2008年08月31日
日記
日本全国どこに行っても、その土地の人情があって、みんな一生懸命に生きていて、やっぱりこうして旅するのもいいなって、それが素直な感想です。
実は講演会自体はどこを切り口にしたらいいか少し迷いました。
というのも、このブログに共鳴して来てくれた人と、精神世界的な話が初めてな人とでは、話の入り口は違うわけで、その戸惑いが出ちゃった。
みなさんが書いてくれた感想は、おおまか好評でしたが、僕としては学びの多い一日でした。
学びが多いというのは収穫が多いということで、これを契機にさらに高いレベルを目指したいと思います。
自分では自分のことを、類まれな怠け者と思っていますが、こうして見ると、けっこう上昇志向で、なかなか見所があるやつだなと、そんな自分を再発見しています。
「もっとできるはずだ」と感じる「もっと」は可能性なわけで、いまに満足するのも大切だけど、いまに満足しないのも大切だって、やっぱり何事も両面あるなと思うわけです。
そんなこんなの僕は、今日は奥さん孝行で、加賀の温泉に行ってきます。
みなさんもいい日曜日をお過ごしください。
押せばあなたもアベファミリー ポチッ、ポチッ
実は講演会自体はどこを切り口にしたらいいか少し迷いました。
というのも、このブログに共鳴して来てくれた人と、精神世界的な話が初めてな人とでは、話の入り口は違うわけで、その戸惑いが出ちゃった。
みなさんが書いてくれた感想は、おおまか好評でしたが、僕としては学びの多い一日でした。
学びが多いというのは収穫が多いということで、これを契機にさらに高いレベルを目指したいと思います。
自分では自分のことを、類まれな怠け者と思っていますが、こうして見ると、けっこう上昇志向で、なかなか見所があるやつだなと、そんな自分を再発見しています。
「もっとできるはずだ」と感じる「もっと」は可能性なわけで、いまに満足するのも大切だけど、いまに満足しないのも大切だって、やっぱり何事も両面あるなと思うわけです。
そんなこんなの僕は、今日は奥さん孝行で、加賀の温泉に行ってきます。
みなさんもいい日曜日をお過ごしください。
押せばあなたもアベファミリー ポチッ、ポチッ
Posted by Toshiro Abe at
08:50
│Comments(10)
2008年08月30日
七尾にて
昨日は金沢まで車で迎えに来ていただきました。
七尾に来るまでの道のりは、日本海に沈む夕日を眺めながらのドライブで、また沖縄とは一味違った趣で、こちらも本当に素晴らしい景色でした。
ここに呼んでくれた女性は、市の中心街でパワーストーンやネパールの曼荼羅などを売っている元氣ショップ 「ら・む~」というお店をされているのですが、僕は石にはまったく関心がなく、なんだか怪しいお仕事ですねって笑って言っていたのですが、実際にパワーストーンを手にしてみると、理屈ではない不思議な感覚を得ることができて、世の中には僕の知らない神秘がたくさんあるんだなって思いました。
そんなわけで今僕の腕には、お気に入りのパワーストーンのブレスレットが巻かれています(笑)
今日の講演会は、市がバックアップしてくれて、市長さんの挨拶から始まるそうです。
来てくれた皆さんにとって、僕の話が何かしら生きるヒントになってくれたら幸いです。
と言っても、実はまだ何を話すのか決まっていません。
いつもぶっつけ本番です
今の時代はどこもかしこも閉塞感に覆われていて、出口が見えない状態です。
いま僕たちに必要なのは、やり方を試行錯誤することではなく、人生観や幸せ観の大前提を見直すことだと思います。
産業革命以降、生産と消費によって幸福を追求してきました。
もちろんこれからもその傾向は続くでしょうが、同時に、足を止めて、いまここにある幸せを感じ取れるような心の状態を学ぶことが大切だと思います。
未来に幸せや充足を求めるのではなく、いまここにすでにあるものに感謝するような生き方です。
今日は午後3時の開演です。
ピアノも用意してくれたし、ギターも持ってきたし、講演とコンサートがひとつに溶け込むようなイベントにしようと思っています。
それじゃ、また報告します。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
押せば命の泉わく ポチッ、ポチッ
七尾のホテルにて
七尾に来るまでの道のりは、日本海に沈む夕日を眺めながらのドライブで、また沖縄とは一味違った趣で、こちらも本当に素晴らしい景色でした。
ここに呼んでくれた女性は、市の中心街でパワーストーンやネパールの曼荼羅などを売っている元氣ショップ 「ら・む~」というお店をされているのですが、僕は石にはまったく関心がなく、なんだか怪しいお仕事ですねって笑って言っていたのですが、実際にパワーストーンを手にしてみると、理屈ではない不思議な感覚を得ることができて、世の中には僕の知らない神秘がたくさんあるんだなって思いました。
そんなわけで今僕の腕には、お気に入りのパワーストーンのブレスレットが巻かれています(笑)
今日の講演会は、市がバックアップしてくれて、市長さんの挨拶から始まるそうです。
来てくれた皆さんにとって、僕の話が何かしら生きるヒントになってくれたら幸いです。
と言っても、実はまだ何を話すのか決まっていません。
いつもぶっつけ本番です
今の時代はどこもかしこも閉塞感に覆われていて、出口が見えない状態です。
いま僕たちに必要なのは、やり方を試行錯誤することではなく、人生観や幸せ観の大前提を見直すことだと思います。
産業革命以降、生産と消費によって幸福を追求してきました。
もちろんこれからもその傾向は続くでしょうが、同時に、足を止めて、いまここにある幸せを感じ取れるような心の状態を学ぶことが大切だと思います。
未来に幸せや充足を求めるのではなく、いまここにすでにあるものに感謝するような生き方です。
今日は午後3時の開演です。
ピアノも用意してくれたし、ギターも持ってきたし、講演とコンサートがひとつに溶け込むようなイベントにしようと思っています。
それじゃ、また報告します。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
押せば命の泉わく ポチッ、ポチッ
七尾のホテルにて
Posted by Toshiro Abe at
10:58
│Comments(7)
2008年08月29日
講演会
去年、県の教頭先生たちの総会で講演させてもらったことがご縁で、多くの学校関係の講演をさせてもらってきましたが、昨日は恩納村教育委員会の講演をさせてもらいました。
教職員の皆さんが対象だと思っていましたが、一般の方たちも多数詰めかけてくれました。
話す内容はこのブログに書いているようなことですが、多くの皆さんが、気持ちが楽になったと言ってくれます。
外からは見えないですが、僕たちはそれぞれにたくさんの荷物を抱えています。
その多くが自分の考え方に起因していることがわかれば、解決の糸口が見えてきます。
ブログやラジオとの違いは、実際に生でお話しすると目の前の皆さんの反応がよくわかるので、言葉がその場に応じて変化し、適切になる気がします。
さて、今から能登の七尾市に行ってきます。
このブログを読んで共感してくれた一人の人の呼びかけで実現したことですが、すでに300枚近いチケットは完売とのことで、まことにありがたいことです。
実は温泉が大好きなので、能登に行くのはすごく楽しみにしていました(^o^)
明日が本番ですが、またここで報告しますね。
昨日恩納村からの帰りの車の中で妻と、いろんなところで講演ができたらいいねと話しながら家に帰ったら、偶然にも日本各地から講演会を開きたいとの問い合わせが複数あり、びっくりしました。
何故思ったことがこんなに早く実現するのか・・・それにしても早すぎですよね。
これからも流れのままに、自分にできることは何でもやっていきたいと考えています。
ルンルン♪
朝から上機嫌の僕です。
それじゃ行ってきます
こちらの応援もよろしくお願いします。
教職員の皆さんが対象だと思っていましたが、一般の方たちも多数詰めかけてくれました。
話す内容はこのブログに書いているようなことですが、多くの皆さんが、気持ちが楽になったと言ってくれます。
外からは見えないですが、僕たちはそれぞれにたくさんの荷物を抱えています。
その多くが自分の考え方に起因していることがわかれば、解決の糸口が見えてきます。
ブログやラジオとの違いは、実際に生でお話しすると目の前の皆さんの反応がよくわかるので、言葉がその場に応じて変化し、適切になる気がします。
さて、今から能登の七尾市に行ってきます。
このブログを読んで共感してくれた一人の人の呼びかけで実現したことですが、すでに300枚近いチケットは完売とのことで、まことにありがたいことです。
実は温泉が大好きなので、能登に行くのはすごく楽しみにしていました(^o^)
明日が本番ですが、またここで報告しますね。
昨日恩納村からの帰りの車の中で妻と、いろんなところで講演ができたらいいねと話しながら家に帰ったら、偶然にも日本各地から講演会を開きたいとの問い合わせが複数あり、びっくりしました。
何故思ったことがこんなに早く実現するのか・・・それにしても早すぎですよね。
これからも流れのままに、自分にできることは何でもやっていきたいと考えています。
ルンルン♪
朝から上機嫌の僕です。
それじゃ行ってきます
こちらの応援もよろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:13
│Comments(13)
2008年08月28日
言葉の危うさ
先日いただいた相談メールにこのようなものがありました。
その方は、あるサークルを運営しているのですが、最近は生徒さんが集まらなくなってしまったのだそうです。
どうしたらいいかという相談でしたが、そのメールには、どんなに人数が減っても募集広告は出してこなかったと書いてありました。
その理由は、
「求めなければ与えられる」
という言葉を誰かから聞いて、それを信じたからだそうです。
このようなケースは、様々な場面で見かけます。
精神世界ブームの危うさの一つは、言葉を鵜呑みにしてしまうところです。
「求めなければ与えられる」という言葉は真実です。
しかしその言葉には前後があり、その言葉を発した状況があるはずです。
いなくなった生徒さんを、ただ待っていても増えることはありません。
そのような状況では、起きている事の分析や、計画の再構築が必要です。
そして結果を手に入れたいと強く望むことです。
「求めれば与えられる」・・・この言葉も真実です。
真実は相矛盾する2つの側面を同時に含んでいることがあります。
たとえば・・・
人生で唯一確実なことは、僕たちがいつか必ず死ぬということです。
僕たちには永遠の命が与えられているので、決して死ぬことはありません。
人生で起きることのすべてはあらかじめ決められています。
人生は自分次第でいかようにも変えられます。
生まれ変わりや前世は幻想にすぎません。
僕たちは無数の生まれ変わりを繰り返してきました。
人生に意味などありません。
いつかあなたは人生の大きな意味を知るでしょう。
すべては「ひとつ」の同じものからできています。
この世には何一つ同じものはありません。
これらすべては真実です。
この相矛盾する二つの真実が一つに統合されるところに、宇宙の真実があります。
言葉では何一つ語ることはできませんが、それでも昔から真実の言葉が残されてきました。
僕たちに必要なのは、言葉そのものを持ち運ぶことではなく、その行間に秘められた意味を感じ取ることだと思います。
言葉は固定されていますが、意味は生きているからです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますようにクリック協力お願いします。
その方は、あるサークルを運営しているのですが、最近は生徒さんが集まらなくなってしまったのだそうです。
どうしたらいいかという相談でしたが、そのメールには、どんなに人数が減っても募集広告は出してこなかったと書いてありました。
その理由は、
「求めなければ与えられる」
という言葉を誰かから聞いて、それを信じたからだそうです。
このようなケースは、様々な場面で見かけます。
精神世界ブームの危うさの一つは、言葉を鵜呑みにしてしまうところです。
「求めなければ与えられる」という言葉は真実です。
しかしその言葉には前後があり、その言葉を発した状況があるはずです。
いなくなった生徒さんを、ただ待っていても増えることはありません。
そのような状況では、起きている事の分析や、計画の再構築が必要です。
そして結果を手に入れたいと強く望むことです。
「求めれば与えられる」・・・この言葉も真実です。
真実は相矛盾する2つの側面を同時に含んでいることがあります。
たとえば・・・
人生で唯一確実なことは、僕たちがいつか必ず死ぬということです。
僕たちには永遠の命が与えられているので、決して死ぬことはありません。
人生で起きることのすべてはあらかじめ決められています。
人生は自分次第でいかようにも変えられます。
生まれ変わりや前世は幻想にすぎません。
僕たちは無数の生まれ変わりを繰り返してきました。
人生に意味などありません。
いつかあなたは人生の大きな意味を知るでしょう。
すべては「ひとつ」の同じものからできています。
この世には何一つ同じものはありません。
これらすべては真実です。
この相矛盾する二つの真実が一つに統合されるところに、宇宙の真実があります。
言葉では何一つ語ることはできませんが、それでも昔から真実の言葉が残されてきました。
僕たちに必要なのは、言葉そのものを持ち運ぶことではなく、その行間に秘められた意味を感じ取ることだと思います。
言葉は固定されていますが、意味は生きているからです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますようにクリック協力お願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:58
│Comments(8)
2008年08月27日
宇宙規模のタペストリー
今までの人生で見た、最も美しいものの話をします。
それは悠久の昔から無数の命たちが、何万回もの生まれ変わりを繰り返しながら織りなしている、想像を絶する壮大なタペストリー(芸術的な織物)です。
しかもそれは生きていて、様々な光を発しながら、多くの襞(ひだ)が揺らめくように躍動しています。
その美しさは完璧で、大いなる命、大いなる存在の全貌です。
こともあろうに、その縦糸と横糸は、まさに僕たち一人ひとりが瞬間瞬間に編み出しているのです。
でも僕たちは、日々その糸を編むのに忙しくて、あまりにも糸に近すぎて、自分が全体のどの部分を担っているのかもわかりませんし、全体像を見ることもできません。
一瞬でもその全体の荘厳な美しさを見れば、起きていることはすべて完璧であり、地上の我々の目からどのように見えようが、すべては必要で、すべては起こるべくして起きていることを確信します。
あなたもその姿を一目見れば、どんな糸の一筋も、どんな一瞬も、何一つ変えようなんて思わないでしょう。
実は、すべてを肯定すると言うのは、この視点に立って初めてできることなのです。
視野が極端に狭まった状態では、いくら言い聞かされても納得できません。
せいぜい、「すべてはOKだ」って、思いこもうとするだけです。
いまこの瞬間も、宇宙規模のタペストリーは完全な姿でその美しさを表現しています。
そこには、まさにいまあなたがどのような状態であれ、そのあなたの存在が一役買っているのです。
そして、あなたというたった一人の人がいないだけで、この壮大なタペストリーも存在できないのです。
そんな姿を一瞬でもかいまみれば、自分という存在の素晴らしさ、偉大さを、心の底から知ることができます。
以前、「人生には意味がない」と言いましたが、この壮大な視点において、自分という存在のとてつもない意味を知ることができます。
人生の意味とは、部分(自分)と全体(宇宙)との関係の中で生じることなので、全体を知って初めて意味がわかるのです。
自分の人生をいくら考えても理解できませんし、意味を見出すことはできません。
だから考えは無用です。
ただ生きること・・・それでいいのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの同胞に届きますように
それは悠久の昔から無数の命たちが、何万回もの生まれ変わりを繰り返しながら織りなしている、想像を絶する壮大なタペストリー(芸術的な織物)です。
しかもそれは生きていて、様々な光を発しながら、多くの襞(ひだ)が揺らめくように躍動しています。
その美しさは完璧で、大いなる命、大いなる存在の全貌です。
こともあろうに、その縦糸と横糸は、まさに僕たち一人ひとりが瞬間瞬間に編み出しているのです。
でも僕たちは、日々その糸を編むのに忙しくて、あまりにも糸に近すぎて、自分が全体のどの部分を担っているのかもわかりませんし、全体像を見ることもできません。
一瞬でもその全体の荘厳な美しさを見れば、起きていることはすべて完璧であり、地上の我々の目からどのように見えようが、すべては必要で、すべては起こるべくして起きていることを確信します。
あなたもその姿を一目見れば、どんな糸の一筋も、どんな一瞬も、何一つ変えようなんて思わないでしょう。
実は、すべてを肯定すると言うのは、この視点に立って初めてできることなのです。
視野が極端に狭まった状態では、いくら言い聞かされても納得できません。
せいぜい、「すべてはOKだ」って、思いこもうとするだけです。
いまこの瞬間も、宇宙規模のタペストリーは完全な姿でその美しさを表現しています。
そこには、まさにいまあなたがどのような状態であれ、そのあなたの存在が一役買っているのです。
そして、あなたというたった一人の人がいないだけで、この壮大なタペストリーも存在できないのです。
そんな姿を一瞬でもかいまみれば、自分という存在の素晴らしさ、偉大さを、心の底から知ることができます。
以前、「人生には意味がない」と言いましたが、この壮大な視点において、自分という存在のとてつもない意味を知ることができます。
人生の意味とは、部分(自分)と全体(宇宙)との関係の中で生じることなので、全体を知って初めて意味がわかるのです。
自分の人生をいくら考えても理解できませんし、意味を見出すことはできません。
だから考えは無用です。
ただ生きること・・・それでいいのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの同胞に届きますように
Posted by Toshiro Abe at
09:55
│Comments(20)
2008年08月26日
プチメッセージ
じゃ、ちょこっとメッセージ。
秘訣はね、何かになろうとしないこと。
今ではない何か、今あるがままの自分以外の自分、そういう姿を追いかけないこと。
何故かといえば、あなたも僕も、今あるがままの自分以外には成れないからです。
愛にあふれた人、優しい人、気持ちの美しい人、穏やかな人・・・
たとえそういう人になれたとしても、また違う自分が必ず出てきます。
その動きが生きるということなのです。
そのことを「あきらめる」ことが秘訣です。
それは真実の道に、足を一歩踏み入れたことになります。
それをあきらめた時・・・あきらめるとは「あきらかに見極める・事実を潔く認める」という意味ですが・・・他者に対する見方も変わります。
他者もあなたと同じように一定ではなく、様々な側面が表れては消えているのです。
そう思えば、人を許すことはそれほど難しくないでしょ。
いまあるがままの自分にくつろぐ練習は、とても効果的です。
それはあなたのエネルギーの漏れを最小限にしてくれます。
不安やストレスから解放し、あなたをイキイキと楽しい気分にしてくれます。
これまで何千年にわたって人類は、自分に様々な改良を試みてきました。
道徳家や宗教家や教師たちの教えを信じて、様々なことを自分に強いてきました。
ある特定の言葉を繰り返したり、特定の行動様式に従ったり、特定の修行に取り組んだり・・・
その結果、人類の何が変わったというのでしょう。
何も変わりません。
あいかわらず人間は人間なのです。
ポイントは、それでいいんだということを認めることです。
何になろうとしているんですか?
今の何がダメなのですか?
秘訣は、何かになろうとしないことです。
この簡単なことができなくなっているくらい、人生の多くの時間を何かになるために、誰かになるために使ってきたことに気づいてください。
いいじゃないですか、これで(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
秘訣はね、何かになろうとしないこと。
今ではない何か、今あるがままの自分以外の自分、そういう姿を追いかけないこと。
何故かといえば、あなたも僕も、今あるがままの自分以外には成れないからです。
愛にあふれた人、優しい人、気持ちの美しい人、穏やかな人・・・
たとえそういう人になれたとしても、また違う自分が必ず出てきます。
その動きが生きるということなのです。
そのことを「あきらめる」ことが秘訣です。
それは真実の道に、足を一歩踏み入れたことになります。
それをあきらめた時・・・あきらめるとは「あきらかに見極める・事実を潔く認める」という意味ですが・・・他者に対する見方も変わります。
他者もあなたと同じように一定ではなく、様々な側面が表れては消えているのです。
そう思えば、人を許すことはそれほど難しくないでしょ。
いまあるがままの自分にくつろぐ練習は、とても効果的です。
それはあなたのエネルギーの漏れを最小限にしてくれます。
不安やストレスから解放し、あなたをイキイキと楽しい気分にしてくれます。
これまで何千年にわたって人類は、自分に様々な改良を試みてきました。
道徳家や宗教家や教師たちの教えを信じて、様々なことを自分に強いてきました。
ある特定の言葉を繰り返したり、特定の行動様式に従ったり、特定の修行に取り組んだり・・・
その結果、人類の何が変わったというのでしょう。
何も変わりません。
あいかわらず人間は人間なのです。
ポイントは、それでいいんだということを認めることです。
何になろうとしているんですか?
今の何がダメなのですか?
秘訣は、何かになろうとしないことです。
この簡単なことができなくなっているくらい、人生の多くの時間を何かになるために、誰かになるために使ってきたことに気づいてください。
いいじゃないですか、これで(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
Posted by Toshiro Abe at
13:07
│Comments(14)
2008年08月25日
メッセージ
たった数日お休みしただけなのに、ずいぶん長いことご無沙汰しているような気になってしまうのだから、ここの存在感は僕にとっても大きいということですね。
でもやはりお休みは大切だと思いました。
張られたゴム紐が緩んだことで、気持ちがリフレッシュしています。
これからも時々休憩しながらということを前提に、また今日も書いてみます。
僕には、世界を変えようとか、人類を救済しようとか、そんな大それた使命感はありません。
そもそも世界だとか、人類だとか、そんなものは存在していないとさえ思っています。
それは人が頭の中で作り上げたイメージです。
この世に存在しているのは、僕であり、あなたであり、個人が生きているだけです。
云っていること分かりますか?
だからこのブログは、僕からあなたへの私信です。
なぜなら、あなたに伝えたいことがあるからです。
伝えたいことのひとつ・・・それはあなたと僕は「同じもの」でできているということ。
あなたの中に僕の霊が生きているということではないですよ。
霊魂というものがあって、それが人間の中にあって、死んだら身体から出て行くというようなイメージが定着していますが、それは間違いです。
たしかに僕たちは霊的な存在ですが、霊魂という分離した別個の魂が、ひとつずつ人の中にあるのではなく、宇宙という巨大な魂がひとつあって、それが個々の物質化された肉体を生かしているのです。
したがって霊的には「個」は存在していません。
このことを理解するには、天動説が地動説に変わるくらいの、根底からの発想の転換が必要です。
長い歴史の中で、なぜこのような間違いが継承されてきたのか不思議ですが、おそらくは自我をリアルなものと思ってしまう錯覚と、死という未知なるものへの恐怖が、霊魂伝説を定着させたのだと思います。
断言する根拠は、直接の内なる経験です。
それを至高体験と呼びました。
しかし「至高」という言葉が尊大な印象を与えたのか、反感を持った人もいたようでしたが、その体験は絶対的なものなので、議論の余地はありません。
それは本当の自分を思い出すことですし、真理はそれしかありません。
したがって次に伝えたいのは、あなたはすでに「それ」なので、何の心配もいらずに、いつも「いま」という時間の中で、自由に自分を表現していればいいということです。
見えない何かを恐れて、決められた生き方をする必要もありません。
悟りとは、宇宙(全体)とひとつになることですが、あなたはすでに宇宙とひとつなので、あなたはすでに悟っているのです。
それを自覚し、自ら宣言することが新しい人生の始まりです。
そう思えないのは、「自分はまだダメだ」という誤った印象を心の底から信じてしまっているからです。
さらには、釈迦やキリストや多くの歴史上のブッダたちと自分を比べて、自分が大きく見劣りするような気がしているので、自分が悟っているなどとは到底思えないのです。
釈迦もキリストも有名なブッダたちも、あなたの頭の中に定着したイメージにすぎません。
さきほど「人類」や「世界」が単なるイメージだと言ったのと同じです。
それはリアルなものではありません。
リアルなものはただひとつ、あなたを生かしているその存在です。
それがブッダなのです。
あらゆる比較を落とすこと。
この世には自分しか存在していないことを知ること。
そこにすべての答えがあります。
あはは、やっぱり僕の話はヘンテコですね(^o^)
でもそんな話に興味を持ってくれる人たちがいることも事実です。
だから今日も、そんなあなたにメッセージを送りました。
またお休みすることもありますが、心配しないでくださいね。
気楽に自分のペースでやらせてもらいます。
今日もここに来てくれて、ありがとうございました。
ランキングに参加することの是非も考えてみました。
マイナス面もあるのですが、多くの人と出会っていくためには効果的なツールなので、これからもクリック協力をお願いします。
近い将来、参加するカテゴリーを移動して、また新たな人たちに呼び掛けようかとも思っています。
そんなわけで、ポチッ、ポチッ
PS
明日もいまここ塾やっています。
でもやはりお休みは大切だと思いました。
張られたゴム紐が緩んだことで、気持ちがリフレッシュしています。
これからも時々休憩しながらということを前提に、また今日も書いてみます。
僕には、世界を変えようとか、人類を救済しようとか、そんな大それた使命感はありません。
そもそも世界だとか、人類だとか、そんなものは存在していないとさえ思っています。
それは人が頭の中で作り上げたイメージです。
この世に存在しているのは、僕であり、あなたであり、個人が生きているだけです。
云っていること分かりますか?
だからこのブログは、僕からあなたへの私信です。
なぜなら、あなたに伝えたいことがあるからです。
伝えたいことのひとつ・・・それはあなたと僕は「同じもの」でできているということ。
あなたの中に僕の霊が生きているということではないですよ。
霊魂というものがあって、それが人間の中にあって、死んだら身体から出て行くというようなイメージが定着していますが、それは間違いです。
たしかに僕たちは霊的な存在ですが、霊魂という分離した別個の魂が、ひとつずつ人の中にあるのではなく、宇宙という巨大な魂がひとつあって、それが個々の物質化された肉体を生かしているのです。
したがって霊的には「個」は存在していません。
このことを理解するには、天動説が地動説に変わるくらいの、根底からの発想の転換が必要です。
長い歴史の中で、なぜこのような間違いが継承されてきたのか不思議ですが、おそらくは自我をリアルなものと思ってしまう錯覚と、死という未知なるものへの恐怖が、霊魂伝説を定着させたのだと思います。
断言する根拠は、直接の内なる経験です。
それを至高体験と呼びました。
しかし「至高」という言葉が尊大な印象を与えたのか、反感を持った人もいたようでしたが、その体験は絶対的なものなので、議論の余地はありません。
それは本当の自分を思い出すことですし、真理はそれしかありません。
したがって次に伝えたいのは、あなたはすでに「それ」なので、何の心配もいらずに、いつも「いま」という時間の中で、自由に自分を表現していればいいということです。
見えない何かを恐れて、決められた生き方をする必要もありません。
悟りとは、宇宙(全体)とひとつになることですが、あなたはすでに宇宙とひとつなので、あなたはすでに悟っているのです。
それを自覚し、自ら宣言することが新しい人生の始まりです。
そう思えないのは、「自分はまだダメだ」という誤った印象を心の底から信じてしまっているからです。
さらには、釈迦やキリストや多くの歴史上のブッダたちと自分を比べて、自分が大きく見劣りするような気がしているので、自分が悟っているなどとは到底思えないのです。
釈迦もキリストも有名なブッダたちも、あなたの頭の中に定着したイメージにすぎません。
さきほど「人類」や「世界」が単なるイメージだと言ったのと同じです。
それはリアルなものではありません。
リアルなものはただひとつ、あなたを生かしているその存在です。
それがブッダなのです。
あらゆる比較を落とすこと。
この世には自分しか存在していないことを知ること。
そこにすべての答えがあります。
あはは、やっぱり僕の話はヘンテコですね(^o^)
でもそんな話に興味を持ってくれる人たちがいることも事実です。
だから今日も、そんなあなたにメッセージを送りました。
またお休みすることもありますが、心配しないでくださいね。
気楽に自分のペースでやらせてもらいます。
今日もここに来てくれて、ありがとうございました。
ランキングに参加することの是非も考えてみました。
マイナス面もあるのですが、多くの人と出会っていくためには効果的なツールなので、これからもクリック協力をお願いします。
近い将来、参加するカテゴリーを移動して、また新たな人たちに呼び掛けようかとも思っています。
そんなわけで、ポチッ、ポチッ
PS
明日もいまここ塾やっています。
Posted by Toshiro Abe at
08:10
│Comments(38)
2008年08月22日
ひと休み
毎朝こうして、書いた文章が少しでも誰かの役に立ちますようにってPCの前に座るのだけど・・・
今日は・・・ m(_ _)m
この2年間、休みなくブログを書き続けて、裏ブログの「かんながら」と合わせたら2000本もの記事を書いてきました。
我ながら驚いています。
少しお休みします。
今日は僕のために押してくれたら嬉しいです。
ありがとうございました(^o^)/
今日は・・・ m(_ _)m
この2年間、休みなくブログを書き続けて、裏ブログの「かんながら」と合わせたら2000本もの記事を書いてきました。
我ながら驚いています。
少しお休みします。
今日は僕のために押してくれたら嬉しいです。
ありがとうございました(^o^)/
Posted by Toshiro Abe at
09:18
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2008年08月21日
日々のレッスン
先日のコメント欄に、こんな質問がありました。
もしこの世の全ての物質や生命体がひとつであるということが心から理解できたとして、今度はどのような心がけでどのように人生を生きて行けば宜しいのでしょうか?
・・・・・・・・・・
全ての存在は「同じ一つの命」ということを理解したからといって、日常生活の中で、常にそのように感じているかと言えば、そうではありません。
人と比較したり、人を批判したり、人を恨んだりする傾向が、いまだに顔を出すことがあります。
人間はどこまでいっても、そのような傾向が全てなくなるということはないと思います
この世には自分の想像も及ばないくらい成熟した魂がいて、人間の弱点をすべて克服して、聖なる人として生きているという考えは、ただの想像ではないでしょうか。
人間というものは、特別な存在にあこがれ、全てを超越した特別な存在がどこかにいてほしいと願うものですが、それこそが幻想の産物だと思います。
そのような幻想を抱くことで、あいかわらず欠点だらけの自分や人を批判しているのです。
「あるがままの自分でOK」というのは、まさに「あるがままの自分でOK」であって、それは神聖な直感から、動物的な情欲や攻撃性まで、全部含んだあるがままの自分です。
美しい気持ちもあれば、醜い考えもあり、前向きな気持ちもあれば、ネガティブな傾向もあります。
それが人間なのですから、おかしな幻想に惑わされて、あるがままの自分を否定してはいけません。
僕たちは誰一人例外なく、プラスもマイナスも両方抱えた、矛盾に満ちた存在なのです。
ただし、そのどちらの面を発揮して生きるのか、それによって人間の価値が決まってくると思います。
僕らは存在の質そのものを変えようとしますが、それは変えられません。
いつもあるがままにあるだけです。
変えていけるのは行動です。
たとえば、自分の中に思いやりが足りないと思う人は、振りでもいいから思いやりを持った行動をしていけばいいですし、自分は臆病だと言う人は勇気を持って冒険してみたらいいのです。
もし僕たちが最初から思いやりにあふれていたら、思いやりを学ぶことはできませんし、もし臆病でなければ、勇気が何なのかもわかりません。
それらが足りないというのは、それらを学んでいくために必要なのです。
だからすぐにでも、その質を表現しようとしてみましょう。
自分が思いやりにあふれた人間になったあかつきには思いやりを発揮しようとか、自分が勇気ある人になったら冒険しようとか、そうやっていつまでも時間延ばしをしてしまいます。
簡単なやり方としては、心の中に理想の自分を描いてみて、その自分ならどうするだろうという基準から、行動を選択してみるのも一つだと思います。
人生の面白いところは、起きることは決して、同じことは繰り返されないということです。
常に新しい今が生まれ続けています。
今日起こる全てのことは、今までに一度もなかったことばかりであり、それは新鮮で驚きに満ちたことばかりなのです。
そんな気がしないのは、自分自身が昨日とおなじ考えを持ち、同じ態度で生きているからです。
しかし実際には僕たちも、昨日と同じ人ではなく、厳密に言えば肉体も新しい細胞と入れ替わっていますし、心だって変わり続けています。
ところが人間は、生きるスタイルのようなものを持ち運んで、古いパターンを毎日繰り返してしまう傾向にあるのです。
そこで提案です。
今までどんな自分だったかはいったん脇に置いて、まさに今から、瞬間瞬間新しい自分で生きてみませんか。
新しい自分というのは、古い自分を持ち運ばないということです。
今までの自分なら、こういう時はこうしたというパターンをやめて、つねに新しい今を、考えられる限り最高の自分で生きてみるのです。
人生というのは、この瞬間の自分をいかに創造するかということの繰り返しなのです。
先のことを心配するのではなく、まさに今どのような自分で生きるのか、その選択が最も大切なことだと思います。
そういう僕も、すぐに古いパターンに巻き込まれてしまうのですが、気づきという鞭を手に、新しい今を新しい自分で生きていこうと思っています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログが多くの人の目にとまりますように。
ボタンのクリック協力をお願いします。
PS
明後日の土曜日、ムジカで引き語りライブをします。
遊びに来てください。
http://abetoshiro.ti-da.net/e1813484.html
Posted by Toshiro Abe at
07:19
│Comments(10)
2008年08月20日
お礼
まずは、このブログの呼びかけに多くの人が賛同してくれたことを、心よりお礼申し上げます。
実生活でも、この数日間でたくさんの人に会い、そのたびに寄付を募りました。
チャリティーコンサートのチケットを売ったことはありますが、直接寄付をお願いしたのは、個人的な活動も、人助けも含めて、生まれて初めての経験でした。
何故してこなかったかと言えば、一番の理由はカッコ悪いからだと思います。
いつも偉そうなことを言っていますが、けっこうカッコつけて生きてきているので、こういうのは苦手なんです。
でも今回は自分を止めていたブレーキを外して、まさにブレークスルーしたわけで、冒険した分だけ新しい自分と出会うことができました。
昨夜の「いまここ塾」でも、有志が募金箱を作ってきてくれて、帰りにその箱を持った時の重みは、なんとも言えない貴重な感覚でした。
本当にありがとうございました。
さらには、ブログという一見バーチャルな存在の力も確かめることができました。
何よりよかったのは、こんな僕の呼びかけに多くの人が応じてくれて、現実に違いが起き出したことです。
「ある尼僧の証言」によってチベットの現実をより深く知ることができましたが、今でも苦境に陥っている当人に、ブログが縁になって救いの手を差し伸べることができたとしたら、なんて素晴らしいことでしょう。
見えない世界でのつながりが、現実世界に影響を与えたのです。
ずっと、彼女やチベット難民を支援してきている高橋さんからお礼メールをいただきました。
そこにはチベットの現状も書かれています。
最近はオリンピックの陰に隠れてしまい、見えにくくなってしまいましたが、もうひとつの現実が今もなお変わらずに存在していることを改めて知りました。
・・・・・・・・・
本当にありがとうございます。
当サイトへも連日問い合わせのメールが来ており、あまりの反響の大きさに驚くのと同時に、大変ありがたいことだと感謝しております。
阿部さまのブログを拝見させていただくに、多くの方がガワンの身の上に思いやりの気持ちを寄せてくださっているのを知り感激しました。
私は本人をよく知っているので、彼女が故郷の地を再び踏みたい、という思いが痛いほどよくわかるのですが、一度も会ったことのないチベット尼僧の痛みをわかちあってくれる人が少なくないことに大変励まされました。
(励まされる、というのは言葉が足りませんね。ヒューマニティや善なるものに触れて、思わず息を呑むような、そんな感じです)
3月の「暴動」以降、6月10日までに209名が亡くなり、はっきりしているだけでも5972人が逮捕され、100名に及ぶ人々が行方不明になっているとチベット亡命政府は発表しています。
ガワンやルンタのサイトに掲載している証言は主に1990年代のものですが、同じような拷問が21世紀の現代においても行われています。
その全貌があきらかになるには、おそらく数年を要するかと思われますが、亡命チベット人によるNGO「チベット人権と民主主義センター」はチベットからの貴重な情報として、3月に逮捕されたチベット人男性の証言を5月に発表しています。
それによると、チベット自治区ラサ市で逮捕されたその男性は、監獄の様子を「21世紀に起きていることとは信じられない」状況であると語り、彼が監獄であった老人は「肋骨が二本折れており」、また別の僧侶は「手の指の骨が折れ曲がっており、片目がつぶされていた」と証言しています。
ガワンのライフヒストリーや、彼女が抱えている苦難を知ることをきっかけにしてチベットが直面している問題をより深く知っていただければ、と願ってやみません。
チベット問題解決のために、息の長い支援が必要とされています。
多くのチベット僧や尼僧がそうであるように、ガワンも天真爛漫で、底抜けに優しく、すばらしい笑顔の持ち主です。
オリンピックでは体力を競い、フォーブスの長者番付では経済的資産額を競い、ミスコンテストではもっぱら外見の美しさを競いますが、もし、仮に「心の美しさ」「内面の美しさ」を競う世界大会があれば、多くのメダルをチベット人たちが獲得するような気がします。
健康のために、ジムに行って我々が体を鍛えたり、ウォーキングをして運動したりするように、幸せのために心を鍛えるということがどんなに大切なことであるかを、チベット人たちは知っています。
その意味では、目にみえないものに価値があることを知っている、今日では少数派になってしまった民族ではないでしょうか。
ガワン以外にもアメリカで亡命生活を送り、日々生活に追われているチベット難民はたくさんいますし、個人的にも何人も知っていますが、彼女の現在の境遇は、あきらかに最悪なケースの一つです。
せめて、他の難民と同じようなスタート地点に立てるようになるまで支援できればと思います。
皆様のお気持ちには、どんなに言葉を尽くしても尽くしきれませんが、重ね重ね、お礼を申し上げます。
・・・・・・・・・・
これからもガワンさんの近況や、今回皆さんが行動してくれたことの結果を報告して下さるとのことです。
皆さんからの寄付金は、そのまま全額ガワンさんに届けられます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
マスコミからは伝わってこない情報がたくさんあります。
多くの人に届きますよう、クリックの協力をお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:11
│Comments(8)
2008年08月19日
あなたが地球
このブログは僕が書いていますが、みなさんからいただいたコメントは、全体をとても豊かにしてくれています。
このブログ自体がひとつの生き物というか、とにかく毎日呼吸していますよね。
あなたという人の感情や思考を通して発せられた息吹が、自空間を超えてここに届き、さらなる命となって脈打っているような気がするのです。
僕たちが「ひとつの同じ命」だということは、つい忘れてしまいがちですが、ここでは何度も思い出すことができます。
その感覚が、あたりまえのようにみんなの意識に現れた時、この世のすべての問題は消えてなくなることでしょう。
そうなれば、あとはお互いに与えあって楽しく生きていくことしか残されていません。
僕はそんな世の中がくることを信じていますし、それこそが天の王国を地上にもたらすということだと思います。
そのために必要なものはすでに全部そろっていて、あとは僕たちの意識の変化だけです。
僕たちは「同じ一つの命」
この言葉を実感として捉えるにはどうしたらいいんでしょう。
ものすごく単純な事実なのに、実感として理解するのは難しかったりします。
なぜなら、僕たちは生まれてからずっと「そうではない感覚」で生きてきたからです。
「私とあなたは別の人」ということを信じてきたからです。
私とあなたは同じ人です。
同等の人間だと言っているのではなく、文字どおり同じ人だと言っているのです。
あなたの中であなたを生きている存在がいますよね。
名前や、性別や、見た目や、知識や、年齢や、こだわりや、性格や、それら表現されているすべての個性の奥に、「あなた」という意識があります。
言っていることわかりますか。
その純粋なあなたという意識は、とても繊細で、いつも変わらずそこにありつづけています。
幼い時からずっとあなたとしてあったし、これからいくら年老いても、それはずっとあなたとして存在しています。
そしてあなたは、それが自分自身だと言うことを、ものすごくよく知っています。
あまりにもあたりまえに知っています。
そのあなたと、僕の中で僕を生きているものは、まったく同じものなのです。
感覚的にはなかなか馴染まないかもしれませんが、この世に命はひとつしか存在していません。
「大いなる命」という言い方をしますが、そんな大げさな言い方をしなくても、それはあなたが自分だと思っている「それ」です。
まさか自分が全ての命だったなんて想像もしなかっただけです。
それを知ること・・・それが愛です。
だって全ての存在が自分の体だということを知るのですから。
このブログは、一番大切なそのことを思い出させてくれるきっかけだと思います。
僕の中で生きている意識と、あなたの中で生きている意識が、まったく同じものなのか、それとも別々のものなのか、その確率は5分5分ですよね。
いままでは、別々という片方の考え方を生きてきました。
これからは、もう片方の可能性を生きてみませんか。
そしてそちらが真実だと言うことを、ここに宣言しておきます。
この世には、あなたしか存在していません。
この地球の絵に、自分の顔を張り付けてみてください。
事実はそういうことなのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
この情報が多くの人の目にとまりますように。
今日もご協力よろしくお願いします。
PS
ガワンさんへの支援キャンペーン、すごく大きな反響で驚いているという連絡をもらいました。
また追って報告します。
ありがとうございました。
このブログ自体がひとつの生き物というか、とにかく毎日呼吸していますよね。
あなたという人の感情や思考を通して発せられた息吹が、自空間を超えてここに届き、さらなる命となって脈打っているような気がするのです。
僕たちが「ひとつの同じ命」だということは、つい忘れてしまいがちですが、ここでは何度も思い出すことができます。
その感覚が、あたりまえのようにみんなの意識に現れた時、この世のすべての問題は消えてなくなることでしょう。
そうなれば、あとはお互いに与えあって楽しく生きていくことしか残されていません。
僕はそんな世の中がくることを信じていますし、それこそが天の王国を地上にもたらすということだと思います。
そのために必要なものはすでに全部そろっていて、あとは僕たちの意識の変化だけです。
僕たちは「同じ一つの命」
この言葉を実感として捉えるにはどうしたらいいんでしょう。
ものすごく単純な事実なのに、実感として理解するのは難しかったりします。
なぜなら、僕たちは生まれてからずっと「そうではない感覚」で生きてきたからです。
「私とあなたは別の人」ということを信じてきたからです。
私とあなたは同じ人です。
同等の人間だと言っているのではなく、文字どおり同じ人だと言っているのです。
あなたの中であなたを生きている存在がいますよね。
名前や、性別や、見た目や、知識や、年齢や、こだわりや、性格や、それら表現されているすべての個性の奥に、「あなた」という意識があります。
言っていることわかりますか。
その純粋なあなたという意識は、とても繊細で、いつも変わらずそこにありつづけています。
幼い時からずっとあなたとしてあったし、これからいくら年老いても、それはずっとあなたとして存在しています。
そしてあなたは、それが自分自身だと言うことを、ものすごくよく知っています。
あまりにもあたりまえに知っています。
そのあなたと、僕の中で僕を生きているものは、まったく同じものなのです。
感覚的にはなかなか馴染まないかもしれませんが、この世に命はひとつしか存在していません。
「大いなる命」という言い方をしますが、そんな大げさな言い方をしなくても、それはあなたが自分だと思っている「それ」です。
まさか自分が全ての命だったなんて想像もしなかっただけです。
それを知ること・・・それが愛です。
だって全ての存在が自分の体だということを知るのですから。
このブログは、一番大切なそのことを思い出させてくれるきっかけだと思います。
僕の中で生きている意識と、あなたの中で生きている意識が、まったく同じものなのか、それとも別々のものなのか、その確率は5分5分ですよね。
いままでは、別々という片方の考え方を生きてきました。
これからは、もう片方の可能性を生きてみませんか。
そしてそちらが真実だと言うことを、ここに宣言しておきます。
この世には、あなたしか存在していません。
この地球の絵に、自分の顔を張り付けてみてください。
事実はそういうことなのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
この情報が多くの人の目にとまりますように。
今日もご協力よろしくお願いします。
PS
ガワンさんへの支援キャンペーン、すごく大きな反響で驚いているという連絡をもらいました。
また追って報告します。
ありがとうございました。
Posted by Toshiro Abe at
07:54
│Comments(22)
2008年08月18日
活動モード
今さら言うまでもないですが、僕は実に身勝手な人間です。
いつも自分の都合が一番だし、自分が一番かわいいし、自分のことばかり考えています。
懺悔 m(_ _)m
そんな僕が、チャリティーコンサートをやった時は驚きました。
もともとはそんなキャラじゃないからです。
でもその時に、困っている人を助けてあげたいと思ったのも事実で、やろう!って言いだしたらそれがどんどん大規模になって、えーい、この際だ、とことんやってやれって、やれるだけやりました。
そこで学んだことは、あまりにも多かったです。
人間って、自分の都合を捨てて行動すると、ものすごくパワーが出るんですね。
人からどう思われるかなんて、どうでもよくなってしまって、目的に向かってまっしぐらになれました。
自分の都合や、自分自身に意識が向いていると、あれこれと考えてしまって、結局はたいした成果は生まれないんだと気づきました。
そういうことって、やってあげたんじゃなくて、やらせてもらったんだって心底思いました。
実はガワンさんのことも、できることは全部やろうって決めています。
今日初めて読んだ人は、昨日と一昨日の記事を読んでくださいね。
友人知人にも呼びかけますし、マスコミはオリンピック一色ですが、今夜のラジオでもしっかりと実態をお話ししてきます。(ラジオ沖縄19:00生放送)
ガワンさんが当面のお金の心配から解放されて、身体の休養がとれて、無事に母親に再会する姿を見たいです。
ところで、この数日の記事を読んでくれた人の中に、こういう人はいませんか?
「自分はそんな好い人じゃないし、こういう呼び掛けに応じる自分は偽善だし・・・」
「困っている人は他にもいるし、寄付することがいいかどうかもわからないし・・・」
そういう人って、電車の中でも同じことしていません?
目の前にお年寄りが立っていて、席を代わってあげようと思ったとき
「何を好い人ぶっているんだ。心からの気持ちじゃないくせに。そもそも代わってあげることがこの人を助けることかどうかもわからないし・・・」
頭の中でそんな屁理屈をゴチャゴチャ言って、結局寝たふりしちゃうとかね。
実は、その人が頭の中で何を考えたかなんて、現実とは何の関係もありません。
現実はただ、そのお年寄りが座れたのか立ったままだったのかということだけです。
もしあなたがガワンさんの証言と現状に何かを感じてくれたとしたら、少しでも寄付してあげてください。
彼女はお金が必要なんです。
考えは考えを生むだけ。
現実に違いを作るのは行動です。
人からどう思われようと、やりたいと思ったことをやっていこうと決めました。
なんだか今日はやけに活動モードの僕がいます。
お金持ちのピーちゃん、山中さん、ベッキー、大空会のみんな、いまここ塾のみんな、波照間特派員も、モアイのメンバーも、梅ちゃんも、照ちゃんも、県警の警視さんも、くるくまの仲本社長も、宮古のムー君も、石垣の議員さんも浦さんも、久米島の仲間たちも、東京の石井君や、金ちゃんや、まみみさんや、八ヶ岳メンバーや、そしてこのブログで出会ったあなたも・・・みんなよろしく頼みます。
さ、それじゃ、郵便局行ってきます。
今日もここに来れてありがとうございました。
考えは考えを生むだけ
違いを作り出すのは・・・ポチッ、ポチッ
PS
明日も「いまここ塾」やっています。
週末はソロライブがあります。
去りゆく沖縄の夏を、一緒にはじけましょう。
Posted by Toshiro Abe at
08:18
│Comments(23)
2008年08月17日
続・その後
この世に偶然はあるのだろうか。
人生の展開は運命なのか、それとも自らの意思が作り出してきたものなのか。
過ぎ去った日々を想うとき、あらゆる出来事の絶妙なタイミングや、次々と出会う人達との不思議な縁に、人間を超えた何かとてつもなく大きな意思を感じずにはいられない。
これは裏ブログ随(かんながら)神のプロローグの出だしの一説です。
そもそもこの地球上に、たまたま生物が存在できる条件が整い、たまたま人類が出現した確率は、数兆分の一だそうです。
それを例えて言えば、猿がピアノの前に坐り、好き勝手に鍵盤を叩いたら、それがたまたまベートーベンの「月光」だったという、そういう確率だそうです。
ようするに人間の存在そのものが、偶然の産物ではないということです。
何か人智を超えたとてつもなく巨大な意志、神の意志のようなものが存在するとしなければ、人類の存在自体の説明がつかないというわけです。
そうなると、海中に単細胞生物が生まれ、それが悠久の時の中で進化を繰り返してきたあらゆる生命体の営みに、神の意志が関わっていたことになります。
同様に、人類が出現して以降の、あらゆる人間たちの営みにも同じことが言えるわけです。
今僕がこうしてブログを書いていることも、その内容も、すべては決定されていたという見方もできます。
人生を振り返ってみると、確かに不思議な偶然の一致や、巡り合わせが存在し、何かしらの力が働いていると考えたほうが合理的な場合があります。
その一方で僕らの人生は、その時その時の選択によって、いかようにも作り出すことができて、この先も自分の意志によって、どのようにも変えていけると言うのもこれまた事実です。
その相反する両方の作用が、同時に存在しているというのが、この宇宙の摩訶不思議な一面なのかもしれません。
昨日の記事に、ガワン・ワンドゥンさんというチベットの尼僧の話を載せました。
このブログは、開設してから2年間で1300もの記事を書いてきましたが、何かの運動への参加を呼び掛けたり、募金のお願いをするのはこれが2度目です。
1度目は中城村の土砂崩れ災害があった時に、家屋を失った人たちを励まそうと企画した「元気出していこう中城」キャンペーン。
そもそもこのブログ自体が、そのキャンペーンのために作られたものでした。
自分の意志とは関係なく、気がついたらそのイベントの主催者になっていて、なりふり構わず一人でも多くの人に呼びかけようとした結果がこのブログです。
もしあの時、何かがほんの少し違っていたら、その後ここでお会いすることになる多くの人達との出会いもなかったかもしれません。
もしあのチャリティーがなければ、僕はいまだにブログを始めていなかったと思います。
なぜこのようなことを書いているかと言えば、つい昨日までまさかこのブログでガワン・ワンドゥンさんを紹介することになるとは夢にも思わなかったからです。
「ある尼僧の証言」に出てくる現実はあまりにも悲惨で、その後の彼女がどうなってしまったのか気になってはいましたが、このような関わりを持つことになるとは思いませんでした。
昨日また支援プロジェクトの高橋さんからメールをいただきました。
寄付を下さった方々には、後日ガワンから礼状が届くことになると思います。
寄付金の額などは、サイトでも公表し透明性を持たせるつもりです。
また、今回心配してくださった方々のためにもガワンのその後の体調、生活状況についても定期的にアップしていくつもりです。
本当にお世話になりました。
ありがとうございました。
とありました。
数か月前、見知らぬ異国の尼僧の運命に涙し、自分の無力感にさいなまれた日々が思い起こされます。
もし今回のことが、わずかでも彼女の自立を支援する結果になるとしたら、あの日の涙は形となって花開いたことになります。
もし彼女が再び故郷の土を踏み、母親との再会を果たすことができたとしたら、どんなに嬉しいでしょう。
実は昨日は、他のことをブログに書く予定でした。
それが一通のメールを読んだ瞬間に、自分の意志とは関係なく(?)体が動いていて、気が付いてみたら記事を書きあげていました。
アップしたのは朝ですが、書き上げたのはメールを読んだ直後で、夜中でした。
後になって改めて記事を読んだとき、募金をお願いしたことで、読んだ人にプレッシャーを与えてしまったかとも思いました。
でも同時に、このブログでの僕たちの見えない関わりが、わずかでも形として誰かの幸せにつながるとしたら、これまで1300の記事を書いてきたことすべてに意味を感じます。
ガワン・ワンドゥンさんの健康と幸せを、心よりお祈りしています。
そして世界が平和であることを、この地上から少しでも苦しみがなくなることを、心から祈っています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
人生の展開は運命なのか、それとも自らの意思が作り出してきたものなのか。
過ぎ去った日々を想うとき、あらゆる出来事の絶妙なタイミングや、次々と出会う人達との不思議な縁に、人間を超えた何かとてつもなく大きな意思を感じずにはいられない。
これは裏ブログ随(かんながら)神のプロローグの出だしの一説です。
そもそもこの地球上に、たまたま生物が存在できる条件が整い、たまたま人類が出現した確率は、数兆分の一だそうです。
それを例えて言えば、猿がピアノの前に坐り、好き勝手に鍵盤を叩いたら、それがたまたまベートーベンの「月光」だったという、そういう確率だそうです。
ようするに人間の存在そのものが、偶然の産物ではないということです。
何か人智を超えたとてつもなく巨大な意志、神の意志のようなものが存在するとしなければ、人類の存在自体の説明がつかないというわけです。
そうなると、海中に単細胞生物が生まれ、それが悠久の時の中で進化を繰り返してきたあらゆる生命体の営みに、神の意志が関わっていたことになります。
同様に、人類が出現して以降の、あらゆる人間たちの営みにも同じことが言えるわけです。
今僕がこうしてブログを書いていることも、その内容も、すべては決定されていたという見方もできます。
人生を振り返ってみると、確かに不思議な偶然の一致や、巡り合わせが存在し、何かしらの力が働いていると考えたほうが合理的な場合があります。
その一方で僕らの人生は、その時その時の選択によって、いかようにも作り出すことができて、この先も自分の意志によって、どのようにも変えていけると言うのもこれまた事実です。
その相反する両方の作用が、同時に存在しているというのが、この宇宙の摩訶不思議な一面なのかもしれません。
昨日の記事に、ガワン・ワンドゥンさんというチベットの尼僧の話を載せました。
このブログは、開設してから2年間で1300もの記事を書いてきましたが、何かの運動への参加を呼び掛けたり、募金のお願いをするのはこれが2度目です。
1度目は中城村の土砂崩れ災害があった時に、家屋を失った人たちを励まそうと企画した「元気出していこう中城」キャンペーン。
そもそもこのブログ自体が、そのキャンペーンのために作られたものでした。
自分の意志とは関係なく、気がついたらそのイベントの主催者になっていて、なりふり構わず一人でも多くの人に呼びかけようとした結果がこのブログです。
もしあの時、何かがほんの少し違っていたら、その後ここでお会いすることになる多くの人達との出会いもなかったかもしれません。
もしあのチャリティーがなければ、僕はいまだにブログを始めていなかったと思います。
なぜこのようなことを書いているかと言えば、つい昨日までまさかこのブログでガワン・ワンドゥンさんを紹介することになるとは夢にも思わなかったからです。
「ある尼僧の証言」に出てくる現実はあまりにも悲惨で、その後の彼女がどうなってしまったのか気になってはいましたが、このような関わりを持つことになるとは思いませんでした。
昨日また支援プロジェクトの高橋さんからメールをいただきました。
寄付を下さった方々には、後日ガワンから礼状が届くことになると思います。
寄付金の額などは、サイトでも公表し透明性を持たせるつもりです。
また、今回心配してくださった方々のためにもガワンのその後の体調、生活状況についても定期的にアップしていくつもりです。
本当にお世話になりました。
ありがとうございました。
とありました。
数か月前、見知らぬ異国の尼僧の運命に涙し、自分の無力感にさいなまれた日々が思い起こされます。
もし今回のことが、わずかでも彼女の自立を支援する結果になるとしたら、あの日の涙は形となって花開いたことになります。
もし彼女が再び故郷の土を踏み、母親との再会を果たすことができたとしたら、どんなに嬉しいでしょう。
実は昨日は、他のことをブログに書く予定でした。
それが一通のメールを読んだ瞬間に、自分の意志とは関係なく(?)体が動いていて、気が付いてみたら記事を書きあげていました。
アップしたのは朝ですが、書き上げたのはメールを読んだ直後で、夜中でした。
後になって改めて記事を読んだとき、募金をお願いしたことで、読んだ人にプレッシャーを与えてしまったかとも思いました。
でも同時に、このブログでの僕たちの見えない関わりが、わずかでも形として誰かの幸せにつながるとしたら、これまで1300の記事を書いてきたことすべてに意味を感じます。
ガワン・ワンドゥンさんの健康と幸せを、心よりお祈りしています。
そして世界が平和であることを、この地上から少しでも苦しみがなくなることを、心から祈っています。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
Posted by Toshiro Abe at
09:15
│Comments(15)
2008年08月16日
ある尼僧の証言 その後
今年3月に起きたチベット自治区での大規模なデモと、それに対する武力弾圧。
チベットの現状を知れば知るほど、これは見て見ぬふりをしてはいけないと思いました。
連日のようにこのブログでもチベット問題を取り上げてきました。
その中で「ある尼僧の証言」を紹介しました。
想像をはるかに超えた過酷な現実と、そこで生きる人々の苦しみがいかに壮絶なものかを知りました。
あの文章は、チベット証言集というサイトからの転載です。
インドに亡命したチベット難民に直接インタビューし、日本語に訳したものです。
それを日本語にまとめたご本人、チベット難民支援NGO「ルンタ・プロジェクト」の高橋さんという女性から、昨日メールを頂きました。
彼女によると、あの証言をした尼僧ガワン・ワンドゥンさんは、今もなお苦境の中で生きておられるそうです。
ルンタ・プロジェクトが彼女の支援を呼び掛けていますが、なんとか僕たちの力を合わせて彼女を助けられないでしょうか。
彼女の現状をここに紹介します。
ガワンは、1992年、15歳のときにチベット独立要求デモに参加し、3年の懲役刑を受けました。
(「ある尼僧の証言」を今一度読み返してください)
拘置所や刑務所で受けた拷問のせいで、今でも後遺症に悩まされています。
特に肝臓の調子が思わしくなく、慢性的な倦怠感があり、吐き気や頭痛のため、時には何日も寝込んでしまうような生活を送っていました。
2002年の冬に、アムネスティ・インターナショナルの招きで来日し、「拷問廃止キャンペーン」の一環として日本各地をまわり、チベットの監獄では日常的に拷問が行われていることを訴えました。
亡命先のインドに戻ってからは、ルンタハウスのスタッフの部屋を間借りして、体調をみながら、英語を勉強する日が続いていました。
今年の2月、ようやくアメリカのビザが下りて、ガワンは渡米しました。
チベット難民は世界で約12万人いますが、インド、ネパールの次には北米で難民生活を送るチベット人が最も多く、約2万人がアメリカ・カナダで暮らしています。
チベット亡命政府の雇用能力は限られているため、何らかの方法で先進国に亡命する人たちは後を絶たないのです。
その多くは、まず短期の観光ビザで先進国に入り、その後一定期間の不法滞在の後、難民申請が認められて市民権を得る、というプロセスを経るようです。
先進国のパスポートを手に入れることができれば、中国の観光ビザを得て、チベットで暮らす両親を故郷の村や町に訪ねることもできます。
インドに亡命した状態で、パスポートやビザがないままチベットに戻れば、逮捕される可能性があるため、両親に会いたいがために、先進国を目指す者も少なくないのです。
ガワンもそんな思いを抱えて、アメリカに渡りました。
現在、NYで生活しており、ダプチ刑務所で一緒だった尼僧の部屋に居候しているようです。
一日も早く経済的に自立して、難民申請が許可され、アメリカの市民権を得る日を夢見ていたのですが、6月に病気になってしまいました。
高熱が出て、意識不明の状態に陥ってしまったのです。
一緒に暮らしていた尼僧がこのままでは死んでしまうのではないかと心配になって、ERに連れて行きました。
一命は取り留めたものの、後日届いた病院からの請求書は50万円もするものでした。
アメリカには日本や他の先進国のように社会保険制度が整っていません。
したがって、民間の医療保険に加入することになります。
けれども、月々の保険料が高いため、約4000万人のアメリカ人(人口の6人に1人)は保険に加入していません。
ガワンは病気にならないようにと、健康管理には人一倍気を使っていたようですが、どうやら無理がたたったようです。
ガワンは、多くの不法移民の女性がそうであるように、家政婦の仕事をしています。
朝9時から夜の9時まで週6日働いて、週$400を得ています。
体調は一時期よりも持ち直したというものの、先週も体を壊してしまって一週間働けなかったそうです。
「もう無理しないでインドに戻ってくるのはどう?」と思わず口に出てしまったのですが、「お母さんが亡くなる前にどうしても一目会いたいから、パスポートが取れるまでがんばる」と言っていました。
3月のチベット騒乱以降、連絡が取れない状態が続いていて、よりいっそう母親に会いたいという思いを強くしているようです。
・・・・・・・・・
彼女のような壮絶な苦しみを強いられたチベット僧は、数え切れないほどいることでしょう。
僕たちは、その人たちみんなを助けることはできませんが、せめて彼女一人でも支援してあげることはできないでしょうか。
このブログで彼女の証言を掲載させてもらったのも、何かの御縁だと思っています。
まだ読んでいない人は、ぜひ一読ください。
「ある尼僧の証言」
賛同してくれる方は、ご協力をお願いします。
ガワンさんへの支援金は、ルンタ・プロジェクトの口座までお願いします。
なお、お手数をおかけしますが、お振込みの際に通信欄に「ガワン・ワンドゥン支援金」とご記入ください。
お振込み先 郵便振替口座 00970-1-77810
口座名 ルンタ・プロジェクト
2008年9月3日までに943,196円もの支援金が寄せられました。
現在は募金は終了しています。
ありがとうございました。
ルンタ・プロジェクトHP
http://www.lung-ta.org/
想いはあっても、直接の寄付に躊躇される方もおられると思います。
このような現実が今もなお続いていることを、身近な人に伝えてくれるだけでも、意義のあることだと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届くように、ブログランキングに参加しています。
2つのボタンを押してください。
それによって、このブログが上位に置かれ、多くの人の目にとまります。
チベットの現状を知れば知るほど、これは見て見ぬふりをしてはいけないと思いました。
連日のようにこのブログでもチベット問題を取り上げてきました。
その中で「ある尼僧の証言」を紹介しました。
想像をはるかに超えた過酷な現実と、そこで生きる人々の苦しみがいかに壮絶なものかを知りました。
あの文章は、チベット証言集というサイトからの転載です。
インドに亡命したチベット難民に直接インタビューし、日本語に訳したものです。
それを日本語にまとめたご本人、チベット難民支援NGO「ルンタ・プロジェクト」の高橋さんという女性から、昨日メールを頂きました。
彼女によると、あの証言をした尼僧ガワン・ワンドゥンさんは、今もなお苦境の中で生きておられるそうです。
ルンタ・プロジェクトが彼女の支援を呼び掛けていますが、なんとか僕たちの力を合わせて彼女を助けられないでしょうか。
彼女の現状をここに紹介します。
ガワンは、1992年、15歳のときにチベット独立要求デモに参加し、3年の懲役刑を受けました。
(「ある尼僧の証言」を今一度読み返してください)
拘置所や刑務所で受けた拷問のせいで、今でも後遺症に悩まされています。
特に肝臓の調子が思わしくなく、慢性的な倦怠感があり、吐き気や頭痛のため、時には何日も寝込んでしまうような生活を送っていました。
2002年の冬に、アムネスティ・インターナショナルの招きで来日し、「拷問廃止キャンペーン」の一環として日本各地をまわり、チベットの監獄では日常的に拷問が行われていることを訴えました。
亡命先のインドに戻ってからは、ルンタハウスのスタッフの部屋を間借りして、体調をみながら、英語を勉強する日が続いていました。
今年の2月、ようやくアメリカのビザが下りて、ガワンは渡米しました。
チベット難民は世界で約12万人いますが、インド、ネパールの次には北米で難民生活を送るチベット人が最も多く、約2万人がアメリカ・カナダで暮らしています。
チベット亡命政府の雇用能力は限られているため、何らかの方法で先進国に亡命する人たちは後を絶たないのです。
その多くは、まず短期の観光ビザで先進国に入り、その後一定期間の不法滞在の後、難民申請が認められて市民権を得る、というプロセスを経るようです。
先進国のパスポートを手に入れることができれば、中国の観光ビザを得て、チベットで暮らす両親を故郷の村や町に訪ねることもできます。
インドに亡命した状態で、パスポートやビザがないままチベットに戻れば、逮捕される可能性があるため、両親に会いたいがために、先進国を目指す者も少なくないのです。
ガワンもそんな思いを抱えて、アメリカに渡りました。
現在、NYで生活しており、ダプチ刑務所で一緒だった尼僧の部屋に居候しているようです。
一日も早く経済的に自立して、難民申請が許可され、アメリカの市民権を得る日を夢見ていたのですが、6月に病気になってしまいました。
高熱が出て、意識不明の状態に陥ってしまったのです。
一緒に暮らしていた尼僧がこのままでは死んでしまうのではないかと心配になって、ERに連れて行きました。
一命は取り留めたものの、後日届いた病院からの請求書は50万円もするものでした。
アメリカには日本や他の先進国のように社会保険制度が整っていません。
したがって、民間の医療保険に加入することになります。
けれども、月々の保険料が高いため、約4000万人のアメリカ人(人口の6人に1人)は保険に加入していません。
ガワンは病気にならないようにと、健康管理には人一倍気を使っていたようですが、どうやら無理がたたったようです。
ガワンは、多くの不法移民の女性がそうであるように、家政婦の仕事をしています。
朝9時から夜の9時まで週6日働いて、週$400を得ています。
体調は一時期よりも持ち直したというものの、先週も体を壊してしまって一週間働けなかったそうです。
「もう無理しないでインドに戻ってくるのはどう?」と思わず口に出てしまったのですが、「お母さんが亡くなる前にどうしても一目会いたいから、パスポートが取れるまでがんばる」と言っていました。
3月のチベット騒乱以降、連絡が取れない状態が続いていて、よりいっそう母親に会いたいという思いを強くしているようです。
・・・・・・・・・
彼女のような壮絶な苦しみを強いられたチベット僧は、数え切れないほどいることでしょう。
僕たちは、その人たちみんなを助けることはできませんが、せめて彼女一人でも支援してあげることはできないでしょうか。
このブログで彼女の証言を掲載させてもらったのも、何かの御縁だと思っています。
まだ読んでいない人は、ぜひ一読ください。
「ある尼僧の証言」
賛同してくれる方は、ご協力をお願いします。
ガワンさんへの支援金は、ルンタ・プロジェクトの口座までお願いします。
なお、お手数をおかけしますが、お振込みの際に通信欄に「ガワン・ワンドゥン支援金」とご記入ください。
お振込み先 郵便振替口座 00970-1-77810
口座名 ルンタ・プロジェクト
2008年9月3日までに943,196円もの支援金が寄せられました。
現在は募金は終了しています。
ありがとうございました。
ルンタ・プロジェクトHP
http://www.lung-ta.org/
想いはあっても、直接の寄付に躊躇される方もおられると思います。
このような現実が今もなお続いていることを、身近な人に伝えてくれるだけでも、意義のあることだと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届くように、ブログランキングに参加しています。
2つのボタンを押してください。
それによって、このブログが上位に置かれ、多くの人の目にとまります。
Posted by Toshiro Abe at
08:35
│Comments(22)
2008年08月15日
一番簡単な瞑想
自分の生活を注意深く観察してみると、僕たちは一日中、漠然と考え事をしているのがわかります。
仕事をしていても、車の運転をしていても、台所に立っていても、頭の中ではゴチャゴチャと様々な考えが行きかっています。
すでに終わってしまったこと、これから先のこと、気になっていること、あれやこれやの想念のオンパレードです。
一説には1日6万もの思考が、僕らの中を駆けめぐっているとか。
しかもその95%は、昨日考えたことと同じか、それに類することのようです。
人間は便利にできていて、考え事をしながらも、無意識に身体は目の前の現実に反応してくれます。
どっぷりと思考につかりながら、車のハンドルを握り、気がついたら目的地に着いていたなんてことも、よくあることです。
食事も考え事をしながら食べることが多く、ましてや人とおしゃべりしながらの食事であれば、今口の中に運ばれたのが、ご飯なのか、野菜なのか、肉なのか、それさえも忘れています。
そのような思考にまみれた、無意識の行動に中断を与えて、心と体を一致させようというのが瞑想です。
瞑想とは、静かに坐ることを指すのではなく、生活の中に気づきをもたらすことなのです。
そのために一番手っ取り早いのが、呼吸に気づくことです。
「いま、息を吸っている」
「いま、息を吐いている」
どんな時でもいいから、思いだしたらそんな意識的な呼吸をしてみましょう。
呼吸に意識を持ち込むと、それはゆったりと深くなっていきます。
そのぶん、心も落ち着いてきます。
意識的な呼吸、それがまさに瞑想です。
その時は、思っていることと、やっていることが一致しています。
呼吸を思い、呼吸をしているのですから。
これはとても効果がある修行法です。
あまりにも簡単なので、たいしたことがないように思いがちですが、とんでもない。
僕たちを究極に誘ってくれる、大きなパワーを秘めています。
世界のどこかに魂の成長を促す秘密のテクニックが存在して、その奥義を体得すれば悟りは近いなんて思いがちですが、それは間違いです。
このような単純な方法こそが、その奥義なのです。
ティク・ナット・ハン師は言います。
考えることに気を奪われて時を過ごす人がいます。
しかし、考えることは、ほとんど助けにはなりません。
私たちはすでに過ぎ去ったことを考えたり、まだ起こってもいないこと、あるいは決して起こることのないことを考えます。
私たちの思考は、過去、または未来でさまよっています。
私たちは、恐怖と心配、計画、あるいは悲しみにしがみついているのです。
集中し、深く観ることができた時、思考はとても生産的な力を発揮します。
しかし、昼夜を分かたず、録音テープが頭のなかで回っているなら、私たちは思考の奴隷になってしまうのです。
・・・・呼吸に集中してください。
そうすれば、激しい思考の嵐は止まるでしょう。
家に、自分自身に戻ってきてください。
ティク・ナット・ハン 「抱擁」 現文メディア刊
生活の中で、思い出したらいつでもいいです、そのような意識的な呼吸を繰り返してみてください。
そのことは僕たちを心身ともに健全な状態に戻してくれます。
自分の時間が作れたら、全ての行動をやめて、ただ静かに坐り、ふたたび呼吸に集中してみましょう。
さらに深く、さらに静かな境地を味わうことができるはずです。
そのような瞑想習慣を生活の中に取り入れていきましょう。
それが、これからの大変革の時代を生きる僕たちの、精神的土台を作ってくれます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
この情報が多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
Posted by Toshiro Abe at
09:42
│Comments(16)
2008年08月14日
ナット・ハン師の警告
先日、都内のある出版社からメールが入りました。
いつもブログを読んでくれているそうで、このブログと内容がリンクした本を出版するので贈呈したいとのことでした。
そして本当に新刊本を贈ってくださいました。
その本の著者はティク・ナット・ハン。
欧米ではダライ・ラマと並び称される、とても有名な仏教指導者です。
ベトナム出身の禅僧で、ベトナム戦争当時、敵味方関係なく命の救済に奔走した姿は、多くの人に感銘を与えました。
キング牧師からは、ノーベル平和賞候補として推薦されています。
僕がティク・ナット・ハン師を知ったのは10数年前。
向和尚からお借りした一冊の本でした。
そこに書かれた、平易ではあるけれど真実をついた言葉に、心動かされたのを覚えています。
今日は旧盆の中日。
多くの先祖霊が集まるというこの日に、これからの人類の行く末を、共に考えてみたいと思います。
ナット・ハン師は警告します。
私たちが今の生活を続けるならば、私たちの文明は破壊されてしまうでしょう。
既存の人生観や、私たちの態度を見つめ直さなければなりません。
子供たちが生きていく生活空間について熟慮することなく、自分勝手な生き方をしてはいけません。
そのためには「いま」を生きていくことを学ばなくてはいけません。
私たちの意識が変わりさえすれば、社会を変化させることができます。
私たちはあらゆる文化的な境界を超越し、「私たちは同一の未来を共有している」という意識を持たなくてはなりません。
他の人や、他の民族、他の国や、動物達の苦痛を土台にしては私たちの幸福を生み出すことができないのです。
幸福とは決して個人の問題ではないのです。
・・・・・・・・
そのために世界中の人が取り組むべきこととして、「瞑想」の必要性を説いています。
人類の意識変革を促すには、「瞑想」しかないと強調します。
ナット・ハン師はその影響力の大きさゆえに、ベトナム政府から帰国を拒否され、現在フランスで亡命生活を送っています。
難民の救援活動に取り組み、難民の子供たちを自らの子供として育て、農園を営み、生活と一体となった瞑想を実践しています。
さらには世界各国で講演や瞑想指導を行っています。
僕たちの文明は、より豊かに、より快適に暮らすことを目的に作られてきました。
今日の糧だけでは飽き足らず、より多くを得ることで、未来への安全を保障しようとしてきました。
そのために、知らない場所で子供が飢えて死のうが、見えない場所で動物が殺されようが、地球環境がどれだけ破壊されようが、我関せずという生き方をしてきました。
そんな自分勝手な生き方が、自らの首を絞め、今や人類は存続の危機に瀕しています。
この事実は誰もが知っていることですが、自分だけはいいだろうという気持ちが、この流れを変えられずにいるのです。
僕は思います。
人間の行動を変えるには、意識そのものを変えることだと。
意識が変われば考え方が変わります。
考え方が変われば行動が変わります。
そして行動が変われば結果が変わるのです。
その意識変革とは、明日の幸せの為に生きるのではなく、「いまここ」にある幸せに気づくことです
そして「いま」、自分たちが何をすべきなのかを正確に見つめることです。
夢遊病者のように自動的に生きてきた流れを止めて、「いまここ」の気づきを生きるのです。
ジョンレノンは歌います。
imagine all the people
living for today・・・
もし世界中の人が、今日一日のために生きているのなら、争うことも、より多くを奪い合うこともなくなると。
そして事実、僕たちが生きているのは、今日という日なのです。
未来という幻想が欲望を作りだし、多くの争いを生み出してきました。
もう気がついてもいい頃です。
僕たちはいつも「いま」を生きているのです。
それ以外はすべて、頭が作り出している幻影です。
最後に、今回頂いた本の中から、ナット・ハン師の言葉を紹介して終わることにします。
編集者の方が言ってくださったように、まさにこのブログでお伝えしてきたことを、師はわかりやすく説いてくれています。
多くの人が、一歩一歩の意味を意識することなく生きています。
私たちは「いまここ」にある幸せを見ずに、幸せが未来にあると信じているため、いつも走ることが習慣になっています。
走らないで止まってごらんなさい。
それは重要なことです。
今のあなたは、そのまままで素晴らしいのです。
他の人になろうとしないで下さい。
あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。
あなたが探しているものは、すでにこの瞬間にあるのです。
ティク・ナット・ハン 「抱擁」 現文メディア刊
時間のある人は、もう一度今日の記事を読みなおしてみてください。
そしてお互いに、自分の生き方を見つめなおし、子供たちにどんな世界を残すのかを考えてみましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
この情報が多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。
いつもブログを読んでくれているそうで、このブログと内容がリンクした本を出版するので贈呈したいとのことでした。
そして本当に新刊本を贈ってくださいました。
その本の著者はティク・ナット・ハン。
欧米ではダライ・ラマと並び称される、とても有名な仏教指導者です。
ベトナム出身の禅僧で、ベトナム戦争当時、敵味方関係なく命の救済に奔走した姿は、多くの人に感銘を与えました。
キング牧師からは、ノーベル平和賞候補として推薦されています。
僕がティク・ナット・ハン師を知ったのは10数年前。
向和尚からお借りした一冊の本でした。
そこに書かれた、平易ではあるけれど真実をついた言葉に、心動かされたのを覚えています。
今日は旧盆の中日。
多くの先祖霊が集まるというこの日に、これからの人類の行く末を、共に考えてみたいと思います。
ナット・ハン師は警告します。
私たちが今の生活を続けるならば、私たちの文明は破壊されてしまうでしょう。
既存の人生観や、私たちの態度を見つめ直さなければなりません。
子供たちが生きていく生活空間について熟慮することなく、自分勝手な生き方をしてはいけません。
そのためには「いま」を生きていくことを学ばなくてはいけません。
私たちの意識が変わりさえすれば、社会を変化させることができます。
私たちはあらゆる文化的な境界を超越し、「私たちは同一の未来を共有している」という意識を持たなくてはなりません。
他の人や、他の民族、他の国や、動物達の苦痛を土台にしては私たちの幸福を生み出すことができないのです。
幸福とは決して個人の問題ではないのです。
・・・・・・・・
そのために世界中の人が取り組むべきこととして、「瞑想」の必要性を説いています。
人類の意識変革を促すには、「瞑想」しかないと強調します。
ナット・ハン師はその影響力の大きさゆえに、ベトナム政府から帰国を拒否され、現在フランスで亡命生活を送っています。
難民の救援活動に取り組み、難民の子供たちを自らの子供として育て、農園を営み、生活と一体となった瞑想を実践しています。
さらには世界各国で講演や瞑想指導を行っています。
僕たちの文明は、より豊かに、より快適に暮らすことを目的に作られてきました。
今日の糧だけでは飽き足らず、より多くを得ることで、未来への安全を保障しようとしてきました。
そのために、知らない場所で子供が飢えて死のうが、見えない場所で動物が殺されようが、地球環境がどれだけ破壊されようが、我関せずという生き方をしてきました。
そんな自分勝手な生き方が、自らの首を絞め、今や人類は存続の危機に瀕しています。
この事実は誰もが知っていることですが、自分だけはいいだろうという気持ちが、この流れを変えられずにいるのです。
僕は思います。
人間の行動を変えるには、意識そのものを変えることだと。
意識が変われば考え方が変わります。
考え方が変われば行動が変わります。
そして行動が変われば結果が変わるのです。
その意識変革とは、明日の幸せの為に生きるのではなく、「いまここ」にある幸せに気づくことです
そして「いま」、自分たちが何をすべきなのかを正確に見つめることです。
夢遊病者のように自動的に生きてきた流れを止めて、「いまここ」の気づきを生きるのです。
ジョンレノンは歌います。
imagine all the people
living for today・・・
もし世界中の人が、今日一日のために生きているのなら、争うことも、より多くを奪い合うこともなくなると。
そして事実、僕たちが生きているのは、今日という日なのです。
未来という幻想が欲望を作りだし、多くの争いを生み出してきました。
もう気がついてもいい頃です。
僕たちはいつも「いま」を生きているのです。
それ以外はすべて、頭が作り出している幻影です。
最後に、今回頂いた本の中から、ナット・ハン師の言葉を紹介して終わることにします。
編集者の方が言ってくださったように、まさにこのブログでお伝えしてきたことを、師はわかりやすく説いてくれています。
多くの人が、一歩一歩の意味を意識することなく生きています。
私たちは「いまここ」にある幸せを見ずに、幸せが未来にあると信じているため、いつも走ることが習慣になっています。
走らないで止まってごらんなさい。
それは重要なことです。
今のあなたは、そのまままで素晴らしいのです。
他の人になろうとしないで下さい。
あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。
あなたが探しているものは、すでにこの瞬間にあるのです。
ティク・ナット・ハン 「抱擁」 現文メディア刊
時間のある人は、もう一度今日の記事を読みなおしてみてください。
そしてお互いに、自分の生き方を見つめなおし、子供たちにどんな世界を残すのかを考えてみましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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Posted by Toshiro Abe at
07:58
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2008年08月13日
とことん生きる
子供のころ鍵っ子だったので、いつも一人でテレビを見ていました。
そこに映る東京の街並みや、華やかなスポットライトを浴びる歌手たちに強烈に憧れ、自分も大人になったらあんな人になるんだと心ひそかに決めていました。
独り立ちしたのは18歳のときです。
一回きりの人生、必ず自分の夢をかなえてみせるという情熱に燃えていました。
ギター片手に上京した当時は、右も左もわからず、業界関係者を知るわけでもなく、都会の雑踏でアルバイトをしながら、願望を実現させるために必要なことは何でもやりました。
騙されて途方にくれたり、見下されて悔しい思いをしたり、住む家がなくなって知り合いのアパートを転々としたり、それでも前を向き続けた青春時代でした。
その後、道が開き始め、次々と夢が叶いだしました。
その頃の僕を記憶している人も少しはいるかと思いますが、ずいぶん華やかな思いをさせてもらいました。
ところが、どこまで行っても上には上がいて、華やかな生活とは裏腹に、心の中の欠乏感は一向に埋まらず、もしかしたらどこまで行っても同じなのではという疑問を持ち始めました。
彼方に美しい花畑が見えて、あそこまで辿りつけばきっと満足や幸せが手に入ると思って頑張るのですが、たどり着いてみれば、そこは同じように殺伐とした土地が広がるばかりです。
なんだ、ここまで来ても同じだったかと、後ろを振り向いてみると、そんな僕を追いかけてくる人たちがいます。
どこまで行っても先を人が走っていて、いつだって後ろから誰かが追いかけてきて、そうかこのレースは直線レースではなくて、トラックをぐるぐる回るだけの周回レースだったんだと気づきました。
そう思ってよくよく見てみれば、先を走る大スター達もその笑顔の後ろに、僕と何も変わらない苦しみと欠乏感を抱えているのがよくわかります。
どこまでいってもきりがないとしたら、このレースの意味はいったい何なんだ。
いつかいつかと言いながら、どこまで走っても何もない。
欲望をいくら満たしても、さらなる渇きが生じるだけで、これでいいということがない。
欲望は約束するだけで、決して何も与えてくれない。
苦しみを抱えながら生を通り抜けても、手の中に残るものは何もなく、そして最後は死んでいく。
人間は明日への希望を持ちながら走り続けているけれど、その先に何もないことを理解していないだけだ。
いや、理解したくないんだ。
僕はわかった。
この繰り返しに意味はない。
どこまで行っても同じことだ。
どうせなら早く死んでしまいたい。
それは人生への絶望感のようなものでした。
その後は漠然と自殺することを考え始めましたが、死ぬだけの勇気もなく、そのまま生き残ってしまいました。
最初の啓示が訪れたのは、そんなときでした。
人生の無意味さを理解した後で、天の恩恵が降り注いだのです。
人生は大きく分けて2段階あります。
未来への希望や期待を胸に抱いて生きていく段階。
そして次が精神霊的な道を歩む段階です。
精神霊的な道というのは、神を求めたり、あの世の幸せを求めたり、悟りを求めたりするのとは違います。
それらは相変わらず、未来への希望と期待を生きています。
ただ中身がお金や名誉から、真理や悟りに変わっただけの話で、心の仕組みは同じままです。
精神霊的な道とは、ここにないものに憧れるのではなく、まさに「いまここ」のリアリティーを生きるということなのです。
精神世界ブームの落とし穴は、社会で成功できなかった人が、今度は神だとかスピリチュアルな世界でひとかどの人物になろうとすることです。
そんな人をたくさん見てきました。
さて、今日僕が言いたかったことはこうです。
2段階目に進むためには、最初の段階をとことん生きなくてはなりません。
知識によって「欲望には何もない」「人生に意味はない」などと知っても、心の底で「まだ何かあるはずだ」と思っていれば、精神の道を歩くことが困難になります。
そういう人は、「どうやったら瞑想に集中できますか」「どうやったら思考を止められますか」と聞くはめになります。
思考は止められません。
そこに欲望があるのに、思考が止まるわけがないのです。
無思考の状態は、いっさいの希望や欲望が消えた時に訪れる、いまここの境地です。
その境地の中に、神とは何か、真理とは何かの洞察があります。
まずは自分自身の人生の中に、希望や、期待や、欲望の中に入っていくのです。
それをとことん生き切ったとき、そこに何もなかったことを理解するでしょう。
このブログは毎日多くの人が訪ねてきてくれますが、ここに来る人たちの中には、いわゆる社会の成功者たち、世間から憧れの目で見られている人たちが多くいると感じています。
そこまで辿りついたのに、何もないことが分かり始めた人たちです。
それがわかり始めたら、もう時間延ばしする必要はありません。
世界全体を征服してからでなくても、この真実を見抜くことはできるはずです。
あるいは、形としての成功はなくても、この人生のトリックに気づき始めた敏感な魂達も
多くいると思います。
それは寄せられたコメントを見るとよくわかります。
時代は大きく変わり始めています。
これからは僕たちの時代です。
こうして出会えたことを、心から喜んでいます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このブログを多くの人に見てもらいたいと願っています。
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Posted by Toshiro Abe at
08:45
│Comments(16)
2008年08月12日
ヒーラー
最近、偶然にも(?)同じようなメールが寄せられています。
それは「ヒーラー」という職業の方からの相談メールです。
その方達の話で一致している点がいくつかあります。
それは、自分がこのままでいいのかという疑問です。
かいつまんで話しますと、ヒーリングサロンというものがあって、そこに通いながらヒーラーとしての技術を習得し、自らヒーラーになるのだそうです。
ところがヒーリング業界(?)も競争が激しく、権力争いがあったり、自分たちだけが正しいという締め付けがあったりするのだそうです。
お決まりの言葉でクライアントに接し、むしろ彼らを混乱させたり、新たな傷を作ったりすることもあるそうです。
その言葉というのが、「前世のトラウマ」「前世の悪行」「カルマ」「ネガティブエネルギー」「輝く未来」・・・
なんだかこのブログで異議を唱えているような言葉ばかりですね。
あるのかないのか確証のない言葉を使って、人の相談に乗るということからして、やや危うい職業のように思います。
さて本当のヒーラーとは、問題を抱えたクライアントが、実際はどこも悪くないということを、深いレベルで知っている人のことです。
もともと「Heal」という言葉の語源が「Whole」だと言われるように、全体性にもどすことを「癒す」というのです。
起きている現実が混乱して見えていて、あらゆる面に不完全さを感じているのがクライアントです。
それが心身の苦しみとなって表れているので、高い料金を払ってでも癒してもらいたいと思うのでしょう。
そんな人たちに対応するには、まず自らが全ての現象の背後に完璧さを見出す能力が必要です。
混乱した人が混乱した人を導くと、大混乱になってしまいます。
そもそも、人は人を癒すことはできません。
癒しはその人の中で起きることだからです。
僕がアドバイスしたいのは、自己(自我)が消えた時、そこに在るのが癒しのエネルギーだということです。
低いレベルの自分、自己に固執した自分、これこそが癒しを妨げている原因です。
自己に固執した存在は、とても知的で、なんでも判断し、裁き、正当化し、答えを出してしまいます。
そのような分別の世界は、一見正しいように見えるのですが、実はとても狭量な息苦しい世界です。
そこから癒しは生まれません。
癒しは正しさで相手を説得することではないのです。
ヒーラーが率先して自我を落としていき、目の前の人が安心してその場に身を委ねる雰囲気を作るのが最初に行われるべきことです。
そうやって開かれた場において、自然に発動するのが癒しのエネルギーです。
自己(自我)は時間への囚われの産物です。
それは過去と未来という幻想の中に存在します。
その自己がなくなれば「いまここ」が見えてきます。
癒しのエネルギーというのは、常に「いまここ」を流れている高いレベルの僕たちの本質なのです。
ヒーラーを目指す人は、自らが傷ついているか、深く傷ついた経験を持っている人です。
でなければ、人を癒したいなどと思わないからです。
実際には人を癒すことをとおして、自分自身が癒されたいと思っていることに気づきましょう。
そこに何も間違いはありません。
それでいいのです。
反対から見れば、あなたは人を癒すために、たくさんの痛みを通り抜けてきたのですから。
そんなあなたのような人を、いま多くの人が必要としています。
まずは自分を開くことを学んでください。
あなたはあなたのままで完璧だということを知ってください。
そうすれば、あらゆる人の背後に、その完璧さが見えてきます。
それがヒーラーです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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Posted by Toshiro Abe at
09:08
│Comments(21)
2008年08月11日
究極伝えたいこと
今日もここに来てくれてありがとう。
伝えたいことがたくさんあって、あれもこれも書いてみるんだけど、分かりにくかったかもしれないって、自分の文章力の限界を感じたりもします。
このことが伝われば、根底から楽になる人もいるはずで、そんな思いで書いていますが、でもそれは僕の自己満足かもしれません。
人はみな、然るべき時に自分のタイミングで目覚めるようにできていて、それはあらかじめ決定されているようにも思うからです。
それは自分自身が経験した時に感じました。
あーこれは決まっていたんだ。
一瞬早からず遅からず、ここにたどり着くことは決まっていたんだ。
今までの全ての出来事は、このことを知るためにあったんだ。
人生には何一つ無駄もなく、何一つ偶然もなかったんだ。
気まぐれに散歩したことも、机の上をかたずけたことも、人生で起きたほんの小さな出来事さえ、すべては必要だったんだ。
どのひとコマが抜け落ちても成り立たないんだ。
想像を超えた緻密な計画の中で全ての出来事は進行していたんだ。
神の計画には一筋の間違いもなく、この壮大な宇宙の計画に失敗はあり得ないんだ。
結果が保証されたゲームに、僕らは結果を知らされずに参加していたんだ。
なーんだ、最初の最初から全員救われていて、大いなる計画の中で笑ったり悩んだりしていただけだったんだ。
人生はなんて素晴らしいんだろう。
こんな罪深い自分が、こんなに取るに足らない自分が、神(宇宙)そのものだったなんて、誰が想像しただろう。
神がこんなに近くにいたなんて・・・近すぎて見えなかっただけなんて、誰が想像しただろう。
そうだ、このことをみんなに伝えていこう。
心配はいらないよ、君も僕もみんな守られているから大丈夫だよ。
守られているどころか、大いなるものそのものが自分自身なんだから、君も僕もすごい存在なんだよ。
見てごらん、この壮大な宇宙を。
これ全部、君が戯れるために用意された、無限のスペースなんだよ。
なんて素晴しいんだ。
なんて素晴しいんだ。
そう感じました。
今でもそう感じています。
このことをいろんな言葉で表そうとして、毎日こうしてPCの前に座っているんです。
自己満足かもしれない。
でも自己満足でいいです。
だって、そのこと以上にやりたいことがないんだから。
今日も僕のおしゃべりに付き合ってくれてありがとうございました。
これからも、毎日伝え続けていきますね。
メッセージを多くの人に届けたいと願っています。
賛同してくれる人は、2つのボタンを押して下さい。
それによってこのブログが目立つ所に配置され、結果多くの人の目に触れやすくなります。
よろしくお願いします。
明日も「いまここ塾」やっています。
僕の独り言を聞きに来てください。
伝えたいことがたくさんあって、あれもこれも書いてみるんだけど、分かりにくかったかもしれないって、自分の文章力の限界を感じたりもします。
このことが伝われば、根底から楽になる人もいるはずで、そんな思いで書いていますが、でもそれは僕の自己満足かもしれません。
人はみな、然るべき時に自分のタイミングで目覚めるようにできていて、それはあらかじめ決定されているようにも思うからです。
それは自分自身が経験した時に感じました。
あーこれは決まっていたんだ。
一瞬早からず遅からず、ここにたどり着くことは決まっていたんだ。
今までの全ての出来事は、このことを知るためにあったんだ。
人生には何一つ無駄もなく、何一つ偶然もなかったんだ。
気まぐれに散歩したことも、机の上をかたずけたことも、人生で起きたほんの小さな出来事さえ、すべては必要だったんだ。
どのひとコマが抜け落ちても成り立たないんだ。
想像を超えた緻密な計画の中で全ての出来事は進行していたんだ。
神の計画には一筋の間違いもなく、この壮大な宇宙の計画に失敗はあり得ないんだ。
結果が保証されたゲームに、僕らは結果を知らされずに参加していたんだ。
なーんだ、最初の最初から全員救われていて、大いなる計画の中で笑ったり悩んだりしていただけだったんだ。
人生はなんて素晴らしいんだろう。
こんな罪深い自分が、こんなに取るに足らない自分が、神(宇宙)そのものだったなんて、誰が想像しただろう。
神がこんなに近くにいたなんて・・・近すぎて見えなかっただけなんて、誰が想像しただろう。
そうだ、このことをみんなに伝えていこう。
心配はいらないよ、君も僕もみんな守られているから大丈夫だよ。
守られているどころか、大いなるものそのものが自分自身なんだから、君も僕もすごい存在なんだよ。
見てごらん、この壮大な宇宙を。
これ全部、君が戯れるために用意された、無限のスペースなんだよ。
なんて素晴しいんだ。
なんて素晴しいんだ。
そう感じました。
今でもそう感じています。
このことをいろんな言葉で表そうとして、毎日こうしてPCの前に座っているんです。
自己満足かもしれない。
でも自己満足でいいです。
だって、そのこと以上にやりたいことがないんだから。
今日も僕のおしゃべりに付き合ってくれてありがとうございました。
これからも、毎日伝え続けていきますね。
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よろしくお願いします。
明日も「いまここ塾」やっています。
僕の独り言を聞きに来てください。
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09:07
│Comments(31)
2008年08月10日
鏡
さて、また自我の続編。
僕らは自分を誰だと思っているのか、どんな人だと思っているのか、何故そう思っているのかって話です。
まずは自分の顔。
自分の顔をどうして知っているかと言えば、鏡(写真も)を見て知っているわけです。
でもそこに映る顔が本当の自分かと言えばそうじゃない。
それはごくごく表面的な顔、しかも鏡に映す時用の顔(笑)
よく注意して見てみると、無意識に鏡用の自分の顔になっていたりしますよ。
僕たちは鏡でしか自分の顔を知りません。
同じように自分の内面や自分の価値も、鏡に映る自分から決めています。
ただしこの場合の鏡は、人の目や人の評価という鏡です。
通常僕らが自分を決めている根拠は、物心ついてから今まで、あらゆる過去において、人が自分をどう見て、どう扱ったかということの総計です。
だから僕たちは人から良く見られたいんです。
それは単に好かれたいだけじゃなくて、自分という存在を決める基本的な要素だからです。
今までに何千人もの目が自分を映し出してきました。
その結果たくさんの自分が作られ、自己は内側でバラバラになっています。
ある時、人はあなたを見て、きれいだと言い、醜いと言い、良い人と言い、性格が悪いと言い、賢いと言い、愚かだと言いました。
人生には様々な状況があり、様々な人がいて、自分について多くのことが言われてきましたが、それらを全部かき集めてきたのが自己像になっているのですから、バラバラで当然です。
したがって、自我はいつも問題を抱えているわけです。
何かを決めようとしても、やりたいと思う自分や、やめておこうという自分や、よく考えてからにしようとか、早くやらなきゃ手遅れになるとか、いろんな意見が内部で同時に発生します。
だってバラバラの自分が、それぞれに自己主張するのですから。
「あなたは今幸せですか?」と聞かれても、幸せのような、幸せじゃないような・・・
それが自我の特徴です。
誰もの自己が分裂しています。
心の病と言われる人は、単なる程度問題であって、あらゆる人が病んでいます。
そんな分裂した自分を静かにさせて、最奥にある「ひとつなる自己」に到達するためには、静かに坐って、内なる自分に入っていくしかありません。
「ひとつなる自己」以外のことは、全て妄想です。
その妄想を人に押し付けて、影響を与えあっているのが世の中です。
惑わされてはいけません。
全ての答えは、あなたの中に、いつも「いまここ」にあるのですから。
「ひとつなる自己」は、あらゆる人の中に、健全な状態で「いま」も鎮座しています。
だから言うんです。
大丈夫だよって。
最後に、自我を持たない状態をお見せします。
それはつい先日紹介した、我が家の新しい家族です。
たった一週間でずいぶん大きくなりましたよ。
半年くらい前に、行くえ不明になって奇跡的に発見された、もう一人の子ネコがいましたよね。
彼もずいぶんと大きくなりました。
2人はとても仲良しです。
何をするのも2人一緒です。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
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それによってこのブログが目立つ所に配置され、結果多くの人の目に触れやすくなります。
PS
今夜19:00から、サンエー西原シティー前の西原自動車ショールームで、講演会withミニライブがあります。気軽に遊びに来てくださいね。
駐車場完備
お問い合わせ
098-945-4737(西原自動車)
僕らは自分を誰だと思っているのか、どんな人だと思っているのか、何故そう思っているのかって話です。
まずは自分の顔。
自分の顔をどうして知っているかと言えば、鏡(写真も)を見て知っているわけです。
でもそこに映る顔が本当の自分かと言えばそうじゃない。
それはごくごく表面的な顔、しかも鏡に映す時用の顔(笑)
よく注意して見てみると、無意識に鏡用の自分の顔になっていたりしますよ。
僕たちは鏡でしか自分の顔を知りません。
同じように自分の内面や自分の価値も、鏡に映る自分から決めています。
ただしこの場合の鏡は、人の目や人の評価という鏡です。
通常僕らが自分を決めている根拠は、物心ついてから今まで、あらゆる過去において、人が自分をどう見て、どう扱ったかということの総計です。
だから僕たちは人から良く見られたいんです。
それは単に好かれたいだけじゃなくて、自分という存在を決める基本的な要素だからです。
今までに何千人もの目が自分を映し出してきました。
その結果たくさんの自分が作られ、自己は内側でバラバラになっています。
ある時、人はあなたを見て、きれいだと言い、醜いと言い、良い人と言い、性格が悪いと言い、賢いと言い、愚かだと言いました。
人生には様々な状況があり、様々な人がいて、自分について多くのことが言われてきましたが、それらを全部かき集めてきたのが自己像になっているのですから、バラバラで当然です。
したがって、自我はいつも問題を抱えているわけです。
何かを決めようとしても、やりたいと思う自分や、やめておこうという自分や、よく考えてからにしようとか、早くやらなきゃ手遅れになるとか、いろんな意見が内部で同時に発生します。
だってバラバラの自分が、それぞれに自己主張するのですから。
「あなたは今幸せですか?」と聞かれても、幸せのような、幸せじゃないような・・・
それが自我の特徴です。
誰もの自己が分裂しています。
心の病と言われる人は、単なる程度問題であって、あらゆる人が病んでいます。
そんな分裂した自分を静かにさせて、最奥にある「ひとつなる自己」に到達するためには、静かに坐って、内なる自分に入っていくしかありません。
「ひとつなる自己」以外のことは、全て妄想です。
その妄想を人に押し付けて、影響を与えあっているのが世の中です。
惑わされてはいけません。
全ての答えは、あなたの中に、いつも「いまここ」にあるのですから。
「ひとつなる自己」は、あらゆる人の中に、健全な状態で「いま」も鎮座しています。
だから言うんです。
大丈夫だよって。
最後に、自我を持たない状態をお見せします。
それはつい先日紹介した、我が家の新しい家族です。
たった一週間でずいぶん大きくなりましたよ。
半年くらい前に、行くえ不明になって奇跡的に発見された、もう一人の子ネコがいましたよね。
彼もずいぶんと大きくなりました。
2人はとても仲良しです。
何をするのも2人一緒です。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
賛同してくれる人は、2つのボタンを押して下さい。
それによってこのブログが目立つ所に配置され、結果多くの人の目に触れやすくなります。
PS
今夜19:00から、サンエー西原シティー前の西原自動車ショールームで、講演会withミニライブがあります。気軽に遊びに来てくださいね。
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Posted by Toshiro Abe at
08:56
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