2007年09月30日
生まれつきの気性
昨日、赤い本を紹介したことで、いいことがあった。
実はこの本、自分の分は一冊も残っていなくて、できたら一冊欲しいいと思っていた。
そしたらコメントがあって、沖縄市の本屋さんに最後の一冊が残っているとのこと。
すぐにメールして、買っておいてもらうことにしました
今日もその中から抜粋してみます。
この話も僕自身とても好きなものです。
それは僕たちの性格について。
僕は社交性がなく、むしろ一人でいるのが好きです。どうやったら積極的な性格になれますか。
あ、そういう性格の人いるよね。
消極的かもしれないけど、でもそういう人って慎重だったり、思慮深かったりする人が多いですよね。
人はそれぞれに生まれ持った気性、気質というものがあって、才能や力が発揮できる場所も違うわけです。
みんなが積極的にならなきゃいけないわけじゃない。
みんなが明るくならなきゃいけないわけじゃない。
そういうことではないところに自分の個性や力があるんですよ、あなたにも。
そこら辺をしっかり見極める事ですね。
まず自分はこうなんだって受けとめる事が必要だと思いますね。
気質を変えようとすると難しいですから。
変わらないですから。
あの人みたいになりたいと思ってもなれないですから。
だからそこら辺は見極める、僕流に言えばあきらめる事が必要なんじゃないですかね。
「聖なるあきらめ」ですね。
僕自身はそのような考え方になって凄く楽になりましたね。
あ!俺は俺だ!「いいとこ半分、悪いとこ半分」全部俺だって。
大人になった今もあるんですよ、僕の弱点や欠点は自分の中に。
何も変わらずにあります。
でもその事が自分や周囲に影響することが少なくなりましたね。
大人になると、自分のいい面、悪い面、両方をしっかり受け入れた上で、社会の中でそれをどう使いこなしていくか、そういう知恵はつきますよね。
完璧には出来ないけど、昔よりはだいぶましです。
でもだからといって、自分の人格改造したわけじゃないです。
そこら辺をしっかり見極めないと、自分の性格を変えなきゃいけないとか、出来ない事に取り組んじゃうと混乱しますからね。
性格を変えるんじゃなくて、外側の行動、やり方を変えればいいんですよ。
あなたの場合だったら、消極的な性格を持ったまま、積極的な行動をしてみるということだと思います。
考える前にやっちゃえばいいんです。
あなたのような人は、考えすぎて行動が出来なくなってしまう傾向があると思います。
思慮深さは美徳でも、それが行き過ぎると弱点になってしまう。
実は人の弱点って、その人の強みが出すぎたものだったりするんですね。
僕の場合はあなたとは反対に、積極的なところが長所だけど、それが行き過ぎると軽率な行動に繋がっちゃうんですよ。
お互い様だよね。
みんな、いいとこ半分、悪いとこ半分。
・・・・・・・・・・
さ、今日もそんなありのままの自分とうまく付き合っていきましょう。
よい日曜日をお過ごしください。
Posted by Toshiro Abe at
09:41
│Comments(3)
2007年09月29日
だいじょうぶだから Vo.1
この3年間に本を三冊出した。
一冊目は赤い表紙の「だいじょうぶだから」
この本は、沖縄県内の多くの書店で売り上げが1位になった。
でもすでに絶版。
今でも欲しいといってくれる人が後を絶たず、申し訳なく思っているのだけど、そうだ、少しずつブログで紹介していこうと思いたった。
一度読んだ人も、こうしてブログで読むと、また違った味わいがあるのでは。
ちなみにこの本は、ラジオ番組に寄せられたリスナーからの悩み相談を編集したもの。
それじゃ、今日はそのオープニングを飾った話を紹介しよう。
勤めている会社の社長が公私混同していて、事務の私に家庭の分別ごみを処理させるんです。
それが嫌でしょうがなくて・・・私はなんて会社に入っちゃったんだろうって・・・
ふーん、あなたの社長はそういう人なんだ。
自分の家の分別ごみを社員に捨てさせるんだね。
そしてあなたはそれが嫌なわけだ。
きっとあなたは、社長は公私混同するべきじゃないって考えているんだね。
当然それがあるべき姿だと。
それなのに、平気でそれをする社長が嫌でたまらない。
そのことがあなたを不幸にする・・・
だったらこういうのはどう?
うちの社長は平気で公私混同して、自分の家のゴミを社員に捨てさせる人です。
以上!
そういう人の会社に、自分が入ったんだなって思えばそれで終わり。
この会社にいることを、選んでいるのは自分だって。
あなたを苦しめているのは、社長が家庭の分別ゴミを、社員であるあなたに頼むからではなく、
あなたが「社長とはこうあるべきだ!公私混同するべきでない!」と考えて、
現実がそうではないから苦しむんだよ。
おそらく社長を変えようとすることよりも、あなたの考え方を変えて、
「今日も社長宅の分別ゴミを捨てるぞ!!イイェーイ!」って思えたら、
それであなたは幸せになれる。
僕らの不幸を作り出すのは、現実そのものじゃなくて、
その現実に対する解釈、
こうあるべきだ!という考え方と、現実が違うときに起きるんだよ。
その姿勢は、実はありのままの現実を見ていないし、受け止めていない状態。
こうあるべきだという期待や、そうならない不満を投影して、悪あがきをしている。
そうやって人は「被害者」になっていく。
自分にはその状態を変えられないという、無力感がさらなる苦悩を呼んで、
それが相手を責める口実になっていく。
そうやって「被害者」は、自分を苦しめる「加害者」を、心の中で責めたり罰したりするんだ。
でも、いくら責めても、自分の心は晴れないし、幸せになれない。
ありのままを見てごらん。
その透明な質を見ることが出来れば、苦悩は減っていく。
あのね、起きている現実は、いつも中立なんだよ。
そこに本来、いいも悪いもない。
あなたの社長が、自分の分別ゴミを社員に捨ててもらっているっていう現実がある。
その現実を、どのように判断して、どんな感情を感じるかは、百%あなたが選んでるんだよ。
もっとユーモアをもって、現実を見てごらんよ。
社長への見方も変わってくるはずだよ。
この世で起きていることは、冗談みたいな事ばかりだから。
〈それからしばらくして、このメールをくれた女性が直接僕に会いに来てくれました。この時は、本当に悩んでいたのだそうです。そこで、言われたとおりに気持ちを切り替えて、楽しそうに社長宅の分別ゴミを処分するようにしたら、不思議なことに、その直後から社長は頼んでこなくなったそうです。
もしかしたら、社長のほうが気まずい思いになったのかもしれませんね〉
一冊目は赤い表紙の「だいじょうぶだから」
この本は、沖縄県内の多くの書店で売り上げが1位になった。
でもすでに絶版。
今でも欲しいといってくれる人が後を絶たず、申し訳なく思っているのだけど、そうだ、少しずつブログで紹介していこうと思いたった。
一度読んだ人も、こうしてブログで読むと、また違った味わいがあるのでは。
ちなみにこの本は、ラジオ番組に寄せられたリスナーからの悩み相談を編集したもの。
それじゃ、今日はそのオープニングを飾った話を紹介しよう。
勤めている会社の社長が公私混同していて、事務の私に家庭の分別ごみを処理させるんです。
それが嫌でしょうがなくて・・・私はなんて会社に入っちゃったんだろうって・・・
ふーん、あなたの社長はそういう人なんだ。
自分の家の分別ごみを社員に捨てさせるんだね。
そしてあなたはそれが嫌なわけだ。
きっとあなたは、社長は公私混同するべきじゃないって考えているんだね。
当然それがあるべき姿だと。
それなのに、平気でそれをする社長が嫌でたまらない。
そのことがあなたを不幸にする・・・
だったらこういうのはどう?
うちの社長は平気で公私混同して、自分の家のゴミを社員に捨てさせる人です。
以上!
そういう人の会社に、自分が入ったんだなって思えばそれで終わり。
この会社にいることを、選んでいるのは自分だって。
あなたを苦しめているのは、社長が家庭の分別ゴミを、社員であるあなたに頼むからではなく、
あなたが「社長とはこうあるべきだ!公私混同するべきでない!」と考えて、
現実がそうではないから苦しむんだよ。
おそらく社長を変えようとすることよりも、あなたの考え方を変えて、
「今日も社長宅の分別ゴミを捨てるぞ!!イイェーイ!」って思えたら、
それであなたは幸せになれる。
僕らの不幸を作り出すのは、現実そのものじゃなくて、
その現実に対する解釈、
こうあるべきだ!という考え方と、現実が違うときに起きるんだよ。
その姿勢は、実はありのままの現実を見ていないし、受け止めていない状態。
こうあるべきだという期待や、そうならない不満を投影して、悪あがきをしている。
そうやって人は「被害者」になっていく。
自分にはその状態を変えられないという、無力感がさらなる苦悩を呼んで、
それが相手を責める口実になっていく。
そうやって「被害者」は、自分を苦しめる「加害者」を、心の中で責めたり罰したりするんだ。
でも、いくら責めても、自分の心は晴れないし、幸せになれない。
ありのままを見てごらん。
その透明な質を見ることが出来れば、苦悩は減っていく。
あのね、起きている現実は、いつも中立なんだよ。
そこに本来、いいも悪いもない。
あなたの社長が、自分の分別ゴミを社員に捨ててもらっているっていう現実がある。
その現実を、どのように判断して、どんな感情を感じるかは、百%あなたが選んでるんだよ。
もっとユーモアをもって、現実を見てごらんよ。
社長への見方も変わってくるはずだよ。
この世で起きていることは、冗談みたいな事ばかりだから。
〈それからしばらくして、このメールをくれた女性が直接僕に会いに来てくれました。この時は、本当に悩んでいたのだそうです。そこで、言われたとおりに気持ちを切り替えて、楽しそうに社長宅の分別ゴミを処分するようにしたら、不思議なことに、その直後から社長は頼んでこなくなったそうです。
もしかしたら、社長のほうが気まずい思いになったのかもしれませんね〉
Posted by Toshiro Abe at
08:03
│Comments(8)
2007年09月28日
めし
成瀬巳喜男監督の「めし」という映画。
これは昭和26年の作品なんだけど、ものすごく面白かった。
サラリーマンと結婚した女性が、朝から晩まで家事労働に従事する姿を描いた映画で、今と違って、それが女性の唯一の生きる道で、その限られた環境の中でいかに幸せを創りだしていくかだけが選択肢だった頃の話。
能力のある女性が、そんな生活に疑問を持ちながらも懸命に生きていく。
一方男性は、会社社会の中で頑張って生きるのだが、そんな妻の不満に気がつくこともなく、いつしか二人の間には溝が・・・
どちらがいいとか悪いとかの話ではない。
現代にも通じる家庭生活の裏側を浮き彫りにした映画だった。
この頃から男と女は何も変わっていないと思った。
夫婦が対立する時には、お互いに自分は正しいという思いがある。
もし相手の視点に立って物事を考えることができればいいのだろうが、どうしても自分のワクの中から見てしまう。
そして誰もが、間違っているのは相手だと考える。
この映画の中では、男が求めるのは自分が帰るべき家庭。
女が求めるのは、相手からの気づかいと優しさだった。
でまあ僕としては、ごちゃごちゃいろんな事を言う気はなくて、こんな結論を持った。
夫は妻をいたわり、優しくすることを優先順位の一番にすればいいんじゃないか。
きっとそれ以外のことはどうでもいいことなんだと思う。
ちなみに主演の原節子さんは知的で美しい女性だった。
ちょっと智子さんに似ていた。
相手役の上原謙さん演じる男性像には、どこか僕の中に思い当たるものがあった。
僕らが生まれる前から、何も変わらず男と女の歴史は続いてきているわけで、この不可解な関係は、これからもいろんなドラマを作り出していくのだろうと考えている今日この頃ですが、みなさんおかわりありませんか。
Posted by Toshiro Abe at
09:52
│Comments(7)
2007年09月27日
m(_ _)m
いつも早起きして、何か人生の役に立ちそうなことを書こうって決めているんだけど・・・
昨日、自転車でつまずいて、足の指を怪我してしまった。
イテテ・・・内出血して腫れ上がっている。
そんなわけで今日はあまり書けないよ。
それでも何か搾り出すとしたら
「自転車に乗るときは気をつけましょう」
そのまんまでスマンm(_ _)m
イテテ・・・
また明日ね。
Posted by Toshiro Abe at
09:21
│Comments(19)
2007年09月26日
ひどい考え大賞
昨日のコメントを読んで、あーこれ書いてよかったなって思った。
会社に行きたくなかった人が、行く気になってくれたし。
みんなは幸せにうまくやっているのに、自分だけがこんな気持ちを抱えて、こんな考え方をしてしまう・・・
僕もそんなふうに感じた事が多かったから、同じように感じている人に、僕もそうだよって言ってあげたかった。
僕らはいつも、ひっきりなしに何かを考えているけれど、そんな考えの中には人には絶対に知られたくないものもあるでしょ?
他の人はそんなこと考えていないように見えるから、それが自分を心から尊敬できない原因になったりする。
でもね、思考って自分が作り出したものじゃないんだよ。
思考って物質みたいなもので、地上には無数の思考の群れがいたるところに溢れかえっていると思ったらいい。
その思考が、人から人へ出たり入ったりしているんだ。
ちょうど呼吸みたいにね。
いま、あなたが吸った空気は、以前僕が吸ったものかもしれなくて、同じように今あなたが考えていることは、以前僕の頭の中にあったことかもしれない。
その思考の群れに覆われた地上を、思考圏と名づけてみた。
空気のそれを大気圏というようにね。
宇宙飛行士が大気圏を突破して宇宙空間に出ると、同時に思考圏も突破しているんじゃないかと思う
だから多くの宇宙飛行士が、宇宙空間で地上とは違う感覚を味わって、無思考状態・・・すなわち悟りの一瞥を得るんじゃないか
そんな報告はたくさんある。
嫌な考えや、軽蔑したくなるような考えが湧いてきたら、それが自分の中から出てきたと思わずに、「あっ、またこのレベルの思考を引きつけた。いったいこれは今まで誰の中にあったんだろう」って思えば、自分を嫌わずにすむよ。
僕なんか、ひどい考えが湧いてくると、人間の想像力の豊かさを感心したりしている。
今度みんなで、どれくらいひどいことを考えた事があるか、発表会してみようか。
一番ひどい考えの人には、何か賞品を贈呈するとか・・・
そうすれば、「なんだ、自分だけじゃないんだ」って、みんなで楽になれるよね。
今日も気楽にいこう。
Posted by Toshiro Abe at
07:46
│Comments(16)
2007年09月25日
2007年09月25日
Honesty
頭の中には伝えたい事がたくさんあるのに、あれもこれもゴチャゴチャして何から書いていいかわからない。
とりあえず思いつくまま書いてみます。
僕らはみんなでもっと正直になっていいと思う。
正直になることによって救われる事がたくさんあるように思う。
正直になると言っても、自分の秘密を全部話せと言っているわけじゃない。
誰だって生きていれば人に言えないことや、あえて言う必要のないことの一つや二つは抱えていることだろう。
そんなことではなく、自分が感じていることや、考えていることを、できるだけ正直に話してもいいんじゃないかと思うわけだ。
もちろんそのことによって、特定の誰かを故意に傷つけてはいけないけどね。
・・・正直って難しいね・・・
街を歩いていると、みんなは問題なく生きているように見えたり、自分以外の人たちは仲良くやっているように見えたりするときはない?
仲間が集まって楽しくやっているのに、自分だけがそこにいないような気がしてしまうことはない?
気に入られようとして笑顔を振りまいたり、必要以上に相手に気を使ったり、そんな自分が嫌だったりするとはない?
たとえばそんなことを正直に話せたとしたら、なーんだ自分だけじゃなかったのかって思えて楽になることもあると思う。
それにそんな自分は、別に悪意でそれをやっているわけじゃないんだし、ただ愛されたい、認められたいっていう気持ちで一生懸命生きているわけだしね。
きっと正直になるっていうのは、「愛されたい」っていう気持ちをダイレクトに伝えちゃうことかな。
そうすれば、それを得るために間接的にやっている多くのことから自由になれる。
僕らはそれぞれに性格や能力が違うけれど、心の奥底で抱えている問題は似ているような気がするんだ。
でも誰もそのことを言ってくれないから、自分だけがそういう問題を抱えているような気がしてしまう。
本当は、みんな似たようなものじゃないかと思うわけです。
みんながみんなを愛せるだけの余裕ができれば、もっと安心して自分でいられるのにね。
なんだかとりとめのない文章になっちゃったけど、僕の頭の中にある一端を書いてみました。
PS
今朝は書きたい事が2つありました。
どちらをここに書こうか迷ったけれど、もうひとつのメッセージは<随(かんながら)神>に書きました。
時間があったら覗いてください。
PSのPS
10月21日午後3時は東京の秋葉原。
10月27日午後8時は沖縄の母家。
え?何があるかって?
僕のライブ(バースデイライブ)があります。
話したい事がたくさんあるし、唄いたい歌もたくさんある。
会いに来てね。
愛したいし、愛されたいから
楽しい時間を過ごしましょう。
お問い合わせは098-866-5880(母家)まで
2007年09月24日
愛に基づく世界統一政府
今朝目が覚めた時、すごく違和感を持った。
僕と同じような人がいるかもしれないから、書いてみるね。
実はこの違和感は、なにかの拍子にふっと感じ続けてきたんだ。
どんな違和感かと言うと、何故こんな世界に生まれてしまったのかということ。
元はまったく違う世界に住んでいたような気がする。
今日はそんなひとり言を言わせてください。
この感覚は子供の頃からあった。
愛と調和の星で生きていたのに、そこで何かの罪を犯して、罰としてこの過酷な星に星流し(島流し)にあったんじゃないかってね。
そのうち修業でこの星にやってきたと考えるようになり、その後は、少しでもこの世界をよくするための任務を負ってやってきたと考えるようになった。
そうとでも考えない限り、この違和感が埋まらないんだ。
でもよくよく考えてみれば、こんな世界を作っている責任の一端は僕にもあるわけで、自分のことを差し置いて、よく言えたもんだという気もする。
テレビの音で目覚めた時は、その違和感が著しい。
誰が誰を殺したとか、どのような手口で殺したとか、信じられないような情報が事細かく次から次へと流されていく。
そのような内容を庶民が好んで見るからテレビも流すわけで、この世界はよほど怖い話や不幸な話が好きだということだろう。
毎日飢えで多くの人が死んでいるのに、豊かな国では食べ物の40%を投棄し、人は人を信用せず、自然を破壊し、動物を虐待してその死骸を食している。
そんな人たちがジョンレノンの「イマジン」を歌い、平和運動に参加し、地球環境を訴える。
自分達の宗教だけが正しいと信じ、信者の獲得に余念がない善良な人たち。
そうなんだ、僕が絶望的になるのは、こんな世の中を作り出している多くの人たちが善良な人たちだということだ。
少なくとも、自分では自分をそのように思っている人が大多数だということだ。
もし皆が、自分の考え方や行為を深く見つめなおし、なんとか自分を改善しなくてはと真剣に考えて生きていれば希望もあるけれど、残念ながらそうじゃない。
じゃ、どうしたらいいんだろう。
もしかしたら道はひとつしかないのかもしれない。
大病を患ったときに、初めて自分の健康に真剣に取り組むのと同じで、この世界のシステムが根底から破壊されるような何かを待つしかないのかもしれない
それは環境破壊による天変地異なのか、株価が大暴落して世界経済が破綻するのか、とにかく人類全体がどうしようもない状態に追い込まれて初めて、みんなで何とかしなければという思いが湧いて、世界統一政府が樹立されるのかもしれない。
そのときに、この世の基本理念は「愛」しかないと気づいて、やっと幸せのありかを見つけて、そこから本当の文化が始まっていくのかもしれない。
そうだ、そうに違いない。
だからこんなに環境破壊が進んだんだ。
なんてことを3秒くらいで考えて、そして目を覚ました今朝の僕でした。
2007年09月23日
罪悪感という名の幻想
おはよう。
今日はちょっとマジな話をするね。
硬い文章になってしまうかもしれないけれど、正直に自分を見れば誰ものなかにある質だと思うので、じっくり読んでみてね。
こんな日曜日、たまには自分自身を見つめてみるのもいいかも。
よっしゃと思ってくれた人は続きを読んでください。
僕は今までに、セミナートレーナーという役割を通して、数千人の人たちと直に接してきた。
社会生活に埋没し、人生が形式化してしまった人たちに、その人の心の奥にある本来のピュアな感覚を思い出してもらうことがセミナーの目的だった。
参加者によって社会的な立場や老若男女の違いはあるものの、そこに共通していたのは、誰もが心の底に「罪悪感」を抱えていたことだ。
罪悪感というのは、自分がしでかしたことで人を傷つけたとか、人の期待に応えられなかったとか、そのような表面的なものだけでなく、さらにその奥に眠る普遍的な自己否定の感覚だ。
僕たち人間は、意識的にせよ無意識的にせよ、心の底で自分の存在そのものを否定している部分があるということを発見した。
欲望や欲求、そして様々な目的に駆り立てる動機は、実にこの自己否定から発している場合がほとんどだ。
ほとんどという言い方をしたのは例外もあるからだよ。
それは「愛」からの衝動。
でもそれは本当に稀な例で、僕たちの大部分は(もちろん僕も含めて)、自己否定の感覚から生きている。
したがって「愛の反対語は何ですか?」と問われれば、「罪悪感です」と答える。
ほんのわずかな罪悪感で、自分を否定し、自分ではない人になろうとしてしまう。
そして、あらゆる心の苦しみ、痛み、疲労感は、自分じゃない人間になろうとするところから生まれているんだよ。
罪悪感を手放そう。
だってそれは幻想だから。
すぐに手放せなくても、これだけは覚えていて欲しい。
たとえいま、あなたが自分をどのように感じていようが、そのありのままのあなたでOKだということ。
わかるまで自分に言い聞かせてあげよう。
それができたら、人生が一変する。
初めて自分自身を生きる事ができる。
初めて愛が何なのか知る事ができる。
愛とはあなたの本質のこと。
それ以外は全部幻想だ。
この世には愛しか存在していない。
しかしそのリアリティーを生きている人は、ごくごくわずかだ。
これからも一緒に「愛」を学んでいきましょう。
それは自分自身を学んでいくということです。
やっぱりちょっと硬い表現になってしまったけれど、最後まで読んでくれてありがとう。
もう一度言うよ。
あなたはOK!
Posted by Toshiro Abe at
10:03
│Comments(13)
2007年09月22日
勝縁
「勝縁」(しょうえん)という言葉がある。
もともとは仏教語で、仏や悟りとの縁を言うんだけど、それが一般的には良い縁として使われるようになったらしい。
縁というのは、事が起こるきっかけのことであり、その働きのこと。
勝という言葉は、勝ち負けの「勝」ではなく、すぐれたという意味で、したがって勝縁とは、すぐれた縁ということになる。
それじゃ、何がすぐれた縁かというと、事を起こした時、その関係者全員がプラスの経験をする縁ということ。
そこにはマイナスの経験をする人や、被害者が一人もいない。
この言葉、浜松にいたころに向和尚から教えてもらったんだけど、その時「僕と阿部ちゃんは勝縁だね」と言ってくれた。
お互いに独自の経験や能力を与え合い、そのことで多くの人たちの役に立てたとしたら、それはまさしく勝縁ということになる。
そういえば、kiroroという女の子2人組の歌手がいたよね。
すごくいい歌をたくさん発表したけど、作詞作曲をした千春さんは楽器も演奏できないし、楽譜も書けないんだって。
高校の頃、何気なく出てきた新曲をアカペラでテープに吹き込んで、それに友人の綾乃さんが和音をつけ、ピアノで演奏したらしい。
メロディーは和音によってニュアンスがまるで変わってしまうから、その時二人の感性は一致していたのだろう。
そんな出会いがCDのヒットにつながり、多くの人の心に潤いを与えた。
以前、kiroroの二人に会った時、「君達のような出会いを勝縁というんだよ」と話したら、とても喜んでくれた。
人生は縁によって生じているから、これから出会う全ての人と勝縁の関係を結べるように、そんな気持ちで出会っていきたいね。
ぼくとあなたも勝縁。
この出会いをきっかけに、お互いの人生をプラスに発展させていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとう。
感謝
2007年09月21日
権威
久しぶりに向和尚と2日間過ごした。
2人で話をしているときは、小気味がいいほど話が合う。
真理の奥の奥の言葉にならない世界が、「理解」という形をとって2人の間を駆け巡る。
真理は活字にはできない。
経典や本の中の真理は、止まっているがゆえに死んでいる。
そこに感受性という命を吹き込みながら読むことで、真理の追体験をすることは可能だが、本の言葉をそのまま振りかざしても、それは単なる概念だ。
真理とは常に、「いまここ」の感応なのだから。
向和尚は誰と話すより僕と話す時が、一番真理が引き出されると言ってくれた。
僕も同じだ。
向さんは「禅宗」という世界のエリートで、すでに高い地位にいるが、この先ますます要職に就いていくだろう。
一方僕は一介の素人に過ぎない。
いわば、みなさんの代表だ。
でも真理においてはまったく対等だと思っているし、向さんもそれを認めてくれている。
この社会は権威が好きなので、大僧正とか老師とか枢機卿とか教祖とか、なんたらかんたらの人たちのほうが、自分たちよりも真理を体得し悟っていると思っている。
そして、そんな人たちの話をありがたがって聞いている。
その誤った態度が、自分たちを真理から遠ざけているのだ。
真理は宗教の専売特許じゃない。
僕たちの中にある普遍的な本質だ。
伝統宗教も、新興宗教も、内部に階級を設けて、権威を持たせることで堕落してきた。
それは単なる搾取の構造に過ぎない。
あらゆる権威を排除して、己の中に最高の権威を見つけ出すことが大切だ。
それこそが、ピュアな仏道であり、本来の全ての宗教が目指す形だと思う。
そんな話を向さんとした。
彼は「そのとうり」と言ってくれた。
思し召すまま、流れのままに生きてきたら、沖縄の地に招かれていた。
そしていま、新たな使命が始まろうとする、そんな予感を持っている。
今までの人生の全ては、そのためにあったと思えるような何かが・・・
今日も読んでくれてありがとう。
僕たちは100%対等な存在です。
だって、「ひとつ」のものなのだから。
2007年09月20日
日常の奇跡
毎日の生活に追われていると、僕たちが聖なる慈悲によって生かされているという、もっとも基本的な事実を忘れてしまいます。
その力を感応し、己の小ささを知り、さらには己の尊さを知るプロセスが、祈りだと思います。
あの広場で事が始まる前から、僕たちがここに招かれ、祝福されていることを直感していました。
上弦の月が見事なまでの存在感を示し、煌く星たち、吹き渡る風、そこに集った百数十名の仏達。
全てが完璧の時空間を分かち合えたことを感謝します。
イベントが終わり片付けが終わった瞬間に、今宵の祝福を再認識させるような暴風雨がくるくまの丘を包みこみました。
そんな出来事を、こうしてすぐに報告できることを嬉しく思います。
あたりまえに見えるこの日常が、どれほどの奇跡に支えられているのか、そのことを少しでも思い出しながら、今日一日を過ごしたいと思います。
今朝は4時に起きて、向和尚と仲本さんと共に再びくるくまの丘に出かけ、知念岬から、昇る朝日を写真に収めてきました。
久高島のカベール岬に昇る太陽に、今日のあなたの幸せと安全を祈ってきました。
今朝の朝日をプレゼントします。
僕たちは、まぎれもなく大いなる命によって生かされています。
感謝
今夜8時から吉の浦会館で「いまここ塾スペシャル」、向和尚と僕とのトークショーが開催されます。
何気ない毎日の中に、大きな気づきをもたらすような会にしたいと思います。
当日券もありますので、どうぞいらして下さい。
その力を感応し、己の小ささを知り、さらには己の尊さを知るプロセスが、祈りだと思います。
あの広場で事が始まる前から、僕たちがここに招かれ、祝福されていることを直感していました。
上弦の月が見事なまでの存在感を示し、煌く星たち、吹き渡る風、そこに集った百数十名の仏達。
全てが完璧の時空間を分かち合えたことを感謝します。
イベントが終わり片付けが終わった瞬間に、今宵の祝福を再認識させるような暴風雨がくるくまの丘を包みこみました。
そんな出来事を、こうしてすぐに報告できることを嬉しく思います。
あたりまえに見えるこの日常が、どれほどの奇跡に支えられているのか、そのことを少しでも思い出しながら、今日一日を過ごしたいと思います。
今朝は4時に起きて、向和尚と仲本さんと共に再びくるくまの丘に出かけ、知念岬から、昇る朝日を写真に収めてきました。
久高島のカベール岬に昇る太陽に、今日のあなたの幸せと安全を祈ってきました。
今朝の朝日をプレゼントします。
僕たちは、まぎれもなく大いなる命によって生かされています。
感謝
今夜8時から吉の浦会館で「いまここ塾スペシャル」、向和尚と僕とのトークショーが開催されます。
何気ない毎日の中に、大きな気づきをもたらすような会にしたいと思います。
当日券もありますので、どうぞいらして下さい。
Posted by Toshiro Abe at
08:03
│Comments(12)
2007年09月19日
普通の人
若い頃に比べたら、今は圧倒的に快適だ。
しかもやることの多くが的を射ているのか、最小限のエネルギーで最大限の成果を生んでいる。
エネルギーのロスが少なくなってきた。
今日はなぜそうなれたかという話をしよう。
若い頃の僕は、自分の証明にやっきになっていた。
特別な自分がいかに特別であるかを皆に知らせるために、頑張っていたわけだ。
そんな特別な自分は、誰よりも愛されて、誰よりも認められて、誰よりも知的でなければならなかった。
それは大きな荷物だった。
自分以外の何かになろうとすることくらい、馬鹿げた無駄な努力はない。
そんな絶え間ない習慣が消え始めた。
自分がごくあたりまえの普通の人間だということに気がつき、そこにくつろいだからだ。
普通というのは「凡庸」ということではないよ。
個性がなく、ありきたりでつまらないものということではない。
僕たちの普通さは、個性にあふれ、この世に2つとしてない独自性を持っている。
そして全ての人が独自であるがゆえに、その独自さは普通なんだ。
ははは、また変てこな表現になってしまった。
結局はいついかなる時もありのままの自分でいいということだ。
自分ではない人を演じると、本当の感情を押し殺してしまう。
それがストレスと呼ばれるものだ。
いい人でいなきゃ
正しい人でいなきゃ
優しい人でいなきゃ
明るい人でいなきゃ
あー疲れる
そんな瞬間があったら自分に言ってあげよう。
「普通でいいんだよ」
そうやってありのままの自分に戻った時、それまでのよく見せたいという努力が解き放たれて、自分を縛り付けてきたエネルギーが解放される。
解放されたエネルギーは、創造的な、無駄のない正確な行為を生み出していく。
それはとても楽な道だ。
幸せに成功していく道だ。
シンプルであること。
自然であること。
僕は自分が普通であることを知って初めて、他者に対する思いやりを持つ事ができたと思う。
歳をとるって、まんざら捨てたもんじゃないよ。
今日も一日、楽に生きてね。
今日は向和尚が来沖します。
くるくまの森での瞑想会は、いつもライブを行う広場が会場ですが、もし雨天であれば屋内になる予定です。
いずれにせよ、禅マスターの持つ大きなパワーを受けながらの、素晴らしい時間になると思います。
何故いつの世も禅マスターが大きなパワーを持っていたのか。
それは彼らが、自分はとことん普通の存在であることを知り、そこにくつろいでいたからだと思います。
Posted by Toshiro Abe at
07:48
│Comments(13)
2007年09月17日
彼女のこと
彼女と恋に落ちたのは平成元年。
喜納昌吉さんとインドに同行したのがきっかけだ。
そのインドで撮った写真がこれ
プーナの中華レストランの中庭だった。
その後彼女はとても大きな障害を乗り越えて、僕の子供を産み、僕と結婚してくれた。
彼女も僕も「結婚」という社会的な関係はあまり望まなかったのだが、生活面で様々な不都合が生じて、僕の方から頼んで結婚してもらったというのが真実だ。
彼女と出会った頃の僕は、生活感がなく、人が僕を称して「はぐれ雲」といったように、社会の基準からは大きく外れた生活をしていた。
そんな男の何に惹かれたのか。
まことに「恋は愚か」としか言いようがない。
お嬢さん育ちの彼女が、僕と生活するのは大変だったと思う。
そんな彼女に「僕のどこが好きなのか」と聞くと
「面白いところ」
という答えが返ってくる。
いつも答えは同じで、いつも答えはそれだけだ。
面白さだけに人生を懸けてしまったのだから、採算は取れていないと思う。
まあ、反対側から見れば、そのおかげで想像を超えた波乱万丈な人生を歩めたのだから、それはそれでよかったのかもしれない・・・と思いたい。
おそらく根が冒険家なのだろう。
大学時代に歌のオーディションに合格し、渡米して全米デビューを果したのだから、その当時から今の彼女の気質は発揮されていたことになる。
僕が沖縄に移住したいと言った時も、間髪いれずに「いいわね」と答えたのも頷ける。
その彼女が一昨年、いきなり突飛なことを言い出した。
「お店をやりたい」
「え?」
「女性が集まれるような、お店をやってみたいのよ」
「え?君が??」
今まで一度も働いたことのない彼女が、お店を経営するという。
大変だからやめるように何度も説得したが、一度決めたことは頑として動かない。
結局「母家」を始めたのだが、始めてみてその大変さがよくわかったようだ。
まったくの素人の彼女が、ただ気持ちだけでやってきた母家。
この一年半で、ずいぶん体力を消耗したように見えるが、気持ちは今でも前向きで、お店に行くと、あの彼女がお客さんに料理や飲み物を運んで「ありがとうございました」と声をかけている。
昔の彼女を知る人ならば、想像もできないような光景だろう。
これから人生はどのように流れていくのか。
先が分からないから面白い。
僕も君のおかげで面白い人生を歩ませてもらった。
それに君のおかげで、今は社会の中でそれなりに生きている。
僕が君を好きなところは
「美しいところ」
「正直なところ」
「愛情深いところ」
「料理が美味いところ」
「よく笑うところ」
「まじめなところ」
「色っぽいところ」
ほらね、たくさん出てくるでしょ。
こんど君も僕のいいところを探してごらんよ。
出てくるまで探せば、なにか出てくるから。
今日は智子さんの誕生日だ。
「誕生日オメデトウ!」
人生の本番はこれからだよ。
今までの経験の全てを花開かせてください。
喜納昌吉さんとインドに同行したのがきっかけだ。
そのインドで撮った写真がこれ
プーナの中華レストランの中庭だった。
その後彼女はとても大きな障害を乗り越えて、僕の子供を産み、僕と結婚してくれた。
彼女も僕も「結婚」という社会的な関係はあまり望まなかったのだが、生活面で様々な不都合が生じて、僕の方から頼んで結婚してもらったというのが真実だ。
彼女と出会った頃の僕は、生活感がなく、人が僕を称して「はぐれ雲」といったように、社会の基準からは大きく外れた生活をしていた。
そんな男の何に惹かれたのか。
まことに「恋は愚か」としか言いようがない。
お嬢さん育ちの彼女が、僕と生活するのは大変だったと思う。
そんな彼女に「僕のどこが好きなのか」と聞くと
「面白いところ」
という答えが返ってくる。
いつも答えは同じで、いつも答えはそれだけだ。
面白さだけに人生を懸けてしまったのだから、採算は取れていないと思う。
まあ、反対側から見れば、そのおかげで想像を超えた波乱万丈な人生を歩めたのだから、それはそれでよかったのかもしれない・・・と思いたい。
おそらく根が冒険家なのだろう。
大学時代に歌のオーディションに合格し、渡米して全米デビューを果したのだから、その当時から今の彼女の気質は発揮されていたことになる。
僕が沖縄に移住したいと言った時も、間髪いれずに「いいわね」と答えたのも頷ける。
その彼女が一昨年、いきなり突飛なことを言い出した。
「お店をやりたい」
「え?」
「女性が集まれるような、お店をやってみたいのよ」
「え?君が??」
今まで一度も働いたことのない彼女が、お店を経営するという。
大変だからやめるように何度も説得したが、一度決めたことは頑として動かない。
結局「母家」を始めたのだが、始めてみてその大変さがよくわかったようだ。
まったくの素人の彼女が、ただ気持ちだけでやってきた母家。
この一年半で、ずいぶん体力を消耗したように見えるが、気持ちは今でも前向きで、お店に行くと、あの彼女がお客さんに料理や飲み物を運んで「ありがとうございました」と声をかけている。
昔の彼女を知る人ならば、想像もできないような光景だろう。
これから人生はどのように流れていくのか。
先が分からないから面白い。
僕も君のおかげで面白い人生を歩ませてもらった。
それに君のおかげで、今は社会の中でそれなりに生きている。
僕が君を好きなところは
「美しいところ」
「正直なところ」
「愛情深いところ」
「料理が美味いところ」
「よく笑うところ」
「まじめなところ」
「色っぽいところ」
ほらね、たくさん出てくるでしょ。
こんど君も僕のいいところを探してごらんよ。
出てくるまで探せば、なにか出てくるから。
今日は智子さんの誕生日だ。
「誕生日オメデトウ!」
人生の本番はこれからだよ。
今までの経験の全てを花開かせてください。
Posted by Toshiro Abe at
09:26
│Comments(29)
2007年09月16日
快適に悟りたい
今朝は苦しみの中で目が覚めた。
なぜかというと、夢の中でトイレに行きたくて、いろんな場所に向かうんだけど、なかなか適当なトイレが見つからない。
最初のトイレは猫がたくさんいて、外に出しても出しても入ってくる。
もういいやと思って便座のふたを開けたら、中にも子猫が「ニャーオ」って。
急いで違う家に入ったら、そのトイレは何故か掘りゴタツ形式になっていて、しかたないのでパンツを下ろして坐ったんだけど、どうやってしたらいいのかわからない。
そのうち見知らぬ家族が入ってきて、コタツに座るんだ。
いきなり一家団欒。
ここでするわけにもいかないし、かと言って下ろしたパンツを座ったまま履けないし、あれこれ考えたあげく、顔は微笑みながら、コタツの中に足を伸ばして、身体をひねりながらやっとパンツを履き終えた。
家族に丁重にあいさつして、あのまましてたら大変なことになったなんて考えながら、外に出たら公園があった。
よしと思って、トイレを探すんだけど、なかなか見つからない。
同じところを何度も歩いて、あきらめかけたら、何故か草むらの向こうに古ぼけたトイレが。
中に入ってみると、十年くらい前に取り壊されたトイレで、廃墟になっていて、とても使える状態じゃない。
ここでするのか、しないのか、究極の決断を迫られて、釈迦が言うように、やっぱり人生は苦しみだ、これこそが本当の四苦八苦だ、そうだ、次回この気づきをブログに書こうなんて考えていたところで目が覚めた。
いま、実際のトイレに入ってきたけど、我が家のそれは王宮のトイレのように美しく輝いていた。
人生からの目覚めも、同じようなことで起こる可能性はあるのかな。
死ぬまでトイレを我慢したら悟ったなんて話は聞いたことないけどね。
でも世界の宗教には、いろんなやり方が伝えられていて、砂漠の民の中には、水を一滴も飲まずに渇きによって修業する宗派もあるんだって。
日本でも断食をするし、睡眠をシャットアウトして坐禅する荒行は今でもある。
あるいは性欲を抑えて、一生我慢するとか・・・
こうやってある種の肉体的欲求を、極限まで我慢することで、彼方なる世界を一瞥するということは、実際にあるみたいだね。
あなたならどれがいい?
渇き
断食
不眠
禁欲(性)
それとも断トイレ?
僕はどれも嫌だ!
快適に悟りたい。
最高の酒と、最高の料理を楽しんだ後に、ベッドの中でラブラブニャンニャンして、心地よい疲労感の中で爆睡しながら悟りたい!
失礼しました m(_ _)m
やっぱり空から「悟り光線」が降ってこないかなァ。
そうやって数日前にブログに書いたら、向和尚から「いい表現ですね。すべては天からのプレゼントですから」というメールを頂いた。
今日もそんなことを願いながら、日曜日を過ごそうと思います。
みなさんもいい日曜日を。
Posted by Toshiro Abe at
08:40
│Comments(8)
2007年09月15日
21世紀型修業生活
おはよう。
今朝の沖縄は台風一過で気持ちがいいね。
さて今日は、毎日僕がどんな生活をしているのか、プライベートライフの初公開です。
自分としては修行生活をしているつもりでいるんだよ。
と言っても、かなり怠け者の快楽主義的修行生活だけどね。
それじゃ、始まり始まり。
朝は6時前に目が覚める。
ゆっくり伸びをして、「あはは、また朝だ」ってニッコリ笑ってみる。
面白くなくても笑うと、なんだか心がイキイキしてくるからね。
その後パソコンの前に座る。
メールやブログのコメントをチェックして、前の日の記事を読む。
そして今日は何を書こうか、目を閉じて瞑想状態に入る。
その時間は30分から1時間くらい。
長いときは3時間くらいかかる。
途中で愛犬がお約束の「キュンキュン攻撃」を仕掛けてくるので、散歩に出かけたりもする。
何を書くかが決まれば、たいてい10分か20分くらいで一気に書き上げてしまう。
でも、結局はなんだかんだで10時くらいになってしまうことも多い。
それが終わったら、近くのフィットネスクラブに出かけていく。
サウナに入って水風呂に入るのが一番好きな時間。
サウナの中では外界をシャットアウトして、呼吸に専念して瞑想に入る。
というのも唯一の難点は、サウナでテレビがついていること。
ニュースでは、誰が殺されたとか、どんなひどい事が起きたとか、そんな情報が垂れ流されていて、そんなものを見ても数日で忘れてしまうのに、なぜわざわざ朝から暗い気持ちになりたいのか理解に苦しむとかブツブツ言いながら瞑想状態に入る。
この集中力は長年の練習の成果で、すぐに深く入りこむ事ができる。
頭の中がカラッポになったら、すかさず冷水にドボン!
このとき体中の皮膚の感覚がマヒして、しかも頭はカラッポだから、自分全体がどこかに消えてなくなってしまう。
でも周囲の現実だけはあいかわらず淡々と展開していて、僕はただそのことを超客観的に眺めている。
いっさいの判断が消えれば、この世はすべて事もなし。
調子がいいと、眺めている最終的な自己さえ消えて、ただあるがままの世界だけが残る時がある。
これが僕の日々の修業だ。
禅寺生活をしている雲水さんには怒られそうだが、けっこうそれに近い効果が得られていると思う。
そして12時頃帰宅。
その後は智子さんの手料理を頂いて、やっぱり家の食事が一番美味いなァ。
食後は決まって昼寝をする。
近所の保育園のお友達もその時間お昼寝タイムなので、僕もよい子の仲間入りをしていることになる。
目が覚めるのは3時くらい。
その後、読書をしたり瞑想をしたりしていると、あっというまに夜になっている。
月曜の夜はラジオで、火曜日は「いまここ塾」があるけど、基本的には同じ生活だ。
夜は映画チャンネルで面白い番組が始まるので、それを見ていると、いつのまにか夜中になって、また1時間くらい瞑想して、「おやすみなさい」
そしてまた6時前に目が覚めて・・・・
だいたい週のうちの5日間はこんな生活だよ。
えっ?全然修行生活じゃないって?
先日も話したけど、こんな生活の中で、毎日何百回も意識的に繰り返して目覚めのための練習もしているよ。
そのことはまた改めて書くけどね。
自分としては、これこそが21世紀型修行生活だと自負している。
実はつい最近、そのフィットネスに韓国式岩盤浴ができて、それがまたなんとも快適で、そこにはテレビがなくて、人も少なくて、なんと宮下富美夫さんが天河神社に奉納した音楽が一日中流れている。
そこに森林浴の部屋があって、最近は毎日その中で数時間瞑想しています。
そんなわけで、今から犬の散歩に行って、サウナ行って来るね
自分の考えかたや心のあり方次第で、誰でも自分が一番したい生活ができると思います。
このブログでは、僕の頭の中にあることは全部紹介していこうと思っています。
その中にはあなたの人生を変えるような考え方もあるかもしれません。
期待していてくださいね。
Posted by Toshiro Abe at
08:48
│Comments(19)
2007年09月14日
目覚めの予感
昨日の「目覚め」に関する記事は、文章にするのがとても難しかったけど、本当にたくさんの人が興味を持って読んでくれたみたいで、すごく嬉しい。
やっぱり時代は変わったんだなって思う。
さて、こんなことを言っている僕自身のことだけど・・・
言うまでもなく、僕は目覚めてもいないし悟ってもいない。
じゃ、なんでこんなことばかり話すのかというと、時たま悟りの世界をチラリと垣間見てしまうからなんだ。
その瞬間に全部の答えがあって、「あァ、そうだったんだ」ってなるんだけど、また次の瞬間に元の自分に戻っている。
実際には悟っていなくても、一度でもその世界を垣間見ると、生き方や考え方がまるっきり変わってしまうんだ。
今日はそんな僕自身の話を聞いてください。
その経験をするまでの僕は、自分を完全にするためには何かが必要だと思っていた。
「今は持っていない何か」を手に入れようと、思いつく限りの願望を満たそうとしていた。
遠くにあった時は輝いて見えた宝物も、手にしてしまえば時間の問題でありふれたものに変わってしまう。
「そうか、もっと遠くにあるものを手に入れなければいけないのか」
いつ終わるとも知れない、ゴールなきレースを走り続ける事が人生だと思っていた。
劣等感や罪悪感や自己嫌悪感を抱えながら、誰のことも信じられず、嘘だらけの世界に、嘘だらけの自分が生きている、そんな感じの人生だった。
ところが・・・最初の一瞥を得た日、僕の人生観は180度変わってしまった。
たった一瞬の気づきによって僕は救われた。
抱えていた荷物が全部消えてしまった。
すごい!
何だこれは!
その時に直感した。
すべての人の人生は、この気づきを得るために存在している。
今見た世界は、たった一瞬だったが、じつは永遠に僕たちのものとして存在している。
心配は要らないんだ。
すでに僕たちは全員救われている。
悩みや苦しみはすべて幻想で、僕たちはいつも「いまここ」で100%の幸せの中にいたんだ。
必要なのは「目覚め」だけだ。
そのことをみんなに伝えなきゃって思った。
でもどうやって?
とりあえず仕事を全部整理して、そのことを伝えることだけに生きようと決意した。
30歳の春のことだ。
最初は誰ひとり耳を傾けてくれなかった。
「阿部は宗教にはまった」
そんな噂が仲間達の間に流れた。
でも不安はなかった。
もしこのままどこかで野たれ死ぬとしても、天がそれを望むのならそれもいいと思った。
あれから20年、同じ事をずっと喋り続けている。
ただひとつ変わったこと。
いまや多くの人たちが、こんな僕の話を聞くために集まってくれる。
見よう見まねで始めたブログにも、多くの人が訪れてくれる。
時代は変わった。
つくづくそう思う。
今の僕の願いは、一人でも多くの人に、「大丈夫だ」という朗報を伝えること。
そして僕自身が目覚めること。
今日もそのために生きています。
長くなってしまったから終わるけど、しばらくは「目覚め」について書いてみるね。
僕たちの目覚めの時は近いって感じているから。
そんな予感がするから。
最後まで読んでくれてありがとう。
お知らせ
10月21日の秋葉原でのバースデイライブが決定しました。
またひとつ歳をとります(^o^)
気の向くままの弾き語りライブ。
話したいこともたくさんあります。
お問い合わせ・お申し込みは
098-866-5880(母家)まで。
Posted by Toshiro Abe at
08:21
│Comments(32)
2007年09月13日
目覚めの時 2
「ただ目覚めるだけ」
そしたらこんな質問が来た。
「どうやって目覚めるの?」
なるほど、とてもシンプルな質問だね。
僕らが夜眠っていて、毎朝その眠りから覚めるのに、どうやって目覚めたらいいか考えたことある?
それは「すること」じゃなくて「起こること」でしょ。
それは人生での目覚め(覚醒)も同じことで、「すること」じゃなくて「起こること」なんだよ。
うん、この二つは実によく似ている。
朝夢から覚める時のプロセスをじっくり味わってみると、目が覚めようとする時、それまで現実だと思っていた夢の中の世界が霧のように遠くなっていって、実際の肉体の感覚やベッドの中の現実が意識されてきて、それまでの夢の世界は単に自分のイメージの世界だったことを知るよね。
その時初めて、夢を夢だと認識できる。
そして夢の世界と現実の世界は、比べようもないくらい全く違う次元のものだってわかるでしょ。
それと同じように、今現実だと思っている全ては、実際には神から分離した自己が描いているカモフラージュの世界で、絶え間なく自分や他人を批判して、本当はすべて完璧なのにそこに不完全性を見て、いつも何かが足りないと感じている・・・そんな嘘の世界が霧のように遠ざかっていって、超リアルな自分、神と一体の完全な世界に目覚めるんだ。
そして目覚めた時初めて、人生が夢だったことに気がつく。
それは比べ物にならないくらい全く違う次元のものなので、言葉で表すこともできない。
毎朝の目覚めと、人生からの目覚めは、似ている点が多いと思う。
そう考えてみれば、目覚めを促すやり方も見えてくるよね。
睡眠の夢から覚める時、自分の意思で目覚めたこともあるんじゃない?
たとえば夢の中で、これは夢だって気がついて、それがきっかけで目が覚めたとか。
同じようにこの人生でも、これは夢だっていつも想起していたら、その自覚が少しずつ意識に浸透していって、ある瞬間にはっと目覚めることはありうると思う。
僕自身も、あるひとつのやり方を一日に何百回もやっている。
もったいぶっているわけじゃないけど、言葉で説明するのが凄く難しいんだ。
それはまた次回にでも、ゆっくり説明させてもらいます。
何故僕らはなかなか目覚められないんだと思う?
それはね、僕らがもう少し夢の世界で戯れていたいって自分で思っているからだよ。
誰かが僕らの目覚めを妨げているわけじゃない。
自分がそうしていたいだけなんだ。
この世界はとても魅惑にあふれているからね。
次々と新しい欲望が現れてくる。
新しい恋、新しい希望、新しい目標・・・・
もっとお金があれば、もっと尊敬されれば、もっと素敵になったら・・・
そしてそれは行き着くところがない。
もういいかげん気づいてもいい頃なんだけど、僕らは同じゲームを繰り返してしまうんだね。
こういう話、好きだな。
できたら一日中こんな話をしていたい。
他の話は、僕にとってどうでもいいことばかりだ。
最後まで読んでくれてありがとう。
Posted by Toshiro Abe at
08:08
│Comments(10)
2007年09月12日
目覚めの時
昨日の「いまここ塾」をやりながら、不思議な感覚に襲われた。
全ての人の人生は、完璧なんだって思った。
僕らの心の奥に潜むとてつもない叡智が、僕らを「大いなるひとつ」に帰すための完璧な筋書きを作り出していて、すべての出来事はそれにそって、寸分の狂いなく粛々と進んでいる。
たとえ自分の人生がいまどのような状況だろうと、自分の目から見てどのように見えようと、それが必要だから起きているんだ。
しかも今までの人生に起きたことにも、何一つ無駄はなかった。
僕らに完璧な筋書きを与えた神なる意識は、心の一番奥に住んでいて、僕らは早かれ遅かれそこに帰りつくことになる。
そこにたどり着いた時、心の底で声がするよ。
おかえり
長い旅だったね
私はいつでもどんなときでもあなたを見守っていたよ
あなたが私に気づく日をずっと待っていたんだ
長い旅だったね
大変だったね
よく頑張ったね
もう大丈夫だよ
おかえり
そんな声が聞こえる日は近い。
その予感は日に日に高まってきている。
これは気休めなんかじゃない。
僕に起こった事があなたに起きないはずがない。
僕らは夢の世界に住んでいるんだ。
苦しみと欲求不満が渦巻く夢の世界にね。
それを現実だと思いこみ、少しでも状況が良くなるように、画策し、奮闘し、疲れ果てながら生きている。
もう目覚めてもいい頃だよ。
とても簡単なこと。
ただ・・・目を覚ますだけだから。
こうやって一番伝えたい事を書いてみると、なんとも現実感のない表現になってしまうけど、これこそが本当の現実なんだ。
どう思われようと、これからもこのメッセージを伝え続けていこうと思っています。
早く目覚めても、遅く目覚めても、目覚めてみればそれはいつも「いま」だから、早いも遅いもないんだよ。
でも早いほうがいいよねって、どうしてもこんなへんてこな話になっちゃう(笑)
このことに関する言い方は無限にあるので、毎日こうやってブログに書けるのは幸せです。
Posted by Toshiro Abe at
10:06
│Comments(17)
2007年09月11日
Kさんと数ちゃんと僕
この数日間、批判記事を書いてきたけど、他の記事に比べてかなりのエネルギーを使った。
こういうの疲れるね。
マヤさんがコメントにも書いてくれたけど、「自分の心を痛めてまで批判をしなくても」というのは、そのとおりだ。
今日は反省も込めて、批判という行為の不毛な側面を、僕自身の心の闇をとおして解説してみようと思う。
そしてこの傾向は、人間がはまりやすい罠でもあるので、他人事だと思わずに読んでみてほしい。
批判というのは、自分のことも、相手のことも、誰のことも癒さない。
批判とは、分離の世界での出来事だからだ。
ちょっとぶっ飛んだ言い方になるけれど、真実の話をするから、しっかり話に付いて来てね。
人生で唯一大切なことは、僕たちが「大いなる一つ」によってできていることを見抜くこと。
すべてが一体であることを見抜くこと。
違う言い方をすれば、この世には自分しか存在していないことを見抜くことだ。
自分から見える相手は、自分の心の投影に過ぎない。
僕らは自分の心を、様々な形態で映し出して外側に見ているんだ。
そのような観点から理解すれば、批判とは、自分自身の中の認めたくない部分を相手の中に見て、自分を責める代わりに相手を責めているという、代用的な行為だというのがわかる。
僕がKさんの中に見たモノは、僕自身の中にもあるモノで、そうはなりたくないと思って、ずっと封印してきた自分自身なのだ。
それを表立って見せられると、そこがどうしても許せなくなってしまう。
が、その許せない感情を癒そうとして、相手を批判したり責めたりしても決して癒されることはない。
癒す方法はただひとつ。
封印してしまった心の闇の部分に、光を当ててあげることだろう。
僕がKさんの中に見た最も嫌な部分は、他者を納得させる自分の洞察力の上にアグラをかいて、確証のないことまでも断定的に言ってしまう傲慢さだ。
僕も講演会やラジオなどの場面で、自分の気分が高揚してくると、ふと口にしてしまいそうな時がある。
そこには受け狙いや、実際の自分よりも自分をよく見せたいという動機が隠されている。
その動機の奥の奥にあるものは、普遍的な自信のなさだ。
そのような自分が大嫌いなので、同じような質を相手に見ると(それは自分自身の質)、黙っていられなくなるのだろう。
一方数子ちゃんについても同じことだ。
彼女が持つ巨大な自我や劣等感も、僕の中にもあるから見えるわけだ。
僕の場合は彼女ほどエネルギーが強くないので、かろうじてあそこまで極端な姿をさらさずに済んでいるだけで、持っている本質は変わらない。
Kさんも数子ちゃんも僕自身なのだから。
Kさんの中にも数子ちゃんの中にも、僕が見習うべき素晴らしい面がたくさんあるはずなのに、一度暗い面から見てしまうと、明るい面が見えなくなってしまう。
これが批判の正体であり、批判が不毛である所以(ゆえん)だ。
この世の現象はすべて自分の心が映し出す夢のようなもの。
批判はその夢をイキイキとさせ、どっぷりと夢の世界に引きずり込んでいく。
さて、その一方で僕たちは、人類として共有している夢も同時に見ているんだ。
それを社会とか世界とか呼んでいる。
その中においては、「しょせん全ては夢なのだから」では済まない事も多い。
そこに誰も指摘しない間違いがあるのなら、気がついた人が声をあげることも大切なことだと思う。
それが批判の有効的側面だと思っている。
この数日間に自らの愚かさを自覚しつつも、このような記事を書いてきた背景にはそんな思いもあった。
さて、これで批判シリーズはひとまず終了しよう。
僕が真っ先にやらなければならないことは、人を批判することではなく、自分自身を見つめていくことだ。
自分の欺瞞に、勇気を持って向かい合うことで、自分自身を成長させていくことだ。
僕が成長した分だけ、こうして縁あって出会った人たちに、プラスの影響を与える事ができる。
とても地味で骨の折れる作業だが、この道しかないことを知っている。
最後まで読んでくれてありがとう。
お知らせ
今日のいまここ塾
今月は会場の都合により、今回が最後となります。
20:00から中城村の吉の浦会館(895-6994)です。
Posted by Toshiro Abe at
07:51
│Comments(26)