度訪れようと、その背後に存在する「大空」は決して影響される事はない。

雲や雷が大空に影響を与える事はできないんだ。


大空はどこまでも純粋無垢に、その姿を変えることなく存在し続けている。


それが僕らの本質だよ。



自分がどんなに不純で汚れてしまったと思っても、それは表面的な感覚に過ぎなくて、本当の僕たちはいっさい穢れを知らない清らかな存在だ。


それが「浄」の意味するところ。

それは垢にまぎれたこともなく、したがって浄化の必要もない。

それを般若心経では不垢不浄(ふーくーふーじょう)と表している。



だから何度でも自分自身に言ってあげよう。

「本当の自分はいつもいまここで光り輝いている」って。

雲がそれを見えなくしているだけで、見えなくたって大空が消えたわけじゃないから。


だから「大丈夫」なんだよ。



宇宙の目線から見た「常楽我浄」

うまく伝わったかな。


ちなみに地上目線の「常楽我浄」を四顛倒(してんどう)と呼んだのに対して、宇宙の目線のそれを四徳(しとく)と呼ぶんだ。


同じ言葉が「過ち」にもなれば「徳」にもなる。



延命十句観音経の中に出てくる「常楽我浄」は四徳のそれだよ。



さてこの経文の説明も佳境に入ってきたね。


この後はそれほど難しくないから、すでに多くを理解したことになるよ。



最後まで読んでくれてありがとう。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(5)延命十句観音経

2007年03月27日

100回記念





今夜は「いまここ塾」100回記念だった。



大いなるものと一体化するためのレッスンをお伝えした。


また機会を見て、このブログでも紹介させてください。





今夜なにか特別なものをと考えて、随(かんながら)神の原本が12冊だけあったので、それを販売したら数秒間でなくなってしまった。

それだけ多くの人がブログを見てくれているわけで、とても嬉しかった。




たくさんのお花をありがとう。


たくさんの想いをありがとう。



これからも命ある限り、自分の役目を果たしていきます。





  


Posted by Toshiro Abe at 23:25Comments(11)講演会

2007年03月27日

常楽我浄 7



今朝は宇宙の目線から見た「楽」について話をしたら、こんなことを書いてくれた人がいた。


>身も心も生まれては消えていく単なる現象


まさにそのとおりって思う!

この言葉を拝借して、次の一字「我」の説明に入っていこう。




>身も心も生まれては消えていく単なる現象



それは海に生じる波のようなもの。


波は海面に無数に生じるが、二つとして同じ波はなく、すべて形も大きさも微妙に違っている。


その波同士が、隣の波と比べあい、競い合い、よりよい波になるために、生きている間、絶え間ない葛藤をしているのが、人の人生。


生じた波はいつか必ず消滅するときが来る。

それを知っている波は、なんとか自分の寿命を延ばそうと、その形にしがみつく。

そして日々消滅を恐れている。



どんな努力も自然の摂理には勝てず、遅かれ早かれその波は消滅する運命にある。



ところが消滅した波は、初めて大きな気づきを得るんだ。


「なーんだ、自分は波としての自分にしがみついていたけれど、本当は海そのものだったんだ。

波(自分)はたんに海(全体)の運動現象にすぎず、それは実体じゃなかった


本当の自分は海そのものだったんだ。

自分は全体・神・宇宙そのものだったんだ」



ブッダからの目線では、その海である自分を「我」と呼ぶ。




「常楽我浄」





さ、あとは「浄」の一文字だね。





  


Posted by Toshiro Abe at 15:44Comments(4)延命十句観音経

2007年03月27日

常楽我浄 6

おはよう。

僕の朝の日課はPCの前に座ること。


そんなわけで今朝も、超マニアックなみなさんへの連続シリーズの続きだよ。



この言葉はいままでに何度も聞いた事があると思う


「神はあなたの中にいる」


あるいは


「あなたと神とは一体だ」


そして頭のどこかで、それは本当かもしれないと思っているでしょ。




そう、その通り。

それは本当のこと。



でもね、多くの人は
「そうは言っても自分が神と一体だって思えるのは、自分がもっと成長して高まった時だろう」
って思っているよね。


そうじゃないんだよ。



まさに、いまあるがままのあなたがそのまま神そのものなんだ。



だから、そのことを体感した人はみんなこう思う。


「こんな罪深い自分が!!!」


「こんなどうしようもない自分が・・・!!」



そしてその事実に対して無限の感謝がわいてくるんだ。



さらに、人生のすべての出来事は何一つ無駄もなく、偶然もなく、まさにこの体験に自分を誘うために計画されたものだったってわかって、そのありがたさに涙がこぼれてくる。



その至福感は「幸・不幸」という二元性を超えていて絶対的なもの。



その感覚を「楽」とした。




その感覚はいつも「いまここ」にあるので、未来を必要としないんだ。


自分の中から未来が落ちると、欲望が落ちる。



欲望は未来の中でしか存在できないからね。




欲望のあるところには不満や苦しみがあり、欲望が消滅すれば「苦」も消滅する。


そこに残るものが「楽」だよ。




僕たちは本来、この「楽」によって生かされていて、宇宙にはそれしか存在していないのに、人間はそこに欲望や執着を生み出して「苦」を作り出した。



本当は心の底の底では、僕たちみんな絶対的な幸せを感じているのにね。


それなのに、自分が感じたい分だけ苦しみや悩みを作っている。




いま幸せを感じてみよう。

同じ一日なら、そんな気分で生きてみよう。



  


Posted by Toshiro Abe at 07:45Comments(13)延命十句観音経

2007年03月26日

夜明け前



もう20年も前になるけど、ある人が言っていた。


この先、地球に高い波動が大量に降り注いで、多くの人が自己に目覚め覚醒していくって。

昔は突出した魂だけが到達できた悟りの世界に、多くの人たちが突入するって。


いま、それは本当の話だと思っている。



僕のような取るに足らない人間が、このような話をさせてもらい、しかもこんなマニアックな記事を多くの人たちが支持してくれる。


僕たちは、自分たちが感じている以上に凄い時代を生きているのかもしれない。



夜明けは近い


いやもうすでに夜は明けているのかも。




そんなことを分かち合いながら、今日の一日に幕を引きます。




今日もありがとう!





  


Posted by Toshiro Abe at 23:29Comments(4)

2007年03月26日

常楽我浄 5




さ、それじゃ次は宇宙の目線から見た「常楽我浄」を見ていこう。

うまく説明できるかな。


とにかく書き始めてみるね。





例えばあなたが10年前、世の中を憂い、長い瞑想生活に入り初めて「いまここ」を感じ取ったとしよう。

それは時間を超えていて、ただ超然とあるがままにただ存在していた。



それから10年間、あなたは結婚し子供に恵まれ、会社を起こし富を手に入れた。

しかしそれもつかの間、人に騙され破産に追い込まれ、一家は離散してしまった。


すべてに絶望したあなたは、再び人の世を憂い、山寺にこもった。

そして長い修行の末、またしても10年前と同じ「いまここ」を感じ取る事ができた。


その「いまここ」は10年前と何か変わっただろうか。



それは何も変わる事が無い。


今までもそれはずっと存在し続けていたし、これからも変わることなくあり続ける。



それは大空と雲の関係によく似ている。


僕らの人生は訪れては去っていく雲のように、毎日形を変えながら、それは尽きる事が無い。

雲は常に変化し続け、それは無常そのものだ。


ところが本当の僕たちは雲ではない。


その背後に存在する大空だ。





10年間にわたり、美しい雲や、どす黒い雲や、嬉しい雲や、悲しい雲に覆われ続けていても、その間も大空は何も変わることなく、いまここに存在しつづけていた。


それこそが本当の自分だ。




それがブッダの目線で見た「常楽我浄」の「常」が意味するところ。



誕生も死滅も、雲が織り成す幻想に過ぎない。


本当の僕たちは、生まれたことも無ければ死んだことも無い。

永遠に「いまここ」に存在し続けている。



表面的な形を絶えず変えながら(無常)、中心はなにひとつ変わることなくありつづけている。


それが「常」の意味するところだよ。




だからだいじょうぶ。

何も怖がる事はない。


あなたは最初から救われているのだから。


  


Posted by Toshiro Abe at 16:34Comments(6)延命十句観音経

2007年03月26日

いまここ塾 in 仙台

2013年3月31日(日)  満員御礼

開場 14:00
開演 14:30 
終演 17:00


【参加費】
3000円

【会場】
TKP仙台カンファレンスセンター
カンファレンスルーム4A
宮城県仙台市青葉区花京院1丁目2-3
022-217-7126




仙台駅徒歩3分 

宮城県仙台市青葉区花京院1丁目2-3
022-217-7126


お申込はコチラから

  


Posted by Toshiro Abe at 07:50Comments(7)講演会

2007年03月25日

常楽我浄 4




さて最後の一文字「浄」



心身とは本当は不浄な存在なのに、それを清らかだと感じている錯覚(顛倒)を「浄」という。



人間の身体は、どんな美人だって皮膚一枚がそれらしく覆っているだけで、中身は異臭を発する不浄なものだ。


死ねばすぐに腐りだす。



そんな身体を美しいと思うのは勘違いだよって。





そして心も同じ。


自分は善人で非難されることは何もないとする独善的な考えは間違いだ。


善を取りつくろっても、その背後には、自分さえよければいいという穢れた考えがいつも行きかっている。




正直に見ればそれが人間だ。



にもかかわらず、そこを見ようとしないで、自分は清浄で正しい人間だと主張する間違いを「浄」という。





さてこの4つが地上から見た「常楽我浄」




いよいよ次回からは、宇宙から見た「常楽我浄」


同じその言葉が仏陀の視線からはどう映るのか説明しようね。






ブログ版「いまここ塾」はいかがでしょうか。


実際の「いまここ塾」は、こんなことを喋り続けて、次回で100回目を迎えます。


記念すべきこの日(3月27日)、夜8時に中城村の吉の浦会館に来てください。

駐車場完備 入場無料です。

毎回違った話をさせてもらっています。





今日はこの後、やんばる(沖縄本島北部)まで行くから、もう書けないかも。


むこうからライブの模様を報告できたらアップします。




  


Posted by Toshiro Abe at 15:20Comments(4)延命十句観音経

2007年03月25日

常楽我浄 3



超マニアックな皆さん、おはよう。


さっそく昨日の続きを始めるよ。




変わりゆくものに対して「変わらないで!」としがみつく「常」も、苦しみを遠ざけて安楽を引き寄せようとする「楽」も、元はといえば「我」への執着から来ている。


あらゆる執着や欲望の根っこにあるのが、この「我」という感覚だ。


これは単に感覚であって実体ではない。


そしてこれは時間という概念と密接関係にある。

時間も感覚であって実体ではない。


この二つは違う形をした同じ錯覚だ。




本当はいつも「いまここ」という時空間しか存在していないのに、僕らは時間が、過去から現在、現在から未来に向かって、直線的に続いているとイメージしている。

そこを「自分」という固定した存在が、連続して生きていると感じている。


でもそれは間違いだ。


時間もなければ、そのような自己も存在しない。




だから言うんだ。

過去生とか霊とかを口にする人は、時間という観念に生きている人たちで、言っていることは幼稚だって。


このブログを読んできた人の中には、自己が存在しないということを理解し始めた人もいるだろう。


僅かでもその感覚を実際に経験すれば、2度と同じ人ではいられない。


それまで「自分」だと信じてきた想像の産物は、たちどころに消えてなくなる。





自己など存在していない。

それを釈迦は「諸法無我」と説いた。




本当は無いにもかかわらず、有ると信じているから、そこに苦しみが生まれる。

それが3つ目の顛倒(てんどう)の「我」





たった一句を説明するのに、ずいぶんと時間がかかっているな。




もう少し頑張るからね。




  


Posted by Toshiro Abe at 07:39Comments(5)延命十句観音経

2007年03月24日

A君の心の中



自分の中の大いなる完全性から見れば、六本木ヒルズも映画のセットみたいなもので、まったく取るに足らない張りぼてだ。

成功者を目指して、自分の優秀性を証明しようとしている田舎者は放っておくしかない。



世の中にはそんな連中がひしめき合っている。


マスコミ関係者、金融関係者、司法関係者、役人、タレント・・・そのほか諸々、自分が何か特別なことに携わっていると思っているから手に負えない。




そんな輩と話をしても5分間で飽きてしまう。

可哀そうだが救いようがないので、なるべく会わないようにしている。




こうやってPCに向かい合っているほうがよっぽど気持ちがいい。




え?そういうのを引きこもりっていうんだって?

放っておいてくれガ-ン




さて、明日は名護に行って、また好き勝手喋って、好き勝手唄ってくる。



みんなもいい夢見てね。




オヤスミ





  


Posted by Toshiro Abe at 23:39Comments(11)戯言(たわごと)

2007年03月24日

常楽我浄 2



さて次は「楽」の一字。




本来この世は苦しみに満ちている。

人間は苦しむために生まれてくるとも言える。



安定した母親の胎内から切り離されて、狭い産道を通り抜けるところから苦しみは始まっている。


だから赤ちゃんは泣きながら生まれてくるんだ。



人生も苦しみの連続で、やがて年老いて、病に犯され、そして死んでいく。



そんな苦しみの人生にもかかわらず、多くの人は「人生は幸せだ」「幸せになるために生きるんだ」という立場を変えようとしない。

その姿は無知そのものであり、その無知が苦しみをさらに救いようの無いものにしている。



絶え間なく浸透する苦しみを遠ざけ、楽や幸せをひきつけようとする姿。

そして本来苦しみである人生を、幸せ・安楽と考えてしまう勘違い(顛倒)が「楽」だ。


けっこうシビアな話だけど、釈迦の慈悲は気休めを言わないところ。


徹底的に否定を重ねて、人を真実に招こうとする。




残りの2つはまた後ほど説明するけど、この「常」「楽」「我」「浄」の4つを、違う視点(宇宙の目線)から見ると、まったく違う意味になるんだ。


それこそが「延命十句観音経」で使われている意味だよ。




常楽我浄の四文字は、説明するのにすごく時間がかかる。




こんな話、面白い?


そう思ってくれる超マニアックなあなたのために、今日もPCのキーボードをカタカタ叩く僕であった。




  


Posted by Toshiro Abe at 18:00Comments(8)延命十句観音経

2007年03月24日

常楽我浄




「常楽我浄」


この一句は「延命十句観音経」の十句の中でもっとも哲学的な言葉だ。


そしてこの言葉を理解するには、二つの見方が必要なんだ。


一つは地上からの目線。

もう一つは宇宙からの目線。


まずは地上からの目線から説明しよう。




理解するだけの価値ある言葉だから、ゆっくり時間をかけて読んで欲しい。






人間は何故苦しむのか。

それは4つの大きな勘違いと間違いをしているからだと仏教は説く。


それを四顛倒(してんどう)と言うんだ。

それが「常」「楽」「我」「浄」の4つ。


これを理解すれば、生き方や考え方を悔い改めることができ、本当の価値ある人生を送る知恵が生まれてくる。




まずは「常」

あらゆるものは変化していて、なにひとつそのままの形で留まる事がない。

家族も友人も恋人も、いつかは死んだり別れたりする宿命にある。

愛情だって、信頼だって、刻々と変化して姿を変え続けている。

繁栄は必ず衰退につながり、富は貧へと変わっていく。

あらゆる物事は変化し続けているんだ。

それなのに人は、いつまでもこのままであってほしいと願い、そこに執着する。


いくら執着したって変わるものは変わっていく。



苦しみの原因は、変わっていくという事実そのものではなく、変わっていくのに変わらないで欲しいと願う人間の執着心が作り出しているんだ。


本来、常なるものは何もないのにもかかわらず、それを常だと感じて生きている錯覚(顛倒)を「常」という一字で表したんだ。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:41Comments(6)延命十句観音経

2007年03月23日

神の話




本場のタイや国内の様々な店でタイカレーを食べ歩いた人が「まいうー!!」っと叫ぶ母家のタイカレー。

僕が言うと自慢みたいになっちゃうけど、本当に美味しいよね。


この味をレポート用紙10枚分で報告しても、本を一冊書いて説明してもわからない。

中身を分析しても、レシピを読んでも、その味は想像するしかなくて決して伝わらない。


でも、一口パクっと食べれば、はいそれまでよ。


もう本を読まなくても、レシピを眺めなくても、どんな味かはよくわかる。





急に話はぶっ飛ぶけど、それは「神」も同じこと。

どんなに神について勉強しても、どんな組織に参加しても、神を理解することはできない。


神は概念じゃないからね。



神とは圧倒的な素晴らしさ。

今までもこれからも常に完璧しかありえないという、絶対的な経験。


それをパクっとやりたかったら、自分の心の一番奥の奥にある、完全に目覚めた部分を見つけ出すことだ。


本当はね、僕らの人生でやるべきことは、そのことだけなんだよ。


後の話は全部「戯言」

霊だとか魂だとか生まれ変わりだとか・・・


みんな子供だましの戯言さ。


遊ぶのにはいいけど、もう時間が無い。


深く自分の中に入っていくことだよ。



それには瞑想するしかない。

実に・・・方法はそれしかない。




久しぶりに少し言い切って気持ちいいな。


もっと言いたいこともあるけど、過激になりすぎるからやめよっと。





僕に勇気をくれたら何でも喋るよ。





  


Posted by Toshiro Abe at 17:35Comments(14)心のメッセージ

2007年03月23日

いつも頭はゴッチャゴチャ

おはよう。

ご気分はいかが?



観察したことあるかい?

僕らって、朝から晩までずっと何か考えているってこと。


しかも一つの事を論理的に考えているんじゃなくて、あっちいたりこっちいったり。


ずっと絶え間なく考えているから、自分が考えていることにさえ気づいていない。



今立ち止まって、3分前に自分が何を考えていたか正確に思い出してごらん。

たいていの人はできないよ。



一つだけいえるのは、それはとてもつまらないものだったってこと。


たとえば自分や他人を批判したり裁いたり、誰かと比較したり、後悔したり心配したり・・・



そして自分がそうしていることにさえ気づいていない。




そんな思考の牢獄の中で一生終えるはあんまりだよね。




そこから抜け出る第一段階は、絶え間なく考え事をしている自分自身に気づくこと。

自分がそういう存在だということを認めること。



そこから道は開けてくるよ。




うん、この話は大切だから、また続きを書くね。




せめて今日は、人や自分を裁かないで、誰のことも批判しないで暮らしてみよう。


「すべてはそのようにしてあるがままにある」




ニコニコ





  


Posted by Toshiro Abe at 08:35Comments(6)日々のメッセージ