2008年02月29日
いまここ
今朝も頭の中には、伝えたいことが渦巻いています。
実際に人と会って話をしたとしたら、きっと当たり障りのない話題に変えてお茶を濁すのでしょうが、こうやって毎朝ブログを書こうと気持ちを引き締めると、その内容を一歩も妥協することなく、ここに表したいと思ってしまうのです。
でも、最も伝えたいことが、最も伝えるのが難しいときています。
それはちょうど、新しい味を教えようとするのと似ています。
たとえば誰一人「甘さ」という味覚を知らなかったとしましょう。
何の因果か、あなたはある時、ひょんなことで生まれて初めて「甘さ」を知りました。
それは生まれて初めて味わう、無上の美味しさでした。
そこであなたは、多くの人に教えてあげたいと思いました。
この世には「甘さ」というこの上ない味覚が存在していることを。
さて、「甘さ」を知らない人に、あなたはどうやって「甘さ」を教えますか。
ある人は、そんな味覚が存在するわけがないと言い張ります。
ある人は、そんな味覚は取るに足らないと言います。
でもその人たちは「甘さ」を味わったことがありません。
あなたはその人たちに、どうやって「甘さ」を教えますか。
きっと、言葉で伝えることはあきらめて、砂糖のありかを教えるのではないでしょうか。
だってその人がひとたびペロリと舐めれば、それでおしまいだからです。
そうなれば「甘さは存在するか否か」「甘さとは何か」という議論はいりません。
未知なるものを知るためには、未知なるものを体験するしかないのです。
さて、ここで大きな問題があります。
それは、砂糖のありかを探しているその人自身が、砂糖でできているということです。
ここ以外に砂糖はありません。
それなのに、多くの人はずっと、どこか外側を探し求めるのです。
「どこか」にはありません。
「ここ」にあるのです。
「いつか」見つかると思わないことです。
「いま」しか見つからないのですから。
「いまここ」
これが真理を体験するキーワードです。
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2008年02月28日
見性 3

今あなたが生きているのとは別の、もう一つの超リアルな現実が存在しています。
そこでは、一切の苦しみや悲しみは消えうせ、祝福と歓喜が泉のように湧き出して、終ることはありません。
しかもそれはさらなる歓喜に向かって成長していて、退屈するどころか、瞬間瞬間が新しい驚きと発見に満ちているのです。
その世界は、生きていると感じている今の現実よりも、さらにリアルな世界なのです。
今こうして生きていると思っている世界は、単なる夢のような存在です。
確かだと感じる肉体も、あらゆる物質も、実体は「無」からできています。
最先端の物理学は、やっとその真実を科学的に発見しました。
僕たちは幻想の世界、夢の世界に生きているのです。
僕たちがこうして現世(幻世)に生まれてきた理由は一つしかありません。
夢から覚めること・・・目覚めることです。
その目覚めが「見性」と呼ばれる体験です。
それは実在します。
でも、いくらそのことを信じようとしても無理があるでしょう。
僕たちは五感によって作られた世界を真実だと思っていますし、見えないものはにわかに信じられないからです。
釈迦が言っているから、キリストが言っているからと信じこもうとしても、心の底では信じ切れません。
信念を持っても無理です。
信念とは、どこか強制的なもので、心の底ではそう思っていないから信念が必要になるのです。
ではどうすればいいのでしょうか。
たとえば「空気」
空気も見えませんが、みんなその存在を疑うことなく認めています。
空気の存在を信じようとしなくても、存在するという信念を持たなくても、あるものはあると知っています。
なぜなら、いつも空気を吸っていて、その存在を経験的に知っているからです。
電波も同じです。
見えないけれど、携帯電話などで知っているから、その存在を信じる必要もありません。
したがって、大切なのは信じることではなく、経験的に知ること、体験することです。
「見性」は学問や知識ではなく、経験なのです。
僕たちに必要なのは、そのことについて論じることではなく、そのことを実際に経験することなのです。
僕は自分のことを、道先案内人だと思っています。
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2008年02月27日
見性 2

世界にはたくさんの人が生きていて、みんな微妙に違う価値観、人生観を持って、それぞれの人生を生きていますが、そこには共通している事があると思います。
それは「幸せになりたい」という思いです。
僕たちは様々な願望を持っていますが、その内容が何であれ、それは直接間接的に、今よりもいい状態、幸せな状態になりたいという願いではないでしょうか。
仕事をするのも、恋愛をするのも、健康を願うのも、占いの本を読むのも、宗教に入って特定の言葉を繰り返すのも、みんな「幸せになりたい」からではないでしょうか。
人類の歴史全体が、この「幸せになりたい」という思いによって作られてきたと思います。
しかし、何かの条件を満たすことで幸せになろうとしても、その条件が失われたら、また不幸になってしまいます。
僕たちが心の深いところで求めているのは、無条件の幸せです。
何かの理由によっての束の間の幸せではなく、永遠なる絶対的な幸せです。
その「永遠なる絶対的な幸せ」は実在します。
それはおとぎの国の話ではなく、実際に存在するのです。
一度でもそれを見つけ出せば、人生観も人生も、そして自分を取り巻く環境も一変します。
もちろんそれは素晴らしい方向に一変します。
不思議な巡り合わせが増えていき、あなたの欲しいものは何でも手に入ります。
といっても、すでにそれらがあろうとなかろうと、心の底には揺るぎない幸福感が流れているのですが・・・
そのための方法はひとつしかありません。
ずばり、「見性」です。
あらゆる願望は、その代用品にすぎません。
見性する能力は全ての人に兼ね備わっています。
僕はこれからの時代は、人類という大きな規模で、この見性体験の花が咲き乱れていくのだと信じています。
その時、世界が大きく変わります。
人類の長年の夢であった、神の国がこの地上に出現するのです。
そして見性体験とは、神の国を発見し、その仲間入りをすることなのです。
このような話に興味を持ってくれたということは、神の国の入口に来ているということです。
そしてすでに、あなた自身、その予感を持っていることでしょう。
何よりもまず、神の国を求めなさい。
そうすれば、他のものはすべてあなたに与えられる。
(マタイ伝 6章33節)
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2008年02月26日
見性

昨日初めてラジオで、自らの見性(大いなる気づき)について話しました。
あまり語らないのは様々な理由からです。
まず、その経験は、その経験をしたものとしか通じ合うことができません。
未だ見性に至らない人は、見性体験に対してさえも評価を下そうとします。
しかし、一度でもその経験をすれば、あらゆる評価はナンセンスです。
それはすればわかります。
そのような経験をしているか否かは、一目会えば、あるいはその文章を一読すればすぐにわかります。
あらゆるナンセンスは霧のように消えてしまいます。
どのような宗教的な知識も学問も意味を持ちません。
それも経験すればわかります。
このような言い方は一部の人たちの反感を買います。
自分がしたことのない経験を、絶対的なものとして宣言されたら面白くないからです。
特に、内心相手と競おうとする輩からは攻撃にさえあいます。
だから、知ったものは言わないのです。
さて昨日なぜラジオでそのことを話したかというと、昼間友人から山田耕雲老子の見性に関する文章を読んでもらったからです。
それを読む声が、僕の心の奥に響き渡りました。
まさに、「我が意を得たり」
以下にその文章を転載します。
山田老師は、僕たちよりも半世紀も前を生きた人なので、文章がやや硬い感じがしますが、じっくり読めば、誰もが理解できると思います。
哲学を研究してみても、人間が円満完全、無限絶対の実在であると説く教えは仏道以外にはない。
この事実を思想的に理解するのではなく、体験として見得し、納得することが禅のねらいであり、これを見性といい、悟道というのである。
人間の一切の不安、苦悩は、人間が本質において完全円満、無限絶対の実在(これを仏と言い、本来成仏と言う)でありながら、現象としては不完全きわまる、有限相対の、はかなき、いと罪深き存在(これを凡夫といい、衆生という)として現れており、しかも人間は、生まれながらにしては、自分の円満完全、無限絶対の本性(仏性)を知ることができない、という事実から発生するのである。
そこで、自分を不完全な、有限相対の存在と思っている人間が、円満完全、無限絶対の自己の本質に目覚め(これを見性といい、悟りという)、この事実を自ら納得する(これを証という)とき、人間の一切の不安、苦悩はいっぺんに雲散霧消するのである。
この時の歓喜は全く筆舌につくしがたい。
人によって深浅、強弱の差はあるが、一度この歓喜を体験した人でなければ、本当の禅の話は通じない。
どんなに仏教に関する学識が豊かであろうと、どれほど禅録、祖録を読破し、そらんじていようと、この体験がない限り、禅にとっては全くの門外漢である。
山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)
自分に対する誤解や冷笑を避けようとするのではなく、ただあるがままの真実を伝え続けていこうと、改めて思った冬の一日でした。
この先、ひとりでも多くの人が見性に導かれますように、身を呈して貢献していきたいと考えています。
それをするための素晴らしい施設まで、天からプレゼントされたのですから。
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2008年02月25日
日々是好日

毎朝の瞑想(坐禅)はいい感じですよ。
呼吸を数えることにだけ意識を向けるのですが、それが完璧にできることは少ないです。
ただ、瞑想の終りにイメージすることがあって、これが僕の生活に役に立っています。
それは、自分の中にみなぎるパワーがあるというイメージです。
腹式呼吸によって、自分の重心を臍の下(丹田)にまで下げて、そこにみなぎる力を感じてみます。
実際このパワーは誰もの中に眠っていて、とっさの緊急時に発揮されたりします(火事場の馬鹿力)。
マライヤキャリーが歌った「HERO」は、この力を歌ったものだと思います。
禅ではこの力を「主人公」と呼びます。
僕たちは将来、財政難になったり、健康が悪化することなどを恐れていますが、実際に恐れているのは、そのような現実そのものではなく、そうなったときに自分には対処するだけの力がないのではという「無力感」なのです。
たとえお金がなくなっても、それを乗り越えられる力が自分に宿っていることを知っていれば恐れることはありません。
健康問題も同じことです。
自分をとりまく現実は、いいも悪いもなくあるがままにあるわけで、その現実に対する自分の態度が、そのまま幸福感と不幸感の分かれ目になると思います。
だからもし神様が何か一つ望みをかなえてくれるとしたら、このパワーを願おうと思います。
そして神様はすでに、僕たち全員にこのパワーを授けてくれています。
それは僕らの源である、無限の本質にすでに備わっている力です。
自分の中を深く覗きこめばそこに「HERO」がいる。
(There’s a hero. If you look inside your heart.)
だから毎朝、そのパワーを感じようとします。
そうやって一日を始めています。
腹式呼吸によって腹に意識の中心を持ってくるのは、僕のようにすぐに重心が頭に上がってしまうようなタイプの人間には特に効果的です。
日々是好日(にちにちこれこうじつ)
この言葉は、毎日いいことが起きるという意味ではありません。
何が起きようと、自分次第で「日々是好日」だという意味です。
そんな気分で毎日を過ごしたいものですね。
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2008年02月24日
波動の出入り

いまこの瞬間にも、この世のありとあらゆるレベルの波動が、人間の中に入ったり出たりしているんだと思います。
至高の体験を味わっている人もいるだろうし、反対に深い憎しみや猜疑心のような、自分をも苦しめるレベルの波動を味わっている人もいるでしょう。
それはどちらも過去僕の中にあったものであり、それはいつも世界中を駆け巡っていて、いまも誰かの中にいるのだと思います。
今僕が味わっている波動も、以前誰かの中にいたものです。
もしかしたらこの世で生きているのは「波動」で、それが身体という個体に入り込んで自己表現しているんじゃないかと思ったりします。
自分という固定された人格が生きているのではなく、さまざまな人格が出入りしていると言ったほうがいいかもしれません。
そう考えたほうが自分というものが見えてきます。
その時々の波動によって、まったく違う自分がいるからです。
今日の僕は、体調はいまいちですが、心は落ち着いていていい感じです。
波動レベルと共に、思考も出入りしているんじゃないでしょうか。
いまあなたの中にいる思考は、昔僕の中にいたものかもしれません。
思考も物質的な存在だと言った人がいましたが、わかるような気がします。
嫌な考えが湧いてきたときには、それを自分が作り出したと思わずに、「おっ地上にはこんな悪い思考も存在したか」って他人事みたいに見てしまえば、自分を嫌わずに済みますよ。
それに、その思考もいずれは過ぎ去ってどこかへ消えてしまうのですから。
僕たちの実態は、波動のレベルではなく、思考でもなく、それらを映し出す鏡のような存在です。
どのような汚れた形が映しだされたとしても、鏡の純粋性はいささかも汚れることはありません。
僕たちは永遠にピュアな存在なのです。
若いころは自分を嫌いになるような低い波動や思考を引きつけていました。
きっと、何かに脅えていたからだと思います。
大人になってそれが少なくなったのは、自分が孤独な存在ではなく、いつも大いなるものと繋がっているということを知ったからだと思います。
僕は人生で多くのものを手にしてきましたが、一番の宝はその気づきです。
だからその宝を皆と分かち合いたいって思うわけです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
素敵な日曜日をお過ごしください。
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2008年02月23日
近況報告

ちょっと風邪気味。
めったに体調を壊さないから、ちょっと悪くなると大げさにダウンします。
病院に行くのが嫌いで、売薬飲んで布団かぶってじっとしているわけです。
さて、話は変わりますが、沖縄に来てから変わったことの一つに、ますます時間感覚がなくなってしまったこと。
今が何月なのかわからなくなってしまって、ずっと先だと思って安心していた予定がすぐ目の前に迫っていて驚くこともしばしばです。
今回のヨンボ君とのライブも、つい数日前に、大変だ!宣伝しなきゃって・・・(笑)
新聞のコンサート欄に出そうと思ったらすでに締切。
そこで知り合いのアナウンサーやディレクターにお願いしたら、二つ返事ですぐに協力してくれて、あっという間に沖縄市は売り切れ。
那覇市も順調に売れ始めてほっと一息です。
久しぶりに沖縄でコンサートしてくれる友人に、いい体験をさせてあげたいものね。
よかった、よかった。
やっぱりここ一番というときは人間関係しかないわけで、多くの人の力によって現実が作られていることを改めて実感しました。
ご協力ありがとうございましたm(_ _)m
それと・・・やっとレコーディングが終了しました。
アルバイタイトルは「For You」
8曲入りです。
収録曲は
1 For You
2 元気出していこう中城
3 Day Dream
4 センチメンタルカーニバル
5 心の傷
6 生きてる
7 高く飛ばしたら
8 大空へ
これでひと段落したので、来週から新刊の執筆に入ります。
生きている間にやるべきことやっておかなきゃね。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
明日は沖縄市の音市場のコンサートに出演するので、今日は体を温めてゆっくりすることにします。
みなさんも、お身体を大切にしてくださいね。
これからもブログの応援、よろしくお願いします。

2008年02月22日
同窓会ライブ

誰にでも煌くような青春時代があるように、僕にもそんな時代がありました。
ギターを抱えてラブソングなんか歌って、テレビやラジオに出て、女子高生に囲まれて、世の中は自分を中心に回っていることを疑わなかった頃です。
恋をして傷ついて、夢を追いかけて挫折して、愚かしいまでの情熱を燃やし続けたあの頃に、もう一度戻りたいとは思わないけれど、あの頃を思い出すのはいいものです。
仲良しだったNSPの天野君は死んじゃったけど、彼が紹介してくれたとんぼちゃんのヨンボ君と去年再会して、沖縄で同窓会ライブしようって話になりました。
「一足遅れの春」「雨の一日」「遅すぎたラブソング」「白い夏の詩」・・・
彼が唄う歌には、甘く切ない響きがあります。
お互い歳をとったけれど、心の中には何も変わらない自分もいて、ステージに上がって当時の歌を歌うと、身体ごとタイムスリップしてしまうのは、彼も同じだろうと思います。
そういえばとんぼちゃんの人気も凄くて、新幹線の駅に降りるとき、ホームに女子中高生が殺到して危険な状態になるので、いつも関係者用のエレベーターに乗って事なきを得ていたと、当時のマネージャーから聞いたことがあります。
そんな華やかな人生と、その後の苦難に満ちた人生と、一生を通じて見ればプラスマイナスゼロだったりしてね。
それはお前に丁度良い
歩いたお前の人生は、悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度良い
そんな言葉がしみじみと心に沁みてくるわけです。
ヨンボ君と僕との同窓会ライブ。
2月29日は沖縄市音市場1F「トーラス」
3月1日は那覇国際通り三越横「ライラ」(旧ジャンジャン)
29日はSold Outですが、3月1日の那覇はまだ間に合います。
19時開場・20時開演です。
お問い合わせ・電話予約は
098-866-5880(母家)
出演者も観客も、それぞれに同じ重さの人生があって、ずいぶん長い旅をしてきたねって労いながら、またここから始まっていく人生を励ましあって、そんな温かいコンサートにしましょう。
今日の最後は一休さんの道歌
行く末に 宿をそことも定めねば
踏み迷うべき 道もなきかな
人生に決められたゴールなんかなくて、ゴールがなければ間違った道も、間違った人生もないわけで、あなたの人生がどうだろうと、それはそれでいいんだよって意味です。
僕らはどこかに向かって生きているんじゃなくて、いつだって「いまここ」を生きているのですから。
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2008年02月21日
思考を断ち切る

今朝目が覚めた瞬間、夕方なのかと思いました。
外のどんよりとした暗さが、夕方に見えたのです。
そう思った瞬間に様々な思考が頭の中を駆け巡りました。
「しまった、また一日が過ぎてしまった」
「やるべきこと、やらねばならぬことが手つかずのままだ」
「こんな調子でまた一年が終わってしまうんだろうか」
そして中途半端のままになっている、やりかけの仕事の関係者の顔が浮かび、そういえば今日はブログを更新しただろうかとか、あれやこれや思考が洪水のように訪れました。
やがて今が夕方ではなく、夜が明けたばかりだと気づき、ちょっと安心したのですが、またすぐに今しがたの思考が押し寄せてきて、今日はあれをしなきゃ、これをしなきゃって・・・(笑)
朝の静かな意識の中だったので、思考の群れがはっきりと認識できましたが、昼間の活動の中では、それさえも無意識になって、ずっと頭の中で無数の思考が行き来しているのだと思います。
それらは終わってしまったことや、まだ来ていないこと、あるいは様々な妄想です。
たとえば会社員だとしたら、先日の会議で的外れな発言をして、その時の上司や同僚のあきれた顔を思い出し、きっと彼らは内心馬鹿にしたに違いない、能力の無さを見破られてしまった、もうこの会社での出世は見込めない、自分の将来はおしまいかもしれない、何かでばん回しなくちゃ、でも自分には何もできないし・・・
このような思考パターンがストレスを作り出していきます。
ひとつ不安な考えが生まれると、そこから続く思考はたいていの場合は否定的なものが多く、最低最悪の状態まで考えたりしますが、実際にはそこまで現実が悪化することは稀なことです。
実際僕たちを苦しめるのは現実そのものというよりは、起こりもしない最悪な状況を考えたりする、そんな否定的な思考の群れではないかと思います。
そんな思考の他にも、自分を苦しめた相手に対する恨みから、心の中でその相手を罰したり、責めたり、そうやっていやな気持ちを感じ続けたりもします。
そのストレスや怒りがたまりにたまると鬱(うつ)状態になり、やがては心も身体も傷んでしまうのだと思います。
そこでちょっとした工夫ですが、思考の連続性を断ち切る習慣を持つといいと思います。
何か否定的なことを考え出したら、ぱっと考えを変えるのです。
それで失うものは何もありません。
簡単なことのようですが、とても効果的だと思います。
僕はもともと、こういう思考パターンにはまりがちな性格なのですが、この数年は思考を断ち切るのが、だいぶ上手くなってきましたよ。
もしひとりになる時間ができたら、椅子に座ったままでいいから坐禅の呼吸法をやってみるのがいいです。
深く静かな呼吸を繰り返し、呼吸のことにだけ意識を向けて、考え事から離れる練習です。
生活の中でたった1分間でも、徹底的に呼吸に意識を向けられたら、ずいぶんと心が軽くなると思いますよ。
試してみてくださいね

今日もここに来てくれてありがとう。
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2008年02月20日
それはお前に丁度良い

禅というのは、いっさいの分別、判断から離れ、自由闊達な境地にいたる道ですが、そんな中で、前々から大好きな禅僧に、一休さんと良寛さんがいます。
この二人は対照的です。
一休さんは天皇家の血を引く身分とも言われながらも、豪放磊落(ごうほうらいらく)な生き方を貫き、その数々のエピソードからは真理に到達した凄みを感じます。
たしか大徳寺の100周年記念だったか(記憶は定かじゃありません)、大きな儀式が行われたとき、そのような形式仏教に何の意味があるかと言って、自分は小さな庵に女性を連れ込んで一晩中S○Xしていたとか、その行為を細かく書に残したりとか、とにかくぶっ飛んだお方でした。
一方良寛さんは越後の国に生まれ、晩年も越後に戻って小さな庵で質素な生活をするのですが、子供と毬つきや、かくれんぼをして遊ぶ良寛さんの姿はあまりにも有名です。
筆の達人で、幕府高官からも江戸に上るよう招かれますが、まったく見向きもせずに生涯を辺鄙(へんぴ)な庵で過ごします。
70歳になった頃に、40も歳が離れた貞心尼という尼さんに恋をして、その時の2人の和歌のやりとりは、とても美しくも切ない世界を感じさせてくれます。
その良寛さんが残した詩で、僕が人生訓としている言葉があるので紹介します。
お前はお前で丁度良い
顔も体も名前も姓も、それはお前に丁度良い
貧も富も親も子も、息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度良い
幸も不幸も喜びも、悲しみさえも丁度良い
歩いたお前の人生は、悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度良い
地獄へ行こうと極楽へ行こうと、行ったところが丁度良い
うぬぼれることもことも無ければ、卑下することも無い
上も無ければ下も無い、死ぬ月日さえも丁度良い
御仏と二人連れのこの人生が
丁度良くないはずが無い
お前にそれは丁度良い
多くの人たち、そして見えない多くの力に生かされている人生に、感謝。
御仏と二人連れのこの人生が
丁度良くないはずが無い
僕たちは一人残らず、宇宙に完全に守られ愛されています。
たとえ今、どのような現実をむかえていようと、それは起こるべくして起きていて、それは今の自分に必要なこと(丁度良い)なのです。
僕たちは今だけの出来事に一喜一憂しがちですが、実際には悠久の時を旅しているのであり、永遠の宇宙を信頼して、その懐の中に生きるという、そんな信頼の境地が大切だと思います。
その境地のマントラが
南無阿弥陀仏(私は宇宙を全面的に信頼しています)
僕たちは一瞬も忘れられることなく、いつだって宇宙から想像を超えた愛によって見守られています。
これは僕の内なる体験から断言できることです。
今日もいい日でありますように。
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ありがとうございました。
2008年02月19日
10分間健康法

今朝も青空が気持ちいい。
風もさわやかで、もうすぐそこまで春が来ている予感がします。
朝起きて最初にやることは、ベッドのうえに坐って、枕を半分おしりの下に敷き、今は少し肌寒いので足に毛布をかけたまま、坐禅をします。
ポイントは、呼吸をゆっくり深くしながら、呼吸のことだけを考えるんです。
それを約5分間。
心身共にすごく効果がありますよ。
というのも、そのわずかな時間の間中、呼吸をしている身体と、呼吸を見つめている心が、ひとつに一致しているからです。
思いと行動が一致しています。
身体と心は別々のものじゃなくて、「心身」というひとつのものです。
身体の一番内側のやわらかい部分が心。
心の一番外側の固まった部分が身体です。
それなのに、ほとんどの時間は、その2つが分裂した状態にあります。
心(頭)はいつも何か考え事しているからです。
その考え事の多くは、幸せなことというよりは 不安や心配や緊張を伴うことです。
だから毎朝、たった5分間でいいから、心身がひとつになる時間を作るんです。
その5分間も、慣れないうちは考え事をして終ってしまうでしょう。
それくらい、心を漂う思考は絶えることなく続いています。
だからしっかりと自覚を持って、出る息と吐く息にだけ意識を向ける練習をするんです。
最初はうまくいかないかもしれないけれど、何事も練習すればコツをつかみますよ。
自転車に乗るのだって練習したからできたわけで、集中してその気になれば自転車と同じくらいの練習量でできるはずです。
ちょっと試してみてできなかったと言って、そのままやめてしまう人が多いのは残念です。
どんな人でも3週間続ければ、大きな効果を感じると思うので、それができたら次は夜寝る前にもベッドの上でやったらいいですよ。
そして5分たったら、そのままベッドにもぐってバタンキューです。
これが僕の10分間健康法です。
健康が一番。
最近は食べるものにも関心が出てきました。
あんなに好きだったお寿司も、最近は芽ネギやお新香巻き以外はあまり食べたくなくなってきました。
無理しているわけじゃないのに、身体と心がどんどんそちら方面に変わっていっているのがわかります。
中国からの輸入食材の影響で、最近は世の中全体が、安全な食についての関心が高まってきましたが、とてもいい傾向だと思います。
我が「母家」でも、忙しい主婦の味方になるべく、新しい試みを始めています。
土曜日には食と医療のことを考えている今帰仁の医師、石川先生のトークライブもあります。
興味がある人は母家のブログを覗いてください。
玉城にできる禅堂やセミナー施設では、レストランもオープンしますが、最高の景観と共に、マクロビオティックなども取り入れた、身体に優しい食べ物を追及していきたいと考えています。
まだ一年あるので、その期間にたくさん勉強してみます。
飛翔に向けて準備万端です。
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2008年02月18日
春遠からじ

この数日、けっこう力を入れて書いてしまって、今日は一休み。
まったく僕はいきなり正義の味方になってしまう悪い癖があって、自分が言わなきゃ誰が言うみたいなヒロイズムに酔いしれて、その後ふと我にかえって、「人類みな兄弟」まぁ気楽に行こうぜ!みたいな自分になって、それまでの自分がちょっと恥ずかしくなったりして、そんな支離滅裂な自分を可愛い奴だなんて思っていたら、向和尚からメッセージが入りました。
いやはや、いつもながら見事なタイミングで僕を楽にしてくれます。
阿部さん、あっと言う間の三日間でしたが、とても楽しく有意義でした。
創価学会については、妻の友人に学会の人がいて、「お葬式で聞いた和尚さまのお経は素晴らしい」とほめてくださるし、明るく気さくな人だという印象があるくらいで、現在の学会そのものについては事実を知りませんので語ることはありません。
ところで仏教は、約2500年前、ネパールのカピラヴァストゥの釈迦族の王子ゴータマ・シッダッタが、ピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の坐禅三昧の行に入って悟りを開いたことに始まります。
その後、いろんな宗派が形成されるわけですが、最初は、インドの大地、菩提樹の下で坐禅をして、宇宙の真実を悟った という単純な事実だけなのです。
仏教という名称も、お経も、仏像も、もちろん宗派も、その時にはありませんでした。
言葉では伝えきれない「悟り」という純粋経験が釈迦によって達成されたということが素晴らしく大切なことなのだと思います。
しかも、正しく坐禅さえすれば、今や誰もが悟りという純粋経験をすることができるほど、人類の意識のレベルが向上してきているということです。
宗派の違いを越えて、キリスト教の修道士が禅僧と共に坐禅をしている時代です。
阿部さんの言うとおり、「世界が一つになるためには、全ての個人が、釈迦やキリストたちと同じ深さで宇宙を理解し、その共感のもとで互いを認め合い、助け合うことが必要」だと思います。
はい、ありがとうございました。
来年完成予定の玉城(たまぐすく)の禅堂にて、変わらぬご指導よろしくお願いします。
不肖の弟子より
そんなわけで、また始まった一週間。
みなさんも風邪などひかぬよう、ご自愛くださいませ。
これからも心をこめて毎日メッセージを発信していきます。
よろしくお願いします。
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ありがとうございました。
2008年02月17日
続・創価学会

こうして創価学会について書こうとすると、心の底でブレーキがかかりそうになります。
それを話題にするのはタブーになっているからです。
もちろんラジオなどでも創価学会の話題はタブーです。
このような不健全な傾向はどこから来るのでしょうか。
社会一般の創価学会に対する偏見もあるように思いますし、学会自体にもそれを作り出した要因があると思います。
学会に対する一般社会の反感は、折伏(しゃくぶく)と呼ばれる布教活動(勧誘)から生まれたと思います。
信者にとって勧誘活動は大切な修業の一つとされているので、お題目を唱える一方で、命がけの勧誘をしてきた人も少なくありません。
これは鎌倉時代の日蓮の考え方を、そのまま現代に適用することで正当化したもので、その結果多くの信者を獲得した一方、社会の拒否反応を煽ってきました。
家に居座ったり、脅迫したり、監禁したりと、当時は大きな社会問題になりました。
それは昭和26年に始まる折伏大行進と呼ばれる勧誘運動によってさらにヒートアップしますが、その時期に今の組織母体を作り上げたと言っても過言ではないでしょう。
そもそも創価学会は日蓮正宗の信徒集団だったのですが、ちょうどその時期に、布教をやりやすくする名目で、独自の宗教法人を取得することを日蓮正宗に願い出て承認されます。
その時の条件として、
1、 折伏した人は信徒として末寺に所属させること。
2、 日蓮正宗総本山大石寺の教義を守ること
3、 仏法僧(三宝)を守ること
を確約しますが、やがて創価学会の勢力が本山を上回るにつれ、総本山大石寺との確執が目立ち始めます。
昭和52年路線と呼ばれたころは、「創価仏法の原点は、戸田会長(二代目)の獄中の悟達にある」として、独自の道を明確にしだし、それは現在の名誉会長への個人崇拝につながっていきました。
平成に入ると、総本山への誹謗中傷が激しさを増し、ついには破門されることになります。
このような時に見せる創価学会の攻撃の激しさと、徹底的に自己を正当化するやり方が、一般庶民の学会に対する恐怖感やアレルギーを強めているようにも思います。
さて再び話を昨日に戻しますが、だからと言って創価学会に入っている人たちが悪人というのではありません。
それどころか、優れた善人たちが多いというのが僕の実感です。
一部の原理主義的な人もいますが、多くはバランスのとれた知的な人たちです。
それが、自分たちだけが正しいとする組織の論理になった時に、社会との確執を生みだしているように感じます。
なぜこのようなテーマを選んだかというと、我々がみな協力して、世界の平和と幸福に貢献しようとする時、その膝元の日本において、今のままの見えない対立がまかり通っていてはいけないと思うからです。
このような現状は、対話と相互理解によって解決すると信じたいですが、折伏のように自己の正当性によって相手を論破するというやり方では難しいと思います。
世界が一つになるためには、全ての個人が、釈迦やキリストたちと同じ深さで宇宙を理解し、その共感のもとで互いを認め合い、助け合うことが必要だと思います。
日蓮が言うように、我々一般の人間たちにも、等しく仏性が宿っているのであり、その仏性の発見方法が違うだけで、元はひとつの同じ魂(仏性)です。
発見方法で優劣を争うのではなく、それぞれのやり方を尊重しながら、援助しあえたらと思うのです。
教科書検定問題の時も言いましたが、反対意見や、僕の事実誤認がある場合は、ぜひともコメントいただきたく思います。
このコメント欄は承認制ですが、反対意見を削除するのが目的ではありません。
的外れなものや、品性を欠いたもの、違う目的のものなどは掲載しませんが、健全なご意見であれば大歓迎です。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
このブログを応援してくれる人は、ご面倒ですがボタンを2つ押してください。
2008年02月16日
創価学会

このタイトルだけでも過激なものを感じてしまいます。
そう感じること自体が歪んでいるのに、誰もそのことには触れたがりません。
昨夜の講演会の最後に、講演会を主催した青少年育成会の会長があいさつに立ち
「実は自分は創価学会員なのですが、阿部さんが禅を学んでいるということで、ずいぶん意見が違うかと思ったら、何の違和感もなく話を理解できました」
と感想を述べてくれました。
創価学会員という立場を、あまりにも爽やかに表明されたのが新鮮でした。
考えてみれば隠すようなことでもないのですが、公にはなかなかそのような信仰を名乗らないのが日本の風潮です。
あまりにも爽やかだったのと、僕の話に違和感がなかったとおっしゃるので
「それじゃ僕が創価学会に入りましょう」
と言うと、会場は大爆笑でした。
会長の短いあいさつの中には2つのポイントがありました。
なぜ彼が、禅を学んだ人間とは意見が違うと思ったか。
もうひとつは、あっけらかんと信仰を表明したことが、なぜここまで新鮮に見えたかです。
まずひとつめですが、創価学会員の禅に対する先入観には理由があります。
創価学会はご存知のように日蓮の流れをくんでいるわけですが、この宗祖の日蓮が、そもそも他宗を否定しています。
四箇格言(しかかくげん)と言って、禅宗だけでなく、真言宗も浄土宗も浄土真宗も律宗も否定しています。
法華経(妙法蓮華経)こそが唯一正しい釈迦の教えであるとの立場をとったのです。
法華経というのは、サンスクリットの大乗経典の一つで、当時中国には法華経だけでも十数種類の漢訳本がありました。
その中でも鳩摩羅什(くまらじゅう)という有名な僧侶が訳した「妙法蓮華経」が最も広く用いられ、一般に法華経と言うと妙法蓮華経のことを指します。
この妙法蓮華経を全面的に信頼し、命を投げ出すくらいに帰依する(南無する)ところから「南無妙法蓮華経」という題目が生まれます。
ちなみに20世紀の3大新興宗教の、創価学会、立正佼成会、霊友会はすべて法華経に帰依していて、「南無妙法蓮華経」です。
したがって20世紀は「南無妙法蓮華経」の世紀だったともいえます。
さて、それがなぜ他宗を否定するのでしょうか。
その根拠の前提は、法華経の中で、釈迦自身がこのお経が最も真実を説いていると言っているからというものです。
法華経の序分にあたる無量義経には、「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」とあり、40数年にわたって説いてきた教えは、真実ではないと言っているというわけです。
何か大切なことを伝えるとき、「これは最も大切なことだ。このことに比べたら他の事は取るに足らない」という表現をするのはありうることです。
釈迦の死後500年経って書かれた経文の、しかも翻訳された経文の一文をもって、他を排除するのはすこし乱暴かとも思います。
そもそも真理は言葉で表すことはできずに、だからこそ釈迦は40数年間もしゃべり続けたのだと思うのです。
日蓮自身が他宗を否定した理由は他にもあったように思います。
たとえば禅宗についていえば、日蓮が活躍した鎌倉時代の日本において禅宗はまだ新興宗教でした。
中国では長い歴史があったにせよ、日本においては、まだ数十年しかたっていなかったのです。
一方の法華経は聖徳太子も講じたと日本書紀にあるように、すでに長い歴史がありました。
にもかかわらず、禅宗は当時の権力者北条氏に手厚く庇護されます。
日蓮の態度は、反権力の立場からの考えだった可能性もあります。
これは歴史家や宗教家によって意見が分かれるところですが、日蓮の排他的な態度は、当時の歴史的背景があったと見るのが自然だと思います。
さて長くなりましたが、そんな日蓮の流れをくむ創価学会も、長きにわたり他宗を否定してきました。
ほんの十数年前、僕が方広寺で研修会をしていたころ、受講を決めていた創価学会員が、学会に反対されたという理由で、研修参加を直前になってキャンセルしたことがありました。
坐禅をすると頭が腐ると言われたというのがその理由です。
僕はこう思います。
宗教の排他主義は、ある時代においては功を奏したのかもしれませんが、今の時代には逆効果です。
それを察したのか、最近になって創価学会は排他主義を改める方向に方針転換を始めています。
僕は創価学会を全面否定しようと思っているわけではありません。
というのも、僕の知人にも学会員は多数いて、その人たちはみな、人間的にも優しくて、魅力的な人たちだからです。
信仰の力が人生にプラスに働いていると感じます。
もちろん、やめたくてもやめられないという人(大人になってから結婚相手などの影響で入信した人に多い)もいますが、心から生きる力になっている人も多数います。
昨日の会長にも、尊敬できる人間性を感じました。
でもその彼が禅を習った僕と意見が合わないという先入観を持ったのは、以上のような理由(四箇格言)からだったと思います。
創価学会や特定宗教について書くのは疲れます。
沖縄の教科書検定問題を書いたときと似た部分があります。
でも誰かが意見を言わなければ、いつまでたってもタブーがタブーのままになってしまいます。
続きはまた明日書きます。
勇気を持つためにも、応援よろしくお願いします。
2008年02月15日
活動拠点の建設 2

このあいだの続きです。
例の拠点建設の話。
僕にとって方広寺の研修所は長い間本拠地だったけど、自分専用というわけではありませんでした。
でも今度の施設は専用施設だから、ワクワク度がまったく違うわけです。
向和尚も今回初めて現場を見て、あまりの景色の美しさに驚嘆していました。
でまずは・・・
前回紹介したときに、建物は景観上まっすぐではなく曲線がいいという人がいましたが、どのようになろうとも外から建物は見えません。
というのも道路と建物の間に緑いっぱいの築山を作り、そこには石を組んだトンネルの入り口があって、まるで母親の胎内に戻るような感覚で建物の中に入るのです。
ホテルなどの建設は地域の環境破壊につながる場合が多いですが、ここは逆に木をたくさん植えることで、今以上に緑に囲まれた一画になります。
これらのアイデアと、屋上の空中瞑想場はある人の発案で、よくもまあこんなことが考え付くものだと感心しています。
建物の中に入ると全面に南国の海が広がっています。
真南を向いていて、サンライズもサンセットも見ることができます。
建物を出て階段を下りると、そこは白い砂浜で、夜になると頭上に落ちてきそうな星空が広がり、夜坐(夜の瞑想)には最高の環境です。
波の音を聴きながら、星の浜辺での瞑想・・・そのまま宇宙に溶け込みそうでしょ。
道を挟んで緑の丘があり、そこにはホテル(宿坊)が建設され、部屋のベランダから見える景観も素晴らしいと思います。
禅堂や茶室は禅セミナー専用ですが、レストラン、多目的ホールなどは一般の方たちに利用していただき、セミナールームも未使用時には一般開放して、自由に瞑想ができるような素敵な空間にしたいと考えています。
レストランでは、美味しくて見た目にも美しい精進料理をお出しする予定で、食材は専用の有機畑で収穫し、その栽培と収穫はセミナーのカリキュラムに入れたいと思っています。
自分が何を食べているのか実感してもらい、食事の内容もこれからの時代の食の提案につなげていきたいと思います。
沖縄の新しい観光名所になることを確信していますが、ここまでの話でもワクワクしてくれましたか?
まだまだこの先、いろんなアイデアが湧いてくると思います。
そのうち、設計図やら見取り図やらをアップしていきますね。
さて、今日は昼も夜も講演会。
以前は講演会で歌ってくれるように依頼されても、ご遠慮していたんですが、最近は自分からギターを持って行くようになりました。
今からシャワーに入ってリフレッシュして行ってきます。
これからも応援よろしくお願いします。
2008年02月14日
無分別

このブログは毎朝の僕の日課です。
禅の生活で言えば朝課(ちょうか)にあたります。
何事も続けることに意味があるとばかり、朝起きて短い坐禅を組んだあと、部屋を移動して、再びしばし瞑想します。
そこで伝えたいことが湧き出てくるのを待ち、ひらめいたら一気に書き上げます。
でもなかなか内容が見つからず、書きはじめるまでに数時間要する時もあります。
これは経済活動ではありません。
厳密に言えばいわゆる仕事ではないわけです。
それなにの何故毎日こんなことに多くの時間を費やすのか、割に合わないという考え方もあるかもしれません。
あるいは、そういう自由な時間が使えて恵まれていると思う人もいるかもしれません。
実際に人からそんな風に思われることもしばしばです。
でも僕の感覚はちょっと違います。
仕事という意味から言えば、僕自身は「仕事をする」という感覚で仕事をしたことはありません。
この数十年間はやりたいことをやってきただけで、そこから金銭が発生すればいわゆる「仕事」であり、発生しなければ「遊び」あるいは「趣味」と言われるだけで、僕としてはどちらも同じことです。
これは一生変わらないと思います。
この数ヶ月間は、ヒマさえあれば毎日のように友人のところへ遊びに行っています。
それは単に話をしていて面白いからです。
少ない時で3時間、多い時は共に昼食を食べ夕食を食べ、一日中ずっと話し込んでいます。
相手は1000人規模の企業の経営者ですが、それにもかかわらず毎日僕とそれだけの時間を作れるのですから、彼の生き方も僕と同じだと思います。
何が仕事で、何が趣味なのかの境目がないのです。
それでも会社は健全に機能していて、県でも有数の優良企業なのですから、ある意味天才なのかもしれません。
結果的に、毎日楽しく語らうことは、お互いにとっていわゆる「仕事」に結びついています。
彼は僕と話すことは経営学を学ぶ何よりの時間だと言ってくれますし、僕も彼と話すことで成功者の人生哲学を学ぶ貴重な時間になっています。
仕事も趣味も遊びも、「今を最高に生きる」という点で同じことです。
好きなことや、やりたいことに、その時その時心を込めて命を燃やしたとき、そこから生れ出るものがあって、それがいわゆる「仕事」に結びつくと言うのが僕の考えです。
多くの場合、「やれやれ今日は仕事だ」と言うのは、「やらされている」という被害者的な発想であり、そこからは真に創造的な結果は生まれないと思います。
自分のやることが何であれ、それは自分が選んでやっているのであり、やらせていただいているわけですから、その行為に成りきって心を込めてやるのが、最も大切な生き方だと思います。
これは大きな仕事、これはどうでもいい仕事、これは素晴らしい仕事、これは恥ずかしい仕事・・・そんなふうに区別判断することは、その言葉によって自分の人生を狭めていると思うのです。
すべての瞬間が等しく人生の本番なのです。
さて今日は向和尚がお帰りになります。
この2日間は思いきり話をさせてもらいました。
実は昨日の夜遅く、その友人と向和尚との3人で話をしていた時、「禅の公案」という不思議な世界の神髄が、ほんの少し理解することができました。
それは僕にとっては長年の疑問が解ける偉大な瞬間でした。
これさえも、禅寺で長期間修行するのと同じ結果が得られたわけで、やはり何をやっているかが重要ではなく、真剣に今を生きることが欲しい結果につながっているのだと思います。
生意気な言い方をしてしまいましたが、これからは、ますます創造性が仕事に結びついていく時代なので、自分のやりたいことに100%の気持ちを込めてやりぬくことは大切なことだと思います。
その命のほとばしりが「生きる」と言うことではないでしょうか。
これからも心をこめて書いていきます。
多くの人に届きますよう、応援よろしくお願いします。

16日(土)の夜は、母家で僕のソロライブがあります。
今回は沖縄との縁が復活した7周年記念。
客席との距離間をグッと縮めて、いつもとは少し違った雰囲気でお届けします。
僕の歌と話を聴きに来てください。
お気軽にどうぞ(^o^)
お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。
2008年02月13日
大変革

昨日の向さんとの講演中に感じました。
僕たちが大挙して彼方なる次元にジャンプすることは、歴史の必然なのではないかと。
そんなことを感じさせてくれるくらい、集まってくれた人たちの波動の高さを感じました。
昔は突出した一部の魂だけが目覚めることができました。
でもいま、我々のような普通の者たちが、次々と目覚めの時を迎えています。
このウェーブは、あっという間に広がって行き、目覚めた新しい人類による、新しい文化が始まっていくことでしょう。
その現象がアセンションなのだと思います。
いま時代が大きく変わろうとしています。
既存の権威は失墜し、確かだった価値が揺らぎ始め、混沌とした世界が目の前に広がっています。
何一つ寄りかかることはできません.
すべてが不確かなものになってきたからです。
その中にあって唯一確かな自分自身を見出すことが重要になってきました。
何かに依存したり、安易な救済に飛びつくのではなく、自らが地に足をつけ、リアルな現実との出会いの中で、しっかりと生きていくことを学ぶときです。
神だとか仏だとか言う前に、目の前のいまここのリアリティーを生きるのです。
Imagine there's no heaven
it's easy if you try
no hell below us
above up only sky
死んだ人のことは、死んだ人たちに任せて、過去や未来に惑わされずに、今日という日を生きるのです。
imagine all the people
living for today...
そう感じる人たちの数が圧倒的になっていく。
今の少数派が、逆転して多数派になっていく。
「その時」はすぐ目の前に近づいているのではないでしょうか。
Who am I?
その答えを知る時はもうすぐです。
多くの人の目に留まりますように。
ご協力よろしくお願いします。
2008年02月12日
一人芝居からの目覚め
今夜、僕と向禅師の話を聞きに来てください。
(詳しくはこちらから)
普段の生活の中では忘れてしまっている、大切な話を分かち合いましょう。

最初に必要なのは、内なる気づきです。
その気づきは、新しい人生の土台になります。
見性体験(悟り)は、ただのスタート地点に過ぎませんが、極めて大切なスタート地点です。
これは知識ではなく、経験して理解することです。
僕たちはみな、本来対等な存在です。
オギャーと生まれたばかりの赤ちゃんも、100歳を超えたお年寄りも、みな等しく天から祝福された、対等の価値を持った存在です。
偉い人も、貧しい人も、本当はみんな同じ存在です。
惑わされてはいけません。
この世にあなた以上の人も、あなた以下の人もいないのですから。
そんな感覚を持つためには、自己の中に揺るぎない尊厳を養うことが必要です。
周りと比べて自信をなくしたり、自分を嫌いになったりしたことが、誤解だったことを見抜くのです。
究極的には、この世にはあなたしか存在していません。
すべてはあなたが自分自身に催眠術をしかけ、真理を忘れたふりをして、人生というゲームを遊んでいるだけなのです。
もう十分遊んだでしょ?
しかもその遊びは、すっかり深刻になっていませんか?
人生観を根底から覆すような気づきが存在します。
その時初めて、真の満足、真の安心を得ることができます。
その後の新しい人生は、もっと気楽に、もっとスムーズに展開していくことでしょう。
それは天との共同作業だからです。
多くの人の目に留まりますように。
ご協力よろしくお願いします。
(詳しくはこちらから)
普段の生活の中では忘れてしまっている、大切な話を分かち合いましょう。

最初に必要なのは、内なる気づきです。
その気づきは、新しい人生の土台になります。
見性体験(悟り)は、ただのスタート地点に過ぎませんが、極めて大切なスタート地点です。
これは知識ではなく、経験して理解することです。
僕たちはみな、本来対等な存在です。
オギャーと生まれたばかりの赤ちゃんも、100歳を超えたお年寄りも、みな等しく天から祝福された、対等の価値を持った存在です。
偉い人も、貧しい人も、本当はみんな同じ存在です。
惑わされてはいけません。
この世にあなた以上の人も、あなた以下の人もいないのですから。
そんな感覚を持つためには、自己の中に揺るぎない尊厳を養うことが必要です。
周りと比べて自信をなくしたり、自分を嫌いになったりしたことが、誤解だったことを見抜くのです。
究極的には、この世にはあなたしか存在していません。
すべてはあなたが自分自身に催眠術をしかけ、真理を忘れたふりをして、人生というゲームを遊んでいるだけなのです。
もう十分遊んだでしょ?
しかもその遊びは、すっかり深刻になっていませんか?
人生観を根底から覆すような気づきが存在します。
その時初めて、真の満足、真の安心を得ることができます。
その後の新しい人生は、もっと気楽に、もっとスムーズに展開していくことでしょう。
それは天との共同作業だからです。
多くの人の目に留まりますように。
ご協力よろしくお願いします。
2008年02月11日
活動拠点の建設

今日はちょっと楽しい話をしましょう。
実は最近の僕は、一人で考え事をして、ニヤニヤ、ワクワクして暮らしているんです。
ずいぶん前から、時代の大きな変革を予感し、それは偉大な政治家や思想家によって達成されるのではなく、個々の意識変革によってもたらされると信じてきました。
24年前に最初にそのことを直感した翌日、それまでやっていた全ての活動(いわゆるTHE芸能界)から身を引き、流れのままに生きていく道を選びました。
子供のころから憧れていた芸能界の仕事は、持ち前の運の良さも手伝って、すべて実現することができていたので、あっさりと身を引くことができました。
やがて方広寺の向禅師と巡り合い、勉強会を開催することで、多くの人の意識改革に携わり、気がついてみたら縁が深かった沖縄の地に運ばれ6年が過ぎました。
沖縄では「いまここ塾」という形で、方広寺での活動を継承してきました。
さて最近の僕が何故そんなに楽しいのかというと、この沖縄に活動の拠点が建設されることになったからです。
建設されるのは、沖縄でも最高の景観と環境に恵まれた場所です。
最近、若者や観光客に人気のスポット、玉城の「浜辺の茶屋」と宮本亜門邸から100Mほど海岸線にそって移動した場所に建設されます。
建物の内容は、近代的な禅堂とハイテクを駆使したセミナールーム(広さは共に40畳)、さらには80畳のコンサートホール(多目的ホール)、レストラン、沖縄でも屈指となるであろう豪華な客室(ホテル)です。
客室も40畳ほどの広さがあり、誰からも邪魔されない屋外ジャグジーも設置されますが、2部屋しか作らないので希少価値です。
すべてエメラルドグリーンの海に面して、視界を遮ることのない絶景が広がっています。
外観の美しさは勿論ですが、中に入ればハイテク設備によって支えられた超快適空間が待っています。
屋上には海に突き出したパーソナルな瞑想場が複数設置され、そこに坐ると自分と海と大空だけの異空間を体感することができます。
まさに空中瞑想です。
そこを拠点として、個々の意識改革に貢献しながら、日本全国に、世界各地に情報を発信していきたいと考えています。
今は設計段階なので、毎日のように、ここはこうしたらいいんじゃないかって考えてニヤニヤしているわけです。
この壮大な計画は、たったひとりの人との出会いによって実現しました。
その人の紹介は、またいずれさせてもらいますが、人間というのは、出会うべき人には必ず出会い、しかもそのタイミングは、一瞬早からず遅からずです。
ドラえもんに頼んですぐにでも現象化してほしいのですが、残念ながら完成は来年になります。
実際待ち切れないのですが、時間スピードが速まっているので、あっという間にその日が来るような気がします。
このブログでも着工から完成まで、順次報告していきますので、きっとみなさんにも我が家のような親しみを持ってもらえるのではと思います。
さてそこでは僕のセミナーと、向禅師をお迎えしての接心(禅の修行のようなもの)を展開していきますが、受講する方が泊まるホテル(宿坊)や、手作り野菜を育てる畑なども隣接される予定で、これからの人間の生き方を立体的に学んでいける場になっていくと思います。
今日は僕のワクワク話を聞いてくれてありがとう。
その場所で、あなたとお会いできる日を楽しみにしています。
これからも応援よろしくお願いします。

さていよいよ明日、向さんが来沖して、僕と講演会を開きます。
明後日は実践的な坐禅指導と、禅の講義があります。
どうぞ気軽にいらしてください。
詳しくはこちらから
2008年02月10日
ビバ!ブログ社会
昨夜は息子の友達が大挙してお泊りに来ていて、隣の部屋がうるさくて朝5時に目が覚めてしまった。
早朝からパソコンを開いて、ネットの世界を見て回った。
ランキングサイトのおなすさんのブログから、アセンションに関するサイトに片っ端からアクセスして、あー面白かった。
とても勉強になりました。
ただひとつだけ・・・
ある人のマジシャンのセロ氏に関する記述で、彼は本物の超能力を扱えるという記事があったけれど、それは違います。
彼は超優秀な手品師であり、言うまでもなくすべてにタネと仕込みがあります。
昨日は妻が経営する「母家」の2周年パーティーで、セロの叔母さんもやってきていて、幼少のころから彼をよく知る人だけど、それはそれは努力家だったそうです。
江原さんもそうだけど、テレビがやることを全部真に受けてはいけない。
何が真実で、何がフィクションなのかを見極めることは、すごく大事だよね。
でも僕たちはテレビ世代だから、ついコロリと騙されてしまう。
番組の送り手はプロ中のプロだということを忘れずにいましょう。
さて話を戻すけれど、いろんな人のブログを見て思ったのは、みなさん本当によく勉強していて、へたな本を読むよりもずっと面白かった。
有名無名にかかわらず、この世には凄い人たちがたくさんいるんだなって嬉しくなりました。
でもまだまだテレビに比べれば影響力はわずかで、もっとネットの世界が整備されて、茶の間でテレビを見るのと同じ感覚で、ネットを楽しめる時代がくればいいのにと思うわけです。
そうすれば偏った報道しかできない新聞やテレビから人が離れていって、健全な世の中に近付くと思うんだけど・・・
それにしても最近の新聞はひどいね。
特に○○の新聞は来るところまで来ていて、もはや末期的な状態だと思う。
(ちょっと過激ではというご指摘をいただいたので伏字にします。あまり意味のない伏字ですが・・・)
県民を貶めている元凶だ。
ありゃ、また少し言いすぎた。
またいつかライブ告知もしてもらわなきゃいけないし、あんまり新聞の悪口言うのは得策じゃない。
生きるのって難しい

とにかく、頑張れネット社会!!
既存の報道権力に負けるな!
超マイナーなこのブログが少しでも日の目を見ますように、
みなさんの応援ご支援よろしくお願いします。


