2012年07月31日

放浪記 4

その後、自分の中にたくさんの変化が起きました。

こう生きなければならない」という思いも消え失せていました。


それまでも人とは違うレールを走っていましたが、基本は同じでした。

「ひとかどの人物になりたい」とか、「せめて人並みに生きたい」とか、そんな欲求が、心の底で僕を駆り立てていました。


人間というのは社会的な生き物で、個人である前に社会の一員という思いを強く持っています。

社会に順応している人も、落ちこぼれたと思っている人も、反旗を翻してアウトローになった人も、社会の中で生きていることに変わりありません。

社会性も反社会性も、社会の中で発揮されているのです。


「集団から個へ」


この言葉が、当時の自分に起きた変化を最も表しています。

すべてではありませんが、集団幻想から目覚めたような気がしました。





物心ついた時からずっと、人の目の中に映る自分を見ながら、自分を探してきていました。

あの人が僕にナイスだから、きっと僕にはナイスな面があるのだろう。

あの人が僕を嫌いだから、きっと僕には嫌われる要素があるのだろう。

と言った具合です。


社会の中で生きるというのは、違う言い方をすれば、他人の目の中で生きるということです。

自分が何者であるかということを、他人や社会の評価に委ねている状態です。

そしていつの間にか、自分で自分を見張るようになっています。

まるで心の中に裁判官が住んでいるかの如くです。



「個」に徹した時、尊厳を自分の手に取り戻した気がしました。


もう社会は、僕に影響を与えることはできません。


あー、生きているというのは、なんて清々しいことだろう。


そして思いました。

こんなわずかな光によって、ここまで自由を得られるのなら、深遠な真実に触れたとしたら、どんな心境になるのだろうかと。


どうせいつかは死んでいくこの体。


一切を捨てて、信じた道を行こう。



他に何もいらない。

ただ、真理を知りたい。


その日から、自己流の修行生活が始まりました。


しかし、道は思っていた以上に困難でした。

真理がシンプルであるがゆえに、それを過大評価し複雑にしていたその態度こそが、困難を生み出していたなどとは夢にも思いませんでした。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:29Comments(50)放浪記

2012年07月30日

時代の狭間で

昨日の東京講演会、


「息子が数年間、ひきこもりで・・・」

という相談をくれた女性がいました。

同じような悩みを持つ親御さんもいるかと思います。


世の中が大きく変わろうとしています。

若い人たちは、いまの社会システムを壊し、新しく再構築していくために生まれてきました。

この世の中に違和感を持つのは当然です。

社会の偽善や欺瞞にも辟易としていることでしょう。


この先、人々の価値観が変われば、産業の形態も変わっていきます。

全く新しいタイプのビジネスが、たくさん生まれてくることでしょう。

そんなことを潜在的に知っている彼らは、いま何をしていいかわからないと感じていると思います。

変化の中で苦しんでいる世代の代表かもしれません。


そんな彼らを受け入れる側は、旧態依然としたまま、あいかわらず過去の遺産を引きずりながら、なんとかツギ当てして体制を保とうとしています。

そして社会に馴染めない若者の精神は、脆弱だと決めつけます。

親も同じような感覚で子供を叱咤激励しようとするので、子供は拠り所を無くし、自ら命を絶ってしまう例も少なくありません。

この世は生きるに値しないというわけです。


もちろんそんな中にあっても、疑問を感じずにいまの社会に順応できる子や、器用に使い分けて生きられる子もいますが、いずれにせよ、若者たちにとって苦難の時代と言えると思います。





さて、そんな相談者にどれくらい適切なアドバイスができたかはわかりませんが、講演終了後、帰るエスカレーターで、彼女の隣に座っていた若者が、僕に声をかけてくれました。


「実は僕も10年間、ひきこもりでした」


彼は毎回のように講演会や瞑想会に来てくれていたのでよく知っていました。

とてもエネルギーの綺麗な子だと感じていましたが、そのような経歴があったとは思いませんでした。

このブログと出会い、瞑想と出会い、いまはすっかり元気になったと言ってくれました。


そんな彼が隣に座り、終わった後に直接経験談とアドバイスを話してくれたということなので、お母さんにとって本当に良かったと思います。

たくさんの参加者がいる中で、そのような配置で席が決まっていたというのは、神の采配だと思いました。



PS

「放浪記」の続きは、また明日書いてみます。








   


・・・・・・・・・・・・



8月19日の博多講演会は残り席が少なくなりました。

詳細はコチラから



明日(火)は、沖縄いまここ塾です。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:26Comments(95)

2012年07月29日

放浪記 3

精神霊的な気づきが訪れるタイミングや、そのきっかけは人によって違います。

街を歩いていて、犬の鳴き声が大きな気づきに繋がった人もいれば、朝、顔を洗おうとして鏡を見た瞬間に気づいたという人もいます。


僕の場合は、本を読んでいた時でした。

借りた本の中の一節を読んで、「なるほど」と思ったとき、普段ならそれで終わってしまうのに、その時は自分の愚かさを認めることができたのです。


自分が愚かだと認める・・・これ以上の気づきはありません。


通常僕たちは、「すでに自分は知っている」という感覚を持っています。

ですから他者が何かを言ったとき、その言葉がピンとこない場合、自分本位に判断してしまいます。

もしかしたら自分がまだ知らないことを伝えてくれたとは思えないのです。

人は自分を超えたレベルのことは、想像することもできません。

想像したとしても、それは自分のレベル内でのことです。


「私は知らない」という態度の大切さを、その日、初めて知りました。


それまでは本を読むときも、その内容が正しいか間違っているかを判断して読んでいました。

ということは、心の底で、読んでいる自分のほうが知っていると思っているわけです。

ですから決して自分以上の情報は入ってきません。

特に精神性に関わるような内容は、いくらでも独りよがりに解釈できるので、その傾向は強くなりがちです。



一筋の光が差し込んだ翌日から、本の読み方がまるで変わりました。

解らない文章は、解るまで何度も読み返しました。

ピンとこない時は、相手が何を伝えようとしているのかを感じ取れるまで、目を閉じて黙想するようになりました。


そこにあったのは、相手への信頼と、己の愚かさを認める態度さです。


もちろんどんな本でも鵜呑みにしていたわけではありません。

小さな気づきのおかげで、心のどこかに真理へのアンテナが立っていて、いま振り返ってみても、本物の覚者たちの本を選ぶことができていました。


そうやって見つけた、バグワン(OSHO)、チョギャム・トゥルンパ、クリシュナムルティらの本は、乾いた心の奥に浸透していきました。



しかしそれでも、メッセージの真意を知るには限界がありました。


たとえば


「すべてはひとつ」


「時間は存在しない」


「いまここ」


「自分と神は一体」


「『私』はいない」


などの言葉は、真実であろうことはわかるのですが、実感として理解することはできなかったのです。


そのような言葉を心底理解するには、ある種の体験が必要です。

それが「目覚め」とか「さとり」とか呼ばれるものであることはわかりましたが、どのようにしてそこに行き着くのか見当もつきませんでした。


いまから30年近く前のことで、世の中がバブル景気に突入しようとしている時代でした。


あまりにも違う社会のムードの中で、真理への探究の旅が始まりました。


  


Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(55)放浪記

2012年07月27日

放浪記 2

一筋の光が差しこんだとき、暗闇が消え失せていました。


何十年にわたる闇も、わずかな光の前では無力でした。

まったく抵抗することなく、すみやかに闇はその姿を消し去ったのです。


そのとき思いました。

闇とは単に光がなかったことの状態であり、実体ではないと。

ということは、本当は闇など存在せず、光だけがあるのだと。


たとえば部屋には照明のスイッチがありますが、あれは光を付けたり消したりするものであり、闇を操作するものではありません。

僕たちは闇に対して何かをすることはできないのです。

光に対してだけ、そのことが可能です。


長い間、どのようにして心の闇を消し去るのかばかり考えていましたが、本当に必要なのは光だったのです。



光とは何でしょう。

それは理解とともに現れる「愛」です。


理解は愛となり、愛は光となって、心の闇を消し去ります。







そうか、すべては愛なんだ。

この世には愛しか存在していなかったんだ。


それを僕は長い間見失っていたのです。



「すべては愛」

この言葉も理解と共にあれば、深い意味を持ちます。

しかし理解がなければただの言葉、綺麗ごとの言葉に過ぎません。


すべては愛、すべては理解・・・僕たちは人生の苦悩を経験することで、愛を発見するようにできているんです。



それまでの自分が、無知ゆえにどれだけ多くの人を傷つけてきたのか。

自分が受けた傷にばかり目が行き、その傷が人を痛めてきたことには無関心でした。


「ごめんね、ごめんね」

その夜は朝まで自分の無知を懺悔していました。


懺悔するというのは自分を癒すということでした。

それは自分を責めることとは違います。

むしろ自分を肯定することであり、自分の本質の素晴らしさを認めることです。


まるで布巾で心の壁を磨くようにして、その夜を過ごしました。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:42Comments(97)放浪記

2012年07月26日

放浪記

今日は身の上話。


僕はプロのシンガーソングライターになりたくて、18歳の時に地元の学校を辞めて、ギター片手に上京した。

学校は高専という工業系の学校で、どうせ受かりっこないって度胸試しで受けたら合格して、その勢いで入学しちゃったんだ。

家は貧しかったから、年間授業料8000円、年間寮費3600円っていうのも、親孝行できるし魅力的だと思った。


でも入学してすぐに後悔してね、2学年の時は毎日死にたいって思って、トラックが激走する国道を車道にはみ出して歩いて、うまく轢いてくれないかなって。

本当の友達もできないし、勉強はやる気がしないし、人生は生きるに値しないって思っていたんだ。


それが翌年の正月に、中学時代の同じ部活だった友達から年賀状が来て、それが物凄く嬉しくて、急に自殺願望が消えたんだ。

で、それからは不良学生になって、ガリ勉君たちの中で異彩を放つようになった。

校内ではイキがっていたけれど、ほんとうは喧嘩も弱いし、人を殴ることもできないし、他校の本物の不良に絡まれたらどうしようって、内心はビクビクだった(笑)


で3年の時に、吉田拓郎のライブレコードを聞いて、「これだ!」って。

それで即学校やめて、上京するわけ。


右も左もわからない田舎出の少年に東京の風は冷たくて、散々な目にあったりもしたよ。

社会の底辺も見てきた。

そのころの経験があるから、チンピラからエリートまで、どんな人の心もわかるようになったと思う。


そのころのどん底生活の中で、いつも自分に言い聞かせていた言葉がある。


「世の中には、もっと下がいる。あいつに比べりゃ、オレはまだマシなほうだ」

そうやって自分を慰めていたんだ。


「いつかオレだって」

そんな不屈な精神と、生来の怠け根性とが入り混じりながら、それでも必死に生きていたな。

女にモテたい、金が欲しい、有名になりたい、それが原動力だったと思う。






いま思い返してみると、そのまま埋もれていた可能性もあった。

結局は運が良かったのか、それとも執着心が強かったのか、それからのオレは地べたから這い上がるようにして成功の道を歩み始めたんだ。


女にも嫌というほどモテたし、金も入ってきた。

トップアイドルやスターから、ラブレターをもらったのも一度や二度じゃない。

えへへ、自慢。



でもそれも長くは続かなかった。

もともと才能があったわけじゃないし、向上心もなくて、金があれば六本木を飲み歩き、やくざと麻雀打ってボロ負けしたり、どこかに不良性みたいな側面が残っていて、性格は傲慢で、仕事がなくなっていくのも時間の問題だった。


で、30歳を目前にして、はたと思った。

「オレの人生は失敗だった」


というより、やりたいことはやったのに心から満足することはなかったし、成功しても思っていたほどの幸福感はなかったし、それでいて上手くいかないときは惨めだったし、この先もそんな繰り返しだったら生きている意味なんかないじゃないかってね。


二度目の自殺願望だ。

最初の自殺願望は何もわかっちゃいなかったから浅いものだったけれど、今度のは酸いも甘いも分かった後だったから、いわば絶望的だったな。

でも死ぬのも怖くて、年老いた親は僕を頼りにしているし、生きるのもイヤ、死ぬのもイヤ、唯一の望みは地球が爆発してくれることだった。


その暗闇が自分のキャパを超えちゃったのかな。

突然、心に光が差したんだ。


初めて味わった無条件の幸福感。


「なんだ、そうだったのか。人生は一連の思い込みが作り出していたドラマだったんだ。一から十まで全部思い込みだったんだ」


ほんのわずかな光だったのに、人生をもう一度やり直してみたいと思った。


こんな小さな気づきで心がここまで変わるのなら、世に言われるところの真理を体得できたとしたら、どれくらいの心境になれるんだろうって。


それまでの仕事を辞めて、自己流で瞑想をはじめ、真理の探究だけに時間を使うようになった。



目覚めが起こる一年半前のことだ。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:48Comments(81)放浪記

2012年07月25日

時代の証言

Yさんは60歳を過ぎて定年退職し、それまでまったく縁のなかった精神世界に興味を持ち始め、たくさんの勉強をされてきたそうです。

いまここ塾にも遠方から毎月のように参加されていました。

そのYさんが、昨日我が家で開催した瞑想会の終わりに、こんなことを言い出しました。


「そうか、さとりをたくさん学んできたけれど、いま、さとりの中に入ればいいだけなんですね。

いまのままの自分ではダメだと思い、自分を変えよう高めようと頑張ってきましたが、さとりたいという気持ちそのものが、さとりを遠ざけていた、ただそれだけのことなんですね」


この言葉が知識からではなく、まさにいま、Yさんの体験から出ていることは明白でした。

同席していた20数名の参加者も、心からその言葉を理解しているようでした。


やはり、時代は大きく変わり始めていると思いました。

Yさんが放った言葉は、山で何年もの修業を積んだ雲水たちに向かって、老師が語るような言葉です。

それを僕たち一介の市民の集まりの中で、しかも単なる表面的な発言ではなく、理解の中で分かち合われる時代になったのです。


人間はどんな変化も時間の流れの中で、あたりまえのように受け入れてしまうので、その変化がどれほど大きなものなのかの実感がありませんが、それは確かに起きています。



さまざまな経典の中で、おごそかに語られてきた真理が、実はとても簡単なことであり、誰にとっても身近なことだということがわかってきました。

豪華絢爛な宗教施設や、聖者覚者たちの伝記の類が、真理を凄いことのように錯覚させていただけです。


それがわかれば、自分にはまだまだその境地に達する資格がないという自己催眠から解放されます。

そして、いまの自分でいいんだというあたりまえのことを受け入れ、心底リラックスすることができます。

そうなれば、見栄を張ることもなく、競い合うこともなく、お互いに認め合って生きることができますね。


本当は、すでにみんながブッダなんだから。














   
  


Posted by Toshiro Abe at 10:33Comments(106)

2012年07月23日

ワイルドに行こう!

「自分はいない」

って言われても、自分で自分の不在性を見抜けるわけがないよね。


それに、今まで長年にわたって、自分と自分が関わるものに、汗や涙や努力やたくさんの投資をしてきたから、いまさら「自分はいない」なんて言われても、「はい、そうですか」なんて言えない。



だから結局僕らは、自分を手放したくないわけ。

自分を無くすより、むしろスピリチュアルな教えも自分の一部にして、自分をより高めたいと思っているんだ。



でも本当の教えはひとつしかない。

それは


「自分はいない」








ワイルドだろ~?

話が全然進展してないぜ~ぇ↗




で、そのことを知っても、人生は続いていくし、自分という乗り物に乗ることになる。

でも、知る前と知った後では天地の差があるから、こうしておせっかいを続けているんだと思う。

圧倒的に楽チンで、人生の流れがスムーズになるから。



さて、昨日の札幌講演会に来てくれたみなさん、ありがとうございました。

どこの会場でもそうですが、リターンしてくれる人が半分以上いるので、みんなの顔を覚えていくんです。

なんだか昔からの友達みたいな気になってきます。



あっそうそう、facebook面白いね。

その人の日常を覗き見しているみたいな気になって、生々しさが社会的な付き合いを超えているというか、すごく身近に感じます。

まだ3日目だけど、初めてやったTVゲームみたいに、回を重ねるごとに面白さの奥行が増していきますね。

見覚えのある顔をどんどんクリックしていって、「へ~、そういう人だったんだ」って、新しい発見があって、うわっ、どうしよう、楽しみがまた増えちゃったよ。








   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:36Comments(76)

2012年07月22日

にわとり君の一喝

で、結局ね、

「自分はいない」

って見抜くことなんだけど、マインドはあの手この手で自分が消えるのを防ごうとするんだ。


せっかく「自分はいない」という、真実への扉の前に立っても、

「自分がいないことを知る者は誰か」

とか言い出して、また概念に変えてしまう。



「神とは何か」ということについても、無数の書物が歴史を通して語ってきた。


神ってのはね

いまも、いままでも、これからも、完璧でしかないし、必然でしかないことの実体験。

そう、体験そのもの。

だから、そのことについては何も言えない。


マインドは、マインド自身が想像している結論に達しようと、論理展開を図るけど、それは堂々巡りでどこにも行きつかないんだ。



そんなマインドにひとこと言ってあげよう。

できたら、デビ夫人くらいの迫力で言うのがいい。







おだまり!!!! 





で、話は全く変わりますが、


一昨日から始めたfacebook。

僕が知らないところで、みんなはこんな楽しいことをしていたのかって、もうハマリそうです。


顔が見えるっていいね。

リアルな温もりがあります。


僕と友達になってくれる人は、「阿部敏郎」で検索するか、

http://m.facebook.com/imacocoabe

にお入りください。



今日は札幌講演会。

きっと死ぬまで喋ってるんだろうな。



おだまり!!!


って言わないでね(笑)









   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:51Comments(77)

2012年07月21日

続・どっちがいい?

たくさんの返答をありがとう。

いやあ、面白かった。

何度も笑ったり、考えさせられたり、百人百様なのがいいですね。


10億って書いたけれど、僕はまだナマの10億円を見たことがありません。

でもなんとなく想像はつく。

きっと焚火にしたら、焼き芋のひとつやふたつ、おいしく焼きあがるでしょうね。

もちろん、そんなことはしません

お金は社会的幻想の中で価値を認められているから、いろんなことができますものね。


昔やっていたセミナーで、「もしたんまりお金があったら何がしたい?」って聞いたら、一番多かったのが、

豪華世界旅行

大きな家

その他には、ご馳走をたらふく食べるとか、フェラーリを買うとか、困っている人を助けるとか、たいていは僕らが想像するであろうことでした。


なぜそうしたいかと言えば、それを実現したら心が満足したり、安心できたり、幸せな気持ちになれると思うからで、結局は幸せになりたいと思っているわけです。

好きな人とのラブラブも、健康の保証も、その背後には安全や幸福があると期待するからでしょう。

だとしたら、そんな遠回りをせずに、それらの感覚をいますぐに手にできたら、そのほうがいいでしょ。

さとりの中には、想像を超えた幸福感や安心感が付随していて、現象界が与えてくれる幸福よりも、何万倍も、何億倍も、まったく違う規模で感じることができます。


な~んて言われても、実際に確認するまでは想像の域を出ないから、魅力を感じないですよね。


えっ?そんな話よりも、欲しいものは欲しいって?

そうですね、欲しいものは欲しい、それも正直な気持ちかもしれません。

だったら、やはり10億円くらい手にできたらいいですね。

たぶん10億円あったら、もう10億円欲しくなると思うけれど、そんな世界も面白いかもしれません。


さて、これを言ったら身もふたもないですが、大金にせよ、さとりにせよ、あなたが手にできるかどうかは、すでに決まっています。

これからも起きることだけが起きていきます。

それは天の仕組みの中で、すでに決定済みです。


「そんなことはない、これからの自分の生き方次第で運命は変えられる」

という人も、もし生き方を変えて実際にそれらを手にしたとしたら、そうなることに決まっていたということです。

このような考え方は、自分の自由が奪われているみたいな気がするかもしれないけれど、他の見方をすれば、何が起きても天の計らいなのだから、お任せという感覚を持てます。

僕はこれからも、人生で得た気づきを分かちあっていきますが、もしあなたがそれらの情報を役立てて、人生が向上したとしたら、それも決まっていたということです。

実際、そのような考え方(考え方というよりは経験的確信です)を持つようになってからは、生きることがすごく楽チンになりました。

自由意志さえも、大きな仕組みの中で起きているのだから、「もうどうにでもして!」です。



そうそう、10億円か、さとりか、どちらかを望むとしたら、10億円のほうがいいと思います。

だってお金が入れば、やりたいことを今以上にできるだろうし、少なくともあなたはそれを経験できるからです。


でもさとりは、たとえあなた起こったとしても、あなたはそれを経験できません。

そのとき、あなたはいないからです。


いなくなったとき、初めてわかることがあります。

それは、最初から「私はいなかった」ということです。

この大いなる気づきの副産物が、次元を超えた幸福感です。


だとしたら、その幸福感を感じるのは誰でしょう。


誰もいません。

ただ、幸福感だけがあるのです。

それも、とびきりのね。



あれやこれや生意気なことを申しましたが、こうしてまた自分を持ったり、自分がいなくなったりを繰り返しながら生きていくことでしょう。


低我のアベッチと、高我の無名大明神の、両方と仲よく付き合っていきます。









   

  


Posted by Toshiro Abe at 12:20Comments(95)

2012年07月20日

どっちがいい?

お金や性に関するタブーについては、理解が進んできましたね。


さて、今日は皆さんに質問があります。

正しいとか間違っているとか、いいとか悪いとかの判断をやめて、正直にお答えください。


もし無条件に10億円もらえて、しかも好きな人とラブラブになれて、残りの半生を健康で自由気ままに生きられるとします。




かたや、何も貰えませんが、悟る(目覚める)ことができるとします。


どちらかひとつ選べるとしたら、あなたはどちらを選びますか。




あっ、それと、フェイスブック登録しました。

「阿部敏郎」で検索してみてください。








   


・・・・・・・・・


8月19日、博多いまここ塾(ソロ講演会)

詳細はコチラから。


札幌と東京の再受付は終了しました。

8月5日の名古屋阿雲の呼吸は、一部二部共に満席です。

ありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:02Comments(412)

2012年07月19日

観念と罪悪感

先日の講演会で質問に立った若者が

「お金も稼ぎたいし、女の人も欲しい。でも行動しようとすると罪悪感が出てしまう」

と言っていました。


罪悪感は、自分の観念と行動が一致しないときに生じます。

観念≠行動 → 罪悪感

罪悪感を持ちたくなければ、『いけない』と感じていることはやらないことです。


でも、なぜ『いけない』と感じるのか、それは本当に自分の声なのか、それとも何かの情報を鵜呑みにしただけなのか、それは検証に値します。

そしてたいていは、外側から擦り込まれた「正しさ」が、自分の観念を作っています。


罪悪感を持たないもう一つの方法は、観念を書き換えることです。

観念=行動

にすれば罪悪感は生まれません。

僕たちは、行動を変えることも、観念を変えることもできるのです。


特にお金儲けに関して、多くの人が心の底に否定的観念を抱えています

お金を稼ぐことは悪いことだと言わんばかりです。

確かにお金は人を狂わせることもありますが、そのことと「お金儲け=悪」とは別の話です。


性への衝動も同じです。

性とは生きることそのものであり、誰もが両親の性交渉から生まれてきているのだから、性欲を否定してしまえば、自分の存在そのものを否定しかねません。


わかりやすい例を挙げましょう。




オナニー




この言葉を見ただけで拒否感持ち、ドキっとした人もいたでしょう。

それは心の中に、このことに対する否定的な思い、観念があるからです。


「オナニー」という言葉は、良いも悪いもなく中立です。

しかし観念を通せば、偏った思いが出てきます。


性に関する行為に、多くの人が罪悪感を抱えています。

反対に、このような言葉を喜んで調子に乗る人も、否定的観念の反動に過ぎません。


罪悪感は、僕たちの人生を不自然にし、自分に喜びを与えることをさせません。

罪悪感の素になっている観念を再検証し、必要があれば書き換えていくことで、人生を自由に生きることが可能になります。


特に、「お金」と「性」は、この世を生きる上でとても大きな要素ですが、同時に、罪悪感を抱えやすいという特徴があります。


罪悪感を持てば、そのことを自由に生きている人を非難しだします。

そうやってまた、自らの観念を強化していくのです。


お金も性も、それそのものは良いも悪いもなく、中立だということを忘れてはいけません。



若者へ!

君の命を燃やして、なんでもトライしてみることです。


実は、その先に何もありません。

でも、何もないと知るのは、本当にやった者だけです。


頭でっかちにならずに、心のままに生きることです。

もちろん、それらの衝動を健全に使いこなすためには、いくつかのセオリーがあります。


タコのアベッチが、以前にもブログに書いてきたし、これからも分かち合っていくから参考にしてください。







   


・・・・・・


7月22日の札幌と、29日の東京講演会に、若干数のキャンセルが出ました。

参加ご希望の方は以下の都市名をクリックしてください。


札幌

東京
  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(64)

2012年07月18日

ダンスの中の動かざるもの

すべては変化していきます。

あらゆる現象は刻々と変化していきます。

どんなに物事がスムーズに進んでいようと、現状が停滞して見えようと、すべては変化しています。

思い通りにうまくいっているときは、いつまでもこの状態が変わらないでほしいと願いますが、暗闇に閉ざされて苦悩の中にいるときは、永遠にこの状態が続くような気がします。

でもどちらにせよ、あらゆる現象は刻々と移り変わっていきます。


僕たちが知っているもので変化しないものはありません。

と同時に、変化を見届けている者だけが変化を超えて存在しています。

車輪は回り続けますが、その中心は不動なのです。


イスラム教神秘主義のスーフィズムは、独特の回転ダンスをすることで、中心にある不動の自己を見つけようとします。

それは動きの中の禅であり、瞑想そのものです。


僕たちは静かに瞑想することで、その中心を見つけます。

そして現象界という動きの中で、決して動かない自己と共に在るのです。


そんな感覚を養うことができたら、起きている現象に右往左往することはなくなります。

泣いても笑っても、現象は変化し続けていくのですから。


あとは変化とともに流れ、その瞬間を楽しむだけです。


何をしているかではなく、どんな自分がいるのか、そこが最重要ポイントです。

それは優れた自分とか、堂々とした自分とか、そういうことではなく、表面的な現象界に同化しているのか、それとも中心にあるのかということです。


この先、生きる術を学びあっていくとしても、今日書いた内容が、その基本にあるべきです。

だから結局は、地上目線と宇宙目線の両方を、バランスよく生きていくことだと思います。



まさにいま、あなたの中心に思いを馳せてください。


それはいまも、ここにあります。









   


・・・・・・・


本日より博多講演会(ソロ)のお申込受付を開始します。

詳細はコチラから
  


Posted by Toshiro Abe at 15:31Comments(67)

2012年07月17日

無の力

昨日、我が家の瞑想会夜の部に参加した田中健太郎君。

本人が実名でコメント欄に参加してくれているから、ここでも実名でいいよね。


実は僕は昔から格闘技に興味があってね。

というのも、ボクシングヘビー級の世界チャンプの中には、引退後宣教師になったりする人がいたりして、彼らは試合中に何かを見ていたり、感じていたりするんじゃないかって、そこに興味があったわけ。

でも周囲にそういう知り合いがいなかったから、ずっと僕の中では仮説に過ぎなかった。


それが、田中君が瞑想を始めたことで、やっと直接その話を聞くことができた。


田中君は極真空手・90キロ級の世界チャンプ。

このクラスの日本人チャンプは珍しくて、彼のことは僕の潜在願望が引き寄せたと思っている。


極真の試合は命懸けなので、きっと彼も試合中に不思議な体験があったのではないかと、そのあたりを単刀直入に聞いてみた。


やはり答えは思っていた通りだった。

試合に勝った時、それは自分の力ではないと感じるのだそうだ。

自分以外の何かが、自分の体を乗っ取って、普段ならできないことが起きるそうだ。

だから勝ったのは自分ではなく、未知の力(神?)のおかげだと心底思うのだとのこと。


しかもその力が作用するのは、勝ちたいという思いを捨てて無心になったとき。

要は、勝ちたいという自我の思いが消えて、自然体になりきった時に起きるのだそうだ。


そもそも空手とは、力で相手を打ち負かすことではなく、相手との調和をとる中での術だとのこと。

発祥は沖縄で、当時沖縄は薩摩藩の植民地下にあり、武器をすべて放棄させられた状況下で、護身用に生まれた武道だ。

しかも、沖縄の女性が最初に作ったのだと教えてくれた。


沖縄女性は情に厚く、しかもどんな苦境の中でも笑顔を失わずに乗り越えていくたくましさを持っている。

これは10年以上沖縄に暮らし続けて思う、率直な感想だ。


女性性は本来、相手を打ち負かすというスタンスにはなく、だからその術は、相手といかにひとつになるか、相手といかに調和するかが基本になっている。

この話は興味深く、これからの世の中にとって非常に重要な点なので、もう少し研究を重ねてみたい。


空手に限らず、多くの武道、あるいは「道」と付いたものはすべて、ひとつの境地に達するのだと思う。


それは無心になり、自分を空っぽにして、彼方なるエネルギーを通す、中空の竹になること。

格闘技には野蛮な側面もあるが、その奥には神に通じる深遠な教えが含まれているように思う。

本当の強さとは何か、そのことを学ぶ道のような気がする。


田中健太郎君のことは、興味がある人は「極真空手 田中健太郎」で検索するとたくさん情報が出てくる。


その中に、ヨーロッパのカリスマ的K1ファイターとの試合もアップされている。

内容は、相手が反則中の反則である顔面パンチを繰り返し(普通の人なら一発で即死だと思う)、結果田中君の反則勝ちになるのだが、見ていてとてもやりきれない気持ちになった。

ガチンコの極真空手といえども顔面への攻撃は禁止されているし、もちろんその試合も同様だったので、想定外の攻撃にディフェンスをとることができなかったのが明白に見て取れた。


そのことも本人に聞いてみた。

よほど理不尽な思いが残り、相手への不満もあるかと思いきや、まったくそうではなかった。

相手の反則が、故意ではなく、ギリギリの状況下で繰り出されたものだと分かるのだそうだ。

しかし映像を見る限り、どうしても故意に見えてしまうので、ツッコミを入れてみたが、田中君は故意ではないことを確信している様子。

当事者がそう確信するのだから、そうなのだろう。


ひとつ考えられるのは、相手が田中君を異常に恐れていたのではないかということ。

そのことも田中君は同意してくれた。

極真の世界チャンプがどれほどの破壊力を持っているかは、すこし格闘技に興味を持っている人なら誰もが知るところだろう。



さてその田中君、実像は優しいなんてもんじゃない。


本当の強さは優しさだと証明してくれている。








   


・・・・・・


【お知らせ】


7月5日「阿雲の呼吸 in 名古屋」は、第一部が満席、第二部も残り少なくなっています。

詳細は

PC

携帯電話


8月19日博多講演会(ソロ)は明日からお申込受付を開始します。
  


Posted by Toshiro Abe at 14:13Comments(79)

2012年07月16日

タコの独り言

最近は、すっかり一回転してしまって、精神世界のことなんかどうだってよくなってきた(^o^)


だって真理は明白で、だれもが真理の海を泳ぐ魚たちだから。



魚は生まれた時から海の中にいて、死んだ後も海の中に消えていく。

魚は海の一部だ。


あるとき、魚の一人、魚太郎が言った。


「海(真理)は、どこにあるんだ?」


そして魚太郎は海を探しに遠くまで旅に出かけた。

インド洋の聖魚と言われる長老の話も聞きに行った。


長老は、海について延々と話をしてくれたが、魚太郎は頭で海を理解できても、実感できないと思った。


「もしかしたら海なんてものは、実在しないのかもしれない」


結局、魚太郎は、海を探すのに疲れ果て、失意のうちに病に倒れた。



死の間際、アベッチというタコが、魚太郎に言った。



「大丈夫だよ、たとえ死んだって大丈夫だよ」



魚太郎は意味が理解できず、最後まで海を求めながら、やがて死んでいった。

そして消えて海の一部となった。



魚太郎は、何を逃(のが)したのだろう。


いや、何も逃しちゃいない。

逃したつもりになっただけで、海(真理)はいつも彼と共にあった。


やがてまた彼は、海の中から生まれてくることだろう。

彼は海そのものだから。


海は「真理」のことであり、ほかの地方では「神」と呼ばれているそうな。



だからさ、もうこのことについては、語らなくていいよね。

わかろうがわかるまいが、どっちにしても同じこと。

僕たちは最初の最初からゴールにたどり着いているし、そこから一歩も離れたことなんかないんだから。



そこでアベタコは考えた。

30年間も話し続けてきたんだから、もう海の話はいい。

ブログだって丸6年間書き続けた。


大切なのは海を学ぶことじゃなくて、実際に感じることだ。

それには瞑想しかない。

しかもボブというマンボウが、簡単で最高の瞑想を開示してくれている。

用意は整った。



最近はいろんな賢魚が海について語っているし、あとは彼らに任せよう。


これからは、魚としてどう生きたらいいか、餌の探し方や、他の魚との付き合い方や、正しい交尾(?)の仕方をガイドしていこう。



せっかくの魚生、楽しむしかないもんね。


今日は海の日だ。










   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:24Comments(120)

2012年07月15日

他人の目

人間は、自覚しているか否かは別として、ほとんどの場合、他人の目の中で生きています。

他人から自分がどう見られているかが、生きる上での重要なポイントになっています。


ちょっと試しに、日常を振り返ってみてください。

他人から「こう見られたい」とか、「こうは見られたくない」とかいうことに、一日のうちの何割くらいのエネルギーを費やしていると思いますか。

もし、いいとか悪いとか判断せずに、透明な気持ちで振り返ることができたら、そのあまりの多さに驚くことでしょう。


自分は日常で誰とも会わないという人も、マインドの中では他者からの目を気にしているものです。

ネットの世界でさえ、そのことが起きています。

書き込みをするときも、そこには微妙に他人の評価や、他人の目というものがあるのではないでしょうか。


そもそも自意識とは、「見られている」という感覚から生じています。

もし地球に自分しか存在せず、他に誰もいなかったとしたら、きっと僕たちは自意識を持つことがなかったでしょう。


もし自分一人しかいなかったとしたら、その時の自分はどんな人でしょう。

いい人でしょうか、悪い人でしょうか。

聖人ですか、俗人ですか。

覚者ですか、迷える人ですか。

誰も自分を賞賛したり非難したりしなければ、自分とは何者でしょう。

そんな風に考えてみると、いかに我々が他人の目の中で自己証明をしようとしているか分かりますね。



この思い込みの世界から抜け出す道もあります。

長い間、講演をしたりブログを書いたりしてきましたが、思い込みの世界からいかに脱出するか、いかに人生を自分の手に取り戻すか、これからも大きなテーマです。




さて、今日は大阪講演会。

日曜の朝、大阪の街は静かです。








   
  


Posted by Toshiro Abe at 09:17Comments(63)

2012年07月14日

夜明けのスキャット

昔の知り合いに会うと、必ず聞かれる言葉。

「いま、何やっているの?」


そこで、講演の内容や瞑想のことを話すのだけれど、どうも伝わりにくい。

たくさんの人が聞きに来てくれるんだよと話すと、

「そうか、最近は悩んでいる人が多いんだな」って。


違うんだよなァ。

もちろん悩みや問題を抱えている人も来てくれるけれど、むしろ人生を一通り生きてみて、教え込まれた価値観や、社会が共有する観念に疑問を持ち始めて、人生を超えた存在の真実を学ぼうとしている人が多いし、講演の内容もその類の話がメインだし・・・・・なんて話をすると、

「あっ、宗教か?」

そのあとは、もうムニャムニャで話が終わる(笑)


いま月に何度か、瞑想伝授や瞑想会で、大勢の人が麻布の部屋を訪ねてくれるんだけど、それを見た同じマンションの住人が、なにか怪しげな団体じゃないかって心配したらしい。

幸いなことにマンションのオーナーさんがブログを愛読してくれていて、管理人さんも読者だから助かった。

みんなすごく好意的でね、僕が出かけるときなんか、「あっ、今日からタイですね」なんて、僕のスケジュールもよく知ってくれている。


そうそう、そのオーナーさんが、阿部さんが誤解されちゃいけないということで、彼のお宅で、住人を対象にミニ講演会を開こうということになった。

エントランスにポスターを作って貼ってくれた。

そこに書いてあったのは


「いいお話が聞けます。悩んでいる人は集合してください」

なんだか気恥ずかしくてね(^_^;)


当日、オーナーの部屋で時間まで待っていたんだけど、誰も来なかった(笑)


その日は夜遅くまでギターを弾いて一緒に歌ったり、酒を飲んだりで大騒ぎ。

こんな楽しい会だと知っていたら、みんな来てくれたのにね。



あなたも「いまここブログ見てごらんよ」なんて言うと、誤解されたりするでしょ。


そのうち、こういう話が常識になり、新しい世の中がやってくるって信じています。

いつも言うけれど、20年前と比べたら、すごい勢いで新しい価値観を持った人の数が増えているし。



夜が明け始めたね。




ルルル・・・・・・・・・・・・・・

愛し合うその時に この世はとまるの

時のない世界に 二人は行くのよ


愛し合う二人の 時計はとまるのよ

時計はとまるのよ




い・ま・こ・こ









   

  


Posted by Toshiro Abe at 11:17Comments(89)

2012年07月13日

人間関係

昨日の記事で、「何もない質素な生活でも、暮らす人たちの仲が良ければ、それが幸せなのだろう」と書きましたが、ちょっと補足します。

それは、いついかなる時も、ずっと仲がいいということはないということです。


あの記事を読んで、自分の家庭はいざこざが起きるとか、先日家族喧嘩をしてしまったとか、そんなふうに思った人もいたかもしれません。

でもそのようなことが度々起きたとしても、その基本に、共に暮らしている同志としての暗黙の了解があれば、仲が良い部類に入ります。

常に仲良しということは起きないのです。

何故かというと人間というものは、互いの距離を縮めていくと、時間の問題で、相手の中に自分の嫌な面を映し出すようにできているからです。


これは仕事関係も同じで、最初は相手が尊敬に値する素晴らしい人物だと思っても、そのうち、「こんな人だと思わなかった」という時期がきます。

最初の期待が大きければ大きいほど失望感も大きくなりますが、人間関係とはそういうものだということを覚えておけば、相手を決めつけないで済みますね。








   


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【お知らせ】

7月22日札幌、7月29日東京の講演会は、定員に達しましたのでお申込は終了しました。

ご都合が悪くなられた方は、なるべく早くご一報ください。


8月

4日 阿雲の呼吸・横浜 (一部二部共にsold out)

5日 阿雲の呼吸・名古屋

19日 博多ソロ講演会 (近日中に申込を開始します)

26日 東京ソロ講演会 (月末に申込を開始します)


本日から、阿雲の呼吸・名古屋の申込受付を開始します。

PCの方と、携帯電話の方と、お申込みの入口が違いますのでご注意ください。


PC


携帯電話

  


Posted by Toshiro Abe at 10:33Comments(65)

2012年07月12日

幸せについて

昔のテレビCMソング。


「幸せって、なんだっけ、なんだっけ」

家庭で鍋料理をポン酢醤油で食べるのが幸せと結ばれるわですが、家族の仲が悪ければ気まずい食事になるわけで、いくら鍋の中身が豪華でも、味は無味乾燥になってしまいます。


○○建設のCMは、新築の庭でお祖父ちゃんと孫が剣道の練習をしていて、日本間では嫁さんとお姑さんが一緒に華道のお稽古をしています。

新しい家を建てれば、画面の中の笑顔がセットで付いてくるみたいなCMですが、こちらも家族仲が悪ければ話になりません。


結局は仲の良さが一番で、何もない質素な生活でも、暮らす人たちの仲が良ければ、それが幸せなのでしょう。



それじゃ、もしずっと仲良しだったら幸せかと言えば、そうではありません。

だってその状態が当たり前になってしまうのだから、幸せを幸せとは感じなくなってきます。


お金に困っているときはお金持ちが幸せに見えますが、彼らもその状態があたりまえになっていて、いちいち、「お金があって幸せだ」なんて思っていません。

もしかしたら、もっとお金を欲しがっているかもしれないし、人間関係やら何やらで、見えない問題の一つも抱えているかもしれません。

何の問題もない人がいるとしたら、やはりその状態が当たり前になっているので、いちいち幸せを実感していないことでしょう。



僕が思うに、この世には「幸せ」と「不幸せ」があるのではなく、「不幸せ」と「不幸せじゃない状態」があるだけじゃないでしょうか。

これといって大きな不幸せがないとき、僕たちは「幸せだ」という言葉を使っているのではないでしょうか。

幸せとは、不幸せの時に夢見る慰めのようなもので、実体ではありません。



でも「幸せの気持ち」はありえます。

そのひとつは「感謝する気持ち」


感謝しているときは心が満たされています。


僕が幸せを感じるのも、感謝の気持ちに包まれているときと、瞑想によって「いまここ」にいるときです。


でも「いまここ」にいるときも、「あー自分は幸せだな」なんて思っていません。

幸せとか不幸せとか、そういう二元性の感情を超えていて、さらにはそれを感じる「自分」も消えています。

ただ、あるがままだけが在ります。

その状態にもし名前を付けるとしたら、「至福」でしょうか。


至福は自分を取り巻く状況とは無関係です。

だって「いまここ」の中では、状況そのものが消え、それを生きている自分も消えるのですから。

そう言うと現実逃避みたいに思うかもしれませんが、実はこのとき初めて真の現実に出会っています。

真理から見れば、状況も、それを生きる自分も、どちらも思い込みの産物なので、それらが消えても、最初から無かったものが無くなるだけです。


そのとき至福が起こります。

至福とは真理の副産物のようなものです。


自分という感覚(自我)は、基本的に不快感でできていて、自分を持てば持つほど苦しむことになります。

それを考えれば、僕たちに必要なのは、人生を改善しようと奮闘する前に、ダイレクトに至福の境地に至ることではないでしょうか。

その境地の中で健全な肉体と精神が育まれ、生きる活力になっていき、結果、人生はより豊かになっていきます。



若いころに遠くに追い求めていた幸せは、どこにもありませんでした。

それは「いつかどこか」にではなく、「いまここ」にありました。

ということは、至福には、時間がかからないということです。

だって「いま」にあるんだから。


「いま」をすっかり見失ってしまった人は、瞑想が「いま」に連れ戻してくれます。

最初は、過去や未来という思考が悪あがきをしますが、そのうち静寂の次元、空(くう)の次元に入れるようになります。



「人生の豊かさ」と「いまここの至福」

この両方をバランスよく生きるのが、僕の目指すライフスタイルです。

それは誰にでもできるシンプルな道です。







   


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【7月の講演会】


7月15日 大阪 (Sold Out)


7月22日 札幌

7月29日 東京

は、残り席わずかです。

参加希望の方は、上記都市名をクリックしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:14Comments(76)

2012年07月10日

青い山脈

まだ僕が若いころに世話になった人と、昨日久しぶりに会ってきてね。

街を歩けば彼もひとりのオジイちゃんなんだろうけど、僕から見たら20代のころと同じ、生気に満ちた青年だ。


そのころ僕は19歳、彼は23歳だった。

彼はバリバリのドラマーで、僕はシンガーソングライターの卵だった。


あの頃の僕は、ただひた向きさだけで生きていたように思う。


頭の中はシンプルで、

「成功して幸せになる」

それだけだった。


いくつか成功も手にしたけれど、幸せってやつはなかなか見つからなかった。

もっともっと上があると思ったしね。


人生とは「成功、幸せ」というゴールに向かうプロセスだと信じていた。

情熱を生きている「まさにこの時が幸せ」だなんて、思いもしなかった。

「幸せ」という素晴らしい場所が、いつかどこかに実在していると信じていた。




でもねえ・・・あはは





また続き書きます。









   


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8月5日、阿雲の呼吸・名古屋が決まりました。

近日中に申込受付を開始しますね(^o^)/

  


Posted by Toshiro Abe at 09:57Comments(94)

2012年07月08日

答えを用意しないこと

人生は、いつも新しいシーンが展開していきます。

それはいつも新しいのです。

だから、こういう時はこうしておこうという決まりはありません。


講演会などでもらう、生活の中での具体的な質問があります。

こういう状況では、どうしたらいいかというものです。

僕が一番答えにくい質問です。


答えはその瞬間の、その人自身の感応の中にあります。

何が最善か、何をすべきか、答えを持ち運ばないこと。


いまを生きるというのは、いまの自分を生きるということです。


いまにいるときのあなたは、その瞬間に最適なことを選ぶ能力があります。



言われつくされた言葉ですが、自分を信頼しましょう。









   

  


Posted by Toshiro Abe at 11:09Comments(105)