2008年10月31日
心身の健康と悟り
マクロビオティックを世界に広めた功労者の一人、田中愛子さんは、御歳84歳になられます。
昨日会われた方はわかったと思いますが、たいへん元気でいらっしゃる。
それは食べ物だけでなく、考え方や生き方の影響が大きいと思いました。
子供のころはお嬢様育ちで、美食がたたって家族みな健康を害していたそうです。
特にお母様の具合が悪く、当時はアメリカ医療ではなくドイツ医療の時代だそうで、ドイツから医師を呼んであれこれ治療をしてもらっても結局は若くしてお亡くなりになってしまいました。
ご本人の愛子さんも20歳までしか生きられないと宣告されていたのが、マクロビオティック創始者の桜沢先生とお会いし、体質が改善され、いまは64年間のおまけの人生を生きているとおっしゃっていました。
さて、その愛子さんですが、家財道具も何もかも人にあげてしまって、ご自分はリュックサック一つで世界中を飛び回っているのです。
死んだ後に持って行けないものは、何一ついらないのだそうです。
お話を伺ってみると、いっさいの人生に対する計算がありません。
まさに風が吹くまま、起るがまま、今回は窮屈なホテルしかおとりできず、しかもハードスケジュールだったのですが、終始笑顔で感謝してくださいました。
まるで袋ひとつに全ての持ち物を入れて、笑いながら暮らしていた布袋尊のようです。
本当の幸せってこういうことなんだと、はっきりわかりました。
さて、僕がマクロビオティックに興味を持ちだしたのは最近のことですが、その本質が見えてきました。
提唱者の桜沢如一さん(1893~1966)は、自然界との調和の中で、人間の体は本来健全なものだと考え、マクロビオティックという食養の分野を確立させましたが、彼が伝えたかったのは、もっと壮大なスケールのものだったようです。
それは人間と宇宙との一体性。
神と人間とは不二のものであるという考え方です。
300冊もの著作を残されているので、これからさらに研究を進めたいと思いますが、いまのところわかってきたのはこういうことです。
体は食べ物からできているので、食べ物を改善することで身体を改善することができる。
さらには、人間の心と身体はコインの裏表で一つのものなので、身体と共に心も改善される。
究極的には自然界との完全調和の中で、人は悟りの境地に近付くことができる。
それは感謝と平和と喜びと幸福の状態で、世界中の人が一人ずつそこに気づくことで、理想的な人類文化が構築できる。
ふむふむ・・・悟りという一見抽象的な概念を、食べ物という具体的な方法論によってアプローチしているわけです。
当初は、病気の人を健康にしていく食事療法かと思っていたのですが、ここにきて俄然、僕の人生のテーマと一致してきました。
今朝はなんだかメラメラと燃えています(笑)
さて一方の松本光司先生(リマクッキング校長)は精進料理の権威ですが、一目見ただけで、その人の健康状態や、どこが悪いかとか、何に気をつけたらいいかがわかってしまいます。
僕のこともすぐに当てました。
僕はおおむね健康ですが、水分の取り過ぎ(いつも妻からも指摘されてきました)のようです。
手相も見て下さり、運命線と頭脳線が素晴らしいと言ってくれました。えへっ(^o^)
55歳から事業を始め、大きな成功を収めるのだそうです。
3日前に55歳になっておいてよかったです(笑)
それにしてもマクロビに興味を持ったとたん、その世界の第一人者とお知り合いになれて、心が通じ合ったのですから、本当に僕は「ツイてる、ツイてる」です。
これからの活動の、もう一本の柱にしていこうと思っています。
みんなで心身共に健康になっていきましょう。
また勉強の成果をブログで発表していきますから、参考にしてください。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
昨日会われた方はわかったと思いますが、たいへん元気でいらっしゃる。
それは食べ物だけでなく、考え方や生き方の影響が大きいと思いました。
子供のころはお嬢様育ちで、美食がたたって家族みな健康を害していたそうです。
特にお母様の具合が悪く、当時はアメリカ医療ではなくドイツ医療の時代だそうで、ドイツから医師を呼んであれこれ治療をしてもらっても結局は若くしてお亡くなりになってしまいました。
ご本人の愛子さんも20歳までしか生きられないと宣告されていたのが、マクロビオティック創始者の桜沢先生とお会いし、体質が改善され、いまは64年間のおまけの人生を生きているとおっしゃっていました。
さて、その愛子さんですが、家財道具も何もかも人にあげてしまって、ご自分はリュックサック一つで世界中を飛び回っているのです。
死んだ後に持って行けないものは、何一ついらないのだそうです。
お話を伺ってみると、いっさいの人生に対する計算がありません。
まさに風が吹くまま、起るがまま、今回は窮屈なホテルしかおとりできず、しかもハードスケジュールだったのですが、終始笑顔で感謝してくださいました。
まるで袋ひとつに全ての持ち物を入れて、笑いながら暮らしていた布袋尊のようです。
本当の幸せってこういうことなんだと、はっきりわかりました。
さて、僕がマクロビオティックに興味を持ちだしたのは最近のことですが、その本質が見えてきました。
提唱者の桜沢如一さん(1893~1966)は、自然界との調和の中で、人間の体は本来健全なものだと考え、マクロビオティックという食養の分野を確立させましたが、彼が伝えたかったのは、もっと壮大なスケールのものだったようです。
それは人間と宇宙との一体性。
神と人間とは不二のものであるという考え方です。
300冊もの著作を残されているので、これからさらに研究を進めたいと思いますが、いまのところわかってきたのはこういうことです。
体は食べ物からできているので、食べ物を改善することで身体を改善することができる。
さらには、人間の心と身体はコインの裏表で一つのものなので、身体と共に心も改善される。
究極的には自然界との完全調和の中で、人は悟りの境地に近付くことができる。
それは感謝と平和と喜びと幸福の状態で、世界中の人が一人ずつそこに気づくことで、理想的な人類文化が構築できる。
ふむふむ・・・悟りという一見抽象的な概念を、食べ物という具体的な方法論によってアプローチしているわけです。
当初は、病気の人を健康にしていく食事療法かと思っていたのですが、ここにきて俄然、僕の人生のテーマと一致してきました。
今朝はなんだかメラメラと燃えています(笑)
さて一方の松本光司先生(リマクッキング校長)は精進料理の権威ですが、一目見ただけで、その人の健康状態や、どこが悪いかとか、何に気をつけたらいいかがわかってしまいます。
僕のこともすぐに当てました。
僕はおおむね健康ですが、水分の取り過ぎ(いつも妻からも指摘されてきました)のようです。
手相も見て下さり、運命線と頭脳線が素晴らしいと言ってくれました。えへっ(^o^)
55歳から事業を始め、大きな成功を収めるのだそうです。
3日前に55歳になっておいてよかったです(笑)
それにしてもマクロビに興味を持ったとたん、その世界の第一人者とお知り合いになれて、心が通じ合ったのですから、本当に僕は「ツイてる、ツイてる」です。
これからの活動の、もう一本の柱にしていこうと思っています。
みんなで心身共に健康になっていきましょう。
また勉強の成果をブログで発表していきますから、参考にしてください。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
08:24
│Comments(27)
2008年10月28日
菩薩(開かれた自己)
開いた自分というのは、あるがままの自分ということです。
あるがままの自分が、あるがままの状況に関わっていくのです。
考えてみれば、あまりにも当たり前の話です。
でも僕たちの多くは、その感覚を忘れてしまいました。
「あるがままの自分」とは何か、そのことを考えなければいけないくらいに、無意識に不自然な生き方をしてきているのです。
それは長い長い習慣です。
自分の安全を確保するために身につけてきた偽物の顔や言動が、いつのまにか自分自身になってしまっているのです。
しかもその自覚がありません。
だから「あるがままの自分」と言われても困ってしまうのです。
「開いた自分」「あるがままの自分」にはいくつかの特徴があります。
ひとつは、あるがままを受け止めているので、いまの自分や目の前の状況に何一つ要求していません。
そこには何かを変えようとする一切の攻撃性が消えているのです。
いまある以外の何かを獲得しようとか、何かを保障しようとかの意図がないのです。
いまを生きるとは、そういうことです。
その攻撃性の不在から、人間の本質である温かみが香り出します。
それが「慈悲」と呼ばれるエネルギーです。
頭の中から未来が消え、いまを生きているので、何かを達成しようという衝動がありません。
ただリラックス感が広がっています。
それは落ち着きと優雅さを醸し出していきます。
目の前の状況に何も求めていません。
いつもいま、その状況に最も適った行為をしていくだけです。
もし人が自分に何かを求めているとしても、その期待に応えることが優先されるわけでもありません。
その期待は、期待を持っている人のものです。
好かれるために、そこに合わせることもありません。
ただ単に最も適切な言動を選択するだけで、用意されたマニュアルもありません。
しかし結果的にそれは、多くの人の役に立ち、多くの人の救済に繋がっていきます。
なぜなら、その時の行為が正確に的を射ているからです。
それが「菩薩」です。
菩薩は菩提薩埵(ぼーだいさった)の略で、原語はサンスクリット語のボーディーサットバ(bodhisattva)です。
ボーディーは開かれた状態、サットバはそれを生きる勇気ある人という意味です。
ここまで読んだ人の中には、今まで自分が信じてきた菩薩とは違う姿を見ている人もいることでしょう。
たとえば、宗教団体や教祖が何らかの教えを説いていて、その教えを広く一般に広めることが菩薩行だということを信じている人たちがいます。
人類の何%かに教えを広めれば、地球が救われると言うのです。
これこそが本来の菩薩の在り方を歪曲した、まことにご都合主義の教えと言わざるを得ません。
自分の愛を人に押し付けようとすることこそが、攻撃性の表れなのです。
相手を自分の真実や愛に巻き込もうとするのは、野心の表れです。
それはあるがままの状況とコミュニケートする姿勢から大きく外れています。
そのようにして達成される世界平和とは如何なるものなのか、それを考える余地さえ見失っています。
愛と平和という美名と、菩薩行というヒロイズムに、すっかり飲み込まれてしまった人たちがたくさんいるのです。
本当の平和とは、平和とか戦争とかの概念を全て払拭して、プラスとマイナスの両方を持ったあるがままの現実に、自分を開いていくことから生まれてきます。
それは深い自己信頼によって達成される境地です。
なぜなら、世界とは自分の心の投影であり、自分の鏡だからです。
自分に対して自分を開き、自分を100%肯定的に捉えることが、菩薩の基盤です。
その結果、自分の行為をはっきりと認識できるので、行為が正確になっていきます。
それが結果的に人を助けるのであって、人を助けようと構えているのが菩薩ではありません。
僕たちは誰一人例外なく、菩薩になるために生まれてきた尊い存在です。
あるがままの自分が、あるがままの状況に関わっていくのです。
考えてみれば、あまりにも当たり前の話です。
でも僕たちの多くは、その感覚を忘れてしまいました。
「あるがままの自分」とは何か、そのことを考えなければいけないくらいに、無意識に不自然な生き方をしてきているのです。
それは長い長い習慣です。
自分の安全を確保するために身につけてきた偽物の顔や言動が、いつのまにか自分自身になってしまっているのです。
しかもその自覚がありません。
だから「あるがままの自分」と言われても困ってしまうのです。
「開いた自分」「あるがままの自分」にはいくつかの特徴があります。
ひとつは、あるがままを受け止めているので、いまの自分や目の前の状況に何一つ要求していません。
そこには何かを変えようとする一切の攻撃性が消えているのです。
いまある以外の何かを獲得しようとか、何かを保障しようとかの意図がないのです。
いまを生きるとは、そういうことです。
その攻撃性の不在から、人間の本質である温かみが香り出します。
それが「慈悲」と呼ばれるエネルギーです。
頭の中から未来が消え、いまを生きているので、何かを達成しようという衝動がありません。
ただリラックス感が広がっています。
それは落ち着きと優雅さを醸し出していきます。
目の前の状況に何も求めていません。
いつもいま、その状況に最も適った行為をしていくだけです。
もし人が自分に何かを求めているとしても、その期待に応えることが優先されるわけでもありません。
その期待は、期待を持っている人のものです。
好かれるために、そこに合わせることもありません。
ただ単に最も適切な言動を選択するだけで、用意されたマニュアルもありません。
しかし結果的にそれは、多くの人の役に立ち、多くの人の救済に繋がっていきます。
なぜなら、その時の行為が正確に的を射ているからです。
それが「菩薩」です。
菩薩は菩提薩埵(ぼーだいさった)の略で、原語はサンスクリット語のボーディーサットバ(bodhisattva)です。
ボーディーは開かれた状態、サットバはそれを生きる勇気ある人という意味です。
ここまで読んだ人の中には、今まで自分が信じてきた菩薩とは違う姿を見ている人もいることでしょう。
たとえば、宗教団体や教祖が何らかの教えを説いていて、その教えを広く一般に広めることが菩薩行だということを信じている人たちがいます。
人類の何%かに教えを広めれば、地球が救われると言うのです。
これこそが本来の菩薩の在り方を歪曲した、まことにご都合主義の教えと言わざるを得ません。
自分の愛を人に押し付けようとすることこそが、攻撃性の表れなのです。
相手を自分の真実や愛に巻き込もうとするのは、野心の表れです。
それはあるがままの状況とコミュニケートする姿勢から大きく外れています。
そのようにして達成される世界平和とは如何なるものなのか、それを考える余地さえ見失っています。
愛と平和という美名と、菩薩行というヒロイズムに、すっかり飲み込まれてしまった人たちがたくさんいるのです。
本当の平和とは、平和とか戦争とかの概念を全て払拭して、プラスとマイナスの両方を持ったあるがままの現実に、自分を開いていくことから生まれてきます。
それは深い自己信頼によって達成される境地です。
なぜなら、世界とは自分の心の投影であり、自分の鏡だからです。
自分に対して自分を開き、自分を100%肯定的に捉えることが、菩薩の基盤です。
その結果、自分の行為をはっきりと認識できるので、行為が正確になっていきます。
それが結果的に人を助けるのであって、人を助けようと構えているのが菩薩ではありません。
僕たちは誰一人例外なく、菩薩になるために生まれてきた尊い存在です。
Posted by Toshiro Abe at
08:11
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2008年10月27日
さらなる前進のために
声聞(しょうもん)のひとつ上の段階を「縁覚」(えんがく)といいます。
これは苦しみの原因である十二の関係性を理解し、苦しみから解脱した段階ですが、そのことを知識として知っても仕方ありません。
仏教の教義を学ぶことで何かを理解したような気になりますが、ここではもっと実際的な話をしたいと思います。
僕の経験では、これより上の世界に入るためには一人では無理だと思います。
そこには、一対一の親密な関係性が求められるのです。
親密と言いましたが、もっと正確に言えば、開かれた関係性、自分をありのままにさらけ出せるそんな出会いです。
僕自身、そのような方法で究極を経験しましたし、実際にいろいろ調べてみると、昔からそのようにして人は次元を超えて行ったことがわかります。
禅の修行の「参禅」の中でも、師と弟子のそのような関わりが起きていると思います。
頭であれこれ考えて見事な弟子を演じても、それはまったく意味をなしません。
真実であること、リアルであることが、最も重要視されます。
それは実にあたりまえな関わりなのですが、そのあたりまえなことが難しくなっているのが僕たちの現実です。
それくらい、いつだって微妙に自己を演じているのです。
あなたは自分の全てをあからさまにさらけ出したことがありますか。
それをするには大変な勇気が必要です。
自分に対してさえそれができていない人がほとんどです。
いかに自分が欺瞞性の塊であるのか、その自覚が第一歩のようにも思います。
そこを見ないで、形だけ精神の道を歩もうとしても、それは異臭を発している生ゴミを抱えたまま、豪華なリゾートホテルで過ごそうというのと似ています。
ここから先は導師(グル)が必要です。
この世で唯一大切な関わりが、導師と弟子の関係です。
そこにはリアルなものがあるからです。
でもそれは社会から消えてしまいました。
導師(グル)というと、なんだか聖者みたいな人を連想しますが、それは間違っています。
グルとは、2人の関係の中で先に心を開いている人のことです。
だから時と場合によっては、立場が入れ替わることさえあります。
グルとは固有名詞ではなく、その時に起きている状態によって決まるのです。
僕はいつもそのような関係を求めています。
相手が真剣に見性(至高体験)を求めていると感じると、自分の時間をどれだけ割いても、自分のほうから出かけていき、コミュニケーションをとろうとします。
相手が興味を持っている話から始めて、徐々に本質に触れていこうとします。
相手が気づかないだけで、もう20年以上そのような関わりだけを大切にしてきました。
いままでにほんの数名が彼方なる境地を垣間見ています。
それくらい細い道です。
結局のところ、人は彼方を求めていると言いながらこの世のものを何一つ失いたくないのです。
あれも欲しい、これも欲しいのです。
家族や仕事が何より大切だということを誰も疑いませんが、この先に進むには、それをいったん捨てるくらいの覚悟が必要です。
でも行きついてみれば、何一つ失われていなくて、むしろそれまで得ていたと思っていたものを、本当の意味で得ていることに気づくのです。
うーん、言葉で伝えるのは難しい。
でもね、これを読んでくれている人の中にも、将来僕とそのような出会いに発展する人もいるかもしれませんよ。
ま、あせらず行きましょう。
すべては御縁ですから。
今日は僕の誕生日です。
この世に産んでくれた母に、心から感謝します。
いつまでも元気でいてください。
PS
明日の「いまここ塾」は、通常どおり吉の浦会館です。
これは苦しみの原因である十二の関係性を理解し、苦しみから解脱した段階ですが、そのことを知識として知っても仕方ありません。
仏教の教義を学ぶことで何かを理解したような気になりますが、ここではもっと実際的な話をしたいと思います。
僕の経験では、これより上の世界に入るためには一人では無理だと思います。
そこには、一対一の親密な関係性が求められるのです。
親密と言いましたが、もっと正確に言えば、開かれた関係性、自分をありのままにさらけ出せるそんな出会いです。
僕自身、そのような方法で究極を経験しましたし、実際にいろいろ調べてみると、昔からそのようにして人は次元を超えて行ったことがわかります。
禅の修行の「参禅」の中でも、師と弟子のそのような関わりが起きていると思います。
頭であれこれ考えて見事な弟子を演じても、それはまったく意味をなしません。
真実であること、リアルであることが、最も重要視されます。
それは実にあたりまえな関わりなのですが、そのあたりまえなことが難しくなっているのが僕たちの現実です。
それくらい、いつだって微妙に自己を演じているのです。
あなたは自分の全てをあからさまにさらけ出したことがありますか。
それをするには大変な勇気が必要です。
自分に対してさえそれができていない人がほとんどです。
いかに自分が欺瞞性の塊であるのか、その自覚が第一歩のようにも思います。
そこを見ないで、形だけ精神の道を歩もうとしても、それは異臭を発している生ゴミを抱えたまま、豪華なリゾートホテルで過ごそうというのと似ています。
ここから先は導師(グル)が必要です。
この世で唯一大切な関わりが、導師と弟子の関係です。
そこにはリアルなものがあるからです。
でもそれは社会から消えてしまいました。
導師(グル)というと、なんだか聖者みたいな人を連想しますが、それは間違っています。
グルとは、2人の関係の中で先に心を開いている人のことです。
だから時と場合によっては、立場が入れ替わることさえあります。
グルとは固有名詞ではなく、その時に起きている状態によって決まるのです。
僕はいつもそのような関係を求めています。
相手が真剣に見性(至高体験)を求めていると感じると、自分の時間をどれだけ割いても、自分のほうから出かけていき、コミュニケーションをとろうとします。
相手が興味を持っている話から始めて、徐々に本質に触れていこうとします。
相手が気づかないだけで、もう20年以上そのような関わりだけを大切にしてきました。
いままでにほんの数名が彼方なる境地を垣間見ています。
それくらい細い道です。
結局のところ、人は彼方を求めていると言いながらこの世のものを何一つ失いたくないのです。
あれも欲しい、これも欲しいのです。
家族や仕事が何より大切だということを誰も疑いませんが、この先に進むには、それをいったん捨てるくらいの覚悟が必要です。
でも行きついてみれば、何一つ失われていなくて、むしろそれまで得ていたと思っていたものを、本当の意味で得ていることに気づくのです。
うーん、言葉で伝えるのは難しい。
でもね、これを読んでくれている人の中にも、将来僕とそのような出会いに発展する人もいるかもしれませんよ。
ま、あせらず行きましょう。
すべては御縁ですから。
今日は僕の誕生日です。
この世に産んでくれた母に、心から感謝します。
いつまでも元気でいてください。
PS
明日の「いまここ塾」は、通常どおり吉の浦会館です。
Posted by Toshiro Abe at
12:32
│Comments(41)
2008年10月26日
リハ実況中継
久しぶりのワンマンライブ。
リハをしていると本番が始まって欲しくない気持ちになる。
だって始まると終わっちゃうから。
リハで感動するときは最高の日ですよ。
ドラムのヒロト(中央)はミュージック界のダルビッシュみたいです。
Posted by Toshiro Abe at
15:09
│Comments(22)
2008年10月24日
声聞界
今日から、六道輪廻を超えた世界を解説してみます。
地獄界から天界までの六道の世界は、自分が生きている世界なので実感が伴いますが、ここからは修行を通して達成される世界なので、やや観念論になりがちです。
すでに知識として知っている人もいるかと思いますが、いったんそれをリセットして話を聞いてもらえたらと思います。
一昨日、僕に会うために関西から沖縄に来てくれた青年がいました。
何年も前に僕のワークショップに参加し、最近になってまた急に僕のことを思い出したのだそうです。
鬱(うつ)になりかけでSOSということだったので、時間を作って会うことにしました。
会ってみると好青年で、何が彼を苦しめているのかわからないほどでした。
若さも知性も美しさも全て兼ね備え、前途洋洋の身でありながら、心は人に言えないほどの苦しみを抱えているというわけです。
話を聞いてみると、悩みの原因は、自分のことが好きになれなくて、むしろ自分を否定し、恥じているということがわかりました。
楽しい時も本心から楽しいわけではなく、困っている人を見ても本心から同情することはなく、外側と内側のギャップが激しく、偽善的で冷淡な自分だと言っていました。
誰も愛したことがなく、誰も信頼したことがなく、人間として失格だというわけです。
僕は言いました。
「ふうん、僕とおんなじだね」
彼は意外そうな顔をしていました。
本当の話、僕の中にもそのような面があったし、いまでもどこかにあるし、それを醜いと言うなら、僕も醜い一人だと言いました。
ただ彼との違いは、そのような面を持っていても自分を憎んでいないし、自分が好きだし、自分を肯定していることです。
だってあるがままにそうあるのだから、それが「人間種」という生き物なのだし、じたばたしても仕方ないと思うのです。
彼がやっていることは、手の5本指を見て、太い親指と、短い小指に向かって「いつの日か全部が薬指くらいにスマートになったら、自分自身を受け入れよう」って言っているようなものです。
まず理解すべき最初のことは、僕たちの中にある全ての側面は、ただそのようにあるのであって、何一つ克服すべきものもなく、何一つ取り去らねばならないものもなく、何一つ付け足さなければならないものもないということです。
短い小指は、克服すべき問題ではありません。
愛せない、信頼できない、心底から本気になれない、そのような面は自我の特性です。
そして自我さえも、克服すべき問題ではないのです。
自我は克服するものではなく、超えていくものです。
克服しようとすると、そこにまた新たな戦いを生んでしまいます。
あらゆる内なる戦いを放棄した時に、自我を超えることができます。
あるがままで完璧で、あるがままでOKです。
絶え間ない比較や判断が、どれほど自己否定を生んできたことか。
あるがままでOK、それが「悟り」と呼ばれる境地です。
悟りとは、自分自身を訓練して改善した結果たどり着くような、高尚な境地のことではなく、まさにあるがままを認めることに過ぎません。
何かになろうとしないこと。
あるがままを、あるがままに成らしめることです。
そこに努力は要りません。
だって何もしなくても、最初からすべては「あるがまま」だからです。
だから悟ることは、この世でいちばん簡単なことです。
彼の場合も、苦しみを解決しようとしてもがいたり、目を背けたりするのではなく、単に今起きている状況に心を開くことが求められているのです。
今のままの自分では何かが欠けている、何かが足りない、何かが不完全だという感覚が常に付きまとい、それが絶え間ない思考を生みだし、それが苦しみを作り出しています。
その苦しみから逃れようと、心の虚しさを埋め、何事もうまくいくように仕向け、少しでも多くの楽しみや安全を自分に引き寄せようと必死になります。
忙しく動きまわり、絶え間なく次の瞬間を求め、何かをつかみ取ろうとするのです。
その結果が六道で見たような、束の間の達成感と失望の繰り返しです。
このような生活スタイルは苦しみに満ちていて、思いどおりにはならず、最終的には自分が自分であることにさえ苛立ちはじめます。
常に苦しみと不安が付きまとうのです。
これはだれか特定の人の状況を言っているのではありません。
自我に翻弄された人間の普通の姿です。
自分の中の思考や行動を正確に観察してみれば、それらが常に自分の安全を確保し、自分をより高めようとしていることがわかります。
実は、それが苦しみを作り出している原因です。
原因がわかれば解決は目の前です。
そのような思考と戦うのではなく、ただ思考をあるがままに見つめるような余裕を持つのです。
思考に乗っ取られるのではなく、手放してただ見つめてみるのです。
するとその中で、本来全ての人に備わっている健全な知性が顔を出します。
それは自分の中に内在する、とてつもないパワーであり、絶対の存在です。
それは何かを成し遂げようという努力を捨て、あらゆる戦いをやめて、ただあるがままにくつろいだ時、突然にして発見される目覚めた意識です。
そのような理解とともに生きる世界を「声聞界」と言います。
それは苦しみと、苦しみの原因を理解した時から始まります。
地獄界から天界までの六道の世界は、自分が生きている世界なので実感が伴いますが、ここからは修行を通して達成される世界なので、やや観念論になりがちです。
すでに知識として知っている人もいるかと思いますが、いったんそれをリセットして話を聞いてもらえたらと思います。
一昨日、僕に会うために関西から沖縄に来てくれた青年がいました。
何年も前に僕のワークショップに参加し、最近になってまた急に僕のことを思い出したのだそうです。
鬱(うつ)になりかけでSOSということだったので、時間を作って会うことにしました。
会ってみると好青年で、何が彼を苦しめているのかわからないほどでした。
若さも知性も美しさも全て兼ね備え、前途洋洋の身でありながら、心は人に言えないほどの苦しみを抱えているというわけです。
話を聞いてみると、悩みの原因は、自分のことが好きになれなくて、むしろ自分を否定し、恥じているということがわかりました。
楽しい時も本心から楽しいわけではなく、困っている人を見ても本心から同情することはなく、外側と内側のギャップが激しく、偽善的で冷淡な自分だと言っていました。
誰も愛したことがなく、誰も信頼したことがなく、人間として失格だというわけです。
僕は言いました。
「ふうん、僕とおんなじだね」
彼は意外そうな顔をしていました。
本当の話、僕の中にもそのような面があったし、いまでもどこかにあるし、それを醜いと言うなら、僕も醜い一人だと言いました。
ただ彼との違いは、そのような面を持っていても自分を憎んでいないし、自分が好きだし、自分を肯定していることです。
だってあるがままにそうあるのだから、それが「人間種」という生き物なのだし、じたばたしても仕方ないと思うのです。
彼がやっていることは、手の5本指を見て、太い親指と、短い小指に向かって「いつの日か全部が薬指くらいにスマートになったら、自分自身を受け入れよう」って言っているようなものです。
まず理解すべき最初のことは、僕たちの中にある全ての側面は、ただそのようにあるのであって、何一つ克服すべきものもなく、何一つ取り去らねばならないものもなく、何一つ付け足さなければならないものもないということです。
短い小指は、克服すべき問題ではありません。
愛せない、信頼できない、心底から本気になれない、そのような面は自我の特性です。
そして自我さえも、克服すべき問題ではないのです。
自我は克服するものではなく、超えていくものです。
克服しようとすると、そこにまた新たな戦いを生んでしまいます。
あらゆる内なる戦いを放棄した時に、自我を超えることができます。
あるがままで完璧で、あるがままでOKです。
絶え間ない比較や判断が、どれほど自己否定を生んできたことか。
あるがままでOK、それが「悟り」と呼ばれる境地です。
悟りとは、自分自身を訓練して改善した結果たどり着くような、高尚な境地のことではなく、まさにあるがままを認めることに過ぎません。
何かになろうとしないこと。
あるがままを、あるがままに成らしめることです。
そこに努力は要りません。
だって何もしなくても、最初からすべては「あるがまま」だからです。
だから悟ることは、この世でいちばん簡単なことです。
彼の場合も、苦しみを解決しようとしてもがいたり、目を背けたりするのではなく、単に今起きている状況に心を開くことが求められているのです。
今のままの自分では何かが欠けている、何かが足りない、何かが不完全だという感覚が常に付きまとい、それが絶え間ない思考を生みだし、それが苦しみを作り出しています。
その苦しみから逃れようと、心の虚しさを埋め、何事もうまくいくように仕向け、少しでも多くの楽しみや安全を自分に引き寄せようと必死になります。
忙しく動きまわり、絶え間なく次の瞬間を求め、何かをつかみ取ろうとするのです。
その結果が六道で見たような、束の間の達成感と失望の繰り返しです。
このような生活スタイルは苦しみに満ちていて、思いどおりにはならず、最終的には自分が自分であることにさえ苛立ちはじめます。
常に苦しみと不安が付きまとうのです。
これはだれか特定の人の状況を言っているのではありません。
自我に翻弄された人間の普通の姿です。
自分の中の思考や行動を正確に観察してみれば、それらが常に自分の安全を確保し、自分をより高めようとしていることがわかります。
実は、それが苦しみを作り出している原因です。
原因がわかれば解決は目の前です。
そのような思考と戦うのではなく、ただ思考をあるがままに見つめるような余裕を持つのです。
思考に乗っ取られるのではなく、手放してただ見つめてみるのです。
するとその中で、本来全ての人に備わっている健全な知性が顔を出します。
それは自分の中に内在する、とてつもないパワーであり、絶対の存在です。
それは何かを成し遂げようという努力を捨て、あらゆる戦いをやめて、ただあるがままにくつろいだ時、突然にして発見される目覚めた意識です。
そのような理解とともに生きる世界を「声聞界」と言います。
それは苦しみと、苦しみの原因を理解した時から始まります。
Posted by Toshiro Abe at
08:54
│Comments(13)
2008年10月22日
僕がやりたいこと
社会の中では、心を開きあって魂のレベルで交流したり、生きる真実について語り合う場面はほとんどありません。
形式上のあいさつや、お互いの都合をやりとりするだけの会話で終始してしまいがちです。
僕はそのような時間が好きではないので、あまり外に出かけることがありません。
でも講演会やコンサートを開かせてもらうと、自分主導で「場」が作れるので、一番話したい内容を話すことができ、有意義な時間を過ごすことができます。
だからそのような活動は、僕にとって何よりも大切です。
ブログもしかりです。
僕は宗教家ではありませんが、「宗教性」は生きる上で最も重要なことだと思っています。
その「宗教性」を学ぶために、人々は一か所に集い、そこからさまざまな宗教が生まれていきましたが、それはネットがなかった時代の話です。
いまや僕たちは、好きな時間に好きな場所で、共に学びあうことができるようになりました。
これは人類史上初めて出現した、時空を超えた「サンガ」だと思います。
サンガ(SAMGHA)とは真理を学ぶために修行生活をする集団のことで、そのまま漢字を当てはめて僧伽(そうぎゃ)と言います。
この僧伽から僧侶という言葉ができました。
したがってこのブログはネットサンガであり、真摯な気持ちでこれを読んでくれる仲間はネット僧侶ということになります(笑)
とは言うものの、仏教だけに偏ることなく、キリスト教や、イスラム教や、ヒンズー教や、それぞれの素晴らしさも同時に学んでいけるような開かれた場でありたいと思っています。
もちろんネットだけで十分だとも思っていません。
年に何度かは実際に顔を合わせて、お互いの存在を確認しあい、生の声でメッセージを分かち合うことも大切だと思います。
沖縄では毎週「いまここ塾」という講演会を開催し、昨日で170回を迎えました。
毎回多くの人たちが詰めかけてくれますが、残念ながら場所が沖縄なので、全国のみなさんもどうぞというわけにはいきません。
僕としては、定期的に本土にも出向きたいと思っています。
自分の地元でも開催をと思ってくださる方は、気軽に相談してください。
一緒に作り出していきましょう。
年内は、3カ所でやらせて頂きます。
11月15日は札幌駅前のLプラザで18:30です。
札幌では、人気ブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」の雲黒斎さんとも対談できることになりました。
楽しみです。
お問い合わせ
(有)ワイナーズプラン
cefia@sapporo.nifty.jp
12月は再び、能登の七尾市に呼んでいただきました。
今回はさらに深い内容に触れていきたいと思っています。
6日 瞑想会(夜)
7日 講演会(昼夜2回)
お問い合わせ
元氣ショップ ら・む~
090-9447-3689
12月13日は東京で開催します。
会場 カメリアプラザ 9階 ビジネスホール
JR亀戸駅下車徒歩2分
江東区 亀戸 2―19―1 (03-5626-2121)
開場 12:00
開演 13:00
予約は要りません。
当日のみの受付になります。
詳細は
http://abetoshiro.ti-da.net/e1416525.html
沖縄県内では、年内に宮古島、石垣島、波照間島を予定しています。
また、教育委員会、自衛隊、各企業などでも講演させていただきます。
こういう忙しさは大歓迎で、僕が一番やりたかったことです
さて、地獄界から天界までの六道輪廻の解説をしてきましたが、この先には声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という四つの世界(四聖)があり、六道界と併せて十界と呼ばれています。
四聖は仏教修行を通して到る境地ですので、世界そのものの解説よりも、どのような修行が的確かという話が大切だと思います。
修行というと重々しいですが、他の言い方をすれば、新しい習慣を身につけることで、心を訓練し、最終的には心を超えていくということです。
心は時間という幻想と共に存在しているので、心を超えるとは「いまここ」に戻ってくるということになります。
「いまここ」
この言葉は、これからの時代を生きる僕たちに、最も大切なキーワードになっていくと思っています。
形式上のあいさつや、お互いの都合をやりとりするだけの会話で終始してしまいがちです。
僕はそのような時間が好きではないので、あまり外に出かけることがありません。
でも講演会やコンサートを開かせてもらうと、自分主導で「場」が作れるので、一番話したい内容を話すことができ、有意義な時間を過ごすことができます。
だからそのような活動は、僕にとって何よりも大切です。
ブログもしかりです。
僕は宗教家ではありませんが、「宗教性」は生きる上で最も重要なことだと思っています。
その「宗教性」を学ぶために、人々は一か所に集い、そこからさまざまな宗教が生まれていきましたが、それはネットがなかった時代の話です。
いまや僕たちは、好きな時間に好きな場所で、共に学びあうことができるようになりました。
これは人類史上初めて出現した、時空を超えた「サンガ」だと思います。
サンガ(SAMGHA)とは真理を学ぶために修行生活をする集団のことで、そのまま漢字を当てはめて僧伽(そうぎゃ)と言います。
この僧伽から僧侶という言葉ができました。
したがってこのブログはネットサンガであり、真摯な気持ちでこれを読んでくれる仲間はネット僧侶ということになります(笑)
とは言うものの、仏教だけに偏ることなく、キリスト教や、イスラム教や、ヒンズー教や、それぞれの素晴らしさも同時に学んでいけるような開かれた場でありたいと思っています。
もちろんネットだけで十分だとも思っていません。
年に何度かは実際に顔を合わせて、お互いの存在を確認しあい、生の声でメッセージを分かち合うことも大切だと思います。
沖縄では毎週「いまここ塾」という講演会を開催し、昨日で170回を迎えました。
毎回多くの人たちが詰めかけてくれますが、残念ながら場所が沖縄なので、全国のみなさんもどうぞというわけにはいきません。
僕としては、定期的に本土にも出向きたいと思っています。
自分の地元でも開催をと思ってくださる方は、気軽に相談してください。
一緒に作り出していきましょう。
年内は、3カ所でやらせて頂きます。
11月15日は札幌駅前のLプラザで18:30です。
札幌では、人気ブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」の雲黒斎さんとも対談できることになりました。
楽しみです。
お問い合わせ
(有)ワイナーズプラン
cefia@sapporo.nifty.jp
12月は再び、能登の七尾市に呼んでいただきました。
今回はさらに深い内容に触れていきたいと思っています。
6日 瞑想会(夜)
7日 講演会(昼夜2回)
お問い合わせ
元氣ショップ ら・む~
090-9447-3689
12月13日は東京で開催します。
会場 カメリアプラザ 9階 ビジネスホール
JR亀戸駅下車徒歩2分
江東区 亀戸 2―19―1 (03-5626-2121)
開場 12:00
開演 13:00
予約は要りません。
当日のみの受付になります。
詳細は
http://abetoshiro.ti-da.net/e1416525.html
沖縄県内では、年内に宮古島、石垣島、波照間島を予定しています。
また、教育委員会、自衛隊、各企業などでも講演させていただきます。
こういう忙しさは大歓迎で、僕が一番やりたかったことです
さて、地獄界から天界までの六道輪廻の解説をしてきましたが、この先には声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という四つの世界(四聖)があり、六道界と併せて十界と呼ばれています。
四聖は仏教修行を通して到る境地ですので、世界そのものの解説よりも、どのような修行が的確かという話が大切だと思います。
修行というと重々しいですが、他の言い方をすれば、新しい習慣を身につけることで、心を訓練し、最終的には心を超えていくということです。
心は時間という幻想と共に存在しているので、心を超えるとは「いまここ」に戻ってくるということになります。
「いまここ」
この言葉は、これからの時代を生きる僕たちに、最も大切なキーワードになっていくと思っています。
Posted by Toshiro Abe at
09:39
│Comments(20)
2008年10月20日
ブログランキング退会のお知らせ
えーと、まずは報告しておきます。
長い間お世話になった人気ブログランキングですが、数日後にいったん退会することにします。
多くの人たちの目に触れることが目的で、みなさんにも協力をお願いしてきましたが、読者数(新しい記事を更新すると、携帯やPCにお知らせが届く)も800人を超え、毎日数千人の人たちが訪れてくれるようになりました。
ちなみに携帯からの人は、ad@abetoshiro.ti-da.net に空メールを送れば、読者登録できます。
この先は、むやみに人と出会うことを目指すのではなく、じっくりと構えて、本当に道を求める人の道しるべになっていきたいと考えています。
更新の頻度も、のんびりと書きたい時に書くという生活を始めてみます。
そしてまた必要だと感じたら、再びランキングへの参加を検討してみますので、その時はまたよろしくお願いします。
この世には様々な真実へのアプローチがありますが、僕がここで展開してきた方向性は的外れではなかったと自負しています。
物質的な幸福感に限界を感じた社会は、次は精神的な幸福を求めてくると思いますし、事実世の中はそのような傾向にあります。
さらには社会に蔓延したストレスや苦しみから、いかに解放されるかも大きなテーマになってきています。
しかし今の精神世界の情報は、まだまだ未成熟なままで、精度も低く、まことに危ういままに放置されています。
オカルト的な荒唐無稽な情報が飛び交うこともあって、本来最も大切な分野でありながら、社会からは一段も二段も低く見られているのが現状です。
もう少しこの分野が成熟して、真に社会に貢献できる日が待ち望まれます。
そもそも、自分を救ってくれる簡単で奇跡的な方法など存在していません。
この数年間にも、様々な方法論が話題になり消えていきましたが、それらは全部まやかしです。
まったく意味がないとは言いませんが、その場の気休めにしかならないと断言します。
なぜなら僕たちが取り組むべきは、外側の「やり方」ではなく、混乱した「心そのもの」だからです。
幾重にもまとった自己欺瞞や、絶え間ない未来への憧れ、嫉妬や怒りが渦巻くパラノイヤ的な心の仕組みに取り組んでいくしかないのです。
それが六道輪廻から抜け出る第一歩になります。
六道とは混乱した心が創り出した幻想だからです。
僕たちはあまりにも自分の心を野放しにしてきたので、どこから手をつけていいのか途方に暮れてしまい、しかもたくさんのごまかしを自分に強いてきたので、いまさら自分と向き合いたくないのです。
そこから目をそらして、自分を救済してくれそうな新しい手法や、何でも知っていそうなカリスマにすがりつくことで、安易な救済の道を選んでしまうのです。
それは、結局は遠回りになるでしょう。
ダイレクトに自分と取り組んでいくのが、最も確実であり早道です。
まずは、自分自身に対して自分を開くのです。
その潔さと正直さが、次の段階に進む鍵になります。
これからは、さらに具体的にそのやり方を伝えていくことにします。
昨日までの六道輪廻の解説は、とても重要だったと思います。
自分が今どこにいるのかを知るのは、その絶え間ない繰り返しから抜け出る最初の一瞥を与えてくれるからです。
六道の世界の中から、神々や彼方なる世界を夢想する段階は、もう終わりにしましょう。
地に足をつけて一歩ずつ進んでいきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
いままでボタンを押して協力してくれてありがとうございました。
おかげでずっと上位に位置することができ、多くの人との出会いも実現しました。
残り数日間、最後のゲームにご参加ください(^o^)/
PS
明日はいつもどおりに「いまここ塾」があります。
長い間お世話になった人気ブログランキングですが、数日後にいったん退会することにします。
多くの人たちの目に触れることが目的で、みなさんにも協力をお願いしてきましたが、読者数(新しい記事を更新すると、携帯やPCにお知らせが届く)も800人を超え、毎日数千人の人たちが訪れてくれるようになりました。
ちなみに携帯からの人は、ad@abetoshiro.ti-da.net に空メールを送れば、読者登録できます。
この先は、むやみに人と出会うことを目指すのではなく、じっくりと構えて、本当に道を求める人の道しるべになっていきたいと考えています。
更新の頻度も、のんびりと書きたい時に書くという生活を始めてみます。
そしてまた必要だと感じたら、再びランキングへの参加を検討してみますので、その時はまたよろしくお願いします。
この世には様々な真実へのアプローチがありますが、僕がここで展開してきた方向性は的外れではなかったと自負しています。
物質的な幸福感に限界を感じた社会は、次は精神的な幸福を求めてくると思いますし、事実世の中はそのような傾向にあります。
さらには社会に蔓延したストレスや苦しみから、いかに解放されるかも大きなテーマになってきています。
しかし今の精神世界の情報は、まだまだ未成熟なままで、精度も低く、まことに危ういままに放置されています。
オカルト的な荒唐無稽な情報が飛び交うこともあって、本来最も大切な分野でありながら、社会からは一段も二段も低く見られているのが現状です。
もう少しこの分野が成熟して、真に社会に貢献できる日が待ち望まれます。
そもそも、自分を救ってくれる簡単で奇跡的な方法など存在していません。
この数年間にも、様々な方法論が話題になり消えていきましたが、それらは全部まやかしです。
まったく意味がないとは言いませんが、その場の気休めにしかならないと断言します。
なぜなら僕たちが取り組むべきは、外側の「やり方」ではなく、混乱した「心そのもの」だからです。
幾重にもまとった自己欺瞞や、絶え間ない未来への憧れ、嫉妬や怒りが渦巻くパラノイヤ的な心の仕組みに取り組んでいくしかないのです。
それが六道輪廻から抜け出る第一歩になります。
六道とは混乱した心が創り出した幻想だからです。
僕たちはあまりにも自分の心を野放しにしてきたので、どこから手をつけていいのか途方に暮れてしまい、しかもたくさんのごまかしを自分に強いてきたので、いまさら自分と向き合いたくないのです。
そこから目をそらして、自分を救済してくれそうな新しい手法や、何でも知っていそうなカリスマにすがりつくことで、安易な救済の道を選んでしまうのです。
それは、結局は遠回りになるでしょう。
ダイレクトに自分と取り組んでいくのが、最も確実であり早道です。
まずは、自分自身に対して自分を開くのです。
その潔さと正直さが、次の段階に進む鍵になります。
これからは、さらに具体的にそのやり方を伝えていくことにします。
昨日までの六道輪廻の解説は、とても重要だったと思います。
自分が今どこにいるのかを知るのは、その絶え間ない繰り返しから抜け出る最初の一瞥を与えてくれるからです。
六道の世界の中から、神々や彼方なる世界を夢想する段階は、もう終わりにしましょう。
地に足をつけて一歩ずつ進んでいきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
いままでボタンを押して協力してくれてありがとうございました。
おかげでずっと上位に位置することができ、多くの人との出会いも実現しました。
残り数日間、最後のゲームにご参加ください(^o^)/
PS
明日はいつもどおりに「いまここ塾」があります。
Posted by Toshiro Abe at
09:54
│Comments(39)
2008年10月19日
天界
さて今日は六道の最後、【天界】です。
【天界】
阿修羅が、自分の知性と、用心深さと、向上心と、奮闘努力によってついに願望を達成しました。
それは経済的な成功だったり、社会的な立場を得ることだったり、著名人になることだったりします。
「ヤッタ!ついにたどり着いた!!」
その結果、満足感、、安心感、さらには深い霊的洞察まで得ることがあります。
地獄界で自分の間近に迫ってきていた壁が、今や宇宙大に広がっています。
この段階で、自分が宇宙的自己を達成したと勘違いすることがあります。
しかしそれは本当の宇宙体験(至高体験)ではなく、壁が宇宙大に広がっただけの話であり、壁が消えたわけではないのです。
相変わらず「自分」対「全体」という二元性が存在しています。
実は【天界】の意識状態は、緊張が度を越して、希望と恐怖の境界線がわからなくなり、一時の安定感が訪れた状態なのです。
したがってこの安心感は長くは続きません。
「自分」が根っこにあるからです。
自分が高い境地を成し遂げたという考え自体が、自分と体験とを分けた二元論に依存しています。
成し遂げたものは、失う宿命にあるのです。
それがこの世の定めです。
真理は、そして本当の至高の境地は、成し遂げるものではありません。
それは「成し遂げる人」が消え去った体験です。
したがって「私は悟った」という感覚はあり得ません。
「私」が消えた時に悟りがあるのです。
天界においては、成し遂げた自分が強く存在しています。
やがて、自分が安住するこの世界が、確固たる保証を持った世界ではないことを感じ始めると、どのようにしてこの素晴らしい状態を保とうかと考えはじめます。
そして注意深くあたりを点検しているうちに、いつのまにか【阿修羅界】です。
もう天界の安心感はどこにもありません。
自分が何かに脅えているのを自覚しだします。
いったい何が間違ってしまったのか、その原因を探し出すのに忙しくなってくると、【人間界】に入っています。
この世界はすでに苦しみが充満している世界です。
「こんなはずではなかった」
あの状態をもう一度獲得するためには、突き進んで何かを獲得するしかない。
もっとだ!もっとだ!と言って【畜生界】に下りていき、いくら手に入れても、いくら食べても満足しないとなって、【餓鬼界】に入り込みます。
あの天界のノスタルジーがますます強烈になり、欲求を満たそうとする激しい衝動が湧き上がります。
攻撃的になって悪あがきを始めると、周囲の壁も迫ってきて、ぶつけたエネルギーがそのまま自分に跳ね返ってきます。
身動きがとれないような、不安と苦しみの世界、【地獄界】です。
そしてまた、しこたま苦しんで、消耗して、少し力が抜けて、やがては【餓鬼界】に上がっていくことでしょう。
苦悩、戦い、達成、幻滅、そしてまた苦悩へ・・・
この絶え間ない循環を「六道輪廻」と言います。
Posted by Toshiro Abe at
09:02
│Comments(12)
2008年10月18日
阿修羅界
【阿修羅界】
人間界の分別や知恵が研ぎ澄まされてくると、感覚が鋭敏になってきます。
人のちょっとした表情までも見抜けるようになります。
あらゆるところに注意が行き届き、まるで前にも後ろにも横にも、全部に目がついているかのようです。
用心深く抜かりがありません。
そんな研ぎ澄まされた鋭い感覚の世界が阿修羅界です。
知的でスマートな世界です。
興福寺にある有名な阿修羅像は象徴的です。
三方に据えられた知的で魅力的な顔。
人を惹きつける魅力に富んでいますが、決して幸せそうではなく、憂いをおびた感慨深げな表情をしています。
阿修羅界の精神の基本構造は、競争であり闘いです。
人よりも抜きんでること、自らの優秀性を自他ともに証明すること。
しかもこの世の富だけでは飽き足らず、彼方にある涅槃や悟りや天界の喜びにまで手を伸ばしています。
選ばれた特別な自分の優秀さから見れば、不可能なことは何もないというわけです。
心の中はいつも「自分」と自分の所有物で占められています。
そして絶え間ない比較。
常に他者より優れていることに余念がありません。
阿修羅を生かしている衝動は、自分が将来にわたって安全であるために、自分の周囲をより高い防壁で固めることです。
そのような要塞を所有しながら、さらなる領土拡大に情熱を燃やそうというわけです。
いや、さらなる領土拡大が、高い防壁の役割をすると信じています。
そのために必要であれば、より優れた人格や、より深い知識を身につける努力も怠りません。
そのような生き方のどこが悪いのかというかもしれません。
自分を成長させることの何が間違っているのかと。
ここで解説しているのは、いいとか悪いとかの話ではありません。
僕たちの意識が作り出す幻想世界をいくつかに分類し、そのひとつひとつを説明しているのです。
阿修羅界は心休まる時がありません。
ほんのわずかな油断で、何が起こるかわかったものじゃないからです。
しかし多くの場合、ドーパミンなどの分泌によって、意欲や充実感を感じているので、それを幸せだと思い込んでいます。
実際には副作用でストレスも引き起こしていますが、それを解決するためにも、さらに高い防壁を作り出そうとするので、そのゲームには終わりがありません。
今更やめるわけにもいかず、身体が病んでドクターストップがかかるまで走り続けるというのが、この世界の宿命です。
しかし、その努力の甲斐あって、全てが満たされた境地をつかむ人が出てきます。
それが天界です。
次回は、六道の最も高い世界、天界を解説してみます。
Posted by Toshiro Abe at
10:41
│Comments(12)
2008年10月17日
人間界
今日はパソコンを居間に持ってきて書いています。
大きな窓をすべて開け放ち、やっと秋らしい冷たい空気が部屋の中を流れ、ともいい気持ちです。
こうしていま生きている。
おびただしい可能性の中で、いまこうして南の島のこの部屋でパソコンに向かい、顔の見えないあなたにメッセージを伝えようとしています。
そしてあなたも、おびただしい可能性がある中から、いまこうしてこのブログを読むという現実を作り出してくれているんですね。
まさに御縁です。
自空間を超えて出会えていることを嬉しく思います。
さて今日は六道の中の【人間界】を説明してみます。
一般には畜生界の上は阿修羅界とするようですが、僕は人間界を持ってきます
その理由は阿修羅をどうとらえるかによって変わってきますが、どちらにせよその違いは全体から見ればあまり大きな本質ではありません。
最も大きな本質は、この六道のすべてが感情と思考を織りなして作り出した意識の幻想にすぎないということです。
僕たちはいま、目覚めの時代を迎えていると言われていますが、目覚めとはまさに「六道輪廻」からの目覚めだとも言えます。
それは知識や論理さえも超えた世界です。
なぜなら知識や論理もすべて、思考が作り出した夢の一部だからです。
そして、それらの論理的な力がフルに機能しだすのが、人間界と阿修羅界です。
【人間界】
畜生界では、欲しいものがあれば何でもかんでも手に入れたいという熱い衝動がありました。
しかしそのような状態が落ち着きをみせてくると、分別というものが出来てきます。
状況によっては我慢することを覚え、欲しいものも本当に必要なのかどうかを識別する能力が出てくるのです。
自分自身を省みる余裕も生まれます。
私のやり方が通用する時もあれば、しない時もある!
世の中にはいい人もいれば、悪い人もいる。
間違ったことをしてはいけない。
人の物を盗むのは良くないし、人を騙すのも良くない。
でも、人に親切にするのはいいことだ。
人間には人間らしい生き方があるというわけです。
そのような分別を持って、自己の安全を確保し、欲求を満たしていこうというのが人間界です。
この世界に住む人達は間違いが少ないし、尊敬を集めたりもします。
しかし決定的な限界は、この分別は愛ではないということです。
自分を守るための、How to、やり方なんです。
人に親切にしなさい、人が喜ぶ事をしなさい、人を褒めなさい、ありがとうと言いなさい、感謝しなさい・・・全部「やり方」です。
人を誉めて、その人をいい気分にさせて、結局自分の都合でそうしているわけです。
これは愛ではありません。
手段です。
だから人間界は、まだ十分ではないのです。
道徳的な立派な生き方をしても、そこには何かが欠けています。
その根っこが自己保身であり、自我の世界だからです。
しかしこの人間界は大きな可能性を持った世界です。
分別と知性の力によって、この絶え間ない輪廻の繰り返しに気づき、大いなる世界に向かう意思が生まれる場でもあるのです。
実に、この人間界においてこそ、僕たちは大いなる飛翔の可能性を持つことができます。
これより下の世界は愚かゆえに、そしてこれより上の世界は慢心ゆえに可能性が閉じてしまうのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力お願いします。
大きな窓をすべて開け放ち、やっと秋らしい冷たい空気が部屋の中を流れ、ともいい気持ちです。
こうしていま生きている。
おびただしい可能性の中で、いまこうして南の島のこの部屋でパソコンに向かい、顔の見えないあなたにメッセージを伝えようとしています。
そしてあなたも、おびただしい可能性がある中から、いまこうしてこのブログを読むという現実を作り出してくれているんですね。
まさに御縁です。
自空間を超えて出会えていることを嬉しく思います。
さて今日は六道の中の【人間界】を説明してみます。
一般には畜生界の上は阿修羅界とするようですが、僕は人間界を持ってきます
その理由は阿修羅をどうとらえるかによって変わってきますが、どちらにせよその違いは全体から見ればあまり大きな本質ではありません。
最も大きな本質は、この六道のすべてが感情と思考を織りなして作り出した意識の幻想にすぎないということです。
僕たちはいま、目覚めの時代を迎えていると言われていますが、目覚めとはまさに「六道輪廻」からの目覚めだとも言えます。
それは知識や論理さえも超えた世界です。
なぜなら知識や論理もすべて、思考が作り出した夢の一部だからです。
そして、それらの論理的な力がフルに機能しだすのが、人間界と阿修羅界です。
【人間界】
畜生界では、欲しいものがあれば何でもかんでも手に入れたいという熱い衝動がありました。
しかしそのような状態が落ち着きをみせてくると、分別というものが出来てきます。
状況によっては我慢することを覚え、欲しいものも本当に必要なのかどうかを識別する能力が出てくるのです。
自分自身を省みる余裕も生まれます。
私のやり方が通用する時もあれば、しない時もある!
世の中にはいい人もいれば、悪い人もいる。
間違ったことをしてはいけない。
人の物を盗むのは良くないし、人を騙すのも良くない。
でも、人に親切にするのはいいことだ。
人間には人間らしい生き方があるというわけです。
そのような分別を持って、自己の安全を確保し、欲求を満たしていこうというのが人間界です。
この世界に住む人達は間違いが少ないし、尊敬を集めたりもします。
しかし決定的な限界は、この分別は愛ではないということです。
自分を守るための、How to、やり方なんです。
人に親切にしなさい、人が喜ぶ事をしなさい、人を褒めなさい、ありがとうと言いなさい、感謝しなさい・・・全部「やり方」です。
人を誉めて、その人をいい気分にさせて、結局自分の都合でそうしているわけです。
これは愛ではありません。
手段です。
だから人間界は、まだ十分ではないのです。
道徳的な立派な生き方をしても、そこには何かが欠けています。
その根っこが自己保身であり、自我の世界だからです。
しかしこの人間界は大きな可能性を持った世界です。
分別と知性の力によって、この絶え間ない輪廻の繰り返しに気づき、大いなる世界に向かう意思が生まれる場でもあるのです。
実に、この人間界においてこそ、僕たちは大いなる飛翔の可能性を持つことができます。
これより下の世界は愚かゆえに、そしてこれより上の世界は慢心ゆえに可能性が閉じてしまうのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力お願いします。
Posted by Toshiro Abe at
11:37
│Comments(10)
2008年10月15日
畜生界
【畜生界】
名称だけ読むと、まるで動物に生まれ変わるかのようですが、実際にはそうではありません。
動物の特徴が顕著に表れる世界です。
とは言うものの、動物の中にも人を癒したり、盲導犬のように人を助けたりする存在がいます。
これは畜生という表現には当てはまりません。
一方で、飢えた野犬の群れにエサを与えれば、我先にと貪り食うことでしょう。
畜生という表現は、動物そのものを指すのではなく、自分さえよければいいという頑固な姿勢のことです。
【畜生界】
畜生界は、餓鬼界よりはやや苦痛が減ってきていますが、それでも空腹感は強烈に残っています。
そこで周りを省みずに、何でもかんでも自分のものにしようと突き進みます。
目の前に障害物があろうと、沼地が待っていようと、お構いなしに一直線です。
そして気に入ったもの(権力・金品・異性など)があれば、自分に引き寄せるために何でもやるのです。
後先を考えず、目の前の快楽を貪り食う姿は、まるで畜生そのものです。
その結果、人に迷惑をかけようが、人を傷つけようがお構いなしです。
この世界においても、自分だけが正しく、自分の夢を実現するのが何が悪いといった独善的態度が見られます。
そこには他者に対する配慮や、おかげさまという感謝が微塵もありません。
その結果、一時的に裕福になったり、権力を手に入れたり、満たされた生活を送る場合があるのですが、当人の顔には幸せな光は射していません。
むしろ、固まった仮面の下から、人を見下した尊大な態度が見えるだけで、品性に欠け、人間性を感じることはありません。
それが畜生界と呼ばれる世界です。
世間で成功者と言われる人たちの中にも、このような存在がいます。
そんな人たちに媚を売ったりへつらったりする人間も、同類と言わざるを得ません。
畜生界の特徴は、分別のなさ、自分本位、愚かさです。
ここまでの三つの世界(地獄界・餓鬼界・畜生界)を三悪道と言います。
しかし、それは悪いことをした人間が死後に赴く世界のことではなく、まさにこの世において我々が陥ってしまいがちな苦しみの世界なのです。
こんな話に興味を持ってくれましたか。
残り三つの世界があります。
そしてこの六道が我々の可能性の全てではありません。
そこを超えていくことが可能なのです。
名称だけ読むと、まるで動物に生まれ変わるかのようですが、実際にはそうではありません。
動物の特徴が顕著に表れる世界です。
とは言うものの、動物の中にも人を癒したり、盲導犬のように人を助けたりする存在がいます。
これは畜生という表現には当てはまりません。
一方で、飢えた野犬の群れにエサを与えれば、我先にと貪り食うことでしょう。
畜生という表現は、動物そのものを指すのではなく、自分さえよければいいという頑固な姿勢のことです。
【畜生界】
畜生界は、餓鬼界よりはやや苦痛が減ってきていますが、それでも空腹感は強烈に残っています。
そこで周りを省みずに、何でもかんでも自分のものにしようと突き進みます。
目の前に障害物があろうと、沼地が待っていようと、お構いなしに一直線です。
そして気に入ったもの(権力・金品・異性など)があれば、自分に引き寄せるために何でもやるのです。
後先を考えず、目の前の快楽を貪り食う姿は、まるで畜生そのものです。
その結果、人に迷惑をかけようが、人を傷つけようがお構いなしです。
この世界においても、自分だけが正しく、自分の夢を実現するのが何が悪いといった独善的態度が見られます。
そこには他者に対する配慮や、おかげさまという感謝が微塵もありません。
その結果、一時的に裕福になったり、権力を手に入れたり、満たされた生活を送る場合があるのですが、当人の顔には幸せな光は射していません。
むしろ、固まった仮面の下から、人を見下した尊大な態度が見えるだけで、品性に欠け、人間性を感じることはありません。
それが畜生界と呼ばれる世界です。
世間で成功者と言われる人たちの中にも、このような存在がいます。
そんな人たちに媚を売ったりへつらったりする人間も、同類と言わざるを得ません。
畜生界の特徴は、分別のなさ、自分本位、愚かさです。
ここまでの三つの世界(地獄界・餓鬼界・畜生界)を三悪道と言います。
しかし、それは悪いことをした人間が死後に赴く世界のことではなく、まさにこの世において我々が陥ってしまいがちな苦しみの世界なのです。
こんな話に興味を持ってくれましたか。
残り三つの世界があります。
そしてこの六道が我々の可能性の全てではありません。
そこを超えていくことが可能なのです。
Posted by Toshiro Abe at
08:19
│Comments(22)
2008年10月14日
餓鬼界
昨日も話した通り、六道の世界は思考と感情が作り出す幻想世界なのですが、僕たちはそれをリアルなものとして体験します。
この人生は夢のようなものだと何度も言ってきましたが、人生が幻想だと気づくことが解脱です。
解脱とは、六道をぐるぐる廻る絶え間ない循環から、解かれて脱することです。
今日は地獄界から一段上の世界を解説してみます。
それは【餓鬼界】と呼ばれています。
【餓鬼界】
地獄界の身を焼くような苦しみにのた打ち回っていたエネルギーも、しだいに疲れ消耗してきます。
少し力が抜けた状態になります。
そのおかげで、ほんの少し壁と自分との間に空間ができました。
「あ!少し空間ができたぞ!」
「少し楽なってきた」
底なしに思えた地獄の闇も、どうやら少し治まってきたようです。
すると、今まで苦しみの中で身をよじっていた魂は思います。
「少し空間ができたという事は、もっと空間ができる可能性がある!」
「もっと楽になれるに違いない」
全くの絶望的状態から、一筋の光が見えてきました。
自分の力でなんとかなるかもしれないという、希望が見えてきたんです。
「そうか、もっと楽になるためには、自分を満足させてくれるものをどんどん自分に引き寄せていけばいいんだ!」
「この空腹感この欠乏感、これを満たせばいいんだ!」
そう思って手当たり次第、外側のものを掴んでは自分の中に入れようとします。
楽になりたいから必死です。
ところが、何も入ってきません。
飲み込もうにも咽が細すぎて、通っていかないんです。
しかしお腹は空いています。
それは強烈な空腹感、欠乏感です。
仏画ではこの状態を、大きなお腹をした人間が細い咽を持ち、餓えに苦しんでいる姿で描きます。
それが餓鬼です。
餓鬼は極めて自己中心的な存在です。
自分だけが苦しい。
こんな自分のことを周囲はもっと気を使って面倒を見るべきだというわけです。
しかし、いくら周囲が世話をしてくれても、餓鬼は決して満足しませんし、感謝することもありません。
まだまだ足りないのです。
人の親切を貪り、金銭を貪り、自分を幸せにしてくれそうなものは何でも貪ろうとします。
親や兄弟や妻や夫や、自分の我儘が通用する相手を、まるで自分の奴隷のように意のままに動かそうとします。
やがては人から見放されますが、それさえも人のせいにしてしまうのです。
この世界を生きる者の特徴は、猜疑心、貪欲さ、孤独感、傲慢などで、常に愚痴を漏らしています。
こういう世界を語るだけでも疲れるのですから、実際にこの世界に住む者がどれだけの苦しみの中にいるかは想像できます。
明日は、もう一段上の世界を見ていきましょう
上といっても、まだまだ苦しい世界です。
六道自体が、苦しみを背景にした世界だからです。
この人生は夢のようなものだと何度も言ってきましたが、人生が幻想だと気づくことが解脱です。
解脱とは、六道をぐるぐる廻る絶え間ない循環から、解かれて脱することです。
今日は地獄界から一段上の世界を解説してみます。
それは【餓鬼界】と呼ばれています。
【餓鬼界】
地獄界の身を焼くような苦しみにのた打ち回っていたエネルギーも、しだいに疲れ消耗してきます。
少し力が抜けた状態になります。
そのおかげで、ほんの少し壁と自分との間に空間ができました。
「あ!少し空間ができたぞ!」
「少し楽なってきた」
底なしに思えた地獄の闇も、どうやら少し治まってきたようです。
すると、今まで苦しみの中で身をよじっていた魂は思います。
「少し空間ができたという事は、もっと空間ができる可能性がある!」
「もっと楽になれるに違いない」
全くの絶望的状態から、一筋の光が見えてきました。
自分の力でなんとかなるかもしれないという、希望が見えてきたんです。
「そうか、もっと楽になるためには、自分を満足させてくれるものをどんどん自分に引き寄せていけばいいんだ!」
「この空腹感この欠乏感、これを満たせばいいんだ!」
そう思って手当たり次第、外側のものを掴んでは自分の中に入れようとします。
楽になりたいから必死です。
ところが、何も入ってきません。
飲み込もうにも咽が細すぎて、通っていかないんです。
しかしお腹は空いています。
それは強烈な空腹感、欠乏感です。
仏画ではこの状態を、大きなお腹をした人間が細い咽を持ち、餓えに苦しんでいる姿で描きます。
それが餓鬼です。
餓鬼は極めて自己中心的な存在です。
自分だけが苦しい。
こんな自分のことを周囲はもっと気を使って面倒を見るべきだというわけです。
しかし、いくら周囲が世話をしてくれても、餓鬼は決して満足しませんし、感謝することもありません。
まだまだ足りないのです。
人の親切を貪り、金銭を貪り、自分を幸せにしてくれそうなものは何でも貪ろうとします。
親や兄弟や妻や夫や、自分の我儘が通用する相手を、まるで自分の奴隷のように意のままに動かそうとします。
やがては人から見放されますが、それさえも人のせいにしてしまうのです。
この世界を生きる者の特徴は、猜疑心、貪欲さ、孤独感、傲慢などで、常に愚痴を漏らしています。
こういう世界を語るだけでも疲れるのですから、実際にこの世界に住む者がどれだけの苦しみの中にいるかは想像できます。
明日は、もう一段上の世界を見ていきましょう
上といっても、まだまだ苦しい世界です。
六道自体が、苦しみを背景にした世界だからです。
Posted by Toshiro Abe at
09:29
│Comments(16)
2008年10月13日
六道輪廻
今日は休日ですね。
ゆっくりブログを読める人もいるかもしれませんね。
今日はちょっと興味深い話をしてみましょう。
以前、五蘊(ごうん)という考え方を説明しましたよね。
僕たちの自我が形成されていく5つの段階のことです。
少し難解だったかもしれませんが、その五蘊の最終段階が、識蘊(しきうん)というもので、簡単に言えば「意識」のことです。
それは思考と感情を操りながら、様々な世界を作り出しているのです。
その世界は大きく分けて6つあります。
それが六道と呼ばれる世界で、僕たちはその世界をぐるぐる廻っていて、そのことを六道輪廻と言います。
それは地獄界から天界まであるのですが、今日はその世界の説明をしてみます。
きっといまあなたがいる世界があるはずですよ。
上からいきます?
下からいきます?
あはは、下がっていくのもなんだから下からいきましょう。
まずは地獄界。
ワオッ!・・・ちょっと強烈かもしれません。
【地獄界】
本来自分という存在は、広々としたスペース、宇宙の開放感そのものなのに、それが極限にまで縮まった世界がここです。
開かれた大地の上に、わざわざ小さな小屋を建てて、その中で押しつぶされそうになっている状態です。
壁と自分との隙間がないくらいに、周りの世界が自分に圧迫しているんです。
しかも、壁は自分に敵対しています。
すこし油断したら、すぐに飲み込まれてしまいそうです。
地獄界にある感情は、罪悪感、自己嫌悪、劣等感、怒り、憎しみ、嫉妬・・・
「俺はなんてひどい奴なんだ!」
「皆俺を軽蔑しているに違いない!」
「俺のいつもやっている演技が全部見抜かれている!みんな敵だ!」
しかもその敵に対する余裕がなくなっていて、目の前に迫って来ています。
「こうなったら、目の前の壁を破壊するか、自分を破壊するかどっちかだ!相手を殺すか、自分が死ぬかだ! 」
時々、何でこんな事件を起こしたのか?そういう事件が起きるでしょ?
その人の意識はこういう世界にはまり込んでいる場合が多いんです。
無差別殺人とかね。
あるいはそれが内側に向くと、自殺をしたり、自分を刃物で傷つけたりします。
もちろん【地獄界】の人みんなが犯罪を起こしたり、自分を破壊したりするわけじゃないですけど、中にはそんな人が出てくるのです。
たとえば小学校に乱入して子供たちに次々と襲いかかったあの事件。
あの犯人が住んでいた世界はまさにこの【地獄界】です。
だから逮捕された後も、自分には殺すしかなかったって開き直るのです。
人を殺して自分を殺すしかなかったって言い張ります。
被害者の皆さんにとっては、怒りのやり場もないような、まことに痛ましい事件でした。
最近警視さんと親しく話す機会が増えましたが、被害者の皆さんは僕たちの想像を超えた苦しみを一生背負っていかれるのです。
そんな犯人たちを擁護する気持ちはさらさらありませんが、罪を犯したのは彼らの魂自体というよりは、第五スカンダ(五蘊の章を復習してください)における想像力が、【地獄界】にどんどんはまりこんでいって、周囲がそんな人間を助けきれなかったというような見方もできるのです。
なぜなら、どんな悪人も、その本質は仏だからです。
だからキリストは「罪を憎んで人を憎まず」と言うのかもしれません。
ちょっと極端な例を出してしまいましたが、これは他人ごとではなく、僕たちも油断したらそこまで低い世界にはまりこむ可能性があるのです。
僕の観察では、他者を破壊しようとする人間よりも、自分を破壊する人のほうが多いようです。
自殺が後を絶たないのも、そんな世界にはまりこんでしまったことが原因の一つだと思います。
でも、そんな状態の魂のことも救うことができるのです。
繰り返しますが、本来は等しくみな仏だからです。
彼らを救うためには、何かを教えるのではなく、その人と同じ苦しみにまで下りて行って、共に苦しみ、呪い、悪戦苦闘することから始まります。
僕は自分の人生の中で、自らもその世界にはまったことがあります。
その時は3日3晩のたうちまわって、幸いにも僕の意志の力が勝ったことで、自力で脱出しました。
その経験を生かして、実際にその状態の人を何人か救ったことがありますが、その時はものすごいエネルギーを消耗しました。
やれやれ、地獄界だけでも、まだまだ言いたいことがたくさん出てきてしまいます。
明日は次の世界に上がってみたいと思います。
この六つの世界を理解することは、今自分が何処にいるのかを知る手がかりになり、やがては六道輪廻を超えていく手助けになると思います。
休みの日に、こんな読み物はいかがでしたか。
ゆっくりブログを読める人もいるかもしれませんね。
今日はちょっと興味深い話をしてみましょう。
以前、五蘊(ごうん)という考え方を説明しましたよね。
僕たちの自我が形成されていく5つの段階のことです。
少し難解だったかもしれませんが、その五蘊の最終段階が、識蘊(しきうん)というもので、簡単に言えば「意識」のことです。
それは思考と感情を操りながら、様々な世界を作り出しているのです。
その世界は大きく分けて6つあります。
それが六道と呼ばれる世界で、僕たちはその世界をぐるぐる廻っていて、そのことを六道輪廻と言います。
それは地獄界から天界まであるのですが、今日はその世界の説明をしてみます。
きっといまあなたがいる世界があるはずですよ。
上からいきます?
下からいきます?
あはは、下がっていくのもなんだから下からいきましょう。
まずは地獄界。
ワオッ!・・・ちょっと強烈かもしれません。
【地獄界】
本来自分という存在は、広々としたスペース、宇宙の開放感そのものなのに、それが極限にまで縮まった世界がここです。
開かれた大地の上に、わざわざ小さな小屋を建てて、その中で押しつぶされそうになっている状態です。
壁と自分との隙間がないくらいに、周りの世界が自分に圧迫しているんです。
しかも、壁は自分に敵対しています。
すこし油断したら、すぐに飲み込まれてしまいそうです。
地獄界にある感情は、罪悪感、自己嫌悪、劣等感、怒り、憎しみ、嫉妬・・・
「俺はなんてひどい奴なんだ!」
「皆俺を軽蔑しているに違いない!」
「俺のいつもやっている演技が全部見抜かれている!みんな敵だ!」
しかもその敵に対する余裕がなくなっていて、目の前に迫って来ています。
「こうなったら、目の前の壁を破壊するか、自分を破壊するかどっちかだ!相手を殺すか、自分が死ぬかだ! 」
時々、何でこんな事件を起こしたのか?そういう事件が起きるでしょ?
その人の意識はこういう世界にはまり込んでいる場合が多いんです。
無差別殺人とかね。
あるいはそれが内側に向くと、自殺をしたり、自分を刃物で傷つけたりします。
もちろん【地獄界】の人みんなが犯罪を起こしたり、自分を破壊したりするわけじゃないですけど、中にはそんな人が出てくるのです。
たとえば小学校に乱入して子供たちに次々と襲いかかったあの事件。
あの犯人が住んでいた世界はまさにこの【地獄界】です。
だから逮捕された後も、自分には殺すしかなかったって開き直るのです。
人を殺して自分を殺すしかなかったって言い張ります。
被害者の皆さんにとっては、怒りのやり場もないような、まことに痛ましい事件でした。
最近警視さんと親しく話す機会が増えましたが、被害者の皆さんは僕たちの想像を超えた苦しみを一生背負っていかれるのです。
そんな犯人たちを擁護する気持ちはさらさらありませんが、罪を犯したのは彼らの魂自体というよりは、第五スカンダ(五蘊の章を復習してください)における想像力が、【地獄界】にどんどんはまりこんでいって、周囲がそんな人間を助けきれなかったというような見方もできるのです。
なぜなら、どんな悪人も、その本質は仏だからです。
だからキリストは「罪を憎んで人を憎まず」と言うのかもしれません。
ちょっと極端な例を出してしまいましたが、これは他人ごとではなく、僕たちも油断したらそこまで低い世界にはまりこむ可能性があるのです。
僕の観察では、他者を破壊しようとする人間よりも、自分を破壊する人のほうが多いようです。
自殺が後を絶たないのも、そんな世界にはまりこんでしまったことが原因の一つだと思います。
でも、そんな状態の魂のことも救うことができるのです。
繰り返しますが、本来は等しくみな仏だからです。
彼らを救うためには、何かを教えるのではなく、その人と同じ苦しみにまで下りて行って、共に苦しみ、呪い、悪戦苦闘することから始まります。
僕は自分の人生の中で、自らもその世界にはまったことがあります。
その時は3日3晩のたうちまわって、幸いにも僕の意志の力が勝ったことで、自力で脱出しました。
その経験を生かして、実際にその状態の人を何人か救ったことがありますが、その時はものすごいエネルギーを消耗しました。
やれやれ、地獄界だけでも、まだまだ言いたいことがたくさん出てきてしまいます。
明日は次の世界に上がってみたいと思います。
この六つの世界を理解することは、今自分が何処にいるのかを知る手がかりになり、やがては六道輪廻を超えていく手助けになると思います。
休みの日に、こんな読み物はいかがでしたか。
Posted by Toshiro Abe at
11:32
│Comments(17)
2008年10月12日
不二
沖縄に移住する直前まで、方広寺で研修会を開いていました。
方広寺は数百の末寺を抱える日本でも有数の禅寺で、境内を散策するだけでもゆうに一時間はかかります。
深い緑に囲まれた境内の朝は、小鳥たちの鳴き声以外は何も聞こえません。
その寺で修行僧たちを指導する責任者が向禅師でした。
縁あって、そんな向さんと親しくなり、2人コンビで始めたのが「いまここ塾」です。
それは禅の心を広く一般に知らしめるための新しい試みでした。
その研修の中で、個人と一対一で向かい合う時間がありました。
面と向かい合って座るのです。
そしてお互いに心を開いて語り合うのですが、その時に僕がやっていたのは、ただ目の前の人を感じるということでした。
日常で多くの人と出会いますが、その相手を深く感じ取ることは稀で、たいていは表面的な出会いに終始してしまいます。
それは体と体が近寄っているだけで、本当の意味での出会いはありません。
だからその時間は、相手と出会うことを心がけました。
じっと相手の目を見つめながら、その目の奥から、自分自身がこちらを覗いているような感覚を持ってみます。
すると本当にそんな気がしてくるのです。
その人にも自分と同じ重さの人生があり、喜びがあり、悲しみがあり、一生懸命に生きている人だということが、言葉を超えて伝わってきます。
その時、何とも言えぬ同胞意識のような感覚が湧き上がってくるのです。
愛おしさというのでしょうか、無条件に「頑張れよ」と思うのです。
もともと僕たちは一体です。
それを仏教では「不二」と言います。
「ふたつにあらず」ということです。
じっと見つめあって自分自身をあるがままに解き放つと、その人が自分になり、自分がその人になります。
その感覚が起これば、表面的な意見の相違など些細なことに思えてきます。
これが本当の僕たちの姿です。
普段はあまりにもディフェンスが強すぎて、相手との距離を作ってしまっていますが、その心の壁が崩れれば、僕たちが望んでいる状態が生まれます。
愛したい、愛されたいという、基本的な欲求がダイレクトに満たされるのです。
「いまここ塾」は、全体的にそのような感覚を共有するのが目的でした。
一度でもリアルにそれを感じ取れば、日常生活で出会う人たちへの気持ちが変わってきます。
相手は用心しなければいけない得体の知れぬ人ではなく、違う表現をしている自分自身だとわかるからです。
そんなちょっとした違いが、人生を大きく変えていくことでしょう。
沖縄に新しい施設が完成したら、そのような研修会もやっていきたいと思っています。
先日、向さんから電話をいただきました。
このブログを、いつも読んで下さっているとのことです。
また一緒にやろうと誘ってくれました。
そんな日が来るのも遠くないと感じています。
いつか、みなさんとも直接お会いできる日を楽しみにしています。
会えない人とは、せめてこのブログをとおして、不二なるものを感じあっていきましょう。
方広寺は数百の末寺を抱える日本でも有数の禅寺で、境内を散策するだけでもゆうに一時間はかかります。
深い緑に囲まれた境内の朝は、小鳥たちの鳴き声以外は何も聞こえません。
その寺で修行僧たちを指導する責任者が向禅師でした。
縁あって、そんな向さんと親しくなり、2人コンビで始めたのが「いまここ塾」です。
それは禅の心を広く一般に知らしめるための新しい試みでした。
その研修の中で、個人と一対一で向かい合う時間がありました。
面と向かい合って座るのです。
そしてお互いに心を開いて語り合うのですが、その時に僕がやっていたのは、ただ目の前の人を感じるということでした。
日常で多くの人と出会いますが、その相手を深く感じ取ることは稀で、たいていは表面的な出会いに終始してしまいます。
それは体と体が近寄っているだけで、本当の意味での出会いはありません。
だからその時間は、相手と出会うことを心がけました。
じっと相手の目を見つめながら、その目の奥から、自分自身がこちらを覗いているような感覚を持ってみます。
すると本当にそんな気がしてくるのです。
その人にも自分と同じ重さの人生があり、喜びがあり、悲しみがあり、一生懸命に生きている人だということが、言葉を超えて伝わってきます。
その時、何とも言えぬ同胞意識のような感覚が湧き上がってくるのです。
愛おしさというのでしょうか、無条件に「頑張れよ」と思うのです。
もともと僕たちは一体です。
それを仏教では「不二」と言います。
「ふたつにあらず」ということです。
じっと見つめあって自分自身をあるがままに解き放つと、その人が自分になり、自分がその人になります。
その感覚が起これば、表面的な意見の相違など些細なことに思えてきます。
これが本当の僕たちの姿です。
普段はあまりにもディフェンスが強すぎて、相手との距離を作ってしまっていますが、その心の壁が崩れれば、僕たちが望んでいる状態が生まれます。
愛したい、愛されたいという、基本的な欲求がダイレクトに満たされるのです。
「いまここ塾」は、全体的にそのような感覚を共有するのが目的でした。
一度でもリアルにそれを感じ取れば、日常生活で出会う人たちへの気持ちが変わってきます。
相手は用心しなければいけない得体の知れぬ人ではなく、違う表現をしている自分自身だとわかるからです。
そんなちょっとした違いが、人生を大きく変えていくことでしょう。
沖縄に新しい施設が完成したら、そのような研修会もやっていきたいと思っています。
先日、向さんから電話をいただきました。
このブログを、いつも読んで下さっているとのことです。
また一緒にやろうと誘ってくれました。
そんな日が来るのも遠くないと感じています。
いつか、みなさんとも直接お会いできる日を楽しみにしています。
会えない人とは、せめてこのブログをとおして、不二なるものを感じあっていきましょう。
Posted by Toshiro Abe at
09:54
│Comments(13)
2008年10月11日
独り言
今日は10月11日か。
なんだかピンときませんね。
沖縄はまだ9月の初旬っていう感じです。
気がついたら来年なんだろうな。
そしてまた気がついたら来年も終わっていて・・・
そうやってあっという間に時間が過ぎて、その後どうなるかといえば年老いて死んで行くわけで・・・
あはは、今日も希望のないタッチで話が進んでいます。
毎日の不安や苦しみの中に、つかの間の幸せがあって、そのわずかな時間が嬉しくて、たくさんの重荷を背負って、いく先の知れない道を歩いている。
そう考えれば人生は割に合いませんね。
とは言うものの、死んでしまうこともできず、とにかく頑張って毎日を生きていこうって、きっといつかいいことあるよって、そんな気持ちの人も多いんじゃないでしょうか。
あるいは、そんなつまらないことは考えないで、少しでも楽しいことを見つけて、毎日を元気に生きようって、そんな人もいるでしょうね。
それにしたって、いつかは病に倒れて死んでいくわけで。
死んだら死んだで、また生まれてきて、この不条理な人生を最初から生きなおすのです。
そしてまた年老いて死んで、また生まれて・・・
フゥ・・・(ため息)
神様へ
どうでしょう、もうぼちぼちいいんじゃないでしょか。
そんなにじらさないで、このあたりで空から悟り光線を降らして、地球全体、人類全体が一瞬にして目覚めるっていうシナリオに進んでみませんか。
そりゃあ確かに苦しみが大きいほうが、そこから解放された時の喜びも大きいですけど、僕たち人類はもう充分に苦しんできました。
今目覚めても、誰も早すぎるなんて言わないと思うんですけど。
そしたら神様が答えました。
何を言っているか。
もし目覚めたかったら、とっくに目覚めている。
誰もそれを止めてはいないのだよ。
もう少し物質界のイリュージョンと戯れていたいのは人間のほうだ。
徹底的に孤独や苦しみに飽きるまでは、あなた方はいまの人生の繰り返しをやめることはないだろう。
私はただじっと待っている。
あなたが私のもとに帰ってくる日を、ただじっと待っている。
そうか、いやだいやだと言いながら、この絶え間ない繰り返しの人生に執着しているのも僕たちなんだ。
そういえば、昔完全に目覚めた時があって、「なーんだ、そうだったのか」って全部がわかって、あまりの感動と祝福に涙して、まことによくできた存在の仕組みに恐れ入って、ついに到達したぞって思った次の瞬間・・・
「こんなに簡単に目覚めることができるのなら、もう少し夢を見ていようかな」って思ったら、また元に戻っていました。
やっぱり僕も、なんだかんだ言いながら、人生に執着しているみたいです。
ところで、僕が何を言っているかわかりますか?
こんな話をわかってくれる人のほうが珍しいけど、そんな珍しい人たちがたくさん集まるのがこのブログ。
だから、やめられずに毎日書いています。
あーあ、早く目覚めたいなぁ。
いや、もう少しこの夢を見ていたい。
もういいよ、終わりにしようよ。
いや、もう少しだけこの幻想を楽しもうじゃないか。
やれやれ・・・
今日から3連休ですね。
連休明けには一緒に目覚めてみませんか(笑)
今日もおバカな話に付き合ってくれてありがとうございました。
なんだかピンときませんね。
沖縄はまだ9月の初旬っていう感じです。
気がついたら来年なんだろうな。
そしてまた気がついたら来年も終わっていて・・・
そうやってあっという間に時間が過ぎて、その後どうなるかといえば年老いて死んで行くわけで・・・
あはは、今日も希望のないタッチで話が進んでいます。
毎日の不安や苦しみの中に、つかの間の幸せがあって、そのわずかな時間が嬉しくて、たくさんの重荷を背負って、いく先の知れない道を歩いている。
そう考えれば人生は割に合いませんね。
とは言うものの、死んでしまうこともできず、とにかく頑張って毎日を生きていこうって、きっといつかいいことあるよって、そんな気持ちの人も多いんじゃないでしょうか。
あるいは、そんなつまらないことは考えないで、少しでも楽しいことを見つけて、毎日を元気に生きようって、そんな人もいるでしょうね。
それにしたって、いつかは病に倒れて死んでいくわけで。
死んだら死んだで、また生まれてきて、この不条理な人生を最初から生きなおすのです。
そしてまた年老いて死んで、また生まれて・・・
フゥ・・・(ため息)
神様へ
どうでしょう、もうぼちぼちいいんじゃないでしょか。
そんなにじらさないで、このあたりで空から悟り光線を降らして、地球全体、人類全体が一瞬にして目覚めるっていうシナリオに進んでみませんか。
そりゃあ確かに苦しみが大きいほうが、そこから解放された時の喜びも大きいですけど、僕たち人類はもう充分に苦しんできました。
今目覚めても、誰も早すぎるなんて言わないと思うんですけど。
そしたら神様が答えました。
何を言っているか。
もし目覚めたかったら、とっくに目覚めている。
誰もそれを止めてはいないのだよ。
もう少し物質界のイリュージョンと戯れていたいのは人間のほうだ。
徹底的に孤独や苦しみに飽きるまでは、あなた方はいまの人生の繰り返しをやめることはないだろう。
私はただじっと待っている。
あなたが私のもとに帰ってくる日を、ただじっと待っている。
そうか、いやだいやだと言いながら、この絶え間ない繰り返しの人生に執着しているのも僕たちなんだ。
そういえば、昔完全に目覚めた時があって、「なーんだ、そうだったのか」って全部がわかって、あまりの感動と祝福に涙して、まことによくできた存在の仕組みに恐れ入って、ついに到達したぞって思った次の瞬間・・・
「こんなに簡単に目覚めることができるのなら、もう少し夢を見ていようかな」って思ったら、また元に戻っていました。
やっぱり僕も、なんだかんだ言いながら、人生に執着しているみたいです。
ところで、僕が何を言っているかわかりますか?
こんな話をわかってくれる人のほうが珍しいけど、そんな珍しい人たちがたくさん集まるのがこのブログ。
だから、やめられずに毎日書いています。
あーあ、早く目覚めたいなぁ。
いや、もう少しこの夢を見ていたい。
もういいよ、終わりにしようよ。
いや、もう少しだけこの幻想を楽しもうじゃないか。
やれやれ・・・
今日から3連休ですね。
連休明けには一緒に目覚めてみませんか(笑)
今日もおバカな話に付き合ってくれてありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
08:26
│Comments(29)
2008年10月10日
神について
今日は思い出話をします。
平成元年の春から夏にかけての数ヶ月間のことです。
その期間、ひょんなことから奈良県の山奥にある天河神社に奉公することになりました。
時間が止まったような静けさと共に、別世界の中で生きた数ヶ月間でした。
毎朝6時から神殿や境内を掃除するのですが、ただ無心に床を磨く時間は、まさに瞑想そのものでした。
はたからは修行をしているように見えたかもしれませんが、自分の中にはそんな気持ちはさらさらありませんでした。
とにかく気持ちがよかったのです。
床が奇麗になるのと同時に、自分の魂も磨かれていくような気になりました。
そして自分という存在がその場に溶けてしまって、周り中の神気とともに「ただ在る」という感覚になりました。
その静けさの中に全ての答えがありました。
ここは神を拝みに来る場所ですが、神は外側にあるのではなく、まさに自分自身の存在が神そのものだとわかります。
そのことを教える仕掛けが神社にはあるのです。
昔から人は神を求めて、山を超え谷を越えて、やっとの思いで神社に到着し、神殿の前に額ずきます。
そして顔をあげるとそこに御神体があります。
鏡です。
そこに映るもの、それは自分自身。
参拝者は自分に出会うために、長い旅をしてきたのです。
神主が教えてくれました。
「かがみ」は神自身です。
「かがみ」から「が」を取れば「かみ」になるでしょ。
鏡から我を取れば、そこに映るものが神なのですよ。
昔からの日本人の知恵の深さに感心しました。
最初のうちは、こうして奉公して真の祈りをささげていれば、いいことのひとつも起きるかななんて思っていました。
でもそのうち、そんなことはどうでもよくなりました。
あることに気づいたんです。
神とは、僕たちの中にある、最も高いレベルの意識だと。
それは優しさにあふれ、決して判断したり裁いたりすることはありません。
ただただ圧倒的な愛の力で見守っているだけです。
したがって、奉公したからといって褒美をくれるわけでもなく、神に唾を吐いたからといって罰するわけでもありません。
特定の正しい祈り方を強制することもありません。
神は何一つ求めていません。
なぜならば、神は何も必要としないからです。
神は無条件に僕たち一人ひとりを、想像を超えた深さの愛で見守ってくれているのです。
信じられない人もいるかもしれませんが、これは仮説ではなく、一定の理解に達した時に誰もが経験的に確認できる真実です。
それがわかれば、人生の流れは一気にスムーズになります。
自分を妨げるものがなくなり、心のままに生きることができるのです。
恐ろしい存在が、いつもあなたの行動をチェックしていて、間違いを犯したときに罰を与えようなどと待ち構えているわけではありません。
僕たちは心のままに、自由に自分の人生を創り出していいのです。
もし神が何かを望んでいるとしたら、僕たちが幸せを感じながら、生き生きと自分らしさを楽しむことだけです。
大丈夫ですよ。
自分を信じてください。
他人の言葉に惑わされないで、自分の真実を生きてくださいね。
平成元年の春から夏にかけての数ヶ月間のことです。
その期間、ひょんなことから奈良県の山奥にある天河神社に奉公することになりました。
時間が止まったような静けさと共に、別世界の中で生きた数ヶ月間でした。
毎朝6時から神殿や境内を掃除するのですが、ただ無心に床を磨く時間は、まさに瞑想そのものでした。
はたからは修行をしているように見えたかもしれませんが、自分の中にはそんな気持ちはさらさらありませんでした。
とにかく気持ちがよかったのです。
床が奇麗になるのと同時に、自分の魂も磨かれていくような気になりました。
そして自分という存在がその場に溶けてしまって、周り中の神気とともに「ただ在る」という感覚になりました。
その静けさの中に全ての答えがありました。
ここは神を拝みに来る場所ですが、神は外側にあるのではなく、まさに自分自身の存在が神そのものだとわかります。
そのことを教える仕掛けが神社にはあるのです。
昔から人は神を求めて、山を超え谷を越えて、やっとの思いで神社に到着し、神殿の前に額ずきます。
そして顔をあげるとそこに御神体があります。
鏡です。
そこに映るもの、それは自分自身。
参拝者は自分に出会うために、長い旅をしてきたのです。
神主が教えてくれました。
「かがみ」は神自身です。
「かがみ」から「が」を取れば「かみ」になるでしょ。
鏡から我を取れば、そこに映るものが神なのですよ。
昔からの日本人の知恵の深さに感心しました。
最初のうちは、こうして奉公して真の祈りをささげていれば、いいことのひとつも起きるかななんて思っていました。
でもそのうち、そんなことはどうでもよくなりました。
あることに気づいたんです。
神とは、僕たちの中にある、最も高いレベルの意識だと。
それは優しさにあふれ、決して判断したり裁いたりすることはありません。
ただただ圧倒的な愛の力で見守っているだけです。
したがって、奉公したからといって褒美をくれるわけでもなく、神に唾を吐いたからといって罰するわけでもありません。
特定の正しい祈り方を強制することもありません。
神は何一つ求めていません。
なぜならば、神は何も必要としないからです。
神は無条件に僕たち一人ひとりを、想像を超えた深さの愛で見守ってくれているのです。
信じられない人もいるかもしれませんが、これは仮説ではなく、一定の理解に達した時に誰もが経験的に確認できる真実です。
それがわかれば、人生の流れは一気にスムーズになります。
自分を妨げるものがなくなり、心のままに生きることができるのです。
恐ろしい存在が、いつもあなたの行動をチェックしていて、間違いを犯したときに罰を与えようなどと待ち構えているわけではありません。
僕たちは心のままに、自由に自分の人生を創り出していいのです。
もし神が何かを望んでいるとしたら、僕たちが幸せを感じながら、生き生きと自分らしさを楽しむことだけです。
大丈夫ですよ。
自分を信じてください。
他人の言葉に惑わされないで、自分の真実を生きてくださいね。
Posted by Toshiro Abe at
08:48
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2008年10月09日
本来無一物
メンテナンスも終わったようです。
スタッフのみなさん、お疲れ様でした。
このところ世界不況への懸念が囁かれていますが、みなさんはどんな気持ちでいますか。
僕のブログに来てくれるような人は、すでに価値観が世間一般とは少し違うと思うので、あまり動揺していないのではないでしょうか。
僕もまったく影響されていません。
もし全てを失ったとしても、また新しくそこから始まるものがあるので、今とあまり変わらないという気持ちがあります。
「今を生きる」という態度を徹底していれば心配いりませんよね。
だって、いつも今、やるべきことをやるだけの話ですから。
自分の所有物は、所有していると自分が思っているだけで、実際には誰のものでもありません。
だから無くなって本々です。
裸で生まれてきて裸で死んで行くわけで、その間に自分のものを獲得したような気がしていますが、それは単なる思い込みです。
「本来無一物」
そう思います。
それからね、生産と消費を増やすことで成り立ってきたこの社会の仕組みを、そろそろ見直す時に来ていると思います。
ここでまた一時しのぎの手を打って、同じレールの上を突っ走っても、いつか破綻するのは時間の問題です。
ここはひとつ立ち止まって、みんなが幸せになるためにはどうしたらいいかを考えてみたいですね。
それは実に簡単な話で、人がパンのみによって生きるものではないという原点に戻って、何が大切なのかを思い出せばいいのです。
それはみんなが心のどこかで知っていることです。
たとえば「愛」
自分さえよければいいという気持ちを捨てて、世界全体が幸せになることを目的にすればいいだけですよね。
こんな当り前なことが、人類はどうして出来ないのでしょうか。
難しい話は要りません。
何の教えが一番正しいかなんて、どうだっていいです。
それよりも、まさにいま、自分がどんな心で存在しているのか。
それは優しい心か、攻撃的な心か、そうやって自分を見つめて生きていくだけです。
優しい気持ちで淡々と生きていきたいですね。
スタッフのみなさん、お疲れ様でした。
このところ世界不況への懸念が囁かれていますが、みなさんはどんな気持ちでいますか。
僕のブログに来てくれるような人は、すでに価値観が世間一般とは少し違うと思うので、あまり動揺していないのではないでしょうか。
僕もまったく影響されていません。
もし全てを失ったとしても、また新しくそこから始まるものがあるので、今とあまり変わらないという気持ちがあります。
「今を生きる」という態度を徹底していれば心配いりませんよね。
だって、いつも今、やるべきことをやるだけの話ですから。
自分の所有物は、所有していると自分が思っているだけで、実際には誰のものでもありません。
だから無くなって本々です。
裸で生まれてきて裸で死んで行くわけで、その間に自分のものを獲得したような気がしていますが、それは単なる思い込みです。
「本来無一物」
そう思います。
それからね、生産と消費を増やすことで成り立ってきたこの社会の仕組みを、そろそろ見直す時に来ていると思います。
ここでまた一時しのぎの手を打って、同じレールの上を突っ走っても、いつか破綻するのは時間の問題です。
ここはひとつ立ち止まって、みんなが幸せになるためにはどうしたらいいかを考えてみたいですね。
それは実に簡単な話で、人がパンのみによって生きるものではないという原点に戻って、何が大切なのかを思い出せばいいのです。
それはみんなが心のどこかで知っていることです。
たとえば「愛」
自分さえよければいいという気持ちを捨てて、世界全体が幸せになることを目的にすればいいだけですよね。
こんな当り前なことが、人類はどうして出来ないのでしょうか。
難しい話は要りません。
何の教えが一番正しいかなんて、どうだっていいです。
それよりも、まさにいま、自分がどんな心で存在しているのか。
それは優しい心か、攻撃的な心か、そうやって自分を見つめて生きていくだけです。
優しい気持ちで淡々と生きていきたいですね。
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10:42
│Comments(16)
2008年10月07日
10月9日お昼まで工事中
10/8(水)午前 02:00 から 10/9(木)午前 10:00頃まで、サーバー増設工事のために閲覧できなくなります。
Posted by Toshiro Abe at
22:32
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2008年10月07日
怖れの朝
早朝に目が覚めました。
その時自分に起きたことをなるべく詳しくお話しします。
まず最初に感じたのは、深い闇のような「怖れ」でした。
この感覚はいつも心の底に巣くっているのでしょうが、ダイレクトに感じたのは久しぶりです。
「怖れ」とは何か、「怖れ」を感じないようにするには云々と説いてみたところで、それは自己逃避だと思い、もう少し見つめてみました。
この怖れの正体は何だろう。
将来不安か、仕事の心配か、死への怖れか、経済的なことか、心の奥に封じ込めたやましさか・・・
どれも後付けの理由に見えます。
どうやら、こうだとは言い切れない普遍的な怖れのようにも思います。
そのうち、否定的な考えが湧いてきました。
いつもは忘れている嫌なこと、悪質な嫌がらせにあったこと、心ない噂に傷ついたこと、また何か嫌なことが起きるのではないか、・・・思考の力は強力でいつの間にかそのような妄想がリアルなものに感じてきました。
次に考え始めたのは、どのようにしてそんな状況から自分を守るかでした。
それは疑いに満ちた不確実な世界に対する自己防衛です。
あーしよう、こーしよう、これも言っておこう、あれは言わずにいよう。
どうどう巡りの思考は、ますます現実を不安なものにしていきます。
そこにあるのは徹底的な不信感です。
気を許したら突き放される、見捨てられるといった具合に、皆が悪意で生きているように見えてしまうのです。
そのような時、人間はとことん利己的になるのだと思いました。
思考はすべて自分を守るために使われて、自分、自分、自分と、自分の都合ばかり考えているのです。
そんな世界に20分くらいいたでしょうか。
さすがに疲れてきたのか、自分の中で声がしました。
「もういいんじゃない?」
ふと我に返って見ると、胸元に子猫がゴロゴロと喉を鳴らしてまとわりついていました。
それさえも気づかずに、自分の世界にはまりこんでいたわけです。
そこで、いつものやり方で自分を取り戻すことにしました。
ベッドの上にゆったりと坐って、瞑想のポーズをとります。
思考を思考として指摘することで、考えが作り出す世界から脱出するのです。
呼吸を整えて、呼吸を見つめて、思考の群れから離れていきます。
・・・・・
・・・・・
沖縄の遅い夜明けが始まりました。
窓の外が少しずつ明るくなり、世界もあるがままに落ち着いてきました。
深い呼吸の心地よさ、紫色の夜明けの美しさ、無邪気な動物の愛らしさ、そんなありふれた素晴らしさが、身体を包み始めました。
それは僕の中に善良な部分がよみがえってきた証です。
それはとても強くて、正直で、優しさを持った自分です。
今日もまた一日が始まります。
何が起きるのかではなく、どのような自分でいるのか、それが最も大切なことだと思いました。
短い時間に、極端な二人の自分を経験しましたが、そのどちらも自分自身です。
それは一生変わらないのだと思います。
大切なのは、片方の自分を力で封じ込めることではなく、その両方の存在を認めた上で、どちらの自分で生きるのかを選ぶことだと思います。
今日もいい一日でありますように。
あなたが幸せであることを祈っています。
その時自分に起きたことをなるべく詳しくお話しします。
まず最初に感じたのは、深い闇のような「怖れ」でした。
この感覚はいつも心の底に巣くっているのでしょうが、ダイレクトに感じたのは久しぶりです。
「怖れ」とは何か、「怖れ」を感じないようにするには云々と説いてみたところで、それは自己逃避だと思い、もう少し見つめてみました。
この怖れの正体は何だろう。
将来不安か、仕事の心配か、死への怖れか、経済的なことか、心の奥に封じ込めたやましさか・・・
どれも後付けの理由に見えます。
どうやら、こうだとは言い切れない普遍的な怖れのようにも思います。
そのうち、否定的な考えが湧いてきました。
いつもは忘れている嫌なこと、悪質な嫌がらせにあったこと、心ない噂に傷ついたこと、また何か嫌なことが起きるのではないか、・・・思考の力は強力でいつの間にかそのような妄想がリアルなものに感じてきました。
次に考え始めたのは、どのようにしてそんな状況から自分を守るかでした。
それは疑いに満ちた不確実な世界に対する自己防衛です。
あーしよう、こーしよう、これも言っておこう、あれは言わずにいよう。
どうどう巡りの思考は、ますます現実を不安なものにしていきます。
そこにあるのは徹底的な不信感です。
気を許したら突き放される、見捨てられるといった具合に、皆が悪意で生きているように見えてしまうのです。
そのような時、人間はとことん利己的になるのだと思いました。
思考はすべて自分を守るために使われて、自分、自分、自分と、自分の都合ばかり考えているのです。
そんな世界に20分くらいいたでしょうか。
さすがに疲れてきたのか、自分の中で声がしました。
「もういいんじゃない?」
ふと我に返って見ると、胸元に子猫がゴロゴロと喉を鳴らしてまとわりついていました。
それさえも気づかずに、自分の世界にはまりこんでいたわけです。
そこで、いつものやり方で自分を取り戻すことにしました。
ベッドの上にゆったりと坐って、瞑想のポーズをとります。
思考を思考として指摘することで、考えが作り出す世界から脱出するのです。
呼吸を整えて、呼吸を見つめて、思考の群れから離れていきます。
・・・・・
・・・・・
沖縄の遅い夜明けが始まりました。
窓の外が少しずつ明るくなり、世界もあるがままに落ち着いてきました。
深い呼吸の心地よさ、紫色の夜明けの美しさ、無邪気な動物の愛らしさ、そんなありふれた素晴らしさが、身体を包み始めました。
それは僕の中に善良な部分がよみがえってきた証です。
それはとても強くて、正直で、優しさを持った自分です。
今日もまた一日が始まります。
何が起きるのかではなく、どのような自分でいるのか、それが最も大切なことだと思いました。
短い時間に、極端な二人の自分を経験しましたが、そのどちらも自分自身です。
それは一生変わらないのだと思います。
大切なのは、片方の自分を力で封じ込めることではなく、その両方の存在を認めた上で、どちらの自分で生きるのかを選ぶことだと思います。
今日もいい一日でありますように。
あなたが幸せであることを祈っています。
Posted by Toshiro Abe at
08:05
│Comments(26)
2008年10月06日
夢のまた夢
朝目が覚めて、それまで見ていた夢が、急に自分から遠のいていく瞬間があるでしょ。
夢のストーリーは覚えているのだけど、何故そんなストーリーを真に受けて、夢の中で真剣に生きていたのか、そちらのほうが不思議なくらいに、夢のストーリーは独断的だったりします。
ところが、今こうして生きている現実も、さらに高い意識の自分から見ると、まさしく夢そのもので、やっぱり独断的な世界なのです。
自分が決めつけた周囲に対して、これまた決めつけた自分が、良かれと思いながらあれこれやっているのが人生です。
それは夢の中の出来事と何も変わらないくらいに「夢」そのものです。
でもねぇ、夢に思えないんですよね、この夢は(笑)
感覚器官から入ってくる情報が確かなものに感じるので、人生がリアルだということを疑わないのです。
でも実際には、人生は夢幻(ゆめ・まぼろし)、夢のまた夢です。
そういえば豊臣秀吉の有名な辞世の句
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにわのことは 夢のまた夢
(なにわというのは大阪城がある「浪速」と、「全てのこと」をひっかけています)
人生の修羅場をくぐりぬけて、常に生死の狭間の中を生き、最後は国中の富を手中に収めて、およそこの世で見るべきものを全部見た男の最後の言葉が
人生は夢のまた夢
というのですから、誰の人生も同じようなものでしょう。
僕らもいつか必ず夢から覚める時が来ます。
死んだ時に一度はみんなが気がつくのではないでしょうか。
なーんだ、夢だったのかって。
その気づきとともに、執着が霧のように消えていきます。
だからもし怨念や執念を持ったまま、地上をさまよう霊がいるとしたら、よほどぐっすり眠りこけていて、目が覚めたことにも気がつかないということになります。
実際に、夜中に見た夢の中で、殺したいほど憎い相手が出てきたとして、朝目が覚めた後、いつまでもその架空の相手を憎んでいるでしょうか。
怨念をもった霊がいるとしたら、それくらいに間抜けな存在だということです。
そもそも霊とは何でしょうか。
死んだあとに、身体から抜け出るといったイメージを持っている人が多いですが、それは間違っています。
霊が身体の中に住んでいるのではなく、身体が霊の中に住んでいるのです。
ちょっと発想を変えてみてください。
地球大の大きな霊が、ボーンとあるんです。
その中に無数の梅干しの種みたいな個体があって、それが僕たち一人一人です。
たしかに存在の本質は霊ですが、それは個別のものではなくて、「大いなるひとつ」なんです。
それが真実です。
それ以外に真実はありません。
そうなると、僕らがとってきた霊に対する行為は、的外れなものに見えてきます。
先祖の霊も、人が思っているような形では存在していませんし、それぞれの人が自分の心の中に作り出した夢の一部です。
でも作られた夢は、その人の中では現実に思えるので、あれこれと対処したりします。
その行為を揶揄する気はありませんが、その人がぐっすり眠りこけていることだけは確かです。
それらはすべて、人の心の中で作られたものです。
したがって、そのような霊を作り出していない人の現実の中では、供養しようとしまいと何一つ影響しません。
でも一度それを信じてしまうと、無礼がないように、バチが当たらないように、いいことが起きるようにと、その世界にはまり込んでいくことでしょう。
大殺界だとか天中殺だとかも同じで、僕のようにまったくその知識を持たない者には、何の影響も与えることはできません。
知ってしまうから縛られるのです。
夢から覚めた時、そのようなことも全部霧の彼方に消えていくでしょう。
だって僕たち自身が「大いなる一つ」に帰って行くのですから、個という幻想が抱いた夢は、まさに夢のまた夢です。
「大いなる一つ」から分離した魂(正確には分離したと思い込んでいるだけで、実際には分離することはできない)が、その分離という幻想の中でさらなる幻想を作り上げています。
そのことを「夢」というのであって、僕たちはそれを人生と呼んでいます。
で、何が言いたいのかというと・・・
気楽にいきましょう
いい夢も、悪い夢も、覚めてしまえばしょせんは夢。
どうってことないですよね。
だって、もともと僕たちは「大いなる一つ」なんですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
夢のストーリーは覚えているのだけど、何故そんなストーリーを真に受けて、夢の中で真剣に生きていたのか、そちらのほうが不思議なくらいに、夢のストーリーは独断的だったりします。
ところが、今こうして生きている現実も、さらに高い意識の自分から見ると、まさしく夢そのもので、やっぱり独断的な世界なのです。
自分が決めつけた周囲に対して、これまた決めつけた自分が、良かれと思いながらあれこれやっているのが人生です。
それは夢の中の出来事と何も変わらないくらいに「夢」そのものです。
でもねぇ、夢に思えないんですよね、この夢は(笑)
感覚器官から入ってくる情報が確かなものに感じるので、人生がリアルだということを疑わないのです。
でも実際には、人生は夢幻(ゆめ・まぼろし)、夢のまた夢です。
そういえば豊臣秀吉の有名な辞世の句
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにわのことは 夢のまた夢
(なにわというのは大阪城がある「浪速」と、「全てのこと」をひっかけています)
人生の修羅場をくぐりぬけて、常に生死の狭間の中を生き、最後は国中の富を手中に収めて、およそこの世で見るべきものを全部見た男の最後の言葉が
人生は夢のまた夢
というのですから、誰の人生も同じようなものでしょう。
僕らもいつか必ず夢から覚める時が来ます。
死んだ時に一度はみんなが気がつくのではないでしょうか。
なーんだ、夢だったのかって。
その気づきとともに、執着が霧のように消えていきます。
だからもし怨念や執念を持ったまま、地上をさまよう霊がいるとしたら、よほどぐっすり眠りこけていて、目が覚めたことにも気がつかないということになります。
実際に、夜中に見た夢の中で、殺したいほど憎い相手が出てきたとして、朝目が覚めた後、いつまでもその架空の相手を憎んでいるでしょうか。
怨念をもった霊がいるとしたら、それくらいに間抜けな存在だということです。
そもそも霊とは何でしょうか。
死んだあとに、身体から抜け出るといったイメージを持っている人が多いですが、それは間違っています。
霊が身体の中に住んでいるのではなく、身体が霊の中に住んでいるのです。
ちょっと発想を変えてみてください。
地球大の大きな霊が、ボーンとあるんです。
その中に無数の梅干しの種みたいな個体があって、それが僕たち一人一人です。
たしかに存在の本質は霊ですが、それは個別のものではなくて、「大いなるひとつ」なんです。
それが真実です。
それ以外に真実はありません。
そうなると、僕らがとってきた霊に対する行為は、的外れなものに見えてきます。
先祖の霊も、人が思っているような形では存在していませんし、それぞれの人が自分の心の中に作り出した夢の一部です。
でも作られた夢は、その人の中では現実に思えるので、あれこれと対処したりします。
その行為を揶揄する気はありませんが、その人がぐっすり眠りこけていることだけは確かです。
それらはすべて、人の心の中で作られたものです。
したがって、そのような霊を作り出していない人の現実の中では、供養しようとしまいと何一つ影響しません。
でも一度それを信じてしまうと、無礼がないように、バチが当たらないように、いいことが起きるようにと、その世界にはまり込んでいくことでしょう。
大殺界だとか天中殺だとかも同じで、僕のようにまったくその知識を持たない者には、何の影響も与えることはできません。
知ってしまうから縛られるのです。
夢から覚めた時、そのようなことも全部霧の彼方に消えていくでしょう。
だって僕たち自身が「大いなる一つ」に帰って行くのですから、個という幻想が抱いた夢は、まさに夢のまた夢です。
「大いなる一つ」から分離した魂(正確には分離したと思い込んでいるだけで、実際には分離することはできない)が、その分離という幻想の中でさらなる幻想を作り上げています。
そのことを「夢」というのであって、僕たちはそれを人生と呼んでいます。
で、何が言いたいのかというと・・・
気楽にいきましょう
いい夢も、悪い夢も、覚めてしまえばしょせんは夢。
どうってことないですよね。
だって、もともと僕たちは「大いなる一つ」なんですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
09:31
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