2009年06月30日

独り言

今日もここに来てくれてありがとうございます。

毎朝、何を書こうか考えますが、今日はできるだけ本音で、そのまま書いてみます。


この世の中には嘘が蔓延していると思います。

その嘘は悪意からではなく、しかも無意識にやっていることなので、自分が嘘を生きている自覚もありません。

嘘というよりは、見せかけ、演技、建前、仮面と言ったほうがいいかもしれません。

人はそれなしでは生きられなくなっています。

そしてそれがある限り、決して幸せにはなれません。

それが人間界の実態です。



僕たちはみな、自我を抱えています。

自我というのはとても巧妙ですばしこく、なかなかその正体を見せませんが、自我がある限り、傷ついて心が病んでいることだけは確かです。

それはこの世の99.99%の人たちのことです。


ということは、僕たちから見て完璧そうな人や、幸せそうな人もみんな、実際には傷を抱えて、不健全な心を手なずけながら生きているということです。

でもみんながその傷を巧みに隠し、まるで自分には問題がないかのような顔をしているので、いつまでたっても人間社会は偽善と欺瞞に満ちたまま、いっこうに進化しないのです。

周りの幸せそうな人達を見ると、まるで自分だけが不純で不幸を押し隠しているように感じてしまいますが、そこもみんながハマっている共通点です。


自分にはそんな傷もないし、心も病んでいないと言う人は、単に鈍感なだけか、自己観察がまるで出来ていないかのどちらかです。

それは自我の宿命なので、逃れようがないのです。


これは良いとか悪いとかの話ではないですよ。

単なる事実の指摘です。


痛みや、惨めさや、苦悩や、不安な気持ちを、押し隠しながら生きていることを他人に知られるのが怖くて、ただひたすらに隠し続けるのが人間です。


それを隠し続けるから、決して傷が癒えることがありません。

そうやって多くの人は墓場まで持っていくのです。


結局のところ人生は一連の演技、一連の見せかけで終わってしまいます。

人類の文明が、いつまでたっても野蛮で暴力的なのは、みんなが傷を押し隠しながら、偽善と欺瞞の仮面をつけて生きているからです。



人類には大手術が必要です。

みんなでせーので、いさぎよく自分を開いて、自分の全てを白日のもとに晒すのです。

みんなで嘘をやめて、正直になって、自分の中で腐臭を発している闇を放りだすのです。


その真正さの中で癒しが起こります。

その醜さは、隠しているからこその醜さであり、開いて外に出してみれば、むしろ人を感動させるような力さえ持っています。

それが神の力であり、癒しと呼ばれるエネルギーなのです。



この世は愛と癒しに満ちています。


僕たちさえその気になれば、この世の問題は一気に消えてなくなります。

そして同じ命を生きる仲間として、お互いを労わりあい、与えあい、愛し合って生きることができるのです。



正直であること。

開く勇気を持つこと。


多くの人と、そんな関わりをしていきたいと思っています。




You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one

I hope someday you'll join us

And the world will be as one
  


Posted by Toshiro Abe at 08:25Comments(44)

2009年06月29日

心配について

こうやって毎日ブログを書くことは、すっかり人生の一部になっています。

その結果、同じように感じている人達に出会えることができ、それは何より嬉しいことです。

だって僕は何十年もそんな仲間を探していたのですから。



「帰ってきたT.マンさん」のコメントです。

>思考って心配ってことでもあるよね



そういう言い方って面白いですね。

確かにそうだと思います。


「思考=自我」とも言えますし、自我は自分が全体から分離していると信じているので、いつも自己保身にやっきです。


どうやって将来にわたり自分の安全を保証するか、それが一番の興味になっています。

ところが将来のことは不確定要素に満ちていて、100%知ることはできません。

したがって、心配がつきものになるわけです。


心配しているときは、自分の都合ばかりを考えていますし、そこに愛はなく、それこそが自我の作用だと思います。

それは自分も周囲も幸せにしません。



心配の反対は何でしょうか。

それは安心です。


人はお金や成功や名声など、多くのものを求めていますが、その背後には安心したいという動機があります。

しかしどこまで成功を得ても、いつか失うのではないかという心配は、消えるどころか増すばかりです。


それではどうしたら安心できるのでしょうか。

自分が宇宙から忘れ去られた迷子ではなく、いつも見守られていることを知ることです。

そう思い込もうとすることではなく、事実として自分が片時も忘れ去られたことがなく、ずっと守られ愛されていることを思い出すことなのです。


それが神の体験です。

その時初めて、人生の流れを信頼することができます。


そこから始まるのが随神(かんながら)の道です。

それは神と共に生きることであり、自分の身を神の仕事場として提供することです。

何をするのかではなく、どんな自分がそれをするかが重要なことになります。


僕自身、そのことをよく知っているつもりですが、それでも少し気を抜くと、またすぐに自我の世界に引き込まれてしまいます。

肉体を持っているからでしょうか、自己保身の誘惑は強力なものがあります。


だからこそ、祈りや瞑想の習慣が大切になるのです。

それは、ともすると低い世界に押し流されそうになる意識を、正しい方向に向けていく最低限の努力です。




>思考って心配ってことでもあるよね


そうですよね。

そして僕たちは、思考を、心配を、超えていくこともできるのです。




か・ん・な・が・ら




・・・・・・・・・・・・・・・



明日の「いまここ塾」は、久しぶりの吉の浦会館です。

明後日の「水曜の会」は、那覇市てぃるるです
  


Posted by Toshiro Abe at 08:44Comments(18)

2009年06月28日

蝉しぐれ




滞在している宮古のT&Kのゲストハウスは、たくさんの樹々に覆われています。


一足早い盛夏を迎えたこの地では、早朝から蝉しぐれが響き渡っています。


耳を澄ましていたら久しぶりに子供の頃を思い出しました。

あの頃住んでいた家も樹々に覆われていて、夏休みともなると、同じような蝉の声に包まれていました。


まさに今、目を閉じてあたりに溶け込んでいくと、過ぎ去った長い時間が消え去って、実はあの頃と何も変わらない『いまここ』があるのを感じます。


長い旅をしてずいぶんと遠くまで歩いて来たような気がしているだけで、本当は何処にも行っていないのがわかります。


それはまさに夢の旅です。


気がつけばいつも『いまここ』があるだけ。

いまがどんなに楽しかろうと苦しかろうと、その夢もやがて過ぎ去り、またしても何も変わらない実在に戻って来るのでしょう。

この幻想の旅を「人生」と呼んでいます。



僕達はいつこの夢から目覚めるのでしょうか。

本当はいつ目覚めてもおかしくないのですが、こうして夢を見続けている理由も知っています。


それは、何だかんだといいながら、僕たちが自分の夢(幻想)を手放したくないからです。

たとえそれが、どんな悪夢になっていても、そこにしがみついているのは自分自身なのです。



人間とは本当に不思議な生き物です。




今日もここに来てくれてありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:34Comments(15)

2009年06月27日

宮古にて

昨日の沖縄本島は豪雨に見舞われていましたが、宮古島は抜けるような青空とエメラルドグリーンの海が迎えてくれました。

妻とレンタカーを走らせ、島のアチコチを見て回り、瞑想に適した場所を探しながら、夕暮れを待ちました。

そして池間島に繋がる橋の手前に絶好なポイントを見つけました。

波打ち際にはカニ達が忙しそうに歩いていましたが.彼等の邪魔にならないように少し離れた場所に腰掛け、目を閉じて深呼吸をしました。

いつも沖縄に暮らしているというのに、久しぶりに波の音と潮の香りに包まれました。

隣りでは最近すっかり瞑想にハマった妻が、背筋をリンと伸ばし、早くも静寂の世界に入っているようでした。

夕方の五時半とは言え、この季節の沖縄はまだまだ陽が高く、日没までには二時間もありましたが、時折流れる柔らかな風は冷たく身体を包んでくれました。


少し経つといつもとは違う感覚が訪れました。

目の前が赤一色に包まれてしまったのです。
赤と言っても情熱的な挑発的なそれではなく、何とも言えない穏やかで美しい色でした。


そのままずっとその色に包まれ、気が付いたら一時間以上も経っていたのでしょうか、いつの間にか妻は車の中に帰って一人海を眺めていました。


しばし異空間に遊びに出かけたかのような、不思議な気分でした。



さてここでご報告ですが、この瞑想の世界をさらに極めるために、今年の夏に三週間ほどタイのチェンマイに修行に行ってきます。


その話はまた改めてさせて下さい。


今日もいい日でありますように。

  


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2009年06月26日

もっと他愛のない話

えーっと、家族を紹介します。


まずは、長男が一歳になったころ、新しく我が家の住人になったばかりの二男とのツーショットです。

















その二男が数か月経った頃、三男がやってきました。

















その三男が半年経ったら、長男が抱けないくらい大きくなりました。











ここまでの時間経過、ついてきてます?





我が家は1Fが駐車場で、キッチンもリビングも2Fにあります。

そのキッチンの窓の外の木には、いつも同じ鳥がやってきて、この子たちに声をかけます。

絶対に窓から出られないことを知っているのか、いつも挑発的です(笑)



それをじっと見つめる、手前が五男、奥の左が三男、右が二男。

二男は最近すっかりメタボ症候群です。



















それでは全員の近影です。





一番手前が二男、逆さまになっているのが長男、奥の向かって左から、三男、五男、四男です。

名前は長男から順に、こーちゃん、ももちゃん、たーちゃん、ゆーくん、ちーちゃんです。







ね、みんな仲良しでしょ。



みんな捨てられた子たちなのに、労わりあって暮らしています。


もちろん、自分を捨てた人のことを恨むわけでもありません。



誰のことも非難しません。


だからきっと幸せなんだと思います。





僕たち人間も、みんなで仲良くしましょうねニコニコ





・・・・・・・・・・・・・



今日から宮古島に行ってきます。

この島は神秘にあふれていて大好きです。





今回もスポットを探して瞑想三昧してきます。


明日(27日)の夜に、島でライブします。

詳しくはコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(43)

2009年06月25日

他愛のない話

今日は、なんてことない、当たり前の話です。


最近の僕の趣味は、我が家の五匹のネコ君たちの胸に耳をあてて、心臓の音を聞くことです。

ドクドクドクドク・・・

正確な速いリズムで、ずっと鳴り続けています。

いつ耳をあてても、ドクドクドク・・・



この子たちの中で、鼓動をさせている力は何だろう。

凄いな、休まず動き続けるんだから。



この同じ力が、僕の中で僕を生きています。

この同じ力が、全ての生き物の中で鼓動をし、呼吸を繰り返しています。


それだけではありません。

地球を回転させ、惑星の軌道をつかさどり、大宇宙の秩序を保っているのです。


その力は「ひとつ」のもので、名前を付けるとしたら「愛」でしょうか、「神」でしょうか。


おっと、またスピ系に話が広がりそうなので、戻します。



さてこのネコ君たちですが、この2年半の間に、一匹ずつ保護した迷いネコたちです。

二匹目を拾った時はこのブログでも紹介しましたが、いつの間にか五匹になってしまいました。

偶然みんな男の子で、すごく仲がいいです。


知らない人が見たら、「なんてたくさんのネコがいるんだ」で終わりでしょうが、一緒に暮らしてみると、たくさんのような気がしません。

一匹一匹に個性があって、それぞれが特別だからです。

世界中を探しても、この子たちの代わりはいません。

飼っている人ならわかりますよね。



三匹目は小さな黒ネコで、暗闇の中で、ノミとシラミだらけになってうずくまっていました。


四匹目は、家の近くの大通りを果敢に渡り切った子ネコがいて、このままだと轢かれてしまうと思ったのですが、仕事の時間が迫っていて、どうか親切な人に拾われますようにと祈るような気持ちで仕事に出かけ、帰宅したら家にいました。

どうやら家族の中に親切な人がいたようです。


その次の日に、病に冒されて死にそうな子ネコを見つけ、それが五匹目になりました。


もうこれ以上は限界なので、捨てネコを見つけないことを願うばかりです。


この子たちの心臓の音を聞けば、みんな同じ命だということがわかります。


人間は神と同じ能力をこの地上に駆使できるのですから、いつの日かあらゆる生き物たちが調和とともに生きられるような仕組みを作り出すのではないかと信じています。




そんなこんなで、今日もネコたちの心臓の音を聞いています。


ドクドクドクドク・・・


僕の中でも、あなたの中でも、ドクドクドクドク・・・
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(39)

2009年06月24日

いまのこと

朝起きてすぐに瞑想をします。

一日で最も深く入れるのが早朝です。


ずっとその次元にいたいのですが、朝の日課のブログを書くために、こうして現象界に出てきます。

いまはPCの前に座って、何かを書き記そうとしていますが、この自分は、日中に人と会っているときとは違う自分です。

と言うよりも、自分がいないのです。


首から上が無くなって、空間の全てが自分のような、遠くで聞こえる鳥の鳴き声も自分で、時たま肌をすり抜ける風も自分で、全部自分の何かが振動しているように感じます。

腕も身体も、半透明になっていますが、きっと他人から見たら、何も変わらない僕がいるのだと思います。



現実世界はただあるがままに流れています。

いつもはその世界に、何かの形で干渉している「自分」がいるのですが、この時間はそれが消えています。


全てが、手放しの中で起き続けています。


静かで、平和で、何一つ問題がありません。

きっと「問題を作り出す人」が消えているからでしょう。

自分がいなければ問題も消えます。

自分がいなければ、苦しみもありません。

ただあるがままが、淡々と流れているだけです。



やがて時間とともに、自と他が分裂します。

そしてまた物語が始まっていくのです。


それは自分本位の人生ストーリーです。

「僕」という役割が、鏡の世界に対応し始めます。

生真面目で深刻なゲームの始まりです。


それは時間の中に存在しています。

過去があって未来があるのです。


きっと、時間と自己(自我)は同じものの違う側面なのだと思います。

どちらも実際には存在していませんが、どちらかが現れると、両方が現れます。

それは同じ幻想の裏表です。

コインの裏表のように、どちらか片方では存在できません。


片方が消えれば、両方が消えることになります。


どちらから消していくかは、お好み次第です。




今日もここに来てくれてありがとうございました。


いまこの時に、大いなる祝福が訪れますように。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:10Comments(33)

2009年06月23日

優しい気持ち

いま感じたことを書きます。


結局のところ大切なのは、まさにいま、リラックスして優しい気持を忘れていないことだと思います。

そうすれば、心は素直になっていますし、色々な人たちや出来事をむやみに批判したりしていません。


もしいま、そうではない自分だとしたら、何かがうまくいっていないのですから、そのことに気づいて、立ち止まってみましょう。


そして、深呼吸して体と心の力を抜きます。


起きることが起きています。

それは単なる現象であり、やがてまた過ぎ去っていきます。


あなたはそれを見守る主体です。

どのような現象も主体であるあなたに影響を与えることはできません。

映像はスクリーンに影響を与えることはできないのです。


観照者としての自分に徹してみましょう。

やがてはいまの現実も過ぎ去っていきます。


リラックスして安心することです。


もし脅えている自分がいたとしたら、そっと抱きしめてあげて、大丈夫だからと言ってあげてください。

本当に大丈夫ですから。

あなたは最初の最初から救われていて、一度も見放されたことがありません。

たとえいまの自分をどのように感じていようと、あなたが全体(神)から切り離されて存在することはあり得ないのですから。


理屈でわからなくてもいいんです。

鵜呑みにできたら、それはとても素晴らしいことです。


リラックスして安心することです。


そうやって自分に優しくすれば、優しい気持が甦(よみがえ)ってきます。


自分や周囲を批判しているときは注意信号です。


優しい気持ちが大切です。



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今日から、「8月大阪いまここ塾」の受付を開始します。

8月23日(日)14:00開演です。

参加ご希望の方はコチラまで。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:32Comments(37)

2009年06月22日

死と再生

昨日は、大阪日帰りツアー(?)満喫させてもらいました。

一睡もしないで行ったのに、体調は絶好調でした。

来てくれたみなさん、ありがとうございました。

僕が代表して話をしているというだけで、会場の中には何人も同じ境地に達している人たちを感じました。

特に、最前列でご覧になっていた方のエネルギーが印象的で、後でお話をうかがってみると、癌を患って死に直面されたそうで、やはりそのような経験は人生に対する理解を飛躍的に深めると思いました。

ありがとうございました。


究極的には、いかに生きながらにして死ぬかだと思います。

すっかり同化してしまった「自己」が死んで消えた時、本当の自分に出会います。

それは生死を超えた永遠の存在です。


その存在と出会うことを悟りと言いますが、悟りはそれまでの自己が消えた時に起こります。

したがって悟りを経験する人はいません。

それが「私は悟った」と言えない所以です。


我々は、自己が思考を使って作りだした狭い世界に生きています。

それは限界だらけで、自分を不自由に拘束し、多くの可能性を閉ざし、まるで監禁状態です。

あれはだめだ、これはだめだと、自らを見えない鎖でがんじがらめにしています。


いかにしてその鎖を外すか、牢獄を壊して飛び出すか、それが人生で取り組む最も重要なことです。


牢獄が壊れるとき、それまで自分だと思っていた存在証明(アイデンティティ)が一緒に消え去ります。

自分が跡形もなく消え去るのです。

まるで「死」のようです。

それが生きながらにして死ぬという意味です。


全ての過去が霧のように消え失せます。

そして、過去とは何の関係もない、まったく新しいものが顔を出します。

ずっと心の奥に隠れていた、本当の自分です。


その時、いままで自分だと信じていたものや、現実だと思っていた全てが、ただの思い込みであったことに気づきます。

いかに自分が夢の中で生きていたのか、そして苦しんでいたのか。


多くの人がその幻想の中で生涯を終えてしまうのは、まことに残念なことです。



僕たちは真実の痕跡を捕まえました。

そして果敢にも前に進もうとしています。

それは人生最大の、人生最後の冒険となることでしょう。


そのための第一歩は、いまの自分がすっかり夢の中に巻き込まれていることを知ることです。



昨日、自分の苦しみとどのように対峙したらいいか質問をしてくれた方。


その苦しみこそが、あなたを夢の世界から目覚めさせるシグナルなのです。



またお会いしましょう。




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明日の「いまここ塾」と明後日の「水曜の会」は、那覇市のてぃるるです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:41Comments(17)

2009年06月21日

棚上げの術

今日はストレス溜め込まない講座です。


ストレスの多くは、堂々めぐりの思考が原因だったりします。

たとえば誰かから意地悪を言われて傷ついたとしたら・・・


「アイツだけは許せない」


「私は何も悪くない」


「アイツのせいで、こんな不幸な気持ちになった」


「私は幸せになりたい」


「でもなれない。だってあんなこと言われたから」


「なんて無神経なヤツだ」


「アイツだけは許せない」


「私は何も悪くない」


「アイツのせいで・・・」



たいていはこういうネガティブな世界を、牛の反芻みたいに繰り返し考えているのです。


瞑想は、これらのガラクタ思考を消してしまいますが、瞑想が苦手な人には他のやり方があります。

あっけに取られるくらい単純で、しかも効果抜群の方法・・・



それは、棚上げの術です。


何かその種の思考が出てきたら、とりあえず今は考えるのはよそうと決めて、棚の上に乗せてしまいます。

そして心をハッピーモードに切り替えるのです。



たいていはそのまま忘れてしまうのですが、いつの間にか問題自体が消えていたりします。

自分の心が健全になれば、現実の見え方も健全になるので、問題が問題でなくなるのです。


「ま、いいかぁ。アイツも完璧な人間じゃないんだし」



とりあえず、いまだけ試してみませんか。

いまだけ問題は全部棚上げしてしまいましょう。


しかもラッキーなことに、いつも「いま」だったりしますシーサーオス


気持ちのいい休日を過ごしてくださいね。



今日は大阪で講演してきます。


大阪では笑いを取らなければなんて、余計なことを考えてしまいます。


大阪のみなさん、僕は面白くないと思いますので、よろしく。




そもそも僕のギャグは古いそうです。


一番新しいのがコレです。



























ゲッツ!!







とにかく行ってきます。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:38Comments(38)

2009年06月20日

瞑想の大切さ

毎日ここでわかったような事を書いていますが、ほんの少し気を抜くと、「あのころ、もっとこうだったらよかったのに」とか「このままでいいのだろうか」とか、お馴染みの思考パターンに巻き込まれることがあります。

終わったことを反省したり、未来を計画したりすることは生活に役立ちますが、ここで指摘しているのは感情を伴った取りとめのない思考のことです。

若いころは、そのような状態に何カ月も浸っていて、憂鬱な毎日を過ごしていたように思います。

なぜ人は、ありもしない世界を引き合いに出して、わざわざ不幸な気分を味わおうとするのでしょうか。

自我が紡ぎ出す幻想は、「いまここ」の幸せを隠すだけでなく、ストレスを引き起こし、心身を消耗させてしまいます。


そもそも自我自体が幻想なのですが、すっかり自我と自己同化してしまっているので、その状態を見抜くことができません。

見抜こうとしている当人が「自我」なので、結局は何をやっても自我の世界で終始してしまうのです。


自我はこの世を生きるための乗り物であり、道具としては必要なのですが、道具が主人になってしまうと本末転倒です。

そこに苦しみの根本原因があります。

六道輪廻のところで説明したように、苦しみを基盤にした堂々巡りの人生になってしまうのです。



そんな状態から抜け出すのが瞑想です。

瞑想とは、自我を超えた本来の意識に戻ることです。

そこに安らぎがあります。

そしてそこで得た安らぎを、生活の中でいかに持続させるかが、日々の修行なっていきます。


このブログでよく「目覚め」の話をしますが、目覚めを経験しても、それによって全てが終わるわけではなく、そこからまた始まるものがあります。

目覚めとは、いままでの六道輪廻の世界が夢(幻想)だったことに気づくことですが、それでもなお肉体を持って生きている以上、再びその夢の中に引き込まれてしまうのです。

したがって目覚めた後も、瞑想修行は続いていきます。


瞑想というと宗教的な感じがして、特別な人がやることのように思われがちですが、現代は霊性との接触が極端に希薄になっていますので、瞑想習慣は誰にでも必要なことだと思います。


瞑想は心身を健康にし、魂を浄化して内側から美しくなることができます。

そして、目覚めへの、もっとも的確な準備にもなるのです。


とは言うものの、最初は雑念や想念に巻き込まれてしまって、なかなか瞑想にはいることができません。

瞑想状態というよりは妄想状態になってしまうのです。


でもそんな人たちにも、深い瞑想が可能になる簡単なやり方があります。

先月、東京から先生を沖縄にお招きして、瞑想法を有志の皆さんに伝授してもらいました。

妻もその中の一人ですが、この数週間であきらかに変わってきています。

そんな彼女を見て、ますます瞑想の大切さを伝えていこうと思いました。



今日もいい日でありますように。


日々是好日
  


Posted by Toshiro Abe at 08:42Comments(46)

2009年06月19日

アセンションについて Ⅱ

アセンションについての、たくさんのご意見ありがとうございました。

どなたのコメントも抵抗なくすんなり受け取ることができ、なによりみなさんの考えを知ることができて、とてもためになりました。

このような場を設けさせてもらえたことを光栄に思います。

貴重な時間を割いて参加してくれた皆さん、ありがとうございました。



アセンションに対する考えを大きく分ければ、肯定派と否定派と中間派となるのでしょうが、僕はといえば、中間派の極めて肯定寄りといったところでしょうか。

そこには期待も含まれていますが、肯定的に見ている根拠はあります。


それは、自分自身と、その体験です。


僕のようなごく普通の人間が、ある日突然、究極的な宇宙意識と合体したのは、何かの前ぶれのような気がするのです。


もう25年も前のことになりますが、その時予感したとおりに時代は展開してきました。

あの当時は、僕の話に耳を傾けてくれる人など誰もいませんでしたし、流通している書籍の中にも、真実をついたものはごく僅かでした。

いまは身近な人たちも含めて、多くの人たちが関心を持ってくれるようになり、真実を記した本(たとえばニューアースなど)がベストセラーになっています。


時代は大きく変わりました。

そしてこうなることは、ずっと前から知っていました。

なぜ知っていたのか。

それが僕にとって、アセンションが起きているという根拠です。



さてここで、アセンションという言葉の意味を整理しておかなければなりません。

もともとは、キリストの昇天を指す言葉で、これはキリスト教的には、釈迦が悟りを開いたのと同じくらい大きな意味があります。

それをニューエイジが、近未来における集団的覚醒を予見して、同じ名前を付けたのだと思います。


その内容が多岐にわたっているのは、いわゆる末法思想や終末思想が、そこに便乗しているからではないでしょうか。

ノストラダムスの流行がそうでしたが、どうも世の中には崩壊や淘汰というような考えが好きな人がいるのです。


これから起きようとしているのは、素晴らしいことです。

だって、僕自身が素晴らしい体験をして、素晴らしく生まれ変わったのですから。


それは地上の魂が長年にわたって作り出してきた、権威や権力という幻想から自由になることです。

心理的呪縛からの解放です。


それは今までの世界を捨てて、高い次元に移り住むことではありません。

まさに今あるこの世を、神の力(愛の力)を使って創りなおすことなのです。


僕が話しているのはお伽話ではありませんよ。

これを読んでいるあなた自身のことです。


このような情報(ブログ)に惹きつけられたということ自体が、あなたの中で何かが始まったことを意味しています。

やがては自分の無限性に目覚め、本当の自分が永遠の存在であること、常に「いまここ」で存在し続けていることを、宇宙の叡智として知ることになるでしょう。



生意気ですが、アドバイスをさせて下さい。


アセンションという流れが、自分を高めてくれると思わないことです。

それは転んだ幼児が親の助けをじっと待っているのと同じです。


あなたのアセンドには、あなたの意志が必要です。

その意志が全体に影響を与えます。

全体があなたを高めるのではなく、あなたが全体を高めるのです。


個々がそのような意志を持つことが、アセンションを現実のものとする原動力になっていきます。


未来は僕たちの想念が創りだしています。


人類史上初めて、愛による世界建設を多くの人が望み、それを実現するために、一人ひとりが自らを愛に変容させていく、その流れがアセンションだと思っています。


それはあくまでも、個々の内的変化によって起きることなのです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:48Comments(39)

2009年06月18日

アセンションについて

今日は質問があります。


みなさんは、アセンションについて、どのような考えを持っていますか。

何が正解かということではなく、今のあなたが感じている正直な意見を聴かせてください。

みなさんがどういう考えを持っているのか、興味津々です。


よろしくお願いします。  


Posted by Toshiro Abe at 08:28Comments(151)

2009年06月17日

宇宙について

先日の講演会(東京いまここ塾)の、最後の質疑応答で、「宇宙とは何か」という質問がありました。


質疑応答の時間はとても好きです。

その場に心の交流ができることと、僕自身が改めて自分の理解を深めることができるからです。



僕たちは宇宙を知ったつもりでいますが、本当はあまり知りません。

知っているのは科学者たちの仮説と、銀河系などの想像図です。

「宇宙」と言ったときに個々が心の中でイメージするものが、僕たちにとっての宇宙かもしれません。



さて、それでは僕自身は何をイメージするかと言えば、それは「意識」です。


突然にして、自分の中から時間と空間が消え去った時、初めて目にした超リアリティー。

ああ、これが宇宙だったのかと思いました。


普段僕たちは空間としての宇宙を描きますが、空間が消えてしまうと、そこで見るものは「大いなるひとつ」としか呼びようのないものです。

空間が存在するためには、「ここ」と「あそこ」という異なる地点が必要ですが、「ひとつ」しかなければ空間もありません。


その時見たものは、瞬間瞬間、奇跡的なバランスの中で形を変えながら、まるで生き物のようにうねる巨大な光のタペストリーでした。

それは細かな光の集合体で、その一つひとつが個々の命なのですが、それを見ているときの自分は、その中の光の一つではなく、まさにタペストリーそのものなのです。

考えられないくらい美しいその宇宙の中心が、まさに自分の中にある自分の中心と同じものだったことに驚愕しました。


その時、宇宙とは「大いなる意識」であり、それはまぎれもなく自分自身であることを知りました。

同時に、それは自分自身だけではなく、とても不思議なことですが、あらゆる命の中心は、すべて、宇宙の中心と一つだということも知りました。

そこにおいて、「万物は一つ」「個=全体」という意味がはっきりと理解できました。



自分が宇宙と一体化すると言うと、まるで自分という小さな存在が、宇宙という巨大な存在の中に溶けて消えてしまうかのような印象を持ちますが、実際には逆です。


自分の中に宇宙全体が流れ込んでくるような体験です。

それはちょうど、一滴の海水の中に、海全体が流れ込んでくるようなものです。


物理的には、小さな物の中に大きな物が入り込むことはありませんが、非物質のレベル、意識のレベルにおいては、それが可能です。

宇宙の本質は意識であり、そこにおいて意味があるのは、大きさではなく質なのです。

ちょうど、一滴の海水の中には、海の水の成分がすべて含まれているように、僕たちの中には宇宙の成分の全てが内在しているのです。

それが僕たちが「小宇宙」と呼ばれる所以です。



間違ってもあなたは、宇宙から忘れ去られた迷い児ではありません。

この宇宙から切り離された、孤独な存在ではないのです。


それどころか、あなたこそが宇宙そのものです。


それを知るまでは、真の幸福は訪れません。

そして、それを知ることこそが、人生での唯一の目的です。


もう外側を探すのは、やめにしましょう。

そろそろ、内側の探索に踏み出す時です。


そこに、求めていたものが全て待っています。

あらゆる答えが、そしてあらゆる至福が、すでにあなたの中に待機しています。




あなたの内なる宇宙が発見されますように。



今朝はなぜか、壮大な話になってしまいましたね(^o^)



今日もいい日でありますように。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:20Comments(38)

2009年06月16日

無償の愛

先日、「いまここ塾」で上京したおりに、久しぶりに年老いた母と二人で過ごしましたが、少し腰が曲がり始めた不自由な体で、僕のために少しでもおいしいお茶を入れようとしている母を見て、ずっと無償の愛によって育まれてきたことを改めて感じ、涙が出てきました。


人間は満足できなかったことに焦点が当たるようにできていますが、その背後には数えきれないほどの多くの愛が、自分を生かしてきてくれたのだと思いました。


いまもどれくらい見えない愛と力によって生かされているのか、いつもそれを忘れずに生きていけるような自分でありたいと思っています。



今日もここに来てくれて、ありがとうございました。



・・・・・・・・・・・・



8月の「東京いまここ塾」の受け付けは終了しました。

たくさんのお申し込みありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(39)

2009年06月15日

レス

昨日は「東京いまここ塾」に来てくれてありがとうございました。

この人たちは僕の話を聞きに集まってくれたんだと思ったら、お別れするのがもったいなくなってしまって、結局3時間お付き合いしてもらいました。

お疲れさまでした(笑)




さて昨日の記事にいただいたコメントです。


私には不当な物事を押しつけられた時や他人からのいじめに対して、泣き寝入りしたくない、という強い気持ちがあります。
この泣き寝入りしたくない、というのは1つの欲求だと思います。
でも欲求に対して執着心を持つべきでないでない、のですよね。
有名人になりたい、とか一般的な望みについて執着心を持たない、というのはよくわかります。
でも今の私には、いじめや、不当な物事を押しつけに対して執着心を無くし、それでいいやと思えないです。
でもやはりこのような事柄に対しても執着心を持つべきでないのでしょうか?


Posted by ボルボックス



このような疑問は、精神世界を学び始めると必ず一度は出てきます。

本来、精神の道とは、自分をより自由にさせていくものですが、何かの信条を抱えて生きることに慣れてしまった人は、ここでもまた新しい信条を抱えてしまうのです。


何一つ、「こうするべきだ」というような決まりを作らないことです。

言葉は固定されていますが、現実は生きて変化し続けているからです。


あらゆる状況において適切に作用する魔法の言葉などありません。

事実は、まさにケースバイケースです。



したがって、「~すべきだ」というような、「べきだ」を持ってはいけません。

このように言うと、「べきだを持たないべきだ」となりがちですが(笑)



もし、聖なる言葉があって、その言葉が自分の感性とそぐわないのであれば、まずは自分を生きることです。


そもそも欲求が悪いのではありません。

欲求がなければ、人間はみんな死んだも同然です。


たしかに悟りの瞬間においては、すべての欲求は消え去り、いまここへの充足感に満たされます。

だからといって、全ての欲求を消し去ることが悟りにつながるわけでもなく、そもそもそんなアプローチは自己欺瞞とヒロイズムに感化されていて危険です。

それは逆に、微妙な形で自我(エゴ)を強めていきます。

「欲求に立ち向かい、それを克服しつつある偉大な私」というわけです。



聖なる人はこういう人だとか、精神的な高みに上った人はこうだとか、そのような先入観を持たないことです。

そんな先入観を持ってしまうと、時間の問題で、そのような人になったフリをしだすことでしょう。

物分かりがよく、何でも受け入れて、冷静で、温かく、物欲も性欲も克服した、高い霊性の持ち主というわけです。




>今の私には、いじめや、不当な物事を押しつけに対して執着心を無くし、それでいいやと思えないです。


もし不当な物事を受け入れているとしたら、それは執着心がないというよりは、自分自身への冒涜(ぼうとく)であり、精神的奴属状態に陥っているということです。

いまの自分のほうが自然で健全だと思いませんか。



それからもうひとつ。

なんでも頭で理解してしまわないことです。


たとえば

>有名人になりたい、とか一般的な望みについて執着心を持たない、というのはよくわかります。


本当によくわかりますか?

それが体験から来た学びだとしたらあなたの智慧になっていますが、情報から来た学びであれば、たんなる知識に過ぎません。


もしかしたらあなたにとって、一般的な望みを追求することが大切かもしれないのです。

そこにいいも悪いもないからです。


いつかまた僕は、まったく違うことをブログで言うかもしれませんが、言葉に惑わされることなく、自分を生きてください。




どこかに行きつこうとしないこと。


どこにも行きつきません。




何かに成ろうとしないこと。


何にも成りません。



あなたはずっと、あるがままのあなたで、いまここにいるのですから。




あなたの幸せを祈っています。



・・・・・・・・・・・・・・



さて、次々回の「東京いまここ塾」は、8月30日に、同じ時間同じ場所で開催予定です。

今日からコチラで受付を開始します。

(受け付けは終了しました)



それから6月21日の「大阪いまここ塾」に、若干のキャンセルがあります。

日が迫っていますが、参加ご希望の方はコチラまで。



沖縄の「いまここ塾」は、明日も明後日も那覇市「てぃるる」(866-9090)で、19:30開演です。

予約なしでどなたでも入れます。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:43Comments(39)

2009年06月14日

自分=全体

昨日の記事に頂いたコメントの中で、「よしよしさん」がこう言っています。



きょうのブログから「この世にはあなたしかいない」

って真理ですか・・・

このフレーズを聞くと

なんかすっきりして、静寂な気持ちになります。


Posted by よしよし




昨日のブログを読んで、そう思ってもらえたとしたら、すごく嬉しいです。

なぜなら、伝えたいことは「この世には自分しかいない」ということにつきるからです。


あとのことは、その真理を違う角度から補おうとしているだけです。


「すべてはひとつ」というのは、自分しか存在しないということで、その自分こそが、万物の中に生きているものなのです。


ただし、ここで言う自分とは、名前や容姿や性格などを持った特定の自分ではなく、その奥にある純粋な存在のことです。

そんな言い方をすると、ずいぶん難しいものを指しているようにも思えてしまいますが、内側で常に感じている「存在の感覚」のことです。


子供のころから何も変わらずにあり続ける内的感覚です。


すべての生物は、それと同じものを内側で感じています。

宇宙には「それ」しか存在していないのです。


「あなた」が全ての中で生きているのです。



それを無理なくイメージできるようになれば、ゴールは近いです。

目覚めの準備完了です。


実際には、自分が目覚めていたことを思い出すだけの話ですが。





今日は「東京いまここ塾」です。


関心を持って聞いてくれる人の前で話をするのが好きです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(22)

2009年06月13日

心身を離れて

宇宙がなければ、あなたは存在できません。

と同時に、

あなたがいなければ宇宙も存在できません。





さて昨日のふにゃさんからの質問です。


>>あなたがいなければ宇宙も存在できません。

>それはこの世から去った者も含めて、ですか?


はい、この世から去った者も含めてです。

でも実際には去っていません。

「いまここ」以外に行く場所などないからです。



>だって、もし今日私が死んでこの世からいなくなっても、宇宙は存在してると思うから…。


まずお伝えしたいのは、あなたは死にません。

以上です。





いや、もうちょっと書きます。


僕たちはあまりにも自分と肉体を同化してしまったので、肉体の死が自分の死だと思ってしまいます。

しかしその時に死ぬ(消滅)のは、肉体と心だけで、あなたの魂は不滅です。


肉体と心は「心身」という一つのものです。

肉体の一番奥の柔らかい部分が心で、心の一番外の堅い部分が肉体だと思えばいいでしょう。

それは三次元の存在なので、諸行無常の法則を逃れることはできません。

でもあなたは心身を超えた存在です。

あなたは肉体を意識して見守ることができます。

そして少し訓練を積めば、心も意識して見守ることができます。


あなたは「意識して見守る者」です。

もしあなたが心身だったら、それを見守る客観性は生まれないはずです。


でもあなたの本質は「純粋な目覚めた意識」なので、この世のどんな出来事も、そして自分のどんな反応も見届けることが可能です。

心身との同化から離れて生きていくためのレッスンが、いわゆる瞑想です。


僕たちが充分に意識的であれば、不慮の事態が起きた時に、超然とそれを見守りながら、冷静に正確な選択をしていくことができます。

その状態が「主人公」・「不動心」です。


反対に僕たちが無意識であれば、何か都合の悪い出来事が起きた時、うろたえたり舞い上がったりして「我を忘れて」しまい、誤った判断と、誤った選択をしてしまいがちです。

それがさらに事を悪化させます。



僕たちが日々どれだけ意識的であるか、瞑想的であるかは、不慮の事態と遭遇した時にわかります。

もし意識的であれば、そのような時はさらに意識的になります。

もし無意識(夢見の状態)であれば、さらに夢が深くなります。



僕も生意気なことを言っていますが、つい数日前も、自分の意識が現象界に翻弄された時間を過ごしました。

そういう時は、とてもイヤな気分で過ごしているからすぐにわかります。



もし僕たちが、自分の肉体の死を、充分に意識的なままで迎えることができたら、その時はこの次元に再誕するか否かの選択が可能になります。


この話は時々講演会でお話ししていますが、またいつかブログにも書いてみます。





今日もここに来てくれてありがとうございました。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:40Comments(31)

2009年06月12日

天命

よく若い人たちから、自分のやりたいことが見つからないとか、何に生きがいを感じたらいいかわからないとかいう相談を受けます。

世の中に蔓延しているムードのひとつです。


そんな迷いの背景には、人生とは天命を見つけて、独自の才能を開き、自己実現を果たすべきだという考えがあります。


誰が言い出したのか知りませんが、おそらくは強い自我の持ち主だと思います。

そのような自我が悪いとは言いませんが、自我の言う通りにしていたら幸せになれないことだけは確かです。


しかし多くの人がこのような話を本気で信じています。

それはまるで神話のごとくです。


きっと、やるべきことも見つけられないまま、烏合の衆として人生を終えてしまったとしたら、自分の人生には充分な価値や意味がないような気がしてしまうのでしょう



それじゃ、今日は僕があなたの天命(やるべきこと)を教えてあげましょう。

特別出血大サービスです。



いや、僕よりも、一休さんのほうがいいかもしれません。

彼から言われたほうが説得力もあるでしょうし。


それじゃ、一休さんお願いします。





世の中は 食うてクソして 寝て起きて

さてその後は 死ぬるばかりぞ





はい、ありがとうございました。

みなさん、そういうことです。



あとは、いつも目の前のやるべきことに無心で取り組めば、それが最高の生き方です。

そんな生き方の中から展開していくものがあります。

仕事の大きさとか、派手さに惑わされてはいけません。

あなたがたったいま何をしていようと、それは宇宙全体に影響を与えているのですから。


宇宙が瞬間瞬間に織りなしている超巨大なタペストリーは、あなたという部分がないだけで存在できません。

それはちょうど巨大な風船が、ほんのわずかな穴が開いただけでも存在できなくなるのと同じです。




最後に、今日の真実の一言。


宇宙がなければ、あなたは存在できません。

と同時に、

あなたがいなければ宇宙も存在できません。



これって、すごくない?(若い人風に)



それ以上の何を望むのですか。

もうすでに、あなた自身が天命です。





・・・・・・・・・・・・・・・・




8月に、また博多で講演させていただきます。

参加ご希望の方はコチラからお入りください。



明後日の東京いまここ塾に、2名様のキャンセルがありました。

参加ご希望の方はコチラから。

(受け付けは終了しました)

  


Posted by Toshiro Abe at 08:42Comments(59)

2009年06月11日

一日

このブログを朝読んでいる人は、今日という一日だけを生きるつもりで、人生に入っていきましょう。

そして、目の前の「いま」が何であれ、目の前の人が誰であれ、その目の前の現実に心をこめて、瞬間を生きるのです。

それは二度と繰り返さない、一度きりの貴重な出来事です。

「いま」を取り逃がす人は、人生で最も大切な時を取り逃がしています。




このブログを昼読んでいる人は、いったん立ち止まってみましょう。

ひとり頭の中で考えていたことを、いきなり中断して、耳を澄ましてみてください。

いままで聞こえなかった様々な音が聞こえてくるでしょう。

それはまさに「いま」の音です。


考えていたことがどんなに重要なことであれ、その考えを研ぎ澄ますには、考え続けるよりも、ギャップを与えて、無思考の状態を作り出すことです。

そのためにも、連続性にストップをかけて、何も考えずに耳を澄ましている状態は、とても役に立ちます。


十分に落ち着いたら、また活動に入っていきましょう。

わずかな休息も、大きなエネルギーのプールになっていることでしょう。




このブログを夜読んでいる人は、ひとりになれる場所を作り、静かに座りましょう。

そして軽く目を閉じて、社会の中で担っていた全ての役割から手を引いていくのです。

父であったり、母であったり、ビジネスマンであったり、使用人であったり、優秀な人であったり、臆病な人であったり、その全てから手を引いて、誰でもない人になっていきます。


もともとあなたは、誰でもない人です。

「私は何々です」などと呼べるようなものはすべて、社会の中で作り出した偽の自分です。


服を脱ぎ去るように、役割も落としていくのです。


そのとき、あなたの中に大いなるスペースが生まれます。

それまでガラクタで一杯だったあなたの存在に空間が生まれ、そこに至高なるものが訪れます。

一切の束縛から解放された、この上もなく自由な感覚が体を満たします。


それが瞑想です。


瞑想とは、誰でもない人になっていくプロセスです。


だからと言って、至高なる存在を目指してはいけません。

それは単なる副産物であり、それを目指すとまた特別な人になるゲームが始まってしまいます。


僕たちにできる最も偉大なこと、それは誰でもない人になっていくことです。


そうやって一日の最後を、祝福の中で終えてください。




今日もいい日でありますように。



日々是好日
  


Posted by Toshiro Abe at 08:20Comments(45)