2018年12月31日

これもまた過ぎ去る

これは魔法の言葉です。

どんなことも過ぎ去っていくという事実。

どんな現象も現れた瞬間、すでに後ろ姿になっているということ。


特に、困難や悲しみを抱えている人には有効な言葉となるでしょう。

なぜなら人は、悲しみや上手くいっていないことに見舞われると、この状態がずっと続くような気がしてしまうから。

そして、どうしよう、どうしようとなってしまうのです。


「これもまた過ぎ去る」


そう思えれば、予想される困難にも立ち向かっていける気がしませんか。

だってすべては過ぎ去っていくのだから。



もちろん、自分がしがみつきたいことに対しても同じです。

何一つ例外なく過ぎ去っていくからです。


過ぎ去るものに対して、このままでいて欲しいと執着すれば失う恐怖も出てくるでしょうし、去っていくときは泣き崩れるかもしれません。



でも、例外なく何事も過ぎ去ることを知っていれば、潔く見送ってあげることができます。


諸行無常






そんな中にあって、ただひとつ、永遠に在り続けるもの。


それは、過ぎ去るものを見ているあなた自身。


すべてを見届けているあなたです。




平成30年の終わりに、平成元年にレコーディングしたまま、世に出さなかったこの歌をアップします。










  


Posted by Toshiro Abe at 09:01Comments(55)

2018年12月30日

花のように

沖縄は春夏秋冬、一年中何かの花が咲いている。

道端でふと出会う赤い花。

ブーゲンビリアやハイビスカス。


彼らの色彩に心がときめく瞬間があるが、彼らは誰かのために咲いているわけではない。

ただ咲いていて、それが多くの人たちに何かを与えている。






僕たちもそのような人でありたいね。

誰かに何かを与えようとするのではなく、ただ自らの花を咲かせるんだ。


間違っても、人を変えようとか、世界を変えようとか、そんな風に構えてはいけない。

それはある種の暴力だから。



僕たちは自分自身が変容して開花しない限り、人の役に立つことはできない。

自らの中に混乱を抱えているのに、どうやって人の混乱を解決しようというのか。

害になることはあっても、役に立つことはないだろう。



開花とは何か。

それは詰め込んできた知識や、良い悪いの判断を捨てて、透明な純粋意識として在ることだ。


そんなあなたのそばに来た人は、あなたから花の香りを受け取ることだろう。


でもあなたには、そんな意図はない。

ただ自ら咲いているだけだから。


そこには誰かを助けようとする努力がない。

努力がない時、そこには自然な美しさがある。



この世には多くの教師や正義の批評家たちがいるが、実のところ彼らは自分が何をしているのか分かっていないのだ。



まずは自らが光となること。


心の鎖をほどき、自由であること。




お互いにそんな生き方をしていこうね。


だって僕たちはみんな、生まれながらのブッダなのだから。






  


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2018年12月29日

信じない練習

いままでに起きたと思っていること。


いま起きていると思っていること。


これから起きると思っていること。



通常、人はこのようなストーリーを信じきっています。


それらは全部、独りよがりの思考が作り出した代物に過ぎないのに、まるで現実であるかのように思っていて、その内容を疑いません。


考えが作り出した狭い世界の中で、いろんな作戦をたてながら、少しでも現状をよくしようとし、またあれこれ考え悩みます。。


それがストレスを生み、幸せを遠ざけているのです。



思考は言います。


「私は幸せになり方を知っている。

私の言う通りにしなさい。

そうすればいつかきっと幸せになれる」



その言葉を信じて今日まで生きてきました。


結果はどうでしたか。

あいかわらず幸せを追い求めているのではないですか。



言う通りにしてきた結果がこれです。


そろそろ失敗を認めてもいい頃です。



ところがまた思考は言います。


「到達していないのは努力が足りないからだ。

もっと早く、もっと頑張るのだ。」


完全に思考の催眠術にかかってしまった人は、努力が足りない自分を責めたりもします。


そもそも思考のアドバイス自体が見当違いだと言うのに。




このような催眠状態から逃れるために、ちょっとした工夫をしてみましょう。


いつも湧いている思考を、自分の中に湧いていると考えないで、自分の外に湧いていると捉えてみるのです。


まるでいま見ている風景のように、客観的に思考を見ている。


そうやって外側に置いたとき初めて、思考に対する態度が慎重になります。

ちょうど滅多に他人を信じないようにね(笑)




いままでに起きたと思っていること。


いま起きていると思っていること。


これから起きると思っていること。



ぜーんぶ、でたらめ。


ぜーんぶ、フィクション。



それらを足元において、子供みたいに踏みにじって粉々にしてしまいましょう。



そしていまここにある、あるがままの命に落ち着いてみる。





その落ち着きから生じてくるものは、いままでの馴染みの思考より、ずっと的を射ていることでしょう。




思考を信じない。



今日からそんな練習をしてみませんか。







  


Posted by Toshiro Abe at 11:09Comments(27)

2018年12月28日

マーヤ (昨日の記事にもつながる話)

昨夜は久しぶりに友人と夜遅くまで飲んでいた。

外に飲みに行くのは久しぶりだ。


那覇の歓楽街にある店のママさんは、東京の講演会に何度も足を運んでくれている人で、毎日このブログを見てくれているのだと言う。

品のいい素敵な店だ。


一緒に行った友人は一番気心が知れている仲間だが、僕とは真逆の人生を生きてきている。


僕は人を使うのも人から使われるのも嫌いで、生まれてこの方ずっと自由業で生きてきた。

政界や財界には誰一人僕に注目する人はいないし、社会的な影響力もない。


一方の彼は大企業を率いる突出した成功者で、国会議員さえも彼の前に来ると平身低頭だ。



そんな二人が仲良しなのは他でもない、人生の真実に対する理解が一致しているから。


何が大切で何が幻想なのか、時間を忘れて話し込んだことも10回や20回ではない。

昨夜も気が付ついたら夜中の2時を回っていた。



どれくらい飲んだのか。

そういえば今朝は少々頭が痛い(^^;)



昨日その彼から面白い話を聞いたのでみんなにも紹介しよう。


成功者がこの手の話をすると奇妙な味わいがある。





ある所に双子の姉妹がいた。

二人とも器量よしで男たちの憧れの的だった。


やがて二人は、それぞれに相手を見つけて結婚した。

姉が選んだ相手は大富豪で、彼女は何不自由のない生活をすることになる。

欲しいものは何でも手に入ったし、お世話係の従者もいた。



一方、妹が選んだ相手は売れない絵描きだった。

その絵描きは自分の才能が世に認められないことで自暴自棄になり、毎日酒を飲んでは荒れて、最愛の彼女にまで暴力を振るうようになる。


嫁入りの時に持ってきた着物も家財道具もすべて売り払い、どん底の極貧生活を続けるしかなかった。

朝早くから夜遅くまで働きながら、何とか生き延びるだけの毎日だった。



それから何十年もの月日が流れ、お互いの連れ合いもこの世を去り、二人の姉妹は久しぶりに実家の縁側に座って、幼いころ一緒に遊んだ庭を見ていた。


彼女たちも、すでに80歳を超える年齢になっていた。





実家の庭は昔と何一つ変わらず、あの頃のまま。

色とりどりの花の周りで、蝶々が戯れている。



その時、二人に突然、言いようのない気づきが訪れた。

何が起きたのだろう。



目の前には、ただあるがままのいまがあった。


これ以外は存在していないことを二人は明らかに理解した。



しばらく沈黙の時が過ぎた後、姉がポツリと口にした。



「どんな人生を歩んでも、結局は同じね」



それを聞いた妹は静かにうなづいた。





たったこれだけの話だ。

しかしこの話の中には、とてつもない真実が隠されている。


ヒンズーの人たちは、これを「マーヤ」と呼んだ。


人生はマーヤ(幻想)だ。




マインドには決して理解できない話だが、完全にいまここに帰った時、このことがわかる。


そして過去という荷物が一切合切抜け落ちるのだ。




人々の苦しみが少しでも消えて無くなりますように。



全ての人が、いまここにある祝福に気づきますように。




・・・・・・・・・・



【お知らせ】


昨日の朝日新聞の一面下段に、新刊の広告が載っていたそうですね。

誰か持っていたら見せてください。


「あなたが知らないあなたの話」(阿部敏郎&雲黒斎)


本の内容をより立体的にお伝えするために、阿雲の二人が3都市を回ります。


1月20日 大阪


1月26日 名古屋


1月27日 東京



どうぞ気軽にいらしてください。







  


Posted by Toshiro Abe at 10:01Comments(36)

2018年12月27日

生きていればこそ

今年もいろんなことがあったな。

人生で一番楽しい一年だったかもしれない。


どんな経験も生きていればこそだ。

心のどこかでいつ死んでもいいと思ってはいるが、いまは死にたくない。



死にたくないと言えば、破天荒な禅僧と言われた一休さんを思い出した。

一休さんは、肉体が朽ちても死など存在しないことを様々な形で言い残している。


有名なのが死に際して詠んだと言われるこの一句


死にはせぬ どこにも行かぬ ここにいる

尋ねはするな ものは言わぬぞ




この道歌を検索してみたら、8年前のかんながらブログが出てきてビックリした。

しかしそのページでは、この歌の解説はしていない。


他のサイトの解説を幾つか読んでみたが、みんな頭で理解していて、この歌の意味を正確に捉えていない。

生意気な言い方だが正直そう思った。



生まれもせず、死にもせず、永遠の「いま」の中で永遠に「ここ」にいるのが、あらゆる命の本性だ。


それは内なる経験を通して知ることであり説明を超えている。


説明したってわかりっこない


したがって


尋ねはするな ものは言わぬぞ

となる。




そんな一休さんが、死の間際に発したと言われるのがこの一言。



「死にとうない」




この言葉を聞いて、


「な~んだ、一休さんも死が怖いのか。生に執着していたのか」

と思うのは早計だ。



怖いとか、執着とかではなく、単に死にたくないのだ。

僕はいま、この気持ちがよくわかる。

だって生きるのは面白いから。



彼は生前、酒好き、女好き、お金好きの生臭坊主としてさんざん批判されていたけれど、そう言われることも含めて面白かったのだと思う。


博識顔をした無知な人間どもの相手をするのは滑稽でもあり、そんな人間の心理の裏側まで見えてしまうから愛おしくさえあったことだろう。



本当は何だっていいんだ。


徹頭徹尾何だっていい。



何だっていいんだから、人に合わせて生きるも良し。


仮面をかぶって生きるも良し。


安全無難に生きるも良しだ。


そういう人は五万といるが、誰一人間違ってなどいない。

そもそも人生に、こう生きなければならないものなど一つもないのだから。

だからあなたのいまの生き方で何一つ失っていないし、後れを取ってもいない。


何だっていいことを知ったうえで、そのように生きるなら、そこには独自の遊び心がある。


でも、「ねばならない」とか「べきだ」とか言いながら正しさを生きたとしたら、そんなに窮屈な人生はないね。



肝心なのはどう生きるかの前に、何だっていいということを心底知っているかどうかだ。

すべての正しさは刷り込まれたものだということを見抜くこと。


その上で、してはいけないことは根源的知性が知っているから心配ない。


もっと自分を信じろ。



あちゃ、また最後に説教がましくなってしまった。



これもカルマカルマ(^^)



カーマカマカマカマ カマカメーレーオーン








来年はもっと一緒に遊んであげるからね。


説教付きだけど。








  


Posted by Toshiro Abe at 08:55Comments(29)

2018年12月26日

鏡の世界

人が目覚める時、最初に起きるのが「他者の目」からの自由です。

いかに多くのエネルギーを他者の目のために使っていたか。

いかに自分をよく見せようとして生きていたかに気づきます。



なぜそれほどまでに他者の目を意識しなければならなかったのでしょう。

その理由は、直接自分で自分を知ることができなかったからです。


したがって鏡に映すしかない。

その鏡が他者の目です。



しかし他者は、あなたの外側しか見ることができません。

それを知っているので、腹の中で怒りをためていても笑顔を振りまく。

するとあなたは社会的には明るい人になります。


良い人、賢い人、優しい人、ユニークな人、真面目な人、成功している人・・・

なんでもいいから、それなりの人に見られたいのです。



まず認めるべきは、自分が他者の目という鏡の中で生きてきたということ。


そして目覚めとは、ダイレクトに自分を知ることです。

他者に対して作り出していた偽の自分が消えて、目覚めた純粋意識としての本当の自分になること。


本当の自分・・・そこに永遠の安らぎがあります。

それを見出すのは自分の外側ではなく内側です。



富は外側のもの。

自分を偉く見せようといくら外側の富をため込んでも、内側は貧しいままです。


むしろ外側の富は、コントラストのように内側の貧しさを際立たせます。

だから富に走る人は、これでいいということがなく、どこまでも突き進むことになるのです。


このような現象は、どこにでも見ることができますね。

もし彼らが内側の豊かさに気づいたとしたら・・・それは本当の自分を知るということですが・・・その時は外側に求めていた豊かさの全てを内側に見出すことになります。



反対に外側の富を追い続け、他者からの評価をかき集めているうちは、決して天国の門を通ることはできません。


他者の目に映る自分を飾ることに懸命な人が、どうやって本当の自分を見出すというのでしょう。

どうやって天国の門を通るのか。


それは不可能です。

不可能を表す例えとして、当時の人が知る最も大きな動物であるラクダが、最も小さな針の穴を通るより難しいと言うのです。






富を得ることは悪くありません。

貧しいより豊かな方がずっと快適です。


しかしそのためだけに生きだすと上辺の人生になってしまいます。

上辺は単に他者への見せかけであり、上辺から内側深く潜ったとき、そこに至高の宝が待っているのです。


そのためには、一日に数十分でいいから、他者の目から離れる時間を持つこと。


それが瞑想です。

瞑想の種類は自分に合ったものでいいですが、習慣にするのはとても大切です。


鏡に映された自分を見るのではなく、ダイレクトに本当の自分に近づいていく。


そこに待つ本当の自分が、天国、あるいは涅槃と呼ばれる至福です。



「富める者が天国の門を通るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」



宿題に答えてくれてありがとう。

あなたが書いてくれた答えには、あなたの存在への理解が含まれています。

それを引き出すための先人の言葉なのかもしれません。





年の瀬ですね。


忙しいとは思いますが、どうぞご自愛ください。







  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(37)

2018年12月25日

イエス言う

今日はクリスマス。

イエスの言葉を味わってみよう。


「ラクダが針の穴を通ることができたとしても、富める者が天国の門を通ることはできない」


どういうことだろう。

富める者の何がいけないのか。


ラクダは針の穴を通ることはできない。

しかし富める者が天国の門を通るのはもっと不可能だと言っている。



彼は富を否定しているのだろうか。

彼は清貧の思想を説いているのだろうか。



そんなはずはない。

貧しさと精神性とは何の関係もないのだから。

同じように富と精神性とも何の関係もない。



しかしイエスはこう言いきる。

「ラクダが針の穴を通ることができたとしても、富める者が天国の門を通ることはできない」






イエスと釈迦。


彼らのメッセージの違いは、東洋と西洋という文化の違いだけでなく、彼らのもとに集まった人たちの違いによるところが大きいと思う。


釈迦には当時の知識層が弟子入りしたのに対して、イエスには学問とは無縁な漁夫や農夫が集まってきていた。


だからか、釈迦のメッセージは難解であり、イエスのメッセージは分かりやすい例え話が多い。


そのような前提を加味して見ると、彼らが同じことを言っているのが伝わってくる。





イエスは「富める者」という言葉で何を言おうとしていたんだろう。



( ̄д ̄;) ・・・・・・・・・









考えてみてね。



( ̄д ̄;) ええっ?自分で考えるの?




はい宿題です。


そのほうがきっと、イエスへの思いが深まると思うから。


もちろん正解は本人のみが知るところだろう。

しかし真実の次元から読み解いてみると、言葉の奥にある意味が浮かび上がってくる。




今日は2000年前に刑場の露と消えていった若き覚者に心を向けてみよう。


きっとそれがクリスマスの過ごし方なのだと思う。




彼は僕たちに何を伝えたかったのか。





それではまた明日(^^)







  


Posted by Toshiro Abe at 08:30Comments(57)

2018年12月24日

カーマ(カルマ)は気まぐれ

時折コメント欄の質問に答えさせてもらう時がありますが、質問ではなく意見が寄せられた場合は、ほとんど対応してきていません。


たいていの場合の意見は、その人の知識の披露であり、内側の真実であることは少ないからです。

ですが今日はそのことを踏まえたうえで、感じたままを書いてみます。



ハンニャさんからです


阿部さんという”個人”がいらっしゃらないのなら(いつもそう書かれているので)、
カルマ(個人の運命)は無いことになりますね。

この大宇宙をひとつの大きな生命と例えるならば、このひとつの生命を動かしているのは、ダルマ(宇宙の法則)です。

個人は、大宇宙の一員なので、このひとつの生命に含まれます。

わたしたち人間には、それぞれに個別のカルマがあるように思えますが、実は、この大宇宙には、大宇宙というひとつの生命を動かしているたったひとつのダルマ(宇宙の法則)があるだけなのです。


(以下略)



まったくその通りです。


もしこの言葉をあなたの内側から人に伝えるなら、それはそれでありです。

しかし誰かの意見に対し、「それは違う、真実はこうだ」となった場合は、単に戯論の世界を作り出しているだけです。




阿部さんという”個人”がいらっしゃらないのなら(いつもそう書かれているので)、
カルマ(個人の運命)は無いことになりますね。




すべては全体として刻一刻と奇跡的なバランスの中で展開しています。

あらゆる細胞が個として存在しているのではなく、全体を担って繋がっているのと似ています。



しかし同時に、細胞一つ一つには定められた動きがあります。

その定められた動きを、細胞(個人)は自分の意志のつもりでいますが、その意志も含めて、全体として起きているだけです。


人間も同じで、個人の意志は存在せず、すべては定められた通りに展開しています。

昨日はそれを少し茶化して「カルマ」と呼んでみました。



あなたが書いてくれたコメントは、いままでの僕の表現とよく似ていますし、あなたも同じような感覚で生きているのかもしれません。

しかしその感覚を固定して、相反すると感じた意見に対して持ち出すと、それは単なる知識になってしまいます。


これが言葉の危ういところであり、「真実」と、「真実についての教え」が混同されてしまう一因です。



個人は存在しませんが、こうしてあなたも僕も存在しています。


カルマは存在しませんが、全ての部分にはカルマが内在しています。


この矛盾するすべてが全体です。






さて、何度もお願いしてきたことですが、コメントの名前は統一してくださいね。

こうして書いていても、いったい誰に書いているのか分からなくなってしまいます。


今日のコメントもスルーしようかと思いましたが、いい機会なので取り上げさせてもらいました。

この先、同じことを言わなくてすむように願っています。



アーメン

(今日はクリスマスイブだね)



無神論者には神の存在を説き、

有神論者には、神など存在しないと伝えてきました。


真実はその両方です。


これからも矛盾することを言い続けていきますが、言葉や単語に惑わされることなく、その日の文脈から真意をくみ取ってもらえたら幸いです。




今日も読んでくれてありがとう。



そんなわけで


メリークリスマス♪





プレゼント曲は

Karmaは気まぐれ





追伸

今日こそ大掃除するぞ!

と思って3日が経ちました(T T)






  


Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(56)

2018年12月23日

カルマ

若いころは一生懸命に何者かになろうとしていた。

生まれた以上は、少しでも高みを目指して生きなければと思った。


あそこまで行けば幸せが待っている。

この目標を達成すれば、ゆるぎない自信が持てる。


ところがどこまで行っても何もない。

振り向くと、こんな僕を追いかけている者もいる。

ここまで来ても何もないのに。



そうやって人生の半分を生きた。



ちょうどいまの年齢の半分に差し掛かったとき、

いきなりソイツがやってきた。


ソイツの名前は「宇宙・全体」


またの名を「いまここ」




何者かにならなくても

何一つ達成しなくても

人はみな、存在全体から無条件に愛されていると知った。



心配ないよ


大丈夫だよ


全部、思い込みだから。



思いの世界から出ておいで。


一緒に仲良く遊ぼうよ。



何万回も同じことを言ってきた。


言ったところで、届かないことも知っている。


それでも言い続けるのだから、きっとこれがカルマというものなのだろう。



おーい、カルマ~!








お前のおかげで、認知症にならない気がする。


ありがとね(^^)






  


Posted by Toshiro Abe at 09:22Comments(35)

2018年12月22日

基本を忘れないで

今年も一年間、いろんなことを言ったけれど、もし一言にまとめるとしたら


「いまここを生きよう」


ということ。



いままでに何があったか、何を考えて生きてきたか、どんな感情に浸ってきたか、


そんなことと、いまのあなたとは何の関係もない。



いまのあなたは新鮮なエネルギーと創造性。

いつもそれだけがあるんだ。



いま自分の周囲で何が起きているかも関係ない。

それは単にあなたの解釈であり、それをストーリーと呼ぶ。



だから実践あるのみ


自分に語り続けているストーリーを見つけて、それは真実ではないことを自分に教えてあげるんだ。

あなたはストーリーの登場人物ではなく、そのストーリーを見ている「純粋意識」なのだから。


ストーリーを変えようともがくのではなく、また新しいストーリーを作り出すのでもなく、

もしいま苦しみや悲しみを感じているのなら

ただその感情といっしょに、いまここにいてみよう。


苦しみは苦しみの感情自体ではなく、その苦しみにまつわるストーリーに苦しめられていることに気づいてみよう。



いまではないものに気を取られてはいけない


いま鳴っている音


肌に触れている空気


いま在るものだけが在ることへの気づき


自分はストーリーではないということの洞察




不条理に扱われたこと


惨めな思いをさせられたこと


そのような記憶と、いまの自分とは何の関係もないことを知ることだ。









思うがままに書いてみた。

教師じみてしまうのは本意ではないが、このまま載せることにしよう。




2018年12月22日  沖縄の自室にて





  


Posted by Toshiro Abe at 08:51Comments(24)

2018年12月21日

論理よりも実践

今日は書きたいことがあって、でも言葉が見つからずにいたところ、2010年に書いた記事をコメント欄に載せてくれた人がいました。

それを読んで、まさにこの事が言いたかったのだと思いました。


ちょうど昨日、世界の科学者やメッセンジャー達の非二元に関する話を見ていました。

いま欧米では非二元(ノンデュアリティ)が大ブームのようです。


彼らが言っていることはそのとおりなのですが、いかんせんロジックや分析のオンパレード。

何かが足りないと思いました。



非二元の裾野が広がるのは歓迎ですが、メッセージが劣化する可能性もあります。

そして非二元が、ひとつの考え方になってしまう。



やはり実践しかないと思いながら、さて何を書こうかと思っていたところの、このメッセージ。


今日はそのまま載せることにします。



純粋意識(本当の自分)に帰る道は、大きく分けて2つあります。


それが、愛と瞑想です。


しかしどちらも、行き着くところは同じです。

人は深い愛の中で瞑想的になり、深い瞑想の中で見出すのは愛そのものだからです。


主に西洋は愛の道を、東洋は瞑想の道を歩んできました。



そしていま、洋の東西が統一されようとしています。

それは、愛と瞑想のどちらをも、同時に学んでいく時がきたことを示しています。


それは比較するものではなく、統合するものなのです。


瞑想からは大いなる叡智がもたらされます。

もし愛に叡智がなければ、そこに深みは感じられません。

一方、叡智に愛がなければ、とても危険なものになる可能性があります。


どちらも大切です。


とはいうものの、人ぞれぞれにタイプがあり、愛からのほうが入りやすい人と、瞑想からのほうが入りやすい人がいます。

どちらから入るにしても、もう片方の要素を忘れないことが大切だと思います。


先日お招きした、チベットのゲンドゥン・シュラブ大使は、一年の大半を人里離れた洞窟で瞑想にいそしみ、修行はズバリ「慈愛・菩提心」であると説きました。

まさにこれが、バランスのとれた正道だと思います。



どちらの道を歩むにせよ、気をつけなければならない点があります。

それは「私」という存在です。


「私」が愛している。

「私」が瞑想している。


という感覚は、ますます「私」を強めることになってしまいます。


自我は、貴い衣で自分を飾るのが大好きなのです。

愛も瞑想も、「私」を空しくしていく道だと言う事を忘れてはいけません。







たぶん10年後は、あれこれ言わずに、あなたと愛を分かち合いながら瞑想していると思います。

そうやって人生を送れたら、それ以上の生き方はないですね。



夢の中でひとかどの人物を目指すも良し。


夢を夢と見抜いて、いまに寛ぐも良し。





  


Posted by Toshiro Abe at 10:33Comments(64)

2018年12月20日

愛の輪

マインドのかなたに連れ出そうと、ここに何かを書いたとしても、人はマインドによってこれらの文章を解釈してしまうだろう。

したがって実践あるのみ。


いかにマインドを静めるか。

なんてことはない。

ただ黙って坐るだけ。


気が散って静かに坐れないのが人の常なので、大昔から伝わるマントラの波動を使うことを奨励し指導してきた。

20年前に出会ったこの瞑想法は、いまも現代人に一番適していると思っている。



とはいうもののメッセージも必要で、いったいどこに向かって修養を重ねていくのかが間違っていたら本末転倒だ。


昨日「波が進化してどうするんだ」と書いたが、精神世界でさえも波を向上させるための教えが主流だし、その中にあってたとえ一般受けしなくても本当のメッセージは必要だと思う。

大上段から言わせてもらえれば、真実の中にしか救済はないということだ。



そのような情報をいかに届けるかの工夫が発信側に求められるわけだが、明後日から全国の書店に並ぶ、阿雲の「あなたが知らないあなた」(徳間書店)は、よくできた本だと思う。

自画自賛♡笑




新刊発売を記念して、10年目を迎える阿雲のトークライブを東京、名古屋、大阪の3都市で開催します。

ちなみに阿雲とは、阿部敏郎と雲黒斎のコンビ名。


1月26日名古屋


1月20日大阪


1月27日東京




本を読んだら、また瞑想してほしい。

あなたの分離性と個体性を緩めるのだ。


そして全体としての存在に帰っていく。

それはいまも、そしてこれからもずっとあり続けている、本当のあなたなのだから。



あなたがこの真実を確信したら、今度はあなたの番だ。

あなたの言葉で、あなたのやり方で、縁のある人たちに真理の灯を伝えていくのだ。

そうやって目覚めの輪が広がっていく。




そういえば、90年代に方広寺でやっていた宿泊セミナーの、最終日の最終場面を思い出した。

参加者みんなで輪になって、僕がこう伝える。


「この地上に愛の輪が広がりますように。

一本締め、ヨ~~」


全員「パン!!」





最終日に書いてもらったビジョンの絵は、打ち合わせしなくても毎回いつもこんなだった。

もしかしたら、誰もの心の奥にあるビジョンは同じなのかもしれない。



あれから確かに輪が広がった。

大海原で一滴一滴の海水に呼びかけるような地味な活動だが、生かしてくれてありがとうと言いたい。



さらにその10年前。天河神社での神への誓願。


「この身体と命を、あなたの意のままにお使いください」



いい人生だったな。


まだ終わってないか(^^)




・・・・・・・・




【お知らせ】


1月は東京と大阪でマントラ瞑想の伝授をします。


初めての方用のハートマントラはコチラから。



すでにハートチャクラのマントラを実践されている方には、他のチャクラマントラもお薦めです。

あなたにとって開発したいチャクラが見つかると思います。


ルートチャクラマントラ


スロートチャクラマントラ


サードアイチャクラマントラ







  


Posted by Toshiro Abe at 10:40Comments(23)

2018年12月19日

ハンドリガード

ハンドリガードと呼ばれる現象を知ってる?


生後3か月くらいの赤ちゃんが、じっと自分の手を見つめる仕草だ。






いったいこれは何だろう。


まだ、自分という観念ができる前のこと。

自他の分離が始まる前のことだ。


過去を持ち運ぶこともなく、未来を想像することもなく、完全にいまここを生きていた。


実は過去や未来は、「自分」を持った瞬間に現れた。

「時間」と「自分」とは、セットの現象なのだ。

したがって、全体から分離した自分という観念が消えると、時間も消える。



自分とは、個人的な過去を持った人のこと。

言い方を変えれば、自分とは、自分にまつわる過去の全てだ。

その過去を反対側に投影させて未来を作り出す。



こうして過去から未来にかけて、自分という固定化した実体が生き続けているというイメージが生まれる。

これが、我々が陥ってしまった状況だ。


過去への郷愁と後悔。

そして未来への憧れと不安。


過去と未来という二つの荷物を背負いながら生きることで、唯一の現実である「いま」を見失ってしまったのだ。

「いま」とは過去の失敗を繰り返さないことであり、少しでもマシな未来のためのステップになってしまった。






この肉体の中に、他者とは違うユニークな魂が宿っていると信じている.

死後はこの魂が肉体から抜け出て、あの世に行ったり、輪廻転生したりするというわけだ。


たしかに自分として現れているエネルギーは、肉体もマインドも含めてユニークなものだ。

全く同じ波は存在していない。

しかしそれは、同じ現れを二つとして作らない森羅万象の性質であって、その背後にあるのは、海という一つのエネルギー、全体だ。


我々は波の個性を自分だと信じ、海の本質をすっかり忘れてしまった。



そしていま、海に帰りたいと言う。

波がどのようにして海になるのかを探り出す。

探求の始まりだ。


そしてその探求に応えるかのように、幾多のメソッドが提供されてきた。



波が海になる方法など無い。

だってもともと海なのだから。


方法があるとしたら、波としての活動から一時手を引くこと。

そして静かに、いまここに寛ぐことだ。




このような情報に関心を持つ人の数は、極めて少なかった。

みんなの関心は、ユニークな自分の向上であり、魂の進化だったのだから。


「波が進化してどうするんだ!」

と思うけれど・・・




ここからが本題なのに、ずいぶん長くなってしまったな。


またね。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(29)

2018年12月18日

二元と非二元

「私は気づきだ」


「私は意識だ」


うん、その通り。



でもこのように言う人は、気づきである自分と、気づいている内容とを分けてしまっている。

この態度を二元という。



非二元とは、気づきである私と、気づかれている対象は一つであるということ。

違う言い方をすれば、気づかれている対象自体に「気づき」が含まれているということ。


そしてその気づきを、「私の気づき」だと思っているのだ。


そんな私はいないのに。




だからさ


あれこれ考えないで、いま起きていることをダイレクトに生きてみよう。

起きていることに徹してみよう。



なぜ事がこのように起きているのか。

それは誰にもわからない。

ただこのように起きている。


もし気の利いた答えをするとしたら、全ての出来事は、人を目覚めさせるために起きていると言えるだろう。

だとしても、それを知ることはできないのだから、ただ生きるしかない。







シンプルが一番。

今日も次々と、やることが目の前に現れて来ることだろう。


ただそのことを淡々とやっていこう。


やがて内側で何かの洞察が生まれるかもしれない。

そのたったひとつに洞察によって、ものの見方や考え方が根底から変わってしまうこともある。



でもそれさえも、「起きること」。

計画して起こすことではなく、彼方から起きてくることだ。



実はなにからなにまで全てがそうなのだが、そのことを知ったとき自分は消えている。



そして気づきだけが残る。

(ここから今日の記事の先頭に戻って、もう一回読んでみよう)








  


Posted by Toshiro Abe at 10:31Comments(24)

2018年12月13日

昨日の続き

自分で自分を手放すというのは、履いている靴の靴ひもを上に引っ張り上げて、自分の身体を宙に浮かせるのと同じだけ不可能です。

自分を手放そうとすればするほど、それをしている自分が強化されるからです。


それではどうしたらいいのか。


まずは準備にとりかかること。


その準備のためのキーワードが「信頼」です。


先日のweb瞑想会で信頼についての質問がありました。


信頼とは流れを信頼すること。

すべては刻一刻と展開しているので、固定された対象を信頼しようとしても、あらゆることは時間の中で形を変えていき、思い通りに踏みとどまってはくれません。


その結果、裏切られたとか、失望したとかいうことになるのです。


でもその変化の流れ自体を信頼することはできます。

全ての流れは、最終的には海(全体)にたどり着くということを信頼するのです。


最終結果がハッピーエンドなら、そのプロセスはさほど問題ではありません。

海にたどり着くためには、あらゆる景色が必要だったと知ります。


それまでは、何か都合の悪いことが起きると、運命をのろったり、相手を非難したりしてきました。

でもいまは、起きること全てが自分を最高の高みに誘う必要不可欠なことだと知っています


これが流れを信頼するということです。


仏教では南無と言い、全体との相互依存を表しています。



あなたは全体の中に生まれ全体の中に消えていく。

全体があなたを生かし、あなたのお陰で全体が認識されていく。

どちらが欠けても存在は成り立たちません。


宇宙がなければあなたは存在しませんが、

あなたがいなければ宇宙は存在できないのです。



この言葉の意味が分かりますか?

何度も何度もこの言葉に深く入っていってください。


そのとき、あなたという存在の偉大さが見て取れるでしょう。


あなたと全体(神)は、互いの存在によって森羅万象を作りだしているパートナーなのです。

神とは単に畏れ敬うものではなく、あなたと親密な関係にある愛すべき親友でもあるということ。







依存から自立へ。

自立から相互依存へ。


これが大雑把に見た成長の三段階です。


しかし多くの人は自立の段階にいて、相互依存や南無の精神さえ自分の肥やしにしようとしてしまうことが、次の段階へのジレンマになります。



信頼することが難しければ、力を抜いてリラックスすること。

信頼とリラックスは車の両輪のようなもので、同時に進んでいくからです。



この道程で、自己と全体が一つだという洞察が生まれます。

親友どころか、全体(神)とは、あなたそのものだったと知る瞬間です。


ま、いろいろ言ったけれど、難しいことなんか何もない。



今日も読んでくれてありがとう。



兄弟姉妹よ


気楽にいこう。






  


Posted by Toshiro Abe at 09:14Comments(105)

2018年12月12日

12月12日の記事

人は皆オギャーと生まれて、周囲の加護のもとで育っていきます。

生きるために必要なことは、すべて親が面倒みてくれました。

完全に依存した状態から人生が始まりました。



少しずつ成長して物心つくようになると、今度は自分を律することを教えられます。

自律です。


さらには、周囲に頼るのではなく自力で生きていくことを求められます。

自立です。


こうして大人になるための準備をし、社会の中で一人の人間として生きることを目指すわけです。


もちろんこの時点では、自律や自立を可能にする「自分」が実際には存在せず、想像の産物などとは夢にも思っていません。

これらを教える大人たちも、そんなことは荒唐無稽な思想であり、自分を確立し、よりよい自分として生きることが何より大切な生き方だと信じて疑いません。


それはそれでいいのです。


人間は一人で生きることはできず、直接間接的に他者との関わりの中で生きるように定められているので、まずは自分を確立することは必要なことです。


でもそれが全てではありません。


もしそんな生き方に終始していれば、怒りや不安やストレスが蓄積されて、やがては心や体を壊してしまうことでしょう。

これが極めて多くの人に起きている現実です。


先行きが見えない中で、何度も決断を迫られ、その結果の責任を一身に背負うというのですから、苦悩にさいなまれるのは当然です。

しかもどこまでいってもこれでいいということがありません。

いつだって道半ば。

多くの満たされない欲求を抱えながら、そして死んでいくのです。



そんな中で一部の人の心に、人生はこれ以上の何かがあるはずだという想いが芽生えます。


そして救済を求め、スピリチュアルやら宗教やらに関心を持ち、それを自分のものにしようとします。


これは次の段階に移行する入り口になるので、とても重要なステップです。



しかし人は、自立している「自分」という幻想にすっかり馴染んでしまっているので、それら精神世界の教えを自分のものにし、自分をさらに成長させようとします。


この態度は、お金や名誉を求めていたそれまでの生き方と何も変わらず、ただ中身が物質世界から精神世界に変わっただけです。



次の段階は自立して求めていたもの全てに満たされるのですが、そこに入るためには自分を手放さなければなりません。


でもそんなことはできるはずがない。


自分が自分をどうやって手放すというのでしょう。


続く
  


Posted by Toshiro Abe at 13:45Comments(48)

2018年12月10日

綱渡りの綱

いちばんビックリしたのは、

自分はこの身体の中にいる何かだと思っていたのが、


身体の中にいたわけじゃなくて


いま湧いている思考と感情と


輝く太陽と、木々の緑と



同じようにこの身体も、ただ現れていて


すべてが刻一刻と展開している。



それらの現象の中を生きているのが自分なのではなく


それらすべてが自分そのものだったと気づいたこと。



それはそれは天地がひっくり返ったかと思うくらい驚いた。


その驚きとともに、それまで背負っていた荷物が一瞬にして消えてしまい、ただ軽やかな開放感だけが残った。


しかもその開放感を感じているのが自分ではなく、開放感そのものが自分だったんだ。




これが解脱?


こんな当たり前のことが?



誰もが最初から持っているものを改めて見つけただけで、新たに秘密を解いたわけじゃない。

何一つ自慢できることもない。



みんな同じくらいただの人間で、みんな同じくらいとんでもなく凄い存在だ。




あー、いったい何と闘っていたんだろう。


誰と競争していたんだろう。


どうして勝ちたかったんだろう。





あるがままに寛ぐことが、こんなにも深い安心感を与えてくれるなんて。


求めていたものをすでに持っていたなんて。



例外なく全ての人は、永遠の命と、永遠の真実の中で生かされている。


いままでも、いまも、そしてこれからも、




だからこう言ってきた。



大丈夫だよ



心配ない


綱渡りの綱は、地面と同じ高さにあるのだから。








この数十年間、同じことを伝え続け


同じことを言われ続け


いまもそれは変わらずに


きっとこれからもそうなんだろう。



この肉体が死ねば、誰も僕を打ち負かそうとしなくなるだろうし


この社会は死ねば美化してくれるから、


もしかしたら残されたこのブログも、もっと人の心に届くのかもしれない。



でもそんなこともどうだっていい。


だって映画の中のことだから。




伝え続けてきたことが突っ込みどころ満載なのはわかる。


マインドから見れば、ただの戯言にしか聞こえないだろう。




それでも言おう。



本当に大丈夫だ。


なにがどうなっても心配ない。




ここまで聞いてくれたとしたら、後は何も言うことはないし、意見もいらない。




尋ねはするな ものは言わぬぞ

(一休禅師)







  


Posted by Toshiro Abe at 09:06Comments(90)

2018年12月08日

愛と祈りと瞑想

今年何度か開催させてもらった天河ワーク。

みんなにとって忘れられない経験になったのは、そこに愛があったからです。



僕は証言します。

参加した全員が、いつのまにか愛にあふれていたことを。


そして拝殿での祈り。

愛が祈りになったとき、それが本当の祈りだと思いました。




愛の波動の中で、我々は共にあることができます。


それまでは無理です。

身体は一緒にいても、それぞれが違う世界を持ち運んでいるので、本当の出会いは起きていません。


そこには、義務と役割はあっても、愛はないのです。


家庭を含めた社会の多くは、そんな波動の中にあります。


愛があって初めて共にあることができるのに。






しかしまだその先があります。

愛においても、まだ微妙に自己が残っていますが、それが消える地点があるのです。


それが瞑想です。



瞑想の静寂の中で、我々は「ひとつ」になります。


この「ひとつ」こそが神と呼ばれているもの。

あるいは、全体、ワンネス、宇宙意識、ハイヤーセルフ、呼びたければどんな名前でもいいでしょう。


その時、私とあなたは共にあるのではなく、「私はあなた」になっています。




愛と祈りと瞑想


ここに本当の安らぎと幸せがあり、生きている意味が露わになる。


意味とは、分離した部分の中では見つからず、全体の中に内在していたものだと知ります。




それは言葉を超えています。


愛も、祈りも、瞑想も、言葉ではなく経験によって存在しているのだから。




ご意見無用。


実践あるのみ。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:39Comments(23)

2018年12月07日

本当の人生を生きるために

多くの人が苦しんでいるのは、自分の考えが作り出した物語を真実だと思って生きているから。

このたった一言を理解できたとしたら、もうすでに解放へのプロセスは始まっているし、理解する前とは比べ物にならないくらい気が楽になっていることでしょう。



物語とは


いま起きていること(起きていると思っていること)


これから起きるかもしれないこと(起きるかもと思っていること)


しでかしてしまった過去の出来事(しでかしたと思っていること)


それらを総集して、私はこういう人生を生きてきたという説明の全てが物語です。




さらには


社会とはこういうものだ(と思っていること)


自分とはこういう人間だ(と思っていること)


人生はこう生きるべきだ(と思っていること)


これらが加わって独自の物語の誕生です。




物語の根底には、自分は全体と切り離されて、個人として存在しているという頑なな思いがあります。


たぶん2~3歳くらいの間に作られた人間特有の思い込みなのですが、ずっとそれを前提にして生きてきたので、それ自体を疑うことをしません。


あらゆる苦しみの元凶だというのに、そこが手つかずのまま、物語の中で起きていると思っている事態を改善するのが生きる最優先事項になってしまうのです。




物語の中で生きている人の中に、本当に幸せな人はいません。

あなたから見てどんなに成功しているように見える人もです。


幸せとは真実の中にある永遠の感覚であり、物語という偽の真実の中には、つかの間の幸福しかないのです。

だからもっともっととなるわけです。



物語を生きる人は、ある瞬間にふと孤独感に襲われます。

たとえ仲間が大勢いようと、愛すべき家族がいようと、心の根底に切り離された分離感があるので、それがひょいと顔を出すわけです。


さらには、多くのうしろめたさも抱えていることでしょう。

だって日々生きている自分が見せかけの偽物だということを、深いところで知っているのだから。

そのような思いを抱えながら、どうやって幸せでいるというのでしょう。






それでは物語を持たない自分とはいったい誰なのか。


あらゆる機会にお話ししているのはこの一点です。








  


Posted by Toshiro Abe at 08:37Comments(18)

2018年12月06日

マインドのこと

昨日はたくさんのアクセス、ありがとうございました。

映像の場合は、文章とは違う立体的な表現が可能になるのでweb講演は好きです。

ブログもいっそのこと、ショート動画でいいのかもね。




さて今日はマインドの話。


人のマインドというものは、まるで群衆のおしゃべりのようなものです。

マインドの一部が「右だ」と言えば、他の一部が「左だ」と言います。


「いまが行動の時だ」と言えば、「まだ準備不足だ」と言います。


マインドは決して一人ではありえません。

それは同時に違う答えを出す。

そう、マインドというのは群衆です。

だから人は迷うし、途方に暮れてしまうのです。






相反する意見のどちらが正解なのか。

やってみなければわからない。

しかも失敗は許されない。


何という重圧でしょう。

それなのに多くの人は、マインドを疑うことをせず、その支離滅裂な混乱の中で生きようとします

マインドと共に生きるというのは、分裂した自分を生きることであり、不安とストレスを道連れに生きるということなのです。




そこで昨日した提案。

思考(マインド)を疑ってみる。


思考に向かって

「それは真実ではない」

と言い続ける。


そして事実、マインドの内容はまったく信用できません。



今日一日、どんな思考が出てきても即座に

「それは真実ではない」

と言いましょう。


たとえ真実についての思考であっても

「それは真実ではない」

と言うのです。


「真実についての思考」は、真実そのものではないのだから。




人が自らの思考を疑うことは稀です。

ほぼ無条件に信頼し、その通りに生きてきました。

だってマインドは、幸せになる方法を教えてくれているかのように見えるから。


そうやってマインドの言うことを聞き続けて、いったいどこにたどり着きましたか。



そろそろ違うやり方を試してみてもいい頃です。



どうするかって?




僕は馬鹿の一つ覚えのようにこう言います。


「瞑想でしょ」



・・・・・・・・・・・


今夜21時からWeb瞑想会があります。


引き続きご招待しますので、よかったらいらしてください。



アクセス先は昨日と同じ。


NIKE瞑想チャンネル


20時50分くらいから開けておきます。












  


Posted by Toshiro Abe at 12:09Comments(21)