2012年05月31日

神聖への扉

昨日、「感覚は神聖への扉」と書きました。


「今日は未消化」さんからの質問。


般若心経で無いとされた五蘊

「五蘊皆空」「無色無受想行識」が、

なぜ、「神聖」への扉となるのか、がイマイチよくわかりません^^;



そして「ゆうこ」さんの質問。


矛盾を感じています。

向さんも、感覚は大切だと言っていますが、般若心経には、最終的な自分は嗅覚も、視覚も何もないと書いてあるそうです。




今日の記事はやや難解になるので、時間があるときに読んでみてください。


まずは「今日は未消化」さん。

五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)は五感のことではありません。

五蘊とは、人間の自我を形成する5段階のプロセスのことです。

詳しい解説は過去ログ(このブログのカテゴリーで見つけることができます)に書いたので省きますね。


ただし、般若心経の中では「無眼耳鼻舌身意」という個所もあり、ゆうこさん指摘の通り、五感も無いと書かれています。


般若心経は、究極に至った意識が、その次元を解説したものです。

ここに集まる人の中にも、この境地を垣間見た人がいるかと思います。

自他の隔たりが消え、時空間も消え、宇宙全体を包括する超自己の体験です。

観自在菩薩が瞑想の中で感得した境地の報告が「般若心経」と言ってもいいでしょう。

このように書くと、自分とは関係のない凄い人の凄い体験のように思えますが、実際には全ての人の内側に、この次元があります。

しかも信じられないくらい近くにあります。


さて今日この質問を取り上げたのは、精神世界を学んでいると、究極の真実を引き合いに出して、自分がいま生きている真実を否定してしまう傾向があるからです。


いま現在の僕たちの真実とは何でしょう。

それは肉体であり、感覚です。

「魂」という言葉を当たり前のように口にしますが、実際には魂のことなど何も知らず、本当に知っているのは肉体だけです。

まずこのことを認めることが大切です。


存在の真理は、多くの人にとって未知なるものです。

未知に至る方法は、未知を学ぶことではありません。


未知への扉は、既知の中に深くはいっていくことで開かれます。

既知とは、肉体であり感覚です。


昨日は「感覚」について書きましたが、実はその前にアプローチすべきものが肉体です。

まずは肉体への抑圧を開放することから始まるのですが、その際、性衝動への文化的抑圧が最も大きな障害になっています。

しかしこのテーマは、ブログで扱うには時期尚早だと思っています。

なぜかと言えば、いまだ多くの人はこの呪縛下にあり、ネット社会も成熟しているとは言えず、このような話題が、歪んだ性エネルギーを発散させる絶好の場になってしまう可能性があるからです。

それでは、本質が見失われてしまいます。

直に面して話ができる場、講演会やその他の機会に委ねたいと思います。


肉体について一つだけ結論めいたことを言うならば、肉体を愛し、受け入れることが大切だということです。

確かに僕たちは肉体以上の存在ですが、「~以上」であるならば、スタートである肉体は重要なものになります。

どれだけ多くの偏見によって、肉体への敬意を忘れてきたことでしょう。

肉体に生命エネルギーが流れるようにブロックを外していくのことが始まりです。


そして次に、同じく抑圧してきた「感覚」を解放していくのです。

肉体も感覚も幻想だと説く般若心経の次元は、肉体を浄化し、感覚を解放した結果訪れると言ってもいいでしょう。


いま自分にとっての現実を真正面から生きることは、きわめて大切なことです。

精神世界の罠にハマらないこと。

実際に自分は何を知っているのかを見極めるのです。


本やブログを通して得た知識を、まるで自分が知っていることのように思うのは危険です。

聖なる書物たちも、単なる方向指示器であり、真実そのものではありません。


真実は、いまのあなたの実体験の中にあります。


繰り返しますが、肉体を愛し受け入れ、感覚を解放すれば、それが神聖への扉です。




最後まで読んでくれてありがとうございました。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(120)

2012年05月30日

脱パターン

僕らの日常の90%以上は、自動的にやっています。

たとえば朝、歯を磨くときも、歯ブラシを持つ角度や、ハミガキを付ける量も、どのあたりから何回くらいゴシゴシするかもだいたい決まっています。

そのあと、仕事や生活全般にわたる行為のほとんどは、自動的な同じ繰り返しです。

会社内でも、相手の役割に応じた自分が自動的に現れ、相手が上司ならそれなりに接し、相手が仕事に関係なければ目にも入らないといった具合です。

それらは意識的な選択ではなく、無意識による反応です。

反応はパターン化する特徴があるので、人生の大部分がパターン化してしまうのです。


イキイキと生きる秘訣は、生活のパターンを破り、もっと感覚を研ぎ澄ますことです。

たとえば、部屋を掃除するときにパンツを脱いでみるとか(出た!懐かしい)、どこかの芝生で昼寝をしてみるとか、愛を交わすときの体位を変えてみるとか、手づかみで食事をしてみるとか、会社の清掃夫さんを社長に対するのと同じまなざしで見てみるとか・・・

とにかくいつもと違ったことをして、その感覚をよく感じ取るのです。

これは感受性を高めるのに役立ちます。


手づかみで茶碗に入ったご飯を食べると、違和感は相当なものです。

そこに感覚がよみがえるチャンスがあります。


芝生で昼寝をすれば、鳥の声や、空の青さや、草たちのささやきを感じ取れるでしょう。



今日は何か一つでもいいから、普段なら絶対しないことにチャレンジしてみませんか。


まったく新しい感覚を得られるかもしれません。



感覚は神聖への扉です。







   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:37Comments(138)

2012年05月29日

宇宙大

思考の狭い枠の中で生きるのではなく、のびのびと大らかな「いまここ」のエネルギーを生きましょう。


自分をカラッポにして、肉体を神の仕事場として提供するのです。


それが、ダルマ(法)に乗って生きるということです。




みんな同じエネルギーに生かされています。


瞬間ごとに色彩を変えながら、その大いなるエネルギーは、完璧なバランスの中で息づいています。


どの部分も必要で、何か一つ欠けただけで全体は存在できません。



したがって、あなたがいなければ、宇宙は存在できないんです。


これは真実のお話ですよ。


本当の自分は宇宙大に凄いのに、僕たちはどれくらいそれを感じて生きているでしょうか。









   


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6月24日(日)東京講演会の受付を開始します。

詳細はコチラから。


6月7日(木)は沖縄講演会です。

詳細はコチラから。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(107)

2012年05月28日

中空の竹

昨日の東京講演会で感じた事・・・

始まる前にみんなで瞑想して、目を開けた時に会場を包んでいる「気」が好きだ。

話の内容を決めるのは、僕というよりは会場だと思う。

だから毎回違うのだろう。


昨日は講演をしている半分以上の時間、「自分」がいなかった。

体が中空の竹になって、中をエネルギーが通ることで言葉を奏でる感じ。

そんな時は、話しをしながら僕も聴衆の一人になっている。


行為者が消え、行為だけが残る。

意識は完全に「いまここ」にあり、それはもはや「自分」とは呼べない。

ただ、目覚めた純粋意識があるだけだ。


行為者とは、結果志向の自我そのもの。

あれこれ狭い了見で場をコントロールしようとする。


行為者が消えれば、自然な流れが自分を乗っ取り、ことを完璧に成してくれる。


茶道も武道も、その境地を目指しているのだろう。


「無」


生活の多くの時間を、そんな感覚で生きられたら、それが人生の極意なのだと思う。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:00Comments(109)

2012年05月26日

生々流転

今朝目が覚めて、ふと思った。

「オレって一貫性がないよな」


そりゃそうだ。

今日もまた新しい一日が始まったんだし、何もかもが新しいんだから。


命は現在進行形で、いつも初めての瞬間に出会っていく。

記憶は過去の中に生き、命はいまから未来に向かって動いている。

記憶よりも命でありたい。



次の瞬間はまったく予測不能な、そんな人間でいたい。

一貫性は人にわかりやすく、信頼を得られるけれど、そこには微妙な意図が必要になる。

ある種の自己演出だ。


作られた自己は、形を持ったがゆえに死んでいる。

生身の自己は、生きているがゆえに形を持たない。


昨日は青が好きだったけれど、今日は赤が好きだ。

「あれ?阿部さん、青が好きだって言ってたじゃない」


でもさ、いま赤が好きな自分がいるんだから、どうしようもないじゃない。

明日は黄土色か群青色が好きになるかもしれない。



今日も命が踊っている。

木漏れ陽みたいにユラユラ揺れながら、つかの間の現実を相手に遊んでいる。



お互い死ぬまで生きようね。

数十億人の中から出会った奇跡に感謝します。








   


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ボブ・フィックスさんの「プロセス瞑想」で使用したCDを入手できるようになりました。

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「プロセス瞑想」に参加した方は、特別価格でお求めになれます。

その際は備考欄に何日のどこの会場だったかをお書きください。

お申し込みはコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:23Comments(150)

2012年05月25日

ひとやすみ

昨日は時間がなくて何も書けなかったので、今日こそはと思いきや、やはり時間が取れません。

生活の中で、「あっ、こういう言い方で説明してみよう」って閃くことが多々あって、書きたいことは山ほどあるのに残念です。


それにしても、昨日のコメント欄もすごく興味深く、文章タッチやアプローチは違えど、みんな深い理解を共有している人たちだなと思いました。


ここに集まってくれて光栄です。



またブログでお会いしましょう。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 11:37Comments(73)

2012年05月23日

謡ふも舞ふも法の声

昨日のコメント欄、面白かったですね。

ひとつの文章に対する様々な解釈。

僕の感覚に近い意見や、遠い意見はありましたが、みんな正解です。

それぞれの人がそのように考えたわけで、考えた人にとっては、その解釈が現実になります。


話はちょっと変わりますが、悟りとか目覚めとか、僕たちはどうしても大層に考えてしまう傾向がありますね。

だから、一般の人が目覚めたようなことを言えば、「お前なんか」ってなるんです。


伝記に出てくる偉人や、インドやチベットのマスターの写真を見て「この人の目は本物だ」とか、数時間程度の動画を見て「この人は凄い人だ」とか、みんなファンタジーを持ちたがるけど、実際にはあなたとそれほど違いはありません。

そのマスターも教壇から降りれば、人のうわさ話をしたり、世間話をしたり、冗談を言って笑いあったり、他の人たちと変わりません。


彼らが四六時中、宇宙の真理とか、神の話をしていると思いますか?

だとしたら、なんて退屈な人たちでしょう。


雑誌の対談などで、国内外の覚者と会ってきましたが、みんな普通の人たちでした。

彼らが書いた本を読むと、洞察力あふれる、一点の曇りもない真実が並んでいます。

もちろん彼らはそのことを完全に理解しているから書けるのです。

でも会えば普通の人です。

この世には普通の人しかいないから、当然と言えば当然です。


なぜこのことを繰り返し指摘するかといえば、覚者や聖者に対するファンタジーが、自分を至らない人間だと思わせるからです。

それこそが、悟りを遠ざけている原因です。


すでに誰もが、心の奥底で悟っています。

これは、例え話ではなく事実です。


自分の至らなさを軽蔑しないこと。(至らなさは誤解だから)

自分と仲直りすること。(自分以外の人には成れないから)


そうすれば、探し求めていた幸福感が戻ってきます。


そのあとは、おなかが減ったらご飯を食べて、必要があれば仕事をし、欲しいものは欲しいと言い、悲しいときには涙して、瞑想して、世界の平和を祈って、時々エッチなこと考えて、眠くなったら眠るのです。



当処 即ち蓮華国 


此の身 即ち仏なり









   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:26Comments(215)

2012年05月22日

ピーク

今日は雲 黒斎くんの話をします。

彼は、言葉にすると矛盾が避けられない宇宙的真実を、わかりやすく説明できる人です。

真実を体験的に知っているから自分の言葉で話ができるのでしょう。

それは、精神世界を語る者にとって最も大切な要素だと思います。

僕たちは最強コンビだと、2人の間では評判です(笑)


しかし、僕らのコンビも一時の勢いが静まって、人気のピークを迎える前に早くも下り坂になったような気がするのは気のせいでしょうか。


いや、気のせいじゃないかもしれません。

前回の某会場では初めて空席が出たし。


ということは、ピークはまだ先だと思っていた頃がピークだったわけです。

そうだとわかっていたら、もっとピークを楽しめばよかった。


かと思うと、沖縄のコンビニ店には「降参のススメ」が置いてあったりします。

置いてあると嬉しいけれど、ずっと同じ一冊が置かれたままだと微妙に嬉しくありません。



見かけたら誰か買ってください!

あとで僕が買い取りますから。



黒斎くんとのコンビ、これからも楽しませてもらいます(^o^)








   


・・・・・・・・・


「阿雲の呼吸」は夏に各地で開催します。


7月1日(日)仙台、

7月7日(土)京都、

8月4日(土)横浜

8月5日(日)名古屋(予定)


また詳細が決まったらお知らせしますね。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:29Comments(118)

2012年05月21日

2012年5月21日の日記

金環日食はいかがでしたか?

みなさんの地域では綺麗に見えましたか。


それにしても、日食や月食のたびに思うのは、太陽と、地球と、月の直径と相互間距離。

これらが絶妙な関係に設定されているからこそ、同じ大きさで重なり合うわけで、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎですよね。

人体の60兆個もの細胞を整然と機能させている力も同じで、マクロからミクロまで、超越的な英知が、宇宙全体を動かしているということでしょう。

その英知と力は、どこか他の場所を探さなくても、まさにいま、僕をあなたを生かしているこの力です。

僕の中で、あなたの中で、宇宙の同じ力が生きている・・・凄いね!


人類もそろそろ「偶然」という言葉を無くす時代に入ってきたように思います。

「偶然の一致」ではなく、「宇宙英知による絶妙不可思議な一致」みたいなね。


結局、人間は何もわかっていないわけで、現象を分類して名前を付けているだけです。


わかろうとしなくていいんですよね。

わかるはずがないのだから。



もう降参!


好きにして!


そんな心境になってから、何をやってもスムーズな今日この頃です。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:55Comments(99)

2012年05月20日

力を抜くだけ

今日は日曜日ですね。

時間を見つけて、思い切りリラックスしてみませんか。


多くの人が口にするリラックスとは、まだ本当のリラックスではありません。

日々の緊張が弱まっているだけです。

たいていの場合、そこにはまだ微妙な緊張が残っています。


本当のリラックスとは、体の力を抜いて、心の力を抜いて、どこまでもどこまでも抜いて、自分が消えてなくなるくらいになることです。


すると彼方からやってくるものがあります。

愛・・・瞑想・・・感謝・・・安心・・・歓び・・・

これら高い質のすべては、行為によって得られるものではなく、一切の努力をやめて、ただあるがままに完全にくつろいだとき、自然に湧き起こってくるものです。


そのとき、あれこれと判断するマインドが消えています。

マインドとは騒動そのもので、絶え間なく周囲や自分を批判しています。

マインドの性質は混乱。

何かを考えれば、対極の考えが顔をだし否定しようとするのです。

その綱引きが緊張を作り出します。


どこまでも力を抜いて、マインドを緩めていきましょう。


最初のうち自我が抵抗します。

「マインドがなくなったら呆けてしまう。足場がなくなって奈落の底に落ちてしまう」


それもそのはず、マインドが消えるというのは、自我の死を意味するからです。

これ以上リラックスさせないように、あれやこれや必死で罠を仕掛けてきます。


怖がらずに、どこまでも力を抜いてみましょう。

いつもよりもっと深く沈んでいきましょう。


海の底の静寂に行きついたら、そこに僕もいます。

その静寂の中で僕たちはひとつです。

意見や信念が消えた場所で、僕たちはひとつになれます。

あなたの意見と僕の意見は対立しますが、あなたの静寂と僕の静寂は同じひとつのものです。



秘訣はリラックスすること、どこまでも力を抜いていくことです。


すると・・・



今日あなたに宇宙の祝福が訪れますように。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(107)

2012年05月19日

おはよう

ああ、今日もいい日だな。


友よ、好きなだけ眠ってていいんだよ。

だって、自分が眠りたくて眠っているのだから。


本当はいつでも目覚めることができるのに、そのことを無視して夢の続きを見ていたい。

わかるなあ、その気持ち。


たとえ幸せな夢じゃなくても、夢から醒めるのは勇気がいるよね。

何かを失うような気がするしね。


確かにたくさんのものを失うことになる。

でも失うそれらのものは、最初から存在していなかった夢だから、結局は何も失わないんだ。

ところがその夢に、汗や涙や努力や自己犠牲や、いっぱい投資してきちゃったから、いまさら全部夢だって言われてもね。


僕の経験では、死の瞬間、それまでの人生が夢だったって、みんなが知ると思う。

と同時に、重たい体から解放されるのは、この上もない快感なんだ。


だからどんな強い執着を持って死んだ人も、たいていの場合は元の体に戻ってもう一度生きたいとは思わない。


目覚めというのはね、生きながら死ぬことだよ。

それは自我の死、夢の終焉だ。


そうやって死んで初めて本当に生きだすのだから、存在の真実は皮肉だね。


この言葉が、心底理解できていれば、あなたは目覚めている。

でもなんとなくわかるなら、あなたはまだ夢の中だ。

夢の中で、どうやらこれは夢だと判った分だけ、新しい問題を抱えたことになる。

どうやって目覚めたらいいんだ!って、そんなジレンマが付きまとう。


まったくわからないなら、それはそれで何の問題もない。



僕はジレンマを持ち出した人の役に立ちたくて、この27年間を生きてきた。

そして、一人またひとりと挨拶を交わしてきた。


「おはよう!」ってね。



ああ、今日もいい日だな。









   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(162)

2012年05月18日

Hero(本当の力)

諸行無常の移りゆく世界に確かなものはありません。

そこに映し出されるのは、束の間の夢、来ては去っていく幻です。


どんな富を手に入れても、その人は心の中で自分が貧しいことを知っています。

どんな権力を手に入れても、本当は自分が無力だということを知っています。

地位も名誉も、たった一日で失うことになる可能性を知っています。

愛する人とも、いつかは別れなければならないことを知っています。


最終的には、死がそのすべてを奪い去っていきます。

得たものすべてが、表面上の見せかけに過ぎなかったことを証明します。

死は真実を明らかにするのです。


外側に映し出された世界に埋没しているかぎり、人は本来与えられている力を見失い続けます。

本当の力は内側にあり、そこに触れた者だけが安心を得ることができます。


本当の力とは何でしょう。

それは、死を超えていく力です。

生まれる前から、そして死んだ後にも、永遠にあり続けている力があります。

ひとたびその存在を知れば、人生は根底から変容します。

初めて確かなものに触れたからです。


そんな人の目を覗けば、安らかな落ち着きと信頼が見て取れるでしょう。

そこには、海のように全てを包み込む深さがあります。


その人が見ているものは、絶え間なく変わる世界の背後にある、変わることのない本質、本当の力、別の言い方をすれば神そのものです。


この世が映し出す喜びや悲しみの背後に神を見るようになったとき、その状態を目覚めと呼びます。


本当の力は、すでにすべての人に与えられています。

生まれもせず、死にもせず、永遠に変わることのない力です。




今日もまた、思ったままをつらつらと書き記してみました。

このようなブログも表面世界の出来事の一つに過ぎませんが、せめて真実を指し示すナビゲーターでありたいと願っています。







   


・・・・・・・

名古屋講演会のお申し込みは終了しました。

お会いできるのを楽しみにしています。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:14Comments(131)

2012年05月17日

光明への道

修行にはいくつかのジャンルがあります。

そのひとつは、気づきと共に生きる道、覚醒と留意の道です。

思考はいま以外の何かを求め続けますが、そのような作用を断ち切って、いまあるがままの現実と共にいることです。

自分に与えられたいま以外のところで、誰かが至福を得ている、もっといい人生があるはずだ、このままではいけない、何かを得なければ、何かを達成しなければ・・・これらの思いを断ち切って、「あるがままのいま」にくつろぐ、「あるがままのいま」を全面的に受け入れる、それが光明です。

したがって完全に「いまここ」に戻ってくればそこがゴールです。

最初の一歩が最後の一歩。

僕たちが幸運なのは、いつだって「いま」なので、いつだって最初で最後の一歩を踏み出す機会が与えられていることです。



なぜこのようにシンプルなことが人間には難しくなってしまったのでしょう。

その理由のひとつは、心にため込んできた無数のこだわりが、「いま」を受容することを拒否するからです。

そのこだわりが「観念」であり、違う言い方では「カルマ」と呼ばれます。


このようなこだわりは、感情の記憶と結びついていて、しかも心の奥底に巣食っているので、なかなか解消することができません。

解消しないまま「いま」を受容しようとしても無理な話です。

それはちょうど、体にたくさんの重りをつけたまま、自由に泳ぎ回ろうとする試みと似ています。



僕は、いまここへの気づきの前に、それを妨げている心の重りを除去することを重視しています。

皆さんに奨励する瞑想も、そのためにあります。


瞑想以外にも、自分にあった癒しの道があればそれもいいと思います。

その際は、あらゆる癒しの道が「愛」によって生じることを覚えておいてください。

誰かが誰かを癒すのではなく、その場に生じた愛のレベルの波動が、癒しを起こすのです。

ヒーラーとは、愛の人です。


愛はいつも「いまここ」にあります。

癒しはいつも「いまここ」で起きます。


瞑想も、気づきも、「いまここ」で生じます。


入り口は違えども、あらゆる道は「愛」に通じ、それは「いまここ」にあります。

深い愛は瞑想状態に通じ、深い瞑想は愛に通じています。

この2つは同じものの両側です。


まずは自分自身を癒すこと。

そして最初から完全だった本当の自分を思い出すことです。


そうすれば、「あるがままのいま」を全面的に受け入れることが可能になります。


そこに光明があります。






   


・・・・・・・

【お知らせ】

名古屋いまここ塾は、残り席わずかです。

詳細はコチラから。

次回沖縄いまここ塾は6月7日(木)に予定しています。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:59Comments(118)

2012年05月16日

無限の彼方へ

ブログは記録が残るから面白いです。

その時々の自分が息づいていて、ここには人生の写しがあるように思います。


内側で感じていることや、存在に対する理解は20数年前から何も変わりません。

こればかりは、これからも変わりようがないでしょう。


でも変わらぬ真実を感じている生身の自分は、あきらかに変わり続けています。

自分という乗り物には、いくらでも成長の余地がありそうです。

ある種の人格のようなものかもしれません。

社会用に磨いた見せかけの人格ではなく、あるがままの人格です。


昨日載せた昔のボツ記事(ボッキ時ではない)が語る真実には何一つ異論はありませんが、いまの僕なら書かないであろう表現が1つあります。

それは

「修行生活なんてチャンチャラおかしい」

という一言です。

きっと書いたときは、『戒律や枠の中で生きている人』に対するメッセージのつもりだったのでしょうが、現在ならもっと違う表現をしたと思います。


僕がいまの瞑想を本格的に始めてから僅かに4年ですが、この4年間でずいぶんと人となりが変わった気がします。

それは家族たちも認めるところで、僕が変わったからみんなが瞑想をやりだしたのでしょう。


自分で言うのもなんですが、僕はこの数年間で気持ちが優しくなりました。

まだまだ未熟な面が残っていますが、それでも画期的な変化です。

ということは、これからもいくらでも成長の可能性が残っているということです。

もし完全無欠になったとしたら、それは止まってしまったということで、もはや生きているとは言えません。


宇宙全体が永遠の生き物です。

したがって、成長は無限に続いていくのだと思います。


成長を促す道を「修行」と言うのなら、「修行」は何よりも大切です。

修行法は様々あると思いますが、いまの自分に合った修行を積むのは、とても価値があることです。


どんなに深遠な真実を理解したとしても、本物の人格が備わっていなければ何の意味もないと思うようになりました。


だから5年前の僕に会ったら、こうアドバイスします。


5年前の僕
 ↓

( ̄ヘ ̄) 「修行なんてチャンチャラおかしい」



いまの僕
 ↓

(⌒▽⌒) 「修行しなさい」




無理に性格を変えようとは思わないし、これからも自分らしさをイキイキと生きようと思うけれど、修行を重ねたらどんな自分らしさが出てくるのか楽しみです。

修業とは何かを身につけることではなく、あるがままでOKの自分が、さらにピュアであるがままの自分になっていくことだと思います。


たとえいまの自分がどんなだとしても、誰もの人生はいまから始まっていくのだから、みんな同じ条件ですね。


・・・・・・・・・・


人生は飽きないな。

こんなに面白いゲームを創り出したなんて、作者は天才か神かどっちかだ。


これからも、やりたいことをやって生きるとしよう。


え?一番やりたいことは何かって?

それはね、みんな根っこは同じものだし、みんな宇宙のメンバーだし、最初から愛の中にいて、最初から守られていて、これからもずっとそうだよって、縁があった人たちに伝えていくことかな。


あれ?それだけは昔から変わってない。

きっとこれからも変わらないと思う。


死ぬ間際に、こう言うんだ。

『み・・ん・・な・・・だいじょうぶだからね・・・、

それじゃ・・・・・お先に・・・(^o^) 』







   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(124)

2012年05月15日

ボツ記事

こうして毎日のように記事を書いているけれど、ボツにした記事も多数あります。

今日はそんな中から埋もれていた記事を載せてみます。


2007年10月のボツ記事です。


・・・・・・・・・


若いころ、僕は社会の一員だった。


ある時、社会を後にした。

完全に後にした。

人はそんな僕を、落伍者・ヒッピー・精神かぶれと呼んで蔑んだ。

しかし彼らからの非難は、心に何の影響も与えなかった。

誰に属することもない。

誰からも支配されず、誰をも支配しない。

僕は集団の一部ではなく、徹底的に個人になった。

なぜなら覚醒とは集団に起こることではなく、個人に起こることだから。



いま再び社会の中にいる。

しかし社会の一員ではない。

誰からも支配されず、誰をも支配しない。

いまもなお、僕は集団の一部ではなく、徹底的に個人だ。


宗教など論外だ。

修行生活なんてチャンチャラおかしい。

誰の真似もしない。

完全オリジナル版人生だ。


ヒッピーも卒業した。

内なる気づきを生き方で表現するのも止めた。

気に入ればブランド品を身にまとい、快適な生活を楽しむ。

やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。


だって僕は天地宇宙の王だから。



・・・・・・・・


あはは、なんて傲慢な宣言だ。

たった5年前なのに、激しさと若さを感じる。


でも言いたいことはわかる。

いまも、まったくもって同感だ。



最近はすっかり好中年になったなァ。







   


・・・・・・・


とはいうものの、講演会ではあいかわらず言いたい放題ですね。

ソロ公演会は久しぶりの気がします。


今日から名古屋講演会の申し込み受け付けを開始します。

6月3日(日) 13時スタート

詳細はコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:15Comments(85)

2012年05月14日

ゾルバ・ザ・ブッダ

長かったような、短かかったような・・・

4月26日から始まったボブさんのツアーが終了。

来てくれたみなさん、そして応援してくれたみなさん、ありがとうございました。

有意義な日々でした。



終わってみて思う事・・・今更ながら僕はただのオッサンだということ。

ボブさんも優しいい一人のオッサンだ。


ただのオッサン達が、現象界を超える次元を感得して、肉体と魂の両方を生きだした。

でもそれにしたって、気づいているにしろ、いないにしろ、本質は誰もがみんな同じなんだから、この世に特別な人なんていないんだよね。

これを言うと怒る人がいるけれど、あらゆる宗教の教祖さんも歴史上の偉人とされた人も、ただの人だ。

だってみんな同じ人間種だから。

精神世界のメッセージを書いていると、中にはこんな僕にさえ覚者のファンタジーを持つ人がいて、たまにはその期待に応えようかなんて、ちょっと気取ってみたりもするけれど、長続きしないからすぐバレちゃう(笑)



別れ際にボブさんが言った。

「この世はマーヤ(幻想)だ。だからマーヤをエンジョイしている。see you my friend.」




あー、それにしても清々しい朝だ。


これから沖縄に帰ります。



みなさんもよい一日をね(^o^)







   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:47Comments(149)

2012年05月12日

照見五蘊皆空 度一切苦厄

「すべての現実は自分が創り出している」

この言葉は精神世界系の書物で繰り返し語られてきました。

多くの人が一度は聞いたことがあるでしょう。


しかし、この言葉の意味をどれくらいの人が理解しているでしょうか。

知的に所有していても、完全には納得していない人もいることでしょう。

ましてや、いま苦境の中にいればなおさらです。


犯罪や災害の犠牲者に「すべての現実は自分が創り出している」などと言えるのかという抵抗もあるでしょう。

思考は様々なケースを引き合いに出して、この言葉が真実かどうか検証しようとしますが、残念ながら思考レベルで理解することはできません。



昨日はタイトルに「根本的な道」と書きましたが、あれは分離意識の中での「根本的な道」にすぎません。


究極の真実から見れば、あらゆる問題や、あらゆる苦しみの原因はひとつだけです。

それは「個としての自分」が存在するという錯覚です。

したがって「根本的な道」とは、本当の自分は全知全能の神であり、その自分がありとあらゆる現実を創り出していることを思い出すことです。

この世には「神である自分」しか存在していないのに、その自分をわざと忘却状態にして、困難な現実を創り出して遊んでいるのが人生です。

この遊びは細部にわたって精密にできていて、実際には全知全能な自分を、これでもかというくらい無力で卑小な存在に貶めることで成り立っています。


苦しみのさなかに、真実の自分を思い出し、本来の力を取り戻せれば、現実(そう見えるもの)は一変します。

このアプローチが「根本的な道」です。



言葉はもどかしいですね。

こんなことを書いても仕方がないと思いつつ、これからも書き続けるのでしょう。

誰かのインスピレーションにつながることを願いながら。







   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:12Comments(146)

2012年05月11日

根本的な道

いま福岡に到着しました。

ここがツアー最後の場所です。

PCを開いてみなさんのコメントを読ませてもらいました。

僕にとってもここは和みの場所になっています。


yさんからの質問です


阿部さん
唐突で申し訳ございませんが、苦しいので質問致します。

離婚して何年も経ちました。

罪悪感と恥の気持ちから中々、抜け出せずにいます。

子供の親権は、こちらなのですが、慰謝料と養育費は無かったので、今もあちら名義の家に住んでいます。

当初は、子供も自分も積極的に生きていたのが、段々と無気力になり、世間にも背を向け、引きこもりになりました。

まるで、カフカのグレーゴルみたいです。

周り(親族)の人達の言う事にばかり気を遣い従って、自分の気持ちの感じ方は遠くへやっているうちに、いまここに生きていない自分。

自己嫌悪と恥の塊の自分と同様に、子供も自信を無くていきました。

他人の目が怖くなり、対人関係も嫌になりました。あちらの親が、離婚後に異常なまでの孫執着も原因だと思います。

親族の言う事を聞かずに、あちら名義の家に住まないで、さっさと引っ越していれば良かったとも思いますが、あちらの親が血眼になって探して来ると思うと、何処に行っても結局同じかと諦めてしまいました。

でも、毎日、朝の小鳥たちの声を聴いたり、風の音を聴いたり、窓の外を眺めていると、もう一度自然に触れたいと思います。
やはり、愛が無くなったのが最大の原因だと思います。

将来ある子供の為に、これから、どの様にしたら良いのでしょうか?

絶望感に苛まれて、混乱状態です。

阿部さん達の様に、友人に囲まれて、素敵な笑顔の出来る自分になりたいです。

引っ越して、環境を変えて、やり直せるでしょうか?

どうしても、あちらとあちらの親には、今後一切は逢いたくありません。子供も同じ気持ちです。すみません。宜しくお願いします。




yさん

実際にあたなにお会いしなければ適切なアドバイスはできません。

文章から波動をくみ取ることもできますが、それには限界があるからです。

できる範囲で書いてみます。


まず気になるのは、あなたが100%被害者の立場にいるということです。

私は正しいのに、こんな目にあっているという立場です。

耳が痛いかもしれませんが、いまのあなたの解釈も感情も、あなたの意識が作り出しているということを認めなければないけません。

子供の状態も、そのようなあなたの影響が大きいと思います。

もしあなたが本当に今の状態から抜け出したいのであれば、別れた夫やその親に対する気持ちを、少しずつ変えていくことです。

彼らを安心させてあげてるのです。

それはあなたが自己犠牲をすることとは違います。

いまの状態からは見えなくても、あなたの意識が変われば、いまよりも良いアイデアが見つけられます。

と同時に、あなたが変われば、あなたの子供も、そして先方の家族の意識も変わっていくことでしょう。


まずはあなた自身の癒しが必要なようですね。

最も早く癒される道は、最もあなたが苦手とする相手を愛そうとする試みです。

いまの苦しさの中には、あなたが成長するための推進力となる燃料がたくさん含まれています。

成長することを恐れずに、愛を選ぶ勇気が持てるかどうかです。

少しでも参考になれば幸いです。

あなたが以前のようなあなたに戻れますように。



さてこのような質問にいつも答えられるわけではないことをご理解ください。

むしろそれを読んだみなさんのサポートやアドバイスをいただけたらありがたいです。


ここが、苦しんでいる人たちに少しでも光を指し示す道になれたらいいですね。
  


Posted by Toshiro Abe at 17:52Comments(114)

2012年05月10日

南無観世音

ボブさんが来日して二週間。

ほぼ休みなしで全国を回らせてもらっています。


先日、比叡山の堀澤大僧正が、大阪会場まで応援に来てくれました。

83歳になられる今も、仏教界の重鎮としての職責を果たしながら、日々魂の向上に努められています。


堀澤さんを見ていると、徹底して生きることの清々しさを感じます。

よくメール交換をしているのですが、二人の間では、お互いを「敏ちゃん」「門ちゃん」と呼び合うようにしていて、大先輩であるのと同時に、兄弟のような親しみを与えてくれる人です。


僕は常々、人間の価値は温かみによって決まると思っていて、門ちゃんはまさに慈愛の化身のような人で、僕自身もそうありたいと願っています。


僕が体調不良になったことをずいぶん心配してくれて、今朝早くメールで自らの健康法を送ってくれました。

また時期をみて、みなさんにもご紹介したいと思います。



いまでも幼子のような心を持つ門ちゃん、同じく赤子のようなボブちん、こういう先輩に巡り会えた幸せを、先日撮った一枚の写真でお裾分けします。















   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:46Comments(169)

2012年05月09日

Love is real, real is Love

昨日のコメント欄にコメントを残してくれた、ブラー久美子さんは、僕の従姉(いとこ)です。

幼いころは姉弟のようにして育ち、周囲からは「そっくりだ」と言われ続けました。


いま彼女はNYで画家として活躍していますが、主に人物画を専門にしています。

彼女の絵を見るたびに、人間の息吹のようなもの、そしてその奥にある魂を感じます。

外側の見てくれがどうであろうと、その人の中を生きている最奥の魂は同じものであり、その同じものがあなたの中を、そして僕の中を生きているのです。

彼女は絵を通して、その真実を表現しています。


昨日のコメントではこのように言っています。

「敏郎さんがおしゃった『水は容器によって形がかわるけれど本質は不変』なように、私は、お釈迦様もイエス様もアラーの神様も、”同じもの”が違ったイメージで現れたと実感しています。

仏像にみえるわたしの絵も、本質は”キリストの愛”、”キリストのピース”と同じなので、そういうタイトルを付けようかと思ったのですが、言葉はラベル、やめました」



NYに暮らしていたら、イエスとアラー神との対立を間近に感じるでしょうね。

対立は人間が作り出したもので、存在の源はひとつであり、その真実は個々の内なる体験によって明らかになります。


彼女は、いままでにも大きな賞を受賞してきましたが、今回の受賞にはネット上での投票が必要なようです。


「敏郎さんの
”みな同じものの一部であることに変わりなく、また究極的には時間が存在していない”
を絵で表しました。

生けるものはすべてここから来ているので”同じものの一部である”ことになるかと思うのですが。

私はニューヨーク在住のブラー久美子という画家です。

”ノータイトル”というこの無色の仏像の絵は、あのけばけばしい騒音だらけのタイムズスクエアにぴったりだと思い、6月のタイムズスクエアショウに応募しました。

入選するには多くの人のクリック(画面上部にある”Collect Me")が必要です。

どうぞ皆さんのご協力をお願いします。

Let the world see
"いまここ”」



もし絵を気に入ってくれたらクリックお願いします。

久美子さんの絵は、コチラからお入りください。




昨日から札幌にいます。

今日もまたみなさんとお会いできることを幸せに思っています。



無数の僕がみんな幸せでありますように。







   


・・・・・・


【お知らせ】

6月の講演会は、名古屋と東京です。

名古屋 6月3日

東京 6月24日

名古屋は近日中に受付を開始します。


5月27日の東京講演会に来られなくなった人は、なるべく早くキャンセルをお申し出ください。

よろしくお願いします。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(138)