2019年04月30日

人生悔いなしって?

来てくれてありがとう。







平成が明けたころは、大きな試練の中にいました。

昭和の後半までは天下を取ったくらいの気持ちでいたのに、その後、坂から転げ落ちるみたいな経験をしていたのです。


そんな気持ちを抱えたまま天河神社に行きました。

もともと神社には関心がなかったので、よほど大変な時期じゃなかったら行かなかったと思います。


何かとの出会いで生じるご縁は、出会ったときの自分の状況によっても大きく左右します。

その状況も含めて、ご縁なのでしょう。



人生で様々な計画を立ててきたけれど、そんな計画とは別に起きることが起きてきました。

そしていま思うのは、そのすべてが計画されていたのではないかということ。


自分が選択したのではなく、そのようにしか起きなかったということ。


うまくいくものはうまくいくし、

どうにもならないものは、どうあがいてもうまくいかない。


そもそも何かを選択しているような「主体的な自己」は存在していないというのが、行きついた答えです。



文字通り、一から十まで見えない大きな力によって生かされている。

そう思うようになってから、さらにものごとが順調に流れ始め、いまに至っています。


皮肉なことに自力で頑張ろうとしていたころより、ずっと簡単にことが成就していきます。

そして成就しないものにしがみつくことも無くなりました。



「人生悔いなし」


それは、すべてが思い通りだったからではなく、全力で頑張ったからではなく、そうでしかなかったことを認めた人の言葉だと思います。



なにが起きても、お陰さま。


これを信仰心と呼ぶのでしょう。




今日は何十年に一度の大晦日みたいな日ですね。

あなたはどのように過ごしますか。


僕は沖縄リトリートに来てくれた人たちと新しい時代をお迎えする予定です。



すべての生きとし生けるものたちに、幸あれ!









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Posted by Toshiro Abe at 10:40Comments(24)

2019年04月29日

拝啓天皇陛下様

来てくれてありがとう。







拝啓天皇陛下様


ありがとうございました。

感謝の気持ちでいっぱいです。


陛下は

「国民に降りかかる苦しみは、一度私を通してからにしてください」

と祈られていると聞きました。


そのような気持ちが伝わってくるからでしょうか、

お姿を見ているだけで心震えるこの感覚は理屈では説明できません。

言葉を超えた何かを直接感じるのです。


いままでに、どれくらいの国民が勇気づけられたことでしょう。



人間がそこまで美しくなれることを、天皇皇后両陛下が身を持って教えてくれたように思います。



感謝の気持ちとともに、私たちも新しい時代に進んでいきます。



お疲れさまでした。


そしてありがとうございました。








この国に生まれてよかった一国民より













  


Posted by Toshiro Abe at 10:20Comments(32)

2019年04月28日

上出来だ!

来てくれてありがとう。







あらゆるものが、いま同時に存在していて、そこに分離などありません。


人間が持つ「自己」という感覚だけが分離しているように見えます。



でも分離しているように見える人間も、常に全体とのつながりの中にあり、我々は一時も休むことなく全体を吸ったり吐いたりしているのに、自分は分離していると言い張るのです。



実際のところ、我々と自然は「相互依存」で共生しています。


相互依存という言葉の意味をはっきりさせておきますが、

相互依存というのは「関係」でさえありません。


関係というのは2つの独立した存在の間に起きることですが、相互依存というのは有機的に一つになっているということ。


我々は全体を呼吸し、同時に全体が我々の中で呼吸している。


存在しているのは、分離のない全体だけです。



あらゆる精神的な苦しみは、自分は全体から分離して、単独に存在しているという誤解に基づいています。


この誤解こそが「無明」という言葉の意味するところです。




しかし誤解というのは誤った解釈のことであり、真実ではありません。

真実だけが存在しているので、無明というのは実際には存在していないことになります。


「無無明」


だから無明だろうと、どうってことないのです。



真実を体現しようが、誤解の中にいようが、どちらも真実の上に現れているわけで、そのような観点から言えば、目覚めていようと眠りこけていようと、どちらも同じです。


でも、すっかり眠りこけてうなされている人がいれば


「大丈夫、すべては夢だから」


と言って回りたくなります。



それは、良い夢を見ている人にとっては迷惑な話かもしれません。


人の夢を邪魔するなって(笑)






さて、目覚めようが目覚めまいが、どちらにせよ夢は続いていきます。

変な話ですが目覚めた後も夢は活動し続けるのです。


何故かと言うと、個人的な夢が終わっても集合意識で見ている社会という夢が残るから。


結局はそこに参加することになります。


でもその劇からは義務が消えているので気楽になっています。




で、つまるところ、なんだって大丈夫だってことです。




今日もこうして生きているじゃない。




無明のわりには上出来だ!







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Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(25)

2019年04月27日

何も起きていない?

来てくれてありがとう。







こうして毎日綴っていますが、どれくらい届いていますか。



例えば昨日のブログで、


「究極的には何も起きていない」


と書きましたが、それを読んだとき、どのように感じたでしょうか。



読み流して何も感じなかった人もいたかと思います。



あるいは、

ふーん?

何のこと?



あるいは、

またわけのわからないことを書いているな



あるいは

何も起きてない??

いまもこうして起きているじゃないか!!



あるいは

究極的ってどういうこと?



もし本当に何も起きていないということを理解したとしたら、それだけで天地がひっくり返るか、人生そのものが根底から吹き飛んでしまいます。


そして文字通り、真実の次元(空の次元)では何も起きていないのです。



面白い映画に魅了されて、すっかり映画と同一化していたのに、映画が終わってあたりが明るくなってみれば、何も起きていなかったことがわかるのと似ています。


そのことがわかった上でスクリーン上に繰り広げられる人生を生きるのと、そんな人生に埋没してしまうのとは大きな違いがありそうです。



何も起きていないなんて嫌だ!!と思う向きもあるかと思いますが、本当に何も起きていないとしたら、こんなに気楽なことはありません。


今までにも何も起きてこなかったことへの安らぎ。


これからも何も起きないことへの安らぎ


そんな絶対的安らぎを持ったうえで、波乱万丈の人生ストーリーを楽しむとしましょう。



「不生不滅」


「不垢不浄」



「究極的には何も起きていない」


この言葉をもう少し味わってみませんか。






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Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(30)

2019年04月26日

基本的な信頼

来てくれてありがとう。








幸せは不幸に、快楽は苦痛に、そしてその逆もまた起きていきます。


生というのは二極間の振り子運動みたいなもので、二つの間を行ったり来たりしているのです。



それなのに人は、片方だけを自分のものにして、片方を遠ざけようとします。


そんなことはできないのにね。




我々が学ぶべきは、いかに幸せにだけなるかという方法ではありません。

そんなことはできないのだから。



我々が学ぶことは、どちらが来ても生の流れだと理解して、その流れと共にあることです。

そこには生に対する基本的な信頼があります。






これからも、いろんな思考や感情が湧いてくることでしょう。


切羽詰まった事態になって、さあどうしようとうろたえるかもしれません。


でも事実はその瞬間、そのような思考と感情が湧いたというだけのことこと。


究極的には何も起きていません。




幸せな感情も


不幸せな感情も、


どちらも来ては過ぎ去っていく。



そんなふうに達観して生きていけたらいいですね。
















  


Posted by Toshiro Abe at 09:41Comments(18)

2019年04月25日

沈黙の中で

来てくれてありがとう。







いつだったかコメントに

「阿部さんは陰謀論がお好きなようだから・・・」

という書き込みがあった。


どうして僕をそのように思ったのかは分からないけれど、僕はむしろその手の話は好きじゃない。


というか、どうでもいい。



世界の影の支配者だとか、

金融システムの陰謀だとか、

すでに宇宙人が入り込んでいるだとか、

歴史の中で隠されてきた議定書みたいな話だとかを

さも重要そうに持ち運ぶ人は、

誰も知らない情報を私は知っているという特別感が満たされるのだと思う。



そんなことより、いま飲んでいるお茶がいかに熱いかのほうがずっとリアルだ。


そしてこの饅頭は上手い。








お互いの静寂だけが、言葉にできない真実を共有する道だ。


心の壁が払われた時、「それ」がある。



この真実の前には、どんな情報も虚しい。



目覚めへの欲求も、スピリチュアルな探求も、この世のゴタゴタも、ぜんぶ脇に置いて静かに坐ったとき


そこに流れるものこそが、


唯一のメッセージだ。







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Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(24)

2019年04月24日

ワンネス

来てくれてありがとう。







昨日書いた「永遠の瞬間」ですが、この時のことについてもう少し書いてみます。



今でも一番印象に残っているのは、まず最初に宇宙空間に浮かぶ地球が見て取れたこと。


そしてこともあろうにその地球には人間と同じ顔があって、それがなんと自分の顔だったんです。





ただ無表情の、見慣れた自分の顔がありました。


しかしそれはとてつもなく巨大なものでした。





僕はすべてのビジョンは、意識が描き出しているのではないかと考えています。


実際に宇宙空間に、僕の顔をした地球が浮かんでいて、それを僕がどこかから眺めていたということではないと思います。



多分何らかのメッセージが、そのような映像として現れたのでしょう。




それではどんなメッセージか。

このことについては明確に言うことができます。



その「永遠の瞬間」の中で確信したことは、


この地球も、地球上に存在するすべての生きとし生けるものたちも、


何もかもがすべて自分と同じ意識によって作られていたということ。



文字通り全ては一つで、それは他でもない自分自身だったということ。



それが自分の顔をした地球という映像になったのだと思うのです。




この顔はあなたが見た場合はあなたの顔になります。


すべてが自分だという真実が、そのようにして現れるわけです。



すべてが文字通り自分だとしたら


あとはみんなで仲良くやるしかないですよね。






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Posted by Toshiro Abe at 09:38Comments(21)

2019年04月23日

オリオンのベルト

来てくれてありがとう。







いつもチェンマイツアーのガイドをしてくれるYさんが、外国のチャネラーさんの通訳で天河神社に行っているそうです。



そこでチャネラーさんと宮司さんの通訳をしたらしいんだけど、かなり難しかったはず。



宮司さんは

「私はオリオンのベルト出身です」

と仰ったのだとか。



そういう話は僕にはしないけど、相手によっていろんな話をするんだなァ。



実は僕自身も子供の頃から、夜空を見上げると必ずそこにオリオン座があって、冬の星座で一番目立つから、たまたま目に付くんだろうって自分に言い聞かせていたけれど、でもちょうど見上げたところに必ず3つ星があるのは変な話だとは思っていた。




そのことを30年前に宮司さんに告白したことがあった。


その時は

「そりゃあんた、へその緒が繋がっているさかいに」

と、なんだかよくわからないことを言ってくれた覚えがある。



その宮司さん本人が

「私はオリオンのベルト出身です」

と言ったとしたら、すごいファンタジーを想像してしまう(^^)







僕は宇宙のことを何も知らないけれど、少なくとも宇宙を時間や空間で捉えようとしたら無理があると思ってきた。


そんなあるとき、時空間というのは三次元に住む人間の錯覚だと感じた瞬間があり、「やっぱりそうだったか」と思った。


その瞬間を言葉にすることはできず、一つ言えるのは、そこで見たものは、この三次元の現実よりもっとリアルだったということ。



三次元の中で人間は、時間と空間という幻想を基にして、人生という夢を途切れなく作り出しているということも分かった。


それは、すべてが夢だったということへの最初の洞察だったし、すぐにいままでの仕事をあっさり止めさせるだけの力がある「永遠の瞬間」だった。




そんな観点から話をすれば、


「私はオリオンのベルト出身です」

という言葉も、何光年先のあの位置にある星から来たというのではない、何かもっと違う意味を感じてしまう。


こういうことは、三次元にいるかぎり分からないのだが、分からないものは分からないでいいのだと思う。




そうそう一つ思い出した。



その「永遠の瞬間」の中にいる時


「これは分からないわけだ」


と静かに納得したこと。



そのときは何かを分かっているのに、こればかりは普段は分かりようがないということが分かるのだ。



いまとなってはいくら考えても分からないのだから、それらすべてを司っている全体にお任せして、今日も心安らかに過ごすとしよう。







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Posted by Toshiro Abe at 09:58Comments(26)

2019年04月22日

変わったなァ その2

もう一年半くらい前になるかな。

そのころから急に、講演をするということへの意欲が無くなっていった。


沖縄で毎週開いていた講演会は少なく見積もっても300回。

それ以外に沖縄県の自治体や学校などに呼ばれた講演も30回くらいはあっただろう。


東京の講演会もいまの会場になって早10年。

ほぼ毎月やってきたから、こちらも100回以上はやったことになる。


それ以外に、名古屋、大阪、博多など地方都市でも合計すれば100回以上やっているから、相当数の講演をさせてもらったわけだ。


あらかじめ話を用意するわけではなく、その瞬間に感じたことを話すわけで、よく続いたとは思う。



それが急に気持ちが失せてきたのにはいくつか理由がありそうだ。


一つは、10年前には新鮮だった「真理」に関する話も、いまや多くの書籍や解説者が登場し、一般に浸透してきたこと。


だから10年前に話したようなことは、もういまさら話す必要がないと感じるわけで。







話なんかよりももっと大事な事があるような気がしてきた。


たとえば、いまここの全体を皆で実感するとか。

昨日みたいな講演会でも、最後にやった瞑想が一番真理を表しているように思うのです。




同じようにこのブログも、言葉の提供ではなく、「いまここ」の共有になれたらいい。


そんな文章を書いてみたいものだ。





白紙のブログ??











それなのにこれだけはあったりして









すでにブログを書くことは毎朝のお勤めと化しているので、これからもなんだかんだ書いていくのだと思います。


変わっていくものの中で変わらないものを表現していきたいと思っています。



ここに何かを感じてくれる人は付き合ってください。







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Posted by Toshiro Abe at 09:18Comments(20)

2019年04月21日

変わったなァ

来てくれてありがとう。








よっこらしょっと。



縁側に座って、こうしてお茶を飲んで、かたわらには老いた猫が日向ぼっこ。



あれ?


この絵ってどこかで見た気がする。


そうだ、若いころに描いていた老人の典型的な姿だ。


いまやなんの違和感もなく、完全に老境に入っている(笑)






おかしいな、まだ内側にはあの若いころの情熱が残っているとういうのに。


幼いころの好奇心だってなくしちゃいない。


でも、こんな一杯のお茶で至福に浸れるなんて・・・


変わったなァ。




存在は何も変わっていないのに、その存在に対する味わいみたいなものはずいぶん変わった。


たぶんこれは誰にでも訪れる変化なのだろう。



腹が立つことも減ってきたし


街でいい女を見ても、振り向かなくなった(^^;)



何かを成し遂げようとか、何者かになろうとか、そんなことはどうでもよくなった。



若いころは何でもできるのが自由だと思っていたけれど、

いまは、何もしなくてもいい自由を感じている。



どちらがいいかって。


そりゃあーた、いまのほうが断然いい。



まるで若いころが一番いいみたいな風潮があるけれど、人生を振り返ってみればいまが最高だ。


でもこの最高は、最高じゃないものをたくさん生きてきたから分かるのであって、やっぱり人生無駄なしだなァ。




そんなわけで、オイちゃんは今日もこうして渋茶を飲んでいるのであった。




そうそう、今日は講演会だった。


こんな僕の話を聞きに全国から人が来てくれるのだから、なんてラッキーなんだろう。


今日もいろんな話を聞かせてあげるからね(^^)/




どちらさまも、ごきげんよう。



よい日曜日をお過ごしください。














  


Posted by Toshiro Abe at 09:19Comments(16)

2019年04月20日

ノーマインド

来てくれてありがとう。








頭はシャキっと冴えているのに

言葉が何も出てこない。


何か話せば仮の話になってしまう。



話はマインドを強化するばかりだ。



「マインドから出ておいで」


それだけがメッセージだというのに




マインドはあらゆることを説明してくれる。


真理とは何なのかということさえ説明してくれる。



真理は「いまここ」だ



すると人は思う


「いまここ」か、そうか、わかったぞ。



「いまここ」がわかるのと、「いまここ」に在るのとはまったく違う。



何事も、わかるのはマインドの中でのみ。


「いまここ」にある時は、マインドが消えている。



マインドの介入なしにリアリティを直接感じる練習をしてみよう。



たとえば雄大な景色を見ながら、そのことについて何も考えないこと。


ただ景色そのものになって、黙って佇んでいる。



心の中も静かなままだ。



「なんて綺麗なんだ」


とか、一切の言語を捨ててみる。



「綺麗」と言った瞬間、そこにマインドが入っている。




なぜ言葉で決めてしまうのだろう。


「綺麗」と言ったところで、雄大な自然はただそれをやっているだけなのに。







マインドを持ち込まない練習。

これは練習することができる。



そんなに難しいことじゃない。

対象と一つに統合されて、その場になり切っているだけ。


ちょっと練習すれば、その感覚を取り戻すことができるだろう。

なぜならそれは、幼少のころに、当たり前にやっていたことだから。



マインドを持ち込まずに見る能力。


マインドによって脚色される前の、あるがままのリアリティと出会う能力



これが「一期一会」という言葉の本来意味するもの。


そこにはなんの先入観もない。



マインドを持ち込まない術にたけてくると、その時初めてマインドを優秀な道具として使うことが出来る。



それまでは、無意識のうちにマインドに使われているわけで、


マインドという牢獄の中で、しがらみでがんじがらめになった人生を生きることになる。




実に簡単な話。


世界のどこかに自分を高めてくれる魔法のメソッドがあるなんて思わないこと。


我々を根底から救ってくれる技法は、この世で一番容易いときている。


ただ、いまになりきるだけ。





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Posted by Toshiro Abe at 09:35Comments(22)

2019年04月19日

4月18日

来てくれてありがとう。






やりがいのある仕事に熱中しているときの時間と、何もせずにぼーっとしているときの時間。


イライラしているときの時間と、平穏な時間。


どちらの時間が、より価値があるだろうか。


それはどちらも同じこと。



いつも、ただこうして、いまが起きているだけのこと。


そして、それしか起きていない。






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Posted by Toshiro Abe at 12:37Comments(21)

2019年04月18日

ホントの話は身もふたもない

来てくれてありがとう。







いくらホントの話でも、昨日のような話し方は身もふたもない。

だって、何から何まで全部思い込みだって言うんだから。


せめて一つや二つは思い込みじゃないことが残ってもよさそうなものだけど、何一つ例外なく、ぜ~んぶ思いこみ。



その意味分かりますか?


って聞いておいて、分かるわけがないことも知っている。

意地悪を言っているんじゃなくて、これは思考では決して分からないことだから。



考えというのは対象を持っているから、それそのものにはなりえない。


考えというのは、その瞬間に湧きだしただけの架空のもの。

ところがその考えで作った世界を持続させ、その内容に取り組み、あーでもなー、こーでもないって生きているんだ。



いい?

あらゆる考えは、その瞬間だけの現象なんだよ。


でも人はそこから世界を作り出す。

架空の世界をね。







だからと言って、目の前にパソコンもコーヒーカップもないわけじゃない。


そんな名前で呼ばれる前の、あるがままのそれらとして、いまここにある。



目覚めると、「私」も「世界」も消えるという言い方をよくするけれど、

それは暗黒の無の世界になるんじゃなくて、

ただあるがままがあるがままにあるだけになる。


そのあるがままの上に投影していた、「私」と「世界(私以外のすべて)」という幻想が消えるんだ。




いつも奨励しているストップ瞑想。


これをやる時は、今日ここに書いたことの実践だと思ってやればいい。


あらゆる行動を突然やめて、ただその場に佇む。


それまで生きていたストーリー(世界)から身を引いて、誰でもない人として、ただあるがままのいまに存在してみる。



見えるもの、聞こえる音、肌の感触



そこに一切の判断解釈を加えずに、ただあるがままにある。




ここから生まれたのが坐禅だ。


このような経験の中に真理があるのであって、言葉や文章の中ではない。


だから禅の本来の姿は、仏教を学ぶのではなく、体験的にいまここの真理をつかまえようという実践なんだ。


どんな真理への考えも、「戯論(けろん)」だとして相手にしない。



直(じき)に自性を証ずれば

自性すなわち無性にて

すでに戯論(けろん)を離れたり




白隠禅師の坐禅和讃もこのことを言っている。

この先この部分を読むときは、言葉の意味を感じながら読むようにしよう。



ここにこそ根底からの救いがある。


それは苦悩の世界からの唯一の脱出口だ。




そんなわけで、しつこく同じ話を繰り返すのであった(^^)







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Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(21)母家にて

2019年04月17日

無題

来てくれてありがとう。







昨日、コツコツやることを奨励したら、自分は怠け者だから。。。というコメントがありました。


自分をそのように感じている人って、ここの中に多いかもしれない。




でもね、昨日も書いたけど、そういうのをストーリーって言うんだ。



「自分は○○だ」みたいなね。



真実を言えば、僕らは誰一人として、あんな人でもこんな人でもない。


僕らは固定された存在ではなく、流れている形無きエネルギーだ。


その形無きエネルギーが、形となって現れている。


自分を形のように感じてしまうのには、いくつか理由がありそうだ。


人は社会の中でしか生きられないから、他者に対する自分を作り出す。

そしてその役をやりだすんだ。


最初はそうやって役を演じていたものが、無意識に習慣化していって、まるで自分が一つのキャラクターになったような気がしてしいる。


役者が誰かを演じているうちに、その役柄と同一化してしまった。

仮面に血が通いだしてしまったみたいなものだ。



人は律義にも、そうやって作った社会的自己を他者の中で演じ続ける。

すでに習慣化していて無意識にやり続ける。


たいていの場合は良い人や特別な人に見られたくてやっている。






そしていつのまにか、自らが作ったそのキャラクターと同一化して、本気でそんな自分だと思っているのだ。


自分が形になってしまった。



同じように他者も自分を演じているから、本当にそういう人に見えてしまう。


「あの人は○○だ」なんて思っている。




みんなで自分を演じ合っている。


しかも良かれと思って。





そうやって見ていくと、この世は冗談中の冗談。




もう笑うしかない。






あははははは






いま書いていて本当に笑えた。




ほんと。。。おかしすぎる。






でそんな社会で、深刻に何かを悩む人もいる。



僕も昔そういうところにいたことがあるから、気持ちは分からないでもない。




だけどさ、



笑っちゃ悪いけど





それは全部、アンタの思い込みなんだよ。




何から何まで、ぜ~んぶね。






今日の話はこれでオシマイ




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Posted by Toshiro Abe at 09:49Comments(23)

2019年04月16日

運気

来てくれてありがとう。







天河 瞑想と祈りのリトリート」は定員に達したためお申し込みを終了しました。

ありがとうございました。



さて今日は二元の世界の話。

て言っておかないと混乱する人がいるから(^^)


・・・・・・・・・・


20代のころは麻雀が大好きで、暇さえあればやっていました。

もしあのころまじめに仕事していたら人生が変わっていたと思います。(これをストーリーと呼ぶ)


でも本当にそうだったと思うくらい、完全にハマっていました。





土曜日の深夜放送の仕事が終わるとスタッフたちと近くの雀荘へ。

当時の赤坂は、24時間やっている雀荘がいくつもあったんです。


終わるのはたいてい日曜日の夕方で、テレビから笑点の、「チャンチャラスチャララ、スッチャンチャン」のテーマソングが始まると、そろそろ帰らなきゃって。

いまでもあの曲を聴くと、雀卓と配牌が目に浮かぶわけで。



30歳の気づき体験を境にすっかり興味を失ってしまったけれど、あれはあれで面白いことが多かったなァ。


何が面白いかと言うと、人知を超えた運気のようなものが分かりやすく出てくるということ。


運って流れがあるんだよね。

あれは何なんなんだろうね。


ツイているときは、最後の一牌を一発でツモッたり(専門用語でスマン)、配牌もほとんど聴牌状態が続いたり、どんな上手い人が相手でも独り舞台になります。


ところがいったんツキが落ちると見るも無残になり、完全に天に見放された状態になります。

それが顕著に出てくるから麻雀は人を引き付けるのでしょう。



運気って確かにある。

人生も同じで、何をやってもうまくいくときもあれば、その逆もあるわけで。


問題は、ツキに見放されたときにどう凌いでいくか。


どうするかを決めることさえも自分の選択ではなく天の采配なんだけど、それでも自分がやっている気にはなれるわけで、ここは踏ん張りどころです。


僕自身がやってきたことで言えば、とにかくジタバタしないということ。


そしてこのまま最低最悪の状態になったときのことをリアルに思い描いてみる。


僕の場合なら、ホームレスになって、飢えと寒さの中で死んでいくビジョン。


で次に、そうなったらなっただと腹をくくる。


だって天がそれを望むんだから、それはそれでいいかと認めるわけ。


これを認めてしまうと楽だよ。

漠然とした不安がなくなっていくんだ。



でそのあと、最悪の状態から少しでも遠ざかるために、しっかり地に足を付けて、いまやることをやる。


どんなときでも、いまやれることが何かあるからね。

たとえば部屋の掃除をしてみるとか、何かの資料を取り寄せてみるとか。



自分の運命をのろったり、人や自分を責めたりするのは、僕もさんざんやったけど、運の停滞が続くだけだった。

だからそういうことを考えない工夫をするんだ。


そして、昨日までの扉と、明日からという扉を、ガラガラガッシャンって閉じて、今日一日という枠の中だけで生きようとする。

過去への後悔と、未来への心配を締め出すわけ。



そうやってコツコツ生きていると、必ず運気は戻ってくる。

引いた潮は満ちてくるしかないからね。


こういう生き方の達人になれば、もう怖いものなんか何もない。


すべては天にお任せと言いながら、やれることをやっていく。

これが僕の半生だったな。



いまは絶好調が続いているけど、人生には何が起こるかわからないし、もしかしたら本当に飢えと寒さの中で野垂れ死にするのかもしれない。



そしたらみんなにメール出して、人の善意にすがることにする。

こんな男でも家に置いてくれたら、いいことあるよって。

面白い話をいっぱい聞かせてあげるからって。


うん、こりゃなんとかなりそうだな(笑)




いま運に見放されていると感じている人。


元気出していこう!


だいじょうぶ、何とかなる!






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Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(28)

2019年04月15日

知識と経験

来てくれてありがとう。







昨日のコメント欄でのやり取りで、匿名さんの「自分を好きになれない」ということへの回答として、


「その自分が幻想だったことを見抜いたとき、自分を含んだ存在全体を好きになる」


と書きました。



そのことに対する緑のたぬきさんのコメントです。


>思うのですが、見抜くとは結局のところ、信じると言う事と双璧を成してるのはないでしょうか!?

>見抜いたと言う事は、出て来た答えを信じたと言う事かなと。

>答えが客観的に正しくても、己にそれが信じられないなら、未だに解ったとは言えないと思うわけです




見抜いたことを自分が信じられなければ、見抜いたことにならないのではということですね。


言いたいことは分かりますが、見抜けば信じる必要はありません



「見抜く」というのは内なる経験であり、答えと自分がひとつになっています。


一方で「信じる」ということは、○○を信じるということであり、信じる対象があります。


この両者はまったく違います。



>答えが客観的に正しくても、己にそれが信じられないなら、未だに解ったとは言えないと思うわけです



見抜いた答えを客観的に信じる必要はありません。

信じるとか信じないとかではなく、事実として経験されるだけです。


たとえば、熱湯に触れて、「熱い」という経験をしたとします。


そのとき、「この熱さは客観的に正しいだろうか」と問うでしょうか。


どんなに理屈をこねても熱いものは熱いのであって、その体験は揺るぎません。


熱いということを信じるとか、信じられないとかではなく、ただ熱いのです。


これが経験というものです。






話は少し変わりますが、真理の情報に触れていると、何が内なる真実で何が外から得た情報なのかを混同することがあります。


そして単なる知識にもかかわらず、それを持ち運んで分かったつもりになってしまうのです。




たとえば釈迦が


「多くの修行をしてきたが、修行によって悟ることはなかった。すべての人はすでに悟っているのだ」

と言えば、だったら修行などいらないと思ってしまいます。


大変な修行をするより、「修行などいらない」という言葉を信じたほうが楽であり早道だからです。



でも、その人は時間の問題でこう言い出します。


「人が最初から悟っているのは分かったけれど、いまだに自分はそんな気がしない。どうしたら悟りを実感できますか?」


早い話が、何もわかっていないのです。



確かにあらゆる存在は、最初から悟っています。


悟りとはあるがままをあるがままに認識することであり、だれもがその能力を持っています。



ところが人は知性の発達とともに、そのあるがままの上にありとあらゆる解釈を投影し、自分本位の思考の世界を作り出し、その中を生きているのです。


その思考の世界の主役は、これまた「自分」という思考です。


自分とは単なる思考に過ぎなかったということを見抜くのは、自分は思考に過ぎないという言葉を信じることとは違います。


したがってこの真実を看破するために修行をするわけです。


修行などいらないということを学ぶのと、修行をして修行などいらないと分かるのは別物です。




だからと言って、修行しなさいと言いたいのではありません。



真実の言葉を信じることと、経験的に見抜くことは違うという話でした。



頭でっかちにならないように、お互いまずは、いまを生きるとしましょう。





よろしければクリックしてください。




・・・・・・・・・・・


【お知らせ】


6月1日~4日

「天河 瞑想と祈りのリトリート」

本日からお申し込みを開始します。


詳しい説明はコチラから




  


Posted by Toshiro Abe at 11:03Comments(30)

2019年04月14日

役に立たないけれど役に立つかもしれない話

来てくれてありがとう。







誰もがマインドの世界の中で生きている。

その世界は誰にとっても、自分の欲望を満たすためだけにある。


どんなに利他的な行為をしているつもりでも、それがマインドの世界である限り、主人公はいつだって自分だ。



それではマインドが消えたらどうだろう。

その時は世界も消え私も消えている。



驚くべきことに、これこそが真理だ。

でもこの事は言葉にすれば誤解を生じさせるだけで、決して人と分かち合うことはできない。



このような話は、マインドの世界にとって何の役にも立たないし、理解も不能なので、言うだけ無駄ではある。

無駄どころか非難と嘲笑にさらされるのがオチだ。

訳の分からないことを言って人を惑わしていると言うわけだ。


しかしそうやって非難する人が、般若心経をありがたがったりする。

般若心経はまさにこのことを言っているのに。



この真実を知って生きるのと、知らずに生きるのとでは人生の意味合いが大きく変わってくる。

真実を知らずに生きれば、夢の中だけで人生を終えてしまうことになるからだ。


それが悪いのではないけれど、夢は所詮、夢に過ぎない。


夢は苦悩をもたらす性質があり、本当の幸福が続くことはない。


どんなに成功していても、重い過去を引きずりながら、明日への不安に怯えている。

いい気分に浸る時があっても、それは期間限定ときている。


幸せそうに見える人はいるが、幸せが続く人はいないのだ。

夢から覚めた人以外はね。


おっと、この言い方は誤解を与えてしまう。

なぜなら「夢から覚めた人」がいるわけではないからだ。

ただ覚醒だけが存在している。





実際のところ何も起きてないし、これからも何も起きないだろう。

この短い言葉の中に、根底からの救いが隠されている。



今日も携帯電話のマイクに向かってつらつらと音声入力をしてみた。

マインドにとって、いやあなたにとって何の役にも立たないこんな話を聞いてくれてありがとう。



でも人生にうんざりした時や、後悔にさいなまれたときは、この真実があなたを救ってくれるかもしれない。




このまま載せることにします。



こういう話はなんとなく暗くなってしまう人もいるかも。

「じゃ、どうしたらいいんだ」

ってね。


ところがマインドには何もできないときている。




そのうちマインドが大喜びするような記事を書くからね。


「新・誰もがお金持ちになるありがたい話」

とか

「異性にもてまくる秘訣シリーズ」

とか。



今日出てきたのはこういう話だったから勘弁ね(^^)












  


Posted by Toshiro Abe at 09:48Comments(41)

2019年04月13日

怖れと指輪

来てくれてありがとう。







サガリバナさんからの質問

ある会への奉仕活動が生活を圧迫するのでやめたいのですが、

本当に悪いことが起きたらと思うとやめられません。

古参の人たちも私を思って言ってくれる気持ちが伝わるのでどうしていいかわからない。

やめたいのが自我の判断の場合どれくらい悪いことが起きるのでしょうか。それは家族や子供にも及びますか。




最近は少なくなりましたが、同じような質問を何度か受けたことがあります。

いまあなたの身に何が起きているのかもよくわかりました。


以前ここに書いたショートストーリーを思い出したので、再掲してみますね。

同じようなことで悩んでいる人にも役立つかもしれません。


以下のような話です。


・・・・・・・・・・・・


幼い男の子が毎日、外で遊ぶことに夢中で、日が暮れた後も家に帰ろうとせず、両親はいつも心配していました。

そこで町で評判の霊能者のもとに相談に行きました。


霊能者は言いました。

「その子を私のところに連れてきなさい。もう夜まで遊ぶことがないようにしてあげよう」


両親は喜んで、さっそく息子を連れていきました。


霊能者は子供に向って、とつとつと怖い話を始めました。

夜になって日が落ちると、外には口の裂けた幽霊が出没して、背後から人を襲い、むしゃむしゃと食べてしまうと。


それを聞いた男の子は、その日以来、日があるうちに家に帰るようになりました。

両親はたいそう喜びました。






時が経ち、その子は成人し、仕事を持つようになりました。

とてもまじめな男に成長し、周囲も大きな期待を寄せていました。


しかし問題が一つありました。

それは、どんなに仕事が忙しくても、日暮れ時になると仕事を放りだしてさっさと家に帰ってしまう事でした。

なぜなら、彼は口が裂けた幽霊が怖かったからです。


年老いた両親は心配して、また霊能者のところに連れて行きました。

すると霊能者は、自分の名前を彫った指輪を授けました。

これを身に付けて、三度私(霊能者)の名前を念じれば、けっして幽霊に会うことはないと告げました。


成人した男はその指輪のおかげで夜も外出できるようになりました。

それ以降、幽霊に一度も会わなかったことから、男は霊能者と魔法の指輪への信仰心を篤くしていきました。


・・・・・・・・・


偽物の教えは、いったん相手に恐れを抱かせて、その恐れを緩和する方法を授けます。

魔法の指輪と正しい祈り方がそれです。


本物の教えは、幽霊などいないことを教えます。



これをしなければ罰が当たる。

あれをしたら地獄に落ちる。

そんな情報が古今東西伝えられてきています。


でも恐れることはありません。

だいじょうぶ、何も起きないから。

何かが起きるとしたら、自分がそうなると信じて、その結果を引き寄せただけです。


心からの祈りは美しいものですが、恐れからの祈りは、恐れている迷信を強化するだけです。

思考が現実を創り出しているのです。。



いまの環境が負担に感じたら自己犠牲は止めて、義務的な活動から身を引きましょう。


この話はサガリバナさんだけでなく、意外に多くの人が違う形でやっていたりします。


何が真実で、何が刷り込まれた拘束なのか。


自分にも似たようなことがないか調べてみましょう。












・・・・・・・・・・・



【お知らせ】


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4月20日

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Posted by Toshiro Abe at 10:10Comments(21)

2019年04月12日

何かが始まる気配 その2

来てくれてありがとう。







今日もキーボードを打つことができません。

その理由はご覧の通りです。






何度机の上からおろしても、すぐに登ってきてしまいます。

一体何を考えているやら。

多分何も考えていないのでしょう。


この子は2番目に拾った子で、犬の散歩をしていたらくっついてきたんです。

犬がワンワン吠えても、一向にひるむことなく、当たり前のような顔して我が家までついてきました。

まだ手のひらに乗る位の小さな子でした。


あれからもう10年以上が経ちますが、もはやこの子がいない生活は考えられません。


全ての人との縁は必然だと思っていますが、それは人間だけでなく、こうした動物との出会いも同じではないでしょうか。

この子は最初から我が家の住人になることを知っていたようにしか思えないのです。




さて今日は何かが動き出す第一歩になるかもしれません。


何かって一体何なのか、ゆくゆくは日本全体に影響を及ぼすかもしれない大きなことだと勝手に考えています。


4日前に書いた「何かが始まる気配」のことです。


謎めいた言い方で申し訳ないけれど、いまはこれ以上話すことができません。



気配とはある種の予感のようなものです。


ことはあらかじめ決まっていて、それを何かのタイミングで察知するのかもしれません。


僕の感じでは、まずは見えない霊的次元でことが起き、それが現象界に顕現してくるのではと思っています。




もし本当にこのことが動き出せば、やはりあらゆる事は大きな仕組みの中で粛々と展開していることの証になるようにも思います。


とは言うものの、そうはならないのかもしれず、人間には先のことはわかりませんが、それにしてもこの予感はぬぐいようがありません。



どちらに転ぶとしても、またご報告しますね。



いつも思わせぶりな記事になってしまいますが、このブログで実況中継をしていけたら1つの記録になると考えています。



今日も良い日でありますように。





よければクリックしてニャ







  


Posted by Toshiro Abe at 09:28Comments(28)

2019年04月11日

いま生まれた

来てくれてありがとう。







ほんとうは僕もあなたも、どんな人でもない。


いま特定の考えや感情が湧いているだけで、いずれそれらも別のものに変わっていく。



そしていまのあなたは、昨日までのあなたとも何の関係もない。

ただ思考だけが、自分という固定したイメージを持ち運んで、いまもそんな気がしているだけのこと。



昨日までどんな生き方をしてきたとしても


何を考えてきたとしても


どんな信条を持っていようと


たとえ神を冒涜してこようとも


神はいまもあなたを100%愛し受け入れている。




あなたは個体ではなく、現在進行形の流れだ。

それは川の流れのようなもの。


ほらね、いま流れている川の水は、さっき流れていた水とは違うでしょ。


僕たちはいつも新しいんだ。








僕はよく、こんな言葉を自分に言ってきた。



「いま生まれた」



誰もがそれぞれの環境に生まれ落ちるように、いま生まれた自分はこの環境に生まれ落ちたと思ってみるんだ。


借金があろうと、貯蓄があろうと、それが新しく生を受けた自分の環境だ。


赤ん坊が文句を言わないのと同じように、ここから始めてみようじゃないか。


人生はいつも、いまから始まっていくのだから。





いつだっていま生きるのに必要な愛と勇気が、他でもないあなた自身に与えられている。


なぜならあなたこそが神の子だからだ。



神はあなたを、まさにいまも愛し見守っている。




あはは、どこかの牧師さんみたいになってしまった(^^)



でも本当のことだよ。


綺麗ごとなんかじゃない。




全ての生きとし生けるものは、その愛の中で生かされているんだ。


たとえ現象としてどう見えようとね。




言葉で言えばそういうことだけど、比較や判断に満ちたマインドにはこのことを受け入れるのは難しい。



そんなときは鵜呑みにするのが早道だ。



信じる者は救われるって、2000年前にも誰かが言っていたしね。












  


Posted by Toshiro Abe at 10:53Comments(29)