2021年01月31日

神様について

キイロイトリさん

>神社に神様はいるとおもいますか? 天河はどうですか?伊勢神宮はどうですか?近所の神社はどうかしら?


まずは神様とは何かですよね。

きっと答えは無数にあると思います。


神様はいると言う人にはいるし、いないという人にはいない。


これは神様に限ったことではなく、あらゆる現実はその人の思いによって作られています。

人は自分の信念に沿った現実を作り出しているのです。



だからどんな権威を持った人でも、全人類を納得させる答えなど出せるわけがありません。

その結果、質問は永遠に繰り返されることになります。

「神様ってなに?

いるの?いないの?」



それではアベッチはどう考えているのか。


そもそも「神様」などという呼び名が誤解を生んでいると思います。

なぜかと言うと、ひとたび名前を付けるとそれが単独の対象として認識されてしまうから。

人は何にでも名前を付けて固定化してしまいます。


本来はすべて動きであって、止まっているものなど一つもありません。

強固な岩も、その中では僅かな変化が起きていて、少しずつその形態を変えています。

山だって海だって、何千万年もの間にすっかり変わってしまう。

ということはいまだって少しずつ変化しているわけです。


聞いた話ですが、中央アジアのとある地方の言葉には名詞がないとか。


山は・・・「山している」

河は・・・「川している」


確かにその通りですね。

あなただって固定された実体ではなく「あなたしている」わけです。


神も「神している」のであって、分離した実体としての神など存在しないことになります。





したがって「神とは何か」と問われれば、

「神とは存在を有らしめている力のことであり、神とはすべての存在そのものだ」

となります。


もちろんあなたも神の作品であり、あなたは神そのものです。

この世には神でないものなど何もないというわけです。



しかしこれでは、いかにも気のきいた答えになってしまいます。


だって僕もあなたも、こうして自己として生きているのだから、同じように神もいるかもしれないのです。


じゃ、どこにいるのか。

神社の祠の中で窮屈な思いをしているわけがないと願います。

もしそうなら、あまりにも気の毒だから。


あんな小さな小屋にいないでほしい。


にもかかわらず、祠の前では手を合わせて拝みたくなります。

それもそのはず。

人は思いで作った現実を生きているのだから。








天河について言えば、正直、何かがいるような気がします。

そう感じてしまうのだから仕方がない(^^;)


でも何がいるのかと問われても答えようがないし、神がこんなところにじっとしているわけがないとも思います。



したがって今日の質問に対する答えは


「わからない」




( ̄д ̄;)  だったら書くなよ!




失礼しました。



・・・・・・・


今夜の瞑想会のアドレスは

https://youtu.be/SDQcqqcMlas


天河に暮らして感じる話でもしようか。






  


Posted by Toshiro Abe at 09:40Comments(18)

2021年01月30日

古事記

今日は数か月前に書いて没にした記事を載せます。

古事記を読んで思ったことを書きました。


言っておきますが、僕はこの手の読み物を何もわかっていません。

だからこそのストレートな記事です。


・・・・・・・


神話は真実を表す寓話だと言われているけれど本当だろうか。

日本神話にどんな真実が隠されているのか、納得いく説明を受けたことがない。


血みどろの復讐劇や、情欲のもつれは読んでいて気分が悪くなるだけで、どこがそんなにありがたいのか。


神話には深い意味があると言うけれど、どんな深い意味なのか。

深い、深いって繰り返しながら、思考停止しているんじゃないだろうか



太古の昔にどのようにして天と地ができたのかとか、

神々たちはどのように国造りをしたのかとか、

そんな物語をありがたがる人はそれでもいいが、何がありがたいのかは僕にはわからない。



古事記の全文を読んでみて、真理の次元からは何一つ共感する箇所がなかった。

もしこれが宇宙の真理を表す寓話だと言うのなら、誰か納得できる説明をしてほしい。


たとえばスーフィズム(イスラム神秘主義)や、老荘思想や、禅や、仏教に伝わる物語の中には、真実を彷彿とさせる話が数多くある。

言葉で説明できないものを言葉にしてきた伝統だ。

唯識の世界も法華経の世界も、言葉にできない真理を工夫している。


でも古事記のどこにそれがあるのかわからない。

やっぱりこれ、真理の読み物ではなく、別の目的があったのだろう。







ではいったい古事記とは何だろう。


僕の見解を言えば、

国家を成立させるためには、国内外に向けて権力を正当化する物語が必要だった。

記述表記から見て、古事記が国内用、日本書紀が海外用

といったところではないだろうか。


そこに、古事記こそが宇宙の真理だなどと言い出す人がいるから、わけが分からなくなるのだと思う。


天皇家と、日本国家と、日本民族への権威付け。

それでいいじゃないか。

ナショナリズムが生まれだした時代に、よくここまで長い物語を書いたものだ。


僕はこの国が大好きだし、もっとみんな自国に誇りを持っていいと思う。





・・・・・・・・




今日この記事を読み直してみて、やっぱりどうでもいい話だったと思う。


でもせっかくだから載せることにするね。


古事記ファンのみなさんに失礼があったとしたら申し訳ありませんでした。




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雲黒斎さんとNIKE瞑想とのイベント。

たくさんのお申し込みをありがとうございます。


大切な価値をプレゼントするために、今日も準備を進めています。






  


Posted by Toshiro Abe at 09:40Comments(22)

2021年01月28日

招かれざる客

今回の客は鉛のように重い。

ずっしりとした存在感で、心のスペースを埋め尽くしている。


どす黒いのっぺらぼうのようなその存在は、いろんな物語を持っている。

罪悪感と、後悔と、自責の念と、この先よからぬ罰が待っているという恐怖。


重苦しくて息も浅くなってしまう。

ハア、ハア、ハア・・・ため息をつきながら、ただ鉛を抱えているだけだ。


どれくらい時間がたっただろう。






その時だ

どこからともなく光が現れて、涼しげな声でこう言った。


この客はあなたとは関係ありません。

よく見てごらんなさい。

その鉛は、単に思考と感情の集まりにすぎないから。


ただそれが来ては去っていくだけです。

なかなか去らないのは、あなたが関心を向け続けているから。


少し距離をとって、ただ眺めていなさい。


鉛のように見えたその存在に実体はないのです。


ほら少し透明になってきた。


ほら消え始めた。




あらゆる苦悩の正体は、この招かれざる客のようなもの。


自分を責めるような考えが沸いても、そういう考えがいま沸いただけのこと。

重苦しい感情に覆われても、ただその感情がいま起きたというだけのこと。



「以上!」

と言ってサヨナラしよう。



訪れた思考は100万あるうちの一つに過ぎない。

まるでこれだけが現実みたいな顔をしているだけだ。


それを思い込みと言う。



人生は一から十まで思い込みの物語を、ひっきりなしに紡いでいるだけのこと。

それらはすべて、来ては去っていくことを忘れないこと。


それを教えてくれる光が、あなたの根源的知性だ。




今日はいい天気だな。

外に出て、胸を広げて深呼吸してみよう。




ね、本当は何も起きていないんだよ。



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【お知らせ】

雲黒斎さんとNIKE瞑想のコラボワークショップ

コチラから





  


Posted by Toshiro Abe at 09:33Comments(15)

2021年01月27日

陰様

昨夜、雲 黒斎さんを初めてZENサンガに招いて対談講演をしました。

いままで何度もやってきましたが、サンガでの阿雲は新鮮でした。

皆さんが楽しんでくれたのが何よりでした。


今日から、雲黒斎×NIKE瞑想、「ガイドと繋がるための瞑想ワークショップ」の申込受付を開始します。

マントラ瞑想実践者にはまた新たな瞑想の世界が広がり、初めての方も内側の瞑想の神秘に触れてもらえます。

明日までが早期申込割引対象となります。

参加ご希望の方はコチラからお入りください。



この時代に生まれ、この時代の目撃者になれたことは、宝くじに当たるよりもっと幸運なことだと思っています。

何が起きるのかを知ったうえで生まれてきたような気がします。


もしかして同じように感じている人はいませんか。

いつの時代も特別ですが、今回の特別さは生命の最終進化に匹敵する特別さだと思っています。


数十年前に見せられたのは、そんな壮大なビジョンでした。

大げさに聞こえる人もいるでしょうが、僕はいたってまじめです。


個人のストーリーも、人類のストーリーも、全部が根底からひっくり返ってしまう。

そんな変化を目撃するために生まれてきたような気がするのです。

この感覚も黒斎さんと同じであり、今回のワークショップが楽しみな所以です。



人生を一通り生きてきて、いまはオマケみたいな心境でいるのですが、このオマケが一番面白い。

最初からこんなに楽ちんだったらこの良さは分からなかったし、やっぱりそれなりに幻想の世界で振り回されたおかげでいまがあるのだと思います。






人生無駄なし。

起きることは全てご縁であり、陰(かげ)の力、お陰様の力です。

お陰様がガイドであり、ホーリースピリット様なのでしょう。



陰様の力に礼拝します。

今日も生かしてくれてありがとうございます。



今夜は瞑想会。

アドレスはコチラです。

https://youtu.be/Gg1sim6MNPk







  


Posted by Toshiro Abe at 09:07Comments(13)

2021年01月26日

愛と瞑想と信頼と寛ぎ

悩んでいる時、その中身は大抵自分のことか自分に関すること。

自分、自分、自分、自分、・・・・・

内側が自分でいっぱいになっているのです。


そうすると体中が筋肉の束みたいになって、すべてに抵抗が始まります。

まるで外側の現象が自分に敵意を持っているかのように。


敵意は自分の中にあるのであって、全体は完全にあなたの味方です。

人は自分自身に騙されているだけです。


全体があなたを生み、あなたを育んできました。

もし全体の協力がなければあなたは一瞬たりとも生存できません。


もっとダイレクトに言えば、全体があなたとして生きています。

全体から分離したあなたがいるのではありません。



それなのに、いったい何と闘っているのか。

何から何を守ろうとしているのか。


自分という幻想が仕掛けたトリックを見抜いたとき、人は初めて寛ぐことができます。

身体から自分が抜けて空っぽになり、柔らかくなるのです。

その柔らかさが愛です。


自分を空っぽにしたとき、そこに愛があります。

愛があると、自分が空っぽになります。


前者は主に東洋のアプローチであり、後者は西洋のアプローチと言えるでしょう。



坐禅と瞑想は前者


奇跡のコースは後者


どちらから入っても同じこと。


同じものの両側面だから。






  


Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(13)

2021年01月24日

いまここでガイドと繋がる

NIKE瞑想会のエンディング曲、「ケセラセラ」

原曲を無視して書いた日本語詞の中に

「過ぎていくのよ 楽しいことも 悲しみも」

というフレーズがあります。


この詞は瞑想の何たるかを示しています。

「過ぎていくのよ 楽しいことも 悲しみも」

このことを知るためには、悲しみや喜びから離れているしかありません。

それらと同化していたら振り回されるだけであり、不動の自分に気づくことはありません。


感情から離れた時だけ、それらを見届けることができます。

見届けている観照者は振り回されていないし、変化もしていません。

その観照者こそが、本当のあなたなのです。


「それ」はいつも「ここ」にいます。


瞑想することで、嫌な気持ちや悲しみなどが無くなっていくと思っている人がいます。

覚者には嫌な感情が沸かないと思っているのです。


そのような自分を演じる人がいるので惑わされてしまいますが、人間はどこまで行っても人間であり、それは歴史上の覚者や聖者も変わりません。

ただ彼らは、その様な感情の起伏に影響されていないだけです。

決してマイナスの感情が無くなったのではないのです。


だから次に怒りが沸いてきたときに、そのような自分に失望しないことです。

程度差はあれ、多種多様な感情が行き来するのは死ぬまで変わりません。

残念なお知らせでしたが、これを認めてしまえばいたずらに自分を卑下しなくてもよくなります。

だってあなたは感情ではないのだから。






瞑想による効果は他にもたくさんあります。

病気になりにくいし、アンチエイジングにも効果抜群です。

僕なんか30代に間違えられる・・・わけがありません。

それでも同年代に比べると、生きている世界が違うと感じます。


他にも直観力が増したりもしますが、そのことを黒斎さんは、ガイドと繋がりやすくなるという言い方をします。

彼の周囲には自分の雲さん(ガイド)と繋がりたいという人が多いそうで、今回のワークショップは実際に繋がるためのスタートです。


僕の人生も、あれこれ計画したことはほとんどなく、すべては心の声の導きのままに生きてきて、いまがあります。

これからも同じように生きていくので、先のことは一切分かりません。


このような生き方には、瞑想が大きく影響しています。

知らず知らずに、僕なりの雲さんと一緒に生きてきたのでしょう。



自我の声と彼方からの声を見分けるのは簡単です。

前者は、束縛、迷い、疑い、計算、恐れ、陰湿・・・であり

後者は、自由、明瞭、確信、信頼、躍動、陽気・・・です。


間違えようがありません。



恐れから愛へのシフト。

幻想から真実へのシフト。


これが各自に起き始めている変化です。


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今夜の瞑想会も天河からお届けします。

https://youtu.be/KaS3I4V9L98



黒斎さんとの瞑想ワークショップの詳細はコチラです。

お申し込みは27日からとなります。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:34Comments(12)

2021年01月23日

ストレスレスのススメ

いま抱えている問題の解決方法って、考えても分からないでしょ?

実は分からないから考えているのです。


もしかしたらいつも、

どうしたらいいのか分からないことを考えてない?

もう一度言うけれど、

分からないから考えているわけで、したがって考えても分かりません。


じゃどうしたらいいか。

一番いいのは考えないことです。


あなたの考えは、単なる思考ではなく、あなたの世界そのもの。

あなたは思考が作り出している仮の世界に住みながら、その世界の中で右往左往しているのです。


考えないというのは、思考の世界の住人をやめるということ。


僕はいつも、何かを思いつめそうになったら、その思いを超客観的に眺めるようにしています。

眺めた瞬間、それまで思いと同一化していたのが、思いと距離ができて、思いの世界から離れている自分を発見します。

すると、どんな重要に思っていたことも、どうってことないって。

そんなことより、まさにいまここで生かされていることのほうが大切なのがわかります。



今日は考えない時間を長くしてみましょう。

きっとまたすぐに思考の世界の住人になって、あーでもない、こーでもないって、お馴染みの世界に入ってしまうかもしれません。


そしたらまた気づいて、その世界から離れます。

これを毎分のようにできたらいいわけで。


実はほとんど考えなくても、生活には支障をきたしません。

収支の計算をするときさえも、思考を使わなくても、集中すればことは起きていきます。


我々が普段考えていることの90%以上は、昨日も考えていたそうですよ。

思考は堂々巡りになっているのです


たぶん、一日1時間も考えれば十分だと思う。

あとは、いまを感応して生きるだけ。


そしたらストレスなんか持てるわけがない。



そんなわけで

今日も大空に向かって両手を広げて、深呼吸でもしてみようか。






あー今日もいい日だなァ。



あれ?そこにいる昔は若かったあなた。

そう、あなたのことだよ。


また考えてない?




  


Posted by Toshiro Abe at 09:58Comments(16)

2021年01月21日

阿雲のワークショップ

「そもそも雲(うん)さんって誰なんだよ。

ここに連れて来いよ」

なんて無茶ブリを繰り返してきた阿雲の呼吸。

どんなツッコミをしても彼の中にある真実が揺るがないのがわかるので何でも言えます。


なぜ揺るがないかと言えば、彼の真実が知識ではなく体験から来ているからです。

体験的真実とはそういうもので、もし有名な聖典が自らの真実と矛盾していれば、聖典が間違っていると言い切ることができます。

ずいぶん傲慢な態度だと思う人もいるでしょうが、外側の智識を百万個集めても、内なる真実には及びません。

これは本来、誰にでも言えることです。



コンビを組んだ十数年前から、二人に共通していたのは瞑想の大切さです。

僕がいいと言った瞑想法をすぐに試してくれたのも彼でした。






思えば長い付き合いです。

ずいぶんとコラボ講演もしてきましたが、これからは実践の時代だということで意見が一致しています。



変化と混乱の時代は自らの中のガイドと繋がることが大切です。

黒斎くんには当たり前になっている高い知性とコンタクトする力を、瞑想ワークで養っていこうと話し合いました。


2月3日19時~23時

「Direct Connection to the Holy Spirit」

(ガイドと繋がる瞑想ワーク)


詳細は近日中にお知らせします。


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【お知らせ】

来月のハートマントラ(マントラ瞑想が初めての方)の日程が決まりました。

詳細はコチラです。




  


Posted by Toshiro Abe at 10:55Comments(13)

2021年01月20日

自性すなわち無性にて

「無自性の中に 自我がある仕組みを 教えて下さい」


という質問をもらいました。

もともと自己と呼べるような主体はないのに、なぜ自己という感覚が生じるのかという質問です。


このことについては大昔から研究がされてきました。

昨日も引き合いにだした般若心経の中でも、五蘊(ごうん)という言葉が出てきます。

これは何もない空間(無性)の中に、自己という偽の中心が誕生する過程を説明したものです。


このブログでは13年前に、僕なりの言葉で五蘊を解説しています。

あの頃は真理に触れるようなことを書くと「お前に何が分かる」とばかりバッシングされたので、鼻につかない言い方を工夫していました。

当時の記事を読むと、そのあたりが思い出されて懐かしい。


その時の複数の記事がこれです。

クリックしたら一番下の記事から読んでください。

五蘊


自我はあらゆる苦しみの素ではあるけれど、この世を生きるためには必要なものです。

自我がなければ人と話をすることもできません。

覚者とは自我が無くなった人のことではなく、自我を使うに至った人のことです。


普段の我々は、この世を生きるための道具である自我に乗っ取られて、自我のシモベになっています。

家来が主人の座に居座っているわけです。

この自己催眠から目覚めることが新しい冒険の始まりになります。


ところが自我はとても狡猾ですばしっこいので、自我を見抜き手放すのは容易ではありません。

自我は自我を捨てることさえするのだから。


そこで瞑想の出番になります。

しつこいようですが、僕のメッセージを集約すれば

「瞑想しよう」

に尽きます。






坐禅も同じです。

瞑想と坐禅は異なるアプローチですが、どちらも本性に行き着く道です。


最高の芸術作品とも言える「白隠禅師坐禅和讃」の一句


直に自性を証ずれば

自性すなわち無性にて

すでに戯論を離れたり



これが坐禅の真髄だというわけです。

坐禅和讃の中に、あらゆる答えがあります。


しかもこの経文は大和言葉でわかりやすくて美しい。



以前ダイヤモンド社から発刊された僕と向禅師の共著

「みんながブッダ」

の中で、向禅師が坐禅和讃を読んでいます。


白隠禅師坐禅和讃


今日はこれを何度も聞いて過ごしましょう。

世の中は騒々しいけれど、真理はとても静かです。



今夜も瞑想会でお待ちしています。

アドレスは

https://youtu.be/kIH5raCmu0U



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【お知らせ】

向さん同様、長年にわたって共に活動してきた雲 黒斎さんと、2月3日にオンラインで瞑想イベントを開催します。

ずっと温めてきた企画で、いまこの時代に満を持しての登場です。

詳細は明日ご紹介します。




  


Posted by Toshiro Abe at 10:40Comments(12)

2021年01月19日

冒険の旅

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


これは般若心経の最後に出てくる有名なマントラです。

訳文を見ると

「超えていけ 超えていけ もっと超えていけ」

とあります。


意識の高みはこれでいいということがなく、一つの頂きから次の頂きへと成長を続けています。

無限の成長です。


なぜなら存在は永遠に生きていて、どこかにある固定されたゴールにたどり着くようなものではないからです。

もし最終ゴールがあるとしたら、そこですべてが完結し止まってしまいます。

止まったものは生きているとは言えません。


このブログでは主に、次の頂きに向かう準備ができた人にその道案内をしていますが、そこで終わるわけではありません。



無限の成長。

あるいは無限の展開。

無限の変化。


これは神秘です。

そしてまた次なる頂への冒険と挑戦が始まります。


生きているということは冒険するということ。

頂きが高まるたびに、歓喜と祝福が満ち溢れてきます。


だから人生には飽きるということがないのです。


もし退屈だと言う人がいたとしたら、エネルギーが停滞してしまったということ。

さまざまな見えないしがらみや観念によって、息苦しく身動きが取れなくなっているのでしょう。



OSHOは言いました。

常識や義務や役割にがんじがらめになった人たちを、ZENの一撃で解放しろと。


その言葉に共感してから35年がたちますが、どうやら僕の人生はその方向に流れてきたようです。






とはいえ、僕にとっての一番の生徒は僕自身です。

幸いなことにアベッチは冒険家なので、今日も喜んで冒険の旅を続けています。



今日もなぜか目の前には、天河の雪景色が広がっています。

数年前までは想像もしなかったことです。

だから数年先のことなど分かるわけがありません。



この先どこに向かうのか。


羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶



この大変革の時代に乾杯!!




  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(16)

2021年01月18日

神の国

この世が虚飾に満ちていることは心のどこかで知っています。

でもみんながそれを生きているので、まるで本当のことのような気がしているだけです。


そんな世の中で生きるために、虚りに満ちた自分を作りだし、そのイメージを守りながら生きるのが人生だと思ってしまいました。

いいとか悪いとかの話ではありません。

そうやってしか生きられなかったし、他のアイデアを知ることもなかったのだから。


でも一つ言えるのは、そのような生き方には喜びがないということ。

何かがうまくいった時つかの間の満足や平安を手にすることができても、またそこから長い奮闘を始めなければなりません。


この世の中でそれなりの成功を収め、希望に満ちているうちは、真実への門は閉ざされています。

最終的には敗北しかないゲームでも、上手くいっているうちはやめることができません。

だから真実の次元から見れば、この世における成功は最大の失敗ということになります。


これがイエスの言う

「富める者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが容易い」

という言葉の意味です。



反対に、人生に失望し自分の力の限界をとことん知った者には、神への扉はすぐ目の前にあります。

自分を落とすことが簡単だから。


自分を完全にあきらめて手放せば、真実の次元に再誕生しています。

ところが人は我慢強くて、何度奈落の底に落とされようが、そこから這いあがってきます。



そのような生き方を否定しているのではありません。

人からの賞賛も得られますし、つかの間の達成感もあります。

ただ行きつくところがないだけです。


ずっと続けていけば、最後は必ず敗北に終わるのですが、それが神の国への入り口だったりします。

でもその時はもう、残された時間はありません。







道は二つあります。


完全に打ちのめされるまで奮闘するか

いま、あっさりと手放すか。


手放したとしてもゲームはこのまま続いていきます。

表面的には何も変わりません。


ただしプレーヤーからは深刻さが消えて気楽さが漂っています。


いい意味で何だっていいことを知っているからです。

神の国も、この世も、一つのものなのですが、それを生きる存在の質が違うだけです。



結果志向のビジネスマインドではなく、いまを楽しむ幼子の境地に似ています。

それが神(愛)の国です。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:15Comments(19)

2021年01月17日

大いなる計画

今日の話は、いかにもスピ的な香りがするかもしれませんが、誤解を恐れずに事実を伝えます。

35年前に、一足先に見せられた真実についてです。


結論から言うと、すべては計画通りであり、すでに決まっている結果をこれから誰もが経験していくことになります。

すでに決まっている結果・・・これが大いなる計画の特徴です。


人間界の計画は達成されるまでには時間がかかります。

が、大いなる計画は時間の制約を超えていて、35年前にそれを僕が知ったとしても、それはまさにいまのことでもあるのです。

どうしても時間という概念の中で捉えてしまうから、この言い方は分かりにくいかもしれません。


真理の世界では、過去も未来もいまも同時に起きていて、原因も結果も等しくいまここにあります。

余計に分からなくなったかも(^^;)


いずれにせよ、すべては上手くいっているし、上手くいくから大丈夫。

ただしその結果を得るためには、お約束のドラマを演じていくことになります。

ドラマと言うのは、たとえば既存勢力の抵抗がそれです。


これは外側の世界でも起きますが、心の内側でも、変化することの怖れという形で起きることでしょう。


この先、世界ではさらに想定外のことが起きていくと思いますが、混乱の中で道を見失って怖くなったらこの言葉を思い出してください。

「すべて上手くいくから大丈夫」


神を信じようと信じまいと、いままでの行いや考え方がどうであれ、みんな大丈夫だから安心してください。

あなただけが取り残されることなどなく、イク時は一緒です(笑)

人は未知の世界が怖いので変化に抵抗しますが、変化してみれば誰も元に戻りたいなんて思いません。






それでは何がどう変化するのかと言えば、みんなが自分の本質と繋がりだします。

初めて知る愛との出会いが起きて、これまでの重い記憶が浄化されていくのです。

そしてもともと自分が何者であったかを思い出します。


その時、僕が真実を「言葉では言えない」と言ってきたことを「なるほど」と思うことでしょう。



その後も、この現象界の人生は続いていきます。

でももう同じではいられません。

真実に根差した文明が始まっていくことになります。

それは想像をはるかに超えた素晴らしい世界です。


長い人生ですっかり疑り深くなったあなたは、このような楽観的な話がおとぎ話のように聞こえるかもしれませんが、それでいいのです。


どう考えようと、すでにそうなることを少し前に見せられた者からすれば、あとは待つだけだから。


一緒に待ちましょう。




はい、それではご一緒に。














  


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2021年01月16日

幸せの秘訣

孤独感や分離感が強まっているときに、幸せを感じる人はいません。

その反対に、全体との一体感に浸っているときに、不幸や不満を感じる人はいません。


人は幸不幸を、自分を取り巻く環境や条件が原因だと考えがちですが、実際はそうでもないのです。


たしかに幸せを感じていると、その波動に応じた現実が展開してくるので、環境や条件もプラスに転じてきます。

行動が的を射てきたり、幸福をもたらす縁が生じてきたりしだすからです。


これが引き寄せの法則の仕組みです。

昨夜の奥平亜美衣さんとの対談でも、このことに触れました。


そこで自分の波動を上げようとするわけですが、うまくいく人は稀です。

そもそも波動を上げようとしている主が「自分」であり、その「自分」こそが分離感や孤独感を作り出しているからです。


したがって波動を上げるためには、それを妨げている「自分」というものの正体を理解するのが早道です。


それではいったい「自分」とは何でしょう。

答えは「思考の集まり」です。


思考には大きく分けて、自我からの思考と、全体意識からの思考の二種類ありますが、自我からの思考こそが「自分」の素なのです。

したがって幸せの秘訣は、自我からの思考を見つけて、すぐにそこから離れることです。


自我からの思考の特徴は、混乱、迷い、抵抗、狡猾さ、深刻さ、不足感をもたらします。

そして問題を作ろうとします。

あるがままを問題として見ようとするのです。


なぜなら自我は問題がないと存在できないから。

問題とは自我が存在し活躍するためになくてはならないフィールドなのです。






反対に全体意識からの思考は、明快さ、温かみ、受容、気楽さ、賢さをもたらします。

この二つをしっかりと理解すれば、自我からの思考が沸いてきたときに、そこから離れることが容易になります。


全体意識からの思考は、思考というよりは感覚として訪れます。

頭ではなく、ハートに生じるのです。

通常我々が認識する思考のほとんどは、自我からの思考と言ってもいいかもしれません。


そうなると波動を上げる最も近道は

「思考に従わないこと」

「考えないこと」

ということになります。



ところが自我は生き残りに必死で、思考という先兵を使ってあなたを説得し、様々な提案を持ちかけます。

「私の言う通りにすれば幸せにしてあげよう」

というわけです。


あなたはこの声に従って生きてきたはずです。

そしてどれくらい幸せになりましたか。


するとまた自我は言います。

「幸せでないのは努力が足りないからだ。もっと速く走りなさい。ゴールはすぐそこだ」

完全なペテンです。



「奇跡のコース」では全体意識からの思考を「ホーリースピリット」と呼んでいます。

神の知性です。

提供してきた超訳の中では、なるべく「ホーリースピリット」という言葉を使わずに来ましたが、それが何を意味するかが分かればとても美しい名称ですね。



さて分かりやすく今日の話をまとめると、これから取り組むべきは

「考えない練習」

と言えることでしょう。


先日向禅師にこの話をしました。

向さんは考えないことを禅の修行として体得してしまっているので、我々一般人がそのことに苦心していることにピンと来ていません(笑)


だからいきなり

「さあ、坐禅しましょう。

坐禅はスーパー宇宙温泉です」

なんてサラっと言うのです。


先日は僕が言ったことを理解してくれたようで、これからは「考えない練習」を指導してくれるそうです。




それではみなさん、よい週末をお迎えください。


日曜の夜は瞑想会のお相手をします。

アドレスは

https://youtu.be/8B9knZZZrZc






  


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2021年01月15日

守護霊さん

人生にはたびたび不思議な事が起きます。

僕に起きたようなことは、形を変えて多くの人が体験していることでしょう。

それをドラマチックに所有したか、あるいは偶然としてスルーしたかの違いだと思います。


今日はそんなエピソードの中から、ひとつ紹介してみます。


最初に見えない存在を感じたのは中学に上がる直前の春休みでした。


工事現場で遊んでいたとき、いきなり僕の頭上から大きな鉄の塊が落ちてきたのです。

友達も含めてアッと驚いたときは、僕に向かって真っ逆さまに落ちてくるのを感じました。

50cm四方もあろうかという大きなものです。


その時です。

すべてがスローモーションのようになりました。

僕をめがけて落ちてくる鉄を、はっきりと目にしたのです。


でもあまりの出来事に身体は硬直して動けません。

ただ次の瞬間に起きるであろう悲惨なシーンの予感があるだけです。


そのとき、何かが起きました。


こともあろうにその鉄が大きくカーブして、僕の真横にドスンと落ちたのです。

物理的には考えられないことですが、誰の目にも明らかな形で大きく曲がったのです。


みんな言葉を失いました。

どうにも説明できないことを目の当たりにしたからです。

そのとき子供心に、「何かが居た」と感じました。







他にも九死に一生を得た交通事故や、ゾッとするような生死を分けた出来事がいくつかあります。

いま思いだしてみても、単に運が良かっただけでは片づけられない何かを感じます。



今日の記事には守護霊などというタイトルを付けましたが、そのような存在を確信しているわけではありません。

でもここ一番と言うときに見えない力に助けられてきたのも事実です。


やっぱり何かいるんだろうか。

もし本当にいるとして、そんな守護霊さんに言いたいのは、僕のことなんかより、自分の人生をしっかり生きてよってこと。


おお、かっけー!!


なんて書いてすぐに、いやいやせっかく守ってくれているんだから、そんな罰当たりのことを言わないで、これからもしっかり守ってもらったほうがいいんじゃないのかと思いました。


所詮人は、自分の力など無きに等しいのだから。



守護霊さん。

これからもよろしくお願いします。

いまは口が滑りましたが本心じゃありません。


どう考えても守られてきた気がします。


こんなバカを相手にご迷惑をおかけしますが、、これからもお付き合いよろしくお願いします。


合掌










  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(18)

2021年01月14日

うしろの百太郎

今日は懐かしくも、ちょっとおどろおどろしいタイトルにしてみました。

いわゆる守護霊の話ですが、守護霊団の中で最も格が高いのが百太郎だったように記憶しています。


唯物論があたりまえだった時代に、漫画家のつのだじろうさんの存在はとてもユニークでした。

僕自身もガチガチの唯物論者だったから、このような漫画は馬鹿にしながら読んでいたように記憶していますが、馬鹿にしながらも読んでいたということは、どこかで興味を持っていたのでしょう。


全体意識という観点から言えば個別の霊魂など存在しませんが、その一方で、いまもこうして僕があなたに語りかけているように、僕とあなたという個別の存在がいることも否定できません。

真実は多次元にわたっていて、こうだと決めつけつけることはできないのです。


僕自身の人生を振り返ってみても、あきらかに何かの見えない力によって導かれたり、守られたりした経験がいくつもあります。


こういう話はあまりしませんが、実は20代のころまでは霊的な現象に悩まされていた一人でした。


寝たまま身体が宙に浮いてしまったり(そんな気がしただけかも)、ベッドから毛むくじゃらな大きな手がでてきて、寝ている僕の胸をガシッと抱え込み、そのままベッドの中に引きずり込もうとしたり、とある往年の有名女優の霊が乗り移ったり、枚挙にいとまがありません。


それが、ある時ふいにワンネスの体験をした時から、そのような現象がピタリとやみました

もう一つ高い次元にアクセスしたことで、観念が書き換わり、それによって僕にとっての世界が一変したのかもしれません。

理由は分かりませんが、とにかくピタリと止みました。






その後は霊障のような体験はありませんが、あきらかに見えない力に助けられたとしか言いようのない出来事を何度も経験しながら今日にいたっています。



続きはまた明日。






  


Posted by Toshiro Abe at 10:16Comments(11)

2021年01月13日

娑婆だバダ!

今日は、娑婆だバダ!でいってみましょう。

究極の真理は一つでも、娑婆(シャバ)は人の数だけあるので、当然のことながら娑婆への見解も人の数だけあるようです。


それはいま訪れているコロナ狂奏曲にも言えることです。

感染が恐ろしくて縮こまっている人もいれば、マスクは何の役にも立っていないという人もいますし、中にはコロナ自体がヤラセだという人たちもいます。


ヤラセ?

そういう話を聞くと、何が何だか分からなくなります。

話の内容は突っ込みどころ満載ですが、学識ある人たちがまことしやかに口にするのです。


そういえば以前、とある有名な学者さんと食事をしたとき、いきなり世界の陰謀論の話になりました。

前々から僕には伝えておきたいと思っていたそうです。

それは光栄だと思いましたが、どうにも荒唐無稽な話で付いていくのがやっとでした。


すると立て続けに同じような話をする人と出会うことになりました。

彼らに共通するのは、

「これ以上話すと殺される」

と言うこと。


郵便受けなども当たり前のようにチェックされていて、電話も盗聴されているとか。


本当の話なのか、完全にパラノイアなのかわからないけれど、そういう話をする人には共通の波動があります。

ミステリアスというか、浮世離れしているというか、世間を憐れんでいるというか。


もしかしたら彼らは本当のことを話しているのかもしれません。

否定する材料もありません。

世界の裏側など知る由もないし。


彼らから見れば、そのような話を信じない僕は、おめでたい烏合の衆の一人ということになりますが、それでもいいと思いました。

地球規模の黒幕がいようといまいと、いまここには誰も侵害できない自由があるから。








人間界はいろんな人がいるから飽きないですね。

娑婆の解釈は数々あれど、みんなが愛という名の本当の自分を思い出せば話は簡単だと思います。


僕にとってのコロナ狂騒曲は、これから訪れる地球規模の意識変革の序章です。

もしこれがヤラセであれば、それを仕掛けたのは神ではないかと思います。




今夜の瞑想会のアドレスはコチラです。

https://youtu.be/Lg_86Aa6kfg








  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(18)

2021年01月12日

阿修羅

今日は大昔のストーリーです。


僕は小学校の頃から、担任の先生に良くしてもらった記憶がありません。

いまとは違って、一クラス50名もの児童がいたからかもしれませんが、先生との温かい交流の思い出が一つもないのです。


先生たちはまるで軍隊の司令官のように君臨していて、気分次第で殴る蹴るは当たり前。

大柄な女性教師は、僕の友達をベルトで縛り上げ、吊るして笑っていました。

いま思えば、よほど私生活でストレスが溜まっていたのでしょう。


三丁目の夕日の映画のように、昔の人は人情にあふれていたという話がよく聞かれますが、僕の目にはそうは見えませんでした。

そういえば北野武さんが、自分が子供の頃のショートドラマを作って、当時の人たちがいかに荒れていたか、そして街がいかに不潔だったかを描いたことがありましたが、まさに僕の記憶と一致しています。

同じような時代だったからか、彼の育った下町と僕が育った田舎が似ていたからなのか、いままで見た当時の再現ドラマの中で一番納得した作品でした。


東京オリンピックの前後から、急に全体のムードが変わり始めたような気がします。

好景気の中で人々の心に余裕ができたのかもしれません。






さて先生の話に戻りますが、僕が先生から嫌われていた時代にも、ヒイキされていた子はいました。

思えばたいていは勉強ができる聞き分けのいい子でしたから、僕が冷たくされたのは、よほど反抗的で可愛げのない子だったからかもしれません。

先生がクラス中の保護者達に、子供を僕と遊ばせてはいけないというお触れをだしたくらいですから、よほどの子だったのでしょう。


たいてい問題児というのは愛のない家庭に育った子に多いのですが、僕の場合は両親に十分愛されて育ちました。

それなのになぜそんな子だったのかは、いまとなっては後付けの理由になってしまいますが、どこかで世の中を敵視していたことだけは確かです。

何もかもがいかさまに見えたし、大人たちをなめ切っていました。

いわゆる反社会的な性格だったと思います。


だからでしょうか、いまでも犯罪者を見ると、何かが違っていたら僕も同じことをした可能性があると思えます。

決して彼らが特別な人間などではなく、そのような縁が働き、そのようなことをしでかしたのが分かるからです。


悪人は聖人の卵です。

聖なるものしか知らない人には、聖の豊かさがありません。

悪を知っているからこそ、聖なるものに深みが出るのだと思います。



僕は運がよかった。

ただそれだけです。


大人になってからは出会う人たちに恵まれ、天からの加護を存分に受けたことで、いまの自分があります。





たくさんの経験をしてきましたが、いますべての人を愛しています。

だからみんなに生きる力を与えたい。


いまがどんなでも、本当は素晴らしいことを伝えていきたいと思います。





  


Posted by Toshiro Abe at 12:32Comments(12)

2021年01月11日

時代のジェットコースター

誰も予想しなかったような事態が世の中を騒がせていますが、みなさんいかがお過ごしですか?


一部の人たちは、このような騒動はまだ始まったばかりで、これからが本番だと言います。

実は僕もそう感じている一人で、ついに来たかというのが正直なところです。


と同時に、人間の順応性の高さも再確認していて、想定外の事態は社会にも人心にも大きな混乱をもたらすけれど、そのうちすぐに新しい秩序を取り戻す力が人間には備わっていると思います。

だからこれからの大変化も、大騒ぎしながらもなんとか乗り越えていけることでしょう。



どうせ乗り越えていくなら、大騒ぎせずに過ごせたらいいですね。

この先は想定外のことが起きるのが当たり前だと思ってしまえばいいわけです。


できたらいままで通りでいたいと願うのが人情ですが、そうはならないということに腹をくくれば、あとは波乗りのようなものです。


まずは覚悟してしまいましょう。

いずれにせよ起きることが起きていくのだから、抵抗しないほうが苦痛も少ない。

これからは、変化を常として生きるのです。



外側で何が起きようと、自分の内側は静かに落ち着いているという心の習慣も役に立ちます。

それが瞑想ですが、ここに集まる読者の多くは、すでにそんな生活態度が身に付き始めたのではないですか?

起きていることに、以前ほど巻きこまれなくなってきているはずです。


その調子で世界的動乱の時代を、安心を分かち合いながら生きていきましょう。


いまこうして時代のジェットコースターに乗り合わせたあなたと、まだ見ぬ新世界に向かって発進したことを喜んでいます。






合言葉は

「大丈夫!」


これは単なる励ましではなく、真実の言葉です。


なぜなら最初から最後まですべての命は救われていて、現象として何が起きても、命の本質は影響されていないからです。


どんな雲も大空に影響を与えられないのと同じこと。


そして本当のあなたは雲ではなく、大空そのものだから。





  


Posted by Toshiro Abe at 10:01Comments(18)

2021年01月10日

輪廻転生

自己という分離意識は錯覚。

だとしたら、その自己を錯覚だと感じているものは何なのか。


そう問われたら、自己を感じているのは全体意識だと答えます。

なんとなく納得しますが、でも所詮は言葉による答えであって、起きていることのすべては摩訶不思議。


言葉を使用するこの次元においては、実際には何一つ知ることもできなければ、何一つ答えることもできないのです。



だから老師は

「無」

と言い、禅は不立文字を教えとします。






この世のことさえも言葉で表せないのに、死んだ後のことを言葉で表すことなどできるはずがありません。

にもかかわらず死後の世界や輪廻転生に関する様々な説があり、人はその中のどれかを真実として所有していたりします。


死後も存在するのは誰なのか。

生まれ変わるのは誰なのか。


そこには自己という分離意識が前提にあるのではないか。


非二元の立場からはこのような指摘しか残りません。


そこで数十年前から不肖阿部は、全体目線(非二元)と地上目線(二元)の両方ともに真実だという観点から話しをしてきました。



輪廻転生について言えば、あると言えばあるし、ないと言えばない。


そもそも輪廻転生は、未来や過去が前提になっていて、時間は存在していないという真実からすればナンセンスなストーリーでしかありません。

しかし二元の世界はストーリーの世界なので、輪転転生はあり得ることになります。



何が言いたいかと言えば、二元(色)も非二元(空)も同時に起きているということ。


色即是空


最初からこう言えばよかった(^^;)



なにもかもが摩訶不思議だということを忘れないで生きていきましょう。

生かされてること自体が摩訶不思議。


そうすれば未知のものに対する畏敬の念が出てきます。


全体としてのあなたにしろ、分離したあなたにしろ、いまここにあなたが存在していることだけは否定できない事実でだということ。


それだけでも凄くないですか?




今夜も瞑想会でお待ちしています。

https://youtu.be/fQLpQV7pV0w










  


Posted by Toshiro Abe at 10:42Comments(8)

2021年01月09日

生き方

「こうでなければならない」という形を持たなければ、人生はとても楽です。

特にこれからの時代は理想の生き方などなく、自分に合った独自の生き方でよくなります。


思ったように生きられないのは、自分の思いより世間体が大事だったり、安全が大事だったり、大切な人と波風を立てないほうが大事だったりするからです。

でもそれも含めて、すべてよし。

それしか起きなかったのだから。



何がどうであれ、いままでの自分の生き方を肯定してあげないのは可哀そう。

だって誰もが、その時その時一番いいと思ったことを精いっぱい生きてきたのだから。

その時はそういう考えしか浮かばなかったし、その時はそんなやり方しか思いつかなかったという話。


右に向かうのがいいと思っても、勇気がないから左に向かった。

それも自分がいいと思って選んだ結果です。


まずは、それでいいじゃないかというわけです。

だって、本当にどっちだって同じだし、どっちだっていいのだから。


いままで何が起きてこようと、いま何が起きていようと、それしかなかったし、それでいいのです。


と同時に、これから先のことについては完全に自由な立場をとることも可能です。

それさえも大きな視点から見れば全て決定されていたことになりますが、地上の視点からは先のことは分からないのだから自分が選んだつもりにもなれます。









何を選んでもいいのですが、僕なら自分が何者なのかを見抜くことを最優先します。

他のことは死ぬときに霧のように消えていくから。

ちょうど朝起きたときに、一晩うなされた夢が蜃気楼みたいに消えていくように。


そのためには、真実に関する話を浴び続けること。

死に影響されない永遠なるものにフォーカスすること。

それだけが欲しいと真剣に願うこと。



次に、同じ夢なら気持ちがいい夢を見ることを選びます。

気持ちがいい夢とは、人や社会のために活動すること。

正しさからではなく、それが深い満足につながるからです。


人と同じじゃなくていい。

誰もの生き方は唯一無二のオリジナル。



何度も言ってきたけれど、僕自身は次の2つの立場を使い分けて生きています。


※いままで起きたことはそれ以外起きなかったしすべて決まっていたこと。

したがって後悔の余地はない。


※これからのことは自分が自由に選んでいける。


これが一番、的を射たスタンスだと思っています。




追伸

明日(10日)の瞑想会とミニ講演のアドレスを書いておきます。

https://youtu.be/fQLpQV7pV0w

21時からです。




  


Posted by Toshiro Abe at 10:16Comments(19)