2009年10月31日

昔話

こうしてブログという旗を振っているおかげで、目覚めに興味がある人や、目覚め前夜の人や、目覚め経験者や、いろんな人が集まってくれて、自分の思いを語ってくれます。



昭和62年ですから、もう22年も前の話になりますが、そういう仲間たちと出会いたい一心で、ロックバンドをプロデュースし、そこに「いまここメッセージ」を乗せた作品を作り、デビューしてもらいました。


バブルの時代ということもあり、すぐに数千万円の資金が集まりました。

今思えば、あの頃の僕は、真理だけが絶対だと信じていたので、見方によったらかなり危険な存在だったと思います。

お金だとか、社会システムだとか、そんなものはどうでもよくなっていたのです。


このブログで伝えているメッセージは、すでに当時からすべて理解していましたが、そのことをどのように現象界に表していくのか、どのように生きていくのか、そこが極端に未熟だったと思います。

一部の理解者(真理を理解していたのではなく、そんな僕を面白がっていた人達)に守られてはいましたが、周囲からの反発や圧力は強くなる一方で、しかもそこに金銭が絡んでくるので、僕自身も大変でした。


でも心の中では、「所詮は人間界の出来事。僕にはそんなことは関係ない」と思っていました。

そのバンドは、メンバー達が自発的に始めたものではなく、僕がメッセージを伝えたい一心で作ったものだったので、維持費そのものにもお金がかかりました。

私利私欲ではないにしろ、まったく採算性のないことに湯水のようにお金を使うのですから、スポンサー達は大変だったでしょうし、お気の毒でした。



そんなある時、目の前に興味深いバンドが現れました。

確実に売れると直感できた初めてのバンドでした。


しかし結局はそのバンドを手放し、苦難な道を選びました。

これも思い込みだったかもしれませんが、その時は天から試されたように感じたのです。

いまならば、両立させることが可能ですが、その当時は真理一直線(笑)でしたので、わき目も振らず、メッセージ、メッセージでした。

ちなみに、その後彼らは、歴史を塗り替えるスーパーロックバンドになっていきました。


ちょうどそんな頃に、天河神社と出会い、それからはまさに「かんながら」の流れを生きてきたと思います。


そして今はこうして、いとも簡単に多くの仲間たちと出会うことができています。

人生に「もし」はありませんが、もしあの時、浮世の成功を手にしていたら、いまとはまったく違った人生だったでしょうし、欲望や怒りや嫉妬や執着心や、たくさんの苦しみを抱えていたことでしょう。


あの時、天から、「お前は頭も悪く、危なっかしい人間だが、真理を伝えたい情熱だけは認めてやろう」と、ずっと応援してきてもらった結果、今があるように思います。




つまらない昔話に付き合わせてしまいましたね。

何が言いたいのかと言えば、いまこうしてみなさんに会えていることが心底嬉しいし、こんな時代が来るなんて夢にも思わなかったということです。



昨日、目覚めを体験した人からメールをもらいました。

その人も、自分の見た真理の世界をどのように伝えようか、試行錯誤しているようでした。

そして漫画にすることを思いつき、初めて描いたという漫画が載っている自分のHPを紹介してくれました。

読んでみて、共感することも多く、まるで昔の自分を見ているような気になりました。


楽魂というHPで、短い漫画ですから、興味がある人は覗いてみてください。


楽魂




今夜は、久しぶりに那覇でライブです。(おかげさまのsold out)

初めて息子とも共演します。




光陰矢のごとし。





感謝。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:44Comments(29)

2009年10月30日

目的地

僕達が行き着こうとしているのは何処でしょうか。

僕たちは何を目指しているのでしょう。


今日も、瞑想中に感じたことを書いてみます。

言葉でうまく伝えられるかわかりませんが、とにかく書いてみます。




先ほどの答えですが、僕達が行き着こうとしているのは、いまの自分自身です。

ここがポイントです。

いまの自分自身なのです。


もしそれが、違うタイプの自分であれば、どのようにしてそこに辿りつくのかという問題が生まれますが、もうすでにそうであるところのものに行きつくというのは変な話です。

到達しようという試みこそが、根本的な間違いです。


僕たちは、何かに成ることはできません。

僕たちは、いつまで経っても、いまの自分なのです。

将来何かになるというような話ではないのです。

何もする必要はありません、

真理を見出すための時間も要りません。

まさに、いまここで、それは見つかります。



やることはただひとつ、目覚めるだけです。

思考との同化から離れて、ただあるがままに在るだけです。


思考のカーテンが透明になれば、そこに最初からあった真理が顔を出します。

それは、あまりにも当たり前すぎて、あえて自覚しなかった自分の本性です。

一度見つければ、自分の本性という言い方もできなくなります。

だって、森羅万象を作り出しているのは一種類の本性であり、それこそが「大いなるひとつ」なのですから。



急ぐことはありません。

急げば急ぐほど、道を外れていきます。

何もしないで、立ち止まることです。

未来に向かわずに、いまに在るのです。


自分が何処にも向かっていなかったことを見抜くのです。

向かう先などありません。

だって、いつだって「いまここ」しかないのですから。


いままでもそうだったし、これからもずっとそうです。



随(かんながら)神の物語の「7つの鍵の巻」で、弁財天(物語では真理への案内人)からのメッセージがありますが、その最後の言葉がこれです。



『どこを探しているのですか。私はいまここです』




そしてそれこそが、僕達の唯一の在りようなのです。




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沖縄の「いまここ塾」も、来週で5周年を迎えることになりました。

回数にして222回になります。

ちょうど文化の日で祝日のため、会場は那覇市のてぃるるで19時半からになります。  


Posted by Toshiro Abe at 09:05Comments(32)

2009年10月29日

続・たった一つの情報

僕たちは同じ「ひとつ」のもの。

その「ひとつ」こそが、「大いなるひとつ」と呼ばれているものです。

「大いなるひとつ」は歓喜に溢れ、完璧にして最高の至福に包まれています。

本当は、僕もあなたも限りなくハッピーなのです。

それが存在の本質なのですから。


でもなかなか、そうは思えませんよね。



僕たちは自分の意志で、全体から切り離された苦難の世界に生まれてきました。

それには訳があったのです。


もし「大いなるひとつ」として、いつも完璧な最高の至福の中にいたとしたら、その至福が当たり前になってしまって、その素晴らしさを知ることができません。

それを知る為には、そうでない状態が必要なのです。


そこで「大いなるひとつ」は考えました。

『もし宇宙(自分)の一部がこの完璧さから離れて、本当の姿を見失い、また再びここに戻ってきたとしたら、その時は、最高の至福である自分を再認識できるだろう』


そして全体から分離した、個別意識の冒険が始まったのです。

それは、本来の「大いなるひとつ」を見つけ出し、再びそこに帰り着くための壮大な旅です。

苦しみ、悩み、傷つきながら、それでも記憶の片隅に残っている絶対的幸せを求めて、分離意識は今日も頑張って生きているのです。


気が遠くなるような悠久の時の中で、何万回もの生死を繰り返してきました。


絶対的幸せは、見つかりそうで見つかりませんでした。

その理由は、ずっと自分の外側を探してきたからです。


分離意識が見続けている幻想は、時として魅力に溢れ、ついそこに惹きつけられてしまいます。

その幻想の魅力は、本当の自分である最高の至福や歓びと比べたら、まるで取るに足らないゴミのようなものなのですが、分離意識からはそれが素晴らしく見えて、その代用品で自分を満たそうとしてしまうのです。

それが欲望です。

いくら満たしてもまたすぐに欲求不満になり、また夢を見て前進し、うまくいってもいかなくても、約束された彼方なる宝は決して見つかりません。



やれやれ、もういい加減に終わりにしよう。

心の底からそう思えたとしたら、それが大いなるチャンスの入り口です。


もうそろそろうんざりして、この幻想の旅全体をやめにしてもいい頃です。

決して早すぎるということはありません。

それくらい長い時を旅してきたのですから。



でも究極から見れば、時は存在していないし、「大いなるひとつ」から分離したこともありません。

だから、「最初から救われているよ」って言うんですが、そう言われてもね。



とにかく目を覚ますことです。

地球のアラームも大きく鳴り出していますよ。


「お~い、起きろ~!!」ってね。



「う~ん!」(目覚めの伸び) 



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雲 黒斎 & 阿部敏郎 東京コラボ講演会」は受付を終了しました。

大阪コラボ講演会は、夜の部に空きがあります)
  


Posted by Toshiro Abe at 10:31Comments(27)

2009年10月28日

たったひとつの情報

僕達がみんな、究極的には「同じひとつのもの」だということは、何度も伝えてきましたね。

その「ひとつのもの」が、自分がずっと感じてきた他ならぬ自分自身だということを知れば、心の底から安心します。


自分が宇宙から切り離された孤独な存在ではなく、宇宙と、そして全体と同じ質でひとつに繋がっている存在だとわかるからです。

それはちょうど一滴の海水が、自分の成分が海全体の成分と同じだっだと知って、自分が海そのものだと知るのと似ています。


その海水が海全体に溶け込んでいきます。

その時、海水が持っていた自己感覚が、海全体の感覚に拡張しますが、その時自分が消えるのではなく、全体が自分だという確かな感覚に満たされます。

あなたが宇宙に溶け去るのではなく、あなたが宇宙になるのです。


そんな感覚を、わずか一瞬でも体験すれば、その人の人生観は根底から覆ってしまうでしょう。

同じ生きとし生ける同胞への、慈しみが湧き出してきます。

慈愛というのは、優しい人が持つ感情のことではなく、外側に見える全てが自分自身だということを理解した時に訪れる、高い意識のことです。


みんながそのことを理解し、慈愛にあふれたとしたら、どんな世の中になるのか、考えただけでもワクワクしてしまいます。

そしていま人類の一部が、あきらかにその方向に向かって動き出しているのです。


そのウェーブはさらに高まり、いつしか地球全体を包みこんでいくことでしょう。



そのために、このネット環境が大きな役割を果たしていくと思います。


しっかりと地に足を付けて、たったひとつの情報を、これからも発信し続けていこうと決めています。





今日もここに来てくれてありがとうございました。




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【お知らせ】


12月東京いまここ塾」は、お申込者が定員に達しましたので、受付を終了しました。


黒斎さんとのコラボ講演会東京は、昼夜ともに受付を終了しました。


ありがとうございました。



申し込んだのに、数日たっても受付メールが届かない方は、電話(098-866-5880)にてお問い合わせください。

双方に、何かの不具合が生じている可能性があります。


よろしくお願いします。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:39Comments(24)

2009年10月27日

あたりまえの今日

最近、講演会などでよく使うフレーズがあります。


「あなたの人生は、これ以上良くなりません」

こんなに受けの悪い言葉はありません(笑)


もちろん、誰にでも見境なく、こんな話をしているわけではないですよ。

このブログを読んでくれている人だからこそ、伝えている真実です。


何故真実って言いきれるかって?

そういう想いから抜けられない人は、人生はこれからもっとよくなると期待しているんですね。


いいですよ、希望をたくさん持って下さい。

でも5年後のあなたも、10年後のあなたも、基本的にはいまとあまり変わらないことでしょう。

そして同じように、未来への希望を生きていると思います。

「いつか・・・いつか・・・」ってね。


その時も、「いま」とまったく同じ「いま」だということを知って下さい。



確かに、もっといい仕事にありつけたり、預金残高が増えたり、新しい恋人が見つかったり、そういう状況の変化はあるかもしれません。


そうなったら人生は良くなるのでしょうか。


いいえ、残念ながら「いま」と同じです。

同じように足りないものがあり、うまくいかないことがあり、欲求不満や、不安や心配や、腹が立つことや、イライラやストレスや・・・いまとあまり変わらないんですよ。



それを見抜くことは、自分への最高のプレゼントになります。

「いまを生きる」ということがよく分かってくるからです。

そのとき初めて、「生きる」ということが的を射たものになります。



「あなたの人生は、これ以上良くなりません」

この言葉を深く理解してください。


そしてジャンプしましょう。

時間の世界から、永遠の「いま」へ。





そういえば、今日は僕の誕生日でした。


でもね、僕はずいぶん前から歳を取っていません。

身体はこの世のものなので、老化現象を免れませんが、本当の僕はフレッシュなまま、いつも「ここ」にいます。


これからの一年は、僕にとって飛躍の年になっていくことでしょう。

僕を取り巻くさまざまな状況も大きく変化していくことでしょう。


でも人生は何も変わりません。

いまと同じように、「いま」があるだけのことです。


それを知ってからは、人生がとても楽になりました。

僕たちはどこかに向かっているわけではなく、いつも「いま」、あるがままの自分として存在しているだけなのです。

それ以上でも以下でもありません。



僕たちに大切なのは、まさにいま、あるがままの自分を受け入れるかどうかです。


常にそれだけが問われています。



そしてこれからも、いまと同じ自分がいます。


あなたはいつ、そんな自分を受け入れますか。



「いま」ですか。


それとも「いつか」ですか。





今日もここに来てくれてありがとうございました。






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今夜の「いまここ塾」は、吉の浦会館で20時からです。



12月のイベントの受付を開始します。


12月12日(土)  「博多いまここ塾

12月19日(土)  「東京いまここ塾」  sold out

12月20日(日)  「雲 黒斎 & 阿部敏郎 東京コラボ講演会」  sold out


詳細は上記のイベント名をクリックしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:27Comments(106)

2009年10月26日

寝坊

いま母の家に来ています。

昨日の夜には沖縄に帰る予定だったのを、急きょ変更することにしたんです。

母と妹と従姉と久しぶりにみんなが顔を合わせたので、昨夜は遅くまで盛り上がってしまいました。

それに昨日のライブもすごく楽しくて・・・・で、何が言いたいかといえば、今朝は寝坊して、記事を書く時間がなくなってしまったということです。


スマンです  m(_ _)m


それにしても、あんなに嬉しそうな母の顔を久しぶりに見ました。

昔話もたくさんあって、長い長い人生の、僕が知らなかった母や、祖父や、そのほかいろんな人たちの話が聞けてよかったです。



夕方には那覇に着きます。

大変申し訳ないのですが、12月のイベントの受付も明日からになってしまいます。



スマンです  m(_ _)m




それじゃ、顔洗ってきます。


今日もいい日でありますように。  


Posted by Toshiro Abe at 10:20Comments(23)

2009年10月25日

10月25日の日記

元気ですか。

僕はいま東京のホテルです。

いつもは母の家に泊まるのですが、今回は朝から打ち合わせなどで忙しく、都内に宿をとりました。

きっとこの界隈は、毎朝多くの人が行き来するのでしょうが、日曜日はとても静かです。



朝起きて、仕事に出かけ、帰りに仲間と酒を飲み、帰宅して眠って、また仕事に出かけという毎日の繰り返しの中で、そんな生活を越えた世界に目覚めるというのは、とても素晴らしいことだし、幸運なことだと思います。


まだまだ自分の至らなさや、悟りに程遠い心の状態に手を焼くことも多いとしても、それでも何かに気づきつつあることだけでも凄いことだと、自分を認めてあげましょう。


僕らは足りないところばかりに気が行ってしまいがちですが、実際にはうまくいっていることも数えきれないくらいあります。

自分を認め、褒める癖をつけるのも大切なことだと思うのです。


そうでなければ無意識に自分を否定したり責めたりしてばかりで、バランスを欠いてしまいます。




僕たちはずいぶん長い旅を続けてきました。

このブログに書かれているような内容に興味を持ちだしたということは、それまでに沢山の苦労をし、悩み苦しみ、それでも頑張って生きようとした自分がいたからです。

自分ではなかなか気づきませんが、実は僕もあなたも、ずいぶん成長してきているのです。

あえて前世という言葉を使いますが、前世の自分と比べれば、いまの自分は比較にならないくらい、意識が高まってきています。

あのころは、真理の言葉を耳にしても、それを伝えてくれたブッダにただ恐れ入り、言葉を鵜呑みにして信じようとするのが関の山でした。


でもいまは違います。


そのブッダと自分は、本当は何一つ変わらないことを知っています。


たしかにブッダは成就していますが、それは僕たちの未来の姿です。

ブッダは僕たちの未来であり、僕たちはブッダの過去の姿です。

ただそれだけの違いです。


そして究極的には時間は存在していなくて、過去も未来も「いま」の中に存在しているので、僕たちはすでにブッダであるとも言えるのです。


自分の存在に、そして自分の人生の流れに感謝しましょう。


たとえいま、どのような現実を抱えていたとしても、自分が自分であったことの素晴らしさを知る日が必ず来ますから。



2009年10月25日 朝    東京にて
  


Posted by Toshiro Abe at 09:13Comments(33)

2009年10月24日

3・・・2・・・1・・・

今朝も早起きしました。

最近は平均睡眠時間が4時間くらいですが、瞑想をしているせいか、あまり日中も眠くなりません。

深い30分間の瞑想は、2時間の睡眠に匹敵するという医学データがあります。

僕自身の経験からしても、それは本当だと思います。



今日は他愛のない話に付き合ってください。


もし神様が突然目の前に現れて、

「お前の望みをかなえてやる。3秒以内に答えろ」


と言われたら、とっさに何て答えます?



唖然としているあなたを尻目に、神様は非情にも

「3・・・2・・・1・・・、はい時間切れ」

と言って消えてしまいます。


本当にそんなことを急に言われたら、あなたならどうしますか?



実はね、以前紹介した「うさとの服」のウサブローさんは、ヨーロッパにいるときに、突然、神との遭遇をして、実際に「3・・・2・・・1・・・」とやられたんですと。


そしてどうなったかは、またいつかご本人からお話ししてもらうこととして、あなたならとっさに答えられますか?


もし答えるとしたら、何て言いますか?




時間がある人は、一言書いてみてくださいね。



「3・・・2・・・1・・・」


はい、時間切れニコニコ



さてと・・・実はもう時間がないんです。

空港に行かないと。

朝8時の便で東京に向います。

このブログをアップする頃、僕は空の上です。




今日もいい日でありますように。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:45Comments(81)

2009年10月23日

あはは(^o^)

目に映る全てのものが、自分の存在の延長だってことを実感できたらいいですね。

その感覚を得られたら、他に学ぶことは何もありません。

はい、一件落着。



それ以外の事は全部、思考が作り出していた理屈の世界だってことがわかります。

幸せになるために○○をしようとか、悪いことが起きないように○○をするべきだとか。

それって全部、未来志向なんですよね。


結局は時間という幻想の中で幻想を描いているだけの話です。

そんな未来なんてどこにもないのに。

いつも「いま」があるだけなのに。



未来志向になると、失敗しないようにと深刻になります。

みんなあまりにも生真面目で、あまりにも深刻なのは、未来志向(結果志向)だからです。

実際の話、「いまここ」には何一つ問題はありません。

全部が自分だし、すでに全てを得ていて、これ以上何もないし、何も要りません。



どっちが正しいとか、どっちが上だとか・・・そんなことを言っていた自分のことを、真実を知ったあなたは、腹を抱えて笑いだすことでしょう。




言いたいことは、それだけなんですよ。


すごく当たり前のことなんだけどなぁ。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:47Comments(29)

2009年10月22日

無題

話題1


今朝は身体が痛い。

理由は分かっています。


僕が睡眠中、足元にネコが三匹いて、その一匹一匹が微妙な間隔で、しかも微妙な位置関係でゴロリンと寝ていて、そんな彼らを間違って蹴落とさないように、不自然な形で両足を広げて、そのままの格好で寝ていたものだから、体の筋がおかしくなってしまったのです。

しかもその中の一匹が、朝早くに何を寝ぼけたのか、僕の膝の裏を爪でガリッて・・・


さすがに目が覚めて、その子の顔を両手で挟んで、「コラッ!」って言ったら、「ニャ~?」って。

その「ニャ~?」の「~?」の部分が、微妙に上がるものだから、「ニャン(何)なの?」って聞かれたみたいで、思わず「何でもない」って答えました。





話題2


IWAOさんがコメントしてくれたブータン記


僕は10年ほど前にブータンを旅しました。

驚いたのは、僕が出会ったブータン人全員が自分の誕生日を知りませんでした。

自分の年もはっきりは知らないんですよ!

結婚式もなければ、葬式もしません。

一夫多妻、多夫一妻です。

民家にも泊まりましたが、夜這いもあるので、誰の子かもわからない子供もいるのですが、親が誰とかさえも誰も気にしません。

みんな同じように育ててます。

でもとにかくみんな笑顔が素敵で、幸せそうでした。

まさに「今ここ」を自然に生きている感じでした。

先祖がどうとか言われてもたぶんみんなピンと来ないのではないでしょうか?





話題3


先日の福岡いまここ塾の帰り、いつも来てくれるQさん(宇宙となかよし)と、食事していろいろ語らいました。

彼は滝行をやっているのですが、冬の季節はそれはそれは辛いのだそうです。

身を切るような冷水に足を付けて、頭から打たれるのだから、想像しただけで寒くなってしまいます。


最初のうちは、その苦痛を跳ね返そうと、気合を入れたり、大声を出したり、経文を唱えたりするそうなんですが、すればするほど耐えられなくなるんですって。

何故かと言えば、跳ね返そうというのは、その苦しみから逃れようとして抵抗しているわけで、抵抗した分だけ反作用で苦しみが増してくるわけです。


Qさんは言いました。

「苦しみというのは、この先まだこの苦しみが続くという想いが、苦しみを増幅しているんですよ。

このまま5秒後も10秒後も続くと思うから辛いんです。

わずか1秒後のことまでシャットアウトして、いまの痛みだけに集中すれば感覚が変わります。

そして、抵抗せずに、今起きていることに降参して、身を完全に委ねてしまうと、一気に楽になるんです。

秘訣はサレンダー、降参です」



おおっ!!

その境地はまさに、思考を停止させ、「いまここ」と一つになっているわけです。

それを体感できるようになるなんて、滝行って凄いですね。

そこまでやりきったQさんも凄い。


僕はきっとやらないけど、話を聞いただけで悟った気になりました。

これを読んでいるあなたも同じじゃないですか?

もうけ、もうけニコニコ



合い言葉はサレンダー!!


あはは、なんだか楽しくなってきた。




そんなわけで、また明日。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:41Comments(52)

2009年10月21日

質問に答えます

「質問です」さんからの質問

昨日のブログの中で「本当の感謝とは、存在への理解が深まった時に訪れる、彼方からの贈り物であり、行為ではないのです」とありますが、「本当の感謝」を知った後に、肉体を持った世界(自我の世界)の中で感謝を表す行為としてお墓参りや先祖供養をすることを選択することはないのでしょうか。



最初に伝えたいのは、「存在への理解」というのは、自分の中の「全体性への気づき」ということです。

この世に単独な形での自己など存在せずに、あらゆる存在は、他の存在との関係性の中に生かされています。

その全体性を体感すれば、自分を含むすべての存在への感謝が沸き出てきます。


すべての存在とは何を指すのでしょうか。

それは過去に存在したあらゆる命、現存するあらゆる命、そしてこれから生まれるあらゆる命たちです。


そしていま現在も、僕たちは多くの命に支えられて生きています。

いまあなたが着ている服を作ってくれた人、今朝食べたご飯の野菜を育ててくれた人、さらにはその人たちを生かしている人など、無数のおかげ様の中で、僕たちは生きています。

すべての存在は、それぞれがすべての存在に支えられながら生きているのです。


もちろん先祖もその中に含まれます。

ただしほんの600年もさかのぼれば、各自に1億人の先祖がいる計算になります。

それでは血脈の意味が薄れてしまうので、父方の父(家系)を先祖とするという考えを採用する人が多いのですが、実際には自分の家系に限らず、過去に存在した全ての命は僕達と同根であり、それは自分自身でもあります。


本来の仏教には、先祖供養という概念がありません。

日本で先祖供養が始まったのは、儒教が伝わってからです。

儒教には「上の者を敬う」という基本精神があり、先祖供養の中にもそんなニュアンスが含まれています。

それは朝鮮半島や中国で盛んに用いられてきた思想です。


だからと言って、先祖供養をしてはいけないと言っているのではないですよ。

それで心が休まり、平和な気持ちになると言うのであれば、結構なことです。


ただ、「僕はしない」と言っているだけの話です。

どうも一部の人の中には、「先祖供養は全員がやらなければならないことだ」という考えがあるようです。

でも、いま説明した通り、それは人類共通の価値観ではないのです。



墓参りも同じです。


たとえば、ブータンの人々は、誰ひとり墓参りをしません。

それもそのはず、ブータンには墓がないのですから。


死後はあらゆる形態の命に生まれ変わるという輪廻転生を信じているので、墓参りの代わりに、あらゆる命を大切にします。

先祖への感謝は、仏壇に向かって特定の拝み方をするのではなく、いま生きて在る全ての命を尊ぶことで行われています。


ブータンは、国民の95%が「私は幸せです」と笑顔で答える、世界でも稀な国です。

墓参りや先祖供養をしないことで罰が当たるとか不幸になると言うのは、それを信じた人の心の中にだけ起こることだと言えます。



誰でも一度信じてしまえば、その信念に縛られますし、それを捨てるのは困難です。

そう信じた人はそのように生きればいいし、そう信じていない人は、自分の想いに従って生きればいいだけの話です。

何一つ無理強いしたり、脅したりしたりするような話ではありません。




さて、質問への答えですが、本当の感謝を知った後、どのようにしてその感謝を生きるのか・・・


それは個性によって違います。

本当の感謝を知った人みんなが、先祖供養や墓参りをしたりするわけではありません。

そんなことと魂の成長は何の関係もないからです。


でもそれを信じた人には、関係が出てきます。

現実は、人それぞれの思考が作り出しているからです。

それこそが、黒斎さんが言う「マトリックスの世界」です。



僕達全員は、すでに大きな祝福の中に在ります。

それは、特定の考え方や、特定の行為に関係なく、無条件に与えられた無限の愛です。



何一つ、すべきことはありません。

ただ「いまここ」で、存在を祝い、楽しくやるだけです。




これで先祖供養・墓参りシリーズ(?)は終了します。


今日もここに来てくれてありがとうございました。


・・・・・・・・・



今週土曜日の「いまここ塾 東京」に、若干名のキャンセルが出ました。

参加ご希望の方は、コチラから。

受付は終了しました、ありがとうございました。



12月12日 「いまここ塾 博多」

12月19日 「いまここ塾 東京」

12月20日 「雲 黒斎 & 阿部敏郎 東京コラボ講演会」


受付は10月26日に開始します。


皆さんのご参加、お待ちしています。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(43)

2009年10月20日

独り言

ブログを書き始めたのが2006年7月。

もう3年間も毎日書いてきました。


書き始めてすぐに「お告げ」がありました。


このブログがやがて多くの人に読まれ始めること。

その後、僕の想像を超えた展開になっていくことなどです。


そのことは2006年9月14日の記事に書きました。


自分の人生が、まさにこの活動をするために、すべて仕組まれていたことを直感的に見抜いた時でした。

何一つ偶然はなく、何一つ無駄もないことは知っていましたが、それを具体的な形で見せられた気がしました。

生意気にも、僕には伝えたいことがあります。

それを伝えるために、こうして生きているのだと確信しました。



今朝、黒斎さんのブログを覗いてきましたが、彼はこれからもブログを書くことに精を出すと決意したようです。


彼のブログは、僕のブログ生活にも影響を与えてくれました。

そのことは先ほど紹介した記事の前日の、2006年9月13日に書いています。

期せずして同じ時期にブログを始めたというのも、何かの因縁を感じます。


先日の博多では、僕の息子のような気がしました。

前は弟のようだったのに、この数カ月で僕だけが歳を取ったのかもしれません。



こうして毎日書いていると、たまには休みたくなる日もあるけれど、それでも毎日書いていることに意味があると感じています。


よし、これからも続けていこうと、決意を新たにした朝でした。



まとまりがない文章になっちゃったね。



ここに来てくれるあなたの存在が、僕を支えてくれていることを、ありがたく思っています。





明日は、12月のイベントのお知らせをします。


年明けには、活動がさらなるステージに突入していく予感があり、それは時代の変化とシンクロしているような気がします。



僕はさらにパワーアップして、あなたのこともグイグイ引っ張っていきますからね。



これからもよろしくお願いします。  


Posted by Toshiro Abe at 09:27Comments(79)

2009年10月19日

光と闇

自分を生かしている「大いなる源」に帰り着いたとき、この世の現象の全ては、現れては消える波のような、束の間の幻だったと理解します。

現象界で生きている時は、様々な出来事に大騒ぎしているのですが、真実の世界に入れば、すべては実体のない想像の産物だったことがわかるのです。


そして自分以外存在していなかったことも知ることになります。

すべては「ひとつ」です。

それが僕達の本当の姿であり、究極のリアリティーです。



それは時間も空間も超えて永遠にあり続け、決して消滅することはありません。

増えもせず、減りもせず、汚れもせず、傷つきもしません。


だから、「全員が最初の最初から救われているよ」と繰り返し伝えているのです。

それ以外のことはすべて、思考が作り出した創作です。



さて、昨日の記事に質問がありました。



hanemoriさん

2年前父が自ら死を選んだことについてです。

思い当たることといえば自営の行き詰まりがありましたが、それにしても突然の死でした。

いまでも父は苦しんでいるのでしょうか。

ある人のブログでとても怖くなるメッセージがありましたが・・・




謝り下手の夫さん

阿部さんは先祖供養やお墓参りなどはどのようにしておられますか。





まずは、謝り下手の夫さん。


死んだ後のことについては、それが見えない未知の世界であるがために、昔から様々なことが言われてきました。

いつの時代も人間は、死や死者に対して恐れを持ってきたようです。

したがって、そこに付け込む輩は、古今東西、後を絶ちません。



今日は僕自身のことを正直に伝えましょう。


僕は一切の先祖供養をしていません。

父の墓参りにも行きません。


しかし、僕自身にも、身の回りにも、幸せなことしか起きていません。

亡き父が僕を愛していたことを知っていますし、僕も父を愛していますし、それだけで十分です。


これからも先祖供養をしませんし、墓参りも行きません。

僕が死んでも墓は要りませんし、海にでも山にでも捨ててくれて構いません。

死んだ僕に時間をかけるより、自分の好きなことをやって今を生きろと言い残しておきます。


だからと言って、人が先祖供養や墓参りをしているのを止めるつもりもありません。

それで心が休まるならそうすればいいでしょう。


でもその行為の根本に、恐れがあることを知りましょう。

そして恐れからは、決して本当の「感謝」など出てこないことも知りましょう。

にもかかわらず「感謝」のための供養だと言うのなら、それが自己欺瞞です。


それは「感謝」ではなく「取引」です。

「幸せになれますように、悪いことが起きませんように、感謝しています。合掌」



真理に触れない限り、感謝を知ることはありません。

本当の感謝とは、存在への理解が深まった時に訪れる、彼方からの贈り物であり、行為ではないのです。



さて、ここまで読んできた人の中には、胸がドキドキして、怖い気持を感じだした人もいることでしょう。

それくらい、すでにこの分野に関して、多くの観念を持っているのです。

中には、僕に悪いことが起きるのではと心配し出した人までいるかもしれません。



「お前がそんな生き方をしていれば、いつか悪いことが起きるぞ」と脅されても平気です。

何故でしょう。

それは存在の真実を知っているからです。



思考が作り出す、多彩な物語に惑わされないでください。

自我は恐ろしい物語(ネガティブな物語)に惹かれがちです。

何故かと言えば、自我の本性が恐れであり、ネガティブなものだからです。



hanemoriさんの質問への答えは、今日の記事の冒頭に書いています。


全ての存在は最初から救われていて、100%の愛で見守られていて、例外はありません。


それは人の行為や、考え方に影響されていません。

あなたが何をしようが、何を考えようが、そんな事とは関係なく、無条件の愛でいつも包まれています。

生きようが死のうが同じことです。



神が望んでいることはただひとつ、

まさに「いま」、あなたが幸せであることだけなのです。


だって、あなたが神自身なのだから。





・・・・・・・・・・・




明日のいまここ塾は、吉の浦会館で20時から。

明後日の水曜の会は、那覇市てぃるるで19時半からです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:25Comments(61)

2009年10月18日

観念のメガネ

昨日の続きですが、あのまま爆睡してしまったようです。

「まもなく博多~」の車内アナウンスで目が覚めました。


昨日はさすがに疲れていて、会場に着くと、いつも受付を手伝ってくれている二人の女性から、「大丈夫ですか?」と聞かれたくらい、疲れが顔に出ていたようです。


そこで黒斎さんを誘ってドラッグストアーに行き、ユンケル皇帝液を飲んだら、隣で黒斎さんはリゲインを飲んでいました。

さすが24時間働く日本のサラリーマン。

グビグビっと飲む彼のノド仏が、たくましく見えました。

その後お互いに、なんとなく元気になったような気になって、いざ会場へ。


それにしても黒斎さんはよくしゃべる。

一度スイッチが入ってしまうと、まるでブログが音声になたみたいに、確実にポイントを捉えた言葉が、次々と飛び出してきます。

一緒にやっている人間としては、ある面は楽でいいんですが、本音を言えば僕も喋りたい!!(笑)


でも終わってみれば大成功。

黒斎さん、お疲れ様でした。

来てくれた皆さん、ありがとうございました。



昨日の話のポイントの一つは、いかに自分本位の解釈を挟まずに状況を捉えられるかということでした。

僕たちは目の前に起きていることのあるがままの姿を見ることはなく、いったん自分の観念(信念体系や先入観)のメガネを通して解釈します。

そしてそれを「現実」と呼んでいます。


自分のメガネに合えば正しい現実ですし、合わなければ間違った現実です。

そのメガネが人によって違うので、どちらが正しいかという争いが生まれるのもしばしばです。


たとえばこのようなブログも、ただ中立的な立場から読んでいる人と、何らかの否定的感情や疑いから読んでいる人では、捉える内容が違ってきます。


否定的に読めば、言葉の矛盾を見つけたり、意味不明の内容に思えたり、「やっぱりおかしい、信用できない」となります。

自分が無意識に求めていた結論を、自分が導きだすのです。


これは人に対しても同じです。

何かの出来事が原因で、相手に否定的な気持ちを持ってしまうと、次からは、いつもそのような相手としてしか見れなくなります。

そしてその人の中に、また新しい否定的な要素を見つけたりするのです。

そうやってますます溝が深まっていきます。


実際には、諸行無常で、あらゆる現象は移り変わっています。

その相手も、昨日のその人とは違う人です。

この世で変わらずにあり続けるのは、僕たちの観念(メガネ)くらいかもしれませんね。


もちろん観念を書き換えることは可能です。

でもそのためには、まずは自分の観念に気づくことが必要です。

多くの場合、「自分はありのままに現実を見ている」という気になっています。



一番いいのは、そのメガネをはずすことです。

メガネは過去の価値観です。

したがってメガネをはずすというのは、「いま」を生きるということです。

「いま」に徹底すれば、多くの誤解や偏見から自由にないますし、それに伴う苦しみや心の痛みからも解放されます。


僕たちはそのメガネを通して、自分自身のことも判断していたりするんですよ。


あなたも昨日までのあなたじゃありません。

新しく生まれた、「いま」を生きるフレッシュなあなたです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:23Comments(19)

2009年10月17日

10月17日の記事

いま新幹線で鹿児島から博多に向かっています。

鹿児島がこんなに山の多い所だとは思いませんでした。


昨日ふと感じた事があります。

この現実が起きる為にはいったい幾つの出来事が必要だったのだろうと。


僕一人を考えてみても、もしブログを始めなければ、もし何かがほんの少し違っていたら、こうして皆さんにお会いすることはなかったのです。

それはあなたも同じで、そもそも今これを何気に読んでいますが、この現実を作るのに、沢山の思いやきっかけがあったはずです。


やはりこの世には偶然なんてないんですよね。


出会うべき時に出会うべき人に出会い、必要な時に必要な情報と出会います。



あれ?急に睡魔が襲ってきたので、ちょっと眠ります。



これも偶然じゃない?(笑)



ちょっと寝ます(-.-)zzZ




中途半端でゴメン。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:45Comments(25)

2009年10月16日

一期一会

いまから鹿児島に行ってきます。

初めての場所での「いまここ塾」はワクワク感で一杯です。


そして翌日は博多に行って、黒斎さんとのコラボ講演会。


こちらもワクワク。



でもね、どちらも前準備なしの「ぶっつけ本番」


別に手を抜いているわけじゃないんですよ。

事前には何も考えられないんです。


もし前もって話すことを決めていたら、本番の内容が面白くないと思います。

だって「いま」のことじゃないから。



したがって、全部ぶっつけ本番。


毎回のことですが、始まる前は「大丈夫かな」って思うんです。

ところが終わってみるといつも、「ありがとうございました」ってなります。

誰に向かって言っているかと言えば、やっぱり天に向かってでしょうね。

それと会場に来てくれた人にです。

その両者が、場を動かしてくれているのだと思います。



きっとそれは黒斎さんも同じ。

彼はそんなに場数が多くないから、始まる前は僕よりもっと不安だと思うけど、いざ始まってみると、喋る喋る(笑)

雲さんがシビレを切らして、この時とばかりに喋りまくっているかのようです。


僕の中の「雲さん2号」も、喋りたくてウズウズしているのに、やはり若さでしょうか、いつも彼のペースになります。

きっと今回もそうでしょう(^o^)


さて、それじゃ行ってきます。




一期一会


お互い、一度きりの「いま」を生きていきましょう。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:37Comments(13)

2009年10月15日

隣のサトリ 3

「悟り」という言葉には、やや抵抗感もありますが、端的で分かりやすいので、もう少しこの言葉を使って話してみます。



悟った人と、悟っていない人の違いは何でしょう。


違いがあるとしたら、


「悟った人は、自分が人と何も変わらないことを知っている」

「悟っていない人は、悟った人が自分とは違うと思っている」


くらいじゃないでしょうか。


だって悟っていようと、悟っていまいと、もともと悟っていることに違いはないのですから。


なんのこっちゃ?


悟りとは、誰もが心の底の底で知っていることを、「自分は知っていた」と思いだすことなんです。

だから思い出そうが、忘れたままだろうが、質的な違いはないのです。


でもそれを思い出したら、とても気が楽になります。

全てが「自分と同じもの」でできていることを知り、その自分(本当の自分)は決して死なないことを知り、それは永遠に祝福された歓喜の存在だと知り、人生は幻想だと知り、時間など存在せず「いまここ」しかないことを知ります。


いつだって100%守られ、100%愛されていることを知り、安心して人生の流れに身を任せることができます。


無駄な努力がなくなるので、人生が楽ちんになり、スムーズに展開します。



なんだ、良いことばかりじゃないか

そうなんです、良いことばかりです。




ちょっと話を変えましょう。


全てが「自分と同じもの」でできていると言いましたが、それが自分のどの部分を指しているのかを知るのは重要です。

自分の内側の、どの感覚のことを指しているのかです。


その感覚を、いまもあなたは感じています。

感じていない時がないので、それを感じているという実感がないのです。


あまりにも当たり前になってしまっているから、あえて気がつかないのです。


それはあなたの存在そのものです。

そしてそれは、僕の存在そのものであり、両者はまったく同じものです。

この世には「それ」しか存在していません。


だから、全てが「自分と同じもの」でできていると言っているのです。



自分を知れば、全てを知ったことになります。

それが「悟り」です。



この感覚、あなたと分かち合いたいな。

あなたの中に入っていって、「これだよ」って教えてあげたい。


そしたらあなたは言います。

「なーんだ、これか!!」


それが悟りです。





・・・・・・・・・・・・




【お知らせ1】


いまここ塾に申し込んだのに返事が来ない

入金したのに確認メールが届かない

CDを注文して数週間しても、CDが届かない

などなど、何人かの方がそのような状態にいると思います。

と言いますのも、メールが戻ってきてしまう人や、振り込み人名義が申込者の中に見つからない人が数人いらっしゃるからです。


思い当たる方は、もう一度メールして頂くか、それでも駄目な時は

098-866-5880(母家)にお問い合わせください。

平日の9時から17時までです。




【お知らせ2】


あなたは発達障害という言葉を聞いたことがありますか。

自閉症とか言われて、極端に人見知りをしたり、じっとしていられなかったり、一方的に喋ったりする子供のことです。

そういう子を正確に理解してあげたいですね。


10月18日の14時から、南城市大里村環境改善センターで仲俣明夫医師の講演会があります。


お問い合わせは、NPO わくわくふれんど

070-5413-3163

  


Posted by Toshiro Abe at 09:36Comments(28)

2009年10月14日

隣のサトリ 2

悟りの瞬間、何が起きるかは人それぞれだと思います。

自分への束縛から自由になった時、それまでどのように束縛していたかによって、解放感の味わいが違ってくるのです。

その締め付けが強ければ強いほど、他の言い方をすれば、それまでの勘違いが大きければ大きいほど、その瞬間の喜びも大きくなります。


自慢にもなりませんが、僕などは、天地がひっくり返るような、仰天的エクスタシーを味わいました。

それほど大きな勘違いの世界に住んでいたということです。


したがって、その瞬間の衝撃の大きさが、そのまま悟りの深さというわけではありません。

究極はあくまでも究極であり、それは「ひとつ」なるものです。


中には、自然に、そして深く、すべてを理解する人もいるのだと思います。



その経験だけが、人を自由にしてくれます。

それ以外に、自由の可能性はありません。

その経験がなければ、喜びや幸せも、単に一過性のものだと思います。



ここでのポイントは、それはあくまでも「経験」だということです。


どんなに宗教的知識を持っていようが、どんな深遠な哲学を学ぼうが、それは悟りから見れば、何もないのと同じです。


どんなに熱心な信者になろうと同じ事です。

それは知識や信条では決して満たされない何かなのです。



たとえば、ある人が砂漠を旅して、喉がカラカラに乾いていたとします。

その人は、リュックにたくさんの本を持っていました。

すべて、水に関する本です。


あらゆる国の水に含まれる成分が載っている百科事典も持っています。

もちろん「六甲のおいしい水」や「サントリーの天然水」も載っています。


水の性質、水の化学式、水の歴史、水に関する全ての知識を学びましたが、彼の喉はあいかわらずカラカラです。


彼が救われるためには、そんな本をさっさと捨てて、身軽になって水の在り処を見つけることです。

そして水を飲むという「経験」をして、初めて彼は救われます。


水が乾いた身体に染み込み、血液の一部となり、心が打ち震え、「あー、ありがたいな」と感謝の気持ちがわきあがって来ること、それが「経験」です。



僕たちはあまりにも乾ききっています。

水を求めてさ迷い続けています。

何生にもわたってさ迷い続けてきました。



でも僕たちは砂漠にいるわけではないのです。



いったい、どこにいると思いますか?




なんと、水の中です。


僕たちは真理の水の中に、神の水の中に、悟りの水の中にいるのです。



それを知った時、「宇宙的冗談にしてやられた」という想いを持つことでしょう。


真理はあまりにも近く、あまりにも近いがゆえに見落とし続けてきた何かです。




やれやれ、お疲れ様でした。


ま、気楽にいきましょう。



・・・・・・・・・・・



今年は各地で講演させていただきましたが、11月29日に北海道にお邪魔します。

本日から「いまここ塾 in 札幌」の受付を開始します。

詳細はコチラからお入りください。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:41Comments(40)

2009年10月13日

隣のサトリ

今日は「悟り」について書いてみます。


この半年間くらいに、僕に届いたメールの中で、「私、悟りました」という類のものが多くあります。

もしこのメールを、宗教家に見せたら、「何を血迷っているか。これこそ妄想の極致だ」と笑われてしまうことでしょう。

そこには、「そんなに簡単に悟ってたまるか」という思いがあります。



あなたはどうですか。

誰かが「悟った」と人前で公言したら、素直に「そうか、この人は悟ったんだな」と思えますか。



僕のところにも、僕を試そうとするメールや、コメントが寄せられます。

僕は僕に過ぎないのに、何を試そうとしているのかと思いますが、ここでわかったようなことを言っているので、本物かどうか見極めようというのでしょう。


では、その人はどうやって見極めるのでしょう。


もしその人が悟っていたら、悟りとは何かを知っているので、相手の香りから何かを感じ取ることができます。


もし悟っていなければ、その人が持っている「悟った人とは・・・」という知識から判断することになります。


そしてその知識は、悟りを知らないがゆえに、たいていの場合は間違っているのです。



たとえばこうです。


悟った人とは、


いつも静かに微笑んでいる


感情的になることなく、常に冷静である


すべてを受け入れ、一切の抵抗がない


感謝にあふれている


誰のことも同様に愛し受け入れている


常に祈りと共に生きている


などなど



こういうイメージを信じている限り、なかなか悟れませんし、悟りとは何かを見逃してしまいます。


悟りとは、本来そうであるところのものを、そうだったと認識することです。

当たり前のことを、当たり前に見ることです。



悟ると、確かに執着や自我は消えます。

だって本来、固定された自分など存在していなくて、すべては瞬間ごとに新しく生まれ続け、変わり続ける、諸行無常の現象だからです。


したがって執着すべき対象も、執着する自己も存在していないことになります。


執着を落とせば悟るのではなく、悟れば執着そのものが不可能だと理解するのです。



じゃあ、僕は何物にも執着していないのか。


答えは、「そういう時もあれば、そうじゃない時もある」です。


だって、僕自身も変わり続けていて、光明から無明へ、無明から光明へ、まるで呼吸のごとく、意識も拡張したり収縮したりしているからです。




悟りをあまり大げさに考えないようにしましょう。


実際には全ての人が悟りと共に生まれて来ています。

自分は悟っていないという想いが、自分を悟りから遠ざけているのです。



宗教の責任は大きかったと思います。

あまりにも身近な「悟り」や「神」を、僕達からかけ離れたものにしてしまいました。


かけ離れていなければ宗教の権威が保てなかったのはわかりますが、その弊害は21世紀になった今も続いています。



僕は「悟り」や「神」を、もっと身近なところに連れ戻したいと考えています。

そして速やかに多くの人が、「本来そうであるところのもの」を見抜くお手伝いをしたいと思っています。



だって僕たちみんなが悟らなければ(幸せにならなければ)、これ以上地球が持たないんだからね。



アセンション、本当に起きるかも。

ただしそれは、言われているようなドラマチックなものではなく、単にみんなが普通の人に戻っていくだけの話です。



その時、何が変わっているのか。


少なくとも、あなたも僕も、毎日幸せを生きていますよ(^o^)





今日もここに来てくれてありがとうございました。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:57Comments(48)

2009年10月12日

ジェンダーとスピリチュアル

大阪楽しかったですよ。

土曜日は大阪で瞑想伝授を受けてくれた人19人と瞑想会。

皆さんのこの一カ月の経験談を聞いて、本当にこの瞑想は素晴らしいと改めて思いました。


来年の年明けに再度タイに行ってきます。

僕自身は約2週間滞在してさらに理解を深めたいのと、妻の智子さんは約2ヵ月間滞在し、教師の資格を取得してきますので、来年からは僕達2人が直接、個人的に伝授することが可能になります。

僕はこの瞑想を、単に瞑想としてだけでなく、究極の自己に行きつくためのメソッドとして、総合的な学びの中の一貫として位置づけようと考えています。

また詳しくお伝えしますが、興味がある人はメールか講演会の後にでも問い合わせてください。



翌日の日曜日は、午前中に山川夫妻のティーパーティー(ミニ講演会)に行ってきました。

思った通り、素晴らしい人達でしたよ。

彼らが作り出す雰囲気がとても優しく、居心地の良い空間でした。

マイクで何か話すようにと、僕の紹介までして頂きましたが、自分の講演会でしか調子が出ない未熟者の為、何も話せずに失礼しました。

でもお会いできて良かったです(^o^)



午後からは「大阪いまここ塾」

こちらは水を得た魚のようになって、場に身をまかせながら、あっという間の2時間半でした。


何をしゃべったのか、一部しか覚えていませんが、僕が楽しかったから、みなさんも楽しかったと勝手に思っています。


最後にジェンダー(男と女・あるいは女性問題)について語りました。

きっと山川亜希子さんの影響が少なからずあったと思います。


僕は、この時代の大変革を担っていく主役は女性だと思っています。

スピリチュアルな「目覚め」とは、命の基盤への気づきであり、それは肉体的構造からして女性のほうが敏感だからです。

端的に言えば、女性のほうが「悟り」に近いのです。


歴史上、大悟したという報告は男性のほうが圧倒的に多いですが、それは男性が悟りから遠い存在なので、悟った時のインパクトが女性に比べて大きく、

「おおおおおお!!!!悟ったぞ!!!!」

となるのだと思います。

それは女性にとっては、本来当たり前の感覚ではないでしょうか。


今までも女性で真理を体得した人は、たくさんいたと思います。

しかし自らが宗教を作り出したりすることは稀でした。

組織化して拡大していくという発想自体が、男性エネルギーだからです。


今日は時間がなくてこれ以上詳しく書けませんが、またいつかブログ上でも僕の考えを述べたいと思います。


少なくとも言えることは、長年にわたる男性社会の中で封じ込めてきた女性のエネルギーを、いまこそ時代が必要としているということです。

まずは細胞レベルまで洗脳されてしまった男性社会の呪縛から、個々が目覚めていくことです。

そして女性としての素晴らしさや、尊厳を取り戻すのです。


このような話は、若い女性や、男性諸氏には分かりにくいと思いますし、反論もあることでしょう。

でも年齢を重ねてきた女性の多くは、理解してくれると思っています。

この精神世界さえも、そのほとんどが男性社会の中で語られているということを指摘しておきます。



また明日ね(^o^)/



・・・・・・・・・



ところで、11月の「大阪いまここ塾」の募集を忘れていました。

黒斎さんとのコラボ講演会・博多」の前日の11月22日に、いつものように開催します。


詳細はコチラから。




そして今夜18:00からは「ワン・ニャン・レスキュー・チャリティーコンサート


明日は、那覇市てぃるるで「いまここ塾


明後日は同じく「水曜の会


金曜日は「いまここ塾 in 鹿児島


土曜日は「雲 黒斎コラボ講演会・博多


日曜日は、午前中「博多伝授メンバー瞑想会」、 午後「いまここ塾 in 博多



以上、今週のスケジュールでした。

  


Posted by Toshiro Abe at 08:59Comments(28)