2014年12月31日

順番

僕は若いころ、誰のことも信じられませんでした。

どんないいことを言う人も、必ず裏があると思っていました。

なぜなら、僕自身がすべて見せかけであり、心とは裏腹のことばかり話していたからです。


いま思えば、本当に親身になってアドバイスしてくれた人もいました。

もし彼らの助言を、ほんの少しでも受け入れていたら、人生はまったく違うものになっていたことでしょう。

でも僕には、そのような厚意を受け取ることはできず、いつも一人きりで生きていました。


本を読んでも身になりません。

書き手を信頼することが出来ないので、内容の深さに触れることなどできなかったのです。



そんなあるとき、自分の特別さが脅かされる出来事がおきました。

いつもの僕ならば瞬時に自分を正当化し、うまく逃げ切るのですが、その時はだいぶ弱っていたこともあって、そんな余裕がありませんでした。


そのことが幸いしました。

プライドが根こそぎにされた瞬間、そこにあったのは屈辱ではなく、いままでに感じたことのない開放感でした。

自分がごく当たり前の人間であることを初めて受け入れた瞬間でした。


その日から本当の読書が始まったように思います。

やっと学ぶ準備ができたのです。

それまでは、解らない箇所は書き手のまやかしくらいに思っていましたが、それ以降は解るまで何度も読み返し、一行読んでは瞑想し、やがては血となり肉となっていきました。

もちろんどんな本に対してもそうしたわけではありません。

心が開いてからは、真実を記したものを簡単に選ぶことが出来ました。


気がついてみたら、今度は僕が人の心をノックする番になっていました。

もちろんドアを開いてくれる人ばかりではありません。

そんなとき、あまり傷つくこともなく受け流すことが出来るのは、若いころの自分を知っているからでしょう。


いまは暗闇の中で手探りしていている人も、やがては後人のために道を照らす側になるかもしれません。

そうやって地上に、ひとつひとつ温かさと理解が広まっていくのだと思います。


そして世界が変わるのです。

いまはそういう時代だと思います。


今年も一年お世話になりました。


また来年もよろしくお願いします。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:09Comments(154)

2014年12月30日

秘訣

今朝も鳥の声がします。

毎日庭の木にやって来るツガイです。

とても仲良しで、彼らは生きることを謳歌しているように見えます。

本当は難しいことなんか何もないと教えてくれます。


今年はどんな一年でしたか。

僕は最後のThe禅スクールの紹介のプロセスが一番楽しい思い出になりました。

結果は大成功でしたが、最初から成功することは知っていました。

来年はこの30年間の集大成の始まりです。

飛び込んでくれた勇気を、何倍もの価値でお返しします。



さて、僕は根がグウタラだから、模範にしてもらうような面はないのですが、人生がうまくいく秘訣のようなものがあって、そこは全て公開しています。

結論を言えば、その秘訣とは、人生の流れを信頼するということです。

なにかの流れに乗っているときは、その途中でどうなってしまうのかと思うシーンがあるのに、微動だにしない流れの力強さの前に、ここからどこに運ぶ気なのかワクワクしてきます。

それが流れを信頼するということです。


いきなり信頼しようとしても無理です。

流れを信頼するには、自分が何者なのかという発見が先です。

自分という存在が固定された実体ではなく、まさに「いま」という中で刻々と変化し続ける名前のつけようのない命の現れだという実感です。

人間は社会的な生き物なので、個を確立するしか生きるすべがありませんが、成長過程で作り出した自分という名の「個」は、社会を生きるための道具であって、自分自身ではないということを徹底的に知ることが必要です。

自己の不在を見抜くことは、個の幻想を見抜くことであり、その結果、自分自身が流れそのものだと実感します。

自分が存在の全てであり、自分が創造主であったという単純な事実を知るのです。


ですからまず人は自己に徹し、自分とは一体何であるかを探求することが必要です。

でなければ、無意識に信じてしまった自分という個を抱えて、無意識に信じてしまった社会という幻想の中で生き残ることだけが、人生の目的になってしまうことでしょう。

幻想と幻想の関わり・・・これが一般に言われる「人生」です。

そしてその幻想を信じる強さによって、その人の苦悩の量が決まってきます。


もしそれらの幻想を見抜き、自分という命の流れを信頼できるようになれば苦悩は消滅します。

そしてやることなすことがスムーズに展開するのです。


あはは、また同じ事を言ってしまいました(^o^;)

昨日のコメントに、自分は人生を見守っているのに、一向にスムーズにならないという方がいました。

それは「やり方」ではないのです。

こういう場で語られた一言を、スローガンのようにして生活に持ち込んではいけません。

すべては、自分を知ることから始まっていきます。

これ以外の言葉は持ち運ばないことです。


僕に出来ることは、自らの身に起きたことを詳らかにし、それが誰にでも起こり得ることを伝えることです。

欲しいものはなんでも手に入ります。

だって自分が創造主なのだから。


やりたいことはなんでも可能です。

庭に遊ぶ鳥たちのように、人生に難しいことなど何もないのです。


でも皮肉なことに、そうなると、欲しいものも、やりたいことも減っていきます。

それでもたまに行動に出れば、それらは成就します。


自分が創造主


我即神なり


これが自分を知るということです。


だからと言っていつも神意識として在るわけではありません。

肉体を持った自我としてありながら、根底に神意識が流れているという感じです。


したがって煩悩が消えることはありません。

それは生きる推進力です。

煩悩自体が悪いのではなく、そこに浸かってしまうことが危険なだけです。


欲を否定したり、自我だ自我だと責めることもいりません(笑)

全部そっくり頂きましょう。


だって生きるというのは、総合的に生きることだからです。

自らの野性や動物的な面を嫌ってはいけません。

動物たちは人間より神聖です。

我々の中にある動物的な面も大いなる生きる力なのです。


僕は快楽や快適さが大好きです。

それとともに、聖なるエネルギーを大切にしています。


「ゾルバ・ザ・ブッダ」

これが最も近い言葉です。


だから禅堂には入りませんが、いままでどおり、遊び人として禅の心を生きていきます。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:26Comments(68)

2014年12月29日

天の河の流れ

今日までに書いたブログ記事が約4000。

出した本が11冊で、来年また数冊が加わります。


ずいぶんたくさん言いたいことがあるようですが、伝えたいことは一つしかありません。

それは

自分自身が何者なのか

その答えを自らが見抜く重要性です。


人生で何を得ても、この一点が見逃されていたら何も得なかったのと同じです。

反対にそれさえ知れば、人生が与えてくれるすべてを受け取ったことになります。


それは何処か遠くにあるのではなく、まさにいまここに「あなた」として存在しています。

ところが通常我々は「いまここ」を感じることができません。

まさにいま起きている出来事や、状況、それに対する自分の感情や思考に巻き込まれていて、その奥にある「本当の自分」であるところの「いまここ」を見失っているのです。


もしあなたが自分自身を知れば、起きる出来事に一喜一憂しなくなることでしょう。

何が起きるかはあまり重要なことではなくなるのです。

そうなると不思議なことに、なにもかもがスムーズに展開し始めます。



この先、4000個もの記事を書けと言われても書けません。

でもこんな調子で毎日一つずつ書き続ければ、10年後にそれくらいの数になることでしょう。

いつまで続くかはわからないけれど、ここを生きがいにしてくれている人たちもいるので、もう少し続けてみます。


僕が書く事をやめても、このブログは半永久的に残しておきます。

このブログがきっかけで目覚めを体験した人もいます。

そのタイミングが、法縁と呼ばれるものです。


一方で人の様々な感情や非難(?)も受けてきました。

僕のようなメッセージを伝える者の宿命でしょう。

でもコメント欄はそのままにしておきます。

コメントの文調によっては、ここを一番楽しみにしていた母を気の毒に思うこともありますが、最近は身体もすこし弱ってきて、以前ほどつぶさに読めなくなっているようです。

それに社会とはこういうものだということは94年間も生きていれば僕以上に知っていることでしょう(^^)


もし僕が彼女と同じ歳まで書き続けたら、ここから12000以上の記事を書く事になります。

もしそうなったとしても、伝えたいことはひとつしかありません。

「Who am I?」

この答えに尽きるのです。



今僕は来年から始まる新しい活動に武者震いしています。

まったく無駄なく、ストレートにこのことを御指導できるからです。

こうして素晴らしい形で開催できることに感謝します。


「禅と瞑想」

これしかやりたいことがないのだから、きっとこれをさせられているのだと思います。


年明けに、この流れを作り出した天河神社にご挨拶に行こうと思います。

その模様はまたブログで紹介しますね。


あなたも僕も

「かんながら」

によって生かされています。


おん そらそばてい えい そわか

  


Posted by Toshiro Abe at 10:28Comments(109)

2014年12月28日

般若

この感じは30年前とよく似ています。

完全に「いまここ」に帰ってきています。


表面では様々なことが起こり、状況は変化し続けているけれど、

自分自身は何一つ変わることなくいつだって「いまここ」にいる。


人生はどこにも向かっていないし

いつかどこかを目指す旅はもうやめて

目の前のいまを大切に生きればそれでいい。

いまを大切にすることが、全体を大切にすることにつながっている


そうやって深い呼吸に入っていきます。

一息一息、自分の奥深くに入っていく感覚です。



いまもまったく同じ感覚を生きています。

何も変わりません。


やはり30年前に直感したように


人生はどこにも向かっていませんでしたし

本来しなければならない義務も、何ひとつありませんでした。

自分は高まっても低まってもいませんし

最初から全部持っていて

足りないものも余計なものもありません。

最初から居た場所に、いまも変わらずいます。



ただその時その時に、目の前の状況が自分に求めるニーズに応えてきました。

そうやって30年間が過ぎました。



当時と比べてみれば、外側の違いは天と地ほどもあります。

あの頃は何もありませんでした。

お金も、家も、家庭も、車も、仕事も、何ひとつありませんでした。


でも内側で感じていた充足感は、いまと全く変わりません。

ピッタリ同じです。


これから先もどこにも行き着かないことを知っています。

ただその時々の心のままに生きていく。

そして目の前のニーズに応えていく。


おかしなもので、そうなると、外側の世界は思うがままです。


この生き方は誰にでもできるので、いろんな言葉で説明していこうと思います。


一言で言えば

人の目が作り出した呪縛から自由になること。

正確には自分自身が作り出した恐れから自由になることです。


内側の気づきが炎になって、恐れという幻想を焼き尽くしてくれます。


それが智慧の一撃、プラジュナーです。

日本語では

般若

と言います。
  


Posted by Toshiro Abe at 12:27Comments(38)

2014年12月27日

12月27日の日記

どんな年末を過ごしていますか?

これを書いている部屋のベランダには、まぶしいくらいの陽の光が差し込んでいて、木々の緑も鮮やかで、ハイビスカスまで咲いていて、いまが何月なのかわからなくなります。

とても暖かいです。


いつものように時間が止まっています。

この一角だけが止まっているのかもしれません。

こののどかさを届けたいな。



The禅スクールへのお申し込みありがとうございました。

これから実際に始まっていくと思うとワクワクしてきます。

何かが動き出した感じです。


今回、来たくても来られなかった人もいたかと思います。

僕も向さんも、この活動をライフワークだと位置づけていますので、またの機会に覗いてみてください。

あらゆるタイミングは完璧だと思っています。


またお会いしましょう(^^)
  


Posted by Toshiro Abe at 12:37Comments(63)

2014年12月26日

何十もの師走を見てきた

昨日の夜、The禅スクールの音声メッセージを配信したら療養中の人から、寝ていても聞けるのはありがたい、mp3でダウンロードしたいとのご要望だったので、できるようにしました。

音声メッセージでは、普段僕が何を感じ、何をしているかを短くまとめてみました。

The禅スクール

スクールのお申し込みは今日までです。



先日、昔の資料を整理していたら昭和61年12月の手記が出てきました。

ノートの下の方に、走り書きみたいな文字で詞のイメージが書かれています


寒風渋谷の街頭で
メットかぶってマイク握って
角棒振ってるお兄さん

「アンタも一人のブッダだよ」



営業会議に紛れ込んで
金の話は中断させて
ひとりひとりに言ってやりたい

「アンタも一人のブッダだよ」




レコード業界の仕事が絶好調の頃で、天下を取ったくらいのつもりでいて、でも心の底ではやりたいのはこれじゃないって思いがいつも巡っていました。

こうして歌詞にダイレクトなメッセージを入れて聴いた人の反応を見る・・・これくらいしか伝達手段もありませんでした。

その時々の精一杯ってありますよね。


もしあの時代に、いまのようなネット環境があれば、僕の人生はまったく違うものになっていたことでしょう。

だからといってバブル経済真っ只中の当時に、いまと同じ事を言ったとしても、どれくらいの人が関心を持ってくれたかはわかりません。


自分のことを見てみても、内側の真理は当時と変わっていないけれど、その器であるこの阿部某という乗り物は、少しは大人になり、バランス感覚も持てるようになったので、やはりいまからということなのでしょう。



「アンタも一人のブッダだよ」


やっと声高に叫べる時代になりました(^^)
  


Posted by Toshiro Abe at 11:12Comments(59)

2014年12月25日

ひとり来てひとり帰る

落語の八つぁんと熊さんの会話で

八つぁんが大親友の熊さんに語りかけるシーンがあります。


「おめえとは、生まれた時は別々だが、死ぬときは別々だ」


そこでドッと笑いが来るのですが、考えてみたらこのセリフ、まともな事を言っています。

誰だって一人で生まれて一人で死んで行くからです。

その間を人生と呼びますが、その人生の最中徹頭徹尾一人なのに、一人は淋しいものだから


「私には家族がいる」


「私には親がいる」


「私には友人がいる」


「私には会社がある」


とか言い聞かせて、自分が一人であることをマヒさせています。


でも本当は一人ですよね、いまだって。

それでいいんです。

いいも悪いもなく、それが単なる事実だから認めてしまえば楽です。


それを一旦認めれば、孤独とかいう感覚は減っていきます。

孤独という言葉には、すでに孤独はいけないというニュアンスが含まれているからです。

ただあるがままにあるだけです。


まずは、自分が徹底的に一人だということを認めてみましょう。

人によっては、それが幻想から目覚める入口となる場合もあります。

しかしそれは、まだ気づきの途上です。


本当の答えは、さらにその奥にあります。

人はこの世に、ひとり来てひとり帰るのではなく、来ることも帰ることもない、永遠の存在だという気づきです。


僕たちが学ぶ究極は、まさにその一点です。


日々、目の前の現象は変わり続けていますが、

決して変わることのない中心で、今日もくつろいでいましょう(^^)



一休禅師の歌で締めくくります。


ひとり来て 一人帰るも迷いなり

来らず去らぬ道を教えん



合掌
  


Posted by Toshiro Abe at 15:04Comments(69)

2014年12月24日

クリスマスイブ

いつもは体の内側から外界を見ているけれど、外界に広がるスペース全部が自分の意識になったみたいな感覚で存在してみる。

自分が一切関わらなくても、刻一刻と外界は動いて変化している。

どう変化するのかは全体だけが知っている。

できることは、その流れとともに生きるだけだ。

この流れ全部が命の表れで、それは永遠に続いていくんだと思う。


神は永遠なり

そしてそれは、僕たち自身だ。


今日はクリスマスイブ。

僕はクリスマスとはあまり縁がなかったけど、それでも印象に残るクリスマスは何度かありました。


あなたはどうですか。

記憶に残るクリスマスはありますか。

青春時代の胸キュンでしょうか。


今日は何か特別な計画がありますか。

よい一日になるといいですね。



今宵はイブ。

僕にとっても今日は特別な日です。

午後5時から、The禅スクール入会募集が始まります。

(開始のお知らせは登録してくれたメールに届きます。コチラから登録できます)


最終動画は今朝からアップしています。

The禅アカデミー 最終回


これまでの2つをご覧になりたい人はこちらからどうぞ。

The禅アカデミー その1

The禅アカデミー その2


すべて26日までの公開ですが、忙しい人のためにはmp3での音声ダウンロードができるようにしました。



この季節になると聴きたくなるのは、やっぱり山下達郎さんのこの曲。

クリスマスイブ

もう30年にもなるんだね。

僕の気づき記念日もこの年です。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:24Comments(154)

2014年12月23日

12月23日の日記

久しぶりに沖縄の自室からです。

窓の外には、光る雲が広がっています。

雲の合間から斜めに、太陽の光が海に鮮やかな印影を作りながら差し込んでいます。


アンドレギャニオンをかけて、お気に入りの香を炊いて、


いま、黒ネコがやってきて僕の膝に乗っかってきました。

時間が止まっています。


目の前の現象は刻一刻と変わっていくけれど、

何も変わらないお馴染みの感覚に包まれています。


これからも起きることが起きていく。

それでいいんだなぁと、つくづく思います。


人生はどこにも向かっていないということがよくわかります。
  


Posted by Toshiro Abe at 17:03Comments(62)

2014年12月22日

比叡山から、もう二年が経つのか

僕は人生でたいした努力はしてきませんでしたが、それでも自分なりには、一生懸命生きてきたと思います。

それは僕だけでなく、みんなそうなんじゃないでしょうか。

いまさら、ここからもうひと踏ん張り頑張ってみようなんて言う気はありません。

むしろ、もっと遊び心を持って生きてみないかと、そんな提案をしたいと思います。


昨日の向さんの話の中で僕的に面白かったのは、中国の禅の祖師たちの個性の話。

破天荒な臨済がいるかと思えば、気品に満ちた雲門がいる。

早い話、なんだっていいわけです。

僕たちがこの先悟ってどうなるかと言えば、もっと徹底的に自分になるのであって、変身するわけじゃありません。

ただ自分を生きだすだけです。

そんなあなたに対して、人はいろいろ言うかもしれません。

でも言われたってどうにもならない、

だってこれが自分なんだから(笑)


禅とは、そんなシンプルな気づきです。

禅は厳しいものだというイメージは、禅の名前で歴史の中に伝えられてきたものが厳しかったというだけで、これですら本当は何だっていいのです。

寒い雪山で千日行を何度もやりたい人はやればいいし、南の島でお腹出して寝ていたい人はそうすればいいのです。

なんだっていいんだということを徹底的に知ったうえで、さてどう生きるかという創造性がやってきます。

それは人真似ではなく、完全なオリジナルです。


さて、このところコメント欄で活躍してくれたISO88さん。

この程度でも心身に疲労が出るでしょ?(笑)

これは誰にでも言えることですが、姿が見えない、しかも正体を明かさない人とのやり取りは骨が折れます。

僕がこのような場ではなく、スクールという形で相手が誰だかわかる人に関わっていきたいのもそのひとつです。

もちろん参加できない人のためにも、ブログは続けていきますが。


そのISO88さんから質問をもらったままになっていました。


>悟りというのは偶然性(ハプニング)って事を心の底から本気の本気でそう思って
おられますか?



本気でそう思うも何も、悟りというものはハプニングで起こります。


>たとえば人に「貴方はたまたま偶然悟りに至っただけ、運がよかっただけ」って言われて ムッとする自分はいませんか、


ムッとするのは誰でしょう。

悟りを自分が成し遂げたと思っている自分ですか?

運が良かっただけでなく、そのとき経験する宇宙意識は、あらゆる存在が共有していることがわかるので、何一つ誇れることも特別なことも残りません。

唯一残るとしたら、釈迦やキリストを含め、この地上には誰一人特別な人など存在しなかったということがわかった自分は特別だという思いくらいじゃないでしょうか(笑)


>自分の努力で成し遂げたという想いは本当の本当にございませんか。


自分が真理の達成のために、じつは何もできないことを知ったとき、悟りと呼ばれる次元がやってきます。

それが降参のススメです。


さてこのように書いていて思ったことがあります。

僕はことの説明上、悟りだとか目覚めだとか見性だとかいう言葉を使います。

それを使うたびに、まるで「私はそれを成し遂げた魂だ」というニュアンスが出てしまうことも知っています。

最初のうちはこれが荷物になることを知っていたので、極力そのような言葉は使いませんでした。

たぶん、「さとりの授業」という本が発売された2010年くらいから変わってきたように思います。


僕は言うまでもなくごくあたりまえの男だということを散々伝えてきましたが、それでもお約束の洗礼は受けてきました。

人は「覚者」を名乗る者を許しません。

名乗るその人の中に、人間的な面や弱点を見つけ出し、

「やっぱりこいつも偽ものだった」

と裁こうとします。

そして実際に出会うことのない、本の中の聖者に真理を見ます。


真理は一つしかありません。

それは決して大層なものではなく、あなた自身です。

この世のどんな覚者も、どんな聖者も、あなたを目覚めさせることはできません。

彼らは方向指示器にすぎず、道を歩むのは自分自身です。



さて、今月の24日、クリスマスイブの夕方から禅スクールの参加受付をします。

イブにも関わらず、内容もよく分からない禅スクールに興味を持ってくれる、そんなあなたを歓迎します(^^)


まだ今じゃないと思う人は、それで正解です。

合理的な説明もありませんし、まったく気乗りがしないという人のほうが多いはずです。

禅についてのスクールなのに、どうやらいままで持っていた禅のイメージとは違いそうです。

何をするのか、どんな効果が期待できるのか、それもやってみなければわかりません。


にもかかわらず、理屈に合わなくても、何かの直感で引き寄せられてくるような、そんなふうに僕らを信頼してくれた人に来てもらいたいと思っています。

お互いに正体を明かして共に生きていきましょう。


それとコメント欄に、「私はやらない」とかの宣言は結構です(笑)

やりたい人だけが、そっと来てください。


悟りだけでなく、人生はすべてハプニングです。

自分の意思だと思っているものも、彼方からの信号だったりします。

人生は、あなたとあなたの中にある宇宙(神?)との共同作業なのです。


僕らにとってのハプニングは、宇宙にとって計画通りのシナリオです。

ぜ~んぶ決まっているから、潔く観念しましょう。

その瞬間の自分の選択さえも、全部決まっていると言っておきます。


気楽に生きましょう(^^)


・・・・・・・


ご報告

比叡山延暦寺の大僧正、現・三千院門主の堀澤祖門師と、来年の春に本を出します。

向さんに続いて、門ちゃんのような人物をみなさんに紹介できるのを嬉しく思っています。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:52Comments(163)

2014年12月21日

12月21日の日記

内側で感じていることを立体的に外に表せたら、みんな、「えっ?あなたもそうだったの?」って激・驚きだと思います。

そうなるとますますみんなに対する慈愛みたいなのがわいてきて、お互い心からサポートしあえるでしょうね。

そういう文化こそ人類が目指すべき場所で、それは指導者の力量ではなく、構成員一人一人の意識レベルが作り出していきます。

だから我々が一人ひとりが、存在に対する理解を深めていくのは大切なことです。


cristal.lightさんのコメント

>この胸キュン感覚ですが、これは愛、喜び、楽しみなどの感情をより深く味わう為に、あえて一段階低いレベルに自分を落としこむ無意識の設定ではないでしょうか?
>なんかそんな感じがします。


なるほど、そうかもって思えました(^^)

いちおう踏ん張って用意しておいたほうが気持ちいいし。

あいかわらず今日もキュンが奥のほうにありますが、そんなことを忘れるくらい楽しい時間の講演会に行ってきます。

それに、胸キュンも慣れてみれば悪くないしね。



綾子さんのコメント

>高校生の長男は死の恐怖から逃れるために、私の知らないうちに独自の瞑想を続けていたそうです。
>そして、数ヵ月前に見えたらしいんです…。
>言葉では表現できない世界だったそうです。ただ事は起きているのだとわかったそうです。
>「その日から死ぬことが怖くなくなったよ♪悩みもバカバカしくなった。」と、あっさり言われてしまいました



「ただ事は起きている」

高校の時点で見抜けたのは良かったね。

このあと正しい情報に触れていくのが大切で、まことに僭越ながら、これから始まる禅の学校に参加できたらいいですね。

すごい早さで吸収していくと思います。


人生は生き方次第で面白い。

コツは深刻さを持ち運ばないこと。

たいそうなことなんか何もないのだから

社会に蔓延している権威に巻き込まれないで

自分自身を生きていくんだよ。

これからの世の中は、そういう生き方がうまくいく(^^)
  


Posted by Toshiro Abe at 10:01Comments(75)

2014年12月20日

やっぱりそうだったのか

やっぱり思った通りだった。

胸のあたりのキュン・・・ちょっとピリッとしたような痛みは共通だったんだね。


これが普通の状態だってわかれば、ホッとする人もいるはずだ。

僕たちはよりよい状態を求める傾向にあるから、この胸のピリピリを消さなきゃって思って、癒しのセミナーに通ったりするけれど、これでいんだね。

だって耐えられないほどじゃないし、ちょっと切なくて、ちょっと寂しいけれど、それが人としての状態なのだから。


僕たちはみんな、一人で生まれてきて一人で死んでいく。

人生はいろんな人とのかかわりがあるにせよ、物理的には孤独の旅路だ。


でも独りじゃない。

みんなが同じキュンを抱えて、みんなが一人は寂しいと感じていて、みんな同じ時を生きているのだから。


こうして正直にわかちあえば、外側からどう見えようが、僕たちは根っこで一つにつながった同じ命だってことがわかる。

そして基本的には、ほとんど同じ感覚を携えていることも。


ネットがあってよかった。

こうして出会えてよかった。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:11Comments(97)

2014年12月19日

通常の感覚

これといって何があるわけじゃなく、

足りないものもなく、

問題もなく、

そんな、ただあたりまえな静かな時間、

内側に何を感じているかというと、

ワクワクした高揚感ではなく、

慈愛のような温かみでもなく、

至福への満足感でもなく、

どちらかと言えば、胸のあたりにかすかな痛みがあって、

ちょっと甘酸っぱい、キュンとした感じにも似た、

そんな感覚が、僕のいわゆる通常の存在です。


言いたかったのは、幸福ないま、感じているのは決して幸福感と呼べるようなものではなく、その反対に、ほんのちょっと切ない感覚が底辺に流れているってこと。

これが分離の感覚なのだろうか。


あなたの通常って、どんな感じ?




  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(172)

2014年12月18日

今日もいい日だね

朝起きて、昨日のコメントを読ませてもらったら、こんな時間になってしまいました。

ありがとうございました。

ワンネスという言葉がよく出てきましたね。

僕も説明上、それらの言葉を使いますが、ここで注意しなければならないのは、書き手も読み手も、ワンネスを言葉によって対象化してしまうことです。

まるでワンネスという状態が、どこかにあるように感じてしまうのです。

少なくともワンネスを語っているときは、ワンネスの外にいます。


ワンネス(アドバイダ・不二)とは、意識の境界線が消え、自他一如が基本感覚になっている時の目覚め状態のことです。

誰にとってもワンネスは徹底的に自分自身であり、あらゆる存在の基盤です。

それを真理と呼ぶならば、真理はいつも「いまここ」にあり、しかも「いまここ」でないときはないので、我々自身は真理でなかったことは一度もなく、これからもあり得ません。

語った瞬間に対象化してしまうので、ただいまここに身心を置くことが本当の答えになります。

それが禅です。


禅は理屈ではなく、教義でさえなく、まさにいまを生きる態度のようなものです。

いままでとは違った視点で世界や人生を捉え、まずは半年間一緒に生きてみないかというのが向老師と僕からの呼びかけです。

もちろんこれからもブログや書物で表現し続けますが、このような媒体には限界もあり、もっと踏み込んで関わろうというわけです。

ちなみに、今日の夕方くらいに新生「The禅プロジェクト」が再開されます。

僕が一旦中止してまで変えたかった流れと世界観は、一目でわかってもらえると思います。

今日から3回にわたり僕たちの動画メッセージをお届けし、次回は沖縄での講演会をそのままアップします。

遠方の人や、実際の参加が難しい人は、これらの動画の中だけでもたくさんの気づきがあると思いますので、どうぞ活用してください。

すでにアドレス登録している人には案内が行きますが、まだの人は以下のフォームから登録しておけば届きます。

https://asp.jcity.co.jp/FORM/?UserID=lp&formid=105


さてISO88さんからの質問です。

>阿部さんは、「悟った人」と「見性に至った事のある今も自我を生きる人」、
>そのどちらが今のご自分に近いと思っておられますか

このような質問は、自分という固定された存在がいるということが前提になっています。

時間の中で継続している「個」があるというわけです。

ですから、

「あの人と、あのひとは、どちらが悟っているか?」

などと言いだす人もいます。


実際には、まさにいま、意識が「いま」に在るのか、それとも時間という幻想の中で紡ぎ出される思考の世界に在るのかの違いだけです。

大悟したと豪語する者も、もしいま思考の世界に埋没していればそれまでですし、そんな世界に関心がなくても、何かの拍子にいまここに完全に帰っていれば悟りの中にあります。

ポイントは、悟ったかどうかではなく、いま悟りの中にあるか否かなのです。


自我はこの次元の乗り物であり必要不可欠の道具です。

肉体自体が自我の性質を携えているので、完全になくなることはありません。

人とコミュニケーションをとるにも、自他の区別が必要になりますし、あらゆるシーンで自我を使います。

きっとISO88さんが聞きたいことは、

阿部という人間が自我を無くしたかどうかではなく、自我に埋没しているか、それとも自我を使って生きているのか、そのどちらの時間が長いかということではないでしょうか。

この現象が阿部敏郎をやっているのは、こうして対象を想定して何かを書いている時や、みなさんの前で講演するとき、あるいは家族や仲間と出会っているときです。

一人で思いつめたり、考え事に没頭している時間はあまりありません。

でもひょんな時に、無意識のパターンが顔を出し、感情も刺激されますし、様々な思考が出てくることもあります。

でまた主人公の座を受け渡してもらうという感じです。


答えになりましたか?

ちひろさんからも面白い質問がありましたが、次の機会に詳しくお話しさせてください。


昨日のみなさんのやり取りを読ませていただきましたが、ここには僕以上に説明が上手な人たちが集まっていて、とても為になりました。

出会いに感謝します。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:40Comments(101)

2014年12月17日

動きを止めれば

大きな気づきが起きてから、それまでの自分が全部消えてしまいました。

若い頃は「阿部敏郎」を生きていたけれど、いまはただ誰でもない一人の人間を生きていています。

確かに名前は名乗るけどそれは単に便宜上であって、いまの自分はただ、その瞬間瞬間の存在です。

そのような意味では、社会の中に生きてはいますが、社会に属していません。

よく黒斎くんが言うところの、ゲームのキャラではなくプレーヤーを生きている感覚です。


画面の中から、画面の外に移行するのは、内なる気づきによっておきます。

それまでは、知的に理解しているに過ぎません。

ゲームのキャラが、「そうか、私はこのキャラじゃなくてプレーヤーだ」とゲームの中で言っているのと同じです。


プレーヤーの感覚を思い出すには、リラックスすることです。

キャラの動きを止めて、ただ静かに在ること。

するとキャラはその役目を終えて消滅していきます。

キャラとは動きのことです。

思考の動きがキャラを作り出しています。


すでに実践の時が来ています。

これ以上の知識は要りません。


実践して、体感して、存在をシフトさせるだけです。

そうすれば、なんだってよかったんだってことが、よく分かりますよ。



昨夜、東京にやってきました。

さぶっ。


雪の地方の方、くれぐれもご注意ください。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:01Comments(121)

2014年12月16日

過去が変わった

昨日は沖縄で向老師とのコラボ講演会でした。

まず最初にお伝えしておくと、この模様は、新生「The禅プロジェクト」の一環として週末に無料公開します。

僕の講演会をそのまま一般公開するのは初めてなので、楽しみにしていてください。


昨日も向さんのおかげで、僕の中に、とある気づきがありました。

気づきというよりは、認識を新たにしたという感じでしょうか。


13年前の5月、沖縄のラジオ局の招きで17年ぶりにライブコンサートをすることになりました。

それまでも何度かイベントのお誘いはあったのですが、僕の中でアーティスト活動は終了していたので、すべて辞退していました。

なぜやる気になったかというと、若い頃から沖縄が大好きだったこと、そして熱狂的なファンが多かったことです。

音楽を再開したかったわけではなく、そんな彼らが17年たってどんな人生を送っているのか、会ってみたかったのです。


僕のようなコンサートスタイルは、歌だけではなく、曲間の喋りも重要な位置を占めます。

で、この時もたくさん話をしたと思いますが、その話の内容は昔とは一変していて、いまこうして書いているブログのように、僕なりに真理を伝えようとしました。

それしか話したいことがなくなっていたからです。


その時、会場を埋めてくれた人たちの聞き方は、いままで体験したことがないものでした。

そう・・・一生懸命に聞こうとしてくれたのです。

いまはあたりまえになっていますが、そのときはある種の驚きでした。


それまでは方広寺の研修所で、社員研修に来た人たちに話をするのがメインでした。

彼らも由緒ある禅寺にやってきて、それなりにかしこまって聞いてくれるのですが、もともとそんな話に興味があるわけではなく、どこか仕方なく聞いていたと思います。


それが沖縄のコンサートでは、聞き方が全く違うのです。

僕が何を話すのか、本当に心を込めて聞いてくれます。


話の内容がどこまで理解できていたかは知りませんが、とにかく一生懸命に聞こうとしてくれたことは伝わりました。


「そうか・・・彼女たちは僕自身に会うことが目的だから聞き方が違うんだ」

そう思いました。


大きな気づきを迎えたあと、誰も話を聞いてくれなかった期間が長かっただけに、この時の感動は忘れません。


そんなエピソードを思い出して、昨日の講演会で話していたら、向さんが、

「その時阿部ちゃんは、聞いてくれたことが嬉しかったというよりも、愛を感じたんだ。愛されているって感じたんだと思う」

と言ってくれました。


愛・・・・?


愛?


その瞬間、僕の中で記憶のストーリーが変化しました。

愛されたなんていうふうには思ってもみなかったからです。


でもたしかにあのときは、言いようのない感情がうねりのように湧き出していました。


「そうか、僕はあの時、愛の中にいたんだ。

あまりの違いだったし、なんて呼んでいいかわからなかったから、

『僕に関心を持ってくれた』

と位置づけていたけれど、あれこそが愛だったんだ。

そうか、その後も僕は、沖縄の人たちの愛によって、ここまで育ててもらったんだ」


過去の認識が一変したように思いました。

記憶のストーリーというものは、自分本位の印象で作られているので、ほんの少し見方を変えるだけで、まったく違うものになります。

僕を育ててくれた沖縄に心から感謝の気持ちを持ちました。


両親との記憶も、自分の生い立ちも、ほんの少し違う角度から見ることができれば、一変してしまう可能性があります。

そんな不確かなものを握り締めて生きるには、人生は短すぎると思いました。


僕たちはみんな、様々な機会に愛されながら生きてきたのです。

そんなふうに思えない人も、本当はみんな愛によって育てられたのです。


人生で受けてきた愛を、もっとたくさん探してみたくなりました。

今日も読んでくれてありがとう。


・・・・・・・・・・・・


阿部敏郎&雲 黒斎 コラボトークショー

お待たせしました

「阿雲の呼吸」

の登場です。


今日からお申し込みを開始します。


大阪 1月12日 

名古屋 1月17日

博多 1月18日


お申し込みは上記都市名をクリックしてください。




  


Posted by Toshiro Abe at 08:45Comments(96)

2014年12月15日

松坂慶子が好きだった(でも僕はauです)

すぐやる

なんでもやる

とことんやる

できるまでやる


この言葉がいまの自分に必要だと思った人もいれば、戸惑ってしまった人もいたと思います。

だってこのブログが伝えてきた主旨は

「やることなど何もない。いまにくつろぎなさい」

だからです。


どちらが本当なのか。

くり返し伝えてきましたが、不特定多数の人に向けたメッセージなどありません。

常に特定のタイプに向かっています。

ですから文章に違和感を持ったときはスルーしてください。

何も失いません。


でも内側のどこかに触れた時は、何かしらの変容につながる可能性もあるので、どうぞジックリ味わってみてください。


すぐやる・・・できるまでやる・・・というコミットメントは、やり方の示唆ではありません。

一つ一つの項目をチェックしろということではないのです。


そもそもこの状態には、自分の意思で入ることはできません。

これは徹底的な利他心になりきった時に起こる、在り方のシフトです。


もし自分に意識が向いていたら(たとえば、これをしたら成功できるとか、これをしたら褒められるとか)、このようにはなりません。

中空の竹になって、その中を無尽蔵のエネルギーが流れるのを許すだけです。

もしコミットメントを無理強いたら消耗するだけでしょう。



どなたかも書いてくれましたが、これは「愛」のなかで実現されます。

内なる「Hero」とは、愛の別名です。

そして愛は神の別名です。

さらに、神とは本当のあなた自身のことなのです。



これも愛

あれも愛

多分愛

きっと愛



これも神

あれも神

多分神

きっと神



僕も同感です(^^)


今日もお互い、内なる神と戯れるとしましょう。

森羅万象に深刻さはありません。


人生はどこにも向かっていません。

それは無目的に展開される、リーラ(神の戯れ)です。


もっと遊び心とユーモアのセンスを持って自由に生きてみてください。

人は見たいように見て、言いたいように言います。


そんな呪縛から離れて、心のままに生きてみましょう。

おっと、この言葉もある人にはプレッシャーになってしまう(^^;)


とりあえず力を抜いて・・・そのぶんだけ優しくなれるよ・・・ねっ。


今日の沖縄は爽やかでとてもいい天気です。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:35Comments(130)

2014年12月14日

火事場の馬鹿力

招き猫のカワヒラくんが教えてくれた幸運の流れに乗る生き方」にも書きましたが、


すぐやる

なんでもやる

とことんやる

できるまでやる



の精神が、コミットメントです。


ひとつひとつの言葉の意味が大事なのではなく、それくらいの気持ちを持つことが、己という限界を超えた成果につながるという意味です。


成果を達成しようという時の態度には、いくつかの段階があります。


一番低いのが「無関心」という段階。

次が「願望」の段階。

そして「コミットメント」です。


これ以外にも成果に結びつかないパターンとしては、理屈を言って終わってしまうというもの。


「成果?

それがなんだっていうんだ。

そんなもの手に入れたってしょうがないじゃないか」


「達成?

達成したって、また次の達成を目指さなきゃならない。

そんなものはキリがない」


そのとおり、言っていることは正しいけれど、ひとつだけ確かなのは、その人は行動しないから成果には結びつかないってこと。

そもそも、それを手に入れようという意図がないのだから、現実に違いは生じない。


たとえば、火事になったときのことを考えてみよう。

外出から帰ってきたら、自分の家から炎が出ていた。

中には幼い我が子が取り残されている。

寝ていると思って、近所に買い物に出かけたら、ストーブの火が何かに燃え移ったのかボヤになってしまったんだ。


言うまでもなく、子供を助け出すという結果成果が求められるところだ。

そのとき、あなたの成果に対する態度はどこにあるだろう。


「おっ、火事か。よく燃えてるな。

えっ?うちの子が中にいるって?

ふ~ん・・・だから?」

そんな無関心の状態だろうか。


それとも、燃え盛る炎を前にして

「助かればいいなあ。お願い助かって」

と望みながら、ボーっと立っている願望の状態だろうか。


いやいや、きっとそうじゃない。

状況を知った途端、すぐ行動に出ているはずだ。


鍵が掛かっていても、窓を割るとかして中に入ろうとするだろう。

「この窓ガラス、上等なの買ったから高かったんだよな。

割るのはもったいないから他の方法を探そう」

なんて言ってないで、なんでもやるだろう


家の中に入ってみたら、想像したより火の手が早い。

「こりゃ、だめだ。私まで火傷しちゃう」

なんて言ってあきらめるだろうか。


とりあえず、後先考えずに、とことんやるのではないだろうか。


そして子供を探し出し、外の安全エリアに連れ出すという結果を手にするまで、そう、できるまでやるだろう。


すぐやる

なんでもやる

とことんやる

できるまでやる



ということを、いちいち考えずにやっている。

それがコミットメントです。


禅語では

「放下著」(ほうげじゃく)と言います。


自己の限界は、自己を忘れることによって打ち破ることができるのです。

そもそも自己そのものが幻想であり、その自己が作った安全枠など幻想中の幻想なのに、いかに我々は、そのような安全枠を後生大事にしているのでしょう。


僕は放下の達人です。

自分で言うんだから間違いない(笑)

だからいつも実力以上のことが達成できてきたのだと思います。


「達成することに何の意味があるんだ。

そんなものは自我の現れじゃないか」


と言っているのが、もっともずる賢い自我くんです。



あれも自我

これも自我

多分自我

きっと自我

(松坂慶子さんふうに)



コミットメントの中では、自我を超えたもっと巨大な力が作用しています。

誰もの中に眠る「Hero」、最も強い力です。


・・・・・・・・・・・・


今夜、向老師が沖縄入りして、明日は僕の家で動画を収録します。

何か僕たちに聞いてみたいことはありますか?

話して欲しいテーマとか、質問とかありますか?


質問がある人は、今夜中にコメントを残しておいてください。

一週間以内に無料動画で公開します。

巷(ちまた)の有料動画より、もっと価値あるものになると自負しています。


僕と向さん(あーちゃんとむーちゃん)は黄金コンビです。


(;ー_ー) 「自分で言うな!」


(´ Д `; ) 「はい」
  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(146)

2014年12月13日

お知らせと業務連絡

今日は記事をお休みします。

連絡事項だけ書かせて下さい。


【その1】

開催へのご要望が多い「阿雲の呼吸」ですが、年明けに3都市での開催が決まりました。

1月12日 大阪

1月17日 名古屋

1月18日 博多

週明けからお申し込みを開始します。


【その2】

毎月開催している東京瞑想フォローアップの会(伝授を受けた方へのフォローアップ)ですが、今月は向老師がゲスト参加されます。

参加費は無料ですが、今回は混雑が予想されるため予約制にさせてもらいました。

12月21日 16時スタート

お申し込みはコチラから。


【その3】

全国で私たち夫婦から伝授を受けられた方には、数日おきにメルマガを配信しています。

届いていない方は何かの不備が生じていますので、伝授を受けた都市名とお持ちのマントラ名を書いてメールをください。

imacocoa@nifty.com


【その4】

沖縄の向老師とのコラボ講演会は満席のため受付を終了しました。


【その5】

本当はこれが1番のお知らせですが、すでにDMでお知らせしたように、The禅スクールが生まれ変わりました。

あれからすべてのプロデュースを一手に任せてもらったことで、思い通りの展開ができています。

再準備に数ヶ月間を覚悟していましたが、

すぐやる
なんでもやる
とことんやる
できるまでやる


の結果、わずか2週間でクオリティが格段にアップし、入学後のフォロー体制も整いました。

産みの苦しみはありましたが、その分だけ喜びもひとしおです。


中止した瞬間から、腹の底から湧き出すようなワクワク感がありましたが、その予感の意味がわかりました。

何一つ無駄もなく、何一つ偶然もない、天河の流れは完璧です。

お約束通り、とびきり面白い旅にお連れしますね。

18日に新しい無料動画とともに紹介しますので、楽しみにしていてください。

来年からは、この禅スクールと、殺処分される犬猫のレスキューが活動の中心になります。


それではまた (^o^)/
  


Posted by Toshiro Abe at 15:46Comments(51)

2014年12月12日

結果自然成

まだ君が小学校の低学年の頃だった。

何をやっても、どう頑張っても、仕事はうまくいかず、

君たちを連れて、都田川のほとりにドライブに行った時、

我が家にはほとんどお金が残っていなかったんだよ。


川原で楽しそうに遊ぶ君たちを見て、

これからどうなってしまうのかと、ふと心配になったことを覚えている。


それまでも何度か危機は訪れたけれど、

そのたびに予想もしなかった人との出会いによって、かろうじて凌いできたんだ。

だから心配したあの時も、心の底では、

次は何が訪れるんだろうって、見えない力を信頼している自分がいた。


結局はその翌日、大手企業からの研修依頼が舞込んで事なきを得た。

あの時声をかけてくれたのが方広寺の向和尚だった。


そうやってたくさんの人に助けられながらいまがある。

いまはなんの努力もなしに事が豊かに展開しているけれど、人生とはそんなものだ。


どんなに頑張っても、うまくいかないときはうまくいかない。

頑張らなくても、うまくいくものはうまくいく。


結果だけで自分や人を裁いてはいけないよ。

うまくいかないときは犯人探しをしたくなるけれど、それは間違っている。

努力が足りないわけでも、誰かのせいでもない。

それは、そのようにしか起きなかったというだけの話だ。


結果自然成(けっかじねんじょう)

事は天が起こしているのだから。


そしてどうにもならないときは思い出して欲しい。

天は絶妙なタイミングで手を差し伸べてくれることを。


人生の流れを信頼しなさい。

それが今日、君に贈る言葉だ。


23歳の誕生日を迎えた息子へ。


2014年12月12日

父より。

  


Posted by Toshiro Abe at 08:49Comments(157)