2008年04月30日

他人の目

僕たちは、自分で自覚している以上に人の目を気にして生きているようです。

人の目の中で生きていると言ってもいいかもしれません。



なぜ僕たちは、必要以上に他者の目(他者の評価)を気にしてしまうのでしょうか。







実は人の目というのは、僕たちにとって、自分の存在にかかわる重要な意味を持っています。

その理由は、僕たちが今まで、人の目を通して自分自身を知ってきたからです。



それは物心つく前から始まっています。

たとえば赤ちゃんのころ、母親が自分を見ると嬉しそうな顔をしてくれました。

すると赤ん坊は無意識に、自分は人を喜ばせる力がある、自分は重要な存在だと感じます。


言葉を覚える前から、自分が何者かという情報を、他者の自分に対する態度によって確かめてきたのです。



反対に、無視されたり、馬鹿にされたりすると、自分の中には人よりも劣っている面があると信じてしまいます。


そうやって自己イメージを作り出してきました。


このやり方は、幼少期から思春期、青年期、そして大人になった今も、あいかわらず続いています。



こうやって客観的に見てみれば、他者の自分に対する態度は、あまり当てにならないのがわかります。


赤ん坊だった自分の前でいつも幸せそうにしていた母親は、もしその赤ん坊が自分でなくても、母親の子であるという事実があれば、同じように幸せな顔を見せたでしょう。


自分を無視したりバカにしたりした相手も、もしその相手が愛情豊かな人であれば、同じ自分に対して、もっと温かい反応をしてくれたことでしょう。

自分の価値が低いから馬鹿にされたのではなく、相手にそのような反応をする能力しかなかったから馬鹿にされたのです。



その時々に見せる相手の自分に対する態度や評価は、必ずしも自分を反映したものではなく、その相手自身のその時の「人となり」を表しているだけです。

ところが僕たちはそれを、自分自身を示す情報だと思ってしまったのです。


人はそれぞれが持つ価値観や判断基準、そしてその瞬間の気分によって、見たいように見ています。



それがわかると、少し楽に生きられます。

人がどう思おうと、自分は自分ですからね。






それからもうひとつ。

日本人は西洋人に比べて、人目を気にする傾向が強いと言われています。



それはおそらく、僕たちの中に農耕民族の血が流れているからではないでしょうか。

村内で共に協力しなければ生きてこれなかった現実の名残かもしれません。

ご近所様に変に思われたり、嫌われたりすることは、死活問題だったのでしょう。



村八分という言葉もありますよね。


ちなみに村八分とは、火事と葬式の二分以外は、いっさい無視するというものです。

火事と葬式も親切で関わるのではなく、火事は延焼して自分たちに被害が及ばないように、葬式は死体を放置して伝染病の原因にならないようにという、自分たちを守るために必要だったからです。



けっこう過激な仕打ちですよね。

そんな恐怖も刷り込まれているのかもしれませんね。




世間体を気にして生きるよりは、自分の心のままに生きたいものです。



こんなことを話している僕は、まったく人目を気にしないのかと言えばそうではありません。

やはり、人様の目を気にして生きている自分がいます。



あまり過度でなきゃ、それも必要かもしれませんね。

街を裸で歩くわけにもいかないし・・・




そんなこんなで、気楽にいきましょう。




今日のひとこと。

「人は見たいように見る」






何かを感じてくれた人は押してください。

   





沖縄で再び歌い出して丸7年が経ちます。

5月の2日3日は、母家で7周年記念コンサートをします。
会いに来てくださいね。
  


Posted by Toshiro Abe at 07:49Comments(7)

2008年04月29日

メッセージ

こうして毎朝パソコンの前に坐り、何を書こうか考えています。

そして、何かひらめくと一気に書き上げます。


同じテーマがひらめいたとしても、書く時間が一時間違えば、文体も内容も微妙に違ってくるので、ブログの記事というのは、書く側にとってもまさに一期一会の出会いです。





何気なく書いたつもりの記事が、特定の人にとって、まさに出会うべくして出会った記事で、その時の悩み事の解決につながったとか、タイムリーな情報だったというメールを頂くことがあります。


たとえば昨日も、「あなたは死なない」という記事を書きましたが、東京の親しい友人からメールをもらい、彼のお父様がその前日に亡くなられたのだそうです。

いつもこのブログを覗いてくれているようですが、わずかでも彼への力づけになれたとしたらよかったと思います。




一方でアドバイスもいただきます。


たとえば僕自身が長く生きてきて気づいたことを基にして、「自分の都合に固執することなく他者の幸せのために生きた時、自分の夢や希望が次々と叶いだす」ということの不思議を書きました。


するとある方からメールを頂き、自分を差し置いて他者のために生きることが、自己犠牲につながり、病気の原因になる人がいるとの指摘でした。


なるほど・・・僕のように「自分!自分!」で生きてきた人間には大きな気づきでも、反対に自分を出すことができずに、いつも他者を優先して生きてきたタイプの人にとっては、あてはまらないメッセージだったかもしれません。


むしろ、そのような人には、「もっと自分を大切に」という内容のほうが役にたったことでしょう。




いつでも誰にでも当てはまる普遍的なメッセージは少ないのかもしれません。

同じ言葉でもその時々で、必要としている人や、むしろそれが邪魔になる人、それぞれだと思います。



だから言葉を鵜呑みにすることなく、自分にとってどのような意味があるのかという観点から読むことが大切なのかもしれません。




いや、ちょっと待ってください。
今書いた「自分にとってどのような意味があるのか・・・・」という言葉さえも、人によっては、いつもそのように自分の中で文章を判断してしまうことで、作者が何を言おうとしているのかを取り逃がしてしまうタイプもいて、そのような人はむしろ自分をいったん空っぽにして、ありのままの内容を感じてみることが必要かもしれません。


何事も、信頼した分だけ受け取るからです。



あははニコニコ、文章というのは読み手の解釈に委ねるという宿命があるので限界がありますね。



そんなこんなを考えると、何も書けなくなってしまうので、今日も思いつくままつらつらと書きつづってみました。



こうした僕の毎朝の日課が、ほんのわずかでも誰かの心に響き、時には少しでも心が軽くなってくれたらと思います。


これからも心を込めて記事を書いていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。





今日もここに来てくれてありがとうござました。







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PS

このブログと並行して書いている裏ブログの随(かんながら)神では、この数日間、「自我」に関するメッセージを、チベット仏教の観点から解説しています。
少し難解かもしれませんが、興味がある人は覗いてみてください。  


Posted by Toshiro Abe at 08:19Comments(8)独り言

2008年04月29日

いまここ塾in那覇

お知らせです。


9月16日と、9月23日の両日は、吉の浦会館が休館日のために、いまここ塾の会場が変わります。





那覇市西3-11-1 

那覇市男女共同参画センター「てぃるる」 (866-9090)


19:00 開場

19:30 開演


参加費 500円

  


Posted by Toshiro Abe at 01:21Comments(0)

2008年04月28日

あなたは死なない

世の中は大型連休ですか。


我が家は毎年どこに行くでもなく、なんとなく連休を過ごしています。

子供もどこかへ連れて行けと言わないし、僕たちも出不精なので、この傾向は将来も変わらないと思います。


昔は旅行に行くのが好きでしたが、今は行ったその日に家に帰りたくなってしまうのです。


だったら最初から家にいたほうがいいですよねニコニコ



さて今日もソクラテスの話をしましょう。

彼は西洋が生んだブッダです。



ブッダが西洋に生まれると、しばしば殺されてしまいます。

それは本当に突き抜けたブッダは、既存の権威をことごとく否定して、新しいビジョンを打ち立てるからです。

一神教の文化では、ブッダは神への冒涜者になってしまうのでしょう。







そんなソクラテスが死刑を宣告されて、投獄されたとき、彼は早く毒を飲みたがったそうです。


それは絶望感から自暴自棄になったのではなく、死への興味から早く体験したかったようなのです。




結局彼は、実際の期日より早く毒を飲んだそうなのですが、自分が死んで行く経緯を詳しく報告しています。


彼は自分を取り囲む弟子たちに、このように言ったと伝えられています。



「毒が私の体を蝕んできたのがわかる。
私の腕の感覚がなくなってきた。
腕はすでに私の一部ではない。
しかし私という存在は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「足の感覚が消えてきた。
もはや足は私の一部ではない。
しかし私という存在は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「目が見えなくなってきた。
私から光が奪い去られていく。
もはや何も見えなくなった。
しかし私自身は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「耳が聞こえなくなった。
音が私から消えてしまった。
すでに見ることも聞くこともできなくなっている。
しかし私自身は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「舌が痺れてきた。
これ以上話すのは不可能だ。
これが私の最後の言葉になるだろう。
毒は私の体をことごとく破壊していった。
しかし私という存在は何一つ失われることなく、いまも『ここ』にいる」



そして彼の体は完全に機能停止しました。

しかし彼と言う存在が、いまも『ここ』にいるのは、弟子のみんなに理解できたそうです。


痛みというものを、自分から切り離せる境地にまで達した彼だからこそできた離れ業ですね。





さて、もし僕が交通事故にあって、両手両足を切断してしまったとしても、僕自身は何も変わらずに僕自身だと思います。

同じように目が見えなくなっても、音が聞こえなくなっても、姿かたちがどんなに変わろうとも、僕は僕自身だと思います。



僕たちは身体を超えた存在なのです。


身体と心はワンセットだという話は以前にもしましたね。


身体の一番内側にあるやわらかい部分が心です。

心の一番外側の固い部分が身体です。


それは、心身という一つのものなのです。


したがって死ぬ時はその両方が消え去ります。



しかし、心身を使用していた自分自身、自分という存在はずっと『ここ』に残り続けます。

それが魂と呼ばれている存在で、魂は自空間を超えて存在するので、決して死ぬことはありません。




あなたが死ぬ時、いったい何が起きるのか。


その答えは「何も起こらない」です。




なぜならば、あなたは死なないからです。






今日もここに来てくれてありがとうございました。






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Posted by Toshiro Abe at 08:42Comments(4)

2008年04月27日

愚か者



ソクラテスの有名な言葉。

「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」


この言葉は、ソクラテスが謙遜して言ったのではなく、実際に何も知らないということを知ったという、まさにそのままの意味だと思います。


彼の足元にも及ばない僕たちが、まるで何かを知ったような顔して生きているのはまさに無明のなせる業です。


そんな僕たちは、実際には滑稽なほど愚かなのです。

愚か者が愚かなのは、自らの愚かさに気づかないところでしょう。




道端に咲いている花ひとつ取っても、花弁や茎や雌しべや雄しべなど、分解して名前をつけて、生態を観察して、さも知ったように思っていますが、その花が何故生きているのか、花を生かしている力は何なのか、誰も何も知りません。


この世は不思議に満ちています。

この世は奇跡に満ちています。



僕は人生の中で何度か「あーそうだったのか!!」という深い気づきがありました。

その気づきの中には、自分は何も知らないということも含まれていました。


何一つ知るはずもなく、そもそも言葉で表せるようなものは全部仮説に過ぎず、真実は到底言葉で表せないと感じました。


ところがまたこの小さな自分に戻ってみると、まるで何かを知ったかのようなつもりの自分がいて、この愚かさは救いようがないと思います。



自分が何も知らないということを常に自覚していられたら、今生かされていることに対して「おかげさまです」「ありがとうございます」と言えるんでしょうね。


宇宙のことも命のことも何も知らない僕たちが、知らないということを忘れて、わかったような顔して生きているのですから、人間は滑稽な生き物ですね。





最後に、関連するお話をひとつ。



国を代表する大学者でその国の大臣を務める男が、有名な聖者を訪ねました。

男はこの世の学問をすべて修め、知らないものはなかったのですが、唯一この聖者の持つ神秘的なムードだけは、十分に理解できないでいました。



男「聖者様、今日この私に、深遠な知識を授けて下さい。大いなる気づきを与えてください」


聖者「よろしい。それでは今から外に出て、黙って天を見上げてきなさい」



男は外に出ると天を仰ぎました。


しかしその日は悪天候で、強い雨が降っています。

天に向けた男の顔に、雨が容赦なく襲いかかりました。



それでも聖者の言いつけを守って、いつまでもいつまでも顔を上に向けていましたが、そのうち、こんなことに何の意味があるのだろうと疑問を持ち始めました。


そして部屋の中にいる聖者に大声で叫びました。

「いつまでやっていればいいんですか!」



すると聖者が言いました。

「何かに気づきましたかな?」



男「雨が顔にあたって、こんなことをしている自分が馬鹿に見えてきました」



聖者「おお、そうか、馬鹿に見えてきましたか。わずかな時間で一番大切なことに気づきましたな」




男「・・・」





今日の話はこれでおしまい。



素敵な日曜日をお過ごしください。





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Posted by Toshiro Abe at 10:19Comments(5)

2008年04月26日

聖火リレー



この時間、今まさに聖火リレーが行われています。


おそらくこれから数日間のニュースは、長野の聖火リレーでの顛末が大きく取り上げられることでしょう。

いったい何のための、誰のためのイベントだったのかという思いが残ります。



このような情勢の中で、この国がどんな意見を持っているのかさえも見えてこないのは何故でしょう。

お得意の事なかれ主義でしょうか。



僕が一番危惧するのは、聖火リレーのことに話題が集中し、その背景にある中国共産党による民族弾圧と、今現在も進行中の拷問や殺戮などの暴挙が見えなくなってしまうことです。

その本質を見失ってはいけないと思います。



中国政府がダライラマ側と対話の用意があると報道したそうですが、本当に問題を解決する意思があるのなら、まずはダライ・ラマが何度も要請しているように、「国際機関による実態調査」を受け入れるのが先です。

それをしないと、中国政府が何を言っても、何をやっても、国際世論を鎮静化させるためだけの対策に見えてしまいます。



僕が今日一番伝えたいのは、聖火リレーの騒動のことが問題なのではなく、中国のチベット弾圧こそが問題なのだということです。


実は今日も、まったく違う記事を書いていたのですが、こちらを載せることにしました。




まだメディアが問題を正確に報道する前から、このブログでは中国政府の実態を書き綴っていました。


そのころ複数の人たちから善意の警告を受けていました。

中には、実名で書くのは命が危ないからやめておくようにという忠告もありました。


でも、声を上げ続けてきてよかったと思います。

このささやかなブログが、何か現実に影響したとは思いませんが、それを書かなかったら、自分自身の生きざまとして納得がいかなかったからです。


何が真実なのか、どう生きるべきなのか、その追及を忘れてまで、ぬるま湯の中で生き残りたいとは思いません。



これからも馬鹿な独り言を綴っていこうと思います。



今日もここに来てくれてありがとうございました。






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Posted by Toshiro Abe at 11:55Comments(9)

2008年04月25日

足心呼吸

僕たちは一日のほとんどの時間を、頭の中でゴチャゴチャと独り言を言ったり、何かを思い描いていたりして過ごしています。

しかもそのことを自覚しているわけではなく、無意識に次から次へと・・・ずっと・・・朝起きてから夜寝るまで・・・ずっと・・・ずっと・・・


その思考の連続性にギャップを持たせてあげるのが瞑想です。

瞑想は頭の休息だと思えばわかりやすいと思います。



忙しく時間に追われていると、つい何事も効率よく処理しようとして、無駄な時間は極力避けたがるものです。

でも無駄に見える時間は、実はものすごく有用だったりします。


ほんのわずかな思考の休息でも、心身に与えるプラスの影響は大きいのです。


そのことがわかると坐禅の習慣が身に付いてきます。


でも多くの人は、なかなか始められないし、始めたとしても三日坊主で終わってしまいがちです。



そこで今日紹介するのは、日常の中で簡単に行える瞑想です。


椅子に座ってやるので、電車の中でも、オフィスでも、家の中でも、映画館(?)でも、どこでもできます。




まずは、椅子に深く腰掛けて、少しお尻を後ろに突き出したような感じで、ほんの少し前かがみになり、いったん背筋を後ろに反って伸ばします。

こうすると、背筋が伸びて気持ちがいいです。


次に、身体の力を抜いて、自然体でまっすぐに座ります。

顔はアゴを引いて真正面を向きます。



手は図のように、右手の4本の指を左手で軽く握り、左の親指の上から右の親指をかぶせます。



これは「白隠流」という手の形です。


そうやって握った両手を膝の上にのせます。



すると両手が、お臍の10cmくらい下にあります。

そこが丹田(たんでん)と呼ばれる位置で、腹式呼吸をする時の中心です。




顔は正面に向けた状態で、視線を1mくらい先に落とします。

すると眼が半分開いて、半分閉じた状態になり、それを半眼(はんがん)と呼びます。

多くの仏像がこのような眼をしているのでわかるでしょう。


少し慣れてくると、見ているようで見ていない状態になります。

それはとてもいい状態です。

なぜなら、目の前で起きている出来事と、自分の心との間に距離が生まれるからです。



そうやって、見るでもなく漠然と見ている状態にします。


これで姿勢は完成です。

この形ならば、電車の中ても変に思われません。




次は呼吸です。


この瞑想は呼吸の仕方に特徴があります。


息を吸うときに、足の裏の「土ふまず」から空気を吸い込むイメージをしてみます。

実際には鼻から吸っているのですが、足の裏から空気が入ってくるとイメージするのです。


その息は徐々に「ふくらはぎ」に上がり、膝を通って「太もも」に上がり、やがて下半身から丹田にたどり着きます。


その時、お腹をゴム風船のように膨らませると腹式呼吸になります。



いっぱいに吸い込んだら、いったん息を止めます。


そして、丹田からゆっくり吐き出しながらお腹をへこませていきます。



吐いた息は、さっきの逆で、下半身から「太もも」へ、さらには「ふくらはぎ」を通って、足の裏から外に出ていきます。

全部吐き出したらいったん止めます。

そしてまた足の裏から、ゆっくり息を吸い込んでいきます。



足の裏と丹田の間を、呼吸が行き来するのです。


吸う息も吐く息も、できるだけゆっくりにします。

一呼吸20~30秒間くらいかけるといいでしょう。



そうしている間にも、頭の中はゴチャゴチャと考え事をしていますが、それを無視して、足で呼吸しているイメージに専念してみるのです。


すると徐々に上半身のことを忘れていきます。




そんな呼吸を10分間くらい続けてみます。

もし可能なら、それ以上どれだけ長くても構いません。



そうやって意識を下に降ろすことで、心の安定にも健康にも大変効果があります。



やり方はわかりましたか?


本や新聞を読んだり、テレビを見たり、ぼんやり考え事をしていた時間に、この瞑想をやってみてください。


きっと、その効果に驚くと思いますよ。



健闘を祈っていますニコニコ






多くの人に届きますように、ご協力お願いします。

   
  


Posted by Toshiro Abe at 08:24Comments(11)

2008年04月24日

激動の中で

今日もここに来てくれてありがとうございます。

この数日間の記事に対して、多くのコメントをいただきました。

ネットという新しい場において、多くの人たちと出会えたこと、これからも共に生きていけることをありがたく思っています。






これからますます時代の変化が大きくなっていくと思います。

その変化の波に翻弄されることなく、自分を見失わず、さらにはどのように見える出来事も、大いなる流れの一環であり、とてつもなく素晴らしい世界に移行するための一時的な試練だということを忘れずに生きていきましょう。


それは社会全体に共通して影響を与えるような世界的出来事もあれば、自分という小さな範囲の中での出来事もあるでしょう。




変化自体は良いも悪いもなく中立です。

したがって、見る側の解釈によって、どちらにでも受け取ることができます。


せん越ですが、このブログに書き綴ってきたことを基準にして、実際にそのような生き方を心がければ、変化に苦しむどころか、喜びとして経験できると思います。




僕たちは、日々の生活に巻き込まれて自分を見失いがちですが、そんな中にあって、わずかな時間を割くことで、自分のバランスを保ち続けることが可能です。



それは瞑想習慣です。


これからの時代のキーワードは瞑想だと思っています。



近い将来、僕自身の活動も大きく展開していきますが、その舞台の基本になるのが瞑想環境です。


この習慣は心身の健康にも大きく貢献しますし、激動の時代に過度な心配やストレスを抱え込まないための魂のシェルターにもなります。




明日は自宅でもオフィスでも簡単にできる瞑想法をお伝えします。



こうして、いともたやすく、情報を伝えることができて嬉しく思います。






多くの人に届きますように応援よろしくお願いします。

   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:31Comments(3)

2008年04月23日

続・告白

オリオン星座のことはずっと心の中にありましたが、もしそんなバカなことを口にしたら愛想をつかされると思っていました。

実際に呆れた人たちもいたでしょうが、そうでない人たちもいることが、コメントの反応でわかりました。

このことで、僕と同じように感じて生きてきた人が少なくないことも知りました。



それにしても凄い時代になったと思います。

何故って、もし20年前に、そういう人達を全国から探そうとしたら、どれくらい変人扱いされながら、どれくらいの労力を要したことでしょう。

おそらく20年間探し回っても、昨日コメントをくれたような人たちと巡り合うことはできなかったでしょう。



それがほんの数十分かけて記事を書いただけで、一晩でこれだけの人の情報を得ることができたのです。


僕たちはすでに、想像だにしなかった世界に住んでいるんですね。

こんな急激な変化を、事もなげに受け入れて生きているのですから、これから先の大変革も、自然に受け入れていけると思います。





さて昨日の話の続きですが、いつ見上げても、見上げた先にオリオン座があることの不思議を人に話したとしても、三ツ星が目立つからそう感じるだけだと、一笑に付されてしまうのが落ちです。

でも幼いころから同じ経験を繰り返してきた当人に言わせれば、そんな理由ではなく、確かに何かの繋がりを感じるのです。




自分は他の星からやって来たなどと言うと、あまりにも非科学的で幼稚に聞こえますが、それはすでに聞く側に宇宙というものに対する固定観念があるからだと思います。


150億年前にビックバンがあり、50億年前に太陽ができて、46億年前に地球が誕生し、36億年前に海の中に単細胞生物が生まれ、6億年前に生物が陸に上がり・・・

こうした時間軸で捉えた宇宙観は、宇宙と星々が物質のみでできているという前提での仮説です。


そのような考え方では、たとえば三ツ星の真ん中のアルニラムと呼ばれる星は1300光年先の距離にあるとされます。

ざっと、12.298兆キロメートルです。


でもこれは、時間と空間に縛られた三次元的な考え方です。



僕たち人間は肉体を持ってはいても、その本質は霊的存在です。

同じように「宇宙」も、空間と物質からできているのではなく、意識ある霊的存在なのです。

そこには時間も空間もありません。

そもそも存在次元が違うのです。


もしあえて言葉で説明するとしたら、全ては「いまここ」に存在しています。




だから、オリオンから来たと言ったのは、霊的な意味だと捉えてください。


繰り返しますが、僕たちが知っている宇宙は時空間を前提にした仮説です。

そして宇宙とは、大いなる意識そのものなのです。



宇宙意識を一度でも体感すれば、地球を含めてすべての星たちは、自分と同じ意識でできていることを実感します。



天空を見上げて、はるか彼方に星々が浮かんでいるとするのは、三次元での認識です。

三次元の考え方では、宇宙の果てがどうなっているかの説明さえつきません。



地球が丸いと知った時以上の衝撃で、僕たちが今まで学んできたことの大前提が覆される日が来ると思います。

それは僕たちが、自分たちの存在に対する深い洞察を経験するのと同時だと思います。



それがアセンションと呼ばれる現象だと理解しています。



僕たちが大いなる意識の分霊であり、すべての人たちは兄弟姉妹なのだと気がつけば、この地上にはまったく違う文化が花開くことでしょう。



そんな日が来ることを、子供のころからずっと予感して生きてきました。

そしてその予感が実感に変わりつつある今日この頃です。




あなたとの出会いに感謝します。






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Posted by Toshiro Abe at 10:06Comments(17)

2008年04月22日

告白2

最近、今まで以上に死を意識するようになりました。

と言っても、死が怖いとかいうのではありません。

単に、死という存在を身近に感じだしたのです。

死というよりは、役目の完了という感覚に似ています。




どちらにせよ、いつか死ぬのですから、このような場で今まで誰にも言わなかったことを告白しておきたいという衝動に駆られています。

むしろ、言っておかなきゃという気になってきているのです。



何故今まで誰にも言わなかったかというと、突飛な感じがしてしまって、誰も真剣に聞いてくれないと思うからです。


今でも面と向かって話す気になれません。

このような場(ブログ)だからこそ言える話かもしれません。





僕は子供のころから、周りの子供たちに違和感を持っていて、なかなか馴染むことができませんでした。


5歳くらいの頃、近所の小学生たちにひどいイジメを受けます。

近距離から大勢に石を投げられたり、騙されて動物のフンを食べさせられたり、ありとあらゆるイジメを受けました。

子供心に、イジメられる理由は自分の家が貧しくて汚いからだと思っていましたが、当時はまだ、どの家庭も同じようなものでしたので、他に理由があったと思います。

きっと一人だけ、違う雰囲気を持っていたのでしょう。



小学校に入ってからもクラスメイトに馴染めず、でもそれが寂しくて、なんとか彼らと同化したいと考えました。


そこでやったことは、彼らの喋り方や好みを真似たり、自分がすごい金持ちの子だと嘘をついて、関心をひこうとしたりしました。

その孤立感は中学に行っても高校に行っても変わらずにありました。


そんな子供時代の一番の関心は、なぜ人は生まれて死んで行くのかという、人生の意味でした。


やはり5歳のころですが、大人たちが時間の話をしていた時、実際には「今」しかないのに、なぜ時間を信じているのだろうと思ったのを覚えています。

そして人生とは「今を生きることだ」と強く感じていましたが、それも誰にも言えませんでした。



高校を中退して芸能界と呼ばれる世界に入ってからも、同じように人に馴染めませんでした。

物欲や名誉欲は乏しくて、そんな一時的なものよりも、存在の真理を知りたいという思いのほうが強く作用していました。

この世にはまだ自分がわかっていない大いなる秘密があるという予感だけは持っていました。



目に見えないものや、言葉で表現できないものに惹かれ、様々な宗教や団体に顔を出してみたのですが、そこでも強い違和感を持つだけでした。

教祖(代表)の権威や、団体の仕組みに対して反感を持ちました。





子供のころからのもうひとつの特徴は、いつなんどき夜空を見上げても、必ずそこにオリオン星座があることです。

もちろんそれは冬の星座ですが、それが出ている季節は、見上げると必ずそこにあるのです。


最初は単なる偶然だと思っていました。

オリオンはとても目立つ星なので、きっと目につくのだろうくらいに考えていました。



しかし、夜空は180度にわたって四方八方に広がっているわけで、ピンポイントで捉える確率は大きくありません。

大人になってから海外に出るようになりましたが、どの国にいても見上げればそこにオリオンがあるのです。



ある時、直感しました。

僕はあの星から来たんだと。



その直感は時間とともに確信に変わっていきました。

そしてついに、オリオンからやってきた理由の全貌を知る日が来たのです。



それはある冬の夜でした。

我々生きとし生けるもの全ては、究極的にはひとつなる存在で、全ての人は大いなる意識そのものなのだということを知る経験をしました。

その経験の中に、宇宙の仕組みや、命の本質や、ありとあらゆる答えがありました。



その答えを知った瞬間に、自分の使命を感じました。

僕はこのことを人に伝えるためにやってきた。

この人生でやるべきことは、この真実を、苦しんでいる人や迷っている人、さらには一人でも多くの人たちに伝えることだと。

そしてこの地球という星を成長させるために、然るべきところに生まれ落ち、必要な時が来て、その使命がオンになったのだと。



昔から、社会の権威や秩序に否定的な態度をとり続けていたのは、命の本当の姿を心のどこかで知っていて、これではないと強く感じていたからだと思います。


そんな僕の役目も、そろそろ仕上げの時が近づいているという感覚があるのです。

それが最近になって僕が死を意識しだした原因だと思います。



これから先、この地上では急激な変化が起きていきます。


それを世界の終焉とか崩壊とかとらえる人もいるでしょう。


でも実際には、地球を覆っている集合的な幻想から目覚めて、本来あるべき姿に帰って行くプロセスが始まっているのです。


僕は多くの人がその流れにスムーズに乗るための、ガイド役として派遣されました。

そして今日もそのために生きています。



こんな突飛な話を少しでもまともに受け止めてくれた人は、きっと僕と縁のあった人だと思います。


この地球の大きな変化を見届けるまでは死ねませんが、それはそれほど先の話ではないと思っています。



今日は変な話でしたね。

僕がオリオンから派遣されたガイドだなんてね。





これからも様々なやり方で、メッセージを発信していきます。






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Posted by Toshiro Abe at 09:59Comments(38)

2008年04月21日

リチャード・ギアとジャッキー・チェン

現実的な話と霊的な話を行ったり来たりしている当ブログを、今日も覗いて下さってありがとうございます。

きっとこの傾向も、そのうち落ち着いてくると思います。


今日も心の片隅にあることを書かせてください。







チベット問題に対して、最初に声をあげた有名人はリチャード・ギアでした。

もともと彼のファンでもあったので、「よっ!大統領!」と叫んでしまいました。


一方で、本当の大統領のブッシュからは、何も踏み込んだ発言が聞こえてきません。

もしかしたら今のアメリカは、それどころじゃないのかもしれません。

景気や市場の先行き不安が限界まで来ていたり、中東情勢も戦争勃発直前まで悪化していて、ここでまた中国という巨体を敵に回すほどの、体力も気力もないのかもしれません。


病のアメリカ経済にとって、今の中国は栄養を補給する掛け替えのない相手であり、ここでチベット問題に介入するのは百害あって一利なしということでしょう。

日本の出方は、アメリカの出方によって決まるという現実がありますが、当分はアメリカ側から強いメッセージが発信されることはないと思います。




話は少し変わりますが、リチャード・ギアと同じ国際俳優のジャッキー・チェンが「中国ばかりを責めるのは不公平だ」と発言したそうです。


アイルランド系のリチャード・ギアと中国系のジャッキー・チェンの違いでしょうか。



チベット問題を見つめてきた立場からは、「ジャッキーお前もか!」と言いたくなるような言葉ですが、実は彼の気持ちもわからないではありません。



世界を見てみれば、チェチェン周辺に対するプーチンの弾圧は、中国のチベットに対するやり方を上回る激烈なものでした。

アメリカはイラクで何十万人の罪なき人々を殺戮したのか。

9・11の報復によって、中央アジアにどれくらいの爆撃を行ったのか。

欧州の富を支えるアフリカの人たちに、彼らが行ってきた蛮行はどこに行ってしまったのか。


これが世界の現実なのに、なぜいま中国ばかりを非難するのか、これは不公平だというわけです。





冷戦が終わって21世紀を迎え、世界平和への希望が見え始めたように思った時期もありましたが、現実は何も変わっていませんね。


もしかしたら、近々、中東で大規模な戦争が起きるかもしれません。

オリンピックの後、中国のバブル経済が崩壊するかもしれません。

アメリカ経済も瀕死の重症です。



何が起きてもおかしくない不安定な世の中で、何が起きたとしても、それはより良くなるための必然だという超楽観的な気持ちだけは持ち続けていようと思います。


もし心が動揺するような大きな出来事が勃発したら、そんな気持ちを忘れないでください。


そしてその時その時、一番いいと思ったことを精一杯やっていきましょう。



今を生きるという態度さえ忘れなければ、どんな困難にも立ち向かっていけるはずです。





今日もここに来てくれてありがとうございました。





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Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(3)

2008年04月20日

チベット問題と日本国憲法

昨夜ライブが終わった後、沖縄の仲間たちと歓談しましたが、まっさきに話題に上ったのがチベット問題でした。

僕のブログの影響もあったかもしれませんが、そういう話題が自然に出てくるのは嬉しいです。

それだけ多くの人たちが関心を持ち始めたわけです。







GWの中国旅行の予約も半分くらいだそうで、煮え切らない日本政府の対応に民意が静かな抵抗を見せ始めた気がします。

ある調査によると、中国のやり方に反対する国民が80%以上で、容認するという10%余りの人たちをはるかに上回っています。


このムードは政府首脳にも伝わっているはずで、来月の胡錦濤(こきんとう)国家主席の来日が、延期になるか変更されることを期待します。

今回の来日は、チベット騒乱以降初めての外国訪問ですが、これを受け入れるということは、チベット問題に対する中国政府の対応を、日本が暗に承認したことに繋がりかねません。



一部のメディアも、起きていることの重要性をやっと認識しだした感があります。
やはり我々が事実を学び、自分たちの意見を持つことは重要なことだと思います。



中国(漢族)には中国の考え方があることは認めます。

でもそれが国際社会の中ですべてが通用するわけではなく、お互いに妥協点を見出そうとする歩み寄りがなければ、共に付き合っていけないのだということを、はっきりわからせる必要があると思うのです。

もしこのことを許してしまえば、中国政府は自分たちの強硬なやり方が国際社会に通用すると自信を深めるでしょう。

共産党独裁政権と中華思想が結び付いた時の怖さを、我々はもっと知らなければいけません。





今回のことで、ひとつだけプラスなことがありました。

それは日本国民の多くが、今の中国政府の実態を正確に見つめ出したことです。

ガス田問題や毒入り餃子事件の時でさえ、中国の本質に迫ろうとしなかった人たちが、今回のチベット問題とその後の中国政府の対応を見て、やっと闇の深さを感じだしたと思います。

彼らが平気で嘘をつくという実態を知り始めたのです。


その同じ政府が、確たる証拠もなしに南京で日本兵による大虐殺があったと主張しているわけですが、彼らの主張をこれからも鵜呑みにして土下座外交を続けていくべきなのか、やっと中立的に検証できる環境が整ってきたと思います。




最後にもうひとつ、踏み込んだ考えを話させてください。

平和憲法と呼ばれる日本国憲法についてです。


「日本以外の国は善良なのだから信用しなさい。
人の国に攻め込み・殺害し・強奪・強姦などする国は日本だけなのだから武力を持ってはいけません。」
という前提の下で作られているのが日本国憲法です。


善良な中国や北朝鮮の核ミサイルが、日本を射程距離に入れている現在、本当に憲法がこのままでいいとは思いません。

そのような国を相手に、対話によって問題が解決するなど夢物語だということが、今回のことで少しはわかってきたのではないでしょうか。

力しか信じていない相手には、それなりの備えをして、初めて交渉が成り立つのです。


力で脅してくる人間ほど、力に屈しやすいのです。

それは相手が力だけを信じているからです。



手遅れにならないうちに、相手に応じた対策を取る時が来ています。


国境が存在しても、人間は究極的にはひとつの同じ存在です。

我々が手を取り合って、共存していくという理想は捨ててはいけません。


その一方で、現実を軽視してもいけません。

我々は霊的存在であると同時に、肉体的存在でもあるからです。



もっと多くのことを語りたいのですが、長くなってしまったのでやめておきます。

憲法問題のようなものは、言葉が足りないと誤解を受けるかもしれませんね。


またの機会に考えを詳しく述べたいと思います。


今日もここに来てくれてありがとうございました。






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2008年04月19日

いまここ塾 in 方広寺 心の平和から世界の平和を

いまここの自分と周りの命への完璧な信頼、それが南無(ナモーnamo)の帰依の心であり、あるがままの悟りの境地:究極の心の平和です。

人が一時でも、このような帰依の心で三昧に坐禅するとき、自分と同時に世界が宇宙が悟りにいたり平安がもたらされます。

「扶桑の霊地」(日本のパワースポット)の奥山方広寺で、みなさまと共に心の平和を実現し、世界の平和を祈念しましょう。


2010年

10月3日(日)
16:00  受 付(大慈閣1階) 
17:00  夕 食(季節の精進料理、円明閣地下食堂)
18:30  喜納昌吉さん
         「平和祈念コンサート」(本堂)
21:00  風 呂( 大慈閣2階浴場)
22:00  坐 禅・就寝前の読経と祈り(回向)
23:00  消 灯


10月4日(月)
 5:30  起 床
6:00  坐 禅・朝の読経と祈り(回向)
7:00  朝 食(シンプルな研修食)
8:00  法 話(大慈閣3階大広間)
 読経と祈り(回向)
10:00  解 散(後自由拝観)

参加費:12,000円(コンサート、宿泊・食事代を含む)

※宿泊は方広寺研修施設ですので洗面具(タオル、歯ブラシ等)、寝間着は各自持参してください。


会 場:奥山方広寺
    〒431-2224 静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1






【バス】
・JR浜松駅から 乗り場:45番線 降り場:奥山 金額:630円 時間:60分

【車】
・東名浜松西インター:30分
・東名三ケ日インター:30分
・竜ヶ岩洞:5分



お申し込みはコチラから



問い合わせ:祥光寺住職・方広寺教学部長、向令孝へ
TEL 053-425-2593(祥光寺) 
  


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2008年04月18日

身の上話

そんな調子の学生生活でしたから、3学年から4学年に進級することが難しい状況でした。

たしかドイツ語が赤点で、補習を受けて再度テストを受けなければいけなかったと思います。



迷わず出した結論は中退です。

ちょうど折からのフォークブームで、吉田拓郎や泉谷しげるといったフォークの旗手たちが活躍しだした頃でした。


自分の主義主張を人前で歌うというスタイルに人間臭さを感じ惹きつけられました。


そこでギターを片手に上京するのですが、当時の心境は未知なる都会のジャングルに飛び込む冒険家のようでした。



上京当時はアルバイトをしながら、大泉学園にあった東映の演技研修所に通っていました。

歌手でも役者でもタレントでも、有名になれたら何でもよかったのです。



でも現実は厳しかったです。

たまに回ってくる仕事はエキストラに毛が生えたようなもので、撮影現場で見かけるスター達との距離は圧倒的なものがありました。



結局はそんな生活を2年くらい続けた後、同時進行していたシンガーソングライターへの道が開け、憧れの吉田拓郎や泉谷しげると同じレコード会社(エレックレコード)から、フォークグループの一員としてデビューすることになりました。


まったく売れなかったのですが、なぜか沖縄では数曲たてつづけにヒットし、それが沖縄との最初の御縁になります。



その後大手プロに誘われ、夢にまで見た華やかなスポットライトを浴びます。

持前の運の強さで大きな仕事を次々とやらせてもらうのですが、こちらも花開くことはありませんでした。

周囲を見れば、この業界で活躍するために生まれてきたような、才能ある若手がたくさんいます。

内心、これは時間の問題で退く時が来ると思っていました。



そのあたりについては、随(かんながら)神・エピローグに詳しく書いています。




唯一ぴったりきた仕事が、深夜放送のDJでした。

昔から人生観を語るのが好きで、不器用ながらもひた向きに生きている自分の生き様を、ラジオを聴いている中学生や高校生に語りつづけました。

その仕事も2年余りで終わってしまうのですが、その頃のリスナーが今でも僕を応援してくれるのですから、ラジオの力は大きいと思います。



結局は30歳を過ぎたころに大きな心境の変化が訪れ、全ての仕事をやめてしまいます。

その後、精神世界の本を読みまくり、魂の成長に身を投じましたが、まさか将来そのことが自分の仕事になっていくとは夢にも思いませんでした。


このブログもそんな経験があるから毎日書けているわけで、人生無駄なしを感じます。



実は学生時代のこともタレント時代のことも、恥ずかしいことの連続で、あまり思い出したくないのですが、昨日の記事に僕の高校の後輩だったという方からカキコがあり、彼の目には憧れの先輩として映っていたとのことでした。

自分の思い出や自己イメージというのは、自分本位に作り出しているわけで、実際にはそれほど格好よくも格好悪くもないんだなと気がつきました。


人生を振り返ってみると、うまくいかないことも多かったのですが、ここまで生きてきた自分を褒めてあげたいと思います。





それぞれに同じ重さの人生があるわけで、あなたの人生も僕の人生も、比べようのないオンリーワンの存在ですね。

そしてその人生はすべて、究極の開花に向かっているわけですから、どんな人生もそれでパーフェクトなんだと思います。

たとえ今の自分からどのように見えようと、人生には何一つ無駄がなく、自分の魂の流れにとって必要なことが刻々と起きているわけです。



僕たちは全員、人間の想像をはるかに超えた大いなる存在に祝福されています。

そのことを伝え続けて20数年になります。




今日も僕の話を聞いてくれてありがとうございました。





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そんな僕が久しぶりにCDを発売します。
発売に先駆けて明日、母家で記念ライブを行います。

まだ若干席がありますので、ご希望の方はこちらをご覧ください。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:12Comments(7)

2008年04月17日

告白

今、息子を学校に送ってきました。

高二になった息子を見ていると、よくもこんなに大きくなってくれたものだと思います。

親の僕が言うのもなんですが、本当にいい子に育ちました。


僕が高校の頃に比べたら、感動的にいい子です。






僕の高校時代はとても荒れていました。

選んだ高校(高専)が自分に合わずに、何もやる気が起こらず、反抗することだけが自分を証明する唯一の手段でした。

優等生が集まる学校で、多くの生徒がまじめだったので、よけいに反逆精神が燃えたのかもしれません。



3学年になってからは、制服を着るのが馬鹿らしくなり、一人だけ私服で登校しました。

最初のうちはジーンズにTシャツといった具合でしたが、そのうちエスカレートして、ボンタンに黒のダボシャツ、鎖のネックレスを付けて、雪駄履きで登校していました。

東映のやくざ映画の、菅原文太や若山富三郎の真似をしていたわけです。


馬鹿でしょ?

それが格好いいと思っていたのですから、田舎の少年だったんですね。




信じられないかもしれませんが、朝の登校時に缶ビールを買って、そのまま教室に入り、授業中にグビグビ飲むのが日課でした。

もちろん席は一番後ろです。

だいたい二時間目くらいに眠くなり、そのまま熟睡してしまいます。


お昼に起きて学食で食事してからは、たいていは午後から早退しパチンコ屋に向かいます。


御殿場線というローカル電車の中では、わざと煙草を吸うのですから、まったく手に負えないガキです。

恰好がヤクザ風なので、誰も注意しませんでした。



パチンコ屋では本物のヤクザ(今思えば下っ端)たちがいて、「よ!兄ちゃん、今日も出してるな」なんて声をかけてきます。

でもあんまり出し過ぎると「台を変われ!」って脅してくるので、その辺の付き合い方は難しかったです。



これ全部本当の話で、少しもオーバーに話していません。

今では考えられないですよね。

だいたい学校側が黙っていませんものね。




未成年のアイドル歌手が煙草を吸って引退を余儀なくされるなんてことが起きますが、アイドルの本質が不良じゃなきゃ、世の中面白くないでしょ。

みんなしていい子ちゃんになったら、この世が退屈になってしまうと思うわけです。

子供の教育によくないとかいいますが、子どもは間違いをしでかして初めて、正しさを学んでいくわけです。


最初から押しつけられた正しさには豊かさがありません。






事実、こんな僕でも今はなんとか人並みな生活をしているのですから、自分の子供が少しくらい羽目を外しても心配ないと思いますよ。


いろんな失敗をして、傷ついて、その中から気づいたことがたくさんあります。



な~んてね、一応正当化してみました。





あはは、とんだ告白になってしまいましたが嫌わないで下さいね。

この先は好中年として、まっとうな人生を歩んでいく所存です。



今日もここに来てくれてありがとうございました。






だいぶ好感度が下がったかとは思いますが、一応コレお願いします。

   
  


Posted by Toshiro Abe at 10:15Comments(18)

2008年04月16日

おかげさまです



昨日、いつものように「いまここ塾」に出かけようと、車を車庫から出した時のことです。

我が家は一階が車庫になっていて、そのまま住宅街の道路に面しています。



道に出る際には左右を確認して、車がいなければ、そのままバックでグイーンと一気に道路に出るのです。


昨日も同じように左右を確認すると車はいませんでした。



しかし、なぜか昨日に限って一気に道路に出るのを躊躇し、ゆっくり歩くような速度でそろそろと道に出ようとしたその時、急に後ろから幼児の声がしました。


え?っと思って急ブレーキを踏み、車から降りてみると、5歳くらいの男の子が子供用の自動車にまたがって、僕の車のすぐ後ろに入り込んでいたのですびっくり!




車に乗り込む時はいなかったのに、ちょうどそのタイミングで僕の目に触れることなく、車のすぐ後ろに来ていたのです。


子供の位置が低すぎて障害物を知らせるセンサーも作動せず、バックミラーにも映らず、まったく気がつきませんでした。




もしそのまま、いつもの調子で道路に出ていたら取り返しのつかないことになっていました。


その時は、「あー危なかった」で終わりましたが、後になってよくよく考えてみると、何かに守ってもらったとしか考えられず、やはり何か見えない力というものが、この現象界に働いているんだと思いました。



そう思って自分の半生を振り返ってみると、危機一髪という場面は何度となくあり、そのたびに奇跡的なタイミングや、考えられない作用によって救われてきました。


忘れていたり気がつかなかったりするだけで、そのような力はいつも僕たちに作用しているのかもしれません。




今日も何気なくこうして生きていますが、見えない力の「おかげさま」を感じます。


大切な人との出会いや、経済的な支えや、危険からの回避や、そのほかももろもろ、自分の力を超えた作用がたくさん働いていて今があるんだと、あらためて感じた昨日の出来事でした。




そう言えば、あいさつ代わりに「元気ですか?」と聞くと、「おかげさまで」という答えが返ってきますが、この「おかげさま」って誰のおかげさまなんでしょう。


きっと僕たちは見えない力に守られていることを、心のどこかで知っているのかもしれませんね。





今日もここに来てくれてありがとうございました。




あなたとの出会いも「おかげさま」ですおすまし






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Posted by Toshiro Abe at 09:37Comments(15)

2008年04月15日

チベットと沖縄

昨日見た昼のニュースワイドショーで、チベット問題を取り上げていました。


ダライラマ14世が先代の転生者として認められるまでの経緯。

ダライラマが亡命した理由。

ひとつの民族が抹殺されようとしている現状。

本物のパンチェンラマ11世の重要性。


手前味噌ですが、ずっとここで取り上げてきた問題のポイントは、間違いではなかったようです。



見ていて物足りなさは残りましたが、ひと月前に同じ番組で、チベット騒乱の原因をチベット鉄道開通による貧富格差の拡大だとしていたことを考えると、ずいぶんと正確な情報を流すようになったと思いました。






僕はテレビや新聞が、あまりチベット問題に踏み込まないのは、ある種の陰謀だと思っていましたが、もしかしたら単なる怠慢なのかもしれません。

民族が不当に弾圧され、虐殺や拷問がまかり通り、その文化が抹殺されようとしている現状は国際社会の脅威であり、絶対に許してはいけない問題なのに、意外と日本メディアの関心が薄いのです。



その原因は、メディアを担う人だけでなく、日本国民全体が、民族的誇りをすっかり奪われてしまったからではないでしょうか。



戦勝国のアメリカに魂までも抜き取られ、その隙間に反日教育が叩き込まれて民族意識が希薄になった結果、他国の民族の危機に対して、あまり大きな関心を持たなくなってしまったのだと思います。





せめてここ沖縄の人たちには、大きな声をあげてほしいと思います。

というのも、僕は沖縄とチベットにいくつもの共通点を見るからです。



大国に囲まれて生き残りに苦心した歴史。

武器を好まずに平和外交を心がける姿勢。

宗教感覚や霊的資質が日常生活の中に育まれていること。

温和で優しい気質。

自分たちの伝統文化を愛し頑なに守ってきた姿勢。

どんな苦境の中でも笑顔を絶やさない国民性。




その他にもたくさんあって、チベット人が沖縄に来ると、自分の国に帰ってきたようなムードを感じるそうです。


その同胞がここまで苦しんでいるとき、いまこそ「沖縄から世界へ」というスローガンのもと、無策な日本政府を超えて一致団結して抗議の声を上げる時だと思うのです。


その時、沖縄が抱える不当な問題の数々も、多くの人の意識に訴えることができるのではないでしょうか。




僕も微力ながら、ここ沖縄から声を上げていきたいと思っています。





今朝は違う内容の記事を書いていたのですが、いまひとつ気乗りがしなくなって、こちらの記事を書き始めました。



いまチベットで起きていることの重要さを、もっともっと認識してほしいと思います。


この問題は、人類が人類としてどう生きていくのかという、基本的な問題だと思うのです。






チベット問題が風化しないように、これからも注目していきます。

賛同してくれる人は押してください。

     


Posted by Toshiro Abe at 08:15Comments(12)チベット問題

2008年04月14日

身近な幸せ



4月も半ばに差しかかってきましたね。

時が流れる速さも、すでに意識できないくらいになった気がします。

もうどうにでもなれって(笑)


そんなスピード感の中で、自分を見失わずに生きていきましょう。




僕自身は、以前に比べて幸せを多く感じるようになっています。


収入が増えたわけではないのですが、思い当る事が2つあります。



ひとつは息子と心が通った会話ができるようになったこと。

自分の子供というよりは、一対一の人間同士として話ができるようになりました。


父と子という関係も大切ですが、それはやはり役割の中のことで、それさえも超えて人間として出会うのは、もっと素晴らしいことだと感じます。

相手は僕の半分も生きていないわけですが、それでも僕以上に何かを感じている可能性があります。

たまたま彼の部屋で難解な哲学書を何冊も見つけた時にそう思いました。


最近は男同志、対等な存在として話をするようになり、それがなんとも幸せな時間なのです。



そしてもうひとつ。

この数年間、様々な人たちとの出会いがあり、そんな出会いの中で僕がやりたかったことが次々と実現しています。

若いころはどのようにして現実を意のままに動かそうかと考え、様々なコントロールをして、四苦八苦して頑張りましたが、思うようになったことは希でした。



今はそのような作為がなくなり、縁のあった人みんなにプラスになるような気持ちを持つことで、物事がスムーズに働くのです。

人に喜んでもらおうという気持ちが根底にあれば、悪いことは起きにくくなります。



こういうことは、昔から本で読んだりセミナーで聞いたりしていましたが、年齢のおかげでしょうか、自然に身に付いてきたのだと思います。




このことは、たらいに張った水の例で説明されています。


たらいの水を自分のほうに引き寄せようとすると、その水はたらいの縁にそって向こうに逃げていきます。

反対に押し出してやると、縁にそってこちら側にやってきます。


与えれば受取り、奪えば逃げていくのです。



こんな単純な真理を、この歳になってやっと実感できるようになったのですから、歳をとるのもまんざら捨てたもんじゃありません。




人それぞれに長い人生の中で、過ちを犯しながらも何かに気づいて、そして死んで行くんですね。

また再び生まれ変わって、次は違うテーマを学んでいくのでしょうか。


摩訶不思議な人生の仕組みですが、それをつかさどっている大いなる存在の懐の中で、今日も一日生きるとします。



あなたにとっても、よい一日でありますように。





今日も読んでくれてありがとうございました。







何かを感じてくれた人は押してください。

   





毎週月曜日夜7時からラジオ沖縄で一時間しゃべっています。
思い出したら聞いてくださいね。  


Posted by Toshiro Abe at 08:13Comments(11)

2008年04月13日

花火と「わび・さび」



昨夜は日本で一番早いという、夏まつり花火大会に行ってきました。

年々向上する花火の技術とそのスケールを、忘我状態で堪能しました。


そこに集まった数万の人たち。

あたりまえになっているけれど、改めて「日本は平和だなぁ」って思いました。




花火の美しさは消えていくところにありますよね。

もし、パッと開いたまま固定されていたら、どんなに美しくてもそれ以上の感動はないでしょう。

日本人が桜や花火をこんなに好きなのは、無常の美しさを知っているからかもしれません。

僕らの人生も同じで、消えていくから美しくて尊いのでしょう。



この美学は、「わび・さび」につながっていきます。



「わび」からは「わびしい」という言葉を連想しますよね。

「さび」からは「さびしい」とか「さびている」とかが連想されます。


もともと、「わび」という言葉は、動詞の「わぶ」(落ちぶれる・落ち込む)から出た言葉で、また、「さび」は動詞「さぶ」(古くなる・色あせる)から出た言葉だそうです。

いずれにせよ、あまりポジティブな生命観ではなく、むしろ廃(すた)れていく、消え去っていくはかなさの中に、いまここの美を感じようとしているのですね。




僕はなぜか昔から茶室が大好きでした。

簡素な静けさが好きなのです。


無駄なものをすべて取り去って、「一期一会」の掛け軸と、竹筒の一輪ざし。

そこに心の満足を得られる風流が好きです。


食べ物も豪華な食事よりも、お茶漬けやお粥と梅干しが好きです。



戦後の世の中は、物質的な享受を追い求めてきましたが、もともと僕たち日本人には、このような簡素な生き方の中に究極を見つめようとする傾向がありました。

もう一度その原点に戻って、足るを知り、自然との調和を図り、あらゆる命を愛しむ生き方をしたいものですね。


このような文化は世界に発信すべき、我々の宝だと思います。


僕は最近になって、日本の素晴らしさをもっと認めて、この国に生まれた誇りと、世界に対する責任を持ちたいと考えるようになりました。


日本人は物真似しかできない。

日本人は残虐だ。


このような戦後の誤った歴史観を再検証するところから始めたいと思っています。






さて、以前紹介した玉城に建設される瞑想空間には、茶室も設けられる予定です。


来年は、多くの時間をその茶室で過ごしたいと考えています。

あなたも遊びに来てください。



一杯のお茶で、おもてなしします。





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Posted by Toshiro Abe at 11:51Comments(2)

2008年04月12日

高く飛ばしたら

もうずいぶん昔のことになりますが、東洋大学の有志が「人力飛行機を大空へ飛ばす会」というサークルを作りたいということで、その資金造成のためにコンサートを依頼されました。

その趣旨が面白かったのでお引き受けし、たしか千代田公会堂だったでしょうか、当時まだ若手タレントだった小堺一機さんを誘ってコンサートをやった記憶があります。





そこで得た資金を元に、飛行機が出来上がりました。

かなり大きなものだったと思います。


実際に飛ばすという日は、仕事が重なって見に行けませんでした。

後から「確かに飛びました」という報告を受けましたが、空を飛んだのではなく、車輪の跡が数十センチ消えていて、それが飛んだ証拠だということでした。


それを聞いた時、飛んだんじゃなくて跳ねたんじゃないかと思いましたが、彼らがあまりにも真剣だったので、「よかったね」と答えました。


そのコンサートでは、彼らのためにテーマ曲を作ったのですが、それから何年もして偶然に見た夕方のニュースで、そのサークルが紹介されていて、部員たちが肩を組んでその歌を歌っていました。





「高く飛ばしたら」


青春はいつの日も 孤独な旅人
振り返れば砂利道ばかり歩いてきた
そして明日からも この道を行くのか


言葉ばかり覚えて 年老いてしまう
足を止めてにじんだ汗をふきながら
空を見上げる 神を見つめる


高く飛ばしたら 夢を飛ばしたら
悩んだこの街も小さく見えて
高く飛ばしたら 夢を飛ばしたら
果てしない大地を感じるだろう



5月に発売するアルバムに収録します。
それに先立ってライブで先行発売します。





あれからいつも大空に憧れてきました。

いやな事があると、大空を見上げます。


そして自分の悩みが、いかにちっぽけなものかを感じてみます。

長い歴史の中で、地上で何が起きても、大空はいつも変わらず「いまここ」に広がっていたんです。




その無限の不思議さの中で生かされていることを、つい忘れてしまいます。

悠久の時間から見れば、ほんの一瞬の人生の中で、泣いたり笑ったり大騒ぎして、そして消えていくのです。

じたばたしないで天にお任せしようと決めた日から、人生がずいぶん楽になりました。



青春は孤独な旅人でしたが、今は全てと共にあります。

砂利道は変わらなくても、苦にならなくなりました。




これを読んでくれている若い人にお伝えします。


人生は生きる価値のある素晴らしい機会です。

外側の世界で何か成し遂げなくても、ひたむきに生きることで開けてくる境地があります。

すると、同じ景色がまったくちがうものに見えてくるのです。


地上の束縛から、大空の自由へジャンプする日が必ず来ます。

その祝福はすべての人に与えられていますが、今生で掴むか、来世で掴むかは、その人の命の設計図に書き込まれています。


たとえそれが1000年後になろうと、遅い早いも関係ありません。


なぜなら、たどり着いてみればそこは「いまここ」なので、遅いも早いもないのです。




本当はみんな祝福されているのです。

そのことを知れば、自分だけがよくなろうとか、自分だけが多くを持とうとか、そんな気持ちはどこかに消えてしまいます。




世界中の人が、天から与えられた祝福を実感することを祈っています。





今日もここに来てくれてありがとうございました。





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Posted by Toshiro Abe at 08:49Comments(9)