2006年10月31日
明けましておめでとう!
新年のご挨拶は
「明けましておめでとう」
何でおめでとうかというと、新しい年をこうやって生きて迎えられておめでとうって意味だと教えてもらった事がある。
たしかに僕達はいつ死ぬか分からないし。
だとしたら、一夜明けて今朝も
「明けましておめでとう」だね。
今日も生かされている。
そんなあなたに「おめでとう」
今日は那覇市の石嶺中学校で、受験を控えた3年生とPTAへの講演会をやらせてもらう。
家の子と同じ年に生まれた子供達。
恵まれた家庭の子や、大変な境遇の子や、いろんな子達がいると聞く。
全員が自分の子供だと思って、僕なりの人生哲学を話してこようと思う。
こんな大人がいることも知ってもらおう。
そしてその後は、母家で初めての「いまここ塾」講演会。
自分自身のためにも宇宙的次元を分かち合う大切な時間だ。
今日出会う全ての人に、わずかでも良い影響を与える事が出来ますように。
今日もお互いそんな気持ちで生きようね。
だって皆、今日も生かされておめでとうなんだから。
2006年10月30日
被害者 ~嫌な感情を減らすために~
さて、また月曜日の朝だ。
少しでもあなたに元気を届けたい、そんな気持ちでブログ書いてます。
毎日いろんなことが起きるよね。
うまくいかなかったときや、思い通りにならないときは、大抵はその理由を誰かのせいにして、腹の中で怒ったりする。
その状態が「被害者」であり、自分を被害者にした時、その人の中で加害者も作り出している。
そして被害者は、加害者を責める権利があるかのごとく力を得る。
「許すも許さないも私次第だ」
この状態は出来事に対する責任転換であり、人のせいにすることで自分を正当化する最も安易な道だ。
これをやっている限り、怒りなどの嫌な感情から逃れられない。
嫌な感情の多くは被害者の感情なのだから。
そのことに気づいたら、やるべきことはただひとつ。
責任転換をせず、自分の何がこの現実を作り出したのかを学ぶこと。
さらに今の状態を少しでも良くするために、自分にできることは何なのか考えること。
この状態にシフトすれば嫌な感情から逃れる事が出来る。
あとはやることをやるだけだから。
今日も一日、いい日でありますように。
2006年10月26日
ポジティブ突撃隊
おはよう。
もう26日だね。
あっという間に今年も終わりか。
さて、今日一日を想像して見て、やりたくないのにやらなきゃいけないことっていくつある?
え?今朝目覚めたこと自体がやりたくなかったって?
そんな時は心の中でこういう会話をしている。
「やんなきゃ、やんなきゃ」
「やらねばならない」
「やらされている」
これらの言葉の特徴は、それをやるのは自分の意思じゃない、本当はやりたくないけど無理にやらされているというニュアンスが含まれている。
そういう言葉がさらに自分を力なき被害者にしていくんだ。
でも本当にそうだろうか。
本当に「やらされている」の?
もしいやだったらやらなきゃいいのに。
やらないとどうなるの?
上司に叱られる。
会社を首になる。
食べれなくなる。
家族が困る。
なるほど・・・そうなりたくないからやっているんだね。
と言うことは、その気になればやめることもできるのに、やらないよりはやったほうがマシだって言って、自分が選んでやっているんだね。
なーんだ、やらされているんじゃなくて、自分がやるって決めたんだ。
だったら被害者言葉をやめて、もっと前向きな気持ちでその現実に出会って行ったらいいよ。
「よし、やるぞ~!」って。
言葉はとても大切だよ。
だってその言葉が自分の現実を創っているんだから。
いやだと思うことも、100%やりきったら卒業して次の段階に進めるんだ。
人生ってそういう仕組みになっているみたい。
どうせやるならポジティブ波動でね
今日も一日に突撃~!!
2006年10月25日
福助でございます
今朝もおはようさん。
いきなりだけど、人はあなたのことをどう思っているんだろう。
好かれているのか嫌われているのか。
そんなことが気になったことない?
僕は特に若い頃、それが気になってみんなにいいい顔して疲れていたっけ。
でも最近はほとんんどない。
それは二つの事を理解したから。
ひとつは、
人は思っているほど僕のことなんか見ちゃいない。
僕をつぶさに観察して評価しているわけじゃない。
人はみな僕と同じように、自分自身がまわりにどう評価されているかのほうが気になっていて、人のことは二の次なんだ。
なーんだそうだったのか。
ふたつめは、
たとえ見たとしても、ひとそれぞれに「見たいように見ている」
その時の気分や状態で、見え方も変わるだろう。
それは僕にはどうにもならない。
それがわかったら力がスッと抜けた。
人が自分をどう評価するかより、自分が人を受け入れていられたら気持ちも楽だ。
誰かが言った自分の悪口が聞こえてきても、それはその人のその時のタイミングが言わしたことで、全ては変わり続けている。
その人の気分がよくて、みんなが好きだと思える日もあるさ。
全てはつかの間の夢のようなもの。
深刻に受け止めるべき重大なことなんて何もないんだ。
今日も一日、楽な気持ちで周りを受け入れる余裕を持とう。
どうってことないから。
「人生は大いなる冗談だよ!!」
2006年10月21日
ゲイル星とシェイル星
銀河の片隅に、文明を持った二つの惑星があります。
ゲイル星とシェイル星という、まるで双子のような星です。
二つの星はそれぞれに高度な知的生命体(人間)が住んでいますが、その文明は大きく異なっています。
ゲイルと呼ばれる星では、人々はお互いを警戒しあっています。
自分以外は皆、油断できない存在です。
いつ襲い掛かってくるか、いつ騙されるかわかったもんじゃありません。
人を信じる事が出来ないので、自分の本当の顔を決して見せることはありません。
たとえ相手が味方だろうと、それなりの仮面を付けて接しています。
心を開いたり信頼したりすることなど滅多にありません。
相手より優位に立つ事が、自分の価値の証明だと思っているので、足を引っ張りあったり、批判しあったりすることが日常化しています。
本当は誰も心からの幸せなど感じていないのですが、自分だけはうまくいっているような顔をして生きています。
だからいつまでたっても問題の本質が見えてきません。
この星の住民に蔓延している態度は欺瞞です。
そして毎日、多くの罪なき動物達が虐殺されています。
動物達には魂はない、たとえあったとしても自分達より大きく劣っていると本気で信じているのです。
怯える彼らを容赦なく無惨な方法で殺し、皮を剥ぎ、肉を削ぎ、その肉を人々は我先にと貪ります。
綺麗なドレスを着た婦人が、子供の肉は柔らかくて美味いと言って微笑んだり、タキシードを着た紳士が、血のしたたる生肉を新鮮だと言って自慢したりします。
この星ではマヌーという金属が何よりも大切にされます。
何故ならば、それを使えば何でも手に入れる事ができ、人を支配することさえも可能だからです。
多く持つものは尊敬され、持たない者は軽く見られます。
したがって人々は、それを手に入れるために奔走し、時には人を騙したり、殺したりする事だって起こります。
それが国規模の奪い合いになれば、適当な理屈をつけて相手国に攻め入り、大量に人を殺害し略奪します。
しかもそれを正義だと言い張ります。
そんな正義の殺し合いは、数限りなく繰り返されてきました。
残酷なゲイル星人の殺害方法はますますエスカレートし、たった一回の爆発で皆殺しに出来る爆弾まで発明され、いつ使われてもおかしくない状況の中で、皆が恐れ慄きながら生活するようになりました。
さらには自分達さえ良ければいいと思っている彼等は、星の豊かな緑や地下資源を使いたい放題に使い、いまやゲイル星自体が瀕死の状態になっています。
ここまで愚かなことをやっているのに、この星の住人達は、自分達は優れた素晴らしい生命体だと信じているのです。
さてもうひとつ、シェイルと呼ばれる星があります。
この星には法律も警察もなく、支配するものも支配されるものもいません。
人々は、皆が自分の分身だということを理解しているので、自分を大切にするのと同様に人を大切にします。
したがって奪い合うことはなく、与え合う事が日常化しています。
奪うより与えたほうが幸せであることを、あたりまえのように皆が知っているからです。
仕事もやりたい人がやりたいことをやっています。
人に喜んでもらいたいという気持ちが基本にあるので、社会に必要なのに誰もやっていない仕事があれば、我先にと喜んで受け持つために、常に全てのニーズが満たされています。
どんな仕事でも、働くことは義務ではなく、喜びなのです。
働いても自分だけが何かを手に入れることはありません。
ゲイル星のマヌーのような金属は、あったとしてもそれは皆のものであり、それを持ったからといって、何かがよくなるわけではありません。
人間はこの星のリーダーであることを自負し、あらゆる生き物を愛と調和の中に組み入れ、それぞれがバランスよく共存していけるシステムを完成させました。
自分達の科学の発展を、殺すためではなく、あらゆる命を慈しむ方向で使用してきたのです。
家族のような単位もありません。
全員が親子兄弟や恋人のようなかかわりを持ち、互いに愛し合い、認め合い、気が合えば二人きりで暮らすこともあり、いつまでも二人で暮らす魂たちがいたかと思うと、そこでの学びを終え、より自分の成長に効果的な環境を求めて旅立つ者たちもいます。
いずれにしても争うことはなく、事はスムーズに展開していきます。
子育ては主に年長者の仕事です。
最も知恵のある者達が、新しい命に対して十分な愛と教育を担っています。
子供一人に対して何人もの養育者がいるために、どんな子供も溢れんばかりの愛を受けて育ちます。
この星の主な行事は祝祭事です。
存在を祝い、大宇宙の叡智を祝い、歌や踊りが至る所で繰り広げられています。
笑い、喜び、信頼、愛、自由、感謝がこの星の主な感情で、それは住人達の間を縦横無尽に行き交っているのです。
したがってとうの昔にストレスや病は克服され、平均寿命も千歳を超えていますが、みな若々しくエネルギーに満ち溢れています。
全てがひとつであることを理解しているので、死や消滅など存在しないことを知っていますが、今の身体を十二分に楽しんだら、死という名の休息に入り、また新たな冒険の旅の準備をします。
そうやってますます愛に溢れた魂に成長していくのです。
え?そのうちゲイル星人に攻撃されて滅ぼされないかって?
シェイル星は個人の発見や発明を瞬時に皆で共有してきたので、飛躍的な速さで科学が発達してきました。
しかも魂の向上にともない、惑星全体が荒々しい物資次元を超越していて、ゲイル星人からは透明で見る事さえ出来ません。
ひとつとっておきの秘密をお教えしましょう。
実はゲイル星人もシェイル星人も、同じ能力を持った同じ存在なのです。
ただ存在の基盤に愛のエネルギーを選んだか、恐れのエネルギーを選んだかの差が、これほどの違いとなって現れたのです。
そして最後にもうひとつ、とっておきの秘密です。
今ゲイル星の一部に変な噂が飛び交っています。
ゲイル星暦2012年12月22日に、多くの魂がシェイル星に移り住むというのです。
でもほとんどのゲイル星人達は、見えないシェイル星の存在さえも信じないので、単なる戯言として相手にしていません。
実際には移り住むのではなく、ゲイル星がシェイル星の状態に近づく準備が始まろうとしているのです。
その先導の役目は、危機に瀕したゲイル星をなんとかしなければという使命感を持った魂達が担っていくことになるでしょう。
そしてその力に感応するかのように、多くの魂たちが目覚めの時を迎え、ゲイル星そのものの波動が大きく動き出すのです。
そしてそれはもう始まっているのかもしれません。
おしまい。
2006年10月20日
アセンション(2)
最近、毎日のようにワクワクしている自分がいます。
それは自分がもっと成長していきたいという思いが膨らんでいるからであり、そのきっかけになったのがアセンションという考え方です。
だからでしょうか、最近になってアセンションに対する様々なインスピレーションが訪れるようになりました。
アセンションとはある時期が来たとき、準備ができている魂は、より高い次元に移行していくというものです。
でも僕の直感は、いま巷でまことしやかに言われているものとは若干違います。
ちょっと考えてみてください。
もしあなたが不衛生で危険に満ちた貧困街にいたとして、そこにリムジンカーが「お迎えに参りました」と言ってあなたを連れにきたとしたら、あなたは自分だけその車に乗り込みますか。
それとも、家族や友人が住むその街を、より癒したい、より住みやすくしたいと願いますか。
すべての存在は我々の一部です。
気づいた人の使命は去ることではなく、再生に協力することだと思うのです。
子供達や孫達の時代に、よりよい地球やよりよい社会を残すために、まずは自分自身が成長していく、それが本来のアセンションの意味だと思います。
2006年10月19日
1秒の歴史
人類の文明は5000年前に始まったとされる。
そこには無数の人生があり、喜んだり、悲しんだり、希望に燃えたり、絶望したり、悲惨な現実や、ささやかな幸せや、そんな営みが何度繰り返されてきたことだろう。
さらにさかのぼって地球が誕生した46億年前を、仮に一週間前だとすると、人類の歴史が始まったのは、なんと1秒前のことだ。
我々の一生など瞬間にもならない。
その間に僕達は、「あーでもいない、こーでもない、あいつは正しい、こいつは間違っている」って大騒ぎして死んでいくのかな。
今日は悠久の時を感じながら、おおらかな気持ちで過ごそうね。
なんくるないさ~
(沖縄の言葉で、大丈夫だよ、なんとかなるよって意味)
写真は今朝の中城湾。
海岸まで犬の散歩に出かけて撮りました。
2006年10月18日
悟りの境地
このブログは日記のようなもの。
とりあえず起きたことはそのまま書き記しておこう。
夕方から2時間ばかり坐禅をして、とてもいい感じになった。
見るもの聞くものが新鮮で色鮮やか。
頭の中から判断が消えれば「全てはOK!」
過去も未来も消えて、ただ永遠なる「いまここ」が淡々と展開している。
そんな絶好調の僕は、のどが渇いて冷蔵庫を開けると、飲み物がない。
なくたってがっかりしない。
あるがままの現実を受け入れて、それでも飲みたければ買いに行けばいいだけだ。
コンビニに行こう。
ついでに先日頂いたギャラをATMに入金しよう。
机の上だったかな・・・ない。
じゃ、棚の上か・・・ない。
引き出しの中は・・・ない。
ふふふ、ポケットに入れっぱなしか・・・ない
ずいぶん浅いポケットだ、もしかしてまた落とした?
そんなわけはない。
信じたくない。
こんなことくらいでうろたえるようなオレじゃない、キッチンかな・・・ない!!
息子を呼んだ。
「見なかったか?」
「知らない」
リビング・・・ない!!
ギターケース・・・ない!!
トイレ・・・ない!!
ベッドの下・・・ない!!
どこにも・・・ない!!・・・ない!!・・・ない!!!
やっぱりどこかに落としたのか・・・
やがて部屋中のものをひっくり返して、洋服ダンスの服のポケット全部見て、あんなにいい雰囲気だったプチブッダ様のメンタルはすでにズタズタ。
疲れきって自分に言い聞かせる。
「起きる事が起きる。それ以外は決して起きない。起きることに抵抗してはいけない。受け入れなさい。それをタタータという」本物のブッダのお言葉。
深呼吸して気持ちがやっと落ち着いてきた。
ふ~
気を取り戻すのにずいぶん時間がかかった。オレもまだまだだな。
仕方がない、あきらめるか。
とりあえずビールでも買いに行こうと車に乗り込んだら・・・あった。
ひとつだけわかったことがある。
僕の悟りは十万円でガタガタになるってこと。
せめて五十万円でガタガタになるくらいになりたい。
2006年10月18日
でぃあー うちなーんちゅ
昨日はとても素晴らしい一日でした。
神聖な書物を読み、瞑想をし、波打ち際で悠久の時を感じ、祈りを捧げました。
特に最後の「いまここ塾」では、たくさんの人達と共に祈りを経験し、部屋中が平和と愛で満たされていくのがわかりました。
とても美しい時間でした。
ここ沖縄で平和を祈ることの意義の大きさも感じました。
沖縄は神の島。
沖縄人は祈りの人たちだと思いました。
とても文章では表現できないあの時間の輝きは、美しい海や自然以上の、沖縄の隠された宝なのではないかと思います。
日々の生活の中で、見えない世界とあたりまえのように共存しているみなさんは、ヤマトや世界に発信すべきたくさんのメッセージを、先祖代々受け継いできているのです。
どうぞみなさん、なおいっそうの誇りを持って、その優しさと純真さを大切に生きてください。
僕はヤマトから来た、皆さんの存在の証人です。
2006年10月17日
しょせんこの世は男と女
【出演】
阿部敏郎&阿部智子
夫婦の本音の会話ほど面白いものはない。
25年も一緒に暮らしていたら、言いたいことの一つや二つあるはず。
しょせんこの世は男と女
そのあたりを赤裸々にすることで、な~んだ、みんなそうだったのかって。
そんな知的な大人の夜を、ナイスな音楽と共にお届けします。
【日時】
2月13日(土)
開場 18:00
開演 19:30
【会場】
原宿ラドンナ
東京都渋谷区神宮前4-28-21
ハーモニー原宿 地下1階
03-5775-6775
【料金】
5000円
お申し込みはコチラから
2006年10月17日
祈り
地上の苦しみが終焉しますように
世界が平和でありますように
存在への理解が深まり、愛と調和に満ちた社会が実現しますように
食肉を目的に、牛や豚や、動物達が殺されませんように
僕自身のこと・・・
愛と慈しみの力が増しますように
人々の苦しみを救えますように
家族をより幸せに出来ますように
悟りが定着しますように
もっと成長しますように
2006年10月16日
またやっちゃった
さっき、犬の散歩に公園に行ったのね。
そしたら向うから、サングラスをかけた恐そうな男性が歩いてきた。
関わるのが嫌だったから極力無視して歩いていたら、すれ違いざまに・・・
彼のほうからニッコリ笑って
「おはようございます!」
僕も思わず
「お、おはようございます」
よく見たら、とっても優しい顔の人。
いつも、人を見かけで判断しちゃいけないよって言ってる本人がこれです
もし彼が挨拶をしなければ、僕はあきらかに彼を無視したまま通り過ぎていていた。
僕としては相手に嫌な気持ちを与える事が目的じゃなかったけど、相手から見れば自分に対して否定的な気持ちを発信してきたと感じただろうし・・・
あ~あ、こんなすれ違いは日常茶飯事、今もいろんなところで起きているんだろうな。
いつも元気に、誰に対しても太陽のように分け隔てない自分でいたい。
午後から免許証の書き換えに行って来ます。
係官にも笑顔で接しよっと。
Posted by Toshiro Abe at
10:53
│Comments(1)
2006年10月16日
宇宙の力
毎朝決まって太陽が顔を出し、地上を光で満たしていく。
あたりまえに思っていることも、こうしてご来光を目の当たりにすると、宇宙大の奇跡に圧倒されて言葉を失う。
宇宙の力が太陽を生み、惑星を動かし、潮の干満をつかさどり、全ての命を育んでいる。
それはまさに僕達一人ひとりを生かしている同じ力であり、僕達の中で呼吸をしているのも同じ存在だ。
そんな無限の力によって生かされているというのに、僕達は何故些細な問題に頭を悩ませ、小さな安全の中で生きていこうとするのだろうか。
自分の中にある宇宙の力を最大限に発揮して生きたとしたら、人生はどのように変わっていくのだろう。
宇宙の力、それこそが真実の愛だと知ったのはずいぶん前のこと。
その愛の前にはどんな恐れも存在する余地はない。
霊的理解は全ての恐れを焼き尽くす。
取り越し苦労は無知の産物だよ。
僕達に一番必要なのは、魂の目を開くことだと思う。
今日も一日あなたに祝福が訪れますように。
と言うよりは、いつも祝福されていることを忘れないで生きようね。
LOVE
写真は今朝の中城湾。
2006年10月15日
ご飯と宇宙
昨日は一日、感謝というテーマで生きてみた。
そこで見えたものは頭ではわかっていても、心の底からという感覚を持つことの難しさ。
それは作ろうと思って作れるものじゃない。
自分は騙せない。
それでもやらないよりはだいぶマシ。
いろんな自分に気づけるし、いかに多くの力によって事が成っているのかが見えてくる。
たとえば昨日僕が食べたコンビニの昆布のおにぎり。
お米はどこかの誰かが作ってくれたもの。
苗が育つ過程だって、太陽の力や雨の潤いや、地の養分や様々な作用によって起きていること。
海苔や昆布だって海の中で育つには多くの力が必要だったし、時間もかかる。
それを誰かが運んでくれて、多くの作業過程を経て昆布のおにぎりになった。
運ぶために必要な車も燃料も道路も、製造過程での機械もぜんぶ誰かの努力によってできたもの。
そうやって考えると、この昆布おにぎりの中には、天の恵み、地の恵み、海の恵み、人の労力といった目には見えないけれどたくさんの「おかげさま」が入っていることになる。
おにぎり一つとったってそうなんだから、身の回りの物がこうして目の前に現れた経緯を考えると、気が遠くなるような無限の「おかげさま」に囲まれていることになる。
それが実感できるくらいの想像力と注意深さを持てば、毎日の何気ない経験が格段に深まるよね。
その深みが人生の豊かさなんだと思う。
感情的には心の底からの感謝が出てこなくても、知的には感謝に繋がる理解を持つ事が出来る。
それは不断の気づきさえ持てれば可能なこと。
ぼくはそこから練習して見ようと思う。
ご飯(お米)を食べながら天の恵みや地の恵みの宇宙を感じようとする。
ちなみに禅寺では、食事の前に必ずそのことを宣言するんだよ。
「ひとつには功の多少を計(はか)り 彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。」
(この食事が食膳に運ばれるまでには、幾多の人々の労力と. 天地神仏の加護によることを想って感謝いたします。)
今日もそんな気持ちを持って生きて見ます。
合掌
2006年10月14日
志
僕はずっと「あるがまま」の自分を生きることがいいことだと思っていて、強みも弱みもさらけ出す事が正直な生き方だと思っていた。
そんな自分を誇らしく思ったときさえあった。
でも本当にそうだろうか?
弱みや欠点をさらけ出して満足するより、もっとこういう人間になりたいという志を持つことのほうが、ずっとずっと素晴らしいんじゃないか。
そうやって自分がより高い人格に成長できれば、縁あって出会ってくれた人たちによりよい影響を与える事が出来るのではないか。
今頃になってそんな事に気づいたわけです。
でどんな自分になりたいか。
「感謝の気持ち」を心から生きられる自分になりたいです。
「おかげさまです」
「ありがとうございます」
この言葉をどれだけ心から言えるか。
どれだけ心底思えるか。
まずは家族をはじめ、自分に関わってくれている全ての人に対して。
空気や水や食べ物や、暮らしている家や車や、身の回りの全て。
自分を取り巻くありとあらゆるものにそんな感謝の気持ちを持って、心を込めて大切にしていく。
そんな自分になりたいわけです。
今の自分はそこからほど遠いけど、まずはそんな自分になったつもりで生きてみます。
最初は偽善的かもしれないけれど、ずっと続けていけば知らない間にそれが習慣になって、いつの間にかそういう自分になっている・・・
そんな日が来るまで今日も一日、感謝を生きることを目指します。
2006年10月13日
輪廻転生Ⅱ
輪廻転生が事実であるならば、なぜモハメッドやキリストはそのことを説かなかったんだろう。
実は釈迦もそこに重点を置いていなかった。
彼らはそのことを知らなかったのか。
そんなことはありえない。
深く存在の真実に行き着いた者なら、そのような事実も当然のように見ていただろう。
では何故そこを伝えなかったのか。
その答えはインドを見ればよくわかる。
最近でこそ経済至上主義の波に押され、インドの経済発展も目覚しいが、長き時代にわたり国を支配していたムードは、退廃的な無気力感だった。
そのムードの背景にはヒンズー教の輪廻思想があったとされる。
「今回の人生でダメでも来世があるさ」
これは人間の成長にとって、一番ネックになる考え方だ。
いつまでも時間があると思うと、人は必死に何かに取り組もうとはしなくなる。
釈迦やキリストたち真の宗教家の目的は、いかにして衆生の魂を向上させるかにある。
そのために一番効果的なのは、いつまでも先延ばしするなという態度だ。
輪廻の考え方はそれに逆行する。
さて少し話しは変わるけど、先日2012年のアセンション(次元上昇)という話をしたね。
初めてここを訪れた人は9月29日の過去ログを読んでね。
その時、「こういう警告のおかげで魂を磨こうとする人が増えるのは素晴らしいことで、この手の流言は歓迎します」と書いた。
アセンションの話は荒唐無稽なお伽噺かもしれない。
でももしかしたら、何らかの真実を含んでいるのかもしれない。
なぜならば「時間」とは自我の作用のひとつであり、「時間が無くなる」とは自我の消滅を意味し、その時初めて真実の生命に触れる事ができるからだ。
「自我=時間」・・・これもいつか詳しく説明しよう。
したがって時間速度がますます速まり、2012年にゼロポイントを迎えるという考え方は興味深い部分もある。
だとしたらそのような考え方を一旦受け入れて、日々の魂の成長に役立てたらいいのではないか。
僕達は成長したいという願望を持っている。
それを一歩進めて、願望を目標に変えるんだ。
目標とは期限付きの願望のこと。
期限を設定しなければただの夢に終わってしまう。
そこで提案したいのは、僕達が一緒に成長するために2012年12月22日という期限を定めて、日々お互いに魂を磨くレッスンをしていくということだ。
たとえば自分の嫌いな人の幸せを祈るという行為ひとつとってみても、ひとりじゃ挫けちゃうけど、みんなと一緒なら励ましあいながら共に進めると思う。
そういえば2000年12月に「いまここ塾」のHPを立ち上げて以来、ずっとこの類のメッセージを送り続けてきた。
その頃にはブログも音声になっているかもしれないけど、僕は最低でもその日までブログを続けることを約束する。
自分自身の為にもね。
長くなったけど、今朝そんなことを考えたんだ。
最後まで読んでくれてありがとう。
2006年10月13日
輪廻転生
昨日の夜、何気にテレビをつけたら「輪廻転生」についての番組をやっていた。
内容も興味深かったけど、それ以上に興味を感じたのは、番組の制作タッチと日本中でこの番組を見ている人たちの波動。
もしこれが10年前なら、もっとオカルトチックないかがわしい作りになっていたものが、昨日はあたりまえのように肯定的に表現され、しかもそれを抵抗なく見ていた人が多いと感じた。
これは凄い変化だよ。
やっぱり時代は急速に変わっている。
輪廻転生については「自分という個別の魂」が次々と肉体を変えていくという捉え方をすると、そうではない部分がある。
そこはとても複雑だから、またいつか説明しようね。
僕自身は前世や来世については考えないで生きようという立場で話をしてきた。
なぜなら、「いまここ」という時間を超えた境地から見れば、過去や未来に強い関心を持つのは逆行するから。
だからといって輪廻転生がないわけじゃない。
いつも言うように、真実は何事も「ある」といえばあるし「ない」といえばないんだ。
言葉を超えている。
近代文明は魂や死後の世界は「ない」ということを科学的立場としてきたけど、それも偏った考え方で、それが今変わろうとしているんだね。
でも注意しなきゃいけないのは、人は極端から極端に動いてしまいがちだから、その真ん中に真実があると思ったら良いよ。
今朝、ひらめいた事があるんだ。
大切なことだからまたお昼頃に記事をアップするね。
2006年10月12日
愛される価値
今日我が家に犬が里帰りした。
拾ってきた母犬が産んだうちの一匹で、稲嶺さんがもらってくれたんだけど、とにかく両家でものすごく可愛がっている。
我が家では、みんなで抱っこしてキスして大変な騒ぎだ。
どこにでもいる雑種のメス犬だけど、どんな血統書つきの犬より大切にされている。
たとえこの子が病気だろうが、人なつっこくなかろうが、顔がオブシュだろうが、なんだろうが、愛は変わらない。
愛されるっていうのは、その子に価値があるかないかじゃなくて、愛する側が愛するかどうかの話だよね。
僕らは愛してもらえなかった経験をすると、自分に愛されるだけの価値がないからだって思いがちだけど、そうじゃないよね。
愛されるかどうかは、愛する側の問題だもの。
どんな自分だって愛してもらえた可能性は十分にあった。
特に子供の頃に両親から愛されないで育った子は、自分が悪かったんだって思っちゃうみたい。
本当はどんな子供でも、親に余裕があれば、親に理解があれば愛してもらえたのに、本当は自分のせいじゃないのに、その子は一生自分は価値のない人間だって信じて生きちゃったりする。
そういう誤解を全部消してあげられるくらい、大きな愛の力を持ちたいね。
そして寂しい想いをしている子供達みんなを愛してあげたいね。
君のままでいいんだよって。
2006年10月11日
5年前の手記
沖縄に引っ越してくる直前に書いた手記。
2001年11月 浜松の自宅にて。
・・・・・・・・・・・・・
不思議な事を思い出した。
5歳か6歳の頃、父親の自転車の後ろに乗って踏切を渡るとき、心の中で「時間なんてなくて、本当は今しかないんじゃないか」と思ったこと。
お尻に伝わってきた線路のゴツゴツした感触までよく覚えている。
次に同じことを思ったのは18歳の時。
家の表を酔っ払いがクダを巻いて通り過ぎて行った。
昔は良かったと叫びながら。
人は過去に郷愁を持ち、未来に期待をするけれど、実際はいつも同じなんじゃないか、今何を感じているかが全てではないかと思った。
3度目は30歳の冬。
時間を超えた永遠を垣間見た瞬間だった。
その時の体験は前の2つとはあきらかに違っていた。
それは至福を伴ない、「自分」というものが消えていて、あらゆる問題が解決していた。
その体験があまりに素晴らしく、あまりにリアルだったため、もう一度同じ体験がしたいと思い、精神世界の本を読みあさり、インドにまで出かけ、様々な瞑想や技法を学びもしたが、結局はそれ以来同じ体験が訪れることはなかった。
それが2度と繰り返さないことを知ったのはずいぶんと後になってから。
僕は体験を美化し、僅かに残ったその感覚をコレクションのように持ち運びながら、精神の旅を続けていた。
そんな時、禅と出会った。
禅は言葉にできないその体験を堂々と認め、しかもそれがゴールではなくただの入り口に過ぎないことを教えてくれた。
その至福体験を求めていること自体が、真理から遠ざかっていたことを学んだ。
あたりまえであることの美しさと、あたりまえでいることの難しさを知った。
自分の劣等感から自分を特別な人に仕立て、その体験を勲章のように使っていたことを恥ずかしく思った。
そして今、再びふりだしだ。
精神世界の亡霊からも解放され、地に足をつけたあたりまえの一人の人間として、もう一度生きようとしている自分がいる。
音楽との再会も僕をリフレッシュさせてくれた。
もう一度、音楽をとおして自分を表現してみようと思う。
20代の頃のように、何とかして有名になりたいわけでも成功したいわけでもない。
何かになりたいという気持はとうの昔に消えている。
どこまで行っても何もないことも知っている。
僕はただ、
自分が自分であるために、表現を続けたい
縁のあった愛する人たちと、より深く出会いたい
自分を全て与えたい
感動をわかちあいたい
歌いたい
話がしたい
泣きたい
笑いたい
愛を感じていたい
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・・・・・・・・・
あの時は新しい世界に身を投じる期待と不安が入り混じっていたように思います。
今読み返してみて、あの時望んだことは全て叶っているよと言ってあげたいと思いました。
沖縄は期待以上に素晴らしい所でした。
そして沖縄は期待以上に僕を受け入れてくれたのです。
ありがとう!
2006年10月11日
告白
僕が生意気にもこのような場で発信しているメッセージは、すべて自分自身が一番学ばなければいけないことばかり。
昨日はみんなで一緒にやるんだからってそれを励みにして、自分が言ったことを生きて見ました。
昨日のテーマは「心の中で人を非難したり悪く思ったりしたら、すぐに考えをチェンジして、その人たちの幸せを祈ろう」っていうことだったよね。
やってみてあらためて思ったことは、僕はちょっと油断するとすぐに人を批判したり責めたりしている。
たとえば不機嫌な顔で登校した子供や、時間より早く来たゴミ収集車の人や、高額な国民健康保険税を決めた役場や、それはまだ軽いんだけどもっと強烈なものでは、僕に散々嫌がらせをしてさっさといなくなった人や、その嫌がらせを引き継いだ人や、自分の立場を守ることに長けた企業幹部や、権力に守られた心無き名士たちや、僕を影で侮辱した人や・・・
そしてそんな人たちの健康や幸運を祈ろうとして、できる人とできない人がいた。
心のどこかで被害者意識を持っていると難しい。
はっきり言ってしまうと幸せになってほしくないって思ってるわけ。
でね、いつもならそこでやめちゃうんだけど、みんなと一緒に頑張っているんだって自分を励まして、何度もトライしたんだ。
そしたらね、その人たちも一生懸命に生きていて、僕とは悲しいめぐり合わせだったけど、それさえも僕の成長のために貢献してくれていて、僕に出会ってくれただけでありがとうって思えてきた。
そう思えたら、逆に自分がやってきた横暴な考えや、巧みな正当化や、いろんな自分が見えてきて、にもかかわらず多くの人に支えられている幸運を感謝した。
これが謙虚になるってことか、これが成長するって事かって思えた。
それでね、さっきまで皆さんのコメントを読ませてもらってまた感動!
なんて心優しい人たちだろうって。
しかも皆さんからたくさんのことを教えてもらって、よし僕も成長に向かって頑張るぞって改めて思った朝でした。
今日も多くの人たちの幸せを祈って、まずは縁ある周りの人たちを大切に生きてみます。
みんなもいい一日をね。
感謝