2013年01月31日

沖縄の休日

一昨日、沖縄に帰ってきました。

やっぱり沖縄、好きです。


帰った夜は、中城村の吉の浦会館での講演会でした

もう何百回やったのか分かりませんが、8年目です。

数年前までは毎週やっていたのですが、いまは月に一回です。


最初の3回目くらいの時に、「もう喋ることがないから来週には終わろう」なんて思ったのを覚えています。

ところが、「喋ることがなければ、喋らなきゃいい」と思えたことで、また続いていったのです。



さて、いつもなら沖縄の家にいられるのは、月に数日しかないのですが、今回は10日間いられます。

まったりと過ごしてみます(^o^)













   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:56Comments(34)

2013年01月28日

好きな話

世間話や、なにげない会話は苦手です。

たしかにそのような会話は、人間同士の関わりでの潤滑油になりますが、それだけで終始してしまうと、無意味な時間を過ごしたような気になってしまいます。


本当は、ここに書いてきたようなことを、朝から晩まで話させてもらえたら、それが一番です。

もしかして、あなたもそんなタイプじゃないですか(^o^)


講演会では、好きな話だけを思いきりさせてもらえて、しかも、遠くから聞きに来てくれた人の前でお話できるのですから、僕にとってパラダイスの時間です。

昨日の東京講演会も、終わりたくないくらい楽しい時間でした。

いつか夜を徹して、座談会スタイルでやってみたいですね。

亡くなられた小林正観さんは、そんなふうにして全国を回られていたと聞きましたが、僕と同じような気持ちだったのかもしれません。



次回の東京講演会は2月24日(日)です。

本日よりお申込受付を開始します。

詳細はコチラ


沖縄講演会は1月29日(火)です。

詳細はコチラ



そんでもって、ポリポリ




このブログですが、運営サイトのメンテナンスのため、今日(28日)の午後以降は、見ることはできても、書き込むことができなくなります。

30日の午前5時から午後1時までは、閲覧もできなくなります。

記事の更新は、早くても30日の午後以降になりますので、ご了承ください。



それから、黒斎くんとの「阿雲の呼吸」は、しばらくお休みさせていただくことになりましたが、来月は東京、名古屋、大阪で開催します。

東京はおかげさまのSold out、名古屋と大阪には、まだ席がありますので、この機会にいらしてください。



写真は横浜の「阿雲の呼吸」で熱弁中の黒斎くん。



■2月10日(日) 名古屋(名古屋国際会場・3号館3F 国際会議室)

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■2月11日(祝) 大阪(新大阪丸ビル別館 2F 2-3号室)

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またお会いしましょう。







   
  


Posted by Toshiro Abe at 07:49Comments(45)

2013年01月26日

満月のお誘い

もしあなたが、わずか1分間でも完全に思考の外に出て、純粋に意識そのものでいられたら、その1分間、あなたは超越した覚者です。

覚者とは個人への尊称ではなく、まさにいまの状態に付けられた名前です。


究極的には固定された個人など存在していないのですが、思考はなんでも固定化してしまい、流れであるところの実相を凍らせてしまいます。

「私」とは現在進行形の動詞であって、名詞ではないのです。


いまどう在るか

それだけです。



明日(27日)の14時は満月です。

お時間がある方は、いっしょに瞑想しませんか。

きっとパワフルですよ。


ちょうど僕は、東京の講演会が始まる時間なので、いつものように瞑想から入っています。

会場に来る人も、そのつもりで少し早めに来てください。(予約していない方は、当日券がありませんのでご注意ください)







P.S

麻布でのマントラ伝授者は、17時から講演会と同じ会場で瞑想会をします。

こちらは月例のアフターケアですので無料です。

受付で名前をおっしゃってください。

他都市で受けられた方も参加可能です。







   
  


Posted by Toshiro Abe at 12:25Comments(42)

2013年01月24日

リーラ(サウナ風呂の悟り)

瞑想する場所はどこでもいいんですが、僕が一番好きな場所は、森林の中、小川のほとり、緑の丘、星空の下・・・

ではなくて・・・実は・・・サウナ風呂です。


最近では、サウナの入場券を買う時から、神聖な気持ちに包まれます(笑)


おごそかに服を脱ぎ、まずはシャワーで身体を清めます。

身体は、魂がこの世を歩くための乗り物です。

天からの借りものなので、神のレンタカーだと思っています。

借りものなのですから、大切にしなければいけません。

そんな神聖な気持ちを込めて身体を洗い清めます。


そしていよいよサウナ室に入ります。

すでに何台かの神のレンタカーが駐車していますが、その傍らに座り、目を開けたまま、特定のイメージを持つようにします。

それは、自分の首から上が無くなって、サウナ室全体に自分の意識が広がったイメージです。

何人かの人達が汗をかいていますが、自分が彼らを見ているのではなく、その状況そのものが全部自分だという感覚になります。


そうやって10分間ほどを過ごし、「首から上」(頭)が完全に無くなった状態で、サウナ室を出て、次は水風呂に入ります。

水温は22度くらいです。


すると80度くらいに熱せられた皮膚が、急に冷水に触れることで、感覚がマヒしていきます。

そのとき、身体全体が消えたような気になります。


すでに首から上が消えているので、首から下も消えてしまった時、「私」が消えて無くなります。


そこにあるのは、単に意識だけであり、その意識のもとで、風呂場全体が刻々と事を展開しています。

「私」がいようといまいと、事はただ起きています。

そこに関わっている「私」はいません。


実は、人生全体で起きているのも同じことで、自分が人生の状況を生きてきたのではなく、状況そのものが、「いま」という永遠の中で、形を変えながら展開していただけです。

そのシーンに登場している自分というレンタカーも、その時の状況の一部に過ぎず、自分が状況を生きているという感覚は錯覚で、本当は、自分を含んだ状況がその場に現れていただけです。


起きることが起き、それ以外は決して起きません。

個々のレンタカーには、最初から組み込まれたプログラムがあり役割があります。

これは運命論という考え方として片づけられそうですが、宇宙規模の壮大な計画が存在し、各パーツは寸分の狂いなく、まさにいまもその役目を粛々と担っています。

起きていることの中には、各自が「自分の自由意思」として感じているものまで含まれています。

自由意思さえも、彼方から湧いてくる計画どおりです。

今までに登場したあらゆるブッダたちは、このことを深く理解していました。



さて、水風呂の中の僕は、起きている状況から完全に手を引いていて、起こるがままにお任せしています。

ストレスは皆無です。

なぜなら、「私が状況を生きている」という錯覚こそが、心理的摩擦の原因だからです。


真実だけが、人を根本から救い、癒してくれます。


「自分がこの状況を生きている」

「自分がこの状況をコントロールしている」

というようにして、頭脳が作り出した思い込みの世界の中だけに暮らしていれば、具合も悪くなるというものです。



そんな解放された境地を1~2分味わってから、こんどは隣の温かい風呂に浸かります。


身体が温まったら、風呂場の隅にある椅子に座り、そのまま目を閉じて、本格的な瞑想に入ります。

約40分間ほどですが、いつも5分くらいにしか感じません。


これが、僕の一番好きな瞑想スタイルです。




もちろんサウナ風呂以外でも、これと同じような感覚で生きています。


事は自然に起きているのです。

それがわかれば、何が起きても、そんなに違いはなくなってきます。



すべては宇宙の戯れ。

神の戯れ。


リーラです。


そんな心境から生まれたのが、比叡山でもご披露した「リーラ」という歌です。



春が来て また冬が来て

去りゆく命 生まれ来る命

泣く人がいて 笑う人がいて

この世はすべて こともなし




1987年の作品です。


あれから25年が経ちましたが、今日も同じ心境で生きています。









   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:32Comments(77)

2013年01月23日

グル

昨日の話の中で、ある程度の段階に入ったら、そこにはマスターが必要になると書いたでしょ。

それは、自己欺瞞を暴いてくれる人が必要だという意味です。


自分で自分の自己欺瞞を見抜くのは限界があります。

やはり、正直に関わってくれる精神の友が必要です。


それは偉大な覚者でなくてもいいんです。

ただ心を開いて、正直に向き合ってくれる仲間であればいいのです。





そもそも「グル」という存在は、神格化された人物のことではなく、心を開いて関わってくれる人の事です。

自らが先に開くことで、相手が開く場を提供する存在です。


そういう人間関係こそが最も大切なのですが、現代ではほとんど見失われてしまいました。



もしそんな仲間(グル)がいて、互いにサレンダーできたとしたら、僕たちの成長はすごく早まるのでしょうね。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 14:54Comments(57)

2013年01月22日

人生はドラクエ

人生はRPGゲームに似ているところがあります。

ドラクエでも、主人公の経験値が上がってくると、それまで頻繁に登場していた敵が姿を消して、次のレベルの敵が現れてきます。

たまにそれまでの敵が現れても、いとも簡単に退治できてしまい、「なんだこんなに弱かったのか」と思うのです。





人生も同じです。

小さな悟りひとつで、それまで心を悩ませていた人間関係や、経済的問題などが、取るに足らないことに見えてきます。

それは、急にいい人たちに囲まれるとか、大金を手にするといったことではなく、現実をあるがままに見られるようになることで、混乱したマインドに振り回されなくなるということです。

起きていることへの対応が正確になり、その結果、人もお金も豊かになっていきます。


ここで一面クリアです。


次に出てくる敵は、外側にはいません。

自分そのものが敵キャラになってきます。


ひっきりなしに現れる想念や、膨大な記憶の数々、それらと自己同化して作り出していた「自分」という幻影。

それが次なる敵です。

あえて「敵」いう言葉を使いましたが、この相手を滅ぼしたとき、その奥から本当の自分が現れてきます。


この面における必須アイテムは『瞑想』です。

『瞑想』は第一面から有効ですが、第二面においては不可欠です。


想念の雲を断ち切り、その背後にある大空を垣間見ることから始まります。

真理の一端を見つけるのです。

ちなみに禅の十牛図では3枚目に描かれています。


ここからは絶え間ない意志の力、不屈の精神が必要になります。

というのも、敵キャラである「自分」という幻影は、別名「自我・エゴ」と呼ばれていて、これが非常にすばしっこく、巧妙な罠をいくつも仕掛けてきて手ごわいのです。


正面から戦っても、決して勝ち目はありません。

戦っている当人が、敵キャラであったはずの「自分」であり、この一人二役こそが、自我の巧妙な手口なのです。


戦わないことが勝利の道であり、それは瞑想によってもたらされます。

何度も何度も罠にかかり、気がつくとまた振出しに戻っているということが繰り返されます。


面が上がれば上がるほど、そこにはマスターと呼ばれるガイドが必要になってきます。

なぜなら、知らない間に敵キャラ(自分)の催眠術にかかり、罠の中で独りよがりのゲームを続けてしまいがちだからです。


最終的には、自分という幻影の根を断ち切ることで、ゲームは終了します。

それは同時に、戦っていたプレイヤーも、敵キャラも存在していなかったことの発見です。


ちょっと分かりずらい表現になってしまいましたが、これが人生ゲームです。



昨日、企業経営者のみなさんを対象にした講演の相談を受けましたが、多くの人たちはいまだ最初の面で奮闘しています。


みんなが気づきの剣を手にして、次の面に進むときが来ていると思います。

そこからまた次の戦いが待っていますが、その時にはすでに、それまで心を悩ましていた人間関係や、お金などの問題は、スライム程度の弱い敵になっていて、たまに出てきても即退治してしまうことができることでしょう。



「自分を知る」という最も本質的なテーマに、社会規模で関心が向けられる時代になってくることでしょう。

大げさな表現に聞こえるかもしれませんが、悠久の時を経てきた進化の最終局面です。








   


・・・・・・・・・・・・


2月17日の松山(四国)講演会は満席のため受付を終了しました。

1月27日の東京講演会も締め切っています。

都合が悪くなった方は、なるべく早く一報ください。


月例の沖縄講演会は1月29日です。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:18Comments(60)

2013年01月21日

この世はすべてこともなし

昨日の大阪講演会の途中に感じたことがあります。

それは、「凄い時代になったな」ということ。


以前なら、野を超え山を越え、命がけで探し求めた真理の情報を、いまやボタン一つでいとも簡単に入手でき、しかも人々から崇められる聖者ではない、ごくあたりまえの男が、ごく当たり前に、聴衆と共に「存在の真実」を分かちあっているのです。

そこには何の力関係もなく、対等な場で笑いながら共感し合っています。

なぜなら聴衆もすでに、真理に目覚め始めているからです。


時代は大きく変わりました。

真理の次元がごくごく身近なものになってきました。

もともと誰にとっても身近だったのにもかかわらず、多くの誤解から、一部の突出した魂だけが得ることができる、特別な境地とされてきたのです。


真理の次元とは、どこか遠い所で待機している場所ではなく、僕たちの意識が物質世界という限界を超えたときに、それぞれが感得する次元です。

早い話、高次元とは意識の拡張による結果です。

意識が拡張すれば、目の前の世界の次元が変わります。

なぜなら世界とは、個々の意識の投影だからです。






な~んて書きながら思うのは、こういう事に対して質問されても、うまく答えられないことです。

そのような質問は、質問する側の次元の中で発せられていて、次元が変われば質問自体が消えて無くなるのですから、僕のような者にできるせい一杯は、そういう次元(意識状態)があるよって話をすることだけです。


質問者にとって一番的確な質問は、悟ったらどうなるかとか、高い次元の世界はどんなかとかいう、違うレベルに関する質問ではなく、いま現在自分が直面している切実な問題に関する質問だと思います。

たとえば昨日の講演会なら、隣人がうるさいのだけれど、引っ越すべきか否かというようなことを聞いた人がいましたが、まさにそういうことです。

そこから、いまの自分が見えてきます。


大切なのは、まさにいまあるがままの自分を知ることだと思います。



昨日、久しぶりに東京に戻ってきました。

年が明けて初めてです。


郵便ポストの中には、たくさんの年賀状が届いていました。

くださったみなさん、返信もせずに大変失礼しました。

みなさんの思いを、ありがたく頂戴させてもらいます。



そんなこんなで、今年もよろしくお願いしますm(_ _)m








   
  


Posted by Toshiro Abe at 10:35Comments(54)

2013年01月19日

ほらね

実のところ、宇宙(神)を100%信頼出来たら、それがゴールです。

しかし自我は、相手が何であれ、決して信頼することができません。

信頼とは、やろうと思ってできることではなく、自分(自我)が消えたときに訪れる、存在の質のようなものです。


愛も同じです。


感謝も同じです。


これら高い質は、向こうから訪れるものであって、やる行為ではありません。



昨日ある人が僕に、

「どうやったら自分を愛せますか?」

と尋ねました。


どうやったらというやり方はありません。

なぜなら、愛は行為ではないからです。


せめてできることは、愛せない自分に寛いでリラックスすることです。


リラックスとは自我が薄れた状態のことであり、奮闘や戦いを止めて降参することです。


リラックスしたぶんだけ、優しい気持ちを取り戻すことでしょう。


優しさを忘れてはいけませんよ。


「べきだ」「ねばならない」が頻繁に頭の中に登場したら、赤信号です。



「まっいいかァ」

と、深呼吸して「いま」に帰ってきてください。







ほら、問題なんてどこにもないでしょ?









   
  


Posted by Toshiro Abe at 12:42Comments(86)

2013年01月18日

言葉というもの

講演会は、みんなの顔が見えて、いまの話から何を受け取ってくれたかがわかるので、言葉が足りない部分をすぐに補えますが、ブログの場合はそれが難しい。

だから日を改めて違う角度から書いたりするのですが、たまたまその日だけ読んだ人には、やっぱり片手落ちになってしまいます。

あっちもこっちもと考えて書くと、今度はポイントがぼやけてしまい、ブログは便利ですが、難しさも抱えたツールです。



長年書いてきておいて、いまさらですが、僕の言葉を鵜呑みにして、言葉に縛られないようにしてください。


たとえば

「何でもOKだ」と僕は言いますが、それは自他一如の境地においての真実であり、生活レベルでは何でもOKではありません。

人を傷つけておいて、何でもOKでいいわけがありません。

反省すべきは反省して、次に活かしていくのが人の道です。


でもその一方で鵜呑みにしてもらいたい言葉もあります。

たとえば昨日書いた

「死ぬな!」

もそうですし、

「宇宙(神)は、100%あなたの味方だ」

もそうです。


宇宙(神)を信じれば、その瞬間から宇宙(神)の力を使っていけます。

宇宙(神)を信じきれば、不安が綺麗さっぱり消えてなくなります。


「信じる者は救われる」は本当です。



鵜呑みにして信じきることを奨励しますが、その一方で、鵜呑みにして言葉を持ち運ぶことへの警鐘も鳴らしておきます。






何事も言い切れません。

言い切れないという事さえ、言い切れません。


それが言葉というものです。









   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:17Comments(63)

2013年01月17日

自殺を望む人へ

昨日のコメント欄を読んで、みなさんの温かい気持ちが伝わってきました。

そのことで、誰か一人でも、苦しい思いが軽くなってくれたとしたら、このブログを開設している者として大変ありがたいことです。


生活が上手くいかなくて、人から愛されている実感もなく、人がみんな嘘に見えて、自分の価値も感じられず、これからの人生への期待も持てず、こんなことなら早く死んでしまいたいという気持ち、わかります。

自殺願望(自殺という言葉はコメント欄では入力禁止用語になっています)を抱えた人に、言葉で何を言ったとしても、すでに立っている位置が違うので、虚しく空回りしてしまうことも知っています。

なぜなら、僕自身がそういう気持ちの頃、どんな言葉も上空を吹き抜ける風のようにしか感じられなかったからです。


そのことを知りつつ、自殺したいという人に伝えたい言葉はひとつです。



「死ぬな!!」



理屈じゃなく、とにかく死ぬなということです。


本当に絶望したとしたら、死ぬこともできません。

自殺願望とは、死ねばいまの虚しさや苦しみから解放されるという期待を持っているわけで、本当に絶望しているわけではありません。

であれば、そのわずかな期待を、生きる力に変えてください。






この人生に意味は無い・・・同感です。

生きる意味は人それぞれが創るものであり、最初から内在した意味などありません。

しかし人間をはるかに超えた生命の神秘が存在していることも確かで、僕たちはそのことについて何も知らないのですから、生かされていることに対して謙虚にならなくてはいけません。


望まなくても死ぬ時は死にます。

いまは生きているのだから、とにかく生きるのです。



騙されたと思って、生きてください。



月並みな言葉しか出てきませんでしたが、思ったままを書いてみました。











   
  


Posted by Toshiro Abe at 07:54Comments(142)

2013年01月14日

毎日が再誕

毎朝、お約束のように訪れる感覚があります。

それは


いま生まれた~!


というものです。


誰だって生れ落ちた家があって、それはたまたま富豪の家だったり、食うや食わずの貧しい家だったり、仲良し家族だったり、破たんした家族だったり、すでに両親がいなかったり、お母さんが二人いたり、それぞれの境遇があります。


そんな環境に誰一人、文句を言うことなく、だまってその地点からスタートしています。


それはいまだって同じこと。


それぞれに置かれている環境や条件があって、やっぱりここから生きていくわけなのに、赤ちゃんの時との違いは、あれやこれやと文句を言って、うまくいっていないことの犯人探しをしたり、否定的な態度でいまを嘆いたりしがちなことです。


いま生まれた~!


そう思えば、ここから生きていくしかないわけで、実際の話、いまのあなたは、ついさっきまでのあなたと同じではなく、瞬間瞬間、新しく生まれ変わっているのです。


この言葉を最初に使いだしたのは、自分の人生がにっちもさっちもいかなくなっていた頃でした。

あっ、いま思い出しましたが、たしか28歳の頃で、新曲のキャンペーンに鹿児島に行っていた時、そこの女性アナのインタビューに答えるようにして、「いま生まれた~!って思うようにしているんだ」って言ったら、その人、やけに深く頷いてくれました。

たしか、実家は禅寺だと仰っていましたが、いまもお元気でしょうか(^o^)


そのころから、習慣のようにして使い続けてきたので、いまではあたりまえになってしまっていますが、気分転換に役に立ちますから、この感覚を練習してみてください。



さ、ごいっしょに





いま生まれた~!!










   



・・・・・・・・・・・


2月17日、松山での講演会の残り席が少なくなっています。

詳細はコチラから



  


Posted by Toshiro Abe at 09:24Comments(108)

2013年01月12日

雲 黒斎くんへのラブレター

あなたと最初に会ったのは4年前。

僕が初めて、札幌で講演会をやらせてもらった時でした。


主催者の方から、「もしかしたら雲 黒斎さんもいらっしゃるかも」という話を聞いていたのですが、半信半疑でした。

というのも、当時あなたは完全に氏素性を隠していたし、当時はブログランキングでも首位争いをしていたライバルだったので、まさか本当には現れないだろうと思っていました。


ところが講演が始まってすぐ、客席にあなたを見つけました。

「あっ、来ている」

まったく会ったことがないのに、すぐに黒斎くんだと確信しました。


それこそ、阿吽の呼吸のようなものを感じたのです。



講演会の後、打ち上げの席で二言三言話をして、あなたが僕と同じ内なる体験をしていることがわかりました。

そしてすぐにこう伝えました。


「沖縄でコラボ講演会しませんか?」

するとあなたは、

「会社の手前、表だった活動はできないけれど、沖縄くらい離れていればいいでしょう」



それからすぐに、沖縄でコラボ講演会が開催されましたね。

前売り券は早々に売り切れ、集まった聴衆は会場いっぱいの300人。

初めて舞台で話をする者としては、大きなプレッシャーだったと思います。


僕はすでに慣れていたので、あなたをフォローしながら進行しようと思っていたのですが、いざ開演してみると、喋る喋る!!!!

いい意味で期待を裏切られて、新鮮な感動を持ちました。


しかも話の内容は、真実からブレることなく、知識からの話ではなく、実体験からの話をする人の迫力を感じました。



二人はすっかり意気投合し、あれから実にたくさんの講演会をやってきましたね。





おかげさまで、どの会場も大入り満員。

その間に書籍やDVDも発売されました。

DVDは全国のTSUTAYAでレンタルが開始され、一番新しい情報ではビジネス部門で2位の貸出率だそうです。




そんな絶好調な「阿雲の呼吸」ですが・・・


そして突然ですが・・・



今回をもって最終回とさせてもらうことになりました。




理由は・・・


「普通の女の子に戻りたいんです」 

(あっ、このギャク使おうと思ったら、先を越された)



本当の理由は


「体力の限界!」(千代の富士)



今年の後半から少し活動を控えて、月の半分は沖縄の家にいられるようにと思っています。


あなたにそのことを伝えたら、残念がってくれて嬉しかったです。

もし喜んでいたら複雑でした。



あなたはたくさんの才能に恵まれている人なので、これからの活躍が楽しみです。

僕は少しずつ老後生活にシフトしていきます。



そんなわけで、見納めになるかもしれない「阿雲の呼吸」。

僕たちの遺言をお届けします。



◎第一部「リセット~人生立て直し大作戦~」


◎第二部「アセンション~新たな時代の迎え方~」


東京・名古屋・大阪3都市で開催します。


それと、前々から黒斎君の家族を沖縄に招待したいと思っていたので、お子さんが夏休みに入った頃、最後に沖縄でもやりましょう。

そのあとは、北海道と仙台と横浜と広島と博多と・・・・


やめる気あるのか!!!



また気が変わるかもしれません(笑)

ザ・ベンチャーズの場合は、最後の日本公演を、20年間にわたり7回やりましたから。



とにかく、初めがあれば終わりがある、出会いがあれば別れがある、思いを残すことなく、今回もベストの講演会をお届けしましょう。



チケットのお求めは、以下のフォームからお入りください。


■2月9日(土) 東京(YMCAアジア青少年センター・地下スペースYホール)

PC用購入ページリンクURL


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■2月10日(日) 名古屋(名古屋国際会場・3号館3F 国際会議室)

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■2月11日(祝) 大阪(新大阪丸ビル別館 2F 2-3号室)

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ありがとうございました。









   
  


Posted by Toshiro Abe at 20:00Comments(63)

2013年01月11日

真理のジレンマ

ひまわりさんのコメントです

>ところで人生はスクリーンの映像のようなものだとおっしゃる方はたくさんいますが、 自分というのは客席で映像を楽しんでいる存在だと思い込んでいました。

>自分とは客席にいるのでなく、スクリーン自体だったのですか!! 驚きです。



まさにここが大切なところです。

「映画を見ている自分」という概念も、映画の中で映画を見ているだけの話です。

スクリーンが本当の自分。

そしてそのスクリーンは「ひとつ」しかなく、スクリーン以外は実在ではありません。


僕たちはみんな、同じひとつのスクリーンなのです。

昨日も伝えたように、同じひとつのスクリーンに、人数分の映画が上映されているという摩訶不思議な現象が起きています。

これが宇宙の神秘であり、存在の神秘です。

宇宙(スクリーン・本当のあなた)は、無数の映画を上映することで、無数の自分を体験しようとしているのです。


スクリーンが本当の自分。

でも、スクリーンを「自分」というのも間違いです。

自分と言った瞬間、自分以外のものも存在してしまいますが、スクリーンしか存在していないので、自分とも呼べません。


したがって、「無」という言葉が使われます。

インド哲学では、アドヴァイタ(advaita)、「二ではない」という言い方をします。

「一つ」と言った場合も、二つめを想像してしまうので、dvaita(二)、a(ではない)となるのです。

結局のところ、スクリーンを発見するためには、個としての自分など存在していなかったという気づきが不可欠になります。


スクリーンとは、自分が存在していなかったという気づきの事です。


そしてこの気づきこそが、唯一の、そして根本的な救済になります。


世の中には経済面でも、健康面でも、あるいは対人関係においても、苦しみを抱えた人たちがたくさんいます。

その人たちに適切な助言をすることで、一時的に問題を解決し、苦しみを緩和させることは可能かもしれません。

このブログや講演会でも、そんな人たちの役に立ちたいと思って活動してきました。


あるいは叱咤激励して、苦しみに直面することを通して、苦しみの根源を見つけ出していくという指導もあるかと思います。

しかし結局は、また新たな問題が発生し、それは生きている限り続いていきます。



根本的な救済とは、苦しみも、苦しむ自分もいなかったという次元での気づきです。


ですから、あらゆる真理のメッセージを集約すれば

「自分はいない」

ということになります。



いままでも、そしてこれからも、このメッセージが無力なのは、「自分はいない」ということを理解しようとするのが「自分」だからです。

このジレンマが、有史以来抱えてきた真理のジレンマです。


だからこうして、拙いなりにも無数の言葉を駆使して、何かを伝え続けるしかありません。

あとは、実践的な方法を見つけ出して奨励すること。

僕自身、多くの方法を探し、たくさんの投資をして試してきましたが、中でも優れていると感じたのがボブさんの瞑想です。


でもそれにしたって、間接的な手段でしかありません。

直接的には何もできません。

なぜならば、やろうとしているのが自分だからです。



そう、お手上げです。



今日もいろいろ書いてみましたが、結局は真理そのものを表すことは不可能で、せめてできることが、真理への指標になれるよう精進することだと感じています。



こんなんでよかったら、これからもお付き合い下さい。













   
  


Posted by Toshiro Abe at 12:18Comments(84)

2013年01月10日

内在している目覚め

一昨日書いた、

”あなたが内側で感じている「自分は存在している」という感覚は、あらゆる人、あらゆる生命体が内側で感じているそれと同じものなのです。”

ということに対して、neutrinoさんが、

その内的感覚に近いものを、日頃、私達は、無意識の内に感じているのではないかと思うのです。

と書いてくれました。



そのとおりです。

ここは一番伝えたいポイントです。


僕はよく、映画のスクリーンの話をしますね。

映画を見ていると、その内容に引き込まれて、映像の背景にあるスクリーンの存在を忘れてしまうという話です。


僕たちが普段意識している、自分や、自分を取り巻くすべての人や、起きている出来事や、人生と呼んでいる物語は、スクリーンに映された映画そのものです。

そして実体は何かと言えば、映された映像ではなく、それを映しているスクリーンだけです。


僕たちは「スクリーン」なのです。


どんな映像が映っていようと、スクリーンはいっさい影響されていません。

ピュアなまま、いまここに在り続けています。

僕たちは誰一人例外なく、いまここに存在する目覚めた純粋意識であり、それ以外のすべては幻想です。


このことを体感することを、「目覚め」だとか、「さとり」だとか言いますが、これらの言葉は大げさで、周囲からの反感も買いやすいので、本当は使いたくないのです。

でも他に適当な言葉がないので使用しています。

せめて、「目覚め」も「さとり」も、どこかの偉い人に訪れる現象ではなく、ご飯を食べるのと同じくらい当り前なことだということを、くどく伝えておきたいと思います。


さて、スクリーンのことですが、不思議なことにこのスクリーンは一枚しかないのに、それぞれの人が、個別の映像を映し出しているのです。

ここが宇宙の神秘であり、僕たちが惑わされてしまう要因です。


neutrinoさんが言うように、僕たちはいつも無意識にこのスクリーンを感じています。

もちろんいまも感じています

無意識に、あたりまえのように感じているのです。


だから、スクリーンの存在に気づいた時(さとりの瞬間)に、人はこう思うのです。


「な~んだ、これか」


目覚めとは、さとりとは、この世で最も当り前な体験です。





人類の歴史は、こんなに単純かつ当たり前のことを、大げさに扱い、権威づけてきてしまいました。

そのことが、僕たちの目覚めを遠ざけています。

自分にはまだその資格がないと思ってしまうのです。


資格がないどころか、あなたはすでに「それ」を手にしていて、いままでもこれからも、無くすことはあり得ません。



だから結局はこの言葉になってしまいます。


「心配ないよ」



「大丈夫だから」



ここまでの話は何度も繰り返し伝えてきましたよね。

明日は、もう少し踏み込んでみます。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:20Comments(99)

2013年01月09日

至福の後にハマりやすい罠

昨日頂いたコメントへのレスです。


ねこさんのコメントの要旨です。


>ある人から抱きしめられたとき、内側から温かいものが広がっていく素晴らしい体験をしました。

いまはもう、その人と別れてしまいました。

あの体験は彼の力によるものなのか、それとも誰とでも可能でしょうか。






ふいに訪れる気づきや、深い洞察を伴った体験、あるいは至高体験と呼ばれるものは、すべて自分自身の内側で起きた現象です。

その瞬間があまりにも素晴らしいので、僕たちはその体験が起きたときの状況や、関わってくれた人のことを過大評価してしまいますが、それら外側の要素はすべて、きっかけに過ぎません。


きっかけに執着するのは間違いです。

僕が知るある人は、たまたまその瞬間に違法ドラッグを使用していたので、その後、追体験を求めて、のめり込んでいきました。

もちろん二度と同じ体験は起きません。


これは人に対する執着にも成り得ます。

たとえその相手が、高名な聖者だとしても、その人は単なる対象であり、きっかけをもたらした外部要因に過ぎないことを忘れてはなりません。


ねこさんの場合も、彼と彼との体験については、単なる思い出として片づけて、いまを、そしていまからを生きていくのがいいと思います。


さらには、その瞬間の体感、いままでになかった幸福感に執着するのも間違いです。

まったく同じ体感は、二度と起きません。

その瞬間の幸福感は、自分の意識が無限大に広がったことによる副産物であり、その直前の意識状態とのギャップによって引き起きています。


繰り返しますが、同じことは起きません。

そしてどんな素晴らしい感覚も、終わった後は記憶に過ぎません。

その瞬間に対する思い出は、その瞬間に存在したリアリティーではないのです。

このことは、ねこさんだけでなく、素晴らしい体験をした人たちがハマりがちな罠なので、くれぐれも注意が必要です。


あっ、いま読み返してみたら、その後のコメント欄で、大空さんや藍さんが、ねこさんにレスしてくれていましたね。

ありがとうございました。








   


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2月17日の松山(四国)講演会の受付を開始します。

今回は道後温泉でやらせていただきます。


えっ?お前が行きたいだけだろって?

はい、そうです(^o^)


詳細はコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:29Comments(68)

2013年01月08日

ああ、もどかしい・・・

幼年期、少年期、思春期、青年期、壮年期と生きてきましたが、自分の内側で感じている存在感(生命感)は、何も変わっていません。

自分がずっと持ち続けているこの内的感覚を言葉にするのは難しいですが、この内的感覚は僕個人のものではなく、あらゆる人に内在しています。


あなたが内側で感じている「自分は存在している」という感覚は、あらゆる人、いやあらゆる生命体が内側で感じているそれと同じものなのです。


言いたいこと伝わっていますか。


だから

「私はあなたです」

と言い続けてきましたし、


「あなたが全てです」

と言うのです。







でも人は、この内側の存在感覚を、自分だけの個的感覚だと思っています。

その錯覚を分離意識と呼び、すべての内在感覚がまったく同じひとつのものだという発見を「全体意識」「ワンネス」と言います。


ああ、言葉はもどかしい、もどかしい。


こんなに単純な、そして明白なことなのに、伝える術が言葉でしかないなんて。


本当はギュッと抱きしめてあげて

「ほら、これがあなたですよ」

と伝えてあげたい。


あまりにも簡単な真実に、誰もが驚きを隠せないでしょう。


みんなでそれが分かれば、すべての争いはオシマイです。



個=全体

分離意識から全体意識へ


この気づきが、あらゆる人の宿命です。






   



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1月の名古屋、大阪、東京、各ソロ講演会は満席のため受付を終了しています。

キャンセルされる場合は、なるべく早くご連絡ください。


2月17日は松山(四国)でソロ講演会があります。
  


Posted by Toshiro Abe at 14:54Comments(130)

2013年01月07日

見ろよ青い空 白い雲

気持ちの切り替えの達人になれるといいですね。


誰か気になる人がいたとしても、その人の事は、一日10分以上は考えない。

何か気になることがあるとしても、そのことも、一日10分以上は考えない。

一日10分を目安に、練習してみませんか。


思考は選ぶことができます。

そのためには、自分がいま何を考えているかに気づくこと。

気づけば他の思考を選択できますが、気づかなければいつも同じ世界を堂々巡りです。


ちなみに僕は、一日の半分を無思考で暮らすことを心がけています。

無思考と言っても呆けているわけではなく(笑)、ただあるがままに在るという感覚で生活します。

単純な作業は、無思考で完璧にやってのけることができます。

だって、何かの仕事をしながら、他のことを考えている時って多いでしょ。

その思考は無用なのです。


考えないというのは、ちょっとしたコツが必要ですが、瞑想習慣が定着すれば誰にでもできることです。

たとえ自己流でも、日々の瞑想を心がけるのは、とても役に立ちます。



ひとつのことを考え続けていれば、不快な気持ちになっていくものです。

ストレスの多くは、そこから生じているのです。



さあ、空でも見上げて、深呼吸してみましょう。







見~ろよ~青い~空~

白い雲~


そ~のうちな~んとか

な~るだろう~



 必聴
  ↓
だまって俺についてこい










   
  


Posted by Toshiro Abe at 12:20Comments(60)

2013年01月06日

類は友を呼ぶ

自分の意識レベルが変わってくると、付き合う人たちが変わっていきます。

とても仲が良かった人と、いつのまにか距離ができていたりもします。

一緒にいても楽しくなくなってきて、懸命に相手に合わせている自分を見つけたりするのです。


僕たちは波動のキャッチボールをしているので、同じような種類の波動同士でなければ話が合いませんし、居心地もよくありません。

余談ですが、それは死んでからも同じで、同じような仲間が村を作って暮らしているという表現は、当たらずとも遠からずだと思います。



これは対人だけではなく、現象にも当てはまります。

自分が発している波動が、それに見合った現象を引き寄せています。


このことについては、幾つかの角度からの説明が必要になります。

いま波動という言葉を使いましたが、同時にそれは、対象を見るときのフィルターの色のようなものです。

ですから同じ対象を見ても、それがどう見えるかは、フィルターによって変わってきます。


疑いのフィルターを持っている人は、どんな人にも裏があるはずだと考え、この世は油断ならない世界として映っています。

真心で生きている人は、誰の中にも愛と誠実さを見て取ることができます。

それは結果的に、一方は疑いによる緊張の世界を、もう一方は安心の世界を引き寄せていることになり、同じ世界にいるのに、違う世界に暮らしています。

このことを、「生きる世界はその人を映し出す鏡だ」という言い方をするときもあります。





一方で文字どおり、自分が発する波動が、似たような波動を引き寄せているということも起きています。

波動は磁石のようなものだからです。


ですから、

信頼が欲しければ、自らの真実を話し行動することです。

温もりが欲しければ、温かさを発揮することです。


与えるものが受け取るものです。



ちょっと堅苦しい文章になってしまいましたが、このことも生きる上での基本の一つだと思います。










   
  


Posted by Toshiro Abe at 12:46Comments(70)

2013年01月05日

変身!

さて、今日のメッセージも、ちょうどタイミングよくこの内容を必要としてくれる人のためのものです。

一部の人の役に立てればという思いで書いてみます。


週明けから仕事が始まるという人も多いでしょうが、やれやれと思っている人もいるでしょう。

ワクワク感が無くなって、どこかの感覚がマヒしてしまっていたら、時間が早く過ぎてくれることだけを望むようになります。

特定の人の態度に怯えながら仕事をするというのも、辛いものです。


いったんこのパターンにはまってしまうと、日々の生活から色彩感が消えてしまいます。


そんなときは、違う自分になってみるというゲームをお勧めします。

肉体は変わらないので、周囲から見えるあなたは同じですが、あなた自身は、自分が去年までの自分ではないことを知っています。


じゃ、どう変わればいいか。

これは人それぞれのセンスによって違うでしょう。

ただ一つ言えることは、その気になれば、どんな自分にでもなることができます。



仕事場で、人間関係がぎくしゃくして、仕事内容も面白くないとしたら・・・


もし僕なら、水のような人になると思います。

もう一度社会で生きるとしたら、そんな人で生きると思います。


水は器が変われば、たちどころにその器の形に順応します。

「私の本来の形はこうだ」などと抵抗しません。

しかも形が変わっても、水は水であり、H2Oとしての本質は何も変わっていません。

自分を失わずに、周囲の形に順応していく、それが水の生き方です。



ひとたび流れたら、水は最も低いところを選んで流れていきます。

誰かよりも優位に立とうとか、秀でた自分であろうとか、そんな発想はありません。


最も下にいるので、誰かから馬鹿にされても傷つきません。

最も下にいるので、誰からも注目されなくても淋しくありません。

だってそれが自分の立ち位置なのだから。


自分の役目は、一番底辺から、あらゆる人を支えることです。

人の多くは自分を認めてもらいたいと密かに望んでいます。

だったら、その人を心から認めてあげる側に立ちます。


もし違う意見をぶつけられたら、そのまま受け入れます。

意見を全部受け入れたとしても、大したことじゃありません。


実際、仕事や生活の中で起きていることに、大したことなどないのです。

もし相手の言動が、明らかな間違いであれば、相手のプライドを傷つけずに、こっそり軌道修正してみるかもしれません。

でも修正できなければ、それはそれです。

大騒ぎすることはありません。






僕が会社員ならば、自分がいることでこの会社に何をしてあげられるかということに徹します。

会社が自分にしてくれることではなく、自分がしてあげられることを考えます。

そしてどんな仕事だろうと、全力で取り組むと思います。


すると、遠からず次のレベルの仕事に移ることになります。

会社がそんな人材を放っておくわけがないからです。

これは若いころ、バイト先で実践的に学んだことですが、いまも真実だと思っています。



いま僕は好きなことをして生きていますが、もし環境が劇的に変わって、生活がどん底に突き落とされたとしても、いまと同じ心境で生きていくと思います。

どんな形にだってなれますし、底辺を流れていくことができます。



ただ、水のように生きるだけです。







   


・・・・・・・・・・・・

一月の講演会のお知らせです。

どの会場も残り席わずかです。

詳細は都市名をクリックしてください。


1月14日 名古屋

1月20日 大阪

1月27日 東京


  


Posted by Toshiro Abe at 11:30Comments(80)

2013年01月03日

さて、夢でも見てみるか

人生は、眠っているときに見る夢のようなものです。

何故こんなことを繰り返し言うのかといえば、


「どうせ夢なんだから何でもいいや」

って思ってもらいたいわけじゃありません。


そうじゃなくて

「どうせ夢なんだから、失敗を恐れずに思い切り生きてみようよ」

って伝えたいんです。


もちろん、そうしなきゃいけないなんてことはありません。

何だっていいのも事実です。


でもどうせ何だっていいのなら、与えられた可能性を全部使って生きてみようよって、これは理屈じゃなくて、本能的にそう思うのです。


幼児たちがイキイキと自分を生きているように、僕たちも本質の部分で、今もそういうエネルギーを持っています。

それなのに大人になるにしたがって、理屈だけが先行し、言い訳が上手くなり、小さくまとまってしまうのです。


犬も歩けば棒にあたるじゃないですが、何かを始めると、そこに出会いが生じます。

それは人間との出会いだったり、情報との出会いだったり、インスピレーションとの出会いだったりですが、とにかくまた新たな展開に結びついていくのです。

人生はそんなことの連続です。


年が改まって、心機一転するにはいい機会だと思いませんか。

運命は、たったいまから、劇的に変えていくことも可能です。

劇的に変わってみれば、そうなることに決まっていたことになりますが、どう決まっているのか今は分からないのだから、決まっていないのと同じです。


合言葉は「ブレイクスルー」

無理だ、出来ない、と思っていることを、次の瞬間にやっているのです。

冒険した分だけ新しい可能性に出会っていく、それが生きるということです。


この肉体はいつか死ぬんだから、死ぬまで思い切り生きてみませんか。


やる事に、大きいも小さいもありません。

そんなものは比較に過ぎません。


僕自身は、宇宙のカラクリを体感したあと、30代、40代と、心のどこかが冷め切っていました。

「な~んだ、そうだったのか」と分かった後は、なんでもいいやと思っていたのです。

若くして隠居した気分でした。


でもアラ還のいま、気分はメラメラと青春しています。




メラメラ





で、お前は何がやりたいのかって?


まずは、小さくまとまってしまった人に、喝をいれていきます。



今日のところは、声を上げるだけにします。



イケ~!




イケ~!





イケ~!





大丈夫!何とかなる!









   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:05Comments(160)