2017年08月29日
続・輪廻転生
昨日は輪廻転生という記事を書きましたが、人の記憶というのは曖昧なもので、このようなテーマは、このブログではほとんど扱ってこなかったと思いながら、輪廻転生という単語でブログ内検索をしてみたら、出てくる出てくる(笑)
昨日書いた、「宇宙は一つだが、人の数だけある」という発想も、すでに6年前に書かせてもらっていたんですね。
この視点は先日の講演中に初めて自分の中に湧いたインスピレーションだと思っていたので、これも意外でした。
この過去記事にもそのことが分かりやすく書かれているので、時間があったら読んでみてください。
輪廻転生
それじゃ、今日は何を書こうかな。
同じことの繰り返しじゃつまらないし・・・
今日はいままでごく一部の人にしか言ってこなかった、僕の前世(?)について書いてみることにします。
たわいもないストーリーですが、真面目に書いてみます。
もしかしたら、あなたにも思い当たることがあるかもしれないから。
前世の記憶といっても、具体的なエピソードを思い出したわけではありません。
ただ幼少のころから、生まれ落ちた環境に大きな違和感を持っていて、自分はここに生まれてくるはずではなかったのに、なぜこの人生を選んだのだろうかという、子供らしからぬ疑問を持っていました。
人は新しい学びを得るために、自分の人生の条件を選んで生まれてくるという話をする人がいますが、確かにそんな感じがしていました。
これも子供の頃からなのですが、僕の場合は、この世に生きる人たちの苦しみや悲しみを理解し、どの魂も特別なものではなく、みな等しく同じものだということを、身をもって知るために生まれてきたのではないかと感じていました。
そしてなぜか、前世での自分のイメージも持っていて、それは誰にも話せない自分だけの秘密でした。
そのイメージの人は、立場上なのか高慢なところがあり、自分は特別だという思いが強くあったのです。
そんな特別さという心の歪みは、僕の半生で事あるごとに顔を出すのですが、そのたびに、またやっているという思いがしたものです。
それがあるとき、30歳の時でしたが、発売されて間もない一冊の本に出合います。
その本に出てくる、作者の父親の肖像写真を見た時、
「この人だ」
と確信めいた気持ちが湧きました。
目元も、全体的な雰囲気も僕によく似ています。
それもそのはず、その人は僕の血統上の祖父でもあるのですから。
事情があってこれ以上詳しくは書けませんが、その写真を見た瞬間に長年持ち運んできた思いがひとつの円として完了しました。
そしてその数か月後に目覚め体験が起き、すべての魂は同じものから生じていて、上も下もなく、貴賤もなく、すべての人は尊く偉大な存在だという理解が生じ、それまでの半生が終わったのです。
このストーリーが単なる思い込みなのか、それともそうでないのかは分かりません。
すくなくとも僕の宇宙の中では事実として起きたことであり、実はいまも僕はその人の生まれ変わりだと思っている面があります。
この世での最も大切な気づきは、全体から分離した自己は存在していないということ。
私たちは「ひとつなるもの」の現れなのです。
ところが同時にそこには、各々に備わった何らかの個性もあり、それは生死を超えてあり続けている。
その各々は、それぞれに宇宙を携えていて、宇宙は一つであるのと同時に、無数の様相を示しているのではないか。
そして人は死後、それぞれの宇宙に帰り(実際はひとつのもの)、また現象界に新たな冒険として出てくるのではないかと思うのです。
これがいまの僕が感じる輪廻転生です。
・・・・・・・・
【お知らせ】
「あの世に聞いたこの世の仕組み」の雲 黒斎と
「いまここ」の阿部敏郎による
『阿雲の呼吸』
各地トークライブの詳細はコチラから。
さとうみつろう君と毎年開催している、秋分の日スペシャル。
彼のブログに詳しく紹介されています。
「笑えるスピリチュアル」
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昨日書いた、「宇宙は一つだが、人の数だけある」という発想も、すでに6年前に書かせてもらっていたんですね。
この視点は先日の講演中に初めて自分の中に湧いたインスピレーションだと思っていたので、これも意外でした。
この過去記事にもそのことが分かりやすく書かれているので、時間があったら読んでみてください。
輪廻転生
それじゃ、今日は何を書こうかな。
同じことの繰り返しじゃつまらないし・・・
今日はいままでごく一部の人にしか言ってこなかった、僕の前世(?)について書いてみることにします。
たわいもないストーリーですが、真面目に書いてみます。
もしかしたら、あなたにも思い当たることがあるかもしれないから。
前世の記憶といっても、具体的なエピソードを思い出したわけではありません。
ただ幼少のころから、生まれ落ちた環境に大きな違和感を持っていて、自分はここに生まれてくるはずではなかったのに、なぜこの人生を選んだのだろうかという、子供らしからぬ疑問を持っていました。
人は新しい学びを得るために、自分の人生の条件を選んで生まれてくるという話をする人がいますが、確かにそんな感じがしていました。
これも子供の頃からなのですが、僕の場合は、この世に生きる人たちの苦しみや悲しみを理解し、どの魂も特別なものではなく、みな等しく同じものだということを、身をもって知るために生まれてきたのではないかと感じていました。
そしてなぜか、前世での自分のイメージも持っていて、それは誰にも話せない自分だけの秘密でした。
そのイメージの人は、立場上なのか高慢なところがあり、自分は特別だという思いが強くあったのです。
そんな特別さという心の歪みは、僕の半生で事あるごとに顔を出すのですが、そのたびに、またやっているという思いがしたものです。
それがあるとき、30歳の時でしたが、発売されて間もない一冊の本に出合います。
その本に出てくる、作者の父親の肖像写真を見た時、
「この人だ」
と確信めいた気持ちが湧きました。
目元も、全体的な雰囲気も僕によく似ています。
それもそのはず、その人は僕の血統上の祖父でもあるのですから。
事情があってこれ以上詳しくは書けませんが、その写真を見た瞬間に長年持ち運んできた思いがひとつの円として完了しました。
そしてその数か月後に目覚め体験が起き、すべての魂は同じものから生じていて、上も下もなく、貴賤もなく、すべての人は尊く偉大な存在だという理解が生じ、それまでの半生が終わったのです。
このストーリーが単なる思い込みなのか、それともそうでないのかは分かりません。
すくなくとも僕の宇宙の中では事実として起きたことであり、実はいまも僕はその人の生まれ変わりだと思っている面があります。
この世での最も大切な気づきは、全体から分離した自己は存在していないということ。
私たちは「ひとつなるもの」の現れなのです。
ところが同時にそこには、各々に備わった何らかの個性もあり、それは生死を超えてあり続けている。
その各々は、それぞれに宇宙を携えていて、宇宙は一つであるのと同時に、無数の様相を示しているのではないか。
そして人は死後、それぞれの宇宙に帰り(実際はひとつのもの)、また現象界に新たな冒険として出てくるのではないかと思うのです。
これがいまの僕が感じる輪廻転生です。
・・・・・・・・
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「いまここ」の阿部敏郎による
『阿雲の呼吸』
各地トークライブの詳細はコチラから。
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彼のブログに詳しく紹介されています。
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Posted by Toshiro Abe at
13:30
│Comments(49)
2017年08月28日
輪廻転生
昨日のコメント欄に、いつも以上の感想が寄せられたということは、みなさんに講演を楽しんでもらえたということですね。
講演をするたびに思うことがあります。
それは、中で何が語られたか以上に、同じ時空間を共有することで発生するエネルギーが、その講演の価値になるのではないかということです。
これは壇上の人間と、参加者との共同作業で作り出していくものであり、微力ながらそれをリードするのが自分の役目だと思っています。
コラボ講演が楽しいのは、そこに登場するゲストによって、全く違う香りが漂ってくること。
そしてその人その人の真実に触れることができることです。
真実は一つであると同時に、人の数だけあるというのが僕の見解です。
昨日の対談中に感じたのは、たとえば霊魂であるとか、輪廻転生であるとか、僕の宇宙観には決して登場しないことも、矢作さんの宇宙の中では歴然とした事実だということ。
そのどちらが真実かということに、つい我々は頑なになりがちですが、宇宙が人の数だけあるという観点に立てば、そのどちらもが真実なわけです。
話を分かりやすくさせるためにも、一つの立場からだけ記事を書いてきましたが、宇宙は一つであると同時に、各自に内在し、それぞれに違う様相を表しているというのが、昨日得たインスピレーションです。
したがって宇宙(全体・神)の実相は、人間界のロジックで説明できるようなものではなく、前回も書いたように、人間から見れば相矛盾することが同時に現れている、まことに摩訶不思議なものだということです。
マインドは、右か左かどちらかだと主張します。
分離した個は存在するかしないかのどちらかだというわけです。
真実はその両方だというのは、マインドには受け入れられません。
すべての人は、同じひとつの源の現れであり、我々は究極的にひとつ(ワンネス)だということは、内なる経験として疑いようがなく、揺らぐことはありません。
そのような意味においては、僕はあなたであり、あなたは僕そのものです。
しかし同時に、僕はあなたではありません。
僕は僕であり、あなたはあなたです。
それぞれが同じ宇宙を共有しながら、にもかかわらずその個性によって現れ方も感じ方も違う。
その個性が転生を繰り返しながら、一つの宇宙をより深く豊かなものにしているのかもしれません。
その一方で、いつも「いまここ」しか存在せず、「いまここ」の静寂においては何一つ起きていない。
この真実の中で、深い休息と安らぎを得ることができています。
僕の人生の一部は、この安らぎの中にあります。
瞑想と禅との出会いは、人生が与えてくれた最高のプレゼントでした。
「いまここ」において、すでに誰もがゴールにたどり着いている。
すでに誰もが完璧である。
しかしその完璧さは留まることなく、あらたな冒険を続けている。
そうやって生命は永遠に展開し続けているのでしょう。
永遠の戯れ
いまここ
リーラ
かんながら
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講演をするたびに思うことがあります。
それは、中で何が語られたか以上に、同じ時空間を共有することで発生するエネルギーが、その講演の価値になるのではないかということです。
これは壇上の人間と、参加者との共同作業で作り出していくものであり、微力ながらそれをリードするのが自分の役目だと思っています。
コラボ講演が楽しいのは、そこに登場するゲストによって、全く違う香りが漂ってくること。
そしてその人その人の真実に触れることができることです。
真実は一つであると同時に、人の数だけあるというのが僕の見解です。
昨日の対談中に感じたのは、たとえば霊魂であるとか、輪廻転生であるとか、僕の宇宙観には決して登場しないことも、矢作さんの宇宙の中では歴然とした事実だということ。
そのどちらが真実かということに、つい我々は頑なになりがちですが、宇宙が人の数だけあるという観点に立てば、そのどちらもが真実なわけです。
話を分かりやすくさせるためにも、一つの立場からだけ記事を書いてきましたが、宇宙は一つであると同時に、各自に内在し、それぞれに違う様相を表しているというのが、昨日得たインスピレーションです。
したがって宇宙(全体・神)の実相は、人間界のロジックで説明できるようなものではなく、前回も書いたように、人間から見れば相矛盾することが同時に現れている、まことに摩訶不思議なものだということです。
マインドは、右か左かどちらかだと主張します。
分離した個は存在するかしないかのどちらかだというわけです。
真実はその両方だというのは、マインドには受け入れられません。
すべての人は、同じひとつの源の現れであり、我々は究極的にひとつ(ワンネス)だということは、内なる経験として疑いようがなく、揺らぐことはありません。
そのような意味においては、僕はあなたであり、あなたは僕そのものです。
しかし同時に、僕はあなたではありません。
僕は僕であり、あなたはあなたです。
それぞれが同じ宇宙を共有しながら、にもかかわらずその個性によって現れ方も感じ方も違う。
その個性が転生を繰り返しながら、一つの宇宙をより深く豊かなものにしているのかもしれません。
その一方で、いつも「いまここ」しか存在せず、「いまここ」の静寂においては何一つ起きていない。
この真実の中で、深い休息と安らぎを得ることができています。
僕の人生の一部は、この安らぎの中にあります。
瞑想と禅との出会いは、人生が与えてくれた最高のプレゼントでした。
「いまここ」において、すでに誰もがゴールにたどり着いている。
すでに誰もが完璧である。
しかしその完璧さは留まることなく、あらたな冒険を続けている。
そうやって生命は永遠に展開し続けているのでしょう。
永遠の戯れ
いまここ
リーラ
かんながら
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Posted by Toshiro Abe at
10:50
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2017年08月27日
私は何も知らない
今日は矢作直樹さんとの対談です。
矢作さんは、その著書の中で、霊媒や交霊についても触れています。
唯物論の医学界にあって、大変勇気がいたことと思います。
ワンネスの観点から見れば個人は存在せず、したがって個別霊も存在しませんが、その一方で何が起きてもおかしくはなく、何事もこうだと決めつけられません。
個と全体の関係も、とてつもなく深いものがあり、相矛盾することが同時に起きていて、まことに摩訶不思議。
人間ごときが理解することは絶対にできないもの。
したがって死後に関することはいまも謎であり、これからも永遠に謎のまま残り続けることでしょう。
「私は何も知らない」
結局は誰一人、何も知らないのです。
真実の次元に触れた時、そこにすべての答えがあり(もっと正確に言うとすべての疑問が消える)、これは語りようがない、知りようがないということを知ることでしょう。
人はひとたび特定の答えを得ると、その結論に固執しますが、幼子のようになんの結論も先入観も持たずにいることが、新鮮な驚きに繋がっていくのだと思います。
「私は何も知らない」
ソクラテスが残したと言われるこの言葉は、彼自信が謙遜したわけではなく、有識者を皮肉ったわけでもなく、単なる事実の表明だったのです。
その上で、最終的に行きつくのは、おかげさまの心。
医学を極めた矢作さんも、この心境を語っています。
科学万能主義ともいえる現代で、科学者たちはその観察対象の法則を次々と見つけ出しましたが、「なぜ」そうなっているのかということについては、何一つ答えることが出来ません。
やはり人間は何も知らないのです。
そして、それでいいのだと思います。
何でも知れるという思いこそが人間のうぬぼれではないでしょうか。
今日の対談が楽しみ。
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矢作さんは、その著書の中で、霊媒や交霊についても触れています。
唯物論の医学界にあって、大変勇気がいたことと思います。
ワンネスの観点から見れば個人は存在せず、したがって個別霊も存在しませんが、その一方で何が起きてもおかしくはなく、何事もこうだと決めつけられません。
個と全体の関係も、とてつもなく深いものがあり、相矛盾することが同時に起きていて、まことに摩訶不思議。
人間ごときが理解することは絶対にできないもの。
したがって死後に関することはいまも謎であり、これからも永遠に謎のまま残り続けることでしょう。
「私は何も知らない」
結局は誰一人、何も知らないのです。
真実の次元に触れた時、そこにすべての答えがあり(もっと正確に言うとすべての疑問が消える)、これは語りようがない、知りようがないということを知ることでしょう。
人はひとたび特定の答えを得ると、その結論に固執しますが、幼子のようになんの結論も先入観も持たずにいることが、新鮮な驚きに繋がっていくのだと思います。
「私は何も知らない」
ソクラテスが残したと言われるこの言葉は、彼自信が謙遜したわけではなく、有識者を皮肉ったわけでもなく、単なる事実の表明だったのです。
その上で、最終的に行きつくのは、おかげさまの心。
医学を極めた矢作さんも、この心境を語っています。
科学万能主義ともいえる現代で、科学者たちはその観察対象の法則を次々と見つけ出しましたが、「なぜ」そうなっているのかということについては、何一つ答えることが出来ません。
やはり人間は何も知らないのです。
そして、それでいいのだと思います。
何でも知れるという思いこそが人間のうぬぼれではないでしょうか。
今日の対談が楽しみ。
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Posted by Toshiro Abe at
09:30
│Comments(51)
2017年08月26日
白光
今日の話は解りづらいかもしれません。
李 信さんからの質問
>阿部さん 教えてください。
>思いもしなかった本当の自分の在りようがあって・・・って
>その経験がなければ、根本は つたわらないのでしょうか?
「思いもしなかった本当の自分」は、想像することができません。
人は既知なるものの組み合わせでしか、ものを考えられないからです。
それはまったく違う何かであり、まさに「思いもしなかったもの」
それなのに何故このような話が伝わるかと言えば、まったく見失っているとしても、同時にそれが我々の存在基盤であることに違いないからです。
知りすぎるほど知っているのに、完全に見失ってしまったもの。
それが「思いもしなかった本当の自分」です。
あなたのコメントを読んでいると、これらのことはすでに理解されていると思いますが、あえて書かせてもらいました。
この機会に少し整理しておきたいことがあります。
それは非二元の世界と、宇宙的自己と呼ばれるものが指し示しているものは、必ずしも同じではないということ。
言葉遊びではありませんが、このことについて解説しているものに出合ったことがないので、僕なりに整理してみます。
非二元とは、主体としての自己が消え、全てはいま、ただあるがままにあるという、まことにシンプルな報告です。
自分の内側だと思っていた感覚も、思考も、感情も、外側にあると思っていた物も出来事も、単にいま起きている現象であり、それらはすべて「全体」の表現だというものです。
このとき自分とは、全体から切り離された単独のものではなく、全体そのものになります。
一方で宇宙的自己とは、まったく違う次元の経験であり、言葉で表すことは不可能です。
全体が本当の自分だという点では一致していますが、宇宙的自己とは、とてつもない知性と、ダイナミックなエネルギー、限りない愛と祝福と感謝、そして人間が望んでいるありとあらゆる喜びを無限大にしたような歓びの次元です。
これは確かに存在します。
僕がこの数年間、この次元のことに触れてこなかったのは、いたずらに渇望させてしまわないようにするためです。
今日はそのうえで、お話しさせてください。
この次元は、あえて言えば眩いばかりの白い光の世界。
あらゆる過去も未来もすべてこの中に在り、時間と空間を完全に超えています。
これこそが神であり、神とは客観的な存在ではなく、「神の体験」のことであり、徹底した主観的存在だとわかります。
ここでは体験という言葉を使わざるを得ませんが、これについては慎重になる必要があります。
なぜなら報告される体験は、すべて記憶にすぎず、そもそもそれを体験したのは誰なのかという問題が残るからです。
非二元から見れば、このようなことも単なる思考の現れということになります。
だからと言って、いま述べたような次元が存在しないわけではありません。
なぜ言い切れるかと言えば、この次元には、いま生きているこのリアリティが夢に思えるほどのリアリティがあるからです。
しかし、どこまでいっても主観的な報告に過ぎず、客観的な証明ができないことが、この手の話の限界です。
そして同時に言えるのは、全ての人が存在の最奥でこの次元を共有しているということ。
万物の源であるということ。
インドには7層の身体という考え方があり、その中の涅槃体と宇宙体はあらゆる人間に共有されているとされています。
また一時流行った、五次元とか六次元とかいう表現が、このような説明に有効なのかもしれません。
いずれにせよ我々は、多次元生命体として同時存在しているということは言い切れます。
その中の最も荒い波動である物質次元(三次元)を生きていれば、多くの摩擦に曝され続けるわけで、その結果、魂が磨かれていくという考えはありだと思うようになりました。
個と宇宙的自己との関係を、もっと深く探っていけたらと思っています。
・・・・・・・・・
【お知らせ】
阿雲の呼吸の、大阪、名古屋のお申込み受付が始まりました。
博多もお申し込みを開始しています。
大阪10月7日
名古屋10月8日
博多は9月16日です。
詳細はコチラから 続きを読む
李 信さんからの質問
>阿部さん 教えてください。
>思いもしなかった本当の自分の在りようがあって・・・って
>その経験がなければ、根本は つたわらないのでしょうか?
「思いもしなかった本当の自分」は、想像することができません。
人は既知なるものの組み合わせでしか、ものを考えられないからです。
それはまったく違う何かであり、まさに「思いもしなかったもの」
それなのに何故このような話が伝わるかと言えば、まったく見失っているとしても、同時にそれが我々の存在基盤であることに違いないからです。
知りすぎるほど知っているのに、完全に見失ってしまったもの。
それが「思いもしなかった本当の自分」です。
あなたのコメントを読んでいると、これらのことはすでに理解されていると思いますが、あえて書かせてもらいました。
この機会に少し整理しておきたいことがあります。
それは非二元の世界と、宇宙的自己と呼ばれるものが指し示しているものは、必ずしも同じではないということ。
言葉遊びではありませんが、このことについて解説しているものに出合ったことがないので、僕なりに整理してみます。
非二元とは、主体としての自己が消え、全てはいま、ただあるがままにあるという、まことにシンプルな報告です。
自分の内側だと思っていた感覚も、思考も、感情も、外側にあると思っていた物も出来事も、単にいま起きている現象であり、それらはすべて「全体」の表現だというものです。
このとき自分とは、全体から切り離された単独のものではなく、全体そのものになります。
一方で宇宙的自己とは、まったく違う次元の経験であり、言葉で表すことは不可能です。
全体が本当の自分だという点では一致していますが、宇宙的自己とは、とてつもない知性と、ダイナミックなエネルギー、限りない愛と祝福と感謝、そして人間が望んでいるありとあらゆる喜びを無限大にしたような歓びの次元です。
これは確かに存在します。
僕がこの数年間、この次元のことに触れてこなかったのは、いたずらに渇望させてしまわないようにするためです。
今日はそのうえで、お話しさせてください。
この次元は、あえて言えば眩いばかりの白い光の世界。
あらゆる過去も未来もすべてこの中に在り、時間と空間を完全に超えています。
これこそが神であり、神とは客観的な存在ではなく、「神の体験」のことであり、徹底した主観的存在だとわかります。
ここでは体験という言葉を使わざるを得ませんが、これについては慎重になる必要があります。
なぜなら報告される体験は、すべて記憶にすぎず、そもそもそれを体験したのは誰なのかという問題が残るからです。
非二元から見れば、このようなことも単なる思考の現れということになります。
だからと言って、いま述べたような次元が存在しないわけではありません。
なぜ言い切れるかと言えば、この次元には、いま生きているこのリアリティが夢に思えるほどのリアリティがあるからです。
しかし、どこまでいっても主観的な報告に過ぎず、客観的な証明ができないことが、この手の話の限界です。
そして同時に言えるのは、全ての人が存在の最奥でこの次元を共有しているということ。
万物の源であるということ。
インドには7層の身体という考え方があり、その中の涅槃体と宇宙体はあらゆる人間に共有されているとされています。
また一時流行った、五次元とか六次元とかいう表現が、このような説明に有効なのかもしれません。
いずれにせよ我々は、多次元生命体として同時存在しているということは言い切れます。
その中の最も荒い波動である物質次元(三次元)を生きていれば、多くの摩擦に曝され続けるわけで、その結果、魂が磨かれていくという考えはありだと思うようになりました。
個と宇宙的自己との関係を、もっと深く探っていけたらと思っています。
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Posted by Toshiro Abe at
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2017年08月24日
目覚めと幸せとお金とS・X
すでに究極の真実は明らかで、つたない文章とはいえこのブログでも再三にわたって披露してきました。
人が何を得たとしても、結局のところ自分が全体(宇宙)から切り離された孤児だという感覚がある以上、どこまでいっても何か足りず、お金やSEXや地位やら名誉やら、心の虚無感を満たすために、それらを追い続けることになります。
手に入ったら入ったで、もっと欲しくなるのが欲望の宿命。
むしろ虚しさは拡大するばかり。
外側から見て豊かに見える人は、内側の空虚さをコントラストのように強く感じます。
これは誰か特定の人のことを言っているのではなく、誰しもに起きていることですが、そんなことは社会に公言できません。
せめて成功者としてのイメージを守ることで、やっと生きていられるのですから。
誰も本当のことを言わないから、あの人のようになれたら幸せになるという誤解を与えていますが、実際にはどこまでいっても同じことなのです。
一方で、お金が欲しくても手に入らない、SEXしたくても相手がいないというように、内側の虚無感だけでなく、外側にも欠乏があれば、人生は生きる価値のないただの憂鬱な繰り返しになってしまいます。
成功者がより大きな成功を求めるように、少しでも得たいという渇望はどちらも似たようなものです。
人の幸せは、唯一の真実である「いまここ」に寛ぐことしかありません。
でもここに問題があります。
「いまここ」という言葉は分かるけれど、この言葉が何を指しているかが解っていないのです。
これは思考で理解できることではなく、存在全体としての意識に変容するほかありません。
しかも自力では達成できないし、誰かのパワーによってできることでもない。
それでも真実の情報に出会うことで、人生の目的が根本的に変わり、求道心が芽生える人もいます。
足りないものを外側に追いかける不毛な繰り返しにピリオドを打つ人達です。
自分が信じてきた人生以外に、思いもしなかった本当の自分の在りようがあって、そこにこそ求めていた全てがあるということが、お伝えしたいことの基本です。
さて、このようなメッセージに触れると、いままで求めてきたものを捨て去って新しい道を歩もうという人もいます。
それが本当にしたいことならそれでいいのですが、真実に到達したからといって霞を食べて生きるわけではなく、性欲が消えるわけでもなく、生身の人間としてのあたりまえな欲求は残ります。
目覚めた暁には、それらの欲求が無くなるというのはファンタジーであり、そんなことと真実とはなんの関係もありません。
人のマインドは極端から極端に動こうとするので、ついいままで求めていたものを全否定したくなりますが、それらを克服しようとするのは的外れです。
とはいえ、社会や人生を超えるために、それらの情報と欲求を一切断ち切って修行に励むというのもありなので、ここは一概に言い切れませんが、現代人には馴染まないアプローチだと思っています。
これからも欲しいものは手に入れていけばいい。
皮肉なもので、真実への理解が深まり、がむしゃらに欲しいものを追いかけていた時より、「いまここ」に寛ぎながらやりたいことをやり始めたほうが流れがスムーズになり、いつのまにか外側のニーズは満たされていたりします。
その根底に芽生えているのが、あえて言葉でいえば「愛と感謝」としか呼べないエネルギーです。
愛と感謝こそが幸せの要素なので、欲しいものが手に入ればそれでよし、手に入らなければそれでよしとなり、それが寛ぎに繋がっていくのでしょう。
これが現象界を生きる極意ではないかと思っています。
今日も思うままに書きましたが、こいつはおかしいと思う人はスルーしてくださいね。
阿部という小さな人生を通して発見したことしか伝えられませんが、これからも書きたいことを書き、やりたいことをやっていこうと思います。
傲慢ながら、きっと誰かの役に立つはずだという思いもあります。
最後まで読んでくれてありがとう。
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人が何を得たとしても、結局のところ自分が全体(宇宙)から切り離された孤児だという感覚がある以上、どこまでいっても何か足りず、お金やSEXや地位やら名誉やら、心の虚無感を満たすために、それらを追い続けることになります。
手に入ったら入ったで、もっと欲しくなるのが欲望の宿命。
むしろ虚しさは拡大するばかり。
外側から見て豊かに見える人は、内側の空虚さをコントラストのように強く感じます。
これは誰か特定の人のことを言っているのではなく、誰しもに起きていることですが、そんなことは社会に公言できません。
せめて成功者としてのイメージを守ることで、やっと生きていられるのですから。
誰も本当のことを言わないから、あの人のようになれたら幸せになるという誤解を与えていますが、実際にはどこまでいっても同じことなのです。
一方で、お金が欲しくても手に入らない、SEXしたくても相手がいないというように、内側の虚無感だけでなく、外側にも欠乏があれば、人生は生きる価値のないただの憂鬱な繰り返しになってしまいます。
成功者がより大きな成功を求めるように、少しでも得たいという渇望はどちらも似たようなものです。
人の幸せは、唯一の真実である「いまここ」に寛ぐことしかありません。
でもここに問題があります。
「いまここ」という言葉は分かるけれど、この言葉が何を指しているかが解っていないのです。
これは思考で理解できることではなく、存在全体としての意識に変容するほかありません。
しかも自力では達成できないし、誰かのパワーによってできることでもない。
それでも真実の情報に出会うことで、人生の目的が根本的に変わり、求道心が芽生える人もいます。
足りないものを外側に追いかける不毛な繰り返しにピリオドを打つ人達です。
自分が信じてきた人生以外に、思いもしなかった本当の自分の在りようがあって、そこにこそ求めていた全てがあるということが、お伝えしたいことの基本です。
さて、このようなメッセージに触れると、いままで求めてきたものを捨て去って新しい道を歩もうという人もいます。
それが本当にしたいことならそれでいいのですが、真実に到達したからといって霞を食べて生きるわけではなく、性欲が消えるわけでもなく、生身の人間としてのあたりまえな欲求は残ります。
目覚めた暁には、それらの欲求が無くなるというのはファンタジーであり、そんなことと真実とはなんの関係もありません。
人のマインドは極端から極端に動こうとするので、ついいままで求めていたものを全否定したくなりますが、それらを克服しようとするのは的外れです。
とはいえ、社会や人生を超えるために、それらの情報と欲求を一切断ち切って修行に励むというのもありなので、ここは一概に言い切れませんが、現代人には馴染まないアプローチだと思っています。
これからも欲しいものは手に入れていけばいい。
皮肉なもので、真実への理解が深まり、がむしゃらに欲しいものを追いかけていた時より、「いまここ」に寛ぎながらやりたいことをやり始めたほうが流れがスムーズになり、いつのまにか外側のニーズは満たされていたりします。
その根底に芽生えているのが、あえて言葉でいえば「愛と感謝」としか呼べないエネルギーです。
愛と感謝こそが幸せの要素なので、欲しいものが手に入ればそれでよし、手に入らなければそれでよしとなり、それが寛ぎに繋がっていくのでしょう。
これが現象界を生きる極意ではないかと思っています。
今日も思うままに書きましたが、こいつはおかしいと思う人はスルーしてくださいね。
阿部という小さな人生を通して発見したことしか伝えられませんが、これからも書きたいことを書き、やりたいことをやっていこうと思います。
傲慢ながら、きっと誰かの役に立つはずだという思いもあります。
最後まで読んでくれてありがとう。
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Posted by Toshiro Abe at
11:54
│Comments(65)
2017年08月23日
黙って俺について来い
1964年は東京オリンピックが開催された年。
昔はよかったという人もいるけれど、そこはたいして変わらないと思う。
みんなより良い明日を求めて生きていたのは、いまと同じだ。
あのころすでに究極のメッセージソングが巷で流行っていた。
ある歌が当時小学生だった僕の心を深く打った。
さっきyoutubeで探して聴いてみたら、やっぱりすごい歌だった。
当時の天才たちの作品だ。
音楽をやっていると、評論家たちが、「これは新しい」とか「これは古い」とか言うけれど、そんなことはなんの評論にもならない。
新しくたって、いいものはいいし、駄作は駄作。
古くたって、いいもいはいいし、駄作は駄作。
だからいいものは、時代を超えていいものだ。
今日はあなたと、この歌をわかちあいたい。
♪
銭のないやつぁ 俺んとこに来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ 青い空 白い雲
そ〜のうちなんとか な〜るだ〜ろ〜う〜!!!
人生を振り返ってみるとその通りだった。
今度こそ、どうにもならないと思ったことが何度あったことか。
それがどうだ、いまもこうして何とか生きている。
だから僕は言葉で伝え続けるんだ。
大丈夫!
なんとかなる!
たった2分の曲だから聴いてごらん。
黙って俺について来い
今日も軽く生き切ろうね(^^)
・・・・・・・・・・・・
【これからのお知らせ】
8月27日
矢作直樹&阿部敏郎 東京コラボ講演会
9月16日
雲黒斎&阿部敏郎 「降参のススメ」 博多コラボ講演会
9月23日
秋分の日特別イベント 「宇宙との統合ワークショップ」
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昔はよかったという人もいるけれど、そこはたいして変わらないと思う。
みんなより良い明日を求めて生きていたのは、いまと同じだ。
あのころすでに究極のメッセージソングが巷で流行っていた。
ある歌が当時小学生だった僕の心を深く打った。
さっきyoutubeで探して聴いてみたら、やっぱりすごい歌だった。
当時の天才たちの作品だ。
音楽をやっていると、評論家たちが、「これは新しい」とか「これは古い」とか言うけれど、そんなことはなんの評論にもならない。
新しくたって、いいものはいいし、駄作は駄作。
古くたって、いいもいはいいし、駄作は駄作。
だからいいものは、時代を超えていいものだ。
今日はあなたと、この歌をわかちあいたい。
♪
銭のないやつぁ 俺んとこに来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ 青い空 白い雲
そ〜のうちなんとか な〜るだ〜ろ〜う〜!!!
人生を振り返ってみるとその通りだった。
今度こそ、どうにもならないと思ったことが何度あったことか。
それがどうだ、いまもこうして何とか生きている。
だから僕は言葉で伝え続けるんだ。
大丈夫!
なんとかなる!
たった2分の曲だから聴いてごらん。
黙って俺について来い
今日も軽く生き切ろうね(^^)
・・・・・・・・・・・・
【これからのお知らせ】
8月27日
矢作直樹&阿部敏郎 東京コラボ講演会
9月16日
雲黒斎&阿部敏郎 「降参のススメ」 博多コラボ講演会
9月23日
秋分の日特別イベント 「宇宙との統合ワークショップ」
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Posted by Toshiro Abe at
11:43
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2017年08月22日
お茶でもどうだい
やっぱりこの人生映画は楽しいだけじゃない。
どんな幸せそうに見える人の人生も、よくよく調べてみれば苦難の嵐だったりする。
もしかしたら人は苦しむために生まれてくるのかもしれない。
そう考えると、なぜ苦しむために生まれてくるのかと問いたくなる。
これが喜びと幸せの比率のほうがずっと多ければ、いちいち何故なんて思わない。
喜びはそれ自体で完結しているからね。
ところが苦しみはそうはいかない。
苦しみには意味が必要だ。
そこで一番納得できそうな意味は、人は苦しむことで魂が磨かれ、そうやって徐々に魂の質が高まっていくというもの。
これだったら我慢の支えにできそうだ。
しかも次に生まれ変わったとき、魂が高まった分だけ幸せな条件のもとに生まれ変われるという。
これは少し説得力に欠ける。
傍から見てどんなに条件がよかろうが、最初に書いたようにどんな人の人生も苦難に満ちているからだ。
最高の上流階級だとしてもね。
そうなると最後の手段はこれになる。
魂が最高レベルまで高まれば、輪廻の繰り返しから解脱して、もう二度と苦痛に満ちたこの世に生まれ変わることがなくなるというもの。
ところがこの考え方にも「?」が残ってしまう。
だったら最初から生まれてこなければいいじゃんって。
そこでまた答えが用意される。
魂が高まるためには、この苦しみの世界(二元の世界)に生まれるしかなく、すべては自らが高まるためのシステムなのだと。
僕はこのような話を茶化しているわけじゃない。
この世には、いま実際に苦しみの中にいる人と、苦しみの種を持ち運んでいる人の二種類しかいないので、本気で答えを探りたいだけだ。
すると心の奥から声がする。
森羅万象に内在する意味などありません
すべては全体(神)の戯れ
戯れとは目的を持たないことを言うのです
目的があれば、すべてはそこに向かうための道程になりますが、存在には目的などありません
だからいま
楽しみなさい
祝いなさい
そうすれば、「何故?」という問いかけそのものが消え失せます
やはり、阿部という現象はこの声に動かされているようだ。
だけどさ、全体さんよ。
いままさに苦しんでいる人に、アンタのそのメッセージは届かないよ。
苦しんでいる人に、「その苦しみには意味がない」と言ったところで、なんの解決にもなりゃしない。
こう言いながらも阿部は、全体の言うことが真理だと感じている。
そしてこの声を理解した時、初めて問題の根本が解決されることも知っている。
しかしそれには、細胞の一つひとつで納得するくらいの体感が必要だ。
方便でもいいから、苦しみに耐えられるようなメッセージを発していくのがいいのか。
それとも、すぐには役にたたずとも、究極のメッセージを発していくのがいいのか。
まっ、お茶でもどうだい?(彼方からの声)
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どんな幸せそうに見える人の人生も、よくよく調べてみれば苦難の嵐だったりする。
もしかしたら人は苦しむために生まれてくるのかもしれない。
そう考えると、なぜ苦しむために生まれてくるのかと問いたくなる。
これが喜びと幸せの比率のほうがずっと多ければ、いちいち何故なんて思わない。
喜びはそれ自体で完結しているからね。
ところが苦しみはそうはいかない。
苦しみには意味が必要だ。
そこで一番納得できそうな意味は、人は苦しむことで魂が磨かれ、そうやって徐々に魂の質が高まっていくというもの。
これだったら我慢の支えにできそうだ。
しかも次に生まれ変わったとき、魂が高まった分だけ幸せな条件のもとに生まれ変われるという。
これは少し説得力に欠ける。
傍から見てどんなに条件がよかろうが、最初に書いたようにどんな人の人生も苦難に満ちているからだ。
最高の上流階級だとしてもね。
そうなると最後の手段はこれになる。
魂が最高レベルまで高まれば、輪廻の繰り返しから解脱して、もう二度と苦痛に満ちたこの世に生まれ変わることがなくなるというもの。
ところがこの考え方にも「?」が残ってしまう。
だったら最初から生まれてこなければいいじゃんって。
そこでまた答えが用意される。
魂が高まるためには、この苦しみの世界(二元の世界)に生まれるしかなく、すべては自らが高まるためのシステムなのだと。
僕はこのような話を茶化しているわけじゃない。
この世には、いま実際に苦しみの中にいる人と、苦しみの種を持ち運んでいる人の二種類しかいないので、本気で答えを探りたいだけだ。
すると心の奥から声がする。
森羅万象に内在する意味などありません
すべては全体(神)の戯れ
戯れとは目的を持たないことを言うのです
目的があれば、すべてはそこに向かうための道程になりますが、存在には目的などありません
だからいま
楽しみなさい
祝いなさい
そうすれば、「何故?」という問いかけそのものが消え失せます
やはり、阿部という現象はこの声に動かされているようだ。
だけどさ、全体さんよ。
いままさに苦しんでいる人に、アンタのそのメッセージは届かないよ。
苦しんでいる人に、「その苦しみには意味がない」と言ったところで、なんの解決にもなりゃしない。
こう言いながらも阿部は、全体の言うことが真理だと感じている。
そしてこの声を理解した時、初めて問題の根本が解決されることも知っている。
しかしそれには、細胞の一つひとつで納得するくらいの体感が必要だ。
方便でもいいから、苦しみに耐えられるようなメッセージを発していくのがいいのか。
それとも、すぐには役にたたずとも、究極のメッセージを発していくのがいいのか。
まっ、お茶でもどうだい?(彼方からの声)
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Posted by Toshiro Abe at
10:30
│Comments(106)
2017年08月21日
絶対他力 2
昨日のような話を受け取ってくれる人が沢山いてくれるのは驚きです。
だって昨日の話は、自我にとっては爆弾、しかも瞬殺の爆弾だから。
大昔から伝わってきているにも関わらず、いつの世でも大多数に無視されてきた真実があります。
それがこの時代になって、脳科学や量子物理学など新たな科学的発見として報告されだしました。
いまはまだ社会の側にこの真実を受け入れる準備ができていないので、ほとんど無視されたままですが、いずれはこのことを受け入れるくらいまで人類の知性が高まるのか、あるいは無かったことにしてしまうのか・・・それはわかりません。
わかりませんが、真実は変わりません。
自分には意志と選択の能力があり、それによって周囲をコントロールすることで生き残ってきた。
自分の力によって成果を挙げたこともあったし失敗したこともあった。
これからも注意深くありながら、努力を重ねて人生をあるべき姿に近づけていくのが自分の責務だ。
うまくいくのもいかないのも、自分次第だから。
自分を中心として見ているこの人生観は、ちょうど、地球が宇宙の中心にあり、天体は地球の周りを回っているという天動説に似たところがあります。
一方で昨日お話したことは、その自分は全体の一部であり、事を起こしているのは部分としての自分ではなく、全体そのものだという話です。
自由意志を持った主体としての自己は存在せず、自分の意志さえも全体の思召すままに起きているということ。
まさにコペルニクス的転回ですね。
混沌とした社会の中で、不確かな未来に向かって、間違いを犯さないように前に進もうとするのは、どれほどのストレスでしょう。
このような人生観から解放されることは、どんな成功を与えられるより最高の贈り物です。
この真実を知ったからと言って、すべて全体にお任せして何もしなくなるということではありません。
同じように一番いいと思ったことをやっていくことに変わりありません。
それまでとの違いは、深刻さが消えて気楽さが現れているくらいのことでしょうか。
なにがあっても思召すままに。
やっているのはあなたじゃない。
したがって、結果的には全体にお任せしながら生きるということになります。
それが南無の精神です。
南無阿弥陀仏
南無妙法蓮華経
南無全体
南無宇宙
南無の後に続く言葉の違いに、ムキになることはありません。
大切なのは、徹底した「南無」
心の底からの宇宙への信頼です。
・・・・・・・・・・・
「阿雲の呼吸」、再始動は博多から始まります。
講演タイトルは「降参のススメ」
9月16日15時半開演。
詳細お申し込みはコチラから。
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だって昨日の話は、自我にとっては爆弾、しかも瞬殺の爆弾だから。
大昔から伝わってきているにも関わらず、いつの世でも大多数に無視されてきた真実があります。
それがこの時代になって、脳科学や量子物理学など新たな科学的発見として報告されだしました。
いまはまだ社会の側にこの真実を受け入れる準備ができていないので、ほとんど無視されたままですが、いずれはこのことを受け入れるくらいまで人類の知性が高まるのか、あるいは無かったことにしてしまうのか・・・それはわかりません。
わかりませんが、真実は変わりません。
自分には意志と選択の能力があり、それによって周囲をコントロールすることで生き残ってきた。
自分の力によって成果を挙げたこともあったし失敗したこともあった。
これからも注意深くありながら、努力を重ねて人生をあるべき姿に近づけていくのが自分の責務だ。
うまくいくのもいかないのも、自分次第だから。
自分を中心として見ているこの人生観は、ちょうど、地球が宇宙の中心にあり、天体は地球の周りを回っているという天動説に似たところがあります。
一方で昨日お話したことは、その自分は全体の一部であり、事を起こしているのは部分としての自分ではなく、全体そのものだという話です。
自由意志を持った主体としての自己は存在せず、自分の意志さえも全体の思召すままに起きているということ。
まさにコペルニクス的転回ですね。
混沌とした社会の中で、不確かな未来に向かって、間違いを犯さないように前に進もうとするのは、どれほどのストレスでしょう。
このような人生観から解放されることは、どんな成功を与えられるより最高の贈り物です。
この真実を知ったからと言って、すべて全体にお任せして何もしなくなるということではありません。
同じように一番いいと思ったことをやっていくことに変わりありません。
それまでとの違いは、深刻さが消えて気楽さが現れているくらいのことでしょうか。
なにがあっても思召すままに。
やっているのはあなたじゃない。
したがって、結果的には全体にお任せしながら生きるということになります。
それが南無の精神です。
南無阿弥陀仏
南無妙法蓮華経
南無全体
南無宇宙
南無の後に続く言葉の違いに、ムキになることはありません。
大切なのは、徹底した「南無」
心の底からの宇宙への信頼です。
・・・・・・・・・・・
「阿雲の呼吸」、再始動は博多から始まります。
講演タイトルは「降参のススメ」
9月16日15時半開演。
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Posted by Toshiro Abe at
12:51
│Comments(29)
2017年08月20日
絶対他力
何かの拍子に、特定の人を好きになるのは何故でしょう。
好きだと思った理由は後からいくらでも出てくるけれど、理詰めで好きになるわけじゃない。
一目会ったとき、ビビビときたって話があるけれど、ビビビはどこから湧いてきたのか。
あるいは、何かしたくなったり、急にどこかに行きたくなったり、何故そうしたいと思ったのだろう。
自分が決めていると言うかもしれないけれど、あらゆる衝動は自分が選択する前に出ているのではないだろうか。
何気ない日々の行動も同じで、いちいち自分が決めて行動しているわけじゃなく、よくよく観察してみれば、その衝動や思考も含めて、ほとんどは無意識に起きていることが分かる。
じゃ、誰がやっているのか。
何ごとも自分の選択の結果だという教えにすっかり馴染んできたから、こういう話はばかばかしく見えるかもしれないけれど、もし納得できたら人生観は逆転してしまう。
人生をコントロールしている「主体的な自己」は存在しないという説は、ある一面で危険ではあるけれど、根本的な救いに繋がる話でもあります。
いま「説」と書いたけれど、これは僕の根底にいつも流れている真実です。
違う生き方をしたいと思ってもできない人がいるでしょ?
そういうのって、本人の意志が弱いからとかいう話になるけれど、もし意志によって生き方が変わり、理想の自分になれるなら、すでに多くの人はそれを実現していると思う。
でもそうはならない場合のほうが多いよね。
だって起きることしか起きないんだから。
このことを受け入れると、あなたに対して辛辣な言葉を投げた人のことも、理不尽な扱いをした人のことも、違う見方ができるようになる。
だって、その人がやっているわけじゃないんだから。
そのことを知っていたからこそ、イエスは
「罪を憎んで人を憎まず」
と言ったんじゃないだろうか。
人のことはともかく、自分に対しても同じこと。
あの時、なんであんなことをしてしまったのか。
なんであんな考え方しかできなかったのか。
なぜ私はいつもこうなのか
それはね、そのように事が起きているからだよ。
投げやりで言うのではなく、事実として、「起きることだけが起きている」
そもそもやっているのは、あなたじゃない。
そう思えば、人のことだけでなく、自分にも優しくしてあげられるでしょ?
今日もいい日でありますように。
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好きだと思った理由は後からいくらでも出てくるけれど、理詰めで好きになるわけじゃない。
一目会ったとき、ビビビときたって話があるけれど、ビビビはどこから湧いてきたのか。
あるいは、何かしたくなったり、急にどこかに行きたくなったり、何故そうしたいと思ったのだろう。
自分が決めていると言うかもしれないけれど、あらゆる衝動は自分が選択する前に出ているのではないだろうか。
何気ない日々の行動も同じで、いちいち自分が決めて行動しているわけじゃなく、よくよく観察してみれば、その衝動や思考も含めて、ほとんどは無意識に起きていることが分かる。
じゃ、誰がやっているのか。
何ごとも自分の選択の結果だという教えにすっかり馴染んできたから、こういう話はばかばかしく見えるかもしれないけれど、もし納得できたら人生観は逆転してしまう。
人生をコントロールしている「主体的な自己」は存在しないという説は、ある一面で危険ではあるけれど、根本的な救いに繋がる話でもあります。
いま「説」と書いたけれど、これは僕の根底にいつも流れている真実です。
違う生き方をしたいと思ってもできない人がいるでしょ?
そういうのって、本人の意志が弱いからとかいう話になるけれど、もし意志によって生き方が変わり、理想の自分になれるなら、すでに多くの人はそれを実現していると思う。
でもそうはならない場合のほうが多いよね。
だって起きることしか起きないんだから。
このことを受け入れると、あなたに対して辛辣な言葉を投げた人のことも、理不尽な扱いをした人のことも、違う見方ができるようになる。
だって、その人がやっているわけじゃないんだから。
そのことを知っていたからこそ、イエスは
「罪を憎んで人を憎まず」
と言ったんじゃないだろうか。
人のことはともかく、自分に対しても同じこと。
あの時、なんであんなことをしてしまったのか。
なんであんな考え方しかできなかったのか。
なぜ私はいつもこうなのか
それはね、そのように事が起きているからだよ。
投げやりで言うのではなく、事実として、「起きることだけが起きている」
そもそもやっているのは、あなたじゃない。
そう思えば、人のことだけでなく、自分にも優しくしてあげられるでしょ?
今日もいい日でありますように。
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Posted by Toshiro Abe at
10:09
│Comments(54)
2017年08月19日
阿部からのお願い
今日はこのブログのコメント欄について、僕の希望を書いておきます。
常時コメントをする人の数は千人に一人の割合であり、その人達がこのブログを代表しているわけではありません。
できたら、このコメント欄には、その日の記事が自分にどう役立ったのか、あるいは役立てたいかを書いてくれると張り合いがあります。
特定の人同士のやりとりや、ご自分の考えの発表は、どなたかが代表でブログを作ってそこで展開するか、自分たちでコミュニティを作ってもらえたらありがたいです。
いきなりそれらのコメントのすべてを非掲載にするのも問題があると思い、こうしてお願いすることにしました。
ここは僕自身にとっても、そしてこのブログからインスピレーションを得たり、心の休息を求める人にとって大切な場です。
結果的にコメント数が、一日に数個になってもいいと思っています。
たとえお花畑だろうと、ここはそんな安らぎの場でありたいと思います。
ご理解のほど、よろしくお願いします。
・・・・・・・・・
【お知らせ】
いまも阿雲(阿部敏郎と雲黒斎)の話を聞きたいという人がいてくれるので、二人でまたブログを作ろうと思っています。
以前二人のDVDが、TSUTAYA貸し出しのビジネス部門で、全国一位になったと聞きましたが、なぜビジネス部門なのかは謎だとしても、二人にしか表せない世界があると自負しています。
そんなこんなで新しいブログも楽しんでくださいね。
9月16日は、5年ぶりに二人で博多に伺います。
お時間がある方はいらしてください。
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常時コメントをする人の数は千人に一人の割合であり、その人達がこのブログを代表しているわけではありません。
できたら、このコメント欄には、その日の記事が自分にどう役立ったのか、あるいは役立てたいかを書いてくれると張り合いがあります。
特定の人同士のやりとりや、ご自分の考えの発表は、どなたかが代表でブログを作ってそこで展開するか、自分たちでコミュニティを作ってもらえたらありがたいです。
いきなりそれらのコメントのすべてを非掲載にするのも問題があると思い、こうしてお願いすることにしました。
ここは僕自身にとっても、そしてこのブログからインスピレーションを得たり、心の休息を求める人にとって大切な場です。
結果的にコメント数が、一日に数個になってもいいと思っています。
たとえお花畑だろうと、ここはそんな安らぎの場でありたいと思います。
ご理解のほど、よろしくお願いします。
・・・・・・・・・
【お知らせ】
いまも阿雲(阿部敏郎と雲黒斎)の話を聞きたいという人がいてくれるので、二人でまたブログを作ろうと思っています。
以前二人のDVDが、TSUTAYA貸し出しのビジネス部門で、全国一位になったと聞きましたが、なぜビジネス部門なのかは謎だとしても、二人にしか表せない世界があると自負しています。
そんなこんなで新しいブログも楽しんでくださいね。
9月16日は、5年ぶりに二人で博多に伺います。
お時間がある方はいらしてください。
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Posted by Toshiro Abe at
11:43
│Comments(66)
2017年08月17日
「頑張れ!」と「頑張らなくていい」について
今年の夏は、
しに暑いばーよー
これね、沖縄では「もの凄く暑い」っていう意味。
こんなに暑い夏は、引っ越してきてから初めてかも。
そういえば僕らが子供のころは、運動中にどんなに汗をかいても水は飲むなって言われたよね。
水を飲むと疲れてしまうからって。
いまは水をどんどん飲むように奨励されている。
たぶん、どちらにも一理あるんだと思う。
メッセージの目的と、それが誰に向けられたかで変わるんだろうね。
20年くらい前から、「頑張らなくていい」というメッセージが盛んに言われ出したけれど、これなんかは高度成長時代への反動もあった。
昔は、頑張るということ以外の価値観はなかったし、頑張らないと怠け者とかズルいとかいうレッテルを張られたよね。
いま思ったけれど、「頑張らなくていい」というメッセージを発する人って、自分がたくさん頑張ってきたか、あるいはいまも頑張っている人に多いのかも。
僕なんか、子供のころから怠け者だったから、「頑張らなくてもいい」なんて言葉は出てこない。
むしろ、「やるときゃやれ!」って言いたくなる。
あはは、メッセージって自分に言っているよね。
もう一つ言えるのは、頑張るという言葉が意味しているもの。
たとえば好きなことをしている時は、時間を忘れて熱中していて、それを傍から見れば頑張っているみたいに見えるけれど、本人はそんな気はさらさらない。
僕なんか一日中瞑想していられるし、それを修業と捉えて頑張る人から見れば、僕は相当な頑張り屋ということになる。
できたらそう見られたい(^^)
さっきも書いように、メッセージって、どんな人にどんな目的で発しているかによって変わるわけで、
自己犠牲的に頑張りすぎている人には
「頑張らなくていい」と伝えるだろうし
何ごとにも投げやりの人には、
「もっと頑張れ」と伝える。
昔の覚者のメッセージも同じで、記録されたメッセージは当時その覚者の目の前にいた人に発しているから、全ての時代の全ての人に当てはまるとは限らない。
それが宗教になってしまうと、「〜すべき」とか「〜するな」とかを頑なに守ろうとする人がいて、それに反する人を攻撃したりする。
これが原理主義の危ういところ。
頑張ってもいいし、頑張らなくてもいい。
偶像を崇めてもいいし、排除してもいい。
お祈りの仕方も一つじゃなくて、心がこもっていれば何でもいい。
何ごともほどほどが丁度いい。
だから正しさを押し付けるのは好きじゃないわけで。
要するに、他者の意見より、自分の感性を信じて生きるのがいいと思います。
今日も柔らかい気持ちで生きようね。
・・・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
9月2日の東京瞑想伝授は残りわずか。
9月16日の博多伝授は今年最後になります。
一クラス10名様です。
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しに暑いばーよー
これね、沖縄では「もの凄く暑い」っていう意味。
こんなに暑い夏は、引っ越してきてから初めてかも。
そういえば僕らが子供のころは、運動中にどんなに汗をかいても水は飲むなって言われたよね。
水を飲むと疲れてしまうからって。
いまは水をどんどん飲むように奨励されている。
たぶん、どちらにも一理あるんだと思う。
メッセージの目的と、それが誰に向けられたかで変わるんだろうね。
20年くらい前から、「頑張らなくていい」というメッセージが盛んに言われ出したけれど、これなんかは高度成長時代への反動もあった。
昔は、頑張るということ以外の価値観はなかったし、頑張らないと怠け者とかズルいとかいうレッテルを張られたよね。
いま思ったけれど、「頑張らなくていい」というメッセージを発する人って、自分がたくさん頑張ってきたか、あるいはいまも頑張っている人に多いのかも。
僕なんか、子供のころから怠け者だったから、「頑張らなくてもいい」なんて言葉は出てこない。
むしろ、「やるときゃやれ!」って言いたくなる。
あはは、メッセージって自分に言っているよね。
もう一つ言えるのは、頑張るという言葉が意味しているもの。
たとえば好きなことをしている時は、時間を忘れて熱中していて、それを傍から見れば頑張っているみたいに見えるけれど、本人はそんな気はさらさらない。
僕なんか一日中瞑想していられるし、それを修業と捉えて頑張る人から見れば、僕は相当な頑張り屋ということになる。
できたらそう見られたい(^^)
さっきも書いように、メッセージって、どんな人にどんな目的で発しているかによって変わるわけで、
自己犠牲的に頑張りすぎている人には
「頑張らなくていい」と伝えるだろうし
何ごとにも投げやりの人には、
「もっと頑張れ」と伝える。
昔の覚者のメッセージも同じで、記録されたメッセージは当時その覚者の目の前にいた人に発しているから、全ての時代の全ての人に当てはまるとは限らない。
それが宗教になってしまうと、「〜すべき」とか「〜するな」とかを頑なに守ろうとする人がいて、それに反する人を攻撃したりする。
これが原理主義の危ういところ。
頑張ってもいいし、頑張らなくてもいい。
偶像を崇めてもいいし、排除してもいい。
お祈りの仕方も一つじゃなくて、心がこもっていれば何でもいい。
何ごともほどほどが丁度いい。
だから正しさを押し付けるのは好きじゃないわけで。
要するに、他者の意見より、自分の感性を信じて生きるのがいいと思います。
今日も柔らかい気持ちで生きようね。
・・・・・・・・・・・・・
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9月16日の博多伝授は今年最後になります。
一クラス10名様です。
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Posted by Toshiro Abe at
11:55
│Comments(131)
2017年08月16日
見せかけの防衛機能
いまのままで完璧だとかOKだとか言われても、なかなかそう思えないのはなぜでしょう。
その原因は、心身全体を覆っている慢性的な不快感です。
程度の差こそあれ、だれもがこの状態にあります。
ずっとこの状態が続いているので、普段はいちいち不快感を認識することはありません。
ずっと不快のままだと、それがあたりまえになってしまうのです。
この慢性的不快感の正体は、ある種の抵抗と緊張のようなもの。
絶え間なく自分を守ろうとしている防衛機能です。
無意識に、何か悪いことが起きないように見張っているこの緊張は、一人になったときでも続いています。
心の壁のようなものと言ってもいいでしょう。
これを解いていくのは簡単ではありません。
自分が危険にさらされるような恐怖を覚えるからです。
実は、この緊張と収縮と抵抗こそが「自分」という幻想の元です。
だから緊張が完全に解けてしまうと自分が消えてしまうような気がします。
この緊張のおかげでいままで生き残ってきたと信じているので、おいそれと手放すことはできません。
さらには、幼少のころから溜め込んできた様々な心の傷も、この防衛機能を強化する役目をしています。
奨励している瞑想は、これらの抜本的な解決に取り組む道です。
理屈ではなく、ただ力を抜いてみようというわけです。
最初のうちは、溜め込んできた様々な感情が表面に出てくることがあります。
気持ちよくなるために瞑想を始めたのに、真逆のことが起きていると考える人もいますが、このような作用はお掃除であり、実際には上手く行っているのです。
こうして力を抜くことで、自分の本質に近づいていくことになります。
その本質において、いまのままで完璧だという言葉が真実であることを知るでしょう。
先ほど、瞑想教師育成トレーニングに参加している女性たちと話をして、このことを皆さんにも伝えたいと思いました。
・・・・・・・
秋分の日のイベントの宿泊コースは受付を終了しました。
当日の本番は、実に興味深い体験をしてもらえると思うので、ご都合がつく方はいらしてください。
詳細はコチラ。
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その原因は、心身全体を覆っている慢性的な不快感です。
程度の差こそあれ、だれもがこの状態にあります。
ずっとこの状態が続いているので、普段はいちいち不快感を認識することはありません。
ずっと不快のままだと、それがあたりまえになってしまうのです。
この慢性的不快感の正体は、ある種の抵抗と緊張のようなもの。
絶え間なく自分を守ろうとしている防衛機能です。
無意識に、何か悪いことが起きないように見張っているこの緊張は、一人になったときでも続いています。
心の壁のようなものと言ってもいいでしょう。
これを解いていくのは簡単ではありません。
自分が危険にさらされるような恐怖を覚えるからです。
実は、この緊張と収縮と抵抗こそが「自分」という幻想の元です。
だから緊張が完全に解けてしまうと自分が消えてしまうような気がします。
この緊張のおかげでいままで生き残ってきたと信じているので、おいそれと手放すことはできません。
さらには、幼少のころから溜め込んできた様々な心の傷も、この防衛機能を強化する役目をしています。
奨励している瞑想は、これらの抜本的な解決に取り組む道です。
理屈ではなく、ただ力を抜いてみようというわけです。
最初のうちは、溜め込んできた様々な感情が表面に出てくることがあります。
気持ちよくなるために瞑想を始めたのに、真逆のことが起きていると考える人もいますが、このような作用はお掃除であり、実際には上手く行っているのです。
こうして力を抜くことで、自分の本質に近づいていくことになります。
その本質において、いまのままで完璧だという言葉が真実であることを知るでしょう。
先ほど、瞑想教師育成トレーニングに参加している女性たちと話をして、このことを皆さんにも伝えたいと思いました。
・・・・・・・
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当日の本番は、実に興味深い体験をしてもらえると思うので、ご都合がつく方はいらしてください。
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Posted by Toshiro Abe at
12:29
│Comments(27)
2017年08月15日
お悩み専用スペース
人の心の中には、お悩み専用スペースがあるのを知っていますか。
そのスペースの中身は、抱えているトラブルだったり、お金の問題だったり、仕事が思うように順調ではなかったり、様々です。
それらの問題が解決すれば悩みから解放されて、清々しい人生が始まっていくはずだと信じているので、四六時中それらを考え続けることになります。
ところがその問題が解決すると、それまでは表面化していなかった新しい悩みが登場します。
お悩み専用のスペースは、空っぽではいられない性質を持っているからです。
このことを本当に理解している人は僅かで、頭で分かっていても、結局はこの問題さえ解決すればという生き方になってしまいがちです。
もちろん、問題に取り組んで、より良くしていこうとするのはOKなのですが、その問題が解決するまでは幸せになれないと思ってしまっているところに本当の問題があります。
お悩み専用のスペースがある限り、どこまでも永遠に幸せを先延ばしすることになるからね。
というわけで、いまから話す言葉は、瞬時に抵抗したくなるかもしれません。
でも真実なので、耳の穴かっぽじってよく聞いてください。
それではお伝えします。
人生はこれ以上よくならない!!
以上!!
あはは、どう思いましたか。
夢も希望もない言葉だから一般受けしないのはもちろん、極論だとばかりに無視するかもしれません。
でもね、もしあなたがこの言葉を受け入れることができたら、あなたの人生への最高の贈り物になります。
その時初めて、いまを生きるということが容易くなります。
いつか解決した暁にはというストーリーがなくなるから。
それにね、力が抜けて、けっこういい気分になるんですよ。
そんな気分で、やるべきことに取り組んでいけばいいだけのこと。
皮肉なことに人生がスムーズになっていきます。
さて、そんな専用スペースをいったん脇に置いて、取りあえず楽しくやろうぜと、来月は毎年恒例のスペシャルイベントがあります。
さとうみつろう君と毎年開催している秋分の日イベント。
今年は東京と大阪の真ん中、浜松で行います。
最高の一日になると思うので、参加ご希望の方はコチラから詳細をご覧ください
また前日には前夜祭パーティーが、そして明け方5時の秋分点には、一緒に瞑想する企画もあります。
こちらは少人数制の宿泊コースです。
人数に限りがありますのでお早めにお申し込みください。
詳細は同じくコチラから。
普段は忘れがちですが、人生を謳歌できる僕たちは本当に果報者ですね。
こうして平和を享受できるのも、いまの時代の礎になった先人たちがいればこそ。
先の大戦で亡くなられた全ての御霊に、感謝と哀悼の意を捧げます。
続きを読む
そのスペースの中身は、抱えているトラブルだったり、お金の問題だったり、仕事が思うように順調ではなかったり、様々です。
それらの問題が解決すれば悩みから解放されて、清々しい人生が始まっていくはずだと信じているので、四六時中それらを考え続けることになります。
ところがその問題が解決すると、それまでは表面化していなかった新しい悩みが登場します。
お悩み専用のスペースは、空っぽではいられない性質を持っているからです。
このことを本当に理解している人は僅かで、頭で分かっていても、結局はこの問題さえ解決すればという生き方になってしまいがちです。
もちろん、問題に取り組んで、より良くしていこうとするのはOKなのですが、その問題が解決するまでは幸せになれないと思ってしまっているところに本当の問題があります。
お悩み専用のスペースがある限り、どこまでも永遠に幸せを先延ばしすることになるからね。
というわけで、いまから話す言葉は、瞬時に抵抗したくなるかもしれません。
でも真実なので、耳の穴かっぽじってよく聞いてください。
それではお伝えします。
人生はこれ以上よくならない!!
以上!!
あはは、どう思いましたか。
夢も希望もない言葉だから一般受けしないのはもちろん、極論だとばかりに無視するかもしれません。
でもね、もしあなたがこの言葉を受け入れることができたら、あなたの人生への最高の贈り物になります。
その時初めて、いまを生きるということが容易くなります。
いつか解決した暁にはというストーリーがなくなるから。
それにね、力が抜けて、けっこういい気分になるんですよ。
そんな気分で、やるべきことに取り組んでいけばいいだけのこと。
皮肉なことに人生がスムーズになっていきます。
さて、そんな専用スペースをいったん脇に置いて、取りあえず楽しくやろうぜと、来月は毎年恒例のスペシャルイベントがあります。
さとうみつろう君と毎年開催している秋分の日イベント。
今年は東京と大阪の真ん中、浜松で行います。
最高の一日になると思うので、参加ご希望の方はコチラから詳細をご覧ください
また前日には前夜祭パーティーが、そして明け方5時の秋分点には、一緒に瞑想する企画もあります。
こちらは少人数制の宿泊コースです。
人数に限りがありますのでお早めにお申し込みください。
詳細は同じくコチラから。
普段は忘れがちですが、人生を謳歌できる僕たちは本当に果報者ですね。
こうして平和を享受できるのも、いまの時代の礎になった先人たちがいればこそ。
先の大戦で亡くなられた全ての御霊に、感謝と哀悼の意を捧げます。
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Posted by Toshiro Abe at
11:42
│Comments(73)
2017年08月14日
ほんの少しの気づきと生きる
いまはお盆休みの方も多いでしょうね。
昔は、何かをしなければ一日が無駄になるとばかりに、あちこち出かけたものです。
何もしない日があると、こんなんでいいのだろうかと後悔したりね。
現在は何をしていても、しなくても、まさにいまどんな自分が表現されているかが、より重要なことになりました。
まさにいま
リラックスしているのか、力が入っているのか、
まさにいま
優しい気持ちでいるのか、何かを裁いているのか、
まさにいま
いまにいるのか、頭の中の世界にいるのか
立ち止まって、いまの状態に気づくことは、とても大切なことだと思います。
何かの問題や、理不尽な出来事が頭を離れないことってありませんか。
そういう時は、「いま」を見失って、想像上のストーリーの中にいます。
うっかりすると、何時間も何日間もその世界に暮らすことになります。
でもね、そんな時でさえ、いまに帰ることは簡単なんです。
というのも、「そのような思考がいま湧いている」という単純な事実に気づくだけだから。
ところがたいていの場合は、その思考の内容に囚われてしまいます。
たとえ苦しいストーリーでも魅惑的なのです。
ですから、内容に埋没する瞬間に、いま思考が湧いているという単純な事実に気づいてみるのです。
実際に起きているのは、「いまそのような思考が湧いた」ということだけであり、その内容ではありません。
その気づきが、いまここに連れ戻してくれます。
ほんのちょっとの気づきがあれば、人生の風味は大きく変わっていきますよ。
日々是好日
・・・・・・・・・・・
先日ご紹介した方広寺接心は満員のためお申し込みを終了しました。
またの機会にいらしてくださいね。
さとうみつろう君と毎年開催している秋分の日のスペシャルイベントは、前夜祭も含めて明日からお申し込みを開始します。
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昔は、何かをしなければ一日が無駄になるとばかりに、あちこち出かけたものです。
何もしない日があると、こんなんでいいのだろうかと後悔したりね。
現在は何をしていても、しなくても、まさにいまどんな自分が表現されているかが、より重要なことになりました。
まさにいま
リラックスしているのか、力が入っているのか、
まさにいま
優しい気持ちでいるのか、何かを裁いているのか、
まさにいま
いまにいるのか、頭の中の世界にいるのか
立ち止まって、いまの状態に気づくことは、とても大切なことだと思います。
何かの問題や、理不尽な出来事が頭を離れないことってありませんか。
そういう時は、「いま」を見失って、想像上のストーリーの中にいます。
うっかりすると、何時間も何日間もその世界に暮らすことになります。
でもね、そんな時でさえ、いまに帰ることは簡単なんです。
というのも、「そのような思考がいま湧いている」という単純な事実に気づくだけだから。
ところがたいていの場合は、その思考の内容に囚われてしまいます。
たとえ苦しいストーリーでも魅惑的なのです。
ですから、内容に埋没する瞬間に、いま思考が湧いているという単純な事実に気づいてみるのです。
実際に起きているのは、「いまそのような思考が湧いた」ということだけであり、その内容ではありません。
その気づきが、いまここに連れ戻してくれます。
ほんのちょっとの気づきがあれば、人生の風味は大きく変わっていきますよ。
日々是好日
・・・・・・・・・・・
先日ご紹介した方広寺接心は満員のためお申し込みを終了しました。
またの機会にいらしてくださいね。
さとうみつろう君と毎年開催している秋分の日のスペシャルイベントは、前夜祭も含めて明日からお申し込みを開始します。
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Posted by Toshiro Abe at
15:39
│Comments(50)
2017年08月13日
「悟り」って、悟っていないと思っている人の言葉
Mondogurosu
>講演を聞くことは、悟りに関して有用と思われますか?
>情報として悟りに纏わる色々を知識として入れても、なんら本質は変わらないと、長年の経験から思います。
>自分では、若干なりとも悟りに近づけたのは禅を実践しだしてからです。
>講演を聞いても、知識と悟りたいという欲望ばかりが大きくなるばかりで、かえって悟りから遠ざかると思います。
言いたいことはよく分かります。
確かに正しい情報を得たとしても、そのことが悟りに繋がるわけではありません。
だからと言ってそれらの情報が無意味ということでもありません。
あなたが目覚めた時、それまでに学んだ言葉たちが一斉に命を吹き返し、その境地がまぎれもない真実だということを証明してくれるでしょう。
そして気づきを豊かにしてくれます。
さてここからは、もう一歩踏み込んだ話をしましょう。
何度も言ってきたことですが、悟りというものは、悟っていないと思っている人の言葉であって、実際は全ての存在は最初から悟りの中にあります。
もの心ついてからの長年の習慣で、「分離した自己という錯覚」と同化してしまい、悟っていないという夢を見ているだけです。
このことが理解できる人に先ほどの説明をするとしたら、説明自体が変わってきます。
講演を聞いたり、本を読んだり、特定の修業をしたり、経典を学んだりすることの全ては夢の中の出来事だということ。
何故言い切れるかといえば、それらをやっている自己そのものが夢だからです。
そして悟り(自己という錯覚からの目覚め)は、何かをした結果起きることではありません。
ふいに訪れる、突然変異のようなものです。
もし確実に目覚めに誘われる方法が存在していたら、人類はもっと早く目覚めていたことでしょう。
でもそういうことは起きません。
繰り返しますが、その方法を実践している人自体が夢だからです。
夢の中のあなたが、夢から覚めるためにあらゆることをしても、夢が強化されるだけだというのは分かりますか。
夢から覚めるのは、夢の登場人物ではなく、夢を見ているその人です。
では誰が夢を見ているのか。
あえて言うなら、全体が自己という夢を見ています。
したがって夢から覚める(悟る)のは、あなたではなく全体です。
>自分では、若干なりとも悟りに近づけたのは禅を実践しだしてからです。
いま述べたように、悟る手段としての実践はあり得ませんが、本当の禅の実践は、そのまま悟りそのものです。
これは禅寺で修行僧を導く立場の者であれば同意してくれると思いますが、修業とは悟るためのものではなく、実際に悟りを生きるためのものです。
このことはマインドには理解できません。
マインドは過去や未来をリアルなものとしているので、いつの日か、いま以上の自分になれると信じていて、そのための修業を生き甲斐とします。
そのことが駄目だと言っているのではないですよ。
あらゆる経験をするためにこうして生きているのですから、なんでも思ったことをやったらいいのです。
然るべき時が来たら、芽が出て花が咲きます。
それは起きることであって、自己が起こすことではありません。
身もふたもない話でしたが、それでも真実の情報に触れ続けることは大切です。
坐禅や瞑想の実践も続けたらいいと思います。
坐禅も瞑想も、自己がやる行為ではなく、全体によって為されるものなので、それそのものが無自己と言えます。
そこに、本当の自分の香りが漂ってくることでしょう。
美容にもいいですよ。
おっ、いまグッと掴んだかも(笑)
さて頂いたコメントですが、昨日の深夜に頂いていた分を、間違って消去してしまいました。
謝ろうと思っていたら、いったんコメントを開いたページが残っていて、そのページを更新すると消えてしまうために、コピーして新たにコメント欄にペーストしました。
そんなわけで、いくつかのコメントが今朝の7時50分に同時にアップされています。
他意はありませんので、ご了承ください。
そう言えば2年前にも同じことがあって、その時も同じように処理したのですが、不具合で僕の名前でアップされてしまい、自作自演だと騒がれました。
そんなこともあって躊躇したのですが、今回はサイト自体が変わったからか、ちゃんとできました(^^)
それにしても阿部という男は、執拗に攻撃対象になりますね(笑)
これも不徳とカルマの現れなのでしょう。
僕自身は何を言われてもいいのですが、僕にシンパシーを持つ人が切ない思いをするのではと、そのことは気になります。
そんなこんなでいろいろありますが、よろしくお願いします。
・・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
恒例の秋分の日の瞑想会。
今回は9月23日に浜松で行います。
会場でのイベントは昼の12時からですが、今年の秋分点は早朝5時なので、その時間に少数の人だけで瞑想会をします。
場所はホテルオークラ浜松のインペリアルスイートルームで150平米もある超豪華な部屋。
参加者のみなさんも前日から同ホテルに宿泊していただきます。
明日また詳細をお知らせしますので、年に一度のイベントを一緒に楽しんでくれる人はお早めにお申し込みください。
今年もいつものメンバー(僕と、智子さんと、さとうみつろう君)がお相手します。
続きを読む
>講演を聞くことは、悟りに関して有用と思われますか?
>情報として悟りに纏わる色々を知識として入れても、なんら本質は変わらないと、長年の経験から思います。
>自分では、若干なりとも悟りに近づけたのは禅を実践しだしてからです。
>講演を聞いても、知識と悟りたいという欲望ばかりが大きくなるばかりで、かえって悟りから遠ざかると思います。
言いたいことはよく分かります。
確かに正しい情報を得たとしても、そのことが悟りに繋がるわけではありません。
だからと言ってそれらの情報が無意味ということでもありません。
あなたが目覚めた時、それまでに学んだ言葉たちが一斉に命を吹き返し、その境地がまぎれもない真実だということを証明してくれるでしょう。
そして気づきを豊かにしてくれます。
さてここからは、もう一歩踏み込んだ話をしましょう。
何度も言ってきたことですが、悟りというものは、悟っていないと思っている人の言葉であって、実際は全ての存在は最初から悟りの中にあります。
もの心ついてからの長年の習慣で、「分離した自己という錯覚」と同化してしまい、悟っていないという夢を見ているだけです。
このことが理解できる人に先ほどの説明をするとしたら、説明自体が変わってきます。
講演を聞いたり、本を読んだり、特定の修業をしたり、経典を学んだりすることの全ては夢の中の出来事だということ。
何故言い切れるかといえば、それらをやっている自己そのものが夢だからです。
そして悟り(自己という錯覚からの目覚め)は、何かをした結果起きることではありません。
ふいに訪れる、突然変異のようなものです。
もし確実に目覚めに誘われる方法が存在していたら、人類はもっと早く目覚めていたことでしょう。
でもそういうことは起きません。
繰り返しますが、その方法を実践している人自体が夢だからです。
夢の中のあなたが、夢から覚めるためにあらゆることをしても、夢が強化されるだけだというのは分かりますか。
夢から覚めるのは、夢の登場人物ではなく、夢を見ているその人です。
では誰が夢を見ているのか。
あえて言うなら、全体が自己という夢を見ています。
したがって夢から覚める(悟る)のは、あなたではなく全体です。
>自分では、若干なりとも悟りに近づけたのは禅を実践しだしてからです。
いま述べたように、悟る手段としての実践はあり得ませんが、本当の禅の実践は、そのまま悟りそのものです。
これは禅寺で修行僧を導く立場の者であれば同意してくれると思いますが、修業とは悟るためのものではなく、実際に悟りを生きるためのものです。
このことはマインドには理解できません。
マインドは過去や未来をリアルなものとしているので、いつの日か、いま以上の自分になれると信じていて、そのための修業を生き甲斐とします。
そのことが駄目だと言っているのではないですよ。
あらゆる経験をするためにこうして生きているのですから、なんでも思ったことをやったらいいのです。
然るべき時が来たら、芽が出て花が咲きます。
それは起きることであって、自己が起こすことではありません。
身もふたもない話でしたが、それでも真実の情報に触れ続けることは大切です。
坐禅や瞑想の実践も続けたらいいと思います。
坐禅も瞑想も、自己がやる行為ではなく、全体によって為されるものなので、それそのものが無自己と言えます。
そこに、本当の自分の香りが漂ってくることでしょう。
美容にもいいですよ。
おっ、いまグッと掴んだかも(笑)
さて頂いたコメントですが、昨日の深夜に頂いていた分を、間違って消去してしまいました。
謝ろうと思っていたら、いったんコメントを開いたページが残っていて、そのページを更新すると消えてしまうために、コピーして新たにコメント欄にペーストしました。
そんなわけで、いくつかのコメントが今朝の7時50分に同時にアップされています。
他意はありませんので、ご了承ください。
そう言えば2年前にも同じことがあって、その時も同じように処理したのですが、不具合で僕の名前でアップされてしまい、自作自演だと騒がれました。
そんなこともあって躊躇したのですが、今回はサイト自体が変わったからか、ちゃんとできました(^^)
それにしても阿部という男は、執拗に攻撃対象になりますね(笑)
これも不徳とカルマの現れなのでしょう。
僕自身は何を言われてもいいのですが、僕にシンパシーを持つ人が切ない思いをするのではと、そのことは気になります。
そんなこんなでいろいろありますが、よろしくお願いします。
・・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
恒例の秋分の日の瞑想会。
今回は9月23日に浜松で行います。
会場でのイベントは昼の12時からですが、今年の秋分点は早朝5時なので、その時間に少数の人だけで瞑想会をします。
場所はホテルオークラ浜松のインペリアルスイートルームで150平米もある超豪華な部屋。
参加者のみなさんも前日から同ホテルに宿泊していただきます。
明日また詳細をお知らせしますので、年に一度のイベントを一緒に楽しんでくれる人はお早めにお申し込みください。
今年もいつものメンバー(僕と、智子さんと、さとうみつろう君)がお相手します。
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Posted by Toshiro Abe at
13:11
│Comments(77)
2017年08月11日
僕たちは夢の遊び人
暑いので手短に話します(笑)
まるでこの世には真理に近づいている人と、世俗に浸かって遠くかけ離れた人がいるように見えますが、どちらも違う夢を見ているだけで、その質は同じです。
真理探究者は、いつの日かその達成を願い、世俗者はより良い生活を願います。
どちらも、いま以上の時があることを信じています。
世俗的であるか、精神的であるかは、夢の内容の違いに過ぎません。
真理は極めてシンプルであり、いまここにあからさまにあります。
そして夢の内容が何であれ、真理(いまここ)から離れることはできないので、誰もが救われていることに違いはありません。
世俗的な話も対立しやすいけれど、それが真理に関わる話だと命がけで対立し、まことに深刻になりますね。
その緊張感が緩んで、いまここに完全に寛いだ時、あるいは執拗にいま以外の時を求める衝動が止んだとき、それがゴールです。
そのゴールは、スタート地点と同じ場所。
早い話が、誰一人としてどこにも行っていなかったということです。
したがって真理とは、目指すものでもなければ、達成すべきものでもないということ。
だからあとは夢の世界を遊ぶとしましょう。
多くの人の発言を見ていると、これだけは譲れないといった生真面目さが香ってきます。
比較や判断のオンパレード。
それが悪いわけではないけれど、もっと気楽に仲良くできないものでしょうか。
昨日お話したメッセージバンドの歌詞。
♪
上とか下とか分けたつもりでも、本当はみんな一緒だよ
笑っちゃえばええじゃないか
踊っちゃえばええじゃないか
こっちにおいで、仲良く遊ぼう。
すべてはOK、my friend
いまも気持ちに変わりありません。
人様の肩の荷を降ろしてあげたいと願う、愚かなる夢人です。
今日は母が逝って2年目の命日。
生きている時もただものじゃないと思っていましたが、死んだあとも自分の命日を国民の休日にしました(笑)
・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
矢作直樹さんとのコラボ講演は、だいぶ席が埋まってきました。
まるで違うキャラですが、僕は矢作さんが好きです。
なんというか・・・無表情さが愛いらしい(^^)
9月8日、9日、10日に、浜松の方広寺(大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました)で、本格的な禅の修業をベースにした接心を開催します。
以下、向禅師からのご案内
【内 容】
坐禅・読経・茶礼・密教(身口意の三密)、歩行禅、笑いヨガ等、心の源に至り、禅定を日常生活に活かすヒントを学びます。
朝6時の半僧坊の太鼓を鳴らしての大般若祈祷、本堂縁側での夜坐等、方広寺ならではの体験もあります。
イス席も用意し、スローペースでマインドフルにすすめます。
10日午後1時より、阿部敏郎氏(全日程参加)とのコラボトークを予定しています。
【費 用】
一般、38,000円(税込、二泊七食の宿泊食事代を含む)
「いまここ道場」HPの左上サイドバー【お申し込みメールフォーム】をクリックしてお申し込みください。
9月のハートマントラ伝授は東京と博多を予定しています。
詳細はコチラから 続きを読む
まるでこの世には真理に近づいている人と、世俗に浸かって遠くかけ離れた人がいるように見えますが、どちらも違う夢を見ているだけで、その質は同じです。
真理探究者は、いつの日かその達成を願い、世俗者はより良い生活を願います。
どちらも、いま以上の時があることを信じています。
世俗的であるか、精神的であるかは、夢の内容の違いに過ぎません。
真理は極めてシンプルであり、いまここにあからさまにあります。
そして夢の内容が何であれ、真理(いまここ)から離れることはできないので、誰もが救われていることに違いはありません。
世俗的な話も対立しやすいけれど、それが真理に関わる話だと命がけで対立し、まことに深刻になりますね。
その緊張感が緩んで、いまここに完全に寛いだ時、あるいは執拗にいま以外の時を求める衝動が止んだとき、それがゴールです。
そのゴールは、スタート地点と同じ場所。
早い話が、誰一人としてどこにも行っていなかったということです。
したがって真理とは、目指すものでもなければ、達成すべきものでもないということ。
だからあとは夢の世界を遊ぶとしましょう。
多くの人の発言を見ていると、これだけは譲れないといった生真面目さが香ってきます。
比較や判断のオンパレード。
それが悪いわけではないけれど、もっと気楽に仲良くできないものでしょうか。
昨日お話したメッセージバンドの歌詞。
♪
上とか下とか分けたつもりでも、本当はみんな一緒だよ
笑っちゃえばええじゃないか
踊っちゃえばええじゃないか
こっちにおいで、仲良く遊ぼう。
すべてはOK、my friend
いまも気持ちに変わりありません。
人様の肩の荷を降ろしてあげたいと願う、愚かなる夢人です。
今日は母が逝って2年目の命日。
生きている時もただものじゃないと思っていましたが、死んだあとも自分の命日を国民の休日にしました(笑)
・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
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まるで違うキャラですが、僕は矢作さんが好きです。
なんというか・・・無表情さが愛いらしい(^^)
9月8日、9日、10日に、浜松の方広寺(大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました)で、本格的な禅の修業をベースにした接心を開催します。
以下、向禅師からのご案内
【内 容】
坐禅・読経・茶礼・密教(身口意の三密)、歩行禅、笑いヨガ等、心の源に至り、禅定を日常生活に活かすヒントを学びます。
朝6時の半僧坊の太鼓を鳴らしての大般若祈祷、本堂縁側での夜坐等、方広寺ならではの体験もあります。
イス席も用意し、スローペースでマインドフルにすすめます。
10日午後1時より、阿部敏郎氏(全日程参加)とのコラボトークを予定しています。
【費 用】
一般、38,000円(税込、二泊七食の宿泊食事代を含む)
「いまここ道場」HPの左上サイドバー【お申し込みメールフォーム】をクリックしてお申し込みください。
9月のハートマントラ伝授は東京と博多を予定しています。
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Posted by Toshiro Abe at
11:53
│Comments(144)
2017年08月10日
お金について オイチャンの告白
目覚めが訪れた直後は仕事など何でもよくて、そんなことよりこの新しい感覚を生きられる喜びに満ちていました。
現役活動を引退して何もしない期間が1年半ほど続き、いよいよ何か仕事をしなければとアルバイトニュースを買ってきたころ、なぜか僕に好意を寄せてくれていた業界の実力者が、頼みもしないのに最高のポジションを与えてくれて、それでやり始めたのが音楽プロデュースの仕事でした。
でも2年ほど経った頃に、やりたいことはこんなことではないという思いが強く働きました。
やりたいことは、この時代に目覚めのムーブメントを起こしたい、それだけでした。
ちょうどバンドブームが始まったころだったので、この気づきを伝えるバンドを作って、世の中に直接呼びかけてみたい、そうすれば僕と同じ気づきを持った人に旗振りできるし仲間に会えるかもしれないと、そんな思いが湧きました。
当時、いまのようなインターネットがあれば、もっと簡単な話だったのにね。
それまでの実績を見込んで、プロジェクトに4000万円投資してくれた会社がありましたが、そのお金はわずか3か月で使いきってしまいました。
スカウトしたミュージシャン7人を連れて渡米し、NYで最高のスタジオを借りきって、やりたい放題のレコーディングをすると、それくらいのお金はすぐに消えてしまいます。
人類に貢献するものを作るのに、お金なんかただの人間界の決め事じゃないかと、そんな奢った考えを持っていました。
そんな考え方がムードとして僕から出ていたのと、社会を軽視する無責任な態度も周囲に伝わっていました。
それでは実社会で通用しません。
うまくいっている時は何でもチヤホヤしてもらえましたが、ひとたびうまくいかなくなると、手のひらを返したようにバッシングが始まり、そんなこともあってほとほと嫌気がさして、社会からドロップアウトしたころに訪れたのが天河でした。
ドロップアウトと言ったら聞こえがいいですが、早い話が自らが作ったプロジェクトを放り出したのです。
何から何まで身勝手で、当時の関係者には多大な迷惑をかけました。
そんなことも、目覚め体験をした人へのガイドをかって出ている理由の一つかもしれません。
同じ過ちを犯さないようにね。
天河での生活は夢のような毎日で、飛ぶように過ぎていきました。
いろんな不思議なこともあったなァ。
みんなが寝静まった深夜に、神社の本殿で祈りを捧げることがありましたが、そのたびにほぼ例外なく、誰もいない本殿の中から、「ゴトン」という音がしました。
それも小さな音ではなく、驚くくらい大きな音です。
しかも一人の時にしか鳴りません。
誰に聞いても首をかしげるばかりでしたが、いったいあれは何だったのか今も謎のままです。
約4か月間のボランティア奉公が終わったときは、無一文になっていました。
天河を去る時、宮司に「この先が不安だ」と告げると、「かんながら」という言葉が聞こえました。
人生に大きな区切りがあるとしたら、あの日からいまの生活が始まったと感じます。
昨日のコメントにお金のことに対するやり取りがありましたね。
とても面白かったです。
僕は子供ができたあたりから、お金に対する観念が多少変わったように思います。
本質は変わりませんが、みんなを養っていく責任が生じたことで、どうでもいいという考えは変わりました。
なんとかここまでやってこれたので、最小限の責任は果たしたかなという思いです。
さて、お金っていったい何でしょう。
答えは、「その人が考えた通りのものだ」ということです。
格好つけて言うわけではありませんが、僕の中には何に対しても所有という概念はほとんどありません。
だからと言って、お前のお金を全部よこせと言われても差し出さないでしょう(笑)
そのあたりは微妙ですが、いずれにせよ、本当は何一つ誰のものでもないと感じています。
そもそも僕は、あまりお金がかかりません。
好きな食べ物はご飯。
桃屋の塩辛のお茶づけと、卵かけごはんが大好物です。
着るものにも関心がありません。
お酒や女遊びにお金を使うこともなく、旅行やギャンブルにも興味なく、一番好きな時間は瞑想です。
欲しいものもありません。
あえて言えば、欲しいのはお金くらいでしょうか。
これ冗談なんですけど、講演なんかで話すと本気にする人がいます。
冗談ですからね、半分。
後の半分は、やっぱり欲しい自分がいます(笑)
お金って複雑ですね。
僕に取ってのお金は、あえて言えばエネルギー交換の対価のようなもの。
あとは、サービスを提供するときのモチベーションでしょうか。
無料で提供するべきだという意見もありますが、少なくとも僕はやる気が出ません。
それが霊的成長の未熟さの現れだとしても、正直そうなのだから仕方ありません。
だからと言って、お金だけを目的に活動したこともありません。
一緒に組んだ関係者がそういう人達だったことはありますが、もし僕がそのような考え方を持っていたら、いまの成功はなかったし、あったとしても続かなかったことでしょう。
お金って何でしょうね。
あなたはどう考えますか。
今日も思いつくまま書いてみました。
若干、ええかっこしいの文章になってしまいましたが、そのあたりは差し引いてください。
いままでも繰り返し伝えてきましたが、僕は普通のただのオイチャンです。
これからもずっとそうだということに変わりありません。
模範的な生き方をしてきたわけでもなく、好きなことだけをやりながら、こうして絵に描いたような生活を享受できているのは、単なる強運だと思っています。
こんな自分を分析して、どうやったら運が引き寄せられるのか、そのことが人様の役に立つのなら、いずれやっていくことになるかもしれません。
もちろん有料で(^^)
付け足しますが、やはり瞑想は幸せな生き方の基本だと思います。
最後まで読んでくれてありがとう。
追記
昨日みなさんに紹介したことで、久しぶりにシルクロードのテーマを聴いてみました。
素晴らしいものは時代を超えて素晴らしいですね。
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現役活動を引退して何もしない期間が1年半ほど続き、いよいよ何か仕事をしなければとアルバイトニュースを買ってきたころ、なぜか僕に好意を寄せてくれていた業界の実力者が、頼みもしないのに最高のポジションを与えてくれて、それでやり始めたのが音楽プロデュースの仕事でした。
でも2年ほど経った頃に、やりたいことはこんなことではないという思いが強く働きました。
やりたいことは、この時代に目覚めのムーブメントを起こしたい、それだけでした。
ちょうどバンドブームが始まったころだったので、この気づきを伝えるバンドを作って、世の中に直接呼びかけてみたい、そうすれば僕と同じ気づきを持った人に旗振りできるし仲間に会えるかもしれないと、そんな思いが湧きました。
当時、いまのようなインターネットがあれば、もっと簡単な話だったのにね。
それまでの実績を見込んで、プロジェクトに4000万円投資してくれた会社がありましたが、そのお金はわずか3か月で使いきってしまいました。
スカウトしたミュージシャン7人を連れて渡米し、NYで最高のスタジオを借りきって、やりたい放題のレコーディングをすると、それくらいのお金はすぐに消えてしまいます。
人類に貢献するものを作るのに、お金なんかただの人間界の決め事じゃないかと、そんな奢った考えを持っていました。
そんな考え方がムードとして僕から出ていたのと、社会を軽視する無責任な態度も周囲に伝わっていました。
それでは実社会で通用しません。
うまくいっている時は何でもチヤホヤしてもらえましたが、ひとたびうまくいかなくなると、手のひらを返したようにバッシングが始まり、そんなこともあってほとほと嫌気がさして、社会からドロップアウトしたころに訪れたのが天河でした。
ドロップアウトと言ったら聞こえがいいですが、早い話が自らが作ったプロジェクトを放り出したのです。
何から何まで身勝手で、当時の関係者には多大な迷惑をかけました。
そんなことも、目覚め体験をした人へのガイドをかって出ている理由の一つかもしれません。
同じ過ちを犯さないようにね。
天河での生活は夢のような毎日で、飛ぶように過ぎていきました。
いろんな不思議なこともあったなァ。
みんなが寝静まった深夜に、神社の本殿で祈りを捧げることがありましたが、そのたびにほぼ例外なく、誰もいない本殿の中から、「ゴトン」という音がしました。
それも小さな音ではなく、驚くくらい大きな音です。
しかも一人の時にしか鳴りません。
誰に聞いても首をかしげるばかりでしたが、いったいあれは何だったのか今も謎のままです。
約4か月間のボランティア奉公が終わったときは、無一文になっていました。
天河を去る時、宮司に「この先が不安だ」と告げると、「かんながら」という言葉が聞こえました。
人生に大きな区切りがあるとしたら、あの日からいまの生活が始まったと感じます。
昨日のコメントにお金のことに対するやり取りがありましたね。
とても面白かったです。
僕は子供ができたあたりから、お金に対する観念が多少変わったように思います。
本質は変わりませんが、みんなを養っていく責任が生じたことで、どうでもいいという考えは変わりました。
なんとかここまでやってこれたので、最小限の責任は果たしたかなという思いです。
さて、お金っていったい何でしょう。
答えは、「その人が考えた通りのものだ」ということです。
格好つけて言うわけではありませんが、僕の中には何に対しても所有という概念はほとんどありません。
だからと言って、お前のお金を全部よこせと言われても差し出さないでしょう(笑)
そのあたりは微妙ですが、いずれにせよ、本当は何一つ誰のものでもないと感じています。
そもそも僕は、あまりお金がかかりません。
好きな食べ物はご飯。
桃屋の塩辛のお茶づけと、卵かけごはんが大好物です。
着るものにも関心がありません。
お酒や女遊びにお金を使うこともなく、旅行やギャンブルにも興味なく、一番好きな時間は瞑想です。
欲しいものもありません。
あえて言えば、欲しいのはお金くらいでしょうか。
これ冗談なんですけど、講演なんかで話すと本気にする人がいます。
冗談ですからね、半分。
後の半分は、やっぱり欲しい自分がいます(笑)
お金って複雑ですね。
僕に取ってのお金は、あえて言えばエネルギー交換の対価のようなもの。
あとは、サービスを提供するときのモチベーションでしょうか。
無料で提供するべきだという意見もありますが、少なくとも僕はやる気が出ません。
それが霊的成長の未熟さの現れだとしても、正直そうなのだから仕方ありません。
だからと言って、お金だけを目的に活動したこともありません。
一緒に組んだ関係者がそういう人達だったことはありますが、もし僕がそのような考え方を持っていたら、いまの成功はなかったし、あったとしても続かなかったことでしょう。
お金って何でしょうね。
あなたはどう考えますか。
今日も思いつくまま書いてみました。
若干、ええかっこしいの文章になってしまいましたが、そのあたりは差し引いてください。
いままでも繰り返し伝えてきましたが、僕は普通のただのオイチャンです。
これからもずっとそうだということに変わりありません。
模範的な生き方をしてきたわけでもなく、好きなことだけをやりながら、こうして絵に描いたような生活を享受できているのは、単なる強運だと思っています。
こんな自分を分析して、どうやったら運が引き寄せられるのか、そのことが人様の役に立つのなら、いずれやっていくことになるかもしれません。
もちろん有料で(^^)
付け足しますが、やはり瞑想は幸せな生き方の基本だと思います。
最後まで読んでくれてありがとう。
追記
昨日みなさんに紹介したことで、久しぶりにシルクロードのテーマを聴いてみました。
素晴らしいものは時代を超えて素晴らしいですね。
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Posted by Toshiro Abe at
12:18
│Comments(136)
2017年08月09日
心に残るワンシーン
人生ではいろんな経験があるのに、その中でもいつまでも心から離れないシーンってあるでしょ。
中にはショッキングなこともあるけれど、美しいシーンもある。
僕にとって今も色あせずに残っているのは、平成元年3月のこと。
初めて天河神社を訪れた日。
近鉄の下市口からバスに揺られて1時間半。
昔はいまのような近道となるトンネルがなくて、曲がりくねった山道を延々と上って、古い小さなトンネルを抜けると、そこからが天川村。
急に「気」が変わったのが判った。
なんというか、「気」が凝縮しているというか、とにかく密度が変わった。
神社に一番近いバス停の「川合」で降りて、そこから徒歩30分くらいだったかな。
バス停から天河神社に向かう一本道の傍らに川が流れていて、その土手に座ってウォークマンを聴きながらしばし佇んでいた。
商業音楽の世界から完全に足を洗おうって決めていて、この先人生がどう流れていくのか全く分からなかったけれど、「自己」という錯覚から目覚めて数年が経っていて、この地球全体が自分の家のような気がしていた。
それまでの人生が逆転してしまうような気づきが訪れた後は、社会で生きるのが大変だった。
たまに宗教的関心を持っている人を見つけると、「私」は幻想で、すべてはひとつであって、同じ生命エネルギーが万物をまさにいま創造しているだけで、僕はあなたであって、上も下もなくて・・・
なんて話をするのだけれど、誰一人分かってもらえず、○○さんは釈迦の生まれ変わりだから、そこに入信して勉強したほうがいいとか、そんな返答しかもらえなかった。
ましてや、イケイケで仕事している人にはまったくこんな話は通じない。
世はバブルの真っ最中だったしね。
それでもなんとか音楽業界で仕事して、運も良くてすぐにいっぱしの顔になるのだけど、全然興味が持てなかった。
本屋に行っても、この気づきを説明してくれる書物もなく、だからいまの活動は、僕と同じように人生を超えた気づきを持った人へのガイドのつもりで書き続けている。
土手に座りながら天川村の山々に囲まれた青い空をずっと見上げていた。
2羽のトンビが悠々と羽を広げて泳いでいた。
その時聴いていた曲が喜多郎の「シルクロードのテーマ」
(この曲を聴きながら今日の記事を読んでみてね)
何度も繰り返し、同じ曲ばかりを聴いていた。
この時のシーンが僕の心に残るワンシーン。
何かを知っていたのかな。
しばらく天河神社に滞在することになるような気がしていた。
そしていつか、このトンビのシーンを本に書くような予感もした。
そこからの人生はまさに「かんながら」
起きることが起きて今日に至っているように思う。
この先も「かんながら」
いつどのような思考が湧いて、何を選ぶのかも、すべてお任せしながら生きている。
この世の苦しみが少しでも緩和されますように。
世界が平和でありますように。
・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
9月はいくつかのイベントがありますが、今日は初めてマントラ瞑想をする人のためのハートマントラ伝授のご案内です。
9月2日 東京
9月16日 博多 (先日17日とお知らせしましたが16日に変更となりました)
詳細とお申し込みはコチラから。
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中にはショッキングなこともあるけれど、美しいシーンもある。
僕にとって今も色あせずに残っているのは、平成元年3月のこと。
初めて天河神社を訪れた日。
近鉄の下市口からバスに揺られて1時間半。
昔はいまのような近道となるトンネルがなくて、曲がりくねった山道を延々と上って、古い小さなトンネルを抜けると、そこからが天川村。
急に「気」が変わったのが判った。
なんというか、「気」が凝縮しているというか、とにかく密度が変わった。
神社に一番近いバス停の「川合」で降りて、そこから徒歩30分くらいだったかな。
バス停から天河神社に向かう一本道の傍らに川が流れていて、その土手に座ってウォークマンを聴きながらしばし佇んでいた。
商業音楽の世界から完全に足を洗おうって決めていて、この先人生がどう流れていくのか全く分からなかったけれど、「自己」という錯覚から目覚めて数年が経っていて、この地球全体が自分の家のような気がしていた。
それまでの人生が逆転してしまうような気づきが訪れた後は、社会で生きるのが大変だった。
たまに宗教的関心を持っている人を見つけると、「私」は幻想で、すべてはひとつであって、同じ生命エネルギーが万物をまさにいま創造しているだけで、僕はあなたであって、上も下もなくて・・・
なんて話をするのだけれど、誰一人分かってもらえず、○○さんは釈迦の生まれ変わりだから、そこに入信して勉強したほうがいいとか、そんな返答しかもらえなかった。
ましてや、イケイケで仕事している人にはまったくこんな話は通じない。
世はバブルの真っ最中だったしね。
それでもなんとか音楽業界で仕事して、運も良くてすぐにいっぱしの顔になるのだけど、全然興味が持てなかった。
本屋に行っても、この気づきを説明してくれる書物もなく、だからいまの活動は、僕と同じように人生を超えた気づきを持った人へのガイドのつもりで書き続けている。
土手に座りながら天川村の山々に囲まれた青い空をずっと見上げていた。
2羽のトンビが悠々と羽を広げて泳いでいた。
その時聴いていた曲が喜多郎の「シルクロードのテーマ」
(この曲を聴きながら今日の記事を読んでみてね)
何度も繰り返し、同じ曲ばかりを聴いていた。
この時のシーンが僕の心に残るワンシーン。
何かを知っていたのかな。
しばらく天河神社に滞在することになるような気がしていた。
そしていつか、このトンビのシーンを本に書くような予感もした。
そこからの人生はまさに「かんながら」
起きることが起きて今日に至っているように思う。
この先も「かんながら」
いつどのような思考が湧いて、何を選ぶのかも、すべてお任せしながら生きている。
この世の苦しみが少しでも緩和されますように。
世界が平和でありますように。
・・・・・・・・・・・
【お知らせ】
9月はいくつかのイベントがありますが、今日は初めてマントラ瞑想をする人のためのハートマントラ伝授のご案内です。
9月2日 東京
9月16日 博多 (先日17日とお知らせしましたが16日に変更となりました)
詳細とお申し込みはコチラから。
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Posted by Toshiro Abe at
12:21
│Comments(65)
2017年08月07日
人は死なない
この活動をしていて面白いことの一つは、興味を持った人と直接対談できることです。
いままでも各分野を代表するユニークな人たちとお話させてもらってきました。
その中の一人が矢作直樹さん。
矢作さんはご存知のように、東京大学病院の救急医療部長を長年務め、多くの方たちの死と向かい合ってきた人です。
そんな立場の彼が「人は死なない」という本を出した時はセンセーショナルでした。
前回お話させてもらったときは、彼にしか知り得ない話が沢山あると感じました。
人間の命や死後の経験に関することだけではなく、日本人が持つ隠れた能力や、いまの地球をコントロールしている陰の勢力や、彼独自の観察眼によって見ている世界があるようです。
ともすればオカルトチックな話もあるのですが、僕はとても興味があります。
しかし、実に口が堅い(笑)
ここまでは話せるけれど、これ以上は話せないといったものが多々あるようです。
そうなると、物を言うのが聞き手の能力。
ジャジャジャーン!!
低我のアベッチの登場です。
本にも書けない、通常の講演でも話せない、そんな話を引き出してみたい。
矢作さんとの対談はこれが最後になるので、玉砕覚悟で突撃したいと思います(^^)
矢作さんにはあらかじめ、当日はビデオ収録もしないし、皆さんには心の準備をして来るように呼びかけるから、何でも話してほしいと前置きしてあります(笑)
怖いもの見たさの、真夏の夢。
一緒に体験してみませんか。
さて、「人は死なない」というのは僕にとっても真実ですが、この肉体が必ず死ぬというのも、もう一方の真実です。
僕はいつ死が来てもおかしくないと思って生きています。
お蔭さまで身体はすこぶる健康ですが、もしかしたら今日が人生最後の日かもしれない。
大した人生ではありませんでしたが、やり残したこともありません。
強がるわけではなく、いつでもOKです。
それでは死が全く怖くないかと言えば、そうでもありません。
まさにいま死ぬと分かれば、動揺もするでしょう。
それは富士急ハイランドのジェットコースターに乗るのと似ています。
絶対に安全だと分かっていても、初めて乗るのは怖いですものね。
死に対して僕が安心している根拠の一つは、いままで誰一人として死ぬことに失敗した人がいないということ。
まさか僕だけが失敗することもないでしょう。
そこは安心しています。
死は言われてきたような忌まわしいことだとは思っていません。
むしろ窮屈な肉体や、不条理な世界から解放される祝福の面もあると思います。
母の死顔も安らかでしたが、僕の知人のお父さんは最後を迎えた瞬間に
「よかった〜」
と嬉しそうに呟いたそうです。
彼はいったいなにを見たのでしょう。
誰もが手にしている、死への入場券。
使えるのは一回きりでも、みんな公平に使うことが出来ます
必ず使えますから、それまではこの肉体を生きるとしましょう。
僕は生きるのも大好きです。
明日のことが分からないからワクワクします。
この先、どんな夢を見せてもらえるやら(^^)
・・・・・・・・・・・・
8月27日(日)
矢作直樹&阿部敏郎 コラボ講演会。
詳細と申込みはコチラから。
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いままでも各分野を代表するユニークな人たちとお話させてもらってきました。
その中の一人が矢作直樹さん。
矢作さんはご存知のように、東京大学病院の救急医療部長を長年務め、多くの方たちの死と向かい合ってきた人です。
そんな立場の彼が「人は死なない」という本を出した時はセンセーショナルでした。
前回お話させてもらったときは、彼にしか知り得ない話が沢山あると感じました。
人間の命や死後の経験に関することだけではなく、日本人が持つ隠れた能力や、いまの地球をコントロールしている陰の勢力や、彼独自の観察眼によって見ている世界があるようです。
ともすればオカルトチックな話もあるのですが、僕はとても興味があります。
しかし、実に口が堅い(笑)
ここまでは話せるけれど、これ以上は話せないといったものが多々あるようです。
そうなると、物を言うのが聞き手の能力。
ジャジャジャーン!!
低我のアベッチの登場です。
本にも書けない、通常の講演でも話せない、そんな話を引き出してみたい。
矢作さんとの対談はこれが最後になるので、玉砕覚悟で突撃したいと思います(^^)
矢作さんにはあらかじめ、当日はビデオ収録もしないし、皆さんには心の準備をして来るように呼びかけるから、何でも話してほしいと前置きしてあります(笑)
怖いもの見たさの、真夏の夢。
一緒に体験してみませんか。
さて、「人は死なない」というのは僕にとっても真実ですが、この肉体が必ず死ぬというのも、もう一方の真実です。
僕はいつ死が来てもおかしくないと思って生きています。
お蔭さまで身体はすこぶる健康ですが、もしかしたら今日が人生最後の日かもしれない。
大した人生ではありませんでしたが、やり残したこともありません。
強がるわけではなく、いつでもOKです。
それでは死が全く怖くないかと言えば、そうでもありません。
まさにいま死ぬと分かれば、動揺もするでしょう。
それは富士急ハイランドのジェットコースターに乗るのと似ています。
絶対に安全だと分かっていても、初めて乗るのは怖いですものね。
死に対して僕が安心している根拠の一つは、いままで誰一人として死ぬことに失敗した人がいないということ。
まさか僕だけが失敗することもないでしょう。
そこは安心しています。
死は言われてきたような忌まわしいことだとは思っていません。
むしろ窮屈な肉体や、不条理な世界から解放される祝福の面もあると思います。
母の死顔も安らかでしたが、僕の知人のお父さんは最後を迎えた瞬間に
「よかった〜」
と嬉しそうに呟いたそうです。
彼はいったいなにを見たのでしょう。
誰もが手にしている、死への入場券。
使えるのは一回きりでも、みんな公平に使うことが出来ます
必ず使えますから、それまではこの肉体を生きるとしましょう。
僕は生きるのも大好きです。
明日のことが分からないからワクワクします。
この先、どんな夢を見せてもらえるやら(^^)
・・・・・・・・・・・・
8月27日(日)
矢作直樹&阿部敏郎 コラボ講演会。
詳細と申込みはコチラから。
続きを読む
Posted by Toshiro Abe at
14:23
│Comments(142)
2017年08月06日
脇役ならば気楽なもんだ
道を歩いている人を観察するチャンスがあったら、一人一人を感じてみましょう。
一人一人に独自の世界があり、うかがい知れないほどのたくさんの経験をし、物語を紡いできています。
その人の目に入るあなたは、単なる通行人の一人。
自分の物語を作る、ほんの僅かな情報としてあなたは登場しています。
あなたはあらゆる人の人生の、脇役かエキストラです。
完全にそう思えたら、心の重荷が半分減ります。
自分を中心に見ていると、いろんな人に気に入られなければと思ってしまいますが、人から見れば、あなたがどうであっても、そう大したことじゃありません。
一番気にしている自分のイメージさえ大したことじゃないのだから、この世のすべては大したことじゃありません。
語弊があるかもしれませんが、人生の全ては各々の思い込みが絡み合う冗談みたいなもので、真剣に悩むにはくだらなすぎます。
しかも人生は、どこにも向かっていません。
ただ、いま、あるがままにあるだけ。
そして永遠に、いましかありません。
記憶と想像によって、まるでどこかに向かっているような気がするだけです。
いましか存在していない。
この真実を細胞の一つ一つで理解した時、生きることの本質が変わります。
いまどうであるか
これだけが人生になります。
昨日伝えた愛と感謝の大切さは、いつかの日のためにあるのではなく、全てを包含するいまのためにあります。
もちろん想像上の未来にある願望を実現する上でも、愛と感謝は有効でしょう。
ところがその未来も、必ず「いま」という形で訪れるので、もしその「いま」が憎しみと抵抗で覆われていたら、たとえ物理的な願望が実現したとしても幸せでしょうか。
愛と感謝は、より良くなるための方法ではなく、それそのものが結果なのです。
したがって、いまの自分に気づき、そのあり方をシフトしていく。
ここが最重要ポイントです。
いままでのあなたの生き方や考え方は、いまのあなたとは関係ありません。
そんな記憶に惑わされないで、いま、愛と感謝にフォーカスしてみましょう。
・・・・・・・・・・
【お知らせ】
昨日は東京でハートマントラの伝授があり、多くの人達が瞑想の醍醐味を体感してくれました。
NIKE瞑想は誰にでも可能な内側の平安です。
次回東京は9月2日に予定しているので、またご紹介します。
博多は9月17日
名古屋は11月4日
大阪は12月2日
の予定です。
その前後に、経験者用の各チャクラマントラを予定していますが、こちらはメルマガでもお知らせします。
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一人一人に独自の世界があり、うかがい知れないほどのたくさんの経験をし、物語を紡いできています。
その人の目に入るあなたは、単なる通行人の一人。
自分の物語を作る、ほんの僅かな情報としてあなたは登場しています。
あなたはあらゆる人の人生の、脇役かエキストラです。
完全にそう思えたら、心の重荷が半分減ります。
自分を中心に見ていると、いろんな人に気に入られなければと思ってしまいますが、人から見れば、あなたがどうであっても、そう大したことじゃありません。
一番気にしている自分のイメージさえ大したことじゃないのだから、この世のすべては大したことじゃありません。
語弊があるかもしれませんが、人生の全ては各々の思い込みが絡み合う冗談みたいなもので、真剣に悩むにはくだらなすぎます。
しかも人生は、どこにも向かっていません。
ただ、いま、あるがままにあるだけ。
そして永遠に、いましかありません。
記憶と想像によって、まるでどこかに向かっているような気がするだけです。
いましか存在していない。
この真実を細胞の一つ一つで理解した時、生きることの本質が変わります。
いまどうであるか
これだけが人生になります。
昨日伝えた愛と感謝の大切さは、いつかの日のためにあるのではなく、全てを包含するいまのためにあります。
もちろん想像上の未来にある願望を実現する上でも、愛と感謝は有効でしょう。
ところがその未来も、必ず「いま」という形で訪れるので、もしその「いま」が憎しみと抵抗で覆われていたら、たとえ物理的な願望が実現したとしても幸せでしょうか。
愛と感謝は、より良くなるための方法ではなく、それそのものが結果なのです。
したがって、いまの自分に気づき、そのあり方をシフトしていく。
ここが最重要ポイントです。
いままでのあなたの生き方や考え方は、いまのあなたとは関係ありません。
そんな記憶に惑わされないで、いま、愛と感謝にフォーカスしてみましょう。
・・・・・・・・・・
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昨日は東京でハートマントラの伝授があり、多くの人達が瞑想の醍醐味を体感してくれました。
NIKE瞑想は誰にでも可能な内側の平安です。
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の予定です。
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Posted by Toshiro Abe at
10:37
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