2011年04月30日

逆転

それは突然来るんだよ。

何の前触れもなくね。

それを一瞬でも垣間見ると、二度と同じ生き方をしようとは思わなくなる。


もし自分が、生まれたときから泥水を飲んでいて、それだけが水だと思っていたのに、ある日、山から湧き出る清水を発見して飲んだとしたら、再び元の泥水を飲もうとは思わないだろ?


それと同じことが起きる。

あまりの素晴らしさに、しばし感動に浸っているんだけど、それが落ち着いてくると思うんだ。

みんなに教えてあげたいって。



このような情報に興味を持った人は、自分にもその日が近づいている証拠だよ。

もちろん聞く耳を持たない人もいるし、いかに僕が間違っているかを証明しようとする人もいる。

でもね、たとえ世界中が僕に反対しても、真実が変わることはない。


と同時に、世界中の人が何万年も幻想を信じつづけていたとしても、幻想が真実になることもない。


それに幻想の中には、生きている意味がない。

一見意味に見えるんだけどね。


もっと頑張れば、いつか幸せになれる。

もっと獲得すれば、いつか幸せになれる。

もっと成長すれば、いつか幸せになれる。


頑張ること、獲得すること、成長すること、それが人生の意味だ。




でも、違うんだな。

人生に意味があるとしたら、それはいま幸せであること。

そして幸せであれば、意味は必要ない。

幸せそのものが、すでに意味だから。


人は幸せでないから意味を求めるんだ。

意味がなければ、苦しみに耐えるのは、あんまりだからね。



哲学や宗教はそのようにして生まれた。


でもその役目は終わろうとしている。

あなたが真実を知る日が近づいたからだ。

真実を知れば、一話目は完結になる。



そして二話目が始まる。

まったく違う価値観を持った、新しい旅が始まる。


その旅は、圧倒的に楽チンで、必要なものはすぐに引き寄せることが出来て、やりたいことをやりだして、何をやっても簡単に成功するし、我慢もいらない。


自分が何かをやるんじゃない。

天がやってくれるんだ。



すると偶然の一致が増えていく。

天の完璧なシナリオが、現象界に表れてくる。


それは誰かにできて、誰かにできないことじゃない。


興味が持てるかどうかが分かれ目だ。



僕を信じる必要はない。

僕が苦手なら、同じことを伝えている他のキャラを見つければいい。



ボブ・フィックスさんは、そのことを科学的に、そして真逆のサイキックな直観から伝えてくれる稀有な人だ。


何より、愛にあふれていて優しい。

みんなを同じように愛してくれる。

それは、知るに至った人の香りかもしれない。



ボブさんも、向禅師も、雲 黒斎クンも、みんな同じことを知った人で、それぞれの伝え方で話している。


今日はその3人が集結するよ。




どうなるのか楽しみだね(^o^)






   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:29Comments(84)

2011年04月29日

リラックス

昨日ボブ・フィックスさんが来日しました。


彼と会うと、安らぎに包まれます。

それは彼があまり思考を使うことなく、無垢な状態にあるからだと思います。



「自我」と「思考」は同じものにつけられた違う名前です。

頑なな思考は、自我の強さを表しています。


自我の強さが、その人の苦しみの強さになります。

したがって人の苦しみとは、思考の頑なさに比例します。

もっと平たい言い方をすれば、心の苦しみの大きさは、その人の思い込みの強さです。



心が苦しければ、周囲を批判し続けます。

いつも心の中で、あれは間違っている、これは間違っていると判断し続けます。

正しいのは自分だけ。

それが自我と呼ばれる作用です。



思考を使わずとも、心の根底にある普遍的な知性が、いま何をしたらいいのかを教えてくれます。


もちろん思考が必要な場面もあります。

しかし、無意識に思考の世界に入ったまま出られなくなっているケースの、なんと多い事か。


その先に安らぎも解決もありません。



だからリラックスを奨励しているのです。

リラックスは思考を緩め、自我を薄めてくれます。

その分、苦しみが減っていきます。



問題を解決するには、問題を作り出している思考そのものから離れることです。


心の底に、あらゆる問題が消滅した境地があります。

それが涅槃と呼ばれるものです。

しかもそれは、まさにいま、あなたと共に存在しているのです。



このような文章も思考によって処理されてしまえば、ただのナンセンスです。

いまかかえているこの問題を、誰が解決してくれるのかと言うわけです。



真理は言葉で伝わることはなく、その人の内なる気づきと洞察によるものです。

そんな無力さを知りながら、今日もつらつらと書いてみました。



このブログに記してきた言葉たちが、あなたの洞察に少しでも役立ちますように。






   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:30Comments(111)

2011年04月28日

魂の故郷

今朝、ふと目が覚めて、一瞬垣間見た世界があった。

うまく表現できないかもしれないけれど、書くことをトライしてみよう。



結論を言えば、人間の心がリセットされて、真っ新になれたらいいと思う。


僕らは心の底に、多くの観念を刷り込まれている。

たとえば幸せの形にしても、家族みんながそろって一家だんらんが最も素晴らしいとか、妻は良妻賢母が理想で、夫は勤労勤勉であるべきとか。

もちろんそれがいいという人もいるだろうが、そうでなければいけないわけじゃない。


幸せの形、人間のあるべき姿、正しい生き方や考え方など、理想とされる姿がすでにあって、人は無意識にそれを信じこみ、できるだけ自分を近づけようとしたり、お互いにチェックしあったりする。

そんなまことしやかな価値観が、たくさん刷り込まれているように思う。



本当はなんだっていいんだ。



確かに人間は社会的生き物なので、秩序を保つために最低限守らねばならないルールは存在するだろう。

しかしそれは単にルールであって、人間の価値に影響を与えるものではない。

しかもそれは、最低限のルールであるべきだ。

お互いの生存権を脅かしたり、害を与えたりしないという程度のものだろう。


人間界にこんなにも多くのスローガンが存在するのは、権力が民を支配するのに必要だったとか、人間の意識レベルが低いから道徳観念によって秩序を守ろうとか、いろいろ理由はあったと思う。



でも、もし僕らが己の本質に目覚め、開眼したとしたら最低限のルールさえ必要なくなるだろう。


そのレベルに達すれば、暴力性も破壊性もあり得ない。

そんな発想は不可能になる。

愛と調和、真の自由と尊厳が浸透した社会が出現する。

そこでは人は、どんな形にはまることもなく、それぞれの個性に合った人生を謳歌するようになるだろう。




今朝目が覚めたとき、自分はそんな世界からこの星にやってきたような気がした。


感じたことの1割程度しか表現できなかったが、またいつか話してみたい。






   



・・・・・・



【お願いとお知らせ】


コメントを書くときは、長くても800字以内にしてください。

長文の場合は、いくつかに分けて掲載するか、自分のブログに書いて飛ばすようにしてください。

ローカルのブログサーバーなので、いったん不備が生じると、みんながアクセスしずらくなってしまいます。

よろしくお願いします。



ボブさんとの東京コラボ講演会の追加募集は終了しました。

ありがとうございました。  


Posted by Toshiro Abe at 10:23Comments(76)

2011年04月27日

オヤジからの警鐘

彼方なる次元は、言葉で表すことが出来ません。

言葉は真実を指し示す道具ですが、真実そのものにはなり得ません。


文章の中から、何を言おうとしているかの真意を汲み取ったら、それで言葉の役目は終わりです。

それ以上、言葉を持ち運んではいけません。


すべての言葉は方便です。

方便とは、彼岸に渡るための船のようなものです。

陸上で船を持ち運ぶのは愚かな行為です。



この2日間、希望を捨てることの大切さを書いてきました。

それは、いまここに戻ってくるために必要な態度だからです。


しかし、希望を捨てることと現状に甘んじることは違います。


たとえば、長年夫のDVに苦しむ人がいたとして、

「いまを受け入れるべきだ」

「本当の幸せを得るには希望を捨てることだ」

と考えたとしたら、まったくの方向違いです。


それはいまを生きていません。

言葉という過去に縛られています。

しかも、その言葉が指し示している意味を勘違いしています。



もし僕のメッセージを信頼してくれるなら、その文章が何を言おうとしているのか、心で理解できたとき、メッセージを忘れてください。

理解はあなたのものですが、メッセージは僕のものだからです。


もし心からの理解が出来なければ、いまの自分にはタイミングが合っていないということなので、いったん保留にしてください。

またいつか、腑に落ちる時が来るかもしれません。


いまを生きるというのは、どんな言葉にも縛られることなく、自分の感性を生きるということです。

こう言うと、また新しい危険が生じてしまいます。

本物の感性は、もともと備わっている根源的知性からのものですが、多くの「べきだ」「ねばならない」に制限された感性は、条件付けからくる自動反応の様なものです。

実際にはそれは感性ではなく観念です。


人間の心は個々それぞれに複雑化しているので、全員に向けた共通のメッセージなどありえません。

それを知ったうえでこのような役をやらせてもらっているので、時たま立ち止まって、警鐘を鳴らすようにしています。


絶対に希望を持つなとも言っていません。

真意はそこにありません。

また違う日には、そして違う人たちには、希望の大切さを説くかもしれません。



あなたの純粋な感性を取り戻して、その声に従って生きてください。

その声は彼方なる次元からのものです。

いつもあなたを見守り、あなたを幸せに導きたいという存在からのものです。


DVに苦しんでいるというあなたに伝えます。

自分を大切にしてください。


及ばずながら僕も、あなたを応援しています。






   


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明日、ボブ・フィックスさんが来日します。

彼とのコラボ講演会には、フランスやカナダや上海からも申し込みがありました。

大変ありがたいことです。


4月30日の東京会場は、もう少しお入りいただけるようになりました。

参加ご希望の方は、コチラからお入りください。  


Posted by Toshiro Abe at 10:31Comments(67)

2011年04月26日

続・希望

昨日の記事のような内容を理解してくれる人たちが増えてきました。

これも時代の変化なのでしょう。

もしこれが20年前の日本なら、大多数の人から反感を買うか、相手にもされなかったことでしょう。

実は、そうでした(笑)



それにしても急速に変わっていますね。

僕はそれを身に染みて感じています。


人は自分の夢を強化してくれる情報を好みます。

いまは不幸でもいつか幸せになれるという類の話が大好きです。

将来への希望が、いまの苦悩を緩和してくれるからです。


たいていの講演会は、講師の話をこれからの人生に活かし、より大きな幸せを実現しようという目的で開かれます。



ところが不良オヤジのアベッチはこう言います。

「あなたの人生は、いま以上にはよくならない。それを認めるのが自分への最高の贈り物だ」



どんびき~ ( ̄Д ̄;)




このような話を理解しがたいのは、この一言が人生観の根っこに訴えているからです。

その根っこを握りしめたままこのような情報に触れても、反感を持つか、ナンセンスにしか聞こえないはずです。

これまでの生き方の枝葉を修正するのではなく、根を断ち切ろうというのが不良オヤジの目的です。



明日を夢見て数十年間生きてきて、あいかわらず明日を夢見ている自分に気づくことです。

その延長線上には何もありません。



明日を落として徹底的に「いま」に帰ってきたとき、時間という幻想から、永遠の次元に入り込みます。

その時、人生と呼んできた悪夢が消滅します。

時間という幻想と共に、死という幻想も消滅します。



キリストが天の王国と表現した次元、仏陀が涅槃と表した世界に、自分が最初からいたことを思い出します。



アダムはエデンの園を追放されてはいなかったし、無明など存在していなかったのです。



無無明


般若心経はこの次元を端的に表していますが、人生観の大前提を握りしめたままの意識には、やはりナンセンスな経文にしか見えません。




ああ、言葉とはなんとモドカシイものでしょう。


まさにいま、すでにそうだというのに。






今日もしなやかに、流れのままに。







   


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【お知らせ】


西洋の精神の友、ボブ・フィックスさんとの沖縄講演会は、5月10日(火)いまここ塾の会場、中城村吉の浦会館ホールで行います。
予約は要りません。
また詳しく紹介しますね。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:36Comments(85)

2011年04月25日

希望

実は一時間ほど前にこの記事を書き終えたのですが、なんとなく気が乗らなくて、そのままにしていました。

でもやっぱり載せることにします(笑)


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僕たちは様々なことを学びながら、今日まで生きてきました。

人生は喜びも与えてくれましたが、その一方で、苦しみや悲しみや多くの試練とも出会ってきました。

初めのうち人生のテーマは、どのようにしてその試練と立ち向かうか、どのようにして苦しみや悲しみを乗り越えるか、あるいは喜びや幸せをつかむにはどうしたらいいかということに限定されていました。


恋人や、いい仕事や、お金や、物や、自分を満たしてくれそうなものを引き寄せることによって、幸せを手に入れようとします。

しかしそれは、結局は自分を満たしてはくれません。


人は時間の問題で人生に打ちのめされます。

それでも人は、果敢に前を向いて暮らしています。


何故そのような力を持てるのでしょう。


それを可能にしているのが希望です。



希望はこう言います。


「いま不幸なのはお金が足りないからだ。お金さえあれば幸せになれる」


「この寂しさは一人ぼっちだからだ。いつか素敵な人と結婚すれば、寂しさから逃れられる」


「こんなに惨めなのは結婚相手を間違えたからだ。もっと自分を幸せにしてくれる人がどこかにいるはずだ」


「毎日が味気ないのは仕事がつまらないからだ。いつかもっといい仕事にありつければ生き生きと暮らせるだろう」



そうやって「いつか」という日を待ち望むけれど、その「いつか」は決して訪れません。

たとえそれらを首尾よく手に入れたとしても、期待していたものとは違います。

一緒に届くはずだった、自分を満たしてくれる贈り物が内包されていないんです。



するとまた、人は言います。


「いつか」


「いつか」


このような繰り返しが人生です。

そしていつの日か死んでいきます。



この堂々巡りの旅路を終わらせるには、どうしたらいいんでしょう。


今日のアドバイスは受け入れ難いかと思いますが、それでも書いておきます。


僕たちがこの不毛な人生からジャンプするには、あらゆる希望を落とすこと。

この旅がどこにも行き着かないことを見抜き、絶望の中に入っていくことです。

実際には希望を100%落とせば、絶望も消えてなくなります。

それは表裏一体の同じものだからです。

希望も絶望も消えたところに、安らぎがあります。

それは最初から与えられていた、僕たちの本質、至福です。

それを「いまここ」という言葉で表してきました。



希望を拠り所にしていた人生に終止符を打つ勇気はありますか。

人生がどこにも辿りつかないことを見抜けますか。


もう十分に試したのではないですか。

それでもまだ「いつか」を期待して生きていきますか。



招待状は、いつも「いま」あなたに届けられています。






   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:24Comments(118)

2011年04月24日

被害者の立場

「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」

って、やってみてどうでしたか。


最初のうちはうまくいっていたのに、何かが原因で不機嫌になると、とたんに周りを非難しだすという傾向はありませんでしたか。

僕らは、合理的、論理的に行動しているつもりでいますが、ところがどっこい、気分しだいでどうにでもなってしまいます。


だから非難がましい人(態度に出さなくても、内側でそういう傾向がある人)は、間違いなく不幸な気持ちで生きています。

不幸な気持ちの人に、受け入れろなんて言っても無理な話です。



不幸な気持ちの人の多くは、何かの被害者になっています。

こうこうこうだから自分は不幸なんだという理由をしっかり持っているのです。


被害者の心理はこうです。

私は正しい。間違っているのは周りだ。


あるいは、

この不幸な現実を作り出したのは自分ではなく、周りだ。


あるいは、

自分にはどうすることもできなかった。全部周りの責任だ。


というわけです。



被害者の立場をとっていると、自分は正しいという気分になれて居心地はいいのですが、その代わり不幸な気分になってしまいます。

代償は大きいんです。



それでは、被害者の立場の反対は何でしょう。


あえて言えば、責任の立場です。

どんな出来事に対しても、それを作り出したのは自分だというところから現実を見ています。


自分にはああすることも、こうすることもできたし、ああしないことも、こうしないこともできた。

自分には被害を最小限に抑える、他の選択をする可能性があったという立場です。

だから人のせいにしません。



いつもこの立場からものを見ることが出来れば、うまくいかなかったことからも学ぶことが出来ます。

「次からはこうしていこう」となるのです。


7年前に始めた沖縄でのいまここ塾で、当初言い続けていたのはこの一点でした。


「自分の不幸を人のせいにしない」



人のせいにしていると学びません。

学ばないから繰り返します。

○○運が悪いなんてボヤいている人は、たいていはこのタイプです。




「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」


この姿勢を保つことができれば、いろんな気づきが訪れます。

人間というものが、どれだけ他者や自分を非難しながら生きているかも気づけます。



気づいたらチャンスです。

違う選択をすればいいのですから。


たいていの場合は、自分が何をやっているのか気づくこともなく、同じパターンを繰り返しがちです。


だからたった一日でも、

「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」

という自覚を持って生きるのは、大いに意義あることです。




さて、あなたはこのレッスンを実践してみて、どんなことを感じましたか。

よかったら気づきを教えてください。




また今日もやってみましょう。


「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」




ねっ(^o^)





   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:06Comments(93)

2011年04月23日

いいじゃない、それで。

今日も、お馴染みのレッスンをしてみませんか。


それは、

「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」

というものです。



非難と言っても、「こんなことは私が許さない!!」という過激なものだけではなく、ほんのわずかなものも含めます。


たとえば、

「もっと痩せなきゃ」

なんていうのも、現実の自分の体形を間接的に非難していることになります。



心の中で思ってもいけません。

ただ、あるがままの現実を、あるがままに受け止めるだけです。

自分独自の判断を下さないのです。

もし一日でもこのことを徹底できたら、自我が薄らいでいきます。

非難や否定こそが、自我のエネルギー源だからです。



非難をしなければ、いい気になって成長しなくなる、なんて思わないでください。

あなたが心配しなくても大丈夫です。

現象を現象のまま起こらせてあげてください。



しかも、わずか一日だけのゲームです。


するとね、あることに気がつきます。

いかに自分が、無意識に、自分や周囲を絶え間なく裁いていたかってこと。




今日一日だけ、心の中の裁判官にお休みしてもらいませんか。


こんな単純なことを意識するだけで、多くの気づきが訪れますよ。




安らかな週末をお過ごしください(^o^)







   



・・・・・・・・・



5月東京いまここ塾の受付は終了しました。

たくさんのお申込みありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:56Comments(70)

2011年04月22日

変な普通のオジさん

いまあなたが部屋であなたをやっているように、猫はベランダで猫をやっている。

あなたと猫はどちらが優れているだろう。


そのベランダの猫の傍らに、ポトスの鉢が置いてある。

猫とポトスはどちらが優れているんだろう。


みんな同時にいま存在している。

そこに優劣なんかない。


人は人として、猫は猫として、植物は植物として、それぞれの形態でいまここに存在している。


ただそれだけのことだ。



光明を得た人も、修行中の人も、光明などにまったく関心のない人も、みんな同時に存在している。

誰も高くないし、誰も低くない。

みんなただ、そのようにして在るだけだ。



自我は比較を通して生きている。

どこどこの誰それは凄い人で、家族の誰かは劣った人で、自分はその中間だという具合にね。


誰かを見下すことで自分の優位性を保とうとし、誰かに憧れることで、自分もいつかあんな人になりたいと夢見る。


誰になろうというのだろう。


見下しているその人も、憧れているその人も、その人の中でその人をやっているのは、あなたの中であなたをやっているのと同じ存在だ。

木も、花も、猫も、鉱物も、その形態が違うだけで、存在はすべて同じ一つのものだ。



もう一度言おう。

何一つ優れていないし、何一つ劣っていない。

美しい人も、醜い人も、偉い人も、貧しい人も、みんな同じだ。




誰かになろうとしないで、いまの自分にくつろいでみよう。

くつろげば自分が少なくなっていく。

そしてやがては消え去る。


残るのが全体性。

ただいまここで、すべてがその形態であるがままに存在しているという、あたりまえの事実だけが残るんだ。



その発見を光明という。


でも何かを得たわけじゃない。

優れたわけでもない。


ただリラックスしているだけの話だ。




それはあなたにもすぐにできるよ。


いますぐにね。





変な普通のオジさんからのメッセージでした。






   



・・・・・・・・・



5月東京いまここ塾は残り席わずかです。

詳細はコチラから。


ボブ・フィックスさんとのコラボ講演会は、「名古屋第一部」以外はすべて受付を終了しています。

「名古屋第一部」も残りあとわずかです。

詳細はコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:41Comments(57)

2011年04月20日

変なオジさんからの話

人生で一番大切なのは、真理の次元に目覚めること。

繰り返しこのことを伝えてきたけれど、もし自分がこの言葉を信じているのに、目覚めがなんだかわからなかったら、あせってしまうだろう。


自分は今生において目覚めることができるのだろうか。

もし目覚めなければ、自分の人生に意味がないんじゃないか。



どうしたらいいんだ!!!!


どうやったら光明を得られるんだ!!!



あせるぜ!!!




でも大丈夫。

どの道同じこと。


そうなれば、なるし、そうならなければ、ならない。

ただそれだけのこと。


たとえ目覚めが何だかわからないまま一生を終えたとしても、存在自体が消え去ることはない。

あなたの存在は永遠にして不滅なる命だ。


それが本当の自分なのだから、安心した気持で目覚めへの道を歩もう。


秘訣はいっさいのあがきをやめて、リラックスすることだ。

そのためには極限まで努力するのもいいだろう。

やるだけやって手放すか、それともいま潔く、いっさいの努力を落とすか。



実はね、この手の情報に興味を持ったとしたら、その日は近いんだよ。

ここまで来るには、どれくらいの道のりが必要だったことだろう。

気が遠くなるような時間を旅してきた。


この先どうなるかを心配するより、ここまでやってきた自分を誉めてあげよう。

たくさんの苦しみや悲しみを通り越してきたはずだから。


もしここまで100m歩んできたとしたら、あと1cmってとこだ。

目覚めはあなたの予想に反して、目と鼻の先にある。

あまりにも近すぎて見えないだけで、途方もない距離が残っているわけじゃない。

しかし、ひとたびその次元に足を踏み入れると、そこは圧倒的に違う世界だ。

紙一重のところに待ち受ける真理の次元は、現象界とは全く違う、超リアルにして超ハッピーな、完璧なる世界だ。



あとほんの一押し。

ほんのほんの一押し。



この情報は、広く一般に発信しているわけではなく、あなたのような変わり者に発信している。


僕は変わり者との出会いを楽しむ、変なオジさんなのだから。



しかも、ただの変なオジさんじゃない。


とても変なオジさんだ。





今日もここに来てくれてありがとう。






   


・・・・・・・・・



【お知らせ】


5月東京いまここ塾の受付を開始します。

お一人でも気楽に参加できる環境です。

生(ナマ)の話を聞きに来てください。


詳しくはコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(125)

2011年04月18日

ようこそここへ

「ようこそここへ」


このタイトルの後に、思わず「クッククック」と口ずさんだあなたは、そろそろ体をいたわってあげましょう。

いつまでも若くはありません。



昨日の金沢は桜が満開。

少し田舎に入ると、緑に彩られた野原を春の小川が流れ、まるで童謡のような風景が広がっていました。

主催者のみなさんありがとう、とても有意義な一日でした。


ところが深夜、東京に戻ったときは、体が棒のようになっていました。

僕も「クッククック」世代です。



こうして体を持ちながら、彼方なる意識と現象界の間を行ったり来たりしています。

体は衰え、目の前の現実も変わり続けているけれど、彼方なる意識は、いつも何一つ変わることなく、いまここに鎮座しています。



色と空



同時に存在する両面世界を遊ばせてもらって、やがてこの世とおさらばするときは、

バイバイ、お先にね(^o^)/

と軽く逝きたいと思っています。




今日もここにきてくれてありがとう。



ようこそいまここへ。








   



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



【お知らせ】


明後日水曜日から、5月東京いまここ塾の申込受付を始めます。

久しぶりの土曜日開催となります。

5月21日、両国KFCホールです。

どうぞお気軽にいらしてください。  


Posted by Toshiro Abe at 09:08Comments(96)

2011年04月17日

君たち女の子GO!GO! わかんねえだろうな。

いま、名古屋から金沢に向かう電車に乗り込みました。

新幹線以外の長距離電車は久しぶりなので、けっこう楽しんでいます。

昔は駅弁とお茶と冷凍みかんが定番で、毎年夏休みになると、母と一緒に浜松から東京に遊びに行ったものです。

おそらくは特急料金を節約したのでしょう、準急に乗って4時間かけて行きました。

遠い思い出です。



さて昨日の記事ですが、男と女の話は誰にとっても身近ですね。

今日もつらつらと書いてみます。


男と女は思われている以上に違う生き物で、おそらくはお互いに一生理解できないと思います。

と同時に、男女性を超えたところに僕たちの本質があるのも事実で、その段階においては、自分が男か女かという以前に、人間であることさえ意味がなくなります。

ただの純粋な目覚めた意識。

それだけが残ります。


純粋意識は内なる男性性と女性性の統合という言い方もできます。

自分の内側で両性が統合されるとき、その快感は想像を絶するもので、何度も伝えたようにS○X(ソックスじゃない)の何万倍もの気持ちよさです。

きっと僕たちは、その感覚をどこかで覚えていて、そこに帰りたくて、異性やS○X(ソックスじゃない)を求めているのでしょう。



さてこのような話をするうえで混乱しやすいのは、生き物としての男性、女性というほかに、それぞれに内在している男性性、女性性というものがあることです。


女性の中の男性性は、普段あまり発揮されることはありません。

女らしさという価値観の中で、ほとんど使わずに温存しています。


でもブチっと切れたときは、その温存した男性性が一気に発揮されるので、男は太刀打ちできません。

男は自らの男性性を普段から発揮しているので余力がないのです。

たいていは勝負になりません。



それとは別に、もうひとつ、母性というものもあります。

これも区別して考えなければいけません。


一般的に母性は、初めから女性に内在しているものと思われていますが、僕はそうは思いません。

母性とは先天的資質ではなく、培っていくものだと思います。


よく若い母親が初めて子供を産んだとき、自分の中に母性と呼ばれる愛を感じることができずに、自分は女性失格だ、母親失格だとばかり、自分を責めるという話を聞きます。

これなどは、母性が最初からあって当たり前という誤解から生じています。


母性は養っていくものです。

したがって男性も、母性愛を持つことができます。


僕のささやかな体験を披露しましょう。

あれは息子が幼稚園の頃でした。


いつもなら智子さんが毎朝お弁当を作り、僕が車で幼稚園まで送っていくのが日課でした。

ある日、彼女がいなくて、僕と息子と二人だけという朝がありました。

成り行きで僕がお弁当を作ることになりました。


ご飯の上に2段に海苔を敷き、卵を焼き、ウィンナーをケチャップで炒め、あとはミニトマトなどの有り合せで色付けをしました。

智子さんのそれと比べると、明らかに見栄えが悪い、ごつごつした弁当になりました。


その日の夕方、息子を迎えに行ったのですが、弁当美味かった?って聞けなくて、そのまま家に着きました。


キッチンで彼の弁当箱を開いてみたら、何一つ残さずにきれいに食べてくれていました。

僕は想像しました。

あの幼稚園で、彼が僕の作った弁当を無心で食べている姿を。

その時、あ~かわいいなあ!!って、腹の底から湧き出してくる感情がありました。

あれが母性だと思っています。


男性の中には、あたりまえのように家事をやってのける人たちがいるので、僕の話は大げさかもしれませんが、あの時の感情はいまも息子に対する時の底辺にあります。



いま大垣駅を過ぎました。

窓の外には豊かな田園風景が広がっています。


あと二時間半の旅です。





   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(77)

2011年04月16日

女性の光明

昨日のコメントで、なぜ歴代の覚者たちが男なのかという問いに対して、ナラヤナさんが答えてくれましたが、僕も同意見なので、ここに掲載します。



>ところで、どうして釈迦もキリストも男の人なんでしょう?


実のところ釈迦もキリストも女性なんですよ。

彼らが、女性性の極みに到った時、恩寵の光に浴したのです。

男性的なマインドが光明を得たと言う話は聞いたことがない。

悟りは、人が肉体意識を超越して、子宮のような受容性そのものになった時に起こっているようです。

仏像に見られる優美な曲線は、彼らの女性性の開花を表しています。

肉体レベルの話にしても、男性に劣らず大勢の女性が目覚めています。

では、何故マスターの多くが男なのかは、いずれまたの機会に…。

昨年、僕はスピリチュアルなセミナーやヒーリングセッション、瞑想会やリトリート等々、参加する機会に恵まれたのですが、それらの多くが女性で占められていました。

来るべき新人類の夜明けの鍵は、確実に女性が握っているのでしょうね。しかも、この国の女性がリードして大役を果たすことで実現されることでしょう。

僕も置いてきぼりを食わないようにしたいと思う。

Posted by ナラヤナ at 2011年04月15日 23:54





このことについて付け加えることはありません。

まったく同感です。



ただ、なぜマスターの多くが男なのかについて、また次の機会に書いてくれるということですが、僕のほうからも一つ二つ書いてみます。



男性マインドには、周囲に影響を与えて、その範囲を広げていこうという性質があります。

それは精子が持つ基本性質の延長だと言えます。


一方女性は、待つこと、受け入れることがその基本的性質です。

子宮がその象徴です。


女性は待つことができます。

男性から見ると、信じられないくらい根気よく待つことができます。



「私、待~つ~わ♪」と歌ったのが「あみん」で、「チャゲ飛鳥」は「YAH YAH YAH」なのです。


ま、それは横に置いておきましょう。




どちらがいいとか悪いとかの話ではありません。

これは基本構造の話です。


したがって、何か重要なものが生じたとき、それを組織化し、拡大していこうとするのは男性マインドです。

まわりに影響を与え、支配していこうというのも男性マインドです。


だから古今東西、どの文明でも男性社会が形成されてきました。

戦争をしてきたのも、新大陸を発見してきたのも、科学を発達させてきたのも男性です。

歴史に名を残す覚者に男性が多いのも、このあたりが影響しています。

女性が光明を得られないわけではありません。



近代になって、女性の社会進出が取り沙汰されますが、それは女性が男性社会に進出するという意味です。

この世は、一から十まで男性社会なのです。


男性はあまりそのことを意識しません。

便利なので違和感がないのです。


一方女性は、この世が男性社会であることを、よく知っています。

若いころは男がチヤホヤしてくれるので、それほど感じませんが、ある年齢を境に(失礼)、社会構造の不条理を嫌というほど感じる時が来ます。

その怒りは、女性らしさという、これまた男性が発明した価値観によって封じ込められるので、女性の中には抑圧した怒りが溜まりがちになります。


しかしその怒りは、愛の変形です。

それが本来の愛という性質に戻ったとき、信じられないくらいのパワーが生まれます。

そのパワーが、世界を、そして地球を変えていく原動力になることでしょう。


まだまだ書きたいことが山ほどありますが、時間が無くなってしまいました。



このテーマは、きわめて重要です。

新しい時代は女性性が作り出していきます。

それには、DNAレベルに組み込まれてしまった女性自らの抑圧を開放し、そのことに男性が協力することが必要です。




また書きます。






   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:55Comments(80)

2011年04月15日

もし釈迦とキリストが出会ったら・・・

いま名古屋に来ています。

ホテルのベッドから起き出して、真っ先にパソコンの前に来てブログを開くのですから、どこにいても同じです(笑)


昨日のコメントに、釈迦とキリストが出会ったらどうなるかっていうのがありますね。

漫画チックだけど、想像するのは面白いですね。


釈迦とキリストは同じ存在です。

そういうと、釈迦がキリストに生まれ変わったと聞こえるかもしれませんが、その2人と、あなたと、僕と、その他すべての人も、同じ存在です。

あなたの中であなたを生きている存在が、彼らの中で彼らを生きていました。


このことは徹底的に理解されなくてはなりません。


ただ、あのお二人は、命について、存在について、究極の理解に達していたことは間違いありません。

老子もソクラテスも、みんなその域だったことがうかがえます。

究極の理解・・・それは「ひとつ」です。



それなのになぜ釈迦とキリストは、こんなにも表現が違うのでしょうか。


答えは簡単です。

もしあなたが真理を説く役目だとしたら、相手に応じて言葉を選ぶのではないでしょうか。


釈迦やキリストは、目の前の人たちに語ったのであり、何十世紀も先の異文化の人たちに語ったのではありません。


釈迦の周囲には、当時インドで最高の知性たちが集まってきました。

インドはすでに思想大国として円熟していました。

そこで説く話は、彼らの知的水準に応じたものになったことでしょう。


一方キリストの周囲に集まってきたのは、学問とは無縁の農夫や漁夫や、純粋な心を持った人たちが多くいました。

彼らに話すときは、わかりやすいたとえ話が主流になっていったことでしょう。

さらには時代背景、文化の違い、二人の生い立ち、個性など、様々な違いがあります。



そもそも、真理は言葉で表すことができません。

我々の思考は平面的存在ですが、真理は立体的存在です。

無数に平面を重ねても、決して立体にはならないように、どんなに言葉を重ねても真理には届きません。

次元の違いはどうしようもありません。

言葉にならない世界を、言葉を駆使して目の前の人に伝えるのですから、時代や聞き手が変われば、その表現も大きく変わることになります。



それともうひとつ、彼らの言葉が、翻訳に翻訳を重ねて今日に至っている点も見逃してはいけません。

しかも僕たちは、仏典や聖書を通してしか彼らを知らないのです。


釈迦が使っていた言葉は旧マガダ語と言われています。

釈迦が生まれ育った当時の北インド地方の言葉です。


しばらくはマガダ語で口伝されてきましたが、数百年経ってマガダ語と同じ語源を持つバーリ語に翻訳され、さらに数百年経ってサンスクリット語に翻訳されます。

原始仏教はバーリ語だと思っている人が多いですが、それさえもすでに翻訳された言葉です。

日本に伝わったのは、サンスクリット語を漢訳したものなので、釈迦が語ったニュアンスがどれほど残っているかは疑問です。



一方、新約聖書の原本はギリシャ語ですが、これもヘブライ語で書かれたものが翻訳されたと考えられています。

ちなみに、イエスが十字架上で最後に叫んだという

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

という有名な言葉はアラム語で、当時のイスラエル民族がカナンの地(いまのパレスチナ)で使っていた言葉です。


したがってイエスはヘブライ語を話したとも、アラム語を話したとも言われていますが、いずれにしても釈迦が使ったマガダ語とは、大きく違う言語でした。



さて結論です。

もし釈迦とキリストが時代を超えて出会ったら。


言葉が通じません。


以上です。



え?これだけ長く書いてきて、結論がこれですか!?



でもすぐに、にっこり微笑んで、ゴータマ・シッダッタ(釈迦の本名)とヨシュア(キリストの本名)が、


「ゴーちゃん、ヨっちゃん」

と呼び合うのも時間の問題だったでしょう。




一度は聞きたい「ゴーちゃん、ヨっちゃんのコラボ講演会」





さて、風呂でも入ろ。





   



・・・・・・・・・



【お知らせ】


4月17日に石川県で「阿雲の呼吸」が開かれます。

詳細は4月1日の記事の下段にあります。

すでに200名近い方のお申し込みがあるとか・・・ありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:58Comments(83)

2011年04月14日

仏道を習うというは

最近、僧侶の皆さんとのご縁が増えてきました。

このブログや書籍をとおして、出会うことが多くなっていったのです。



僕も仏教は大好きです。

でも僕は仏教徒ではありません。

そもそも仏教を宗教だとは思っていません。



釈迦の出現は、宗教を大きく変えました。

それまでは、神を学ぶのが宗教だったのに、釈迦は人間を学ぶことを教えたのです。


哲学でも神学でもなく、大地に根付いた存在としてのリアリティーを追求したのが仏教です。

何ら突飛なことを謳っていません。


それがいつのころからか、釈迦や諸尊菩薩を拝むことが主流になっていきました。

新興宗教の中には、釈迦の化身と称する教祖を崇拝することを奨励しているものまであります。

まったく本末転倒です。


釈迦自身や教祖を崇拝するのではなく、自分自身が1人のブッダになることが釈迦の教えです。



人生とは何でしょう。

それは、いったん忘れてしまったものを思い出すというプロセスです。


僕たちは、あらゆる記憶を消去させて、人生ゲームに参加しました。

中でも一番重要なのが、自分は誰かという記憶でした。

その一点を思い出せば、他のすべてを理解できます。



仏教とは、自分を知ることなのです。



仏教がはらんでしまった全ての迷信を削ぎ落して、本来の純粋な教えに戻すことが、僧侶の皆さんの役目だと思っています。


及ばずながらこのブログも、その一点を追求していきたいと考えています。





今日もここに来てくれてありがとうございました。






   



・・・・・・・・・



【お知らせ】


「阿雲の呼吸 in 札幌」が5月14日に開催されます。

もっと早くとの声もあったのですが、雪に閉ざされてしまう地方の方にも来ていただけるよう、この時期に設定しました。

黒斎くんと僕が出会ったのが札幌。

そのとき、縁を取り持ってくれた花咲ともみさんに、今回もお世話になります。


詳細はコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:48Comments(74)

2011年04月12日

くつろぎの勧め

鈴木康太さんからの質問

今日は数行ずつ答えてみます。


>悟りを開けば誰でもワクワクして楽しい人生が送れるようになるのですか??


さとりを経験すれば、ずっとさとりの状態かと言えば、そうではありません。

何十年にもわたる自我と思考の習慣はいかんともしがたく、ちょっとした隙にすぐに巻き込まれてしまいます。


思考に巻き込まれれば、誰かを批判し、心の中で罰し、腹を立て、恥を感じることも、恐れも、不安も、劣等感も、罪悪感も・・・そんなおなじみの世界が展開していきます。


でも気づきが訪れます。

「あれ、またやっちゃった」


その気づきを持続させるのが「悟後の修業」です。


実は、歴史上の偉い禅僧も含めて、さとってもさとらなくても、人間はみんな同じです。

もし違いがあるとすれば、さとりを求めている人は「さとった人は普通の人とは何かが違っている」と想像するのに対し、さとった人は、自分が人と何も変わらないことを知っていることくらいでしょう。



>自分は悟りからかなり離れているような気がします。


あなたがさとりからどんなに遠く離れたつもりでも、さとりはあなたから離れることはありません。

さとりとは、あなたの本質であり、生まれながらの資質なのですから。



>最近は友達との集まりさえも嫌気がさしてしまいます。


友達と会うのが面倒だ、楽しくない、集まりに参加するのも嫌気がさす。

それがどうしたんですか。

僕もそうですよ。


ただ僕の場合は、あなたのように、なぜ嫌なのか、なぜそんな自分なのか、どうしたらいいのか、と考えを膨らますことはなく、「友達と会うのは面倒だ、以上!」で終わることです。



>原因は、みんなにいい顔をする癖だとは思っているんですが、一回やってしまったため今更自分をさらけ出すのが怖い、難しいと感じています。

>自分をさらけ出せばそれはそれで嫌な奴になる気もします。
>どうしたらいいのでしょうか?




自分をさらけだす・・・このような態度には深刻さがあります。

実直であろうとするあまり、ことが深刻になってしまうのです。


もっと気楽な目線で捉えてみませんか。

あなたがみんなにいい顔するのは、自分がよく見られたいという気持ちもありますが、実は相手に不快感を与えたくないという優しさもあるのです。

それでいいじゃないですか。


いつも人と深く関わろうとする必要はありません。

周囲があなたに求めているのは、あなたの魂ではなく、あなたの表面的な態度や反応なのです。

周囲に対して、あなたが安全な存在であることが伝われば、それで十分です。

その人があなたを好きかどうかは、その日の気分もあるでしょうし、価値観もあるでしょう。

それはあなたの問題ではなく、その人の問題です。


魂のふれあいは、自分との間で起こることです。



>瞑想を続けていけばうまい事できるようになりますか?


瞑想をすれば、少なくともくつろぐことができます。

起きている現象に対して、あまり深刻にならなくなります。


瞑想とは自分にくつろぐことで、自分にくつろげば、他者は脅威ではなくなります。

その他者は、自分の心が決めつけていたものだからです。



>瞑想は全種類受ける必要がありますか?


基本的には一つで十分です。


それは恋愛のようなもの。

一人の人と恋をしたい人もいれば、いろんな人に恋したい人もいる。

でも恋そのものは、同じ状態です。

味が違うだけ。



鈴木さん、気楽にいきましょう。

あなたがたとえ一人ぼっちになっても、僕はあなたのそばにいますよ。

それどころか、僕たちは同じひとつのものなんです。




こうして記事を書いていたら、大きな揺れを感じました。

ここ東京でも、昨日から何度も大きな揺れがありました。


原発も依然、難しい状況が続いています。


にも関わらず、暴動が起きることもなく、パニックに陥ることもなく、比較的平然と社会が営まれているのは、日本国民の優れた一面だと思っています。


どんな出来事からも浮かび上がってくるプラスの側面があります。

それを見つけながら暮らしていきましょう。



南無人生。




   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:01Comments(114)

2011年04月11日

今日も南無阿弥陀仏・・・ますます変なオヤジになってきた。

昨日の会場は僕が生まれた町の隣町。

阿弥陀という字(あざ)で生まれたそうだが、昨日の会場の本尊が阿弥陀仏。



南無阿弥陀仏か・・・

まさか自分が、こんなことを喋るようになるなんてね。


昨日来てくれた中学の同級生が、しみじみと語っていた。

「あの阿部君がねえ~」


まったく正反対の、やんちゃ坊主だったからな。

あれ?いまも変わらないか。

やんちゃ坊主でも、南無阿弥陀仏くらいは言える。



さてと、コメント欄に質問が来ているので、今日はいくつか紹介します。



現実の自分さん


仏が仏の修行をする、とは具体的にどういうことなのでしょうか?

ハッキリ言わせてもらえば、仏なんてどこにいるのですか?

仏に完全に一枚であるとき、仏を仏と理解する者がいるのでしょうか?

悟後の修行とは、「悟った者なんていなかった」と完全に理解するためにあるのではないでしょうか?

つまり、悟りと完全に一枚になる。

いわゆる、「悟りを手放す」「悟った者がいない」ということだと僕は理解しているのですが、阿部さんはどう思われますか?




質問にはいくつか種類があります。

本当にわからなくてする質問と、すでに自分の中に答えがあるのに、その答えと一致するかどうか、相手を確かめようとする質問です。

もしあなたがすでに答えを持っているのなら、それはその通りです。

だってあなたがそう思うのですから。

これは嫌味ではなく、真実を言っています。


僕の同意は必要ありません。

まして反対意見も要りません。

「あなたが真実」なのですから。


最後に僕の感想を言えば、あなたの観点は好きです。




さとももさん

とってもとっても疲れました(TпT)
とってもとっても悲しいです・・・。幸せになりたい・・・って思いたいのに、
いつも私の思考や経験が私をどうせできっこないって思わせる。
どうして神様は私を幸せにしてくれないのですか?
もう、苦しいのは嫌です・・・・
助けてください。




いつか一緒に遊びませんか。


あはは、もしあなたが女性だったら

「おねえちゃん、遊ばない?」

って他の意味になっちゃうね。


あなたが何を考えようが、何を感じようが、今日も大空は大空をやっています。


ああ、大きいなあ。

宇宙ってすごいなあ。

星々を動かして、地上の命を育んでいる。

その同じ力が、あなたの中であなたをやっている。


そんなあなたに、できないことがあると思う?




paoさん

私もワンネス体験したことはないのですが その安心感を体験せずとも、在り方によってすこしずつ感じられてくるのでしょうか。
自分の中に全てがあった、あるいは自分なんてなかったという感覚、ゆるぎない感覚が。
今の自分は日々それを頭で自分に落とし込もうとしているような気がしていて 質問させていただきました。




ワンネス体験は、一種のハプニングです。

それは何の脈絡もなく、突然起こります。

頭で想像していたのと同じ面もありますが、圧倒的な違いもあります。


眠ろうとすると眠れないように、その体験も、求めていると逆行します。

求めているのは自我であり、ワンネスは自我の消失だからです。


しかしまたすぐに自我が戻ってきます。

あいかわらず自我に振り回されることもありますが、そうでない時間が増えていきます。


ゆったりと暮らしてください。

どの道、あなたの人生は完璧な流れの中にあるので安心してください。





ひろゆきさん

>先月の大震災で亡くなった人たちの魂も「あるがまま」なんでしょうか?



このような質問には、すでに多くの考えや感情が底辺に流れています。

そんな時は、急いで答えを見つけようとしないことです。


どんな答えも、観念から発生しています。

観念から発した答えには、同時に内側で反論も生まれます。

その分裂した答えをひとつにしようとして、迷い、悩み、堂々めぐりの思考に支配されます。


あなたの思考と感情を離れたところの静寂に、言葉にはできない答えがあります。

それはあなたの根源的知性からくるものです。

その答えは、必ずしも一般的な正義とは一致しません。

人間の善悪を超えた力で、事が起きているからです。

それをそのまま丸のみできますか。


事を起こしている力が「阿弥陀仏」

丸呑みするのが「南無」です。


昔から人は幾多の悲劇に遭遇し、そのたびにこう唱えてきました。


「南無阿弥陀仏」





質問ではないけれど、ここに紹介したいコメントは多数あります。


それじゃ今日の最後は、代表してぷーすけさんの言葉。



自ら光っている人に、『どうやったら光らせられるんですか?』と質問されたら自分ならどうするか。

光っている人に光り方は教えようがない。

答えは自分だけが持っている。

だから内側(光)を指さすだけなのでは?





今日もいい日だね。

あなたが健やかに幸せでいることを願っています。






   




・・・・・・


GWに開催するボブ・フィックスさんとのコラボ講演会は、東京・大阪、一部二部共に受付を終了しました。

名古屋と博多に若干の席があります。


ボブさんの紹介と、詳細はコチラから。  


Posted by Toshiro Abe at 11:18Comments(67)

2011年04月10日

自灯明

いま、大阪から浜松に向かう新幹線の中です。

こうして全国の皆さんにお会いできるのは、ありがたいことです。


昨日の記事を読み返してみましたが、祖門さんは素敵な人ですね。

人が真似できない難行苦行をクリアし、なおかつ修行の無意味性を報告してくれているのですから、大きな説得力があります。

さらには最も権威が高い比叡山延暦寺の要職に在りながら、衆生の中に立ち、同じ目線で真理を分かち合おうとしています。

仏教の細部にまで精通されていますが、そのような見識をひけらかすのではなく、無位の真人として活動されています。

このようなお姿に、心から敬意を表します。

逆説になりますが、これぞ修行の賜物と理解しています。



「悟前の修行」と「悟後の修行」の違いはなんでしょう。


「悟前の修行」とは、仏(さとり)を求めて自己を越えようとするプロセスです。

その際、仏(さとり)に対してのイメージを持ち、自己を超えた真我へのイメージを持ち、そこに向かって奮闘努力しようというのです。

このような態度には、幾つかの落とし穴があります。


まず、目指している境地が、あくまでも自分の思考が作り出したイメージに過ぎないということ。

たえず、その完璧性と、いまあるがままの自分を比較判断することになります。

それは終わりなきゲームです。

自我が自我を見張りながら、深刻さに満ちた毎日が続いていきます。

いつかさとるために、「いま」という時間を手段にしてしまいます。

しかし、実際にはどこまでいっても「あるがままの自分」であり、いつまでたっても「いま」があるだけです。


自我の試みは、自我を肥大化させていきます。

「私は数十年間の厳しい修行に耐えた選ばれし魂だ」

「私が長年学んだこの経典こそが唯一真理を説いている」

「私が・・・」「私が・・・」「私が・・・」というわけです。

そのような自己欺瞞に陥ってしまった人はどこにでも見つけることができます。

宗教の名のもとに、神と人を分断し、聖と俗を分断し、人の心の中も分断してしまいました。


神も人も、聖も俗も、みなひとつなるものです。

あなたはすでに完璧にして、本来はそのままで仏身です。

思考の否定的な妄言に惑わされてはいけません。

あなたはあなた以外になることは決してありません。


思考が、あなたをあなたではないどこかの特別な人に仕立ててしまったのです。

もし僕たちにやることがあるとしたら、余計な観念を取り払って、自分をあるがままに認めることくらいでしょう。

それがさとりです。


さとりとは、どこかにたどり着くことではなく、あるがままのいまに帰ってくることなのです。


本来のあなたは、生まれながらにして仏そのものです。

仏が仏の修行をする・・・それが「悟後の修行です」



なんて書いていたら浜松に到着。

改札まで迎えに来てくれた向禅師が、開口一番こう言いました。


「自灯明」

幾多の権威に惑わされることなく、自らを灯とせよ、という釈迦の遺言です。


僕は言いました。

「一人一人がすでに灯であり、だから、悟後の修行しかないんですよね」


すると向さん

「そうや、それしかない」




あと一時間ほどで「いまここ塾in浜松」の開演です。

満開の桜のもと、今日も素晴らしい日です。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 12:21Comments(83)

2011年04月09日

比叡山の夜・まとめ

さて今朝は、比叡山講演会を総括してくれた、祖門さんの文章を掲載します。

この2日間にわたり掲載した記録も祖門師がまとめてくれたものです。



まずは祖門さんの紹介。


堀澤祖門

1929年(昭和4年)新潟県小千谷市に生まれる。
天台宗大僧正。81歳。

京都大学在学中に比叡山に登り、叡南祖賢師のもとで出家得度、その後戦後初の「12年籠山行」に身を投じ、過酷な行を積む。

満行後、さらなる行を求めてインドを遍歴、ヨーガを学んだり、日本山妙法寺に寄宿して新しい仏教運動に触れる。

比叡山に帰山後は、在家者の修行道場「居士林」や、僧尼の養成道場「行院」で指導にあたり、現在は「叡山学院」の院長として後進の教育にあたっている。

大津市・比叡山泰門庵住職。著書に『インド仏教の再生』『求道遍歴』がある。



・・・・・・・



◎ 実際は、この問答応酬には激しいものがあった。

みな真剣だったからこそ、妥協のない議論をしたのである。

二時間あまり、繰り返し応酬が続いた。

おそらく、阿部さんは初めてプロの坊さんたちと一対多数の論戦を挑まれ、全力投球を迫られた思いであっただろう。

それだけに、阿部さんは、応答の途中で思わず声を詰まらせ、「今日は、私の人生で最高の日です」と発言されたのであろう。

しかし、「さとり」を体験した人と、それを未だしていない人との考えの隔たりは大きく、その夜、阿部さんを囲んだ青年僧の数人は、朝まで語り明かしたという。


,
<阿部>

僧侶のみなさんとの問答応酬の中で、自分が今日まで何をしようとしてきたのかが明確になり、人生の完璧なる流れに対して言葉にならない感謝がこみ上げてきた。

青年僧たちは、みんな純粋無垢な心を持ち、徹夜で意識朦朧とした中年男の話を、一言も漏らさないよう真摯な態度で聞いてくれた。

彼らは仏教界の希望の星である。




第三部 総会・その他 (三月九日)

  
朝事参加 六時半からの朝事に参加するために六時二十分に玄関前に集合したが、阿部さんご夫妻が来ないのでお迎えに行った。

朝まで青年僧と話していたと後で聞いて、気の毒なことをしたと思う。



八時~十時(講義室にて)

総会・会計報告のあと、昨夜の議論の食い違いについて私が説明した。


「次元の違いについて」


今回は初めての参加で、また佛教のことについてご存知ないお方もいられるから説明しておきますが、じつは、この世には現象界(二元相対の世界)と本分の世界(一元絶対の世界)がある、というのが悟り体験者の話です。

この二つは本来一つであって分けることが出来ないものですが、一般の理解を助けるためにあえて二つに分けて説明するというのです。

そして、現象界の存在しか理解できない人は「迷いの世界」にいるのであり、体験上「本分の世界」を掴んだ人を悟った人というわけです。


昨日の議論がかみ合わなかった根本原因は、質問者が現象界だけをベースにして発想し質問しているのに、阿部さんは「本分の世界」に立って、なんとかそれを理解してもらおうとして応えていたからです。

私たちが迷いを離れるためには、どうしても「本分の世界」を掴むことが必要です。


従来、「さとり」に至るためには永年月の修行が必要だとされていましたが、阿部さんの主張はまったく逆です。

もともと悟っているのに何故修行が必要かと言うのです。

「衆生本来仏なり」は真実だから、その自分の「本来仏」に気づき掴むだけで良いのだ、と。


これは従来の修行の発想とはまったく違って独創的です。

悟った後の修行、いわゆる「悟後の修行」は大事だが、「悟前の修行」は要らない、と。

このことを彼は、「いまここ」をしっかり掴むことが大事だ、「いつか」という未来志向は間違いだ、と目的地を想定して修行することの愚を指摘しているのです。



「さとるのは簡単です。自分がさとっていることを認めるだけですから。

自分は映像のなかの出演者ではなく、スクリーンそのものだと思えばいいのです。

そうやって、さとってから修行が始まります。

それを「悟後の修行」といい、本来、修行とは悟後の修行以外にありません。

もうわかりましたね。

修行とは、自分の意識がいつでも自分の場所(いまここ)にいるように心がけることなのです」(『さとりの授業』116頁)。



このように『さとりの授業』は極めて奥深い真理を説いているのです。

繰り返し読んで早く内容を体得することが大事だと思います。

私はこの本を画期的な本だと高く評価しております。



堀澤祖門



・・・・・・・・・・



そんなこんなの比叡山の一夜でした。


実は昨夜、堀澤祖門師と田中孝惺さんが、瞑想伝授を受けに大阪のホテルまで来てくださいました。

お二人とも、素晴らしい体験をされたようでした。

僧俗の垣根を越えて、真理がすみやかに日本社会に広まりますよう、それだけを祈念しています。




合掌







   



・・・・・・・



祖門師はボブ・フィックスさんの師匠にあたるマハリシ・マヘッシ・ヨーギに謁見した最初の日本人だとわかりました。

ご縁が巡り巡って、こうした展開になっているのですね。



ボブさんと僕とのコラボ講演会、東京会場は昼夜ともに受付を終了しました。。

名古屋・大阪(残りわずか)・博多は受付中です。


詳細はコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:38Comments(76)

2011年04月08日

比叡山の夜 その2

第二部 質疑応答 (夕食後の質疑応答、釈の会の会員だけ講義室で)

十七時から会員だけの勉強会が始まった。まず昼間聴いた講演を中心として。

 

1.〈問〉O 会員

阿部先生は『さとりの授業』で「いまここ」ということを言います。

「いまここ」がすべてであり、「さとり」とはあるがままの自分のことだ、と言われますが、それでは、これから修行し向上して行こうとするものは目標が無くなってしまい、刹那的で投げやりな生き方になってしまうと思いますが?


〈答C〉それは「いまここ」の理解が十分でないからです。

目標や目的を持つということは大事なこととされていますが、それだけで終わってしまっていてはいけません。

「いまここ」の意味が本当に解らないと、結局、人生の肝心要めが解らないことになります。

実は、「いまここ」が解ったとき始めて、本当の生きる意味が解り、それこそ、真剣に、大きな喜びをもって生きることができるのです。




2.〈問〉T 会員

先生の本を読むと、悟れば自我が無くなると言われているようだが、肉体がありながら自我がないということはどういうことですか。

また、PCやケイタイを使っていられるようだが、こういう器械に依存するから現代人が浮薄になっていると思う。私は大嫌いです。

ケイタイやPCで集団自殺などが起きていますが?
   

〈答〉まず自我の問題。

個人の自我が無くなるというのではない。

主体性としての自我はあるが、その自我を「小我」とすれば、悟った後の自我は「大我」ということになる、

それは無限大に拡大した自由な自我です。

次に、PCやケイタイのことですが、これはナイフの是非と同じで、使い方によって善悪どちらにもなる。

私は毎日のブログで「さとり」を発信しています。




3.〈問〉W 会員

私は浄土真宗のものですが、先生は宇宙に意志(意識)があると言われましたが、どうしてそういう意識を考えねばならないのか。

また、先ほど、量子力学を使って説明されたが、こういう科学知識を使って宗教の真理を説明することは危険なことではないですか。

科学はつねに変化しているではないですか。



〈答〉宇宙の意識ということについて。

私は『さとりの授業』の「神」という章で、神や宇宙について書いています。

「さとり」体験をすると、人生観が今までとガラリと変わります。

その時、「宇宙と私は一つ」という体験をするのです。

また「神とは、僕たちのなかにある、最も高いレベルの意識だ」と。

それは優しさにあふれ、決して判断したり裁いたりすることはありません。

ただただ圧倒的な愛の力で見守っているだけです。

これは仮説ではなく、一定の理解に達したときに誰もが経験的に確信できる真実です。


それから、科学的な用語を使うことについてですが、これはあくまでも便宜上のことにすぎません。

一般に人々はこういう説明をすると非常に解ってくれるからです。

また、科学は次第に宗教の世界を説明してくれ始めたと思っています。

例えば、筑波大学の村上和雄先生は、自然界の圧倒的な整合性について、その確率的な不可能性から言っても、宇宙には何ものか大いなるもの、サムシング・グレートの存在を仮定した方が遙かに理解しやすい、と言っています。




4.〈問〉N 会員


先生は、死について、「自殺も他殺も同じだ、悪ではない」という意味のことを言われましたが、私は、最近の熊本での三歳の子を殺した事件に衝撃を受けています。

またつねづね「自殺は絶対にしてはいけない」と力説しています。

そういう立場からしても、先生の発言にはどうしても納得できません。

人間には倫理・道徳は絶対に必要です。

そういう発言は世間の良識に背き、世間に混乱を与えることにならないですか?



〈答〉あなたの言っていることはよく解ります。

私も一個の人間としては、あなたの感情や考えとまったく同じです。

しかし、私の言っていることは、そういうことではないのです。

次元の違ったところで話しているのです。


良い悪いだけで終わってしまえば、それは道徳のレベルであって、宗教のレベルではなくなります。

私が本質的には「死と生には区別がない」と言うのは、「永遠の命」に関わる次元でのことです。

私は長いこと「永遠の命」というような表現を毛嫌いして来ました。

しかし、自分が変わったのは、自分が直接「永遠の命」を見たからです。

確かに肉体はいつか朽ちてしまうけれど、魂は永遠に「いまここ」にあり続けます。


「死」は存在していない。

「死」こそが最大の幻想だ。

僕はいままでに一度も生まれたことがなかったし、死んだこともなかった。

いつも「いまここ」にあり続けていた・・、と。


それから、私は、「死=忌まわしい」という死に対する偏見やムードを変えたい、という思いを持っています。

「死」と「生」は表裏一体で、ふたつでセットです。

どちらか一方だけでは成立しません。

もし「死」というものがなければ、僕たちは生きているということを知ることもできないでしょう。

これらはコントラストのようなもので、片方が強烈になれば、もう片方も強烈になります。

反対に、片方をあいまいにすれば、もう片方の輪郭もぼけてきます。

その意味で、むしろ死を見つめることが、生の意味を深めていく大きな手段なのです。云々。







つづく






   



・・・・・・・・・・



ボブ・フィックスさんとのコラボ講演会にたくさんのお申込みありがとうございました。

東京第二部は残りごくわずか、第一部も少なくなってきました。

他、名古屋、大阪、博多も受付中です。

詳細はコチラから。


☆第一部第二部両方に参加の方は、両方の受付番号を続けて記入しご入金ください。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:11Comments(88)