2011年08月31日

阿雲の呼吸のこと

いま都内の大型書店のいくつかで、「阿雲の呼吸」フェアをやってくれているそうです。

この先は全国展開してくれるそうで、みなさんの街でも見かけるかもしれませんね。


「阿雲の呼吸」というのは、雲 黒斎くんと二人でやっているユニットです。

年齢も、経歴も、性格も、まったく違う二人ですが、最終的な理解が共鳴し合えるので、とても楽にお付き合いできています。

いつも会っているわけではありませんが、いつも会っているのと変わらないので、この点も楽です。



現在、DVD第二弾や書籍など、「阿雲の呼吸」の新バージョン企画も進められています。

それから、いま発売中の「スターピープル」最新号で、僕たちの対談式インタビュー記事が載っています。

ちなみに「スターピープル」最新号のテーマは、「今にくつろぐ」です。

書店で見かけたら手に取ってみてください。


「阿雲の呼吸」コラボ講演会は、10月23日博多、12月3日東京、12月4日大阪、で開催予定です。

(先ほどまで間違った日にちを掲載していました)


週内には詳細をお知らせします。




この先、休暇に入るので、いままでのような更新はできないかもしれませんが、なるべく可能なタイミングを見つけていきます。


休暇中の旅行記でも書きますか。

それとも、ご要望が多い「ボチボチでんな講座」でも再開しますか。

質疑応答もしてみたいし・・・また何か考えてみます。




これからも黒斎くん共々、よろしくお願いします。







   
  


Posted by Toshiro Abe at 10:51Comments(44)

2011年08月30日

「ここ」

アツシさんの質問


阿雲の呼吸の中で、

「北海道に行く」という場合、自分が北海道に行くのではなく、北海道が自分の方に来る・・・自分は何処にも行かない。それが『いまここ』です」

・・・みたいな事を言ってみえたと思いますが、分かるようで、分かりません(笑)

どういう事でしょう?

『いまここ』の大きなヒントがありそうで気になります。




「いま」という言葉を説明するのは難しいですが、「ここ」という言葉を説明するのも難しい。

「いまここ」と言った時の「ここ」とは、場所のことではないからです。

「ここ」とは、あなたの存在のことです。


いまあなたがどんな場所にいようと、あなたは「ここ」にいます。

「あそこ」にいる人はいません。

あなたという主体から見れば、あなたはいつも「ここ」にいます。


昔のドラクエの主人公のようなものだと思えばわかりやすいかもしれません。

主人公は冒険を求めて世界を旅しますが、実際には画面上で彼はいつも真ん中にいて、動いているのは背景のほうです。

しかし操作しているプレーヤーには、まるで自分のキャラクターが世界のあちこちを動いているように見えます。


たとえA地点にいようと、B地点にいようと、自分の存在はいつも「ここ」にいて動くことがないということを自覚していれば、A地点からB地点に移動しても、B地点のほうが自分に引き寄せられてきたという見方が可能になります。


黒斎くんが言ったのはそういう意味で、

「北海道に行く」という場合、自分が北海道に行くのではなく、北海道が自分の方に来る・・・自分は何処にも行かない。それが『いまここ』です」


というわけです。



それくらい徹底して自分の中心にいることができれば、存在軸がシフトします。


自分が存在している「ここ」は、常に「いま」にあります。

したがって「ここ」に徹底すれば、「いま」に徹底することになり、「いま」に徹底すれば、「ここ」に徹底することになります。


そのような意味から言えば、「いま」と「ここ」は同じことを指している2つの側面だということです。



「いまここ」とは、時間のことでも空間のことでもなく、まさにあなたの真の存在そのものなのです。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 10:22Comments(52)

2011年08月29日

たったひとつの「いま」

>matasan

「いま」にある、とは新しい「いま」ではなく、小さいころかずっと変わらない「いま」ですよね。



その通りです。

「いま」は一つしかなく、それは時間の流れに影響されていません。

人には記憶し分類するという能力があるので、あの時の「いま」とこの時の「いま」があるように感じています。


残念ながらこの手の話は、考えても解りません。

思考と時間は同じ次元に属するので、思考には時間を超えたものを捉えることは出来ないのです。

あなたが瞑想を通して空(くう)の世界に行き着いた時、そのことを体験的に理解することでしょう。


空(くう)の世界は外側の世界の現象に影響されていません。

いつ出会っても同じものです。

その存在はどんな出来事の最中も、どんな感情を感じている時も、いつも変わらず心の最奥に佇んでいます。

もちろん「いま」も。


その世界に帰るたびに思います。

いままで何も起きてこなかったし、これからも何も起きないということを。


現象は煙のように現れて、煙のように消えて行きますが、、空(くう)の存在は永遠不変に「いまここ」に在り続けています。

こともあろうにそれだけが真の実体で、それ以外は夢のようなものなのです。


だからいつも言って来ました。

あなたは最初の最初から救われていて、この先も永遠に救われていると。

救われるというよりは、祝福されていると言ったほうが正確です。

存在は、その本質からして無条件に祝福されているのです。



これが最も伝えたい事のひとつで、これまでにも繰り返し伝えてきました。

あなたの夢が悪夢に変わり始めたら、このことを思い出して下さい。

この情報は仮説ではなく真実であり、それを見抜いた幾多の魂達が表明してきたことです。


この世の救済は、夢を夢だと気づかせることです。

夢は時間という幻想とともに生まれているので、「いま」を説くことで、微力ながらその役目の一端を担えればと思っています。



今日、ひとまず東京に戻ります。

爽やかな涼風の中でリフレッシできた北海道の旅でした。









     


Posted by Toshiro Abe at 08:26Comments(54)

2011年08月28日

欲望

欲望についてちょっと書いてみます。

精神世界を学び始めると、欲望を否定し始める傾向がありますが、これはある意味正しく、ある意味間違っています。


確かに真我において、時空間は超越されます。

そのことを「いまここ」という言葉で表してきました。


100%の「いま」だけが残ったとき、未来という思いは消えて無くなります。

未来が消えれば欲望は存在できません。

欲望とは、「いま」にはない何かを満たしたいという思いだからです。

したがって、真我、絶対的境地、さとり、神意識、と呼ばれる次元において欲望は跡形もなく消え去っています。


このことから逆の発想が生まれました。

真我に欲望がないのなら、欲望を無くせば真我に近づくのではないかと。


しかしこれは不可能です。

なぜなら、欲望を無くそうという思いも欲望だからです。

いまは欲望があるけれど、いつか欲望のない自分に成長するという思いは、まさに未来依存であり、欲望そのものです。

あいかわらず「いま」にはない何かを求めています。


結果として欲望が消え去った次元はありますが、欲望を消すことによってその次元に至ることはできません。

と言うよりも、欲望にダイレクトに取り組んで消すことなどできないのです。


欲望は時間という幻想を見抜いたときに消え去ります。

その体験は因果を超えています。

何度も言うように、突然訪れるハプニングです。


そして真我を発見しても、いつもその次元にいるわけではありません。

その後も真我と自我は同居しています。

肉体の中に存在する以上、自我が無くなることはありません。



人間稼業、欲望が消えたら面白味もありません。

過度の欲望は不幸につながりますが、欲望自体はあってもそれも良しだと思っています。


なぜこんなことを書いたかと言うと、自分に様々な欲望が残っていることで自分を否定したり、欲望を抑え込むことで成長しようとしたりする人がいるからです。



欲しいものは欲しい、やりたいことはやりたい。




あー、生きてるって楽しいな。






今朝は時間がなくて、ずいぶん端折ってしまいましたが、またいつか詳しく書かせてください。




いつかっていつ?










   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(67)

2011年08月27日

ボロリ

ほっけ、男爵イモ、ズワイ、うに・・・

うまっ!!!

やすっ!!


いいなあ、札幌。




さて、先日いただいた質問を紹介します。


S・Tさんから

「真理を得るために、または神と同化するために、どのような生き方がふさわしいとお思いですか」



真理や神を求める人がいるけれど、その人たちは真理や神を知っているのだろうか。

もし知っているとしたら、求める必要はない。

すでにそれを得ているから。


もし知らないとしたら、いったい何を求めているのだろう。

人は知らないものを求めることができるのだろうか。


求めているのは自分の頭の中のイメージであって、真理そのものではない。

真理へのイメージは決して真理ではありえない。

真理は考えて解るようなものではないからだ。



僕は思う。

真理も神も、そこを目指して計画的に達成できるものではないと。

階段を一歩一歩のぼって最上段にたどり着くのとは違う。


真理は、ハプニングによってもたらされる。

真理ではないものをとことん生きることによって、ある日その虚構性が崩れ去る。

そこに残るのが真理だ。



崩れ去るのがいつなのか、何をしている時かは誰にもわからない。

したがって、真理の達成のためにできることは何もない。



唯一、瞑想だけが違う可能性を秘めている。

なぜならば、瞑想は行為ではないからだ。

無為の極みを瞑想という。



しかし人は行為に毒されているので、これからもあれやこれやをやり続けることだろう。

であれば、自分の心のままに生きるのがいい。

たとえそれが真理から遠く離れた道だとしても、自分がそうしたいならとことんやることだ。


そしていつか疲れ果て、愛想がつきた時、すべてがボロリと落ちる。

それは僕に起きた。


自分が作り出した世界と、自分が作り出した自己イメージと、努力してきたなにもかもが、いっしょにボロリ。

古いものすべてが、煙のように消え去った。


その結果、何かを達成したわけではないし、どこかに辿りついたわけでもない。


ボロリと落ちて残ったものは、最初からあったものだった。



それが真理だ。




「真理を得るために、または神と同化するために、どのような生き方がふさわしいとお思いですか」


そんなことは忘れて、心のままに生きることです。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 10:06Comments(69)

2011年08月26日

続・ソーセージ

今朝はもう秋も深まったかのような寒さで目が覚めた。

やっぱり日本は広いね。


ところで、昨日のみなさんのコメント、全部読ませてもらったけれど、とても面白かった。


昨日の深夜に読んでそのまま眠ったからかな、夢に出てきた。


広い草原のようなところにいて、空にはたくさんの星たちが輝いている。

そこに時たま流星が現れるのね。

その流星が消えるまでに願い事を3つ言えば叶うと知っているんだけど、いざ流星が現れると、金縛りにあったみたいになって言葉が出てこない。

すると流星が超スローモーションになって、まるでこちらが何か言うのを待っているみたいになるのに、そうなればなるほど言葉が出なくて「あわわわわ」って(笑)


なんだか象徴的な夢だったな。

そもそも何をお願いしたかったのかも謎だ。

けっこう、宝くじが当たりますようにだったりして。

でも買わなきゃ当たらないよね。



もし願いがかなうなら、僕に訪れた突然の気づきが、世界中の人に訪れたらいいと思う。

僕に起きたのだから誰にでも可能性がある。

そしたら世界は変わる。

でも少しは人間的な面も残っていたほうがいい。

みんなが聖人君子になってしまったらこの世は味気ないし、適度な物欲と、適度な性欲と、たまには強い性欲と、適度なわがままも残っていたほうがいい。

もちろん人のことも動物のことも殺したりしない。

虐待される子供がいなくて、不当に苦しむ人がいなくて、みんな仲睦まじく、世界中に子供たちの笑い声があふれたらいい。

自然と共調しながらも、最高のテクノロジーで快適に暮らせたらいい。

そんな世界がいい。


きっとそうなるような気がする。

みんな心の底では同じ夢を抱えているように思うから。




心安らかな一日をお過ごしください。







   


・・・・・・・・・・・


【お知らせ】

10月の講演会は

大阪・名古屋・福岡・東京・札幌・沖縄の予定です。

また詳細が決まったらお知らせします。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:43Comments(63)

2011年08月25日

ソーセージ

子供のころに読んだ物語が、いまでも心に残っています。


とある貧しい老夫婦のもとに、神様が現れて言いました。

「お前たちの願いを3つ叶えてあげよう」


するとおばあちゃんは即座に

「ソーセージが食べたい」


たちまちのうちに、テーブルの上に一本のソーセージが現れました。

それを見たおじいちゃんは怒り心頭に達しました。

なんでも叶えてくれるというのに、ソーセージ??!!!

バカにもほどがある。

こんなソーセージは、お前の鼻にくっついてしまえ。


するとソーセージは、おばあちゃんの鼻にくっついてしまいました。

いくら取ろうとしても取れません。

神経も通ってしまって、引っ張ると痛くて仕方ありません。


途方に暮れた二人は、どうしていいかわからずに、ずっと無言で佇んでいました。


しばらくしておじいちゃんが言いました。

「神様、3つ目のお願いです。こいつの鼻からソーセージを取ってやってください」



するとソーセージは、またテーブルの上に戻りました。


その後二人は、ずっと押し黙ってソーセージを見つめていましたが、やがておじいちゃんはそのソーセージを半分に切って分けました。


そして二人で黙って食べだしたということです。


もぐもぐ。



なんて哀しい話なんだ(笑)





もし神様が現れて3つの願いを叶えてくれると言ったら、あなたなら何を頼みますか?








   


  


Posted by Toshiro Abe at 09:21Comments(101)

2011年08月24日

遊・戯

今日はこれと言ってここに書きたいことがない。

その代わりというわけでもないが、裏ブログに今朝のニュースについて書いてみた。


紳助とヤクザ



あはは、過激なタイトルだね。

時間がある人は読んでみてね。



明日から札幌に行ってきます。

それが終わったら、一か月間休養します。


この20年間、週休5日が自慢だった僕が、最近は一日も休まずに何かの活動をしてきたので、ちょっと一息入れてきます。




と言っても、ブログは書きそうな気がする(笑)








   
  


Posted by Toshiro Abe at 11:46Comments(42)

2011年08月23日

仏教界からの論文

以前もご紹介しましたが、天台宗大僧正の堀澤祖門師が、一般社会における「さとり」の現状を論文にして発表されました。

韓国の仏教界にも英文で報告されたそうで、その全文を送ってくださいました。

その巻末に黒斎くんのことも取り上げてくれたので、紹介します。


堀澤師の存在は、ここに集うみなさんを始め、一般に精神世界と呼ばれている分野と、伝統仏教をつなぐ架け橋だと思います。

時代は動き出しています。



・・・・・・・・・


「おわりに」


いままで、日本における一般人の「さとり」体験とその活動について、阿部敏郎氏を中心に取りあげてきたが、こうした例はけっして阿部氏だけに留まらない。

その実体を正確に把握することはできていないが、事実、阿部氏と共にコラボ活動をしている人に雲黒斉という人が居る。


二人は「阿雲の呼吸」という愉快な名前のDVDを出しているが、阿部敏郎の名前で検索するとこれが出てくる。そこをクリックすると二人の話の内容を前後20分ずつ聞くことができる。

そのなかで、やはり雲黒斉氏がどのような状況のもとで「さとり」体験をしたかということが、本人の口から語られている。

雲氏もやはりブログを開設していて、現在、この二人のブログが人気上位を独占しているという。

ほかにも、ブログの開設まではしていなくても、同じような体験をした人はかなり居るらしい。

事実、阿部氏が指導する「瞑想伝授」を受けた人の中でも、多くの人が「気づき」の体験をしているという。


それから大変重要なことだが、ここで要約紹介した阿部氏の文章の中でも、「いまここ」の節で、いままで二五年間、一貫してこのことを話してきたが、誰もその話に関心を持ってくれなかった。

それがこの四、五年のうちに、急に多くの人が耳を傾けてくれるようになった。

それが「まさに現代が人間意識の根本的変化を促す時代になったことを物語っているような気がする」といっていること。


「見性」の節でも、「僕はこれからの時代は、人類という大きな規模で、この見性体験の花が一斉に開花していくと信じています。その時、世界は大きく変わります」とも発信している。


現代が精神世界系では「新しい時代への変革の時期」と捉えられていることは広く知られている。

何故なのか。

いままでの話の流れの上から言えば、人間個人の場合は、精神的圧迫が強烈でこれ以上堪えられなくなった時、大きな意識転換が起きて「さとり」や「気づき」に至るように、人類も二十一世紀になって、生きていくことが至難の時代となり、そのことが人類全体によって危機として強烈に意識された時、そこに大きな意識転換が起こり、それが人類を新しく高い精神レベルに導く、ということであろう。


しかし、その精神的変革が来る時をただ安閑として待てばいいということではない。

まず誰でもが自らの意識変革を起こして、それをより広い共同体に拡げつつ、人類全体の意識転換に導くという巨大プロジェクトを構築するべきであろう。

そのための一つの先導的な実験として、この阿部敏郎氏の体験と活動が有効に生かされていくことを期待したいと思う。


さらに付け加えれば、人類の争いの原点は、極まるところ、相対的二元的価値観から起きている。

この相対的差別的な世界観に根ざすかぎり、つまるところ、人類が優劣、強弱、貧富、競争、闘争へと駆り立てられていくのは自明の理である。

もともと二つのものを一つにすることはできない。

つまり、相対的価値観からは人類永遠の平和などは生まれようがないのである。

だから、今日行われている世界平和のいろいろな営みも、つまりは根本的な差別の上での表面的な握手ないし和合にすぎない。

いわば一時しのぎ的な平和にすぎない。

これでは絶対危機の時、なんの役にも立つまい。


この条件を超えて人類は本当に一つになれるのか。

そのためにはどうしてもこの二元相対的な価値観を超えて、一元絶対の世界観に立つしかない。

すべてが一つであることを体験し、宇宙とわれわれが不可分に一体であることを体感できたとき、はじめて人類は一つになることができよう。

なぜなら、もともと一つであるものが一つだったと自覚するだけだからである。

これが従来のように何年何十年もの修行が必要なものであるならともかく、誰にも開かれている容易で安楽の法門であることを、阿部氏たちがその実践で示してくれているのだと受けとりたい。
  

さて、こうした一般人の体験と活動に対して、われわれ仏教人はどう向かい合い、対応すればいいのであろうか。

仏教はわれわれのものだと何処かで頑なに信じ切り、一般人を除外し無視してはいなかっただろうか。

若しそれならば、現実に生きた活動、すなわち最も仏教人の活動を必要としている現在においてこそ、一切衆生の救済のために日夜奔走していなければなるまい。


残念ながら現代において、日本仏教はあまりにも宗派宗団の教義や枠に閉じ籠もり、宗派宗団として考え行動することしかできない有様である。

こうした閉塞状況を打開し超えていくためには、二元相対論では世界平和は絶対実現しないことをよくよく理解し、人類と地球が直面するこの未曾有の大危機において、人類を一元化し一体化することしか救済の方法がないと自覚したとき、この阿部氏らの行動を受け入れかつ連帯していく方途が開けて来るのではなかろうか、と思うのである。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 13:32Comments(69)

2011年08月22日

幻滅=救済

昨日の講演会に黒斎くんが来てくれた。

飛び入りで参加してくれたが、飛び入りだとギャラを払わなくていいから嬉しい。

そうだ!これからのコラボ講演会は、いつも飛び入り参加してもらおう。


しかし、いつも彼の話はポイントを突いていて感心させられる。

黒斎くんは言った。

「本当に本当のことは、誰も聞きたがらないんですよね」


なるほど面白い指摘だね。

自己が存在しないなんてことを、自己が聞きたいわけがない。


言葉は不便なもので、自己と言った時には2つの意味がある。

一つは通常我々が自覚している自己。

もうひとつは自己を超えたところにある普遍的な自己。

普遍的な自己は、もはや自己とは呼べない個を超えた意識だ。

しかし個を超えた意識のことも自己と呼ぶしかない。

仕方がないから「大いなる自己」などと呼んでいる。



「自己が存在しないなんてことを、自己が聞きたいわけがない」

ここで言う自己とは、もちろん日常で意識している自己のこと。

しかしそれは幻想の産物だ。

その幻想を見抜くことだけが、我々に救済をもたらす。


人が真理への扉を開くのは、とことん自己に失望して、幻滅した時だ。

後に何も残らないくらいの、徹底した幻滅。

それは悲しい出来事が起きたからとか、仕事がうまくいかないからとか、そういうことじゃない。

人は、それくらのことは乗り越えてしまう。


自分自身に幻滅するというのは・・・

いかに自分が見せかけを生きていて、たくさんの欺瞞を身にまとっているかを見つめ、一切の正当化をしないこと。

それは想像以上に恥ずかしいことだし、ここだけは見たくないという無意識の抵抗がたくさん出てくる。

でも、自分のそんな部分に勇気を持って直面した時、自我が根底から崩れ去る。


自分が消えたとき、本当の自由が訪れる。

「自分が自由になる」んじゃなくて、「自分から自由になる」んだ。

自分こそが束縛なのだから。



幻想の自分を見抜いたとき、幻が滅する。

それが幻滅するということ。


このようなアプローチは苦痛と屈辱を伴うから、誰もやりたがらない。

苦しみ好きのマゾでも、ここだけは立ち入りたくないみたいだ。


ひとつだけ安心していいのは、それらの欺瞞や見せかけは、あなただけがやっていることではなく、人類共通のものだということ。

もちろん僕もね。

自分だけが恥ずかしいんじゃない。

そこが、ちょっと救いだね。


欺瞞の皮を剥いだからと言って、永久的にそれが無くなるわけではないけれど、一度でもその体験をすれば、暗闇の中で手探りしていた人生は終わる。

行動が正確になり、やりたいことをやりだし、何をやっても成功するだろう。

そして初めてともいえる本物の幸福感に包まれていく。



幸福を邪魔しているのが、自己の欺瞞や見せかけだというのは皮肉な話だ。

だって我々は、よりよく生きようとして、それらを身につけたのだから。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(87)

2011年08月21日

生きているから

今日はいただいたメールを紹介します。


動物愛護の内容ですが、関心を持ってくれる人は読んでみてください。


・・・・・・・・・


本日は、是非阿部さんにもお知らせしたいことがありましてメールいたしました。
ご覧いただければ幸いです。


環境省の「動物愛護法」の5年に一度の法律改正があり、パブリックコメントを募っています。(8月27日まで)

阿部さんもお時間があったら是非下記、サイトをご確認ください。

そして、もし、差し支えなければ多くの方に知っていただくために不都合がなければ
ブログに掲載いただければ大変ありがたいです。

以下、参考までにご覧くださいませ。



One Action for Animals



救える命



是非、多くの方に知っていただき、「救える命」を救いたいと思います。



・・・・・・・・



意外に知らない情報なので掲載しました。


命の本質は「ひとつ」しかありません。

それはあなたを、僕を、生かしているのと同じものです。

そんなイマジネーションが共有できたら、動物のことだけではなく、人類の文化は大きくシフトすることでしょう。

理屈の時代から感性の時代へ。


そんな地球になるといいですね。




素敵な日曜日をお過ごしください。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 11:22Comments(40)

2011年08月20日

あるビジネスマンの話

昨日、昔お世話になった音楽関係者と会食した。

いまも映画や音楽の制作に携わっていて、どうしても相談したいことがあるから会いたいと久しぶりに電話があった。


相談内容は、製作費を出すスポンサーサイドが、映画の台本に注文を出してきたってこと。

全部お任せしますと言うから引き受けたのに、今頃になってそんなことを言いだしてきて、すでにその台本で撮影が進んでいて、もう完成間近だとか。

映画監督もヒットを連発している有名監督で、いまさら変更なんてできないし、製作費もこれ以上出ないし、どうしたらいいだろうって。

食事中も関係者から電話が入り、話している時の彼の態度も大変そうだった。



この問題の本質はどこにあるのだろう。

彼から見れば、今頃になって作品に口出しするスポンサーが分らず屋ということになるが、スポンサーにも言い分はあるだろう。



彼はすっかり被害者になっていた。

被害者になると、怒りや不安や混乱や、いろんなマイナス感情が出てくる。

その感情が、起きている現実を「問題」として見だすんだ。

もし彼が、マイナス感情を持つことなく出来事を見ることが出来れば、そこに問題は存在せず、ただあるがままの事実があるだけだ。



このように、なかなか解決がはかどらないときは、自分がどのように対処してきたかを整理するといい。

彼の場合は、スポンサーに何度も足を運び、どうにか説得できないかと頑張ってきていた。

いかにあなた(スポンサー)が、理不尽なことを言っているのかわからせようと懸命だった。


でもうまくいかなかった。


まずは被害者になる前に、自分の対処の仕方がうまくいっていないことを認め、自分のやり方を手放すことだ。

そして全く違う観点に立って、現実に関わっていくことが必要になる。


じゃ、どうしたらいい?


彼は何度も僕に答えを求めた。

でも残念ながら、その答えは彼にしかわからない。


なぜなら、現実を「問題」として見ているのは彼自身で、現実そのものが「問題」なのではなく、彼の中で「問題」が生じているので、それを解決する答えは、問題を作り出した当人にしかわからない。


実は、人が問題を作り出したときは、同時に答えも持っている。

でも素直な気持ちになれないから、その答えが見えなくなってしまうんだ。


僕にできることは、彼を少しでもリラックスさせて、素直な気持ちを取り戻させてあげること。

そしてどうしたらいいかを、彼自身の口から話させて、そこに同意も否定も挟まずに、ただ淡々と聞いてあげること。



すると、ふと答えが出てくる。


彼は言った。


スポンサーも、監督も、脚本家も、みんな一人の人間だ。

自分は彼らを、役割としてしか見ていなかった。

そして自分の立場が危うくなるのを怖れて、あれこれ立ち回っていた。

これからは一人の人間として、人間相手に関わっていくことにするよ・・・と。



ずいぶん楽になったと何度もお礼を言ってくれたが、解決したのは彼自身で、僕はほとんど何もしていない。





ところで、久しぶりにシャバの世界の話を聞いて、思ったことがある。

仕事の世界は、腹の探り合いがあたり前になっていて、計算高さが優秀さだと勘違いしているみたいだ。

それは全然違う。

計算高さは、単なる小賢しさに過ぎない。



正直に誠実に相手と対応していくことが、何よりの力になるだろう。

そして、起きることが起きていくんだ。








   


・・・・・・


【お知らせ】

9月東京講演会は満席のため受付を終了しました。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:15Comments(60)

2011年08月19日

無理矢理笑う同好会

わっはっはっはっは


いっひっひっひっひ


かっかっかっかっか


ぎゃっはっはっはっは




あー、面白くない。




でもそこをなんとか・・・



ぐわっはっはっはっは



貧血おこしそうだ。





「無理矢理笑う同好会」のみなさん、おはよう。

ご気分はいかが?



ちなみに僕が笑うときのネタは自分自身のこと。

人生のすべては自分の意識が作り出している物語なのに、その中で深刻な顔して必死で自分を守ろうと生きていた姿が滑稽で愛おしくて、いったい何から何を守ろうとしていたのか、いったい何と戦っていたのか、いったい誰を演じていたのか、それが可笑しくて可笑しくて、あっはっはっはっはって笑うわけ。

いま書きながら思ったけれど、このネタって僕自身は可笑しくても、これ読んだ人は別に可笑しくも何ともないかもね(笑)



じゃ、今日は臨済禅師に伝わる話。

彼も、毎朝、毎晩、大笑いしていたっていうんだ。

なぜかと言うと、彼は当時の中国を代表する最高の知性であり、究極の真実を体現した覚者なんだけど、みんなはそんな彼を神格化して、礼儀正しく額づいて、うやうやしく接してくるんだ。

でも彼は、自分が普通の人間だということを知っている。

悟りというのは、よけいな自己演出が落ちて、ただのシンプルな人間になることだからね。

しかし、高名なマスターになってしまうと、弟子たちや民衆が放っておかない。

ひっきりなしに人が訪れて拝んでいくんだ。



彼は毎朝、こんなことを思って笑っていたそうだ。

「今日もワシを神様扱いして、みんながへーこらしてくるな。そんな彼らにサービスしなきゃならんから、今日も一日聖者として振る舞うとしよう。そのバカバカしさを思うと、笑えて笑えて仕方がない」


そして夜寝る前に、また大笑いしたって。

「がっはっは、今日も一日うまくやったぞ。あー可笑しい」




もしみんなで夢から覚めて、世界中に笑いがあふれたら、他に何が必要だろう。




きっとみんなで優しくなれるんだろうな。








   


・・・・・・・・・


【お知らせ】


9月25日の東京講演会は、残り席わずかです。

詳細はコチラから。


  


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2011年08月18日

続・あなたのために鐘は鳴る

おはよう。

昨日も書いた通り、僕たちは明日まで生きているという100%の保証はありません。

死は突然やってきます。

ところが僕たちは、なんとなくこれからも、いまのままが続くような気がするのです。


「死は確かにあるけれど、それはほかの誰かに起きることであって、自分じゃない」

「たとえ自分だとしても、それは遠い先のことだろう。」


これが普通の人の感覚です。


死から目を逸らしてはいけません。

死を見失えば、生きるということも見失ってしまいます。

もし死という現象がなければ、人間は生きているということにも気づかないでしょう。

生と死はコインの両面。

それは二つでセットです。


その二つはコントラストを醸し出して、どちらかが強烈になれば、もう片方も強烈になっていきます。

死を見つめることは、生を見つめることなのです。



だからと言って、深刻になる必要もありません。

深刻さからは何も生まれません。

深刻さが命を輝かせるなんて聞いたこともありません。


むしろ心をオープンにして、生きていることを楽しんだほうがいいです。

絶え間なく人や周囲を判断し、批判していたマインドから抜け出て、ハートで生きるのです。

終わったことを悔やんだり、先のことを心配したりするのではなく、いまを生きるのです。



ちょっとした荒療治ですが、「笑いの瞑想」をもう一度紹介します。



朝起きたとき、目を開ける前に身体を伸ばし、そのあとで力を抜きます。

そしておもむろに笑い出します。


え?おかしくないから笑えないって?


そうなんです。

特に朝の寝起きのときは、笑うような気分じゃありません。


そこを無理やり笑うんです。

もちろん演技の笑いです。

何かおかしいことを思い出すのもいいでしょう。


でね、そうやって必死で笑うマネをしていると、そのうちやっていることがバカバカしくなって、本当に笑えてくるんです。

一度でも本当の笑いがこみあげてきたら終了。

また軽く身体を伸ばして、力を抜いてそのまま2分間くらい静けさを感じてみます。

微笑みを浮かべて、ただじっとしていてください。



そうやって一日をスタートすると、深刻さは大分減ります。

深刻さがなくなれば、見える現実が変わってきます。

そして生き生きとした感覚を取り戻すことができるでしょう。

もし3日続ければ、その違いがよくわかると思います。


そんな自分で、いまこの時を、最後の瞬間のように生きてみましょう。

実際に、いつだって最後の瞬間です。

どの瞬間も一生に一度きり、一期一会です。




今日が、気づきの一日でありますように。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:04Comments(45)

2011年08月17日

あなたのために鐘は鳴る

今日から仕事復帰という人も多いかもしれませんね。

やれやれと思っている人もいることでしょう。


僕たちは、いまのままの人生が、この先もなんとなく続いていくような気がしていますが、そんなことはありません。

家族も、人間関係も、仕事も、住まいも、永遠のものではないのです。

僕自身も、こうして毎日ブログを書いていますが、これだって終わってみればつかの間の出来事です。



愛する人や大切な人とも別れる日が来ます。

いま持っているものも失う日が来ます。


そして最終的には死がすべてを奪い去っていきます。


このような話は聞きたくないと思うかもしれませんが、これは単なる事実です。

目をそむけることはできても、事実は変わりません。

と言うより、目をそらしてはいけません。


僕たちに安全はありません。

いつも危険と隣り合わせで生きています。

実際に、生きるというのは危険に満ちたことなのです。


災害はそのことを教えてくれました。

たくさんの犠牲をともなった災害に、もし何か意味があるとしたら、それは人々の目覚めを促してくれたということでしょう。

快適な科学文明を生きているように思っていたけれど、実はあまりにももろい基盤の上に危険と隣り合わせで生活していたことを多くの人が目にしました。

そして、自分も明日まで生きているという保証はないということを、あらためて実感しました。

これはとても意義深いことです。



平穏な毎日にぐっすり眠りこけ、いまよりましな生活を夢見て生きてきましたが、それも終わりに近づいてきたようです。

死ぬ前に、死を超えた次元に行き着きましょう。

死が決して触れることのできない、存在の中核を見つけ出しましょう。

だって、そのために生まれてきたのだから。



意識をトータルに持って、「いまここ」の中に入っていくのです。




忘れてはいけません。

いつまでも時間があると思わないように。


いまがその時です。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(63)

2011年08月16日

コミュニオン

何の因果か、ずいぶんたくさんの講演会をしてきたけれど、僕の中では講義をしたという感覚はほとんどありません。

そもそも僕は先生じゃないし、なにか知識を授けたいと思っているわけでもありません。


たしかに分かち合いたいことはあります。

自分に起きた変化。

この先、多くの人に起きるであろう変化。



「こっちにおいでよ。楽チンだよ」



自分に固執していたけれど、そもそもそんな自分など存在していなかったという気づき。

それがわかれば人生は根底から変化しますが、頭で理解するのは困難です。


自分が存在しないとはどういうことなのか。

僕たちは、自分の名前や、経歴や、印象や、その他、それらに付随するストーリーと自己同化しています。

その自分は想像上の産物です。


たしかに命は存在します。

永遠の命が、いつも「いまここ」で何かしらの経験をしています。

しかもその命は、世界中で無数の経験を同時にしていて、このブログを読んでいるという経験もそのひとつです。

一時間後に仕事をすれば、そこには仕事をするという経験があり、ブログを読んでいた時の自分とは違っています。

違っているのに、そこに一貫した連続性を持たせ、「固定化した自分」が存在していると感じているのです。

その「固定化した自分」を、自我と呼びます。

自我は、記憶によって作られている幻想です。



こんな話は、言葉で伝えようとしても限界があります。

言葉は受け取る側の解釈の域を出ないので、未知の情報は伝わりません。


講演会でも言葉を駆使しますが、そこには言葉以上の何かが同時にあります。

それはちょうどコンサートの様なものです。

音楽の知識がなくても、共に在ることを通して、聴き手の中にハーモニーが生まれます。

それを交感(コミュニオン)と言います。

真理は交感によって分かち合うことが可能です。


講演会(いまここ塾)の場でも、言葉を追いかけてメモを取る人がいますが、それはコンサートを聴きながら採譜するようなものです。

ただその場にいて感じようとする、そんな聴き方がいいと思います。


やる側は遊び心でやっていますから、聞く側も遊び心で楽しんでください。




あっ、いま宅急便で新しい本が届きました。

ダイヤモンド社から去年発売された「いまここ」の増刷が仕上がって、今回から帯に翻訳家の山川夫妻が推薦文を載せてくれました。

ありがとうございましたm(_ _)m


ちなみに推薦文には

「阿部さんは元気とユーモアと悟りの天才です」と書いてくれています。


悟りの天才って何だかわからないけど、大変光栄です。




今日も穏やかな一日をお過ごしください。







   


・・・・・・・


【お知らせ】

9月は休暇のため、講演会は東京会場のみとなります。

本日からお申込み受付を開始します。

詳しくはコチラから。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(44)

2011年08月15日

菩提薩婆訶

いま、向和尚と本を書いています。

なにしろ二人とも歩みが遅く、いまだにコツコツやっているのです(^^ゞ


僕なりの、お経の解説や、向さんの解説も入っていて、けっこう斬新な内容になるのではと思っています。



向さんのブログに、般若心経の最後の一文についての解説があります。

この一行は般若心行の真髄と言われ、マントラのごとき一文です。


羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーぢー そわかー)



いままでにたくさんの般若心経の解説本がありましたが、この一文に対しての訳は、みんなどれも同じようなものでした。


往けり、往けり、彼方に往けり・・・


とか


智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ・・・


とかね。




ところが向さんは次のように訳しています。


いまここだ! いまここだ! いまここでOKだ! いまここが悟りの世界だ! みんなバンザイ!バンザイ!



圧倒的ですね。



向さんのブログはお勧めです。

風のたより




真実の存在は、いつも「いまここ」にあります。

それは僕たちから一度も失われたことがなく、隠されたこともありません。

ただ想念の世界にハマりこんで、見えなくなっているだけです。

すでに僕たちは誰一人例外なく、真実そのものです。

これからもずっとそうです。


真実の存在は永遠です。

真実のあなたは永遠です。

それはいつも、「いまここ」にあります。




羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶








   


・・・・・・・・


【お知らせ】

9月東京いまここ塾は、9月25日(日)の開催です。
明日からお申込みの受付を開始します。

8月21日の東京は満席ですが、もしご都合が悪くなられた方は、なるべく早くご連絡ください。
よろしくお願いします。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:21Comments(38)

2011年08月14日

どんでん返し

明日は終戦記念日か。


人類の歴史は、破壊と暴力の繰り返しのように見えます。

いまも、世界の国々は戦争の準備をしています。

問題は山積です。


人間にはもっと違う可能性もあるのにね。



天から与えられたこの人生、残された日々をどう使っていこうか。



「来たときよりも美しく」



この世に生まれたときよりも、この世を去っていくときに、もっと美しい世界になっているように。





人類の価値観が、根底からどんでん返しになる、そんな確信を持って今日も生きています。









   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:17Comments(40)

2011年08月13日

いまを生きる

人生は劇場のようなものだから、今日もそれぞれの役を演じている。


でも忘れてはいけない。

あなたは劇の登場人物ではない。

それは、現象界を生きるための仮の姿だ。


あなたは誰でもない。

その気になれば、他の役を演じることもできる。


誰でもない自分を忘れないでいよう。

誰でもない自分は、いつも「いまここ」にいる。

誰でもない自分は、劇のストーリーに影響されていない。

それはいつだって、目覚めた純粋意識だ。



深刻さはいらないよ。

劇のストーリーに惑わされてはいけない。


生真面目さもいらないよ。

深刻さも生真面目さも、一種の病気のようなものだから。


生真面目であるよりは、誠実であろうとすればいい。


誠実さとは、善悪や正誤とは関係ない。

誠実さとは、目の前の現実に心を込めているということ。

そこに、本来の善が、本来の正しさが備わっている。


それはいますぐに始められる。


どんな時も、目の前の現実はひとつだけだ。

そのひとつに、心を込めること。

意識のすべてを、目の前の現実に向けること。


そうすれば、終わってしまったことへの後悔や、これから先の心配が入り込む余地はない。



迷ったら、「いまを生きる」ということに徹すればいい。


思いのほか簡単だよ。










   

  


Posted by Toshiro Abe at 10:13Comments(66)

2011年08月12日

気楽にいこうね

もう8月も半ばか。

なんだか、今年も終わりだなって感じ(笑)


光陰矢のごとし

少年老い易く学成り難し


そうだなって思う。


でも歳をとるというのは、若いころ想像していた以上に、いいことが多い。

若いころと、いまを比べてみると、気がつかないうちにいろんな変化が起きている。


たとえば、人と一緒にいて楽でいられる。

昔はガードを固めていたなあ。

おそらくは、相手の反応が気になっていたんだと思う。

こんな僕を見てどう思うか、相手に不快感を与えないか、軽い人間に見られないか、失礼がないようにしなきゃ・・・


少しでも安全に無難に接しようとして、心に壁を作り、ガードしていた。



いまはどうなったかというと、相手の反応に期待しなくなったんだと思う。

判断もしない。

もし、「お前は間違っている」って言われたら、「そうかも」って。

だってその人がそう考えるのだから、きっとそうなんだろう。

で、その後でゴチャゴチャ考えなくなった。

こんな自分になれたのは年の功だと思う。



いつもパッカーンって心を開いていられたらいいね。


本当は僕たちに壁なんかなくて、会ったその日から「イチャリバチョーデー」(会えば友達っていう沖縄の言葉)なんだから。

イチャラなくてもチョーデーだ。



これからもお互い気楽にいこうね。

僕はあなたが何でもいいよ。





昨日あたりから夏休みに入った人も多いんじゃないでしょうか。

よい休日をお過ごしください。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:43Comments(59)