2016年04月30日

思考は現実化する ・ What a Wonderful World!

誰かの中に入りこんで、その人の人生を経験してみたら、どんなだろうって思うことがあります。

よほど楽しいか、よほど苦しいか、それとも環境や条件が変わったとしても、内側の幸不幸はたいして変わらないのか。


もしあなたの中に入ったとしたら、僕は何を感じるのでしょう。

反対に、あなたが僕の中に入ったとして、僕と同じ毎日を過ごしたとしたら、あなたが何て言うのか聞いてみたい(笑)


今朝のインスピレーションがまさにこのことで、同じことが起きたとしても、その現実に対して作りだせるストーリーは無数にあるということ。

いまの出来事をどう考え、どう感じるかは、その人次第だということ。

人は思考によって刻々と人生を作りだしていると思いました。


「思考は現実化する」というのは、思考が未来の現実を作りだすということではなく、思考がいまの現実を作りだしているということです。

まさにいま、まったく違う考え方、全く違う感情を持てたとしたら、即座にまったく違う現実が現れます。


あるとき突然、理由なく至福感に包まれた経験がある人は、その瞬間に世界全体が違って見えたことでしょう。

それまでは陰謀渦巻く油断ならない世界だと思っていたのが、急に「What a Wonderful World!」となるのです。


いま、天から至福ビームが降り注いできて、あらゆる人のハートを貫いたとしたら、みんなで一斉に声を上げるのかな。


「What a Wonderful World!」


一人の人に起きたことはあらゆる人に起きる可能性があるわけで、だったら勿体ぶらずに、至福ビームを全員に降り注いでほしいものだ。


そしてネガティブな考えを一掃しよう。

もう散々やってきたんだから。



どんなGWをお過ごしですか。

素晴らしい時でありますように。



僕は今日、「ここだけのRadio」を見に行ってきます(^^)
  


Posted by Toshiro Abe at 09:38Comments(56)

2016年04月28日

サンサーラ

昨日は雑誌のインタビューで我が家に編集者さんたちが来てくれました。

最近は出不精なのか、たいていの打ち合わせは家でやらせてもらっています。

インタビューの内容は、先日行われた「引き寄せとノンデュアリティ」のイベントのこと。

雑誌で特集してくれるのだそうで、ありがたいことです。


誰もが知りたいのは、引き寄せとノンデュアリティがどう繋がるのかという話でしょう。

引き寄せの法則を探究してきた若い女性が、その果てにたどり着いたのが「自己の不在」だと言います。


彼女は心地いいことを選び、気乗りしないことをやめることで、自分の枠を超えて行動し始めたのだそうです。

それまでの枠を破るのは勇気がいたことでしょう。


それを続けるうちに、自分の限界を作りだしているのは自分自身だということに気づいたのではないでしょうか。

そして完全なる自由とは、自分自身の自由ではなく、自分自身からの自由だと悟った。

それが「自己の不在」という感覚に繋がったのでしょう。


引き寄せとノンデュアリティは、基本スタンスがまるで違います。

前者は時間の中に存在し、後者はいまここに在るからです。

ところがそんな対照的な世界が、最終的に繋がってくるとしたら面白いですね。


ただし、とても重要なポイントがあります。

昨日インタビューで話したのは、引き寄せの意図が欠乏感から来ていたら、どこまで行っても欠乏感しか残らないということ。

何を得ても足りない気持ちが消えることはないでしょう。


お金がない時はお金さえあれば解決するような気がしますが、お金があっても内側は何も変わりません。

欲求不満はむしろ高まるばかりです。


どこまでいっても切りがなく、なぜ心が満たされないのかと疑問を呈すれば、マインドはしっかり答えをくれます。

「それはまだ努力が足りないからだ。もっと早く歩きなさい。先を進む人は到達しようとしている」


先を進む人は到達しようとしている?

こういう誤ったイメージが、人を前に前に押しやるのです。


先を行く人の前には、さらに人がいる。

その人の前にも人がいて、一番前の人はあなたの後ろにいるかもしれません。

なぜならこのコースは周回道路だから。

これをサンサーラ(輪廻)と呼びます。

そこに生まれ変わりの概念をはめて輪廻転生と言いますが、もともとはこの世における堂々巡りのことです。


人生はサンサーラ。

どこにも行きつくことはありません。


いかにその輪から抜けるかが、ここで伝えているメッセージの全てですが、いったん抜けてみれば、もう同じ道を歩もうとは思いません。


もし引き寄せを学ぶ人が、サンサーラの中にいるのなら、ただの時間の無駄でしょう。

何を得ても満足しないし、死がそのすべてを奪っていくからです。

が、自分という虚構の壁を超えていくことが目的なら、サンサーラから抜けるチャンスが出てきます。


そこに永遠の命があります。


そして、あなたはいない。



・・・・・・・



「引き寄せの法則とノンデュアリティ」のイベントの模様は「スピタメ!」で近く動画配信します。


また、脳科学と量子論の保江邦夫博士と大和田菜穂さん、あべとしろうによるノンデュアリティの講演の模様も「スピタメ!」で配信が始まりました。

講演に来られなかった人にお勧めです。

ノンデュアリティを科学が証明しだしましたが、この流れはまだ始まったばかりで、これからの科学の発見は、人間存在の神秘の解明に貢献していくと思います。


素粒子とは何なのか、保江博士は「愛の泡風呂」と表現します。

素粒子を覆っている幕が愛そのものであると。

我々は愛によって生かされ、時間を超えて愛の中に存在しているのです。

動画はコチラからお入りください。

初めての方は開いたページ右上の新規登録からとなります。


・・・・・・・・・


4月30日の「ここだけのRadio」は、若干名のキャンセルが出ましたのでご案内します。

ただし受付は今日一日だけですので、よろしくお願いします。

詳細はコチラから。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:12Comments(48)

2016年04月27日

瞑想の本

夏前には発売される瞑想の本。

早いもので16冊目となります。


目を閉じて座るというノーマルな瞑想法ではなく、日々の生活の中で実践していくショート瞑想を揃えてみました。

ほんの数分間でもいいから、行動の連続性に中断を与えていまここに佇む。

それだけで、ストレスの蓄積が大きく変わってきます。


最近になってそこに、さらに大切な瞑想の目的を書き加えたくなりました。

単なるストレス緩和ではなく、人生というストーリーから、本当のリアリティである「いまここ」にフォーカスを合わせ、スピリテュアルに関心がない人も悟ってしまうようなガイドブックになれたらと思いました。


そんなわけで、今日から数日間は、一点集中で原稿に取り組んでみます。

国語が大嫌いだった僕が、まさか物書きになるなんて・・・

その気になれば、誰だって何にだってなれるという生き証人です。


もしお子さんが勉強しないとか、学校行かないとかいうことが起きていたとしても、人生どこでどう展開するかなんて誰にも分らないこと。

いまの状態を一生の問題のように考えないで、いまはこういうシーンを迎えていると思えばそれでいい。


今日一日生きるだけでも大変なのだから、そこに過去や未来の重荷までも抱えたら身動き取れないよ。

昨日と明日を鉄の扉でシャットアウトして、今日一日を生きるとしよう。



それじゃ、またね(^^)




  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(32)

2016年04月26日

起きていることしかない


「これしかない」っていう呪文は、効き目が大です。

目の前のこれしか起きていない。

「これしかない」


思い出すたびに千回くらい言えば、その気になってくる(^ ^)

  


Posted by Toshiro Abe at 15:58Comments(37)

2016年04月25日

であるわけさ

講演して思うのはブログに書くことの難しさ。

現場には空気感があって、そこに展開される話の方向性を共有できるので、まったく違う感覚で生きてきた人も、なんとなく意味がわかってくる。


結局のところ、今起きているこれしかないのだけれど、これしかないことがよく理解されているときは、優しくて柔らかい気持ちになっている。

これは例外なく、そうなっている。


どんな正しい理論も、まさに机上の空論で、そんなことより確かな証拠は、まさにいま、優しい気持ちでいるかどうか。

愛と言えば意味が多すぎるけど、優しい気持ちと言えば具体的にわかる。

まさにいま、そうだということしかない。

これしかない。


あとは理屈のオンパレード。

自我が大好きなゲームだ。


優しい気持ちであれば、リラックスしている。

リラックスしていれば、その分だけいまに在る。

そして、このことしか起きていないことを知っている。

そういうことです。


気楽が一番。

つまるところ、なんだっていいんだから(^ ^)
  


Posted by Toshiro Abe at 10:49Comments(31)

2016年04月24日

希望が持てない話

人類全体が、いまあるがままのものを見失って、ありもしない明日に取り憑かれているのは、まるでマジックのようだ。

というより催眠術かもしれない。

みんながそうだから、誰もそのことを疑わない。


たまたまいまここに目覚めた者が、「夢から覚めよう」と声をかけても、それさえも明日の目標になってしまう。


なぜこれほど明らかな真実を、人類規模で見失うことができたのだろうか。

すっかり眠りこけていると、自分が眠っていることに気が付かない。

人類全体が催眠術にかかっているなどと言えば、大言壮語にしか聞こえない。


真理はあるがままに、いまも目の前にあって、いままで一度も隠されたことがないのに、真理に対する書物は山ほどある。

きっと人は、あるがままの真理より、真理について語る方が好きなのだろう。


あるがままをあるがままに見ることができたら、それがゴールだ。

そのゴールは最初から与えられていたので、スタート地点でもある。

いままでに一度も隠されたことがないのに、一度も気がつかないで死んでいくなんて。


まずは、この人生が幻滅しか与えてくれないことを見抜くこと。

意味を後付して、人生に意義があるかのように思いたくても、それらが独りよがりの慰めだということを見抜くこと。

少し過激な表現になってしまったけれど、人生が無意味であることを見抜くことが基本的な第一歩になる。


このアプローチに徹底しようとした仏教は、西洋では厭世主義(ペシミズム)に見られてきたけれど、実際にはこの道しかなく、最も誠実な教えだと思う。

しかし仏教さえも、人生の意義を深めるための道具にされ、素晴らしい明日を約束してくれる教えになってしまった。

一般受けはしないけれど、まずは人生に幻滅し、明日への希望が一切絶たれることが必要なのだ。

その時初めて、あるがままのいまに目を向けるチャンスが訪れる。


この夢が、目覚めたくなるくらい悪夢になったとき、それが仏の膝元だ。


もうこのあたりで、いいんでねえ?

十分に悪夢だと思うけどな・・・



人生に希望はない!!


あはは、言い切ってみればなんだか爽やかでしょ?


さあ、ご一緒に


「人生に希望はない!!!」


はい、真理へのチケットを差し上げます。

やっと、あるがままのいまに目を向けることができるようになりました。

皮肉なことに、ここには求めていた全てがあります。


苦しみが消えた世界にようこそ。


真理! (天地真理じゃない)

汝の名は「至福」

  


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2016年04月23日

悩まない方法

悩んだり苦しんだりしない方法があります。


最初に答えを言えば、悩みや苦しみをもたらす事象を考えないことです。

考えなければ、それらは存在しません。


そんなことはただの現実逃避だって?

いえいえ、反対に、苦悩することで本当の現実(いまここ)から逃避しているのです。


人は頭の中の現実(実際には想像)と、いまここにある現実の見境がつかなくなっています。

それどころか、いまここにある現実より、頭の中の現実のほうをリアルに感じていたりします。

そこには常に悩みや苦しみが付いてまわります。


意識が完全にいまにあれば、そこに苦悩はありません。

ところが頭は言います。

明日支払う家賃がないのだから、いまは苦悩だと。

これこそが、頭の中の現実と、実際にいまここにある現実の見境がつかなくなっている状態です。


いまここにあるということを、頭は決して知ることがありません。

なぜなら、頭の世界はいま以外の全てによって作られているからです。

ですから、いまここに完全にあれば、苦悩は消えてなくなるということが理解できず、たんなる現実逃避かマヤカシに聞こえてしまうのです。


これは体験的に知ることです。

そのためには実践あるのみです。


実践は、いましかないことを認めることから始まります。

どんな時もいまであり、いまもいまです。

そしてそれ以外は起きていません。


そのことを認めること。

事実を認めること。

いましかないことを認めること。

そうすれば、いまにいることが容易くなります。

人は忘れっぽいので、このことを一日のうち何十回も思い出すことから練習していきましょう。


禅寺の修行の全ては、このことに尽きます。

いかにいまから離れないでいるか、それが修業の全てです。


生活を捨てて禅寺に入ることはできないので、日常を生きながら禅の精神(いまここ)に触れ続けるためにネット上で禅サンガを開いています。

サンガに参加していれば、本当のことを思い出す機会が増えていきます。

昨夜web講演をしながら、みんなここに参加すればいいのにと思いました。

リアルタイムでのネット講演は、文字情報の何倍もの伝達力があるからです。


いまを生きるということの本当の意味を伝えたい。

そうすれば苦悩が消えてなくなるから。

そうすれば、誰もの中にある優しさが香りだす。


みんなが優しくなればいいね。

優しい気持ちに勝るものはないと思う。



明日は久しぶりに生の講演会。

生アベはいまが旬です。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:32Comments(51)

2016年04月21日

どうだっていい

もし明日、地球がほんの少し身震いすれば、地上の文明は一瞬にして消滅してしまう。

もし人類に「今日」しか残されていなかったら、どんな今日になるだろう。


略奪や暴行が多発するのだろうか。

自暴自棄になる者も出てくるだろうが、それが避けられないことと分かれば、意外と静かに最後の日を送るのではないだろうか。


自分のものを溜めこんでも仕方がない。

自分のもの?

他人のもの?

そんなことはもうどうでもよくなる。

最初から何一つ、誰のものでもなかったことが分かるだろう。

所有というのは時間の中のことであり、時間がなければ所有することに意味はない。


意見の違いも人生観の違いも重要じゃない。

そんなことは、最初からどうだってよかったんだ。


成功者も落伍者も、一切関係なくなる。

だいたい、何に成功して、何から落伍したというのか。


もし今日一日しかなければ、みんな同じだ。

こうなってみてやっと、最初からみんな同じだったことに、そして各々のイメージの世界の外では、何も起きていなかったことを知ることだろう。


人間界のドラマは、みんなイメージの世界で起きていることだ。

誰が偉いとか、何が正しいとか、どう生きるべきかとか。


そんなことより、みんなで心を寄せ合って、与えあって、愛し合って、仲良くできたら、他に何が必要だろう。


その気になれば、いまこの瞬間にそんな関わりが持てるものを、人間が持つイメージの世界(ストーリー)はとても魅惑的で、心を捉えて離さない。



どうだっていいことが、さも重要そうに扱われている人間社会。

本当は、どうだっていいことばかりだ。


社会でうまく生きられないからって、心を痛めたり、自分を卑下する必要なんかない。

イミテーションに合わせられなくたって、何かを失ったわけじゃないから。


人と同じでなくていい。

もし今日までしかなければ、人に合わせることに何の意味があるだろう。


そんなわけでオイちゃんは今日も、時代遅れのヒッピーを生きるのであった。

楽チンが一番。


瞑想と渋茶が好きな、初老と呼ばれる今日この頃です。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(76)

2016年04月20日

3D映画

目の前を刻々と新しい場面が通り過ぎていきます。

そのことを

まるで映画を見ているみたいだって表現するときがあるでしょ。


僕もそう感じる時間帯がありますが、それは映画館の座席に座って、目の前のスクリーンを見ているのとは少し違います。


一言で言うと、3D映画を内側から見ているというか、そこには五感からの感覚や思考もありますが、それを受け取る自分がいません。

感覚や思考も含めて映画の一部として、ただ起きているという感じです。


昨日も、地下鉄の通路でそれが訪れました。

沢山の人が行き来しているのに、彼らの中に主体が見えません。

ただ全てがシナリオ通りに刻々と展開している感じです。

でもその一人一人は自分の意思で歩いていると思っているようです。


全部が同時に在り、単独に分離しているものは何一つありません。

そんなものはあり得ません。

ひとつの有機的な現れなのです。


こういう感覚の時間帯は、たしかにエネルギーの解放が起きていて、逆に言えば普段の自我を持った我々は、エネルギーが凝縮した状態なのだと思います。

ただそういうことであり、すべてこともなしです。

  


Posted by Toshiro Abe at 12:34Comments(39)

2016年04月19日

ユーモアの精神

Amazonがお坊さんの宅配(?)をするそうだ。

そしたら仏教会が中止を求めた。


「宗教行為を商品化している」


お葬式って宗教行為だとは思ってきたけれど、そもそも宗教って何だろう。

宗教行為とは死者を弔うことなのか。


では、弔うとはどういうことだろう。

仏教のスタンスは、死者の魂が存在するということを前提としているのか。

そして、死者の魂は、死後の扱われ方によって影響されるのか。

釈迦はそのようなことを教えたのか。


僕はどうだっていいのだが、こういうことの中に、人間社会の深い欺瞞を見てしまう。

社会は、表面的正しさによってかろうじて維持されているけれど、まことに歪(いびつ)なものだと思う。


だから、あんまり深刻に考えても馬鹿らしい。

みんなで自己暗示という夢の中に生きているのだから。


人生全体が、歪な社会の中でのドラマだってことを、ユーモアの精神を持って見れたらいい。


そうしたら、もっと気楽になれるから。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(50)

2016年04月18日

私しかいない

二元の世界は、「私」と「私以外の全ての人」によって成り立っていますが、そこに見える「私以外の全ての人」は、「私」の投影に過ぎません。

他者は、見た目も、性格も、生い立ちも、何もかも違いますが、そこに見ているのは自分自身の様々な側面です。

人は自分にないものを他者に見ることはできません。

よく言われるように、相手に対して嫌だなと感じる点は、自分の中の嫌な面だったり、心の奥に隠された、自分でも見たくない自分自身だったりします。


たいていの場合、人は自分を特別な存在だと感じていて、他者を密かに見下していますが、実は他者も同じことをしています。

自分は人とは違うユニークな存在だという感覚も、みんなが持っているのです。

これは自我の特性なので例外はありません。


あなたが見下しているその人も、あなたを見下しているのはほぼ間違いありません。

これって滑稽でしょ?

だから人生は冗談みたいなものだと言うのです。


どちらが正しいとか、どちらが上かとか、どちらがユニークかとか、そんな競争はもうやめにしましょう。

だって本当はみんな同じなのだから。

みんな、『私』だから。


私たちが同じ一つのものだということが、知識ではなく実感として世界全体に浸透した時、そのとき初めて真の平和が訪れると思います。


みんなが自分だったとわかれば、あとは仲良く助け合っていくしかありません。

非二元の世界はもちろんのこと、二元の世界においても他者は存在しないのです。



「私しかいない」

これもひとつのキーワードですね。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:28Comments(61)

2016年04月17日

パッカーン

心は監獄のようなもの。

人は監獄の中から、自由になりたいと叫んでいる。

違う言い方をすれば、心を開かないのに自由を切望している。


我々にできることは、自由を掴むことではなく、心を開くことだ。


赤ちゃんみたいに

パッカーンって開いたら、気持ちがいいだろうな。


大人になってから完全に心を開いたことがあるだろうか。

もし心を開いて、また傷つけられたら、今度こそ立ち直れないって感じている。


たった一人の人に対してだけでいい。

一人の人に完全に開けば、その時、世界全体に対して心を開いているから。

相手は誰でもいい。

開くことが必要なだけ。


そうなったら、真理なんかいらない。

パッカーンでオシマイだ。


今朝、目が覚めた時、そんなことを思った。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(42)

2016年04月16日

地震

天変地異のたびに感じます。

僕たちの生活は、実に脆弱な基盤の上に成り立っていると。

なんとなくこのまま日々が続いていく気がしますが、それがそうではないことを思い知らされます。

それはある意味、「今生きている」ということを、コントラストのように鮮明にしてくれますが・・・


みんな同じ船に乗っています。


あなたは地震についてどのような考えを持っていますか。

中には怖くて怖くてという人もいることでしょう。

3・11の直後、東京に戻った時のあの静けさが忘れられません。


被災地の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。  


Posted by Toshiro Abe at 10:45Comments(44)

2016年04月15日

人生の意味

いまの人生の半分に差し掛かったころ、もしかしたらこの人生には意味がないのではと思いました。

楽しいことや辛いことの繰り返し。

達成感と挫折感の繰り返し。

努力して人が羨むような立場になったとしても、自分の内側は何も変わっていません。

むしろ賞賛が増えれば、その分だけ内側の貧しさが鮮明になります。

どこにも行きつかない。

ただ同じことの繰り返し。


人生の教師たちは、こんな僕の感想を否定します。

それはまだお前の努力が足りないからだと。

頑張って生き抜くことに意味があると。


でもそんな言葉たちは、僕に影響を与えることはできませんでした。

人生に意味がないことは、すでに確信の域だったからです。


これが探究の始まりになりました。

ここに集まる人たちの中にも、同じような人がいることでしょう。


でも完全に見抜くのは稀です。

まだどこかに、この人生の延長線上への期待が残っているからです。

いつかすべてが解決し、満たされる日が来るはずだという期待です。


後半の人生で、確かにその可能性があることを知りました。

しかしそれは、この人生の延長線上ではありません。


最初は一瞥から始まりましたが、この人生を超えた、もう一つの世界を知ったのです。

その世界は、通常僕たちが人生と呼んでいるストーリーが全くの幻想に見えるくらい、とてもリアルな世界です。


それを知ってからは、人生には意味があると考えるようになりました。

人生とは、人生を超えていくためにあるのだと。


知識や記憶を基にして、その世界を描くことはできません。

それは全くの未知なる世界です。

知らないことを、知っていることで理解することはできません。

未知は既知の積み重ねでは知ることができないのです。


それは不意のインスピレーションのようにして訪れます。

何気ない瞬間に、急に至福に包まれた経験を持っている人もいるでしょう。

何の脈絡もなく、それは突然訪れます。

そんな経験も、探究に向かうきっかけになります。


人生が無意味だというきっかけは否定的なスタートですが、突然訪れた至福感から探究が始まったとしたら、それは肯定的スタートと言えるかもしれません。

否定と肯定という表現をすると、まるで肯定のほうがいいような気がしますが、どちらも同じことです。


人生は人生を超えるためにある。

そんな風に感じながら、今日も生きています。


いまから大阪に向かいます。


あなたの一日が、素晴らしいものでありますように。



・・・・・・・・・・・


沖縄瞑想リトリートの募集を開始します。

6月2日~6日まで、今帰仁(なきじん)の里で開かれます。

日常の感覚から離れて、命の洗濯にいらしてください。

いままでに味わったことがない、とても素晴らしい経験になると思います。

詳細はコチラから 満員のため受付を終了しました

  


Posted by Toshiro Abe at 10:34Comments(39)

2016年04月14日

ストップ!

みなさんからいただくコメント、先日とても心に響いたものがあったので紹介します。


Sleeping Bさんのコメント


朝、しんどいなぁ、仕事行きたくないなぁ、と思いつつベッドから出る。

なんとか身支度を終えて外に出ると、都会のビルの谷間に青空が見える。

一瞬胸の内に何かが広がる。


通勤ラッシュで息苦しい。

誰かに足を蹴られて買ったばかりのハイヒールに傷が付く。


出勤していつものメンバーと他愛ない世間話を交わす。

淡々と仕事をこなす。

あんまり好きじゃない同僚が横を通るたび足音が気になる。


日が暮れて、お疲れさまと言って家路につく。

スーパーに寄る。

手抜きしたいなぁ、と思いつつ今日のお買い得品を目に留めながら食材を選ぶ。

ふーん、いちごがずいぶん安くなってる。

家に着いたら、あーしんど、と思いながら夕飯を作る。


夫が帰ってくる。

今日さあ、あそこの公園にいた猫がさあ・・・

特に見るつもりもないテレビのおバカなバラエティーを見てガハハと笑う。

ニュースを見て、嫌な世の中だね~と嘆く。


お風呂に入って、疲れたなあ、と言いつつ、足などマッサージする。

不思議なことに今日も無事に生き延びました、ありがとう、また一歩死に近づきました、と言って眠りにつく。


この日常、この平凡さ、この平凡の中にある非凡さ。

これが「悟り」でなかったらなんだと言うのだろう。


あんた、馬鹿じゃないの、こんなの、悟りのわけないでしょ、と心の中で誰かがつぶやく。

確かに。

こんなの、悟りでもなんでもない。

でもね・・「私」はこれしか知らないのよ・・・



・・・・・・・・・・・


日々の生活が香ってくるような文章ですが、最後の一行が特に印象に残りました。

「私はこれしか知らない」


そう、我々は、これしか知らないのです。


この場合、「これ」が何を指しているのかによって話は変わります。

生活シーンそのものが「これ」なのか。

それとも、生活シーンで刻々と頭を流れるストーリーが「これ」なのか。


我々は99%の時間を、シーンそのものではなく、そのとき頭に浮かんでいたストーリーの中を生きています。


まさにいま目の前の「これ」

むき出しのシーンそのものである「これ」

あれこれ判断を下す前の、ただあるがままの「これ」


この瞬間瞬間に全ては完結しているのですが、ストーリーは、いまをストーリーの中のつなぎと考えます。

たいていの場合は、分かり切ったシーンに見えて価値を感じません。


いつも頭の中は

「次行ってみよう」

という感じで前のめりになっています。


お昼何を食べようか

後、何時間で終わるかな

今日はアイツの顔を見たくない

この先どうなっていくのだろう

あの時、あんなことしなければよかった

本の続きを読むのが楽しみ

真理を生きよう

目覚めは近いかもしれない


ストーリーはめまぐるしく移り変わりながら、途切れることを知りません。


いま、電車の中だろうと、オフィスだろうと、自分の家だろうと、起きていることが「これ」であり、これ以外は起きていません。

それは、どの瞬間も同じです。


もし、一切なんの判断も挟まずに、いま目の前の「これ」と共に在れば、それが悟りです。

その時、あなたは「これ」の一部になっていて、これを見ているあなたはいません。


そんな感覚を養うことは、ストーリーの引力を弱めていきます。


どんな瞬間でもいいから、ただストップしてみる。

すると「これ」が、ありありとその姿を現し、深い安らぎが訪れることでしょう。

人生の闘いと騒動は消え失せています。



・・・・・・・・



久しぶりに3週間近く沖縄でゆっくり暮らすことができました。

ここは時間が止まっています。


さて、少し先の話ですが、6月2日~6日まで、沖縄本島の今帰仁(なきじん)で瞑想リトリートをします。

全く初めての人も、その日からマントラを使った瞑想を始めることが出来、お得なコースです。

ずっと瞑想ばかりやり続けるのではなく、静と動のカリキュラムによって、心の底からスカッとしますよ。

自分だけはそうならないと感じている人もいるでしょうが、必ずそうなります(^^)

詳細は明日ご紹介します。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(45)

2016年04月13日

もうひとつの世界

人生には、まだ自分が知らないもうひとつの世界があって、その世界を知ることは人生のどんでん返しみたいなもので、そこにおいて初めて苦しみが終わるという大きなオマケ付きです。

成功者も富裕者も、みんな心の中に苦しみを抱えていることは同じです。

傍から見ると、自分がないものを持っている人が幸せに見えますが、実際は誰もが苦しみを抱えています。

それは「自分」という錯覚を持っている以上、避けられないことなのです。


自分という錯覚?

ここはとても微妙なポイントです。

ここで無意識のブレーキがかかる人もいます。

自分がいなくなるなんてことは考えもできないから。

もしそうなったら、きちんと日常のことをやっていけるのかという不安もあります。

それに自分がいなくなったら、楽しくないし、張り合いがないような気もします。


これらはすべて勘違いで、自分という偽の感覚が消えると、よりエネルギッシュになり、知性も冴えわたり、完全なる自由があるのです。

不安や怖れが消え、そこに愛と喜びがあるのですから、誰もが求めている世界であることは確かです。


歴史上でも、釈迦をはじめとして幾多の的を射たマスターたちが異口同音に表そうとした世界がこれです。

なぜならば、これこそが、人を根底から救済する唯一の真実だからです。


僕はいつも、このような話をすることに喜びを感じてきました。

大和田菜穂さんに言わせると、僕はその世界を完全に語れる数少ない一人だそうです。

でも僕は彼女のような永久住人(?)ではありません。

にもかかわらず、その世界の気配をいつも感じています。

感じているのは誰だということになってしまいますが、そうなのだから仕方ありません。

そのような意味では、この世界と、もう一つの世界を繋ぐ役をやらせてもらっているのでしょう。



また目の前に「いま」があります。

もう一つの世界は、いつも「いま・ここ」にあります。

それが見えなくなっているのだから、人類は集団催眠にかかっているようなものだと思います。

しかも自分が眠りこけているなどとは夢にも思いません。

そう、夢にも思わないのです。


夢は一瞬で覚めます。

さてそれがいつ来ることやら。


あはは、いつ来るかは明確。


いまです。


ところが多くの場合、まだ準備ができていないと信じていて、ことを先延ばししています。

この夢から覚めてたまるかという隠れた信念を持っている場合もあります。


一方で、目覚めに強い関心を持ちだした人は、その方向に向かって動き出します。

このような情報に多く触れるようになりますし、そのために有効なことはなんでも試してみたくなります。

実際には、もうひとつの世界に入るために、個人にできることは何もなく、できると思っている個人が消滅することなのですが、それでも目覚めた人の多くは、最初は強い探究心を持ち、そのことを学び、何かしらを実践していたのも事実です。


このことの意味が分かったら、真実に向かおうとする衝動を、人生の中でどれくらいの優先順位にするかです。

もし本当に伝えられていることの意味が分かれば、迷うことなく最優先にすることでしょう。

生きている目的が、そこに集約されるのです。


でもたいていの場合は、もっと大事なものがあるような気がします。

それらはすべてストーリーの中に存在しているのですが、ストーリー(夢)の磁力は強力です。

そうやってまたぐっすりと眠りこけていきます。


高次元の夢

宇宙意識の夢

覚者の夢

聖者の夢


夢には事欠きません。


いくらでも好きな夢を見ることが出来ますが、苦しみが消えることはありません。

あいかわらず、よりよい明日を期待して暮らすことでしょう。

もちろんそれも悪くありません。

ただ行きつくところがないというだけです。



目覚めるということも、ストーリーの一部になってしまうことがあります。

繰り返しますが目覚めは、いまです。


もう一言付け足すと、いま目覚めるというよりは、いま目覚めていることに気づくという感じです。

実際はすでに目覚めていて、目覚めしか存在していません。

誰もがすでに、ここにいます。  


Posted by Toshiro Abe at 09:39Comments(36)

2016年04月12日

モルゲンさんのコメント

>信頼しきれないのは何故なのでしょうか。


昨日の続きです。

ここでいう信頼とは、特定の対象へのものではなく、存在全体に対する信頼、宇宙に対する信頼のことです。

人生の極意は「南無の精神」、絶対的な信頼の中にあるという言い方もできます。


ところがこの問いにもあるように、信頼しきることは中々できません。

それは、我々の自我が信頼とは正反対の質で作られているからです。

信頼を失くした分だけ、自我が強まっているという言い方もできます。


生まれた瞬間は自我がありません。

裸で、無防備で、全面的に手放しで自分を開いていました。

存在全体に対して、100%の信頼の中にあったのです。


そのうち、自分の内側と外側という区別が始まります。

外側で起きることが、内側の感覚に影響していることを知り、外側の世界をコントロールしようとします。

やがては人の顔色を窺うようになり、自分のやり方を変えてみたりしながら、この世で生きる術を学んでいきます。

そうやって自我を発達させ、自力で生きているという感覚を強めていったのです。


しかし実際には、我々は自力で生きているのではなく、「生かされている」のです。

まさにいま体内で起きている無数の神秘も、すべては起きていることであり自力ではありません。

自分がやってきたつもりになっていただけで、何もかもが「起きていた」ということに気づいたとき、初めて人は、森羅万象を生かしめている神秘なパワーを予感し、自力という概念を手放します。


自力を手放した時、同時に生まれるのが信頼です。

それは信頼しようとするのではなく、手放した分だけ生じてくる何かです。


ですから、信頼とは意図的にできるものではありません。

そもそも自我には、疑うという基本性質があるので、信頼するのは至難の業です。


でもそれを逆手にとれば、信頼しようとした分だけ、自我の力が弱まっているということになります。

そして自我の力が消滅した瞬間、外側と内側が統合され非二元の世界が現れます。

それは愛の中に、そして信頼の中にある、あらゆる人の平安の故郷です。


天の王国とか極楽浄土とか呼ばれてきた世界は、どこか遠くにあるのではなく、「いまここ」にあります。

信頼した分だけ、「いまここ」の安らぎが可能になります。


信頼・・・それは自力への諦めかもしれません。

自分自身に徹底的に失望するのも近道です。

難行苦行の意義は、それ自体に在るのではなく、何をやってもダメだったと思い知る極限まで頑張ることで、自力への失望を促すためにあります。

完全に失望した時、人は再び手放しになり、存在全体に身を委ねます。

それが悟りの瞬間です。


深いリラクゼーションを得るためには、いったん極端なくらい身心を緊張させて、一気に力を抜いたほうがうまくいきます。

それと同じことが、真理探究の修業にも起きています。



我々はこの長い人生を自力で生き通してきました。

そして消耗し、疲れ果てています。

だからチャンス。


真理への道は、イケイケの時は通れません。

成功の途上にある者が通ることはありません。

苦悩や疲労が、その道へのチケットだと思います。



道はいくつかあります。


信頼の道。

愛の道。

瞑想の道。

布施の道

懺悔の道



柔道

剣道

合気道

茶道

華道



行きつくところはみな同じ。

無我・・・自他一如・・・非二元・・・ノンデュアリティ・・・



・・・・・・・・・・・・・・


スピタメ!「わかりかけのRadio」が大好評。

何もわかっていない愚息が、雲黒斎君への質問を通して、真実の痕跡を探っていきます。

現在、一週間で10000回の再生があります。

今週も面白かったですよ。

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Posted by Toshiro Abe at 09:24Comments(33)

2016年04月11日

なんだっていい 2

空に浮かぶ雲をじっと眺めていた。

魚のウロコのような模様が付いていたから、それをジッと見ていた。

当たり前のことなんだけど、少しずつ動いているんだよね。

ちょっと見ただけでは止まって見えるけれど、少しずつ東のほうに流れて見えなくなっていった。

もし高速で再生したらあっという間だったんだろう。


人生も高速で再生したらあっという間だね。

100年間を1秒間で再生したら、僕らなんてどこにも見えない。

僕らの一生は、悠久の宇宙から見れば、1秒にも満たない一瞬のことなのだろう。


人はその一瞬に、大騒ぎして死んでいく。

「あーでもない、こーでもない」


人生が束の間のものだということを十分に知れば、そして留まるものが何もないことを知れば、自力で何かしようなんてことが馬鹿らしく見えてくる。

執着する必要もなくなる。

一瞬で消えてしまうのに、どうやって執着しようというのか。


本当にそのことがわかれば、人は起きることに対して摩擦を持たなくなる。

「このことは、こうあるべきだ」という強迫観念が消える。


「なんだっていい」


流れを信頼できたら、それ以上することは何もない。

存在が面倒見てくれるから大丈夫だ。


何が起きていようと、あるいはこの先何が起きようと、流れる雲の如く、存在と共に流れていればいい。

そこに信頼があれば、恐れは消えている。


「なんだっていい」は、信頼に支えられているのだ。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:54Comments(45)

2016年04月10日

なんだっていい

聖なるものも、俗なるものも、何の違いもないことを理解すれば、生きるのがとても楽になる。

実際、なんだって同じだから、なんだっていい。


本当になんだっていいことを、心の底から知っているだろうか。

自暴自棄になって「なんだっていい」と言っているのとは全く違う。

自暴自棄にはたくさんの否定要素が含まれているが、「なんだっていい」という理解は、すべての肯定の上に生じてくるから。


比較や優劣が消えている。

そうなれば「なんだっていい」という言葉の本当の意味がわかるだろう。


さて、ここでも「知っている」のと「理解している」のとの違いは大きい。

「なんだっていい」ことを納得していても、心の中には「なんだってよくない」と叫んでいる面が沢山あるかもしれない。

そういう場合は、たくさんの分別を持ったストーリーの中で生きているから、動きが取れなくなっている。


一方で本当になんでもいいことを理解していれば、心のままに柔軟性を持って生きることができ、エネルギーのロスが無くなるから、物事がスムーズに展開していくことになる。


いかに人間の心の中に、比較や優劣や正しさや判断といったものが蔓延していることか。



「なんだっていい」

この言葉を、どれくらい心の底から言えるだろう。
  


Posted by Toshiro Abe at 12:43Comments(54)

2016年04月09日

いまは、同じ「いま」

明け方まで大きく鳴り響いていた沖縄の雷。

今日も沖縄は雨です。


昔の本を開いたら、鉛筆で走り書きがしてあった。

「いつもいま。この先ずっといま」


まったくそのとおりだ。

この言葉を書いた時のいまと、いまのいまは何も変わっていない。


まったく、何も変わっていない。

これからも変わることがない。


なんてこった


いまはいつもいまで、それは同じいまだったんだ。


「あの時のいま」があったような気がしているけれど、それもいまと同じ、このいまだったんだ。


そしていつも、これしかない。


走り書きから30年が経っているけれど、「この先ずっといま」という言葉は証明されたみたいだ。


どこにも行くところなどない。

たどりつく場所もない。


永遠に、いまここ、これがあるだけ。



だから気楽にいこうよって。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:42Comments(42)