2008年05月31日
世界は人の数だけある
世の中を見ていて面白いのは、僕たちが自分勝手に世界をつくりあげ、それぞれが独自の世界の中で生きているのに、物質次元において、なんとか秩序を保っていることです。
それを成り立たせるには、最低限のルールが必要で、それさえ守ってもらえれば、たとえまったく違う世界観で生きている人同士も、共存できるわけです。
そのルールが、法律であり、倫理道徳なのだと思います。
いきなり人に襲いかかったり、傷つけるような言葉を使ったりしないということです。
僕たちは、個々それぞれが作り出している世界の中に、ひとりの出演者として登場します。
相手の世界の中で、自分という配役がどの程度の大きさなのかによって、相手の自分への接し方が変わってきます。
自分という人間は一人でも、ある人の世界にとっては準主役(主役は本人です)、ある人の世界にとってはエキストラといった具合です。
また、ある人の世界の中では善良な市民として、ある人の世界の中では油断ならない敵として、自分が出演しているかもしれません。
この場合興味深いのは、自分が何者かということを自分が決めているのではなく、相手が決めているということです。
もしあなたに100人の人間関係があれば、100通りのあなたが存在しているわけです。
作り出している世界観は人によって全然違うために、自分の期待を相手の世界の中で成就しようとしても無理があります。
おそらくお互いに一番いいのは、相手の世界に過度に干渉することではなく、相手の世界を邪魔しないようにすることだと思います。
何かアドバイスするときも、ひとつの例として遠まわしに伝え、相手の選択の自由を保障してあげるようなコミュニケーションがいいと思っています。
それは親しい仲、たとえば家族や子供に対しても同じで、親しさに甘んじることなく、相手は自分とまったく違う世界に住んでいるという認識を忘れてはいけないと思います。
「親だから」という力関係で、有無を言わさず自分の影響を与えようとすると、子供によっては深く傷つき、結果的に思いもよらぬ事態を引き起こす場合もあります。
子供に良かれと思ってやったことが裏目に出るのは、親が自分の世界観に固執してしまうからです。
「世界は人の数だけある」ということを忘れずにいたいものです。
そうすると、自分に対する人の評価も気にならなくなります。
賞賛されても、非難されても、それは自分自身が直接作り出しているのではなく、自分を見た人たちが、それぞれの世界観の中で作り出していることだからです。
「世界は人の数だけある」
この言葉を繰り返し深く理解してみましょう。
人間関係に対する新しい洞察が生まれてきます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
いい週末をお過ごしください。
多くの人に届きますように
それを成り立たせるには、最低限のルールが必要で、それさえ守ってもらえれば、たとえまったく違う世界観で生きている人同士も、共存できるわけです。
そのルールが、法律であり、倫理道徳なのだと思います。
いきなり人に襲いかかったり、傷つけるような言葉を使ったりしないということです。
僕たちは、個々それぞれが作り出している世界の中に、ひとりの出演者として登場します。
相手の世界の中で、自分という配役がどの程度の大きさなのかによって、相手の自分への接し方が変わってきます。
自分という人間は一人でも、ある人の世界にとっては準主役(主役は本人です)、ある人の世界にとってはエキストラといった具合です。
また、ある人の世界の中では善良な市民として、ある人の世界の中では油断ならない敵として、自分が出演しているかもしれません。
この場合興味深いのは、自分が何者かということを自分が決めているのではなく、相手が決めているということです。
もしあなたに100人の人間関係があれば、100通りのあなたが存在しているわけです。
作り出している世界観は人によって全然違うために、自分の期待を相手の世界の中で成就しようとしても無理があります。
おそらくお互いに一番いいのは、相手の世界に過度に干渉することではなく、相手の世界を邪魔しないようにすることだと思います。
何かアドバイスするときも、ひとつの例として遠まわしに伝え、相手の選択の自由を保障してあげるようなコミュニケーションがいいと思っています。
それは親しい仲、たとえば家族や子供に対しても同じで、親しさに甘んじることなく、相手は自分とまったく違う世界に住んでいるという認識を忘れてはいけないと思います。
「親だから」という力関係で、有無を言わさず自分の影響を与えようとすると、子供によっては深く傷つき、結果的に思いもよらぬ事態を引き起こす場合もあります。
子供に良かれと思ってやったことが裏目に出るのは、親が自分の世界観に固執してしまうからです。
「世界は人の数だけある」ということを忘れずにいたいものです。
そうすると、自分に対する人の評価も気にならなくなります。
賞賛されても、非難されても、それは自分自身が直接作り出しているのではなく、自分を見た人たちが、それぞれの世界観の中で作り出していることだからです。
「世界は人の数だけある」
この言葉を繰り返し深く理解してみましょう。
人間関係に対する新しい洞察が生まれてきます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
いい週末をお過ごしください。
多くの人に届きますように
Posted by Toshiro Abe at
08:29
│Comments(14)
2008年05月30日
あたりまえの自分
ここ数日、メッセージ色が強くなっていますが、今日もこの流れで行ってみます。
今日は、自分自身を受け入れるという観点から話してみます。
とても重要なことで、いままでも多くの人たちが異口同音に伝えてくれたのに、言葉を頭で理解しても、実際にそれができている人は少ないようです。
自分を批判しないこと。
自分を受け入れること。
こんな簡単なことができなくなってしまうのが人の世です。
僕たちは自覚しているか否かにかかわらず、朝から晩まで自分を批判していたりします。
なぜそんなに自分を批判するかわかりますか。
その理由の一つは、少しでも良い人間になって、多くの人に認められ、愛されたいという欲求があるからです。
「悟りの境地」とかいうと、何やらすごく難しい立派な世界に見えますが、実際にはあたりまえのあるがままの自分にくつろぐということです。
そこには何ら珍しさや特別さはありません。
ただあたりまえの自分です。
「他の誰か」に憧れるのではなく、自分のままでいることです。
その安らかさの中に、最初から与えられていた喜びが沸いてきます。
そんなあなたを誰一人知らないかもしれません。
友人も両親も家族さえも、誰ひとり本当のあなたを知らないかもしれません。
だってあなたは、ただあなたであり、素朴であり自然に生きているだけだからです。
カーテンの隙間から差し込む朝日を楽しみ、シャワーの感触を楽しみ、軽食を楽しみ、徒歩を楽しむ。
そこに何か特別なものがあるわけではありません。
自分が誰であろうと、ただ自分自身でいるのです。
人に自分をよく見せようとすることもなく、偽善もなく、ふりもせず、ただその時々の自分に誠実であろうとするのです。
そんなふうに自分にくつろいだ分だけ、喜びと祝福という顔をした「神」が自分に訪れます。
僕たちは、くつろぐことをもっと学ばなければいけません。
くつろぐためには、いまここに満足していることが必要です。
もし今に満足できなければ、そこを満たす何かが必要となり、その欲求、欲望が緊張を作って、くつろぐことを妨げるからです。
そして、結果を持たずに生きるのです。
「~であるべき」という結果を持つと、またそこに緊張が生まれます。
僕たちは幸せになりたいという思いゆえに、あれこれと現実を操作し、幸せをいまここから遠ざけているのです。
今ままでも、今も、そしてこれからも全ては完璧だという感覚を思い出してください。
その感覚こそが「神」です。
これからも何一つ無駄はなく、何一つ偶然もなく、起きることが起きていくでしょう。
その単純な事実に同調し、どこへでも流れのままに、思し召すまま流れていけば、それで完璧です。
あるがままの自分にくつろぐこと。
これはとても大切なことです。
中には、あるがままの自分がわからなくなったと言う人がいます。
長きにわたって人の目の中で生きてしまったので、何があるがままかわからないというのです。
でも実際には、どれが本当の自分かわからないと言って動揺している姿が、あるがままの自分です。
そんな自分を、そのまま受け入れてあげるのです。
何度も本で読んだでしょ?
「あるがままの自分を受け入れなさい」って。
後はやるだけですよ。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
今日は、自分自身を受け入れるという観点から話してみます。
とても重要なことで、いままでも多くの人たちが異口同音に伝えてくれたのに、言葉を頭で理解しても、実際にそれができている人は少ないようです。
自分を批判しないこと。
自分を受け入れること。
こんな簡単なことができなくなってしまうのが人の世です。
僕たちは自覚しているか否かにかかわらず、朝から晩まで自分を批判していたりします。
なぜそんなに自分を批判するかわかりますか。
その理由の一つは、少しでも良い人間になって、多くの人に認められ、愛されたいという欲求があるからです。
「悟りの境地」とかいうと、何やらすごく難しい立派な世界に見えますが、実際にはあたりまえのあるがままの自分にくつろぐということです。
そこには何ら珍しさや特別さはありません。
ただあたりまえの自分です。
「他の誰か」に憧れるのではなく、自分のままでいることです。
その安らかさの中に、最初から与えられていた喜びが沸いてきます。
そんなあなたを誰一人知らないかもしれません。
友人も両親も家族さえも、誰ひとり本当のあなたを知らないかもしれません。
だってあなたは、ただあなたであり、素朴であり自然に生きているだけだからです。
カーテンの隙間から差し込む朝日を楽しみ、シャワーの感触を楽しみ、軽食を楽しみ、徒歩を楽しむ。
そこに何か特別なものがあるわけではありません。
自分が誰であろうと、ただ自分自身でいるのです。
人に自分をよく見せようとすることもなく、偽善もなく、ふりもせず、ただその時々の自分に誠実であろうとするのです。
そんなふうに自分にくつろいだ分だけ、喜びと祝福という顔をした「神」が自分に訪れます。
僕たちは、くつろぐことをもっと学ばなければいけません。
くつろぐためには、いまここに満足していることが必要です。
もし今に満足できなければ、そこを満たす何かが必要となり、その欲求、欲望が緊張を作って、くつろぐことを妨げるからです。
そして、結果を持たずに生きるのです。
「~であるべき」という結果を持つと、またそこに緊張が生まれます。
僕たちは幸せになりたいという思いゆえに、あれこれと現実を操作し、幸せをいまここから遠ざけているのです。
今ままでも、今も、そしてこれからも全ては完璧だという感覚を思い出してください。
その感覚こそが「神」です。
これからも何一つ無駄はなく、何一つ偶然もなく、起きることが起きていくでしょう。
その単純な事実に同調し、どこへでも流れのままに、思し召すまま流れていけば、それで完璧です。
あるがままの自分にくつろぐこと。
これはとても大切なことです。
中には、あるがままの自分がわからなくなったと言う人がいます。
長きにわたって人の目の中で生きてしまったので、何があるがままかわからないというのです。
でも実際には、どれが本当の自分かわからないと言って動揺している姿が、あるがままの自分です。
そんな自分を、そのまま受け入れてあげるのです。
何度も本で読んだでしょ?
「あるがままの自分を受け入れなさい」って。
後はやるだけですよ。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
Posted by Toshiro Abe at
09:52
│Comments(17)
2008年05月29日
無心の幸福感
昨日はたくさんの人たちと出会えていることが実感できて、とても嬉しく思いました。
コメントの中に、もっと読者を信頼して、思っていることを何でも書いたらいいという励ましもありました。
こんな言い方をしても伝わらないだろうなんて最初から決めつけないで、何でも書いてみようと思いました。
今日も「いまここ」について、ちょっと角度を変えて話してみます。
人は直線的にものを考えます。
今の自分のことも、朝起きて顔を洗って、通勤電車に乗ったらたまたま目の前の座席が空いて、すごくツイテいると思って坐ったら、うっかり眠ってしまって目的地を通り過ぎ、おかげで遅刻してしまい、しょんぼりしていたら好きな上司が力づけてくれて、いま私は元気を取り戻して職場で働いているといった感じです。
こうやって毎日真面目に働いていれば、きっとそのうちいいことがあるだろうと願っています。
それが直線的思考と呼ばれるものです。
そこには絶え間ない連続性があり、「自分」という存在が時の流れの中で、過去から未来に向かって生きているという感覚を持っています。
極めて多くの人がこのような生き方を選びます。
でも実際には、その一貫した時の流れを描いているのは自分であって、時は流れることなく、いつも「いま」でしかありません。
目の前の景色は常に変わり続けますが、僕らはそれをいつも「いまここ」で見ているだけで、僕らは少しも動いていないのです。
直線的思考はいつかどこかで幸せになろうと言いますが、「いつか」も「どこか」も空想上の産物で、実際には存在していません。
存在しているのは「いまここ」だけです。
「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」
という言葉がありましたが、
「短い人生、そんなに急いでどこに行く」
ということです。
何度も言いますが、実はあなたはどこにも行っていません。
これからもどこにも行きません。
だって「いまここ」しかないのですから。
それがわかれば、自分は回り道をしたとか、人生を失敗したとか、遅れをとったとか、先に進んでいるとか、そんなバカなことは言わなくなります。
理解すべきもっとも重要なポイントは
「人生はどこへも向かっていない」
ということです。
まさに「いま」幸せであるかどうか・・・それが唯一のチェックポイントです。
まさに今、優しくて素直な気持ちを取り戻し、自分も周りも幸せであることを願いましょう。
まさに今、この瞬間には何ひとつ問題も悩みも存在していないことに気づいて、せめて「いま」だけは幸せな気持ちで過ごしましょう。
秘訣は考えないこと。
考えないで、ただ幸せを感じようとすることです。
それが無心の境地で、幸福感はそこに副産物のようにして湧き上がってきます。
その幸福感は、何かの原因の結果ではありません。
それは最初から僕たちに無条件に与えられている、100%の幸福感です。
それは僕たちの本質です。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
コメントの中に、もっと読者を信頼して、思っていることを何でも書いたらいいという励ましもありました。
こんな言い方をしても伝わらないだろうなんて最初から決めつけないで、何でも書いてみようと思いました。
今日も「いまここ」について、ちょっと角度を変えて話してみます。
人は直線的にものを考えます。
今の自分のことも、朝起きて顔を洗って、通勤電車に乗ったらたまたま目の前の座席が空いて、すごくツイテいると思って坐ったら、うっかり眠ってしまって目的地を通り過ぎ、おかげで遅刻してしまい、しょんぼりしていたら好きな上司が力づけてくれて、いま私は元気を取り戻して職場で働いているといった感じです。
こうやって毎日真面目に働いていれば、きっとそのうちいいことがあるだろうと願っています。
それが直線的思考と呼ばれるものです。
そこには絶え間ない連続性があり、「自分」という存在が時の流れの中で、過去から未来に向かって生きているという感覚を持っています。
極めて多くの人がこのような生き方を選びます。
でも実際には、その一貫した時の流れを描いているのは自分であって、時は流れることなく、いつも「いま」でしかありません。
目の前の景色は常に変わり続けますが、僕らはそれをいつも「いまここ」で見ているだけで、僕らは少しも動いていないのです。
直線的思考はいつかどこかで幸せになろうと言いますが、「いつか」も「どこか」も空想上の産物で、実際には存在していません。
存在しているのは「いまここ」だけです。
「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」
という言葉がありましたが、
「短い人生、そんなに急いでどこに行く」
ということです。
何度も言いますが、実はあなたはどこにも行っていません。
これからもどこにも行きません。
だって「いまここ」しかないのですから。
それがわかれば、自分は回り道をしたとか、人生を失敗したとか、遅れをとったとか、先に進んでいるとか、そんなバカなことは言わなくなります。
理解すべきもっとも重要なポイントは
「人生はどこへも向かっていない」
ということです。
まさに「いま」幸せであるかどうか・・・それが唯一のチェックポイントです。
まさに今、優しくて素直な気持ちを取り戻し、自分も周りも幸せであることを願いましょう。
まさに今、この瞬間には何ひとつ問題も悩みも存在していないことに気づいて、せめて「いま」だけは幸せな気持ちで過ごしましょう。
秘訣は考えないこと。
考えないで、ただ幸せを感じようとすることです。
それが無心の境地で、幸福感はそこに副産物のようにして湧き上がってきます。
その幸福感は、何かの原因の結果ではありません。
それは最初から僕たちに無条件に与えられている、100%の幸福感です。
それは僕たちの本質です。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
Posted by Toshiro Abe at
11:13
│Comments(14)
2008年05月28日
一番伝えたいこと
自分が得た宝は、人と分かち合いたくなります。
しかもその宝が僕たちに共通のものであって、すべてのひとはそれを見つけるために生きているという確信があれば、なおさらです。
最初のうちは誰彼と見境なく話していましたが、そのうち、このような話は受け取る準備ができた人にしか話せないし、話しても意味がないことがわかりました。
でも、聞く準備ができた相手をどのようにして探し出し、どのように見極めるのか。
それが長年のテーマでした。
それが一挙に解決されたのは、2年前です。
ブログという存在と出会ってからです。
これは見る側が、見るかどうかを決めることができます。
タイトルやキーワードを検索してくれれば、膨大な量のブログの中から、ここにたどり着くことができます。
僕にしてみれば、僕が伝えたいことにアンテナを立てた人と出会うことができます。
正確な人数まではわかりませんが、この2年間で、僕が一生かけても見つけることが出来ない数の人たちと出会えたことだけは事実です。
僕はここに自由にものを書くことができます。
公共の電波や公共の場では選んでしまう言葉も、ここでは自由な表現が可能です。
気づきには、その深さによって段階があります。
日々の生活の中でのちょっとした気づきから、宇宙全体に関わるような壮大な気づきまで様々です。
ここではその両方からお話してきました。
何を書くかを決めるのは、まさにこの瞬間の僕自身の状態ですが、それが毎日目まぐるしく変わるので、内容もバラエティーに富んでいます。
さて、いま僕は言葉にならない何かを伝えたくてウズウズしています。
それは説明がとても難しいのですが、もしそのことが伝われば、あなたが「人生」と呼んできたものはたちどころに消滅し、いまここにまったく新しい存在が出現します。
それは自由な感覚で、とてもポジティブな世界です。
そのためには、自分が作り出してきた人生観や世界観の、根柢の根底を見直さなくてはなりません。
それは、時間と空間、さらには自分という存在の再構築です。
こうして書いていてとてもじれったいのですが、今日のところはそのヒントだけを書いておきます。
もし僕を信頼してくれるのなら、一回か二回読んでわからないからといって投げ出さずに、何度も何度も思い出し、ことあるごとに感じてみてください。
「いまここ」という言葉はわかりますね。
この言葉の中には全ての真実が含まれています。
あらゆる物事はすべて、「いまここ」で起こっています。
しかも・・・過去のすべても、未来のすべても、起こりうるあらゆる可能性は、すでに「いまここ」に存在しているのです。
僕たちはそのあらゆる可能性の中から、個々それぞれにたった一つを選び出し、自分の経験として持ち運んでいます。
その瞬間何を選ぶのかはまったくの自由なのですが、人はすでに自分の生き方やスタイル、この世に関する一定の物の見方が出来上がっているので、同じような経験(感情や考え)を繰り返しています。
まさにこの瞬間、いまあなたがいる場所とあなた自身を、時間の流れの中ではなく、「いま」という断面で切り取って、あらゆるストーリーや説明をつけずに、そのありのままを見てとれるような視点が必要です。
そしてその断面に対する解釈を、つねに肯定的に描くことができれば、それが幸せというものです。
反対に否定(怖れ・不安・猜疑心)の世界で描けば、それが不幸ということです。
それは自分を取り巻いている条件や、現実と呼んでいる出来事や環境とも無関係です。
まさにこの瞬間の思考の方向性が幸・不幸を決めているのです。
やっぱり難解な表現になってしまいました。
でも今日はどうしても伝えたかったのです。
このブログの目的は、まったく新しい視点をあなたと分かち合い、それを理解する人が増えていくことです。
傲慢な言い方を許してもらえれば、その世界から見たら、霊だとか前世だとか次元上昇だとかはすべて子供だましの話です。
それを言っている人が作り出した世界観がそれを言わしているだけの話です。
僕がここで伝えたいのは、人が作り出した世界観ではなく、まさにあるがままのそれです。
「お前が言っているのもそのひとつだろう」と言われても、答えはNOです。
ダイレクトに伝えようとすると独断的に見えてしまいますが、これが真実です。
ブログは読む側が選べるので、僕が何か本当のことを伝えようとしていると感じた人は、これからもここに来てください。
僕には伝えたいことが無限の量だけあります。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを支持してくれる人は2つのボタンを押してください。
このことが、また新しい人との縁を作り出してくれています。
ご協力よろしくお願いします。
しかもその宝が僕たちに共通のものであって、すべてのひとはそれを見つけるために生きているという確信があれば、なおさらです。
最初のうちは誰彼と見境なく話していましたが、そのうち、このような話は受け取る準備ができた人にしか話せないし、話しても意味がないことがわかりました。
でも、聞く準備ができた相手をどのようにして探し出し、どのように見極めるのか。
それが長年のテーマでした。
それが一挙に解決されたのは、2年前です。
ブログという存在と出会ってからです。
これは見る側が、見るかどうかを決めることができます。
タイトルやキーワードを検索してくれれば、膨大な量のブログの中から、ここにたどり着くことができます。
僕にしてみれば、僕が伝えたいことにアンテナを立てた人と出会うことができます。
正確な人数まではわかりませんが、この2年間で、僕が一生かけても見つけることが出来ない数の人たちと出会えたことだけは事実です。
僕はここに自由にものを書くことができます。
公共の電波や公共の場では選んでしまう言葉も、ここでは自由な表現が可能です。
気づきには、その深さによって段階があります。
日々の生活の中でのちょっとした気づきから、宇宙全体に関わるような壮大な気づきまで様々です。
ここではその両方からお話してきました。
何を書くかを決めるのは、まさにこの瞬間の僕自身の状態ですが、それが毎日目まぐるしく変わるので、内容もバラエティーに富んでいます。
さて、いま僕は言葉にならない何かを伝えたくてウズウズしています。
それは説明がとても難しいのですが、もしそのことが伝われば、あなたが「人生」と呼んできたものはたちどころに消滅し、いまここにまったく新しい存在が出現します。
それは自由な感覚で、とてもポジティブな世界です。
そのためには、自分が作り出してきた人生観や世界観の、根柢の根底を見直さなくてはなりません。
それは、時間と空間、さらには自分という存在の再構築です。
こうして書いていてとてもじれったいのですが、今日のところはそのヒントだけを書いておきます。
もし僕を信頼してくれるのなら、一回か二回読んでわからないからといって投げ出さずに、何度も何度も思い出し、ことあるごとに感じてみてください。
「いまここ」という言葉はわかりますね。
この言葉の中には全ての真実が含まれています。
あらゆる物事はすべて、「いまここ」で起こっています。
しかも・・・過去のすべても、未来のすべても、起こりうるあらゆる可能性は、すでに「いまここ」に存在しているのです。
僕たちはそのあらゆる可能性の中から、個々それぞれにたった一つを選び出し、自分の経験として持ち運んでいます。
その瞬間何を選ぶのかはまったくの自由なのですが、人はすでに自分の生き方やスタイル、この世に関する一定の物の見方が出来上がっているので、同じような経験(感情や考え)を繰り返しています。
まさにこの瞬間、いまあなたがいる場所とあなた自身を、時間の流れの中ではなく、「いま」という断面で切り取って、あらゆるストーリーや説明をつけずに、そのありのままを見てとれるような視点が必要です。
そしてその断面に対する解釈を、つねに肯定的に描くことができれば、それが幸せというものです。
反対に否定(怖れ・不安・猜疑心)の世界で描けば、それが不幸ということです。
それは自分を取り巻いている条件や、現実と呼んでいる出来事や環境とも無関係です。
まさにこの瞬間の思考の方向性が幸・不幸を決めているのです。
やっぱり難解な表現になってしまいました。
でも今日はどうしても伝えたかったのです。
このブログの目的は、まったく新しい視点をあなたと分かち合い、それを理解する人が増えていくことです。
傲慢な言い方を許してもらえれば、その世界から見たら、霊だとか前世だとか次元上昇だとかはすべて子供だましの話です。
それを言っている人が作り出した世界観がそれを言わしているだけの話です。
僕がここで伝えたいのは、人が作り出した世界観ではなく、まさにあるがままのそれです。
「お前が言っているのもそのひとつだろう」と言われても、答えはNOです。
ダイレクトに伝えようとすると独断的に見えてしまいますが、これが真実です。
ブログは読む側が選べるので、僕が何か本当のことを伝えようとしていると感じた人は、これからもここに来てください。
僕には伝えたいことが無限の量だけあります。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを支持してくれる人は2つのボタンを押してください。
このことが、また新しい人との縁を作り出してくれています。
ご協力よろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:48
│Comments(24)
2008年05月27日
劣等感という幻想
30歳の時に、自分の内側で、存在全体に対する突然の気づきがあって、それから人生観が180度変わった話は何度かしましたね。
その経験は人生で最大の喜びであり、天からの最高のプレゼントでした。
いまもなおその気づきは、少しも色あせることなく僕の中に息づいています。
その経験によって、何か得たわけじゃありません。
むしろ多くのものを失いました。
何を失ったかというと・・・その代表が「劣等感」です。
人と自分を比較して、自分のほうが劣っているんじゃないかっていう「劣等感」。
若いころは、そんな感覚を強烈に持っていました。
特に、ギター片手に上京したころは大変でした。
子供のころにテレビで見ていた大都会東京。
そこに暮らす人は凄い人たちばかりで、自分のような田舎者はきっと笑われるに違いないと思っていました。
微妙に違う言葉のイントネーションも恥ずかしかったし、何より洋服のセンスが圧倒的に違うような気がしていました。
東京といっても広くて、山の手から下町までいろんな地区があって、今思えばそこまで劣等感を持つ必要もなかったのに、一度思い込んでしまったら、なかなか消えるものじゃありません。
原宿のブティックで服を買いたくても、その店に入ることさえできません。
店員に笑われそうな気がしたからです。
そこでどうしたか。
その店に入るための服をデパートで買って、それを着てやっと入ることができたのです(笑)
原宿のブティックで買った服は今でも覚えています。
それは当時流行りのグラムロックというジャンルの衣装です。
デビットボウイやT・REXなどが着ていたギンギラギンの服です。
青いラメのジャケット、サテンのパンツ、ビーズの刺繍をほどこしたTシャツ、10cmのロンドンブーツ・・・
そんな恰好で、西武池袋線に乗って石神井公園の自宅まで帰るのですから、劣等感の力は怖いもの知らずです。
今思えばそんな格好のほうがよほど恥ずかしかったと思いますが、当時はそれでやっと都会との釣り合いが取れたと思っていたわけです。
これらはほんの一例で、他にもまだまだ恥ずかしい行動があったと思います。
ちょっとした「勘違い」が人生に及ぼす影響は小さくないと思います。
勘違い・・そうです、あらゆる劣等感は100%勘違いです。
それは今よくわかります。
そもそも僕たちは根っこでひとつにつながっていて、その成分は「ひとつ」です。
僕たちは誰一人例外なく、同じものなのです。
表面的な見た目や印象によって、まったく違って見えますが、その奥にあるものは「ひとつ」という真実だけです。
そのことが深くわかると、劣等感はきれいさっぱり消えてなくなります。
この世に自分より凄い人は一人もいなくなります。
同時に、自分より劣った人も一人もいなくなります。
上も下も同時に消えてなくなるのです。
上と下は両方でセットなので、片方がなくなるともう片方も存在できないのです。
コインの裏表のようなもので、どちらか片方では存在できません。
劣等感を持っている人は、心の中で誰かを見下しています。
反対に、人に対して尊大な態度を持っている人は、自分より上だと思っている人に対してへつらったりします。
それはどちらも勘違いです。
僕たちに上下はありません。
魂は100%対等です。
対等という言葉さえも、正確じゃありません。
なぜなら、対等ということで、まだほんのわずか比較しているからです。
実際には比較そのものが存在しません。
だって「ひとつ」の同じものなのですから。
比較するためには最低でも二つ以上のものが必要です。
でも僕たちは「ひとつ」なのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
PS
7月6日(日)の秋葉原でのライブ&講演会は、満席のために夜の部を追加しました。
詳しくはこちらから。
http://abetoshiro.ti-da.net/e1503735.html
その経験は人生で最大の喜びであり、天からの最高のプレゼントでした。
いまもなおその気づきは、少しも色あせることなく僕の中に息づいています。
その経験によって、何か得たわけじゃありません。
むしろ多くのものを失いました。
何を失ったかというと・・・その代表が「劣等感」です。
人と自分を比較して、自分のほうが劣っているんじゃないかっていう「劣等感」。
若いころは、そんな感覚を強烈に持っていました。
特に、ギター片手に上京したころは大変でした。
子供のころにテレビで見ていた大都会東京。
そこに暮らす人は凄い人たちばかりで、自分のような田舎者はきっと笑われるに違いないと思っていました。
微妙に違う言葉のイントネーションも恥ずかしかったし、何より洋服のセンスが圧倒的に違うような気がしていました。
東京といっても広くて、山の手から下町までいろんな地区があって、今思えばそこまで劣等感を持つ必要もなかったのに、一度思い込んでしまったら、なかなか消えるものじゃありません。
原宿のブティックで服を買いたくても、その店に入ることさえできません。
店員に笑われそうな気がしたからです。
そこでどうしたか。
その店に入るための服をデパートで買って、それを着てやっと入ることができたのです(笑)
原宿のブティックで買った服は今でも覚えています。
それは当時流行りのグラムロックというジャンルの衣装です。
デビットボウイやT・REXなどが着ていたギンギラギンの服です。
青いラメのジャケット、サテンのパンツ、ビーズの刺繍をほどこしたTシャツ、10cmのロンドンブーツ・・・
そんな恰好で、西武池袋線に乗って石神井公園の自宅まで帰るのですから、劣等感の力は怖いもの知らずです。
今思えばそんな格好のほうがよほど恥ずかしかったと思いますが、当時はそれでやっと都会との釣り合いが取れたと思っていたわけです。
これらはほんの一例で、他にもまだまだ恥ずかしい行動があったと思います。
ちょっとした「勘違い」が人生に及ぼす影響は小さくないと思います。
勘違い・・そうです、あらゆる劣等感は100%勘違いです。
それは今よくわかります。
そもそも僕たちは根っこでひとつにつながっていて、その成分は「ひとつ」です。
僕たちは誰一人例外なく、同じものなのです。
表面的な見た目や印象によって、まったく違って見えますが、その奥にあるものは「ひとつ」という真実だけです。
そのことが深くわかると、劣等感はきれいさっぱり消えてなくなります。
この世に自分より凄い人は一人もいなくなります。
同時に、自分より劣った人も一人もいなくなります。
上も下も同時に消えてなくなるのです。
上と下は両方でセットなので、片方がなくなるともう片方も存在できないのです。
コインの裏表のようなもので、どちらか片方では存在できません。
劣等感を持っている人は、心の中で誰かを見下しています。
反対に、人に対して尊大な態度を持っている人は、自分より上だと思っている人に対してへつらったりします。
それはどちらも勘違いです。
僕たちに上下はありません。
魂は100%対等です。
対等という言葉さえも、正確じゃありません。
なぜなら、対等ということで、まだほんのわずか比較しているからです。
実際には比較そのものが存在しません。
だって「ひとつ」の同じものなのですから。
比較するためには最低でも二つ以上のものが必要です。
でも僕たちは「ひとつ」なのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
PS
7月6日(日)の秋葉原でのライブ&講演会は、満席のために夜の部を追加しました。
詳しくはこちらから。
http://abetoshiro.ti-da.net/e1503735.html
Posted by Toshiro Abe at
07:58
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2008年05月26日
相互依存
このブログでは様々なメッセージをお伝えしていますが、聞いてくれる人が誰かによって、内容は変わると思います。
僕の話は、成人した人、特に30、40を過ぎた人たちが対象です。
時々、学校サイドから、中高生への講演を依頼されることがありますが、ここでお伝えしているようなことは話しません。
たとえば「あきらめる」ことの大切さや、天に「おまかせ」する生き方。
そんなことを受験前の子供たちに話しても、何の役にも立ちません。
彼らには、目の前の現実に全力で立ち向かうことが求められています。
メッセージには、段階があると思います。
子供たちのように、社会に依存して生きている状態には、まずは自立することの必要性を説きますし、自立して生きている大人たちには、相互依存への成長を説くことでしょう。
相互依存の状態、それこそがこのブログの目指す世界観です。
相互依存とは、自立した大人同士が共に与えあうことによって、競争原理よりもさらなる生産性をあげていくという意味もありますが、実はその奥にもっと大きな意味が含まれています。
それは神との相互依存です。
自立というのは、自分の力で人生をコントロールし切り開いていく段階ですが、これは時間とともに消耗し疲弊していく運命にあるのです。
世の中は自分の思いどおりには動いてくれませんし、「個」が「全体」に戦いを挑んでも、負けは見えています。
その段階を生き切って、自分の力の限界を認めることができたら、それは次なるステップへの入り口です。
うまくいかないとき、今までの自分のやり方が通用しなくなったとき、仕事や人間関係が極端に悪化したとき、絶望を感じたとき、これらは成長するのにまたとないチャンスなのです。
特に強い絶望感は、大いなる飛躍のチャンスだと思います。
なぜなら、とことん絶望すれば、簡単に自分のやり方を手放せるからです。
まだ自分の力に可能性を感じているうちは、時間がたってまた状況が変わりだすと、再び自立の段階を生きだします。
それが悪いわけではないのですが、その生き方がゴールではありません。
そして実に多くの人たちが、自立の段階で止まったまま、人生を終えてしまいます。
神との相互依存。
その言い方に抵抗がある人は「大いなる意識との相互依存」と考えればいいと思います。
この段階に入るためのキーワードは「手放す」「信頼する」です。
このブログでは、各所にわたって、そのことへの詳しい説明がされています。
きっとこれからも、その世界について、あれこれとお話しさせてもらうと思います。
神との相互依存。
この段階には、完全に自立した状態からしか入れません。
依存の状態からいきなり入ることはできないのです。
だから若いうちは、自分の可能性を信じて、とことん生きてみることが大切かと思います。
やれやれ、こんなことを話すということは、僕も年老いたということですね。
でも歳をとるのも、まんざら捨てたものじゃありませんよ。
だって、今が人生で一番幸せで、一番輝いているのですから。
人生は「これから」だって思っています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
年寄りの独り言は、これからもずっと続いていきます。
応援よろしくお願いします。
僕の話は、成人した人、特に30、40を過ぎた人たちが対象です。
時々、学校サイドから、中高生への講演を依頼されることがありますが、ここでお伝えしているようなことは話しません。
たとえば「あきらめる」ことの大切さや、天に「おまかせ」する生き方。
そんなことを受験前の子供たちに話しても、何の役にも立ちません。
彼らには、目の前の現実に全力で立ち向かうことが求められています。
メッセージには、段階があると思います。
子供たちのように、社会に依存して生きている状態には、まずは自立することの必要性を説きますし、自立して生きている大人たちには、相互依存への成長を説くことでしょう。
相互依存の状態、それこそがこのブログの目指す世界観です。
相互依存とは、自立した大人同士が共に与えあうことによって、競争原理よりもさらなる生産性をあげていくという意味もありますが、実はその奥にもっと大きな意味が含まれています。
それは神との相互依存です。
自立というのは、自分の力で人生をコントロールし切り開いていく段階ですが、これは時間とともに消耗し疲弊していく運命にあるのです。
世の中は自分の思いどおりには動いてくれませんし、「個」が「全体」に戦いを挑んでも、負けは見えています。
その段階を生き切って、自分の力の限界を認めることができたら、それは次なるステップへの入り口です。
うまくいかないとき、今までの自分のやり方が通用しなくなったとき、仕事や人間関係が極端に悪化したとき、絶望を感じたとき、これらは成長するのにまたとないチャンスなのです。
特に強い絶望感は、大いなる飛躍のチャンスだと思います。
なぜなら、とことん絶望すれば、簡単に自分のやり方を手放せるからです。
まだ自分の力に可能性を感じているうちは、時間がたってまた状況が変わりだすと、再び自立の段階を生きだします。
それが悪いわけではないのですが、その生き方がゴールではありません。
そして実に多くの人たちが、自立の段階で止まったまま、人生を終えてしまいます。
神との相互依存。
その言い方に抵抗がある人は「大いなる意識との相互依存」と考えればいいと思います。
この段階に入るためのキーワードは「手放す」「信頼する」です。
このブログでは、各所にわたって、そのことへの詳しい説明がされています。
きっとこれからも、その世界について、あれこれとお話しさせてもらうと思います。
神との相互依存。
この段階には、完全に自立した状態からしか入れません。
依存の状態からいきなり入ることはできないのです。
だから若いうちは、自分の可能性を信じて、とことん生きてみることが大切かと思います。
やれやれ、こんなことを話すということは、僕も年老いたということですね。
でも歳をとるのも、まんざら捨てたものじゃありませんよ。
だって、今が人生で一番幸せで、一番輝いているのですから。
人生は「これから」だって思っています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
年寄りの独り言は、これからもずっと続いていきます。
応援よろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:08
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2008年05月25日
ブッダの目覚まし
毎度お騒がせしています。
今朝は、なんと11時まで寝てしまいました。
10時に近くのホテルで仕事の打ち合わせがあったのに・・・西原自動車の呉屋会長、お待たせして申し訳ありませんでしたm(_ _)m
いつもはどんなに遅くまで寝ていても、隣の保育園の子供たちの「先生オハヨー!みなさんオハヨー!」の声で起きるのに、今日は日曜日でした。
園児たちは完全に悟っていて、まったく人目を気にすることなく、100%の声であいさつするので、僕には最高の時報です。
山の中までブッダを探しに行かなくても、隣に数十人のブッダがいるので、重宝しています。
でも彼ら(園児)は、自分が悟っていることへの自覚がありません。、
おそらく僕たち人間は、ブッダとして生まれて、大人になるにつれていったん悟りを見失い、再びそれを獲得するために悪戦苦闘するのでしょう。
その結果得た悟りは、生まれつき持っていたものですが、今度は「自覚」が伴っています。
ということは、僕たちが人生で勝ち得るのは「自覚」なのかもしれません。
宇宙も同じで、もともとは宇宙と一体で歓喜そのものだった僕たちが、いったん、分離という幻想の中にはまり込み、その世界で苦しみながら再び宇宙との一体感と歓喜を取り戻すわけです。
でも苦しみの体験がある分だけ、歓喜はより深くなり、しかも歓喜しているという自覚まであるのです。
早くそんな境地を思い出したい今日この頃です。
みなさん、いい日曜日をお過ごしください。
ブッダの園児の頃に戻って、判断せずに無邪気に押してください。
ありがとうございました。
今朝は、なんと11時まで寝てしまいました。
10時に近くのホテルで仕事の打ち合わせがあったのに・・・西原自動車の呉屋会長、お待たせして申し訳ありませんでしたm(_ _)m
いつもはどんなに遅くまで寝ていても、隣の保育園の子供たちの「先生オハヨー!みなさんオハヨー!」の声で起きるのに、今日は日曜日でした。
園児たちは完全に悟っていて、まったく人目を気にすることなく、100%の声であいさつするので、僕には最高の時報です。
山の中までブッダを探しに行かなくても、隣に数十人のブッダがいるので、重宝しています。
でも彼ら(園児)は、自分が悟っていることへの自覚がありません。、
おそらく僕たち人間は、ブッダとして生まれて、大人になるにつれていったん悟りを見失い、再びそれを獲得するために悪戦苦闘するのでしょう。
その結果得た悟りは、生まれつき持っていたものですが、今度は「自覚」が伴っています。
ということは、僕たちが人生で勝ち得るのは「自覚」なのかもしれません。
宇宙も同じで、もともとは宇宙と一体で歓喜そのものだった僕たちが、いったん、分離という幻想の中にはまり込み、その世界で苦しみながら再び宇宙との一体感と歓喜を取り戻すわけです。
でも苦しみの体験がある分だけ、歓喜はより深くなり、しかも歓喜しているという自覚まであるのです。
早くそんな境地を思い出したい今日この頃です。
みなさん、いい日曜日をお過ごしください。
ブッダの園児の頃に戻って、判断せずに無邪気に押してください。
ありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
12:03
│Comments(2)
2008年05月24日
大金持ちになる本
沖縄は梅雨入りしたのですが、まとまった雨がふるわけではなく、今日も青空が広がっています。
これでザーっとばかりに雨になれば、貯水ダムや農家にとっては恵みの雨になるけれど、観光客は残念がるだろうし、同じ現実でも、それぞれの立場で、感じ方や体験が変わってきますね。
でも雨は、人がどう感じるかに関係なく雨をやっているだろうし、現実自体は中立なんだなって改めて思うわけです。
今までもそうだったけれど、これからも起きることが淡々とおきていくわけで、それに対して喜ぼうが悲しもうが、起きることが起きていくんだと思います。
話は全く変わりますが、昨日本屋で「ユダヤの大富豪のなんとか・・・」という本を立ち読みしていたら、そこに大金持ちになるための10カ条という章がありました。
読んで驚いたのは、僕は10個ともほぼ完璧に満たしていました。
おかしいな・・・全然大金持ちじゃないぞ
「ほぼ完璧」と「完璧」は大きな差があるのかな、いやもしかしたらこの先僕は大金持ちになるのかもしれないなどと考えながら、結局その本は買わずに帰ってきました。
それにしても金持ちになるための本って、ものすごくたくさんあるので驚きました。
先頃ブームになった「シークレット」の余韻が残っているんでしょうか、引き寄せの法則的な本も多く出ていました。
「金持ちになれる」という本が売れることで、確実に金持ちになるのは、その本を書いた人だと思います。
僕も書いてみようかな。
でも書いている本人が金持ちじゃないんだから、これほど如何わしい本はないですよね(笑)
本当は自分でわかっているんですよ。
僕は真剣にそうなろうと意図していないってことが。
心の底から望めば、やがてそれを手に入れるためのアイデアが湧いたり、必要な人に出会ったり、どんな願望も実現していくというのは経験的に知っています。
実際に、いまも必要なものは全部そろっているし、やりたいことができているし、夢は次々と叶っているし、これからも何でもやりたいことが実現していく予感があるし、これで十分だと思っているのでしょう。
僕は金持ちになったことがないから知りませんが、今の僕と、本に出てくるような成功者と、どちらが幸せかと言えば、僕のほうが幸せのような気もします。
単にお目出たいだけかもしれませんが、自分でそう思えているんだから、それが一番幸せですよね(^o^)
なんだかとりとめもない文章になってしまいましたが、最後まで読んでくれてありがとうございました。
よい週末をお過ごしください。
今日も応援よろしくお願いします。
これでザーっとばかりに雨になれば、貯水ダムや農家にとっては恵みの雨になるけれど、観光客は残念がるだろうし、同じ現実でも、それぞれの立場で、感じ方や体験が変わってきますね。
でも雨は、人がどう感じるかに関係なく雨をやっているだろうし、現実自体は中立なんだなって改めて思うわけです。
今までもそうだったけれど、これからも起きることが淡々とおきていくわけで、それに対して喜ぼうが悲しもうが、起きることが起きていくんだと思います。
話は全く変わりますが、昨日本屋で「ユダヤの大富豪のなんとか・・・」という本を立ち読みしていたら、そこに大金持ちになるための10カ条という章がありました。
読んで驚いたのは、僕は10個ともほぼ完璧に満たしていました。
おかしいな・・・全然大金持ちじゃないぞ
「ほぼ完璧」と「完璧」は大きな差があるのかな、いやもしかしたらこの先僕は大金持ちになるのかもしれないなどと考えながら、結局その本は買わずに帰ってきました。
それにしても金持ちになるための本って、ものすごくたくさんあるので驚きました。
先頃ブームになった「シークレット」の余韻が残っているんでしょうか、引き寄せの法則的な本も多く出ていました。
「金持ちになれる」という本が売れることで、確実に金持ちになるのは、その本を書いた人だと思います。
僕も書いてみようかな。
でも書いている本人が金持ちじゃないんだから、これほど如何わしい本はないですよね(笑)
本当は自分でわかっているんですよ。
僕は真剣にそうなろうと意図していないってことが。
心の底から望めば、やがてそれを手に入れるためのアイデアが湧いたり、必要な人に出会ったり、どんな願望も実現していくというのは経験的に知っています。
実際に、いまも必要なものは全部そろっているし、やりたいことができているし、夢は次々と叶っているし、これからも何でもやりたいことが実現していく予感があるし、これで十分だと思っているのでしょう。
僕は金持ちになったことがないから知りませんが、今の僕と、本に出てくるような成功者と、どちらが幸せかと言えば、僕のほうが幸せのような気もします。
単にお目出たいだけかもしれませんが、自分でそう思えているんだから、それが一番幸せですよね(^o^)
なんだかとりとめもない文章になってしまいましたが、最後まで読んでくれてありがとうございました。
よい週末をお過ごしください。
今日も応援よろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:15
│Comments(7)
2008年05月23日
混乱の奥にあるもの
昨日、とても苦しんでいる人からのメールが届きました。
顔も名前も知らない人ですが、その苦しみだけは伝わってきました。
僕も以前、同じ場所にいたことがあるからです。
今朝目が覚めた時、ふと感じた事があったので、今日はそのことを書いてみます。
どんなに壮絶な嵐が吹き荒れても、どんなに海が荒れて波が高くなっても、その海底は静かなままです。
僕たちの意識も同じで、表面がどんなに混乱していても、その底には、静かなまま完璧な姿で存在している部分があります。
「私は怒りに燃えている」
「私は絶望している」
「私は異常だ」
「私は鬱状態だ」
と言う時の「私」が存在するのです。
どのような状態であれ、それを経験している純粋で健全な「私」が存在します。
それこそが本当の自分です。
ヒーラーやセラビストと呼ばれる人たちの役目は、その人の混乱を静めることではなく、その人が見失ってしまった健全な自己の存在を示し、そこに連れ戻してあげることです。
人は人を癒すことはできません。
癒しは、深い自分に戻るときに発生する高い波動の作用です。
どのような症状に見える人も、本質的にはどこも悪いところはないのです。
混乱しているのは表面的な私(自我)です。
それはいつも他者と自分を比較をしたり、自分の都合を考えて、自分を守ることばかりに忙しい意識です。
その意識(自我)の部分が多ければ多いほど、苦しみや痛みという形で自分を経験します。
もし今、混乱した状態にいると感じる人がいたら、それを感じている「自分」がいることに気づいてください。
たとえいま、どんな状態だろうと、その奥に完璧で喜びにあふれる自分が存在します。
それを失うことは不可能です。
なぜならその意識こそが僕たちの本質だからです。
それはいつも変わらずにあります。
変わっていくようなものは本当の自分ではありません。
僕たちの人生の真の目的は、本当の自分を発見し、そこに戻ることです。
それ以外のことは単なる現象に過ぎず、それは何であれ過ぎ去っていくのです。
その事がわかれば、人生で何を最優先させればいいのかが見えてきます。
そのやり方は、あっけにとられるほど単純です。
一日の中で、何度も何度も、自分の最奥の静かな意識に標準を合わせて、そこに戻ろうとするのです。
頭と心が作り出した恐れや不信感を、頭や心が解決することはできません。
反対に、頭や心を安らかにして、自分の最奥に近づいていく瞑想の習慣が、もっとも的を射たやり方です。
それでも、自分一人ではどうしようもないと感じる人はセラビストを訪ねるのがいいでしょう。
セラピストとは、表面的な不完全さに惑わされることなく、その背後にある完璧さを見通せる力を持った人です。
その人の落ち着きと優しさが、最奥の自分にもどる援助になります。
ただしそれがちょっと危険なのは、自分自身が混乱している人がセラピストを自称している場合があるからです。
人の問題に関わると、自分の問題を忘れることができるので、傷を抱えたまま人の指導に携わろうとする人もいるのです。
まずは静かな環境の中で、自分の内なる波動を上げていくことを試してみましょう。
忘れないでください。
あなたの中には、あなたが信じられないくらい強い自分が存在していることを。
本当のあなたは、あなたにとっての最高のセラピストなのです。
大丈夫ですよ。
本当のあなたは今までも完璧だったし、今も、そしてこれからも完璧なのですから。
まずは瞑想の習慣を持つこと。
これがあらゆる個人に必要なことだと思います。
結局はここに戻ってくるように思います。
「瞑想」
これこそが、21世紀の人類のキーワードだと確信しています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを応援してくれる人は2つのボタンを押してください。
PS
7月の東京ライブは満席です。
たくさんの人がキャンセル待ちをしてくれているので、夜の部を検討しています。
また近日中に報告します。
ありがとうございました。
顔も名前も知らない人ですが、その苦しみだけは伝わってきました。
僕も以前、同じ場所にいたことがあるからです。
今朝目が覚めた時、ふと感じた事があったので、今日はそのことを書いてみます。
どんなに壮絶な嵐が吹き荒れても、どんなに海が荒れて波が高くなっても、その海底は静かなままです。
僕たちの意識も同じで、表面がどんなに混乱していても、その底には、静かなまま完璧な姿で存在している部分があります。
「私は怒りに燃えている」
「私は絶望している」
「私は異常だ」
「私は鬱状態だ」
と言う時の「私」が存在するのです。
どのような状態であれ、それを経験している純粋で健全な「私」が存在します。
それこそが本当の自分です。
ヒーラーやセラビストと呼ばれる人たちの役目は、その人の混乱を静めることではなく、その人が見失ってしまった健全な自己の存在を示し、そこに連れ戻してあげることです。
人は人を癒すことはできません。
癒しは、深い自分に戻るときに発生する高い波動の作用です。
どのような症状に見える人も、本質的にはどこも悪いところはないのです。
混乱しているのは表面的な私(自我)です。
それはいつも他者と自分を比較をしたり、自分の都合を考えて、自分を守ることばかりに忙しい意識です。
その意識(自我)の部分が多ければ多いほど、苦しみや痛みという形で自分を経験します。
もし今、混乱した状態にいると感じる人がいたら、それを感じている「自分」がいることに気づいてください。
たとえいま、どんな状態だろうと、その奥に完璧で喜びにあふれる自分が存在します。
それを失うことは不可能です。
なぜならその意識こそが僕たちの本質だからです。
それはいつも変わらずにあります。
変わっていくようなものは本当の自分ではありません。
僕たちの人生の真の目的は、本当の自分を発見し、そこに戻ることです。
それ以外のことは単なる現象に過ぎず、それは何であれ過ぎ去っていくのです。
その事がわかれば、人生で何を最優先させればいいのかが見えてきます。
そのやり方は、あっけにとられるほど単純です。
一日の中で、何度も何度も、自分の最奥の静かな意識に標準を合わせて、そこに戻ろうとするのです。
頭と心が作り出した恐れや不信感を、頭や心が解決することはできません。
反対に、頭や心を安らかにして、自分の最奥に近づいていく瞑想の習慣が、もっとも的を射たやり方です。
それでも、自分一人ではどうしようもないと感じる人はセラビストを訪ねるのがいいでしょう。
セラピストとは、表面的な不完全さに惑わされることなく、その背後にある完璧さを見通せる力を持った人です。
その人の落ち着きと優しさが、最奥の自分にもどる援助になります。
ただしそれがちょっと危険なのは、自分自身が混乱している人がセラピストを自称している場合があるからです。
人の問題に関わると、自分の問題を忘れることができるので、傷を抱えたまま人の指導に携わろうとする人もいるのです。
まずは静かな環境の中で、自分の内なる波動を上げていくことを試してみましょう。
忘れないでください。
あなたの中には、あなたが信じられないくらい強い自分が存在していることを。
本当のあなたは、あなたにとっての最高のセラピストなのです。
大丈夫ですよ。
本当のあなたは今までも完璧だったし、今も、そしてこれからも完璧なのですから。
まずは瞑想の習慣を持つこと。
これがあらゆる個人に必要なことだと思います。
結局はここに戻ってくるように思います。
「瞑想」
これこそが、21世紀の人類のキーワードだと確信しています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを応援してくれる人は2つのボタンを押してください。
PS
7月の東京ライブは満席です。
たくさんの人がキャンセル待ちをしてくれているので、夜の部を検討しています。
また近日中に報告します。
ありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
08:58
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2008年05月22日
笑っちゃう (^o^)
今朝は早くから絶好調。
顔がキラキラ輝いて、身体も軽やかです。
それはね、朝から腹を抱えて笑ったから。
なんで笑ったかというと・・・何の理由もなく笑ったのです。
これは時々やる秘密のテクニックです。
ずいぶん前ですが、初めて自分が、宇宙(全体)と一体だったって気がついたとき、それはそれは可笑しくて大笑いしたんです。
何が可笑しかったのかというと、自分が全てと一体だったということは、何かから自分を守ろうとする必要は一切ないわけで、それなのにいつも、何か悪いことが起きないようにって緊張して構えて、真剣になって周りをうかがっていた自分が可笑しくて・・・
いったい何から何を守ろうとしていたんだろう、最初から救われていたじゃないか、今までもこれからも、そしてこの瞬間も、人生はいつだって完璧だったのに、なんとかしなきゃって思って頑張していた自分が可笑しくて・・・
ずいぶん遠くまで歩いてきた気がしていたけれど、実際にはどこにも行っていなくて、いつだって「いまここ」があるだけで、それなのに人よりも早く歩こうとしたり、回り道したんじゃないかって心配したり、自分より先を歩いているように見えた人に嫉妬したり、自分が勝手に描いていた人生の道のりを、必死で前に進もうとしていた自分が可笑しくて・・・
人生という劇場で、自分という配役を一生懸命に演じてきたけれど、その舞台の脚本も演出も主演も何もかも自分で、しかも観客さえも自分だったことが可笑しくて・・・
無知だったばかりに独りでがむしゃらに頑張っていた、その生真面目さが可笑しくて・・・
今朝は目が覚めた時、あんまり楽しい夢を見なかったらしくて、ちょっと心が重かったんです。
そこで理由もなく、いきなり笑ってみました。
もちろん最初は無理やり笑うんですが、そのうちあの大笑いした時の様々な理由がよみがえってきて、日々の自分が滑稽に見えてきて、そのうち腹から大笑いできるんです。
腹の底の芯の芯から笑えば、深刻さはすべて吹き飛んでしまいます。
そして彼方から声がします。
「おかえり」
「はーい、ただいま」
だから今朝は絶好調!
大丈夫だよ。
だって僕たちは全員、最初からゴールにたどり着いているんだし、人生を生きているっていう夢を見ているだけだから。
と言っても、こんな文章を深刻な状態の魂が読んだら、あまりいい気はしないかもしれない。
だからこの可笑しさは公表しないで、ひっそりと自分ひとりで楽しんでいるのがいいんだろうけど、ブログがあるとリアルタイムで何でも言ってしまいたくなります。
このブログは、その時その時の僕の内面を写している、記録映像みたいな存在です。
変な記事になってしまいましたが、わずかでもこの気持ちが届いてくれたら幸いです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
顔がキラキラ輝いて、身体も軽やかです。
それはね、朝から腹を抱えて笑ったから。
なんで笑ったかというと・・・何の理由もなく笑ったのです。
これは時々やる秘密のテクニックです。
ずいぶん前ですが、初めて自分が、宇宙(全体)と一体だったって気がついたとき、それはそれは可笑しくて大笑いしたんです。
何が可笑しかったのかというと、自分が全てと一体だったということは、何かから自分を守ろうとする必要は一切ないわけで、それなのにいつも、何か悪いことが起きないようにって緊張して構えて、真剣になって周りをうかがっていた自分が可笑しくて・・・
いったい何から何を守ろうとしていたんだろう、最初から救われていたじゃないか、今までもこれからも、そしてこの瞬間も、人生はいつだって完璧だったのに、なんとかしなきゃって思って頑張していた自分が可笑しくて・・・
ずいぶん遠くまで歩いてきた気がしていたけれど、実際にはどこにも行っていなくて、いつだって「いまここ」があるだけで、それなのに人よりも早く歩こうとしたり、回り道したんじゃないかって心配したり、自分より先を歩いているように見えた人に嫉妬したり、自分が勝手に描いていた人生の道のりを、必死で前に進もうとしていた自分が可笑しくて・・・
人生という劇場で、自分という配役を一生懸命に演じてきたけれど、その舞台の脚本も演出も主演も何もかも自分で、しかも観客さえも自分だったことが可笑しくて・・・
無知だったばかりに独りでがむしゃらに頑張っていた、その生真面目さが可笑しくて・・・
今朝は目が覚めた時、あんまり楽しい夢を見なかったらしくて、ちょっと心が重かったんです。
そこで理由もなく、いきなり笑ってみました。
もちろん最初は無理やり笑うんですが、そのうちあの大笑いした時の様々な理由がよみがえってきて、日々の自分が滑稽に見えてきて、そのうち腹から大笑いできるんです。
腹の底の芯の芯から笑えば、深刻さはすべて吹き飛んでしまいます。
そして彼方から声がします。
「おかえり」
「はーい、ただいま」
だから今朝は絶好調!
大丈夫だよ。
だって僕たちは全員、最初からゴールにたどり着いているんだし、人生を生きているっていう夢を見ているだけだから。
と言っても、こんな文章を深刻な状態の魂が読んだら、あまりいい気はしないかもしれない。
だからこの可笑しさは公表しないで、ひっそりと自分ひとりで楽しんでいるのがいいんだろうけど、ブログがあるとリアルタイムで何でも言ってしまいたくなります。
このブログは、その時その時の僕の内面を写している、記録映像みたいな存在です。
変な記事になってしまいましたが、わずかでもこの気持ちが届いてくれたら幸いです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
08:01
│Comments(12)
2008年05月21日
やりがちなこと
昨日もたくさんのご来場ありがとうございました。
喋っていて気づいたのですが、特に力を入れて伝えたいと思っているメッセージは、当の僕自身に一番必要なことだということ。
自分がそこを生き切れてないから、重要なテーマだと感じているんだなって。
もし僕が生活の中で、あたりまえのようにできていることなら、ことさらそのことを重要視しないわけです。
「こうしたほうがいいですよ」って偉そうに言う内容は、僕自身が苦手なことです。
だから「いまここ塾」は、聞いてくれる皆さん以上に、僕にとって大変役に立っているわけです。
忘れないうちに言っておきますが、来週は吉の浦会館が休館のためにお休みです。
お気をつけください。
さて、昨日も話しましたが、僕はちょっと気を抜くとすぐに心の中で誰かを批判していたり、判断したりしています。
批判の対象が自分自身の場合もあり、何が気に入らないのか誰かを裁いているわけです。
「あの人はこうするべきだ」
「あの人はああするべきじゃなかった」
「あの人は間違っている」
「僕はなんであんなことしちゃったんだろう」
「なぜいつもこうなんだ」
「こうすればよかった、ああすればよかった」
あはは、こうやって書いてみると恥ずかしいね。
心の中でこの手の会話をしているときは、幸せな気持ちじゃない時です。
だって心から幸せを感じている時に、だれかを批判したりしないものね。
本当は「いまここ」で100%幸せなんですよ。
本当は僕たちはみんな、あるがままで完璧で、何一つ取り去らなくても、何一つ付け足さなくてもOKなんです。
ところが幸せじゃない心は、むやみやたらに周りを批判するわけです。
ある瞬間にそのことに気づいて、また「いまここ」に戻ってくる、それが僕の日常です。
いま自分が何を考えているのかに「気づく」というのはとても大切なことです。
気づけば他の考えを選べますからね。
ところがうっかりすると、ずっと同じ思考パターンにはまっていたりします。
自動的に考えているので、自分がいま何を考えているのかの自覚がないわけです。
せめて今日一日は、誰かを責めたり自分を責めたりするのを、いっさいやめて生きてみましょう。
誰かがあなたに人の悪口や批判めいたことを話しかけてきたら、聞き流しましょう。
せめて今日一日は幸せな気持ちで過ごしましょう。
それができたら完璧です。
だって、いつも「今日」なのだから。
今日もいい日でありますように。
ブログ版「いまここ塾」
これからもよろしくお願いします。
30日の母家最後のライブ
残り席が少なくなってきました。
喋っていて気づいたのですが、特に力を入れて伝えたいと思っているメッセージは、当の僕自身に一番必要なことだということ。
自分がそこを生き切れてないから、重要なテーマだと感じているんだなって。
もし僕が生活の中で、あたりまえのようにできていることなら、ことさらそのことを重要視しないわけです。
「こうしたほうがいいですよ」って偉そうに言う内容は、僕自身が苦手なことです。
だから「いまここ塾」は、聞いてくれる皆さん以上に、僕にとって大変役に立っているわけです。
忘れないうちに言っておきますが、来週は吉の浦会館が休館のためにお休みです。
お気をつけください。
さて、昨日も話しましたが、僕はちょっと気を抜くとすぐに心の中で誰かを批判していたり、判断したりしています。
批判の対象が自分自身の場合もあり、何が気に入らないのか誰かを裁いているわけです。
「あの人はこうするべきだ」
「あの人はああするべきじゃなかった」
「あの人は間違っている」
「僕はなんであんなことしちゃったんだろう」
「なぜいつもこうなんだ」
「こうすればよかった、ああすればよかった」
あはは、こうやって書いてみると恥ずかしいね。
心の中でこの手の会話をしているときは、幸せな気持ちじゃない時です。
だって心から幸せを感じている時に、だれかを批判したりしないものね。
本当は「いまここ」で100%幸せなんですよ。
本当は僕たちはみんな、あるがままで完璧で、何一つ取り去らなくても、何一つ付け足さなくてもOKなんです。
ところが幸せじゃない心は、むやみやたらに周りを批判するわけです。
ある瞬間にそのことに気づいて、また「いまここ」に戻ってくる、それが僕の日常です。
いま自分が何を考えているのかに「気づく」というのはとても大切なことです。
気づけば他の考えを選べますからね。
ところがうっかりすると、ずっと同じ思考パターンにはまっていたりします。
自動的に考えているので、自分がいま何を考えているのかの自覚がないわけです。
せめて今日一日は、誰かを責めたり自分を責めたりするのを、いっさいやめて生きてみましょう。
誰かがあなたに人の悪口や批判めいたことを話しかけてきたら、聞き流しましょう。
せめて今日一日は幸せな気持ちで過ごしましょう。
それができたら完璧です。
だって、いつも「今日」なのだから。
今日もいい日でありますように。
ブログ版「いまここ塾」
これからもよろしくお願いします。
30日の母家最後のライブ
残り席が少なくなってきました。
Posted by Toshiro Abe at
08:38
│Comments(5)
2008年05月20日
いまここ塾
まだブログという存在を知らなかったころ、自分の中に湧き出してくるイメージを言葉で伝えたくて、毎週火曜日の夜に始めたのが「いまここ塾」です。
4年前の11月のことでした。
何を話すか決めている日はほとんどないのですが、いったん始まると堰を切ったように言葉があふれだしてきます。
その場に来てくれた人との連帯感のようなものがあり、そのつながりが言葉を生み出しているような気がします。
伝説の動物で、身体は一つなのに、多くの頭を持った竜がいますよね。
その頭の一つが僕で、他の頭が聞いてくれる人で、でも言葉の出所は共有しているひとつの体という感覚です。
すると思わぬ言葉が飛び出して、それは僕自身も初めて聞く言い回しで、なるほどこういう言い方はわかりやすいななんて、自分が喋りながらその言葉に感心する時もあります。
一番調子がいい時は、しゃべっている自分が中空の竹のようになって、その空洞に音楽が奏でられるようにメッセージが流れるときです。
ちょっと大げさな言い方ですが、その時は一種のチャネリング状態だと思います。
その瞬間が気持ちよくて、きっと聞いてくれる人も同じで、毎週のように来てくれる人たちは、その瞬間が好きなのかもしれませんね。
「いまここ」という言葉には全てが含まれていて、あらゆる真実は「いまここ」にあると思っています。
これからもいろんな言い方で、話をしていけたらと思います。
その「いまここ塾」が150回を迎えます。
今夜は150回記念です。
始まる前に椅子を並べてくれる人、受付をしてくれる人、看板を出してくれる人、駐車場の整理をしてくれる人、そして何より毎回入れ替わり立ち替わり足を運んでくれる多くのみなさんのおかげで、ここまで続けてくることができました。
心より感謝いたしますm(_ _)m
これからもライフワークとして、この活動を続けていきます。
ありがとうございました。
今日を境にして、このブログの名称も「いまここ塾」に変更します。
ブログは自空間を超えてメッセージを発信できるので、こちらももうひとつのライフワーク「いまここ塾」として続けていきたいと考えています。
これからもよろしくお願いします。
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6月6日は「いまここ塾」in宮古 Vo,3
7月6日は東京秋葉原で、ライブコンサートWithミニ講演会です
Posted by Toshiro Abe at
11:06
│Comments(7)
2008年05月19日
前世の話 2
今日も前世ネタから入ってみます。
しかも、いつもとは正反対の話です
僕自身は自分から進んで前世を見てもらったことはありませんが、いきなり先方から告げられたことがあります。
昔、セミナー会社でトレーナーをしていた時のことです。
セミナーの質を上げていくにはトレーナー自身が成長していくのが大切ということで、トレーナーのための専門的セッションが何度か行われました。
ビジョン心理学で有名なチャック・スペサーノ博士や、ネイティヴアメリカン(インディアン)のシャーマンのジェニー・デイビス女史が先生でした。
お二人ともに、とても深い知識と直観力を持った方達でした。
ジェニーさんと会った時、彼女の友人の歌手スーザン・オズボーンさん(映画ガイアシンフォニーで日本の童謡を歌っている人)の歌を、智子さんのスタジオでレコーディングしていて、ちょっとした縁を感じました。
そのジェニーさんと会った最初の日のことですが、いきなり彼女が涙を流して、
「私はあなたのファンでした。いつもあなたの講演を一番前の席で見ていたのです」
と言ったのです。
「あなたは毎週のように講演をしてくれて、多くの人が集まっていました」
「あなたは私の大切なマスターでした」
その瞬間、頭の中でフラッシュバックのようなことが起こり、エジプトの広場で多くの人の前で喋っている男の姿が浮かびました。
(僕が勝手に描いた映像で、彼女がエジプトと言ったわけではありません)
きっと彼女の言葉は、何かの比喩だったと思います。
もちろん今でも僕は、その言葉を心から信じているわけではありません。
その理由は前回書いたとおりです。
でも正直に言いますが、その一言は僕の人生に大きな影響を与えました。
トレーナーとして独立する決心を持つことができたのです。
僕にとっては、前世が王様だったとか貴族だったとか言ってもらうよりも、精神的な教師だったと言ってもらうほうが嬉しかったので、進路を迷っていた僕を見抜いて彼女が援助してくれたのではないかと思っています。
したがって伝える側がクライアントの心理状態や迷いなどを見抜くことができ、その力づけとなるような方向で前世ネタを使うのは、時として功を奏する場合があると思います。
前回、沖縄在住の精神科医のことを書きましたが、その人に助けられたというメールをいただき、一方的な立場から書いたことを申し訳なく思いました。
そこで今日の記事を書こうと思ったわけです。
そのジェニーさんが開催していたヒーリングセッションの中に、マスクセミナーという「死と再生の儀式」がありました。
ベルソトンという、石膏をまぶした包帯のような生地を使って、生きながらにしてデスマスクを作っていくのです。
意外に簡単にマスクを作ることができるのですが、その自分の顔と対面するのは感動的です。
というのも、僕らは自分の顔を、鏡や写真やビデオ映像でしか見たことがなく、それらはすべて2次元の映像だからです。
マスクは立体的なので、そのインパクトは全然違います。
まるで自分が目の前に現れた感じです。
その顔には、さっきまでの自分の過去の全てが含まれています。
今までの人生での、喜び、悲しみ、怒り、苦しみ・・・
その人なりに(自分なりに)一生懸命に生きてきたすべてが、顔に刻まれています。
それまでは自分を嫌っていた人や、自分を責めてばかりいた人も、自分を第三者のように見ることで、その人(自分)のプラスもマイナスも受け入れ、優しい気持ちを持つことができるのです。
多くの人は、自分の顔をじっと見つめながら、「お疲れ様」と優しい言葉をかけてあげるようです。
中には感極まって泣き出す人もいます。
さて僕もそのセッションが好きで、ワークの中で取り入れることがあります。
実はそのようなセッションを開くにはジェニーさんのもとで長く学びながら、認可してもらうことが必要なようなのですが、僕はちゃっかり早くから自分のものにしています。
だって僕は、前世で彼女のマスターだったんですから(笑)
あれから17年もの歳月が流れました。
すでに数千人の人たちにセミナーを提供し、いま現在は毎週講演会を開いています。
南の海に面した、素晴らしいホームグラウンド(セミナー施設)も建設されることになりました。
信じた道をただひたすらに進むことの幸せを感じています。
これからもこの道を歩き続けると思います。
時代が変わり、多くの人たちが心や魂を学ぶことの大切さを理解してくれるようになりました。
さらに時代が大きく変わっていく予感を持っています。
今日もここに来てくれてありがというございました。
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しかも、いつもとは正反対の話です
僕自身は自分から進んで前世を見てもらったことはありませんが、いきなり先方から告げられたことがあります。
昔、セミナー会社でトレーナーをしていた時のことです。
セミナーの質を上げていくにはトレーナー自身が成長していくのが大切ということで、トレーナーのための専門的セッションが何度か行われました。
ビジョン心理学で有名なチャック・スペサーノ博士や、ネイティヴアメリカン(インディアン)のシャーマンのジェニー・デイビス女史が先生でした。
お二人ともに、とても深い知識と直観力を持った方達でした。
ジェニーさんと会った時、彼女の友人の歌手スーザン・オズボーンさん(映画ガイアシンフォニーで日本の童謡を歌っている人)の歌を、智子さんのスタジオでレコーディングしていて、ちょっとした縁を感じました。
そのジェニーさんと会った最初の日のことですが、いきなり彼女が涙を流して、
「私はあなたのファンでした。いつもあなたの講演を一番前の席で見ていたのです」
と言ったのです。
「あなたは毎週のように講演をしてくれて、多くの人が集まっていました」
「あなたは私の大切なマスターでした」
その瞬間、頭の中でフラッシュバックのようなことが起こり、エジプトの広場で多くの人の前で喋っている男の姿が浮かびました。
(僕が勝手に描いた映像で、彼女がエジプトと言ったわけではありません)
きっと彼女の言葉は、何かの比喩だったと思います。
もちろん今でも僕は、その言葉を心から信じているわけではありません。
その理由は前回書いたとおりです。
でも正直に言いますが、その一言は僕の人生に大きな影響を与えました。
トレーナーとして独立する決心を持つことができたのです。
僕にとっては、前世が王様だったとか貴族だったとか言ってもらうよりも、精神的な教師だったと言ってもらうほうが嬉しかったので、進路を迷っていた僕を見抜いて彼女が援助してくれたのではないかと思っています。
したがって伝える側がクライアントの心理状態や迷いなどを見抜くことができ、その力づけとなるような方向で前世ネタを使うのは、時として功を奏する場合があると思います。
前回、沖縄在住の精神科医のことを書きましたが、その人に助けられたというメールをいただき、一方的な立場から書いたことを申し訳なく思いました。
そこで今日の記事を書こうと思ったわけです。
そのジェニーさんが開催していたヒーリングセッションの中に、マスクセミナーという「死と再生の儀式」がありました。
ベルソトンという、石膏をまぶした包帯のような生地を使って、生きながらにしてデスマスクを作っていくのです。
意外に簡単にマスクを作ることができるのですが、その自分の顔と対面するのは感動的です。
というのも、僕らは自分の顔を、鏡や写真やビデオ映像でしか見たことがなく、それらはすべて2次元の映像だからです。
マスクは立体的なので、そのインパクトは全然違います。
まるで自分が目の前に現れた感じです。
その顔には、さっきまでの自分の過去の全てが含まれています。
今までの人生での、喜び、悲しみ、怒り、苦しみ・・・
その人なりに(自分なりに)一生懸命に生きてきたすべてが、顔に刻まれています。
それまでは自分を嫌っていた人や、自分を責めてばかりいた人も、自分を第三者のように見ることで、その人(自分)のプラスもマイナスも受け入れ、優しい気持ちを持つことができるのです。
多くの人は、自分の顔をじっと見つめながら、「お疲れ様」と優しい言葉をかけてあげるようです。
中には感極まって泣き出す人もいます。
さて僕もそのセッションが好きで、ワークの中で取り入れることがあります。
実はそのようなセッションを開くにはジェニーさんのもとで長く学びながら、認可してもらうことが必要なようなのですが、僕はちゃっかり早くから自分のものにしています。
だって僕は、前世で彼女のマスターだったんですから(笑)
あれから17年もの歳月が流れました。
すでに数千人の人たちにセミナーを提供し、いま現在は毎週講演会を開いています。
南の海に面した、素晴らしいホームグラウンド(セミナー施設)も建設されることになりました。
信じた道をただひたすらに進むことの幸せを感じています。
これからもこの道を歩き続けると思います。
時代が変わり、多くの人たちが心や魂を学ぶことの大切さを理解してくれるようになりました。
さらに時代が大きく変わっていく予感を持っています。
今日もここに来てくれてありがというございました。
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08:43
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2008年05月18日
ストレスについて
今日も気分爽快です
開けた窓からは清々しい風が入ってきます。
昔はやけに高収入のころもありましたが、幸せな気持ちは今のほうが圧倒的に多くあります。
あの頃と比べると、ストレスがほとんどなくなったからだと思います。
今住んでいる沖縄の気候風土もあるでしょうが、やはり瞑想習慣が功を奏していると思います。
ストレスは想像以上に心身に悪影響を与えていて、幸せな気持ちを奪っているようです。
今日はストレスについて書いてみます。
現代はストレス社会と言われます。
仕事が忙しいとか、先行き不安とか、置かれている環境が厳しくなっていることもあるでしょう。
あるいは他者のストレスをまともに受けてしまったり、意地悪されたり、自分が軽く見られたりといった対人関係の悩みもあるかと思います。
程度にもよりますが、仕事が忙しいということ自体はストレスと関係ありません。
寝る間も惜しむ売れっ子芸能人などは、むしろイキイキと仕事に励んでいたりします。
抱えている仕事をどう処理していいかわからなかったり、時間に追われていたりいるとストレスになるようです。
先行き不安のように、自分の力だけではどうしようもないと感じる時もストレスに直結します。
不安な現実と自分の心が密着状態で、寝ても覚めても気持ちが安らがない状態だと思います。
ストレスの多くは、このように精神的な混乱が引き起こしているように思います。
大昔の人のストレスは肉体的なことが原因だったそうです。
しかもストレスが必要だったのです。
狩猟時代は猛獣と戦い、身を守るためために筋肉にエネルギーを送らなければなりません。
そのためにエネルギー源のブドウ糖を多く放出しようとして、心臓の拍動が早まるのだそうです。
さらにそのブドウ糖を燃焼させるために呼吸が早まります。
だから僕たちが驚いた時や、急激なストレス状態になった時は、心臓の拍動が速くなり、呼吸が荒くなるのです。
さらには危険と隣り合わせだった時代を生き延びるためには、緊急時に出血を早く止める必要があり、その効果はアドレナリンが担っているために、ストレス状態ではアドレナリンが放出され、血を固めようとします。
ストレスは、大昔の人にとっては身体を守るために必要でしたが、現代のわれわれは心理的なストレスを引き起こしやすく、それは百害あって一利なしの作用になっています。
ストレスは心臓や血液に大きな影響を与え、現代人にとっては、動脈硬化、脳梗塞、心筋梗塞、糖尿病という深刻な病気につながっています。
また脳への影響も大きく、脳細胞が死滅したり、脳が委縮したりするので、認知症の大きな原因となっているのだそうです。
いかにストレスを持たないで生きていくか、それは現代人に必要な大切な知恵です。
最初に書いたように、そのためには瞑想(坐禅)が一番だと思います。
坐禅は血圧や血糖値を下げる効果があることが医学的にも実証されています。
さらには坐禅をとおして明るい気持ちを持つことで、心が安定し、外側の出来事に右往左往しなくなります。
幸せな気持ちが持てるようになると、病気とも無縁になります。
こんなにいいことばかりでしかもタダ!
僕は自分を振り返ってみて、この習慣を持つようになって本当によかったと実感しています。
坐禅のやりかたについては、向和尚のブログに詳しく載っていますから参考にしてください。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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開けた窓からは清々しい風が入ってきます。
昔はやけに高収入のころもありましたが、幸せな気持ちは今のほうが圧倒的に多くあります。
あの頃と比べると、ストレスがほとんどなくなったからだと思います。
今住んでいる沖縄の気候風土もあるでしょうが、やはり瞑想習慣が功を奏していると思います。
ストレスは想像以上に心身に悪影響を与えていて、幸せな気持ちを奪っているようです。
今日はストレスについて書いてみます。
現代はストレス社会と言われます。
仕事が忙しいとか、先行き不安とか、置かれている環境が厳しくなっていることもあるでしょう。
あるいは他者のストレスをまともに受けてしまったり、意地悪されたり、自分が軽く見られたりといった対人関係の悩みもあるかと思います。
程度にもよりますが、仕事が忙しいということ自体はストレスと関係ありません。
寝る間も惜しむ売れっ子芸能人などは、むしろイキイキと仕事に励んでいたりします。
抱えている仕事をどう処理していいかわからなかったり、時間に追われていたりいるとストレスになるようです。
先行き不安のように、自分の力だけではどうしようもないと感じる時もストレスに直結します。
不安な現実と自分の心が密着状態で、寝ても覚めても気持ちが安らがない状態だと思います。
ストレスの多くは、このように精神的な混乱が引き起こしているように思います。
大昔の人のストレスは肉体的なことが原因だったそうです。
しかもストレスが必要だったのです。
狩猟時代は猛獣と戦い、身を守るためために筋肉にエネルギーを送らなければなりません。
そのためにエネルギー源のブドウ糖を多く放出しようとして、心臓の拍動が早まるのだそうです。
さらにそのブドウ糖を燃焼させるために呼吸が早まります。
だから僕たちが驚いた時や、急激なストレス状態になった時は、心臓の拍動が速くなり、呼吸が荒くなるのです。
さらには危険と隣り合わせだった時代を生き延びるためには、緊急時に出血を早く止める必要があり、その効果はアドレナリンが担っているために、ストレス状態ではアドレナリンが放出され、血を固めようとします。
ストレスは、大昔の人にとっては身体を守るために必要でしたが、現代のわれわれは心理的なストレスを引き起こしやすく、それは百害あって一利なしの作用になっています。
ストレスは心臓や血液に大きな影響を与え、現代人にとっては、動脈硬化、脳梗塞、心筋梗塞、糖尿病という深刻な病気につながっています。
また脳への影響も大きく、脳細胞が死滅したり、脳が委縮したりするので、認知症の大きな原因となっているのだそうです。
いかにストレスを持たないで生きていくか、それは現代人に必要な大切な知恵です。
最初に書いたように、そのためには瞑想(坐禅)が一番だと思います。
坐禅は血圧や血糖値を下げる効果があることが医学的にも実証されています。
さらには坐禅をとおして明るい気持ちを持つことで、心が安定し、外側の出来事に右往左往しなくなります。
幸せな気持ちが持てるようになると、病気とも無縁になります。
こんなにいいことばかりでしかもタダ!
僕は自分を振り返ってみて、この習慣を持つようになって本当によかったと実感しています。
坐禅のやりかたについては、向和尚のブログに詳しく載っていますから参考にしてください。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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10:27
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2008年05月17日
奇跡の旅の途中で
昨日は前世について否定的な立場から意見を書きましたが、だからといって合理的に説明がつくことだけが真実だとも思っていません。
この世には説明のつかない不思議な事が、あまりにも多いからです。
偶然の一致とかシンクロニシティーとか呼ばれる現象も、身の周りに多発していますし、それらすべてを「たまたま偶然だ」とは言い切れません。
何も苦労せずに事が成就していくときがあります。
あれよあれよという間に、素晴らしい現実が展開し、その一つ一つが紙一重のタイミンなのですが、見事な組み合わせで運命が成就していくことがあります。
いまこうして沖縄に暮らしていることも、ほんのわずかな偶然の積み重ねの結果です。
反対に、どうあがいてもうまくいかないこともあります。
数年前、とある仕事のプロジェクトがあり、僕も参加したくてあれこれと策を練ったのですが、何をしてもそこからはじき飛ばされてしまうのです。
成ることは成り、成らないことは成らないというのが実感です。
そのような現象を、縁があったとかなかったとか言いますが、確かにそういうことはあると思います。
人との出会いも同じで、この人とは出会うべくして出会ったと言いたくなるような、それこそ前世からの因縁を感じるような出会いもあります。
たとえば僕の妻も、結婚してみたら、お互いが親せき同士でした。
そのことは裏ブログに「120万分の1の確率」というタイトルで書きました。
この世には何一つ偶然はないと思います。
であれば、この必然を作り出している大いなる計画書が存在することになります。
(実は内心ひそかに、その計画書は実在すると確信しています)
現象界を超えた深い気づきに包まれたとき、こう感じました。
「なーんだ、全ては決まっていたのか」
それは疑いようのないリアルな感覚でした。
またその一方で、僕たちの意思と選択次第で、現実はいかようにも変えていけるというのも、これまた真実です。
この2つの矛盾する真実が、同時に起きているのが宇宙の神秘なのだと思います。
そう思うと、何ひとつ言いきることができなくなってしまいます。
あまりにも凄い神秘の世界に、僕たちは生かされているんですね。
あなたとの出会いに感謝します。
65億人の中からこうして出会えたのも、何かの縁だと思います。
「何が起きても大丈夫」
そんな励ましあいをしながら、一緒に旅を続けていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
ポチッ、ポチッと、よろしくお願いします。
PS
今日のライブはおかげさまで満席です。
当日券はありませんのでご注意ください。
この世には説明のつかない不思議な事が、あまりにも多いからです。
偶然の一致とかシンクロニシティーとか呼ばれる現象も、身の周りに多発していますし、それらすべてを「たまたま偶然だ」とは言い切れません。
何も苦労せずに事が成就していくときがあります。
あれよあれよという間に、素晴らしい現実が展開し、その一つ一つが紙一重のタイミンなのですが、見事な組み合わせで運命が成就していくことがあります。
いまこうして沖縄に暮らしていることも、ほんのわずかな偶然の積み重ねの結果です。
反対に、どうあがいてもうまくいかないこともあります。
数年前、とある仕事のプロジェクトがあり、僕も参加したくてあれこれと策を練ったのですが、何をしてもそこからはじき飛ばされてしまうのです。
成ることは成り、成らないことは成らないというのが実感です。
そのような現象を、縁があったとかなかったとか言いますが、確かにそういうことはあると思います。
人との出会いも同じで、この人とは出会うべくして出会ったと言いたくなるような、それこそ前世からの因縁を感じるような出会いもあります。
たとえば僕の妻も、結婚してみたら、お互いが親せき同士でした。
そのことは裏ブログに「120万分の1の確率」というタイトルで書きました。
この世には何一つ偶然はないと思います。
であれば、この必然を作り出している大いなる計画書が存在することになります。
(実は内心ひそかに、その計画書は実在すると確信しています)
現象界を超えた深い気づきに包まれたとき、こう感じました。
「なーんだ、全ては決まっていたのか」
それは疑いようのないリアルな感覚でした。
またその一方で、僕たちの意思と選択次第で、現実はいかようにも変えていけるというのも、これまた真実です。
この2つの矛盾する真実が、同時に起きているのが宇宙の神秘なのだと思います。
そう思うと、何ひとつ言いきることができなくなってしまいます。
あまりにも凄い神秘の世界に、僕たちは生かされているんですね。
あなたとの出会いに感謝します。
65億人の中からこうして出会えたのも、何かの縁だと思います。
「何が起きても大丈夫」
そんな励ましあいをしながら、一緒に旅を続けていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
ポチッ、ポチッと、よろしくお願いします。
PS
今日のライブはおかげさまで満席です。
当日券はありませんのでご注意ください。
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10:30
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2008年05月16日
前世の話
昨日頂いたコメントへのレスです。
長くなるのでこちらに書かせてもらいます。
前世のことで、できたら教えていただきたいのですが…。
過去世のことが分かる、という人が時々いますよね。
そういう人に一度みてもらったことがあります。
私は、過去のあるときにも今の夫と結婚していて、最初の子どもを妊娠中に、夫の母親(これも今世の姑と同一人物)に嫉妬のため首を絞めて殺されてしまったんだそうです。
だから、今世では(カルマ解消のために?)離婚した方がいい、と言われました。
確かに、夫との関係にすっきりしない感じはずっとあって、子どもも作っていません。
だから、そういう人の話を聞いてみようと思ったのですが、いざ話を聞いてみると、信じたくないと思いつつも、やはり心のどこかで気になります。
でも、カルマ解消のためなら、逆に今世ではこの夫婦生活を幸せにやり切る、というのもありではないか?とも考えたり。
過去世の話をどう消化したらいいのか、困っています。
僕の考えがすべて正しいとは思いませんが、僕なりの考えを述べてみます。
確かに僕たちの魂は不滅なので、前世があるといえばありますが、それは一般に思われているような形ではありません。
それだけは僕自身の内的体験(超越体験のようなもの)から、はっきり言うことができます。
前世と今生において、あなたの中に連続しているものは何一つありません。
それどころか、今生においてさえ、あなたの中に連続しているものはないのです。
あなたという存在は、常に刹那的なその場限りの体験です。
連続した「自己」は、時間という観念が作り出す幻想なのです。
したがって、「自己」も「人生」も夢のようなものです。
さて、あなたはなぜ、自分が忘れてしまった自分の夢を、他の人に教えてもらおうとするのでしょうか。
あなたの夢をあなたの代わりに見れるというその人は、どんな人なのでしょう。
たとえばあなたが昨日見た夢を覚えていたとして、その夢をピタリと言い当てる第三者がいると思いますか。
もしそんな人がひとりでもいたら、人は他人の夢を透視できることになります。
あなたの前世は、あなたが主観的に作り出した前回の人生でのストーリーです。
それはあなたの観念が解釈した、自分本位のストーリーです。
それはまさに、夢のようなものです。
ちょっと意地悪な言い方になりますが、あなたの前世を言い当てたという人は、あなたが昨日見た夢を正確に言い当てることができるでしょうか。
あるいは、前世が見えると言うなら、あなたのここまでの半生もわかることでしょう。
前世よりも近い分だけ、より正確にわかるのではないでしょうか。
ここまでの半生ならあなたにも記憶があるので、当たっているかどうかわかりますよね。
同様に、もし自分の前世を覚えている人がいたとしたら、ぜひ前世を教えてくれる人に会って、自分の前世を教えてもらって下さい。
もし話が100%一致していたとしたら、僕も認めます。
でも残念ながら、そのようなことは起きないと思います。
今のあなたを見ての印象から、その人が連想することを伝えている可能性があります。
それは比喩としては面白いですが、それ以上のものではありません。
今あなたが抱えている問題を解決するのに、過去生まで持ち出すとしたら、その過去生の問題はどこまでさかのぼればいいのでしょう。
あなたの夫との関係は、あなたの選択によってどのようにもなります。
その選択の自由は100%あなたにあります。
今あなたは、自分の選択に責任を持つ生き方を学んでいるのだと思います。
以前、前世療法という本がベストセラーになりました。
僕も何度か読みました。
すべてを否定する気はありませんが、一部の人たちに安易な誤解を与えた部分はあったと思います。
余談ですが、実際にあった話を紹介します。
僕の友人が、ある人の紹介で沖縄にいる著名な精神科医と会いました。
その人は本もたくさん出していて、過去生を言い当てるとかで有名な人ですが、会うなり
「おなつかしい、あなたは過去生でも偉大なアーティストでした」
と言ったそうです。
どうやら紹介した人が、最初から彼をアーティストとして紹介していたようなのです。
さらには
「あなたは今生と同じように、素晴らしい絵を描いていました」
と言ったそうです。
その時、彼は絵画の本を小脇に抱えていたのです。
でも彼はアーティストではあっても、音楽家だったのです。
自分の職業が画家ではないことを言いにくくなって、そのまま黙っていたそうです。
その精神科医は、何故彼が今生で画家として成功できたのかを、いろいろと前世の話を交えて教えてくれたそうです。
さすがに料金を払う時には抵抗感があったということです。
人生が夢だと見抜けるくらいの洞察力があれば、前世など持ち出す余地はありません。
さらに高い次元で全体を見ることができれば、過去も未来もなく、すべては「いまここ」で大いなるエネルギーが戯れていることを知るでしょう。
それは日常的な理性ではつかみきれない超現実です。
全ては宇宙(神)の戯れ。
そのことを古代インドではリーラ(Leela)と呼んでいました。
実際に見えている物質世界だけがリアルなものではないということを、多くの人が知る時代になりました。
それはとても素晴らしいことですが、その一方で陥りやすい罠も存在します。
特別な能力や、特別な体験を求めるのではなく、自分のあたりまえさを受け入れていくのが大切だと思います。
わかったような事を言ってしまいましたが、僕はそのように考えています。
何かを受け取ってくれた人は押してください。
PS
7月6日に東京でライブとミニ講演会のイベントをします。
今日から受け付けを開始します。
098-866-5880(母家)
PS2 (プレステ2じゃありません)
裏ブログの「かんながら」でも毎日メッセージを発信しています。
この数日は、「全てはひとつ」というテーマで書いています。
長くなるのでこちらに書かせてもらいます。
前世のことで、できたら教えていただきたいのですが…。
過去世のことが分かる、という人が時々いますよね。
そういう人に一度みてもらったことがあります。
私は、過去のあるときにも今の夫と結婚していて、最初の子どもを妊娠中に、夫の母親(これも今世の姑と同一人物)に嫉妬のため首を絞めて殺されてしまったんだそうです。
だから、今世では(カルマ解消のために?)離婚した方がいい、と言われました。
確かに、夫との関係にすっきりしない感じはずっとあって、子どもも作っていません。
だから、そういう人の話を聞いてみようと思ったのですが、いざ話を聞いてみると、信じたくないと思いつつも、やはり心のどこかで気になります。
でも、カルマ解消のためなら、逆に今世ではこの夫婦生活を幸せにやり切る、というのもありではないか?とも考えたり。
過去世の話をどう消化したらいいのか、困っています。
僕の考えがすべて正しいとは思いませんが、僕なりの考えを述べてみます。
確かに僕たちの魂は不滅なので、前世があるといえばありますが、それは一般に思われているような形ではありません。
それだけは僕自身の内的体験(超越体験のようなもの)から、はっきり言うことができます。
前世と今生において、あなたの中に連続しているものは何一つありません。
それどころか、今生においてさえ、あなたの中に連続しているものはないのです。
あなたという存在は、常に刹那的なその場限りの体験です。
連続した「自己」は、時間という観念が作り出す幻想なのです。
したがって、「自己」も「人生」も夢のようなものです。
さて、あなたはなぜ、自分が忘れてしまった自分の夢を、他の人に教えてもらおうとするのでしょうか。
あなたの夢をあなたの代わりに見れるというその人は、どんな人なのでしょう。
たとえばあなたが昨日見た夢を覚えていたとして、その夢をピタリと言い当てる第三者がいると思いますか。
もしそんな人がひとりでもいたら、人は他人の夢を透視できることになります。
あなたの前世は、あなたが主観的に作り出した前回の人生でのストーリーです。
それはあなたの観念が解釈した、自分本位のストーリーです。
それはまさに、夢のようなものです。
ちょっと意地悪な言い方になりますが、あなたの前世を言い当てたという人は、あなたが昨日見た夢を正確に言い当てることができるでしょうか。
あるいは、前世が見えると言うなら、あなたのここまでの半生もわかることでしょう。
前世よりも近い分だけ、より正確にわかるのではないでしょうか。
ここまでの半生ならあなたにも記憶があるので、当たっているかどうかわかりますよね。
同様に、もし自分の前世を覚えている人がいたとしたら、ぜひ前世を教えてくれる人に会って、自分の前世を教えてもらって下さい。
もし話が100%一致していたとしたら、僕も認めます。
でも残念ながら、そのようなことは起きないと思います。
今のあなたを見ての印象から、その人が連想することを伝えている可能性があります。
それは比喩としては面白いですが、それ以上のものではありません。
今あなたが抱えている問題を解決するのに、過去生まで持ち出すとしたら、その過去生の問題はどこまでさかのぼればいいのでしょう。
あなたの夫との関係は、あなたの選択によってどのようにもなります。
その選択の自由は100%あなたにあります。
今あなたは、自分の選択に責任を持つ生き方を学んでいるのだと思います。
以前、前世療法という本がベストセラーになりました。
僕も何度か読みました。
すべてを否定する気はありませんが、一部の人たちに安易な誤解を与えた部分はあったと思います。
余談ですが、実際にあった話を紹介します。
僕の友人が、ある人の紹介で沖縄にいる著名な精神科医と会いました。
その人は本もたくさん出していて、過去生を言い当てるとかで有名な人ですが、会うなり
「おなつかしい、あなたは過去生でも偉大なアーティストでした」
と言ったそうです。
どうやら紹介した人が、最初から彼をアーティストとして紹介していたようなのです。
さらには
「あなたは今生と同じように、素晴らしい絵を描いていました」
と言ったそうです。
その時、彼は絵画の本を小脇に抱えていたのです。
でも彼はアーティストではあっても、音楽家だったのです。
自分の職業が画家ではないことを言いにくくなって、そのまま黙っていたそうです。
その精神科医は、何故彼が今生で画家として成功できたのかを、いろいろと前世の話を交えて教えてくれたそうです。
さすがに料金を払う時には抵抗感があったということです。
人生が夢だと見抜けるくらいの洞察力があれば、前世など持ち出す余地はありません。
さらに高い次元で全体を見ることができれば、過去も未来もなく、すべては「いまここ」で大いなるエネルギーが戯れていることを知るでしょう。
それは日常的な理性ではつかみきれない超現実です。
全ては宇宙(神)の戯れ。
そのことを古代インドではリーラ(Leela)と呼んでいました。
実際に見えている物質世界だけがリアルなものではないということを、多くの人が知る時代になりました。
それはとても素晴らしいことですが、その一方で陥りやすい罠も存在します。
特別な能力や、特別な体験を求めるのではなく、自分のあたりまえさを受け入れていくのが大切だと思います。
わかったような事を言ってしまいましたが、僕はそのように考えています。
何かを受け取ってくれた人は押してください。
PS
7月6日に東京でライブとミニ講演会のイベントをします。
今日から受け付けを開始します。
098-866-5880(母家)
PS2 (プレステ2じゃありません)
裏ブログの「かんながら」でも毎日メッセージを発信しています。
この数日は、「全てはひとつ」というテーマで書いています。
Posted by Toshiro Abe at
09:08
│Comments(24)
2008年05月15日
目覚め 2
僕たちは、身体と心と魂の三つからできている、三位一体の存在です。
悟るとは、身体と心の束縛から自由になって、純粋な魂そのものになるということです。
魂は時間も空間も超えています。
それはいつも「いま・ここ」にあります。
死ぬのは身体と心だけです。
魂は死ぬこともありません。
それは永遠不滅、不生不滅の存在です。
一休はこんな歌を残しています。
仏法は不生不滅のものなれど
迷えば生死流転とぞ知れ
仏法とは、真理という意味です。
我々の本質は生まれることも死ぬこともないけれど、その真理を忘れて現象界に埋没してしまうと、輪廻転生だとか、因縁因果だとかの道を堂々めぐりすることになるよという意味です。
人生とは、そんな迷いの世界をさ迷っている旅人のようなものです。
重い荷物を背負って、うんしょ、うんしょって、同じ道をぐるぐると回っているわけです。
だからね・・・もう終わりにしましょうよ。
方法は簡単。
ただ目覚めるだけです。
じゃ、どうやって目覚めるのか。
そのための準備として、日々の生活の中でできることをお話しします。
僕たちが、身体と心と魂の三位一体の存在だということは、先ほどお話ししましたね。
そのうちの身体と心のお掃除をするのが、日々の準備です。
まずは身体ですが、なるべくピュアな状態に近づけていくために、煙草やお酒、肉類を減らしていくのがいいと思います。
それから、人工的な薬品がたくさん入っているもの。(たとえばコンビニのおにぎりとか)
あのご飯、なんであんなに白く輝いているんでしょう。
どうして何日たっても食べられるのか、いったいどんな処理がなされているのか・・・
安さや利便性を優先して、身体への配慮を後回しにしているような食べ物を減らしていくのが無難です。
次は情報の選択です。
最も身近なことでは、テレビを見ないことをお勧めします。
殺人物のドラマや、世の中の不幸をひたすら伝えるニュース、低俗な笑いなどなど、精神の成長を妨げるような情報に満ちているのがテレビ番組です。
もちろん中には良心的な番組もあるので、選ぶのはいいと思いますが、どうしてもそのまま点けっ放しにしてしまいがちなので、いっそ見ないようにしたほうがいいと思います。
あとは暴力や戦争もののDVDなども控えましょう。
興奮はしますが、そのたびに低い波動を作り出しているので代償が大きすぎます。
ちなみに僕は新聞も読みません。
情報はたまに聴くラジオとネットだけですが、情報過多にならない分だけ、心身共に絶好調です。
これらは完璧にはできませんが、心がけるだけでも大きな違いが出てくると思います。
そして最後にもう一つ、瞑想の習慣を持つことをお勧めします。
瞑想についてはこのブログでも様々なスタイルを紹介してきましたから、自分に合ったものを取り入れて、一日10分でもいいからやってみましょう。
特に坐禅は、身体の健康にも心の健康にも優れた効果があることが、多くの医学者によって証明され、その手の本もたくさん出版されています。
もしみんなが坐禅の習慣を持てば、国の医療費が激減するとのことです。
食べ物、情報、瞑想習慣。
この3点に気を配ってみましょう。
今僕たちは歴史的にも極めて稀な、変革の時代を生きています。
しかもその変革は、単に社会制度が変わっていくだけでなく、人間の意識が飛躍的に向上するチャンスも孕んでいます。
その波に乗るためにも、自分にできるほんの僅かな心がけを持ってみましょう。
以上、先日の「いまここ塾」でお話したことの抜粋でしたが、このような情報を、いとも簡単に多くの人に発信できることを感謝します
このブログを応援してくれる人は2つのボタンを押してください。
悟るとは、身体と心の束縛から自由になって、純粋な魂そのものになるということです。
魂は時間も空間も超えています。
それはいつも「いま・ここ」にあります。
死ぬのは身体と心だけです。
魂は死ぬこともありません。
それは永遠不滅、不生不滅の存在です。
一休はこんな歌を残しています。
仏法は不生不滅のものなれど
迷えば生死流転とぞ知れ
仏法とは、真理という意味です。
我々の本質は生まれることも死ぬこともないけれど、その真理を忘れて現象界に埋没してしまうと、輪廻転生だとか、因縁因果だとかの道を堂々めぐりすることになるよという意味です。
人生とは、そんな迷いの世界をさ迷っている旅人のようなものです。
重い荷物を背負って、うんしょ、うんしょって、同じ道をぐるぐると回っているわけです。
だからね・・・もう終わりにしましょうよ。
方法は簡単。
ただ目覚めるだけです。
じゃ、どうやって目覚めるのか。
そのための準備として、日々の生活の中でできることをお話しします。
僕たちが、身体と心と魂の三位一体の存在だということは、先ほどお話ししましたね。
そのうちの身体と心のお掃除をするのが、日々の準備です。
まずは身体ですが、なるべくピュアな状態に近づけていくために、煙草やお酒、肉類を減らしていくのがいいと思います。
それから、人工的な薬品がたくさん入っているもの。(たとえばコンビニのおにぎりとか)
あのご飯、なんであんなに白く輝いているんでしょう。
どうして何日たっても食べられるのか、いったいどんな処理がなされているのか・・・
安さや利便性を優先して、身体への配慮を後回しにしているような食べ物を減らしていくのが無難です。
次は情報の選択です。
最も身近なことでは、テレビを見ないことをお勧めします。
殺人物のドラマや、世の中の不幸をひたすら伝えるニュース、低俗な笑いなどなど、精神の成長を妨げるような情報に満ちているのがテレビ番組です。
もちろん中には良心的な番組もあるので、選ぶのはいいと思いますが、どうしてもそのまま点けっ放しにしてしまいがちなので、いっそ見ないようにしたほうがいいと思います。
あとは暴力や戦争もののDVDなども控えましょう。
興奮はしますが、そのたびに低い波動を作り出しているので代償が大きすぎます。
ちなみに僕は新聞も読みません。
情報はたまに聴くラジオとネットだけですが、情報過多にならない分だけ、心身共に絶好調です。
これらは完璧にはできませんが、心がけるだけでも大きな違いが出てくると思います。
そして最後にもう一つ、瞑想の習慣を持つことをお勧めします。
瞑想についてはこのブログでも様々なスタイルを紹介してきましたから、自分に合ったものを取り入れて、一日10分でもいいからやってみましょう。
特に坐禅は、身体の健康にも心の健康にも優れた効果があることが、多くの医学者によって証明され、その手の本もたくさん出版されています。
もしみんなが坐禅の習慣を持てば、国の医療費が激減するとのことです。
食べ物、情報、瞑想習慣。
この3点に気を配ってみましょう。
今僕たちは歴史的にも極めて稀な、変革の時代を生きています。
しかもその変革は、単に社会制度が変わっていくだけでなく、人間の意識が飛躍的に向上するチャンスも孕んでいます。
その波に乗るためにも、自分にできるほんの僅かな心がけを持ってみましょう。
以上、先日の「いまここ塾」でお話したことの抜粋でしたが、このような情報を、いとも簡単に多くの人に発信できることを感謝します
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Posted by Toshiro Abe at
09:03
│Comments(13)
2008年05月14日
目覚め
そうなんですよ。
あいかわらず感情に振り回されたり、低次元の波動を浴びたり与えたりしますが、それが本当の自分じゃないんです。
それは単に、目の前の映像を現実だと思ってしまって、巻き込まれてしまっているだけのこと。
実際に人生とは、自分の心が映し出した映像に、自分本位の反応をしているだけの、一人相撲みたいなもので、それは夢そのものです。
自分の人生が夢だったと気づくのは、大いなる祝福です。
あらゆる重荷(義務・役割・責任)から解放される、歓喜の瞬間です。
この人生が夢だとわかると、前世も前々世も全部夢だったってわかります。
だから前世はあるといえばあるし、ないと言えばない。
そんなものに大した意味はないわけです、夢は夢ですから。
しかも笑っちゃうのは、今回の人生で四苦八苦してやってきたことは、ほとんど前世でも同じようなことをやってきている。
僕たちは同じような夢を繰り返し見ているんです。
もう終わりにしませんか。
終わりにするには、夢から覚めることです。
目覚めるということ、すなわち悟るということです。
「悟る」というと、なんだか凄く偉大なことで、自分なんかとは無縁だと思う人がいますが、実はそうじゃなくて、あまりにも当たり前すぎて見過ごしているだけです。
本当は僕たちみんな悟っているのに、もうちょっと夢を見ていたいものだから、悟りを忘れた振りをして生きているんです。
でも、もうそろそろ終わりにしましょうよ。
さて、それじゃ、どうやって目覚めるかですが・・・
目覚めるという行為は、自分の意志じゃできないんです。
ちょうど眠るということが自分の意志でできないのと似ています。
夜眠るとき、「よし眠るぞ、3・・・2・・・1・・・グー、グー」って眠れるわけじゃなくて、眠りが訪れるのを待つしかないですよね。
自分が眠るという行為をするのではなくて、眠りが自分を乗っ取るわけです。
悟り(目覚め)も同じで、自分がそれを直接できるわけじゃなく、悟りが自分を乗っ取るんです。
いきなり向こうからやってくるんですよ。
僕らにできるのはただ待つだけ。
でも準備して待つことができます。
夜眠る時も、眠りに落ちやすいように準備するでしょ。
部屋を暗くして、居心地のいいベッドに入って、身体を横たえて、目を閉じて、力を抜いて・・・
それと同じです。
それじゃ、悟りが来るのを迎える準備って何があるんでしょう。
実は今日の記事は、昨日の「いまここ塾」でお話した内容の再現です。
来れなかった人のために書きましたが、来た人にとっても復習になったのではないでしょうか。
長くなってしまったので、この続きはまた明日書きますね。
来週の「いまここ塾」は150回記念です。
と言っても、いつもと同じですが(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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あいかわらず感情に振り回されたり、低次元の波動を浴びたり与えたりしますが、それが本当の自分じゃないんです。
それは単に、目の前の映像を現実だと思ってしまって、巻き込まれてしまっているだけのこと。
実際に人生とは、自分の心が映し出した映像に、自分本位の反応をしているだけの、一人相撲みたいなもので、それは夢そのものです。
自分の人生が夢だったと気づくのは、大いなる祝福です。
あらゆる重荷(義務・役割・責任)から解放される、歓喜の瞬間です。
この人生が夢だとわかると、前世も前々世も全部夢だったってわかります。
だから前世はあるといえばあるし、ないと言えばない。
そんなものに大した意味はないわけです、夢は夢ですから。
しかも笑っちゃうのは、今回の人生で四苦八苦してやってきたことは、ほとんど前世でも同じようなことをやってきている。
僕たちは同じような夢を繰り返し見ているんです。
もう終わりにしませんか。
終わりにするには、夢から覚めることです。
目覚めるということ、すなわち悟るということです。
「悟る」というと、なんだか凄く偉大なことで、自分なんかとは無縁だと思う人がいますが、実はそうじゃなくて、あまりにも当たり前すぎて見過ごしているだけです。
本当は僕たちみんな悟っているのに、もうちょっと夢を見ていたいものだから、悟りを忘れた振りをして生きているんです。
でも、もうそろそろ終わりにしましょうよ。
さて、それじゃ、どうやって目覚めるかですが・・・
目覚めるという行為は、自分の意志じゃできないんです。
ちょうど眠るということが自分の意志でできないのと似ています。
夜眠るとき、「よし眠るぞ、3・・・2・・・1・・・グー、グー」って眠れるわけじゃなくて、眠りが訪れるのを待つしかないですよね。
自分が眠るという行為をするのではなくて、眠りが自分を乗っ取るわけです。
悟り(目覚め)も同じで、自分がそれを直接できるわけじゃなく、悟りが自分を乗っ取るんです。
いきなり向こうからやってくるんですよ。
僕らにできるのはただ待つだけ。
でも準備して待つことができます。
夜眠る時も、眠りに落ちやすいように準備するでしょ。
部屋を暗くして、居心地のいいベッドに入って、身体を横たえて、目を閉じて、力を抜いて・・・
それと同じです。
それじゃ、悟りが来るのを迎える準備って何があるんでしょう。
実は今日の記事は、昨日の「いまここ塾」でお話した内容の再現です。
来れなかった人のために書きましたが、来た人にとっても復習になったのではないでしょうか。
長くなってしまったので、この続きはまた明日書きますね。
来週の「いまここ塾」は150回記念です。
と言っても、いつもと同じですが(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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Posted by Toshiro Abe at
09:00
│Comments(13)
2008年05月13日
敏郎クン
僕の中には、目覚めた純粋意識と、オレ!オレ!と叫ぶ「敏郎クン」の二人が住んでいます。
人生の多くを「敏郎クン」として生きてきました。
「敏郎クン」は自分をよく見せようとして、様々な衣装で着飾り、自分の得になりそうなものを引きつけ、損だと思ったら遠ざけ、自分を脅かしそうなものを注意深く見張りながら生きています。
いつも傷口が開いていて、誰かが不用意にそこに触れると「フギャ!」とばかりに大声をあげ、必死で傷口をかばい、触れた相手を非難します。
一番の興味は自分の安全を保障してくれるモノで、反対に少しでも不安材料が出てくると、あーでもいないこーでもないと思考を巡らせて、なんとか最悪の事態を回避しようとします。
そんなふうに思考を巡らせても、100%の安全は見つけられないので、いつも不安や心配が付いてまわり、心の中にはストレスという澱(よどみ)が溜まっています。
いつの間にかそんな不快感が通常になっていて、なんとか爽快な気分になりたいと、あれこれと計画を立てるのですが、たとえそれがうまく運んでも、時間の問題で、またおなじ不快感に覆われている自分を発見します。
もっといい計画を立てて、もっと頑張らなければって、その満たされないゲームは延々と繰り返されていくのです。
ある時、初めて「敏郎クン」ではないもう一人の自分を発見します。
それは「目覚めた純粋意識」です。
それまで無数の問題を抱えていた「敏郎クン」は、ビックリしました。
だって現実は何も変わっていないのに、その現実から問題が消えてしまって、すべてはあるがままにただあるだけだって、そんな安定した気持になったからです。
その「目覚めた純粋意識」で生きるためには瞑想が一番の妙薬だとわかり、それからは新しく生活の中に瞑想習慣を取り入れるようになりました。
ところがいつまでたっても低我の「敏郎クン」は消えることなく、油断するとまたすぐに自己同化してしまいます。
はじめは手を焼きましたが、最近やっと気がつき始めました。
その「敏郎クン」も自分の一部であり、決して無くなることはないし、無くさなくていいんだとわかったんです。
低我は敵じゃなくて、克服すべき課題でもなくて、それも宇宙の一部として存在しているんだって思いました。
ちょうど光に対する影のようなもので、影があるから光が際立つわけで、影は光の敵じゃなかったんです。
それからというもの、「敏郎クン」とも仲良しになって、彼が出てくると、「よっ、また来たな」って、しばらくは彼と遊んで、またお別れする毎日です。
人間の全ての悩み苦しみは低我が作り出しているので、そのことを教えてあげたいなんて、おせっかいな気持ちもあって、こうしてブログなんか書いていたりします。
でも気がつくと「敏郎クン」が書いている日もあり、それも味わいとしては悪くないなって、そんなふうに思っています。
「目覚めた純粋意識」は誰もの中にあって、それこそが存在の本質です。
すべての人はその意識で生かされています。
もし頭の中であーだこーだ堂々めぐりし始めたら、それを全部「目覚めた純粋意識」にお任せしてしまえばいいんです。
放っておけば、収まる所に収まります。
「大丈夫だよ、すべてうまくいくから」って純粋意識が教えてくれます。
あなたにもそのことを伝えておいてほしいと言っています。
さて今日も、「敏郎クン」と戯れるとします。
今日の沖縄は、さわやかな青空が広がっています。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸えて、あー気持ちがいい。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを支持してくれる人は2つのボタンを押して応援して下さい。
母家は今月いっぱいでいったん店じまいします。
またさらにスケールアップしてお目にかかりますが、それまではお別れです。
新しい母家は、宇宙とのつながりを感じられるような、瞑想空間と一体化しています。
楽しみにしていてください。
17日の土曜日は、母家フォークソングナイトの最終回を開きます。
お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。
人生の多くを「敏郎クン」として生きてきました。
「敏郎クン」は自分をよく見せようとして、様々な衣装で着飾り、自分の得になりそうなものを引きつけ、損だと思ったら遠ざけ、自分を脅かしそうなものを注意深く見張りながら生きています。
いつも傷口が開いていて、誰かが不用意にそこに触れると「フギャ!」とばかりに大声をあげ、必死で傷口をかばい、触れた相手を非難します。
一番の興味は自分の安全を保障してくれるモノで、反対に少しでも不安材料が出てくると、あーでもいないこーでもないと思考を巡らせて、なんとか最悪の事態を回避しようとします。
そんなふうに思考を巡らせても、100%の安全は見つけられないので、いつも不安や心配が付いてまわり、心の中にはストレスという澱(よどみ)が溜まっています。
いつの間にかそんな不快感が通常になっていて、なんとか爽快な気分になりたいと、あれこれと計画を立てるのですが、たとえそれがうまく運んでも、時間の問題で、またおなじ不快感に覆われている自分を発見します。
もっといい計画を立てて、もっと頑張らなければって、その満たされないゲームは延々と繰り返されていくのです。
ある時、初めて「敏郎クン」ではないもう一人の自分を発見します。
それは「目覚めた純粋意識」です。
それまで無数の問題を抱えていた「敏郎クン」は、ビックリしました。
だって現実は何も変わっていないのに、その現実から問題が消えてしまって、すべてはあるがままにただあるだけだって、そんな安定した気持になったからです。
その「目覚めた純粋意識」で生きるためには瞑想が一番の妙薬だとわかり、それからは新しく生活の中に瞑想習慣を取り入れるようになりました。
ところがいつまでたっても低我の「敏郎クン」は消えることなく、油断するとまたすぐに自己同化してしまいます。
はじめは手を焼きましたが、最近やっと気がつき始めました。
その「敏郎クン」も自分の一部であり、決して無くなることはないし、無くさなくていいんだとわかったんです。
低我は敵じゃなくて、克服すべき課題でもなくて、それも宇宙の一部として存在しているんだって思いました。
ちょうど光に対する影のようなもので、影があるから光が際立つわけで、影は光の敵じゃなかったんです。
それからというもの、「敏郎クン」とも仲良しになって、彼が出てくると、「よっ、また来たな」って、しばらくは彼と遊んで、またお別れする毎日です。
人間の全ての悩み苦しみは低我が作り出しているので、そのことを教えてあげたいなんて、おせっかいな気持ちもあって、こうしてブログなんか書いていたりします。
でも気がつくと「敏郎クン」が書いている日もあり、それも味わいとしては悪くないなって、そんなふうに思っています。
「目覚めた純粋意識」は誰もの中にあって、それこそが存在の本質です。
すべての人はその意識で生かされています。
もし頭の中であーだこーだ堂々めぐりし始めたら、それを全部「目覚めた純粋意識」にお任せしてしまえばいいんです。
放っておけば、収まる所に収まります。
「大丈夫だよ、すべてうまくいくから」って純粋意識が教えてくれます。
あなたにもそのことを伝えておいてほしいと言っています。
さて今日も、「敏郎クン」と戯れるとします。
今日の沖縄は、さわやかな青空が広がっています。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸えて、あー気持ちがいい。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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母家は今月いっぱいでいったん店じまいします。
またさらにスケールアップしてお目にかかりますが、それまではお別れです。
新しい母家は、宇宙とのつながりを感じられるような、瞑想空間と一体化しています。
楽しみにしていてください。
17日の土曜日は、母家フォークソングナイトの最終回を開きます。
お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。
Posted by Toshiro Abe at
09:27
│Comments(11)
2008年05月12日
かかし
今日は自分のことについて書いてみます。
失望させるかもしれませんが、正直に書かないとブログが飾り物になってしまうので、その時その瞬間に感じていることをありのままに書いてみます。
僕にはいわゆる「夢」がありません。
「どうしても欲しいもの」や「やりたいこと」がないのです。
「自分がこうなりたい」という理想もありません。
毎日、何不自由なく暮らしています。
家族にも仕事にも健康にも恵まれています。
それじゃ、幸せかと言えば、う~ん・・・これが幸せなのかもしれませんね。
正確に言うと不幸じゃないって感じです。
この幸せ感は、ワクワクした躍動感の中で、「あー幸せだな!!」っていう高揚感とは違います。
そんな高揚感もいいですが、遅かれ早かれ反動がくるので、別にそんな高揚感もいらないという気持ちのほうが大きいです。
それでも生きていると、やたらハイな気持ちになる時があります。
それはそれでいい感じです。
ただ積極的にそれを求めていないだけです。
僕は思います。
この世には幸せと不幸せがあるのではなく、不幸せと不幸せではない状態があるのではないかと。
自分の現実を観察してみてそう思います。
本当の幸せとは無条件な幸せのことで、それはこの世のものではなく、僕たちが自己を超えて、宇宙の真実に出会ったときに初めて感じるものだと思います。
それじゃ、いつもその状態にいることを目指せばいいということになりますが、もしいつもそこにいたら、その幸せを幸せと認識できません。
だから、たま~~に感じるくらいがちょうどいいと思っています。
もし神様がいて、何でも望みをかなえてくれると言うなら、人類の精神レベルが上がって、地上から苦しみや争いが無くなればいいと思います。
望みはそれくらいです。
これって成長したからでしょうか、それとも無気力の極みでしょうか。
僕にはわかりませんが、この感覚をどのように評価しようとも、僕は僕であり、それ以上でも以下でもありません。
ある日ある時をきっかけに、急に心が燃えだして、「情熱だ!」なんて叫びながらいきなり行動的になるかもしれません。
それはそれでいいですが、きっとまた冷めると思います。
そんなこんなで、今日も生きています。
アレ?
今気がついたのですが、こうやって自分のありのままを書いていたら、なんとなく喜びが湧いてきました。
無理して「いいこと」を書くより、その時その時の正直な自分をぶつけるのがいいですね。
気分が爽やかです。
いつも生意気なことを言っていますが、僕の実態はこんなものです。
明日になると、また違う自分がいるかもしれませんが、今の自分を正直に書いてみました。
そんな僕の中で一つだけプラスな面があるとしたら、「足るを知る」ということができていることかもしれません。
何も望みがないというのは、今のままで十分すぎるくらい十分だということです。
今日も生かされていることに感謝しています。
これからも肩ひじ張らずに、等身大の自分でブログ生活を続けたいと思います。
今日もここにきてくれてありがとうございました。
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明日は久しぶりの「いまここ塾」です。
けっこうワクワクしていたりして
失望させるかもしれませんが、正直に書かないとブログが飾り物になってしまうので、その時その瞬間に感じていることをありのままに書いてみます。
僕にはいわゆる「夢」がありません。
「どうしても欲しいもの」や「やりたいこと」がないのです。
「自分がこうなりたい」という理想もありません。
毎日、何不自由なく暮らしています。
家族にも仕事にも健康にも恵まれています。
それじゃ、幸せかと言えば、う~ん・・・これが幸せなのかもしれませんね。
正確に言うと不幸じゃないって感じです。
この幸せ感は、ワクワクした躍動感の中で、「あー幸せだな!!」っていう高揚感とは違います。
そんな高揚感もいいですが、遅かれ早かれ反動がくるので、別にそんな高揚感もいらないという気持ちのほうが大きいです。
それでも生きていると、やたらハイな気持ちになる時があります。
それはそれでいい感じです。
ただ積極的にそれを求めていないだけです。
僕は思います。
この世には幸せと不幸せがあるのではなく、不幸せと不幸せではない状態があるのではないかと。
自分の現実を観察してみてそう思います。
本当の幸せとは無条件な幸せのことで、それはこの世のものではなく、僕たちが自己を超えて、宇宙の真実に出会ったときに初めて感じるものだと思います。
それじゃ、いつもその状態にいることを目指せばいいということになりますが、もしいつもそこにいたら、その幸せを幸せと認識できません。
だから、たま~~に感じるくらいがちょうどいいと思っています。
もし神様がいて、何でも望みをかなえてくれると言うなら、人類の精神レベルが上がって、地上から苦しみや争いが無くなればいいと思います。
望みはそれくらいです。
これって成長したからでしょうか、それとも無気力の極みでしょうか。
僕にはわかりませんが、この感覚をどのように評価しようとも、僕は僕であり、それ以上でも以下でもありません。
ある日ある時をきっかけに、急に心が燃えだして、「情熱だ!」なんて叫びながらいきなり行動的になるかもしれません。
それはそれでいいですが、きっとまた冷めると思います。
そんなこんなで、今日も生きています。
アレ?
今気がついたのですが、こうやって自分のありのままを書いていたら、なんとなく喜びが湧いてきました。
無理して「いいこと」を書くより、その時その時の正直な自分をぶつけるのがいいですね。
気分が爽やかです。
いつも生意気なことを言っていますが、僕の実態はこんなものです。
明日になると、また違う自分がいるかもしれませんが、今の自分を正直に書いてみました。
そんな僕の中で一つだけプラスな面があるとしたら、「足るを知る」ということができていることかもしれません。
何も望みがないというのは、今のままで十分すぎるくらい十分だということです。
今日も生かされていることに感謝しています。
これからも肩ひじ張らずに、等身大の自分でブログ生活を続けたいと思います。
今日もここにきてくれてありがとうございました。
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明日は久しぶりの「いまここ塾」です。
けっこうワクワクしていたりして
Posted by Toshiro Abe at
10:28
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