2007年04月10日
念念不離心 2
死ぬ間際まで唱えたからって、経文が「死」に関係しているわけじゃない。
紫山老師はその時だけでなく、いつもいつも唱えていて、それが最後の瞬間まで続いたというだけの話だ。
常にその境地から心が離れないよう、常に観音の御名を呼んでいた。
念念不離心(ねんねんふーりーしん)
そのように心が定まれば、もはや心は不動のものとなる。
出来事や外側の情報によって右往左往しなくなる。
たとえ自らの死がせまっていても同じこと。
念念不離心
それは実践でしかない。
とにかく繰り返し経文を唱え続けること。
「延命十句観音経」を毎日一千回唱えると御利益があるというが、それは何か神の力が自分に及ぶというのではなく、自分自身の心が定まり、安楽の境地に近づくということだろう。
したがって
念念不離心
これが「延命十句観音経」の最後の一句だよ。
ずいぶん時間がかかっちゃったけど、このシリーズはこれにて終了。
PCで見てくれている人は、右のカテゴリーの「延命十句観音経」をクリックして最初から読み直してみてね。
この経文をただ呪文のように唱えるのでなく、意味を理解して唱えた時、その言霊の響きが魂にまで届くのだと思う。
この経文の根底に流れるのは利他心。
そこに人生の極意が隠されているのではないだろうか。
いつもそんな自分で生きたいと、今日も心の底で念じています。
延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
2007年04月10日
念念不離心
昔、方広寺に足利紫山という名物管長がいた。
安政の生まれで、昭和34年に亡くなったのは満100歳の時。
この方は臨済宗全体の管長まで務めた人で、多くの伝説が残っている。
晩年、毎日新聞の記者が老子に長生きの秘訣を尋ねたとき、
「心をダラーリ、あれダラーリ」
と答えたと言う。
「あれダラーリ」とは、男のあれのことで、さすがに新聞には載せられなかったそうだ。
その老子が天寿を全うして、まさに息を引き取る最後の瞬間まで唱えていた経文があったそうだ。
それが「延命十句観音経」
最後の最後まで
「か・ん・ぜ・お・ん・・・」
と言って亡くなったという。
続きはまた後でね。
2007年04月08日
念念従心起
僕たちは朝から晩まで、とりとめのない思考にどっぷりと浸かっている。
たえまない考えが次々に頭の中を通り過ぎ、それはいつも堂々巡りだ。
心の中の無駄話はどこまでも続いていく。
終わってしまったことをあれこれ考え、先の事をあれこれ考え、夢想空想の中をさまよい、またしばらくしたら同じ事を考えている。
もし自分が考えた事をすぐさまノートに書き写して、それを1時間書き続けて、そのノートを読み返したとしたら・・・
それは支離滅裂、あっちに飛んだりこっちに飛んだり・・・
落ち着きなく、一貫性もなく、しかもその多くは足りないものへの不満や不安といった否定的なものだったりする。
この散漫な思考こそが、僕らに目隠しをし、真理から遠ざけている正体だ。
その思考の無制限の動きを制限する努力をしよう。
そして常に自分の心の中を聖なるもので満たしておこう。
念とは「今」の「心」のこと。
まさに今、そんな聖なるものを思い起こす。
そのことだけで心を満たし、散漫な思考を統制するんだ。
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
今日一日、思い出すたびに実践してみよう。
でもきっとすぐに忘れて、またとりとめのない思考の海に浸かって生きていることだろう。
だからこそ、何度でも思い出すんだ。
念念従心起
何度でも、何度でも
念念従心起
2007年04月05日
暮念観世音
今日も一日ありがとう。
たくさんの出会いをありがとう。
僕の話を聞いてくれてありがとう。
笑顔をありがとう。
ありがたいな。
こうして生かされていること。
こうして夢を持たせてもらっていること。
愛されていること。
応援されていること。
ありがたいな。
ありがたいな。
だから、一日中念じずにはいられない。
愛の化身である「観世音」の名前を。
朝から晩まであなたを思い出し、あなたの心と合体します。
暮念観世音
地上が愛で満たされますように
地上の苦しみが終焉しますように
世界の街角に、子供たちの笑い声が響きますように
暮念観世音
明日も一日中
朝念観世音
暮念観世音
おやすみなさい

2007年04月02日
朝念観世音
延命十句観音経も終盤に入ってきたね。
最後の部分は読んで字の如し、そのままの意味だよ。
昨日久しぶりに中城村で住んでいた家を見てきた。
もう一ヶ月経ったのかという思いと、すでにそこには我々家族の生活の気配が何もないことへの寂しさを同時に感じた。
目の前に広がる中城湾。
なにひとつ視界をさえぎるものがない遥かなる海の彼方から昇る朝日。
無尽蔵のエネルギーによって生かされていることの不思議。
空気、水、食べもの、そして多くの人々・・・生きるために必要なすべてを与えてもらっていることへの感謝。
目の前の小さな問題や、心をめぐるあれこれの想いによってつい忘れてしまうが、我々はとてつもない奇跡の中で生かされている。
そんなことを思い出させてくれたのが、中城の朝だった。
昇る朝日の圧倒的な存在感を前にすれば、誰もが手を合わさずにいられない。
朝からその感謝を念じずにはいられない。
朝念観世音
今日も生かしてくれてありがとうございます。
それなのに、すぐにそのありがたさを忘れてしまって、足りないと感じるものに心を奪われ、不平不満の世界を自分に作り出してしまう。
だから何度でもそれを思い出す習慣を作るんだ。
朝念観世音
今日も一日いい日でありますように。
あなたが健康で幸せでありますように。
朝念観世音
2007年03月28日
常楽我浄 8
おはよう。
9時間も爆睡してしまったけど、気分は爽快!
さて今日は「常楽我浄」の最後の一文字、「浄」を見ていこう。
地上の目線から見た時の「常楽我浄」と、宇宙の目線で見たときの「常楽我浄」
これを学ぶのは、自分の普段の人生と、彼方なる自分を理解するのに役立つよ。
今日も続きの前にこれお願いしますm(_ _)m
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2007年03月27日
常楽我浄 7
今朝は宇宙の目線から見た「楽」について話をしたら、こんなことを書いてくれた人がいた。
>身も心も生まれては消えていく単なる現象
まさにそのとおりって思う!
この言葉を拝借して、次の一字「我」の説明に入っていこう。
>身も心も生まれては消えていく単なる現象
それは海に生じる波のようなもの。
波は海面に無数に生じるが、二つとして同じ波はなく、すべて形も大きさも微妙に違っている。
その波同士が、隣の波と比べあい、競い合い、よりよい波になるために、生きている間、絶え間ない葛藤をしているのが、人の人生。
生じた波はいつか必ず消滅するときが来る。
それを知っている波は、なんとか自分の寿命を延ばそうと、その形にしがみつく。
そして日々消滅を恐れている。
どんな努力も自然の摂理には勝てず、遅かれ早かれその波は消滅する運命にある。
ところが消滅した波は、初めて大きな気づきを得るんだ。
「なーんだ、自分は波としての自分にしがみついていたけれど、本当は海そのものだったんだ。
波(自分)はたんに海(全体)の運動現象にすぎず、それは実体じゃなかった
本当の自分は海そのものだったんだ。
自分は全体・神・宇宙そのものだったんだ」
ブッダからの目線では、その海である自分を「我」と呼ぶ。
「常楽我浄」
さ、あとは「浄」の一文字だね。
応援よろしく
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2007年03月27日
常楽我浄 6
おはよう。
僕の朝の日課はPCの前に座ること。
そんなわけで今朝も、超マニアックなみなさんへの連続シリーズの続きだよ。
この言葉はいままでに何度も聞いた事があると思う
「神はあなたの中にいる」
あるいは
「あなたと神とは一体だ」
そして頭のどこかで、それは本当かもしれないと思っているでしょ。
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僕の朝の日課はPCの前に座ること。
そんなわけで今朝も、超マニアックなみなさんへの連続シリーズの続きだよ。
この言葉はいままでに何度も聞いた事があると思う
「神はあなたの中にいる」
あるいは
「あなたと神とは一体だ」
そして頭のどこかで、それは本当かもしれないと思っているでしょ。
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2007年03月26日
常楽我浄 5

さ、それじゃ次は宇宙の目線から見た「常楽我浄」を見ていこう。
うまく説明できるかな。
とにかく書き始めてみるね。
例えばあなたが10年前、世の中を憂い、長い瞑想生活に入り初めて「いまここ」を感じ取ったとしよう。
それは時間を超えていて、ただ超然とあるがままにただ存在していた。
それから10年間、あなたは結婚し子供に恵まれ、会社を起こし富を手に入れた。
しかしそれもつかの間、人に騙され破産に追い込まれ、一家は離散してしまった。
すべてに絶望したあなたは、再び人の世を憂い、山寺にこもった。
そして長い修行の末、またしても10年前と同じ「いまここ」を感じ取る事ができた。
その「いまここ」は10年前と何か変わっただろうか。
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2007年03月25日
常楽我浄 4
さて最後の一文字「浄」
心身とは本当は不浄な存在なのに、それを清らかだと感じている錯覚(顛倒)を「浄」という。
人間の身体は、どんな美人だって皮膚一枚がそれらしく覆っているだけで、中身は異臭を発する不浄なものだ。
死ねばすぐに腐りだす。
そんな身体を美しいと思うのは勘違いだよって。
そして心も同じ。
自分は善人で非難されることは何もないとする独善的な考えは間違いだ。
善を取りつくろっても、その背後には、自分さえよければいいという穢れた考えがいつも行きかっている。
正直に見ればそれが人間だ。
にもかかわらず、そこを見ようとしないで、自分は清浄で正しい人間だと主張する間違いを「浄」という。
さてこの4つが地上から見た「常楽我浄」
いよいよ次回からは、宇宙から見た「常楽我浄」
同じその言葉が仏陀の視線からはどう映るのか説明しようね。
ブログ版「いまここ塾」はいかがでしょうか。
実際の「いまここ塾」は、こんなことを喋り続けて、次回で100回目を迎えます。
記念すべきこの日(3月27日)、夜8時に中城村の吉の浦会館に来てください。
駐車場完備 入場無料です。
毎回違った話をさせてもらっています。
今日はこの後、やんばる(沖縄本島北部)まで行くから、もう書けないかも。
むこうからライブの模様を報告できたらアップします。
そんなわけで今日も応援よろしく
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2007年03月25日
常楽我浄 3
超マニアックな皆さん、おはよう。
さっそく昨日の続きを始めるよ。
変わりゆくものに対して「変わらないで!」としがみつく「常」も、苦しみを遠ざけて安楽を引き寄せようとする「楽」も、元はといえば「我」への執着から来ている。
あらゆる執着や欲望の根っこにあるのが、この「我」という感覚だ。
これは単に感覚であって実体ではない。
そしてこれは時間という概念と密接関係にある。
時間も感覚であって実体ではない。
この二つは違う形をした同じ錯覚だ。
本当はいつも「いまここ」という時空間しか存在していないのに、僕らは時間が、過去から現在、現在から未来に向かって、直線的に続いているとイメージしている。
そこを「自分」という固定した存在が、連続して生きていると感じている。
でもそれは間違いだ。
時間もなければ、そのような自己も存在しない。
だから言うんだ。
過去生とか霊とかを口にする人は、時間という観念に生きている人たちで、言っていることは幼稚だって。
このブログを読んできた人の中には、自己が存在しないということを理解し始めた人もいるだろう。
僅かでもその感覚を実際に経験すれば、2度と同じ人ではいられない。
それまで「自分」だと信じてきた想像の産物は、たちどころに消えてなくなる。
自己など存在していない。
それを釈迦は「諸法無我」と説いた。
本当は無いにもかかわらず、有ると信じているから、そこに苦しみが生まれる。
それが3つ目の顛倒(てんどう)の「我」
たった一句を説明するのに、ずいぶんと時間がかかっているな。
もう少し頑張るからね。
応援ボタンを押して僕をその気にさせてください。
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2007年03月24日
常楽我浄 2
さて次は「楽」の一字。
本来この世は苦しみに満ちている。
人間は苦しむために生まれてくるとも言える。
安定した母親の胎内から切り離されて、狭い産道を通り抜けるところから苦しみは始まっている。
だから赤ちゃんは泣きながら生まれてくるんだ。
人生も苦しみの連続で、やがて年老いて、病に犯され、そして死んでいく。
そんな苦しみの人生にもかかわらず、多くの人は「人生は幸せだ」「幸せになるために生きるんだ」という立場を変えようとしない。
その姿は無知そのものであり、その無知が苦しみをさらに救いようの無いものにしている。
絶え間なく浸透する苦しみを遠ざけ、楽や幸せをひきつけようとする姿。
そして本来苦しみである人生を、幸せ・安楽と考えてしまう勘違い(顛倒)が「楽」だ。
けっこうシビアな話だけど、釈迦の慈悲は気休めを言わないところ。
徹底的に否定を重ねて、人を真実に招こうとする。
残りの2つはまた後ほど説明するけど、この「常」「楽」「我」「浄」の4つを、違う視点(宇宙の目線)から見ると、まったく違う意味になるんだ。
それこそが「延命十句観音経」で使われている意味だよ。
常楽我浄の四文字は、説明するのにすごく時間がかかる。
こんな話、面白い?
そう思ってくれる超マニアックなあなたのために、今日もPCのキーボードをカタカタ叩く僕であった。
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2007年03月24日
常楽我浄
こうやってまた朝が来て、今日も一日が始まろうとしている。
今日は「延命十句観音経」の次の一句、常楽我浄(じょうらくがーじょう)に入っていこう。
子供の頃からいつも考えていた。
人は何故、生きているのかって。
頑張って働いて、頑張って自分を高めて、苦しみ悩んで、そして死んでいく。
希望を持つことでなんとか自分を励まし、やっとつかんだ幸せはいつだってつかの間で、人生の大部分は苦しみときている。
一番不思議だったのは、そのことを見ようとしないで、毎日の出来事に大騒ぎして生きている人間達の姿だった。
みんな最後は死んじゃうのにな・・って。
子供にしてはずいぶん虚無的な考え方だけど、今でもそれはある面真実だと思う。
ところがもう一つの面から見ると、全然違った人生観と死生観が生まれる。
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2007年03月15日
仏法僧縁

おはよう。
また一日が始まるね。
今日も僕たちの心が穏やかで、周りを暖かく照らせるような自分で生きたいね。
今日は長く中断していた「延命十句観音経」の次の一句、「仏法僧縁」に入っていこう。
子供の頃よく思っていたことがあるんだ。
もともと楽園に暮らしていたはずの自分が、この波動の荒い地球に生まれてしまったのは、なにか罪を犯したからじゃないかって。
この星が流刑地のように見えた。
特に幼い頃は毎日のように、出会う人や起きる出来事に大きな違和感を持っていたように思う。
大人になった今も、ふとした瞬間になぜこのようなレベルの世界に自分が生まれてしまったのか、戸惑いを覚えることがある。
そう言っている自分自身も、かなり低いレベルで物を考えたり行動したりしているのだから、自分のことを差し置いて、そんな勝手なことを考えているわけだ。
あなたもそんなふうに感じる事はない?
さて、どうやら僕らの命は、多くの次元にわたって同時に存在しているらしい。
ヨーガが伝える7つの身体もそのことを言っていて、この世に暮らす肉体から、全てを超越したニルバーナ体まで、全部が自分自身で、それは常にいまここで同時に存在している。
この肉体を超えた次元の自分を意識しながら生活する事はとても大切なことで、荒い波動の現世の中にあって、超然と存在する自分を目指すのだ。
変化し続ける現象に一喜一憂して惑わされること無く、仏(ブッダ)の心で生きることを習慣づけていくことだ。
いつも思いやりの心を忘れず、他の存在にとって良かれという立場で生きる姿勢だ。
それは宇宙の「法」(ダーマ)という、絶対的真理にそった生き方でもある。
人間は一人だとすぐにもとのパターンに戻ってしまい、なかなかそんな生き方を徹底できないけれど、同じ志を持った仲間がいれば、共に教えあい励ましあってその道を進む事ができる。
その仲間達を僧(サンガ)と呼ぶんだ。
僧とはお坊さんのことではなく、神なる質を共に学び共に生きようとする仲間のことだ。
僕はこのブログで心を感じあっている人たちも僧だと思っている。
それをサンガと呼ぶには照れもあるので、「超マニアックな集い」と表現しているんだ。
この「仏」「法」「僧」が、仏教の3つの宝と呼ばれているものだよ。
その中であえて一番尊いものは何かというと、僕は「僧」だと考えている。
だって、それこそがいまここでリアルに出会う実体だから。
そしてその僧の中に、もともと「仏」も「法」も含まれているのだから。
ネット社会はまだ未熟で、様々な波動が行きかうけれど、ここで共に生きようとする多くの人たちに出会えた事は、神が僕に与えてくれた21世紀の恩寵だ。
あなたとの縁に感謝します。
仏法僧縁
2007年02月20日
与仏有縁
さ、それじゃ次の一句に入っていこう。
「与仏有縁」
この世の出来事には何一つ偶然はなく、何一つ無駄もなく、全ての事が完璧なタイミングで起き続けている。
これは僕自身が最初に霊的な体験をしたときに、心の底で深く確信したことだ。
その時思ったんだ。
宇宙って凄い、人生って凄いって。
人間を遥かに超えたとてつもなく偉大な存在は、確かにあった。
しかもそれは自分と違う何かではなく、恐れ多くも自分自身だったんだ。
僕もあなたも、最奥の本質はひとつの同じもので、それはとてつもなく素晴らしいものだ。
全ての人はそれを知るために生きているって確信したから、あれからずっとそのことを伝え続けてきた。
こうしてあなたと出会ったのも、偶然じゃなく縁によるもので、もしあなたが僕の言うことに共鳴する部分があるとしたら、それも縁によるものだ。
生身の僕自身は取るに足らない存在で、未熟さのかたまりだけど、何の因果かそんな素晴らしい事を伝える役目をさせてもらっている。
それは「仏」との縁なのだろう。
そしてこのような形で出会ったあなたも「仏」との縁があったればこそ。
僕たちは「仏」との縁により、自分の中にある「仏」の因を発見し、それを体現化させ、無上の喜びの世界に誘われていくんだ。
遅かれ早かれ、全ての人がそうなることは確実だよ。
何故かって、それは僕たち全員の元々の姿だからさ。
だからいつも言うんだ。
心配ないよ。
あなたは最初から救われている。
2007年02月17日
サル君でもわかるお経の解説(与仏有因)

おはよう(^o^)/
今日は一番伝えたいことを話すよ。
スゴイ話だ!
何がスゴイって、あなた自身がスゴイって話。
どうスゴイのかは読んでのお楽しみ。
それじゃ早速3つ目の句「与仏有因」に入っていこう。
まずはこんな話から始めるよ。
その前にコレお願いしますm(_ _)m
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2007年02月14日
南無仏
でも雨は雨で、これもよしだね。
それじゃ2句目にいくよ。
「南無仏」
南無という言葉はよく耳にするよね。
南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか・・・
じゃいったい「南無」ってなんだろう。
ちょっと長くなるけど、人生にとって最も大切な何かに触れることだから、しっかり読んでみてね。
続きを読む前に、これを押して承認をお願いします。
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2007年02月13日
観世音
さて、それじゃ始めていこうか。
僕は仏教徒でもキリスト教徒でもないけれど、それぞれの宗教にはそれぞれの美しさがあるから、この先いろんな解説をしてみるね。
もちろんイスラム教やヒンズー教にも、興味深いたとえ話や教えがたくさんあるんだよ。
さ、それじゃあ「延命十句観音経」の話だ。
「観世音」
この最初の一言を言うことで、自分のうちにある「慈愛」の心を呼び起こすんだ。
その象徴が「観世音」
クリスチャンならば聖母マリアといったところだろうか。
この言葉と共に、自分にとって慈愛につながる最も適した象徴を思い浮かべるのも効果的だよ。
慈愛は僕たちの宇宙的本質の一側面なので、この言葉は「彼方なるもの」と自分を繋ぐキーワードのようなもの。
すべてを超越した自分を思い起こす事ができれば、この世の災難や苦難は一瞬にして消滅してしまう。
それらは物質界が織り成すイリュージョンだからね。
妙法蓮華経の中の25品目にあたる「観音経」においても、観世音の名前を唱えるだけで、全ての苦しみや困難から救われると説いているのは、そのような理由からだよ。
それはともかく、自分の最も気高い質を呼び起こすつもりで「観世音」と唱えるのはとてもいいことだと思う。
そんな自分になって、人々の苦しみが消滅することや、世界が平和になることを祈ろう。
我こそが観世音であるということを、高らかに宣言できるくらいに、自分を高めていこうね。
これが「延命十句観音経」の最初の一句「観世音」の意味だよ。
続きはまた後でね・・・
2007年02月13日
言の葉の魂
延命十句観音経(えんめいじっくかんのんぎょう)
観世音(かんぜーおん)
南無仏(なーむーぶつ)
与仏有因(よーぶつうーいん)
与仏有縁(よーぶつうーえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがーじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)
暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
念念不離心(ねんねんふーりーしん)
これは18世紀に中国・日本・朝鮮をはじめとしてアジアの広い地域で流行したお経だよ。
起源は5世紀の中国(南宋の国)とされている。
たった10句、42文字しかない最も短いお経だ。
大切な人や、自分自身が病気になったとき、この言葉が持っている音魂が、心身に浸透して病を治すと信じられていたんだ。
実際に「言葉」は波動そのもで、僕らの心身も波動そのものなので、昔の人の迷信として片付けられない、何かの力を感じる。
僕自身も気持ちを鎮めたい時に多用している。
音のバイブレーションとしても有効だけど、そこに言葉の意味を感じながら唱えれば、もっと精神的作用は確実になる。
だから今日は度々PCの前に来て解説するからね。
観世音(かんぜーおん)南無仏(なーむーぶつ)
与仏有因(よーぶつうーいん)
与仏有縁(よーぶつうーえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがーじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)
暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
念念不離心(ねんねんふーりーしん)
これは18世紀に中国・日本・朝鮮をはじめとしてアジアの広い地域で流行したお経だよ。
起源は5世紀の中国(南宋の国)とされている。
たった10句、42文字しかない最も短いお経だ。
大切な人や、自分自身が病気になったとき、この言葉が持っている音魂が、心身に浸透して病を治すと信じられていたんだ。
実際に「言葉」は波動そのもで、僕らの心身も波動そのものなので、昔の人の迷信として片付けられない、何かの力を感じる。
僕自身も気持ちを鎮めたい時に多用している。
音のバイブレーションとしても有効だけど、そこに言葉の意味を感じながら唱えれば、もっと精神的作用は確実になる。
だから今日は度々PCの前に来て解説するからね。
2007年02月13日
心身統一

僕らは朝から晩まで、頭の中でゴチャゴチャ考え事しているよね。
そのほとんどは取るに足らないことばかりで、自分の意識を高めることはなく、むしろ低次元な世界に縛られてしまうのがおちだ。
しかもあっちに行ったりこっちに行ったり、落ち着きがない。
それはちょうどだだっ広い草原で、気ままに走り回っている野生の馬みたいなものだ。
その馬を乗りこなすには手綱が必要。
その手綱が、いわゆるマントラ(真言)の役目なんだ。
それは意識を一定の状態に高め、落ち着きを与えてくれる。
十分に落ち着いて自分を取り戻せば、そこから生まれてくるアイデアや行動は正確になり、それは自分も周りも幸せにする。
今日から少しづつ、その勉強をしてみようか。
僕は自分の持っている知識を100%分かち合いたいと思っている。
いまここ塾でもすべてを伝えようとしているけど、ここは沖縄だし、来れない人も多いだろうから、このブログでもやってみるよ。
僕が使っているマントラを紹介しようか。
マントラ
その中でも一番優れていると思うのが「延命十句観音経」
(えんめいじっくかんのんぎょう)
これはマントラというよりは、経文そのもの。
この世で一番短いお経で、一番徳が高くて、しかも宗派を超えていて、その名のとおり「延命」だから身体にもよく、とても優れた言葉達なんだ。
今日は後でこのブログでも解説してみるね。
きっと生活の役に立つよ。
PS
いまここ塾は今日の20:00から、吉の浦会館。
入場無料・駐車場多数
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