2010年09月30日

目覚めの時代へスタートダッシュ Ⅱ

結局のところ、自分がすでに悟っていることを認めるかどうかだけの話。

それを妨げているのは、いまの自分ではまだ十分ではないという感覚だ。


こうして書いている記事も、単なる方便(嘘ってことじゃないよ)で、所詮は言葉にできないことを、いろんな角度から書いている。

「さとり」という言葉があまりにも大げさになっているけれど、元々そうであったところの自分を再発見するという、この世で一番当たり前の出来事に過ぎない。

すべての人に最初から与えられているものを見つけただけなのだから、自慢するようなこともなにもない。

それは、あまりにも簡単すぎて見落としている何かだ。

人間の脳は、ほんの少しでも難しくないと理解できない。

簡単すぎると、脳がキャッチできないんだ。


「な~んだ、そうだったのか」

これが目覚めの瞬間の共通感覚だ。



25年間、同じ事を言い続けてきたけれど、だからこそ時代が変わってきたことを実感している。

あふれる情報の中にも、正確に「それ」を表しているものが増えてきた。

もちろん、いまも危うい情報は数限りなくある。

でも、その中から的を射た方向を捉える能力が、多くの人に芽生えてきたことも事実だ。


「それ」を見た者は、「それ」を伝えることだけが自分の使命だと感じることだろう。

「それ」は、思想でも哲学でもなく、究極の自己を知ることで新しい人類の文明を創り出して行く、唯一無二の体験だ。


それは理屈ではなく、体験なのだ。

いままでも完璧だったし、これからも完璧でしかありえないという体験だ。

そのとき初めて、人の意識が未来志向から「いまここ」に帰って来る。

その理解の絶対数が、ある一定の数に達したとき、世の中の仕組みがひっくり返る。

恐れからではなく、愛を基盤にした文明が始まっていく。


そのためには、突出した指導者も、霊能者も、聖職者も必要ない。

個々が目覚めていけるという可能性を示せれば、それで十分だ。



「私はさとった」などという宣言が、どれほど愚かで、恥知らずな行為かということも、いやというほどよくわかっている。

これまでにも、多くの反発を招いてきた。


でも、そんなことはどうでもいい。

見たい人は見たいように見ればいい。


自分が砂浜の中の、ごくありふれた一粒の砂に過ぎないことを認めたとき、怖いものがなくなっていく。

しかもそれを認めたとき、同時に、その砂粒の中に宇宙全体が含まれていることを見る。


あなたにも、何ら特別なものなどない。

自分の特別さの一切が消えたとき、真の特別さが顔を出す。

それは宇宙という名の、神という名の、真理といいう名の、超特別な存在だ。

そしてそれこそが、本当のあなただ。

すべての人が特別ゆえに、この世に特別な人など存在しない。



これは直感でしかないけれど、目覚めの連鎖が最初に始まるのは日本だと思う。

選民思想的で低俗な発言に聞こえるかもしれない。

人間というのは、どの時代に生きていてもその時代が特別だと感じてきたし、どの国の国民も自分の国は特別だと思っている。

そんなことは百も承知で、それでも目覚めの連鎖は日本から始まると感じている。



人類がこのまま、機能不全を振りまきながら破壊的な文化を続けるか(その結末は明らかだが)、それとも個々が目覚めることで、まったく新しい文明を築きあげるか、我々がその岐路に立たされていることだけは間違いない。




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同じ志を持つ雲 黒斎クンとの沖縄コラボ講演会が近づいてきました。

10月9日(土)14時開演

浦添市てだこホール市民交流室(最大定員300名)

お申し込みはコチラから。


僕の10月のソロ講演会は

博多 10月10日

広島 10月11日

新潟 10月24日


詳細は上記都市名をクリックしてください。

(東京・大阪は満席です)
  


Posted by Toshiro Abe at 08:38Comments(57)

2010年09月29日

目覚めの時代へスタートダッシュ

急遽、ボブ・フィックスさんの来日が決まりました。

ボブさんは40年前に啓発に至り、とても深い理解をもって存在全体を見ているマスターです。

彼は、人がどうやってエンライトメント(目覚め・さとり)に達するかということを、科学的に説明できる数少ないひとりです。



いま地球規模で目覚めの連鎖が始まっていて、日本が大きな役目を果たすという点で、僕と考えが一致しています。

僕たちはとても縁があるようなので、二人でコンビを組むことで、この日本にエンライトメントプログラム(仮称)を立ち上げようと考えています。

その前祝(?)を兼ねての来日です。

今回は二人のコラボ講演会を、東京・名古屋・大阪・沖縄で開催します。




そんなわけで、今日はやることが山積で、ゆっくりブログが書けません。


また明日お会いします。


今日もいい日でありますように。




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Posted by Toshiro Abe at 08:43Comments(27)

2010年09月28日

思い切り Ⅱ

昨日のコメントで誰かが言いました。


「たとえ起こることが予め決まっていたとしても、私たちには先のことはわからないのだから、決まっていないのと同じだ」と。


まさにそのとおり。

僕もまったく同感です。



全てが予め決定されていたというのは、時空を超えた宇宙意識に触れたときに理解することです。

それをこの世の言葉に置き換えると、様々な誤解や弊害があります。

決定されているならと、自堕落になったりもします。

しかしこの言葉は、未来に対してではなく、過去に対して使うべき言葉です。



起きた出来事は、最初からそうなることに決まっていて、ほかの可能性は一切なかったとしたら、あーすればよかった、こーすればよかったというのは、まったく的外れな未練になります。

起きたことを起きたこととして潔く認めることによって、後悔や罪悪感の中で時間を浪費することを止めることができます。



まさにそのことを、釈迦は「タタータ」と言いました。

「起こることが起こる。それ以外は決して起きない」と。


この単純な事実を認めることは、生きる上でとても大切なことです。

決定論はそのように使うものだと考えています。




これからのことは、「わからない」というのが誰にとっても真実です。

たとえ全てが決まっていたとしても、僕たちはゲームを楽しむことができるのです。

人生のスリルを、十二分に味わって生きることができます。


しかも、すべては移り変わっていきます。

悩んでいる暇なんかありません。

顔を上げて、新しい瞬間を生きてみましょう。



大丈夫ですよ。


何があっても大丈夫。

どこまで行っても、何があっても、いつだって、誰だって、気がつけば神の手のひらの上ですから。




ほら、いまもね(^o^)





     


Posted by Toshiro Abe at 08:48Comments(52)

2010年09月27日

思い切り

この世に起こることの全ては、あらかじめ決定されていたという感覚はないですか。

僕は心底そう思っています。

今日はそんな立場に徹して書いてみます。

ただし、真実は言葉で表せるような平面的なものではなく、多くの相矛盾する要素がひとつになって、それが同時に起きているという摩訶不思議な世界だということも伝えておきます。


・・・・・・・・・・・・


いまこの時間にPCに向かい、どの順番でキーボードのキーを打つのかは、最初から決まっていた。

そしていまこの時間に、あなたがこの文章を読むことも完全に決まっていた。


自我は自由意志だと主張するが、自我が何を叫ぼうが真実は変わらない。

何一つ偶然はなく、何一つ無駄もなく、ただ起きることが起きている。



あなたがいつ目覚めるのかも100%決まっている。


昔、そのことを考えたことがあった。

もし人の目覚めのタイミングがすべて決まっているのなら、目覚めを促そうとしてメッセージを送るこのような行為に、何の意味があるのかと。


そして気がついた。

このメッセージを送る行為も、そのタイミングも、誰がここに触れるのかもすべて決定している。

ここに触れた人が、ここから何を読み取るのかも決まっている。

その理解が、その人の目覚めにどれくらいの影響を与えるのかも全部決まっている。



もっとも、あらゆる出来事が人の目覚めに貢献している。

あなたに訪れた愛も憎しみも、喜びも悲しみも、そのすべては目覚めのために必要不可欠な要素だった。

逆の言い方をすれば、あなたの現実に起きないことは、あなたの目覚めに必要がないから起きていないだけの話。



人との比較は無用だ。

宇宙の筋書きは完璧で、失敗はありえない。

あなただけが忘れられることも、置いてきぼりくわされることもない。

いままでも、いまも、そしてこれからも、完全にうまくいっている。

神に誓って宣言しよう。

いまあなたの人生が、どのような局面を迎えていようと、それで完璧にうまくいっている。

たとえ死んだとしても、それは変わらない。

地上目線から離れて、全体を見通せる宇宙的視野に立てば、このことが真実だとわかるだろう。



このメッセージを聞いて、


「なんだ、決まっているなら何もする気になれない」

と言って目の前のチャンスを放棄するか、


「たとえ決まっているとしても、やることをやるだけだ」

と言って思い切り生きるか、


どちらも結局は決まっているのだとしたら、あなたはどちらを選ぶ?



僕なら、思い切り生きることを選ぶ。

どうせ決まっているなら、思い切り生きることに決まっていたほうがいいから。



思い切りとは、あーじゃ、こーじゃの思いを断ち切ること。

無心になって生きること。

それが、「思い切り」


思い切り生きて、思い切り死んでいく。

そんな人生を生きたいものです。



急な話ですが、東京に居を構えて、沖縄と半々で暮らすことにします。

5日前に突然、「そうしよう!」と思い立ち、部屋を探したら、心に描いたとおりの部屋がすぐに見つかり、来週から入居することになりました。

麻布の閑静な住宅街の一角にあります。


20年ぶりの東京、これも決まっていたというのが、いまの心境です。




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明晩は沖縄中城村でいまここ塾

明後日は水曜の会です。

今週の水曜の会は、僕ではなく智子さんによる瞑想会です。

今回は瞑想伝授を終了された方のみの対象となりますので、よろしくお願いします。  


Posted by Toshiro Abe at 09:36Comments(68)

2010年09月26日

チェックポイント

昔、レコードプロデューサーをしていたころのお話です。

多くのアイドルの楽曲を担当しましたが、いまでもよく覚えている一曲に「チェックポイント」という曲があります。

レコードプロデューサーの仕事とは、楽曲のコンセプトを決め、作詞家・作曲家・編曲家と打ち合わせをし、歌唱指導をして、レコーディングの全責任を負うというものです。

裏方ですが、完成したときの満足度は一番大きいかもしれません。


この曲は、TBSドラマ「毎度お騒がせします」の後番組で注目された「夏・体験物語」シリーズの主題歌でした。

前作の「夏・体験物語」は中山美穂さんの初主演、初主題歌でヒットし、その曲のプロデュースを担当したことから、続編も担当することになりました。

しかしこちらは、前評判とは裏腹に、番組も主題歌もあまりパッとしませんでした。

大きなヒットにはなりませんでしたが、この曲は一番長い時間スタジオに缶詰になって制作した思い出深いものです。


新人の藤井一子さんは、歌うのも初めてで、音程をキープするだけでも膨大な時間がかかりました。

いまのように、ピッチコントローラーがない時代ですので、たくさんのトラックに歌を収録し、ピンポンという手法で、トラックを切り替えながら、ひとつの歌にしていきます。

たとえば、「♪ 恋愛ルールを~」という箇所では、「れんあい」の「れん」だけを第1トラック、「あい」を第2トラック、「ルールを~」が第3トラックを使用するという具合です。


ちょうどテレビがステレオ放送になったばかりの時代だったので、イントロをアレンジして左右に音を振り分けました。

そのイントロが出来たとき「やったー!」と思いましたが、周囲の評価はそれほどでもありませんでした(笑)

いま聴いても斬新だと思うんだけどなあ。


当時の僕の汗と努力の結晶を聴いてくれる人はコチラからどうぞ。

埋もれてしまった思い出の楽曲を、こうして多くの人に紹介できる時代がくるとは思いませんでしたが、いま僕はかなり喜んでいます(^o^)



さて、本題です。

僕にも日々のチェックポイントがあります。


ふと立ち止まり、自分の状態をチェックします。


基準はふたつ。


「深刻さ」と「優しさ」です。


深刻になっていないか、優しさを忘れていないか。

それだけです。


ひとつのことを突き詰めて考えているときなどは、つい深刻になりがちです。

それは結果を心配しているときに起きます。

そうなると、プロセスを楽しめません。

失敗がないように、気を配り、視界も狭くなっていきます。

実際には結果を作り出すのは自分ではなく全体の流れなのですが、その全体を自分がコントロールしようとするのです。

そこに深刻さが生まれます。



反対に、やっていることが結果志向ではなく、プロセスそのものを楽しむときには、そこには遊び心と空間が生じます。

そんな心境で事にあたったほうが、結果が良くなることが多いのは皮肉な話です。



これは人生そのものにも言えます。

人生がどこかに向かう旅だと考えて、結果志向になった場合、人生全体が深刻になります。

ゴールにたどり着くためには、たくさんの「・・・ねばならない」を生きることになります。



しかし、いまを生きるという態度に徹して、結果は天にお任せという心境に達すれば、余計なストレスから解放されて、生きる事が容易になります。

そうやって力が抜けた分、優しい気持ちになることができます。

その優しさこそが、幸せではないでしょうか。


いつか幸せになるために奮闘する姿勢から、いま幸せであることでよりよい結果に結び付けていく・・・というよりも、いま幸せである事がすでに「結果」であるという生き方です。



今日も深刻さを捨てて、優しい気持ちで生きたいと思っています。




新宿副都心のホテルにて。




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Posted by Toshiro Abe at 08:44Comments(49)

2010年09月25日

あるがままの自分にOKを出すこと

タイでの長期瞑想のためにお休みしていた講演会ですが、この一週間で名古屋、長野、大阪と3ヶ所を回らせてもらいました。

そして明日は東京です。



僕には繰り返し伝えていることがあります。

なぜ繰り返し伝えるかといえば、何度伝えても、人はそれを忘れてしまうからです。


だから何度でも何度でも伝えてきましたし、これからも伝え続けていくことでしょう。




それは、

「あなたはあるがままでOKだ」ということです。




この一言が自分の存在を貫いたとき、その人は根底から変化します。

見せ掛けの自分が音を立てて崩れ、本来あるところの真実の自分が顔を出します。



多くの人はすでに、あるがままという状態さえ忘れています。

常に「あるべき姿」を生きているからです。


僕たちは、どれだけ多くの「・・・べきだ」や「・・・ねばならない」を生きてきたことでしょう。

幼少のころから、多くの理想を持たされてきました。

いまの自分ではまだ十分ではない、もっと強くならなきゃ、もっと立派にならなきゃ、もっと優しくならなきゃ、もっといい子にならなきゃ・・・


それが僕たちの内面に分裂を引き起こしました。

「あるがままの自分」と、「あるべき自分」です。


いちど「あるべき自分」を抱えてしまうと、決して「あるがままの自分」を受け入れることができません。

なぜなら、「あるべき自分」という態度そのものが、「あるがままの自分」であることを否定する立場から生じているからです。



それは生活の中の、様々な瞬間に影響を与えています。

自分が何をしたいのかではなく、何をするべきかが重要になってしまいます。

一日中、どうするべきか、どうあるべきかばかりを考え続けることになります。

そうやって、本当の自分を見失ってしまうのです。



でも大丈夫です。

どんなに見失っても、自分はどこにも行かないからです。

いつだって「いまここ」にあります。


ただ自分の思いが、理想という未来に出かけていただけです。


僕たちがどんなに多くの理想を自分に対して持とうが、いつだって自分は自分でしかありません。

実際にはいままでも、本来の自分以外であったことは一度もありません。

ただ外側の思いが理想の自分をイメージし、外側の行動がそれを演じていただけです。

それでも内側には、いつだってあるがままの自分がいました。


自分は自分以外には成り得ないという、シンプルな真実を心の底から受け入れたとき、自己の分裂がなくなります。


そして自分とひとつになります。



この統一性こそが、神との一体感に向かう第一歩です。

それは、幻想(未来)からリアリティー(いま)にシフトしたときに起こります。



そのとき「あるがままの自分でOK」という言葉が、極めて当たり前の真実を告げていたという事がわかることでしょう。




これからも同じことを、違う言葉で伝え続けていきます。






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Posted by Toshiro Abe at 09:06Comments(73)

2010年09月24日

雲 黒斎クンのこと

雲 黒斎

彼のことを知らない人のために、彼を紹介してみよう。



彼は精神世界の人気ブロガーだ。

言葉で表すことが難しい世界を、とてもわかりやすく説明し、しかも読者に知的満足感を与える。


「うん こくさい」と読む。

スペースをカットしてしまうと、とんでもないことになるが、これが彼の名前である。

名前の由来は、彼が伝える世界が、社会的にはまだ「ウサンクサイ」ものと見られがちなので、そのまま「ウサンクサイ」が「ウンコクサイ」になったものだそうだ。

ウサンクサイという、あまり芳しくない言葉をもじって、そのまま名乗ってしまうところが、また彼という人をよく表している。



僕が彼のブログを知ったのは4年前で、実際に会ったのは一昨年の暮れだから、それほど時間がたっていない。

その2ヵ月後には沖縄に招待して、コラボ講演会をやってもらったのだから、僕は会ってすぐに彼を好きになったのだと思う。


その講演会は、彼にとって初めての講演だと聞いていた。

当日、観衆は超満員で、熱気もムンムンしていた。


そんな中、さすがに緊張している姿が、楽屋にあった。

僕はいままでにもそのような人を相手に、トークを重ねてきているので、その日も心配はしていなかったし、自分の役目もわかっていた。


ところが始まってみると、確かに少し緊張してはいるものの、物怖じすることなく、自分が伝えたい世界をズバズバ言葉にしていた。

しかもとても力強く、迷いの無い言葉たちだった。

なぜそれができるかの理由はひとつしかない。

彼は知識を喋っているのではなく、紛れもなく彼自身の見性体験(目覚め体験)を喋っているのだ。


僕の予想は、いい方向に外れた。

僕ももう少し話したかったが(笑)、それ以上に彼に感心していた。

初めての舞台でここまでできるというのは凄いことだ。


それからは各地でご一緒してもらった。

その模様はDVDにもなっていて、本屋さんで見かけることもある。

(紹介はコチラから)




さて、もうひとつ彼には才能がある。

本を書くだけではなく、その編集から装丁まで、すべてを一人でこなしてしまうことだ。

しかもその出来は、プロが唸るほどのクオリティーがある。

デビュー作の「あの世に聞いた この世の仕組み」も素晴らしい本だが、この先ますます目が離せない人だと思う。



いま彼はブログ上で小説を書いている。

死んでからのことを面白く描きながら、それだけではない大切なメッセージを伝えようとしている。

僕も更新を楽しみにしているひとりだ。

興味のある人はコチラから。



そうそう、スターピープルという季刊誌に黒斎クンと僕が同時に紹介されている。

彼はまだ素顔を公開しておらず、その写真も後姿だ。

ああいう紙面で見るとまた新鮮な気持ちがする。



彼と連載している、怪しいオヤジの交換日記「阿雲の呼吸」は、微妙に盛り上がりを見せないまま、なんとなく続いている。




とにもかくにも、いい友人が出来たと喜んでいる今日この頃です。





このブログもよろしくお願いします。

   



・・・・・・・・・・・・・・



黒斎クンとのコラボ講演会は、年内に3本予定しています。


沖縄 10月9日(土)

東京 11月13日(土)

大阪 11月14日(日)


現在は沖縄だけの受付ですが、東京、大阪も早期に受付開始します。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(17)

2010年09月22日

所詮この世は男と女



「あなた、私を愛しているって言ったじゃない!」



ちょっとスピ系の男

「愛してるよ、いつも」





「じゃ、なんであんなことするのよ」



ちょっとスピ系の男

「愛の表現さ」





「私がいるのに?」



ちょっとスピ系の男

「愛は誰か特定の相手に向かうものじゃなくて、宇宙規模のものなんだ。お前が言っているのは単なる自我の独占欲だ」





「だからって、飲みに行ってみんなとキスしてまわっていいわけ?」



ちょっとスピ系の男

「そりゃ、その時の盛り上がりで起きたハプニングさ。男も女もみんな大いなる宇宙なんだから、それを確かめ合って何が悪い」





「でもキスすることないじゃない」



ちょっとスピ系の男

「それはお前の思考が判断しているだけで、現実はいいも悪いもない。そのことが自然に起きたんだから、それを受け入れたらいいんだよ」





「受け入れられない」



ちょっとスピ系の男

「だからお前は悟れないんだ。悟りっつうのはなあ、すべてを受け入れることなんだぞ。アベッチのブログ読んでみ」





「なによあんなブログ!だいたいタバコを再開するような男の話を信じるあなたがバカよ!」



ちょっとスピ系の男

「オレはタバコやめたから、彼ほどバカじゃない」





「彼と同じくらいバカよ」



ちょっとスピ系の男

「いや、彼ほどバカじゃない」





( ̄д ̄;) 

あのお、ちょっと話がズレてると思うんですけど・・・(アベッチ特別出演)





ちょっとスピ系の男

「彼だけが言っているんじゃなくて、精神世界を学べばみんな同じこと言ってんだよ。悟りってのはなあ・・・」





「私、悟りなんかどうでもいい。昔みたいに愛されたい」



ちょっとスピ系の男

「だから、愛してるって」





「じゃ、なんであんなことしたわけ」



ちょっとスピ系の男

「だから言ったろ!何度も同じこと言わせるな!」





「逃げないでちゃんと話してよ」



ちょっとスピ系の男

「うるさいな。レベルの低い話に付き合ってらんないよ」





「どこ行くの?今日はきちんと説明してもらうからね」



ちょっとスピ系の男

(やれやれ、まったく女って奴は・・・)





(いつもこうやって逃げるんだから)



ちょっとスピ系の男

(あいつがもう少し成長すれば、宇宙的愛がわかるんだが、いまはしょうがないな)





(もう私のことなんか愛してないのね)





たいていの場合、男は理屈をこねて、女は事実を指摘する。


男は自分のほうが頭がいいと思い、女はそんな男を子供っぽいと思う。



やがて時が経ち、男は心を閉ざしていく。


女は感じあいたいと願い、より直接的な会話を求めだす。


男は追い詰められ、最後はキレルか、だんまりを決め込む。



そして冷戦が始まっていく。




今日は、ちょっとスピ系の男(知識だけは一人前)と、普通の女の会話だったけど、ここまで極端じゃないにせよ、似たような事があなたの周りで起きてない?



所詮この世は男と女、されどこの世は男と女。


それはまったく違う生き物。

正反対の生き物。


だからこそ、惹かれあうし、反発しあう。




みんなが幸せでありますように。

アベッチは今日もPCに向かって記事を書くのであった。

くわえタバコで。





それじゃ、また明日(^o^)/





応援よろしくお願いします。

   



・・・・・・・



明日の大阪いまここ塾は、10月の大阪ユリイカと同じ会場で14時からです。

お間違えのないように。

(お申し込みは終了しています)  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(76)

2010年09月21日

宮下富美夫さんのこと

昨日のコメント面白かったね。

ひとつの現実に対していろんな意見があって、それぞれに「うん、そうだよな」って思えて、しかもコメントの背後に優しさがあって、ありがたいことだと思いました。


それから、昨日は松本市で講演会開いてくれて、協力してくれたみなさんお疲れ様でした。

そして、地元だけでなく、県外からのご来場、ありがとうございました。

東京から駆けつけてくれた人たちもいて、ホント嬉しかったです。

車やバイクで来てくれたけど、みんな無事に帰りましたか?



昨日はちょっと不思議なことがあってね、講演中にひょんなことから、ヒーリングミュージックの故・宮下富美夫さんの名前を出したら、会場に西洋の女性がいて、ナントその方が奥様だった。

一時間以上もかけて、飯綱高原から来てくれたそうだ。

数百回の講演会で初めて宮下さんの名前を出したのは、きっとこの女性に影響されたんだろうと思った。


宮下さんは知る人ぞ知るヒーリング音楽の先駆者だけど、音の周波数が身体のどこに影響するか全部知っていて、それを素晴らしいサウンドに取り入れて作品を作っていた人。

だからヒーリング音楽と言っても、単にリラクゼーションだけではない深みがあって、文字通り人を癒す力を持っている。

もともとはファー・イースト・ファミリー・バンドというロックバンドのリーダーで、そのバンドには、やはり瞑想音楽の先駆者、喜多郎もいた。

二人は世界で活躍する和製ロッカーだったのに、その後そろって違うジャンルで大活躍するのだから、ファー・イースト・ファミリー・バンドってすごいバンドだったんだね。


その二人がなぜ瞑想的音楽を始めたのか、そのエピソードを、奥様と一緒に来てくれた医師の方から昨日初めて教えてもらった。

その話によると、二人がロスにいたとき、半透明の不思議な老人から、これからはこういう音楽を創りなさいと言われ、何かの力を授かったんだって。


時間が無かったからそれ以上の話は聞けなかったけど、いつかまた奥様やお仲間に会いに飯綱高原まで行こうと思う。

宮下さんには、天河神社に奉公しているときにお世話になっているので、これも何かのご縁だよね。


そういえば思い出すのは、20年ほど前に天河神社の宮司さんの家で、宮司さんと、宮下さんと、龍村監督と4人でいたとき、宮下さんが初対面の龍村さんに「天河は人と人を出会わせて結んでくれる不思議な力がある」って言ったのね。

その瞬間、直感的に、これから撮影に入るという龍村監督のガイアシンフォニーの映画音楽を、宮下さんが担当することになるって思った。

で、そうなった。


その後、ガイアシンフォニーも、宮下さんの音楽も大ヒットして、多くの人の霊的成長に貢献する事になった。


吉野の天河は精神世界のメッカみたいな場所だけど、偶然そこで出会った人と一緒に何かの役目を担っていくことが多いのは、あそこに天の仕組みが凝縮されているからだと思う。



それじゃ、今日の話はこのくらいで。


また明日ね。




ところで、宮下さんの音楽は疲れた心を癒すには最適ですよ。

コチラから試聴できます。





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Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(32)

2010年09月20日

タバコの話

10年間やめていたタバコを、最近になってまた吸うようになってしまった。

タバコが値上がりしようって時に、吸い始めなくてもいいと思うんだけどね。


なんでまた喫煙が始まったかというと、とあるヒーリングがあって、それがバナナの葉でくるんだタバコを使って、その煙を鼻から吸い込むというものなのね。

でも結局はニコチンを吸い込んでいるので、体内に残っていたニコチン依存がまた顔を出すことになる。


ニコチン依存の力って、数ある麻薬の中でも最強で、たとえ何十年やめていても、たった一本のタバコで習慣が戻ってしまうことがある。

この僕も、そして妻も、このヒーリングを受けた友人たちも、喫煙が再開しちゃった。


そこで気がついた。

これってよくなくねえ?(若者風に尻上がりの口調で)

だから、大好きだったこのヒーリングをやめることにした。


ところが一度始めたタバコは、なかなかやめられない。

みんなが禁煙しようとしているムードの中で、喫煙の再開は、ほとんど笑い話だよね。


喫煙者の中には、国規模の禁煙キャンペーンは陰謀で、タバコは身体に悪くないって言う人もいるけれど、僕はそうは思わない。

だって最近、目覚めたときの調子が明らかに良くないのがわかるもの。


たしかに昔はタバコに対して大らかだった。

昔の映画を見ると、それがよくわかる。


銀幕に登場するヒーローやヒロインたちが、平気で人前でタバコをふかしている。

いまだったらヒンシュクもので、喫煙しているだけで知性が疑われることさえあるよね。


いまは未成年のアイドルやスポーツ選手の喫煙が発覚すると、世間から抹殺するくらいの騒ぎになるけれど、僕等の頃はかなり大らかだったかな。

その風潮が良かったとは思わないけれど、高校時代からけっこう周囲にタバコ吸っている仲間が多かったし、かくいう僕もその一人だった。



そういえば高二のとき、ちょっと咳き込んで学校の保健室に言ったら、そこの保険室の先生が、

「阿部君はタバコが体に合わないんじゃないの?」

って普通に言ってきたのを覚えている。

「そこじゃないだろ」って思うけど、そんな時代だったよね。



それはともかく、僕も妻も、もう一度タバコを辞めます!!



辞めつもりです!



たぶん。




そこで買ってきたのが、電子タバコ。

これはなかなかのすぐれもので、ニコチンとタールを含まずに、喫煙の満足感が得られる。

赤ん坊のおしゃぶりみたいで、なんとも情けないけれど、いまはこのお世話になっています。


昨日なんか、名古屋の講演会で、講演しながら吸わせてもらったりして(笑)

たくさんのご来場ありがとうございました。

僕もすごく楽しい時間を過ごさせてもらいました。



いまから長野に向かいます。

あっ、電車の中は禁煙だ。

昔はよかったなあ。


今日の記事を書きながら、本当に辞める気があるのかといえば、ちょっと怪しいということがわかりました。

本気で辞める気になったら、辞めているよね、


なんだかんだ書いたけど、結局は喫煙者の仲間入りをした僕です。




また明日お目にかかります(^o^)/





いつも応援ありがとうございます。

     


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(60)

2010年09月19日

アベッチ

前に、とても仲が良かった友人から、ひどいことを言われて、けっこう傷ついたことがあった。



なにもそんなふうに解釈しなくていいだろ?

そんな言い方ないんじゃない?

へえ、そんなふうに思っていたんだ。



その時は、いままで仲が良かったことが全部うわべだけの見せ掛けで、本当は心の底でそんな風に見られていたかと思うと、寂しかったし、腹もたった。

人間関係は、作りだすのは時間がかかるけど、壊れるのは一瞬だ。



あんな奴、もう二度と会うもんか。

そんなふうにしか人を見れないなんて、可哀想な奴だ。

きっと奴は奴で、人生で自分の傲慢さを学んでいくに違いない。

俺は寛大だから許してやろう。


そうやって相手を哀れんで、思い出を記憶の底にしまって、一件落着。



でも待てよ。

問題は、奴が何を言ったかじゃなくて、なぜそこまで俺が傷ついたのかじゃないだろうか。

あんな言われ方をすれば誰だって腹が立つっていうのは、単に自分の怒りを正当化しているだけじゃないだろうか。

なぜあんなに俺は頭にきたんだろう・・・・


と、ここまで考えて、思考停止。

それ以上、深く見るのが怖くなったんだと思う。




それから数年して、久しぶりに心を開いて素直になったときに、ふと思った。


そうか、あんなに頭にきたのは、奴の言ったことが全部当たっていたからだ。

うまく隠して生きてきたつもりだったのに、それを直接指摘されて動揺したんだ。

それでゼロコンマ何秒の間に、怒りという防御を張りめぐらせて、奴の言っていることは奴の人間性のせいで勝手に決め付けているだけだと思いたかったんだ。


そうか、奴は本当の友人だったんだ。



謝ろう。

俺が悪かったって謝ろう。




そう思ったのは一瞬で、結局は謝る勇気なんかない。



ま、いまさらしょうがないか。

こういう運命だったんだし。

奴とはここまでの縁だったんだ。

もう人生に関係ないんだから、忘れよう。

気づかせてくれてありがとう!



そうやってまた勝手に結論出して、勇気を持てない自分を正当化するのであった。


人間やっていくのも大変だなあ。




低我のアベッチの独り言でした。



ほとんど低我、のち、ときどき真我、56歳の秋です。




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Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(59)

2010年09月18日

ベッドの中から

昨日の大阪ユリイカでは、みなさんからたくさんのエネルギーを感じました。

ほんと、凄かったですよ。

前のほうから見ていましたが、特に後半は会場全体がキラキラ輝いていました。


そんなにたくさんのポジティブエネルギーを浴びたのに、どうやら久しぶりにダウンのようです。

ちょっとハードスケジュールだったかもしれません。


今日は大事をとってブログをお休みします。

また明日復活予定です(^o^)



沖縄では明晩、中城村吉の浦会館でいまここ塾します。

どうぞいらしてください。

それまでに治しておきます。


いつもありがとうございます。



お見舞いボタン
 ↓
   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(26)

2010年09月18日

食事の話

食事しながら、ほかのこと考えているときってない?

明日の仕事のことを考えながら、芋の煮っ転がし頬ばって、そのあとで味噌汁飲んで、ご飯を口に運ぶんだけど、全部無意識のうちに自動的に処理されている。

口の中の味わいを感じてはいても、それはほんのわずかで、むしろ明日の会議のほうが気になっているわけ。

そういう時は、やっていることと、頭の中の世界がまったくズレている。

肉体的には食事という行為をしているんだけど、実際にその時間体験していたのは、明日の会議。


こういう状態を、頭の中で生きているって言うのね。


リアリティーと向かい合う事が、真に生きることだとしたら、食事の時は食事に徹しなければならない。

じゃどれくらい徹すればいいかと言えば、それは禅寺での食事がヒントになる。

そもそも禅とは、「いまを生きる」ということを徹底的にやろうとしているわけで、当然それは食事のときも同じだ。


彼らは食事を前にして読経をし、五観の偈(ごかんのげ)というものを大声で唱える。



その最初の一行は


「功の多少を計り、彼の来処を量る」(こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかる)


「功の多少」というのは、目の前の食事がこうして食事として完成したのは、多くの人たちの努力や汗の結果であり、それを感謝しながら食事をいただきますという意味。

ちなみに多少というのは、多い少ないということではなく、少という言葉を使うことで、多という言葉を強調している漢文的手法。



そして次の「彼の来処」

これは食べ物一つひとつの、食べ物としての由来のこと。

僕らは他の命を食べているのだから、せめてその命がどのように育まれ、どのような縁によって自分の口に入るのかということを自覚しようというわけ。


たとえばご飯ができるまでには、まずは種から苗を育てて、田んぼを耕し水を張って、肥料や酸素が行き届くようにしてから田植えをして、その苗がすくすく育って何本にも茎が分かれて育っていって、その間にも天候や成長に合わせて水を調整して、やっとこさ刈り取りになって、木にかけて天日干しして、脱穀して、袋につめて、流通して、販売して、それを買ってきて、洗米して、炊き上げて、お茶碗によそったものが、ご飯です。

それを、明日の会議のこと考えながら、胃袋に流し込むのは、あんまりでしょって(笑)


ひとつの食べ物が、目の前に出てくるまでには、無数の人の手と、天の恵み、地の恵み、自然の恩恵がたくさん詰まっていることを意識していただいたとしたら、ご飯の中に宇宙を感じる事ができるよって、それが禅寺での食事の態度です。

そうすると、豪華な食べ物か粗末な食べ物かという以前に、食べるという行為自体が深まっていって、それが生きることを豊かにしてくれるというわけです。


人生にとって大切なことは、何をするかということよりも、どんな自分がどんな態度でそれをするのかってことかもしれないね。


「DO」よりも「BE」

これも人生のキーワードのような気がします。




さて今日のあなたのご飯、どんな味わいになることやら。





それではまた明日(^o^)/




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Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(43)

2010年09月17日

宗教関係ですか?

先日僕のことを音楽関係のサイト(you tube)で知って、このブログにたどり着いた方からメールをいただいたんだけど、その方がこう言うんだ。

「ところで、こちらのブログは宗教関係ですか?」

否定的におっしゃっているのではなく、素朴に感じたままを書いてくれたようだった。


そうか・・・やっぱりこういう内容は、いわゆる宗教的なんだな。

そりゃそうだ。

神だとか、真理だとか書いていれば、そう見えるよな。

音楽の世界から見れば、この手のメッセージは、多分に偏って見えるだろうし、ちょっと危ないんだろうな。



それにしても、「宗教ですか?」って言われるのが、なんでこんなにイヤなんだろう。

「違う、違う、そうじゃない!」って言いたくなる。


宗教という言葉自体が、多くのニュアンスを含んでいて、どこか秘密めいた香りがするし、心が健全な人よりも、偏った人や、勘違いした人が信じるものだという感覚もある。

僕自身は宗教とは何の関係もないけれど、いちいち「僕は宗教じゃありませんよ」って言って回るのも変だしね。

そう言いながら、ブログで書いていることは、どう弁解しても宗教的だし・・・



25年前、いきなり僕がこのような話を周囲に始めたころ、お前みたいなカッコつけ屋が、どうしてそんなカッコ悪いこと始めたんだって言われた。

その風潮は多少緩和されてきたけれど、いまも変わらずあり続ける。

昔の音楽ファンの中には「阿部さん、しょうがないな」と思っている人たちも少なからずいるみたいだし。



でも考えてみれば、宗教の「宗」とは、基本というような意味で、人生の基本の教えが宗教なのだから、それを学ばずして浮世の出来事に埋没していたら本末転倒だと思う。

それが現代において、このような宗教観が根付いてしまった背景には、伝統宗教や新興宗教が持ってきた様々な矛盾もあっただろうし、人によっては、自分が理解できないものへの警戒心もあったことだろう。



僕の周りにも、宗教団体に入っている人がいるけれど、常識的で、魅力ある人たちだ。

でも彼らが、宗教に属していることが知られたとき、偏見の目で見られることになる。

「ねえ知ってた?あの人※※教なんだって」

それだけで彼らの人格は決定される。

あの人は○○人らしいよ、というのと同じレベルだ。




結局僕は何が言いたいのかと言えば、この話はこれで終わりです(笑)

何の結論も無いまま、ただ思いつくままを書いてみました。

宗教をテーマに話すのって難しい。



このブログは、スピ系のカテゴリーの人気ランキングに参加していたけれど、今日からしばらく、まったく関係ないカテゴリーに入ってみます。

どういう反応があるかな・・・・無反応かもしれないけれど。


ためしにコレ押してください。





こちらはいままでどおり精神世界ランキングです。



  


Posted by Toshiro Abe at 08:58Comments(64)

2010年09月16日

正義の味方

「うっふっふ、越前屋、お主も悪よのお」


「まあまあ御代官様、そんな水臭いことおっしゃらずに」



ドビュッ!(手裏剣の音)


「おっ、お主何者?!」



ここでやけに派手な着物の主役登場。



「プワッ!天に代わってせいばい致す」


ちゃんちゃんばらばら、ちゃんばららん♪



この手の時代劇はお約束のシーンで終わるよね。

最後は悪者が殺されてめでたしめでたし。


実際の話し、こういう構図を僕らは心のどこかで信じていないだろうか。

この世には、いい人と悪い人がいるって。


誰かと誰かが対立したとき、僕らはどちらか一方の話しを聞く。

すると、たいていは相手が悪いというストーリーを聞かされる。


「へえ、あの人って、そんな面があるんだ。優しそうな顔して性悪だな」


この時点ですでに、いい者と悪者が登場している。


政治の世界も、職場の世界も同じ。

対立したときは、相手が悪者だ。


でもね、この世に存在しているのは、いい人と悪い人なんていう単純な構図じゃない。

ただいろんな価値観を持った人たちが、それぞれの立場で生きているだけのこと。


こういう世界が、まさに思考による世界観だ。

それは全体を見る事ができない。

そうやって決め付けた世界同士が戦いを始める。

もちろん、それぞれの立場から見れば自分が正義だ。



「プワッ!天に代わってせいばい致す」



そういうドラマ、演じていません?



チャンネル変えて、お笑い番組でも見ませんか。




それでは、また明日(^o^)/




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・・・・・・・・・・・



大阪ユリイカ(ワークショップ)は、満席のため受付を終了しました。

お申し込みありがとうございました。  


Posted by Toshiro Abe at 08:45Comments(36)

2010年09月15日

宣言

思考に囚われると、自分が知的に解釈した現実を、真の現実だと思い込んでしまいます。

そんな思い込みの中でも、自分自身に対しての思い込みが、最も大きな弊害を及ぼします。


もともと僕たちは、何一つ限界を持たない、広大無辺な存在なのですが、思考はその本性から自分を切り離し、考えられないくらい小さな存在に貶(おとし)めてしまいます。

そこから、恐れや、不安、攻撃性などが生まれます。

人間関係のいざこざから、戦争にいたるまで、およそあらゆる破滅的行為は、この誤解から始まったものです。


思考に囚われた意識は、その囚われが大きければ大きいほど、苦しみを経験します。

そしてその苦しみから逃れようとして、さらに思考を駆使し、理不尽な言動を選んでしまうのです。


苦しみから逃れるためには、心の根底にある誤解を解くしかありません。

それは、自分が個として分離した存在ではなく、すべてと繋がっている大いなる意識だと見抜く事です。

その気づきは、思考が消えたときに訪れます。

思考こそが分離感の正体だからです。


自分が大いなる存在とひとつだってことは、知っているでしょ?

だってあなたは、たくさんの本を読んできたはずだから。

でも、その感覚を常に保持しているかと言えば、そう言いきれる人は少ないと思います。

かく言う僕も、再び小さな自分に戻っている事がよくあります。

これは肉体を持っている以上、致しかたないのかもしれません。


しかしそんな時でさえも、僕たちが大いなる意識(神・宇宙意識・ワンネス・等々)であることに変わりありません。

いついかなる時も、僕たちはそれ以外であったことはないからです。



「私は大いなる意識(神)だ」と宣言できますか。

それとも、そんな宣言は神への冒涜だと思いますか。




僕は宣言します。

僕もあなたも神そのものだと。


さらに付け加えましょう。

あなたは、まさにいまあるがままで、何一つ修正することなく、そのままのあなたで、神そのものだと。


そう思えますか。


簡単なことです。

そう思うだけなのですから。


その宣言に対する抵抗が、あなたがあなたに対して持っている思考なのです。




・・・・


この記事を書いた直後に、古古米さんからコメントを貰いました。



おはようございます。

「僕は神だ」と宣言する事は、周囲との関係性にではなくて自分自身に(自分と言うと分離してしまう様デスが‥)宣言すると言う事でしょうか? 

だったら出来そうです





そのとおりです。

社会に向けて宣言するということではありません。


人はすでに「神」という言葉に、様々な解釈を持ち運んでいます。

あえて社会との軋轢を作ったり、誤解を招いたりする必要などありません。


これは自己に対する宣言です。


大切な指摘をありがとうございました。




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Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(36)

2010年09月14日

考えること・感じること

僕らは、一日中頭の中で、ゴチャゴチャ考え事をしている。

考えている事への自覚がないから、ただ惰性で考え続けてしまう。

今日考えている事の8割がたは、昨日考えたことと同じだと知れば、いかに思考を堂々巡りさせて無駄な時間を費やしているかわかる。


それでも考え続ける。

「あーでもない、こーでもない・・・」


きっと、考える事によって不測の事態に備えたり、これからの展開がよりよくなると信じているんだろう。


いつも無意識に、落とし穴はないか見張っている。

いつも無意識に、自分や周囲を批判して罰している。


たいていの考えは、幸せな気持ちになるよりは、心身を緊張させ、慢性的な不快感を与えている。

考えは不幸の素(もと)なのに、考える事によって幸せになろうとしている。

いま深刻に考える事で、明日の幸せに繋げようとしているのだ。


でも、明日は今日から生まれてくる。

明日は今日の延長に過ぎない。

したがって明日幸せでいたければ、今日幸せでいる事だ。


いま悩んでいる問題は、十年後には十年後の問題に取って代わっているのだから、大した問題じゃない。

いまは重大な事のように見えるけれど、たいていの「悩み賞味期限」は十年以内、いやもっと短いかもしれない。

ためしに十年前に大騒ぎしていた問題を思い出してみればいい。


おそらくは思い出せないだろう。、

でも、いまと同じように将来を心配し、終わった事を後悔していたと思って間違いない。

それは僕らの習性になってしまっているのだから。



僕らは、あまりにも思考を信頼しすぎている。

思考はこの世を生きるための必需品だと思っている。


たしかに役に立つけれど、だからといって四六時中考え事の中にいるのは不健全だ。

しかも、幸せな気持ちになれないときている。


観察したことはあるだろうか。

楽しいときや幸せなときは、ゴチャゴチャ考えていないはずだ。

苦悩の中にいるときは、まさに思考の泥沼にハマッている。



思考は使っていくもの。

そのとき、思考は有用な道具になる。

思考に使われてはいけない。

主人は思考ではなく、自分自身なのだから。


考えない時間を増やしてみよう。

どうやったらいいか考えちゃう人もいるだろうけどね。


一番簡単なのは、感じようとすること。

考えることと感じることは同時にはできないから、いっさいの判断をやめて、ただ感じてみよう。

遠くから聞こえてくる音、その場の香り、いま触れているPCや携帯電話の感触、いつも見ている景色でも強烈に見てみれば、いつもと違う何かを感じるはずだ。


そしてそれらの情報を、いいとか悪いとか判断せずに、淡々と受け止めてみる。

ただあるがままを、あるがままとして感じてみる。

そのとき、頭の中に閉じ込められていた意識が、四方八方に拡大していく。

そして休息が訪れる。



考えない練習、それは感じることの練習でもある。


まずは耳を澄ましてみようか。

それだけでも、十分に価値がある。

耳を澄ませば、境界線が消えていく。

そして体への執着が薄れ、やがてはすべてがひとつであることを思い出すだろう。


ちっぽけな頭の中で大騒ぎするよりも、外に出て空を仰いで深呼吸したほうがよっぽどいい。

考えなくても、時が満ちれば答えは訪れる。

それが僕たち小宇宙の不思議なところだ。


考えない練習は、有意義なものとなるだろう。




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名古屋講演会は満席のため受付を終了しました。

10月大阪ワークショップ(ユリイカ)は残り席が少なくなりました。

9月10月東京は満席です。キャンセル待ちは締め切りましたのでよろしくお願いします。

お申し込みありがとうございました。  


Posted by Toshiro Abe at 09:00Comments(46)

2010年09月13日

幻想を生きるか、いまを生きるか

また新しい一週間が始まりました。

今日は、4年間綴ってきたこのブログの、おさらいをしてみます。

初めて読む人の中には、何を言っているのかよく解らないという人もいるかもしれませんが、なんとなくでも感じ取ってもらえたら幸いです。



ここで伝えようとしてきたのは、極めて基本的かつシンプルなポイントです。

それは、まさにあなたがいま、どんなスタンスで存在しているかということです。


人生というストーリーの中を生きているのか、それとも「いま」を生きているのか。



極めて多くの人がストーリーを生きています。

いままであったことや、これから起こるであろうことを頭に描き、その中を生きています。


そのストーリーには、ひとりの中心人物が一貫して登場します。

それが「自分」です。

自分という実体が、時間の中を生きているというのがストーリーの前提です。


しかし実際には、自分と呼べるような実体は存在していません。

あなたという現象は、その時だけの刹那的なものであり、連続し継続しているわけではありません。


「あなたはいない」

これが究極の真実です。


その真実と共に、本当のあなたが出現します。

それは宇宙規模の、とてつもなく素晴らしい存在です。



いままであなたが信じてきた社会も、仕事も、家族も、そしてあなた自身も、そのすべては思い込みの産物です。

事実を言えば、単に誰でもない人たちが生きているだけの話です。

そこにそれぞれが、これは私の家族、これは私の友人、といった具合に役割を投影しています。

同じ思い込みを共有する人たちで社会を作っているので、それなりにバランスが取れています。

社会とは、人間の共同幻想なのです。




もうひとつの存在の仕方があります。

それが「いまを生きる」という生き方です。


時間の中で作られたストーリーという幻想から目覚めて、自分を演じることをやめ、ただすべてを手放して全体と共にある生き方、それが「いまを生きる」ということです。


それこそが、唯一、真にリアルな状態です。

そのときの自分は、どこどこの誰々ではなく、単にいまここにある存在そのものになります。


このことを体で理解すれば、このブログが何を言ってきたか、その言葉の意味がわかると思います。

僕の表現力に限界があり、うまく伝わりにくいとしたら申し訳ないと思いながらのブログ活動です。


この先は、もっと生活に役立つメッセージを書いていこうと思っています。

でもその背後に、このシンプルな事実が横たわっていることを忘れないでください。


それは、あなたが宇宙であり、あなたがすべての創造主であるということです。

したがって、本当のあなたは完璧な存在で、最初の最初から満たされ祝福されているということです。


その上で、生身の人間稼業へのお手伝いをさせてください。




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今日から新刊「さとりの授業」(1365円)のアマゾン予約が始まりました。

目覚め前夜のすべての人に向けた一冊です。

編集協力は雲 黒斎さん、最後のページには、向禅師が禅の立場から「さとり」を語ってくれました。

お申し込みはコチラから。



怪しいオヤジの交換日記「阿雲の呼吸」更新しました。



明日の沖縄いまここ塾は、中城村です。

来週はお休みします。  


Posted by Toshiro Abe at 08:42Comments(46)

2010年09月12日

豊かさと、貧しさと、悩みと、目覚め

質問にお答えします。


恵まれた境遇で何一つ不自由の無い方は、多分、常に、いまを生きていて、ここにいるのではないかと想像します。

例えば、楽天の社長さんです。何一つ不自由がなければ、未来や過去にとらわれることもなさそうです。

逆に、苦難が多いと、意識して、いまを生きないと、先の不安等に心がとりつかれてしまいます。

一般に、恵まれた境遇の方は、目覚めに近い位置にいるのでしょうか?

それとも、悩みは目覚めのコヤシになるのでしょうか?

By ぼんやり太郎




みなさんも、似たようなことを考えた事がありませんか。

どうも人というのは、他人が良く見えてしまうもののようです。


明日の収入さえままならないような状況になると、業績が安定した企業に勤める人や、その経営者がうらやましく思えたりします。

ぼんやり太郎さんが指摘する経営者さんのことはわかりませんが、ひとつ言えるのは、どんな好調な企業の経営者も、心の内側には不安を抱えているということです。

なぜなら、誰にも明日がわからないからです。


優秀な経営者は、何か起きた場合のリスク管理を徹底させていますが、それでも自分の想定外のことが起こる可能性があります。

もしかしたら明日、世界経済が破綻するかもしれません。

これなどは、一企業が防げる問題ではありません。


僕たちは成功者を見て、あそこまで到達すればもう問題がなくなって幸せだろうと考えますが、そんなことはありません。

人間というものは、どんな状況にあっても、何かしらの問題を抱えているものです。



>恵まれた境遇で何一つ不自由の無い方は、多分、常に、いまを生きていて、ここにいるのではないかと想像します。


おそらくいまのあなたは、経済的な問題を抱え、それが自分の自由を妨げているように感じているのでしょう。

お金の問題で悩んでいる時は、お金持ちが幸せそうに見えます。

お金持ちには同じような悩みはないかもしれませんが、そこには当人しかわからない苦しみが必ずあると思って間違いありません。


一見、豊かに見える彼らが、本当に豊かかどうかは怪しいものです。

もし豊かであれば、それは彼らが持っている財力が理由ではなく、彼ら自身の心のあり方が豊かなのです。

そういう人は、一切を無くしても豊かでいることでしょう。


ちょっと桁外れの例になりますが、釈迦やキリストは貧しかったでしょうか。

彼らは何一つ持っていませんでした。


しかし僕は、彼ら以上に豊かな人を知りません。

あんなに優雅で美しい人たちを知りません。


え?それは彼らに弟子がいたからだって?

たとえ一人の弟子もいなかったとしても、彼らは世界全体を所有し、この世で最も豊かな人として存在していたことでしょう。

そして真の自由を獲得していました。



>一般に、恵まれた境遇の方は、目覚めに近い位置にいるのでしょうか?


もし、何もかもに恵まれた人がいたとしたら、むしろ目覚めは遠のくかもしれません。

心の葛藤がなければ、内側を振り返るチャンスが減ってしまうからです。



>それとも、悩みは目覚めのコヤシになるのでしょうか?


これは一概には言えません。

悩みの中に埋没し、悩みに翻弄されていたら、目覚めとは反対の方向に行ってしまいます。

そもそも悩みとは、心の混乱のことです。

そこには「自分にはどうすることもできない」という無力感があります。

と同時に、何かの被害者になっている場合がほとんどです。


いま自分がどのような境遇に置かれていようが、それは単に起きている状況に過ぎません。

僕たちは状況そのものを選ぶ事ができなくても、その状況に対してどのような自分で生きるかは選ぶ事ができます。

被害者になって悩み続けるか、いまできることをしていくか。


僕に言わせれば、悩みに埋没している人は暇な人です。

ぐっと肛門を引き締めて、いまを生きてみましょう。

(べつに肛門じゃなくてもいいですけど)



どんな人も、いまできることは一つだけです。

昨日や明日を断ち切って、今日一日を生きるのです。

あなたが言うように、苦難が多ければ、心していまを生きるというチャンスが出てきます。

そんな態度が、時間を超える(次元を超える)洞察を与えてくれます。


そのとき、悩みは目覚めのコヤシになることでしょう。



まだまだ書きたいことはたくさんありますが、今日はこの辺りにしておきます。


生意気にわかったよなことを書きましたが、少しでもヒントになってくれたら幸いです。





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Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(36)

2010年09月11日

変人のすすめ

先日、僕たちが「自分ではない誰かさん」を生きてしまう話しをしたけれど、何故そうなってしまうのだろう。

そこには、僕たちが持つ、隠れた動機があるように思う。



その代表が、人から認められたいというものだ。

自分が何かを言おうとしたとき、本心から思っている事を言うのか、それとも人から認めてもらえる事を言うのか。

同様に、何かをしようとしている時、自分がしたいと思っている事をするのか、人から認めてもらえそうな事をするのか。


その違いは大きい。


なぜこんなにも人の承認が必要なのかと言えば、それはズバリ、自分が自分を認めていないから。


もし自分を認めていれば、人の評価に振り回されなくなる。

もし自分を認めていなければ、人の評価欲しさの生き方になってしまう。


だから、自分の人生を生きるには、その大前提として、自己承認が必要になる。


自分を認めるというのは、自分の長所を大きくして、欠点を克服する事じゃない。

そのまま、あるがままを認めるという事だ。


でもそんなことは、なかなかできるものじゃない。

だって、何が良くて、何が悪いのか、すっかりその判断の世界に浸っているのだから、その視点から見たら、あるがままでOKなわけがない。


自己承認とは、自己の本性を知る事だ。

自分が何者だったのか、持って生まれた偉大な質を思い出すしかない。


それを一旦知れば、長所だとか短所だとか言わなくなる。

それらは単なる個性だ。

自分の本当の偉大さから見れば、自分の長所と短所など誤差に過ぎない。



自分の本性を知れば、自分にくつろぐことができる。

自分にくつろげば、自分の思いを基準にして、言動を選択することができる。


だから、自分に目覚めた人は、自分の人生を生きだす。

それは社会の評価を気にしたものではないので、社会から見ると、ちょっと変わった人に見えてしまう。

目覚めた人の多くは、変人たちなのだ。

その人たちが、新しい世界を作り出していく原動力になる。



だからと言って、変人がみんな目覚めているわけではない。

そこに愛と知性がなければ、ただの変人だ。


僕たちは、新しいタイプの変人になる必要がある。

それは個の開花のようなもの。

どれ一つとっても、ユニークな香りを発する愛の花だ。


その愛の花は、社会に迎合していない。

社会に敵対する事もない。


愛の花は、社会の評価に関係なく、その独自な香りで世の中を豊かにしていく。

新しい時代の新しい文化は、そんな個性あふれる花々が、お互いの違いを認め合いながら、見事に調和する世界を作り出していくことになるだろう。

それは、人間に本来兼ね備わっている、愛と知性によって実現されていくことだろう。




それじゃ、また明日ね。





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週明けからアマゾンで、新刊「さとりの授業」(1300円)の先行予約が始まります。

月曜日には詳細をお知らせできると思います。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:32Comments(48)