2021年05月31日

一隅を照らす

自分が思い込みの現実を生きていることを知るだけで、苦悩から解放されます。

なぜなら苦悩の大きさとは思い込みの強さだから。


自分が幸せな気分になると、世の中が穏やかになります。

すると周囲の人たちも、あなたを通して幸せになることでしょう。


頭の中で世界平和を目指すより、身近な人を幸せにすることのほうが大切だと思います。

そんな気持ちで昨夜もレクチャーさせてもらいました。


お時間があるときにコチラからご覧ください。









  


Posted by Toshiro Abe at 09:05Comments(8)

2021年05月30日

おんだ祭

今日の天河神社は「おんだ祭」

一年の豊作を願ってする田植え祭りです。


朝から雲一つない青空が広がっていて、この天界の里を小鳥たちの鳴き声だけがこだましています。

四方八方、命に囲まれたこの地にいると、昔の人は皆こんな波動の中で暮らしていたのかと思います。


特にこの地は、なんらかの磁場の影響で、人の心からストレスを抜き去る力を持っているのではと思います。

細胞の一つ一つが活性化して、月日と共に若返りを実感するのです。


いまはみなさんをお呼びすることができませんが、たぶん来年になれば、また瞑想リトリートが開催できるのではと思っています。

そうなれば民宿の人たちも、神社関係者も、心から歓迎してくれることでしょう。


最近になって畑にネギを植えてみました。

こんなことは初めてですが、手をかけると可愛いものですね。

一本一本に名前を付けたくなります。





この季節は蕗(ふき)や蓼(たで)が野生していて、手をかけなくてもワイルドな生命力を頂くことができます。

こういうものを食すと魂が喜びます。

本来人は土と共に生きるようにできているのでしょう。


ちまたでは自然農が静かなブームだと聞きます。

ITやAIの文明に支えられながら自然と共に生きるのがこれからのトレンドのような気がします。


今夜も瞑想会で天河の空気をお届けします。

アドレスは

https://youtu.be/fFeGkZ3LZ7o


21時からです。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:45Comments(19)

2021年05月28日

生々流転

一か月くらい前に

「そうだ、痩せよう」

と思い立った後、無理な食事制限や、嫌いな運動をしてきたわけではないのに、今朝体重を計ったら3kg減っていた。

あと5kg痩せたら元に戻るので、またご報告します。

って、人の体重なんかどうでもいいか(笑)


こうして山の中で誰とも会わない生活を続けていると、世間で起きている喧騒やドラマが遠い世界のことのように思えてきます。

僕自身も20代の頃はそんな世間の真っただ中で、夢を実現しようと頑張っていました。


30歳になって突然、人生観が一変してしまい、世間や他人に対する関心を失い、ほぼ浮世離れした精神構造になりました。

ほとんど社会不適合者だった僕がこうして生きてこられたのは、素晴らしい配偶者と、可愛い子供に恵まれたからだったと思います。

人生に意味はないと思いながらも、目の前の家族を養うことには生きがいを感じ、それなりに頑張って生きてきました。


いまは生活の心配からも解放されて、このような隠遁生活を送ることができるようになり、人生を春夏秋冬に例えれば、初冬をのんびり味わっています。


隠遁生活と言っても、こうして趣味のブログを書き、 ネットを通して禅サンガの会員たちと共に生きられるのだから、これ以上の贅沢はありません。

今夜は阿雲の呼吸inサンガです。

気力と体力の衰えを補ってくれるかのようなテクノロジーの進化。

ありがたいことです。



これからますます枯れていくのでしょう(^^;)

それが人間の宿命です。


でも枯れながら味わう人生もいいものです。

いまが一番幸せなのは言うまでもありません。





必死に頑張っていた若い頃のことが、いま振り返ってみれば喜劇のように見えますが、その当時は笑い飛ばすなんてできませんでした。

人生の多くは勘違いで出来ていましたが、それも含めていい人生でした。


この先は、みんなが少しでも気楽に生きられるようなアイデアと、これまでの人生を全肯定できるような考え方を提供していけたら本望です。


苦労や困難も含めて、人生は楽しむための機会だと思います。

困難がなければ楽しさの深みがないしね。


だから死語のようになった言葉をあなたに送ります。


頑張れ!!






  


Posted by Toshiro Abe at 11:30Comments(17)

2021年05月27日

愛こそすべて

先日久しぶりに「Across the Universe」という映画を観ました。

全編にわたりビートルズの楽曲が使われているミュージカル映画です。

映画はよくぞここまで作り上げたという名作ですが、すでに1960年代にビートルズはこんなことを歌っていたのかと、驚きの連続です。


当時、アルバムに付いてくる訳詞によって、なんとなく歌詞の内容を知ってはいましたが、実際は何を言っているのか良く分かりませんでした。

それがこの映画の邦訳が上手なのと、あの頃より少しは英語が分かるようになったこと、そして何より精神的に成長したことで歌詞の内容が良く分かるようになりました。


驚くべきは、当時から彼らはすでに非二元の真実を歌にしていたこと。


「あなたは全体の一部だ」

「革命とは反政府運動ではなく、心を開放することだ」


このようなメッセージを受け止めることができたら「愛こそすべて」という言葉の意味も断然奥深くなってきます。

日本とは50年の開きがありますが、ここから我が国の精神性や関心の対象が一気に高まっていくと感じています。





彼らの精神性に影響を与えたのは、インドのマハリシ・マヘッシ・ヨーギのもとでの瞑想修行でした。

マスコミはビートルズとマハリシとの決別を、マハリシが偽のグルだったからだとしましたが、真相はヨーコがジョンに帰ってくるように強く迫ったからだったと近年になって関係者の証言により言われています。

ポールマッカートニーが、マハリシとの30年ぶりの再会をとても喜んだことを聞いたとき、僕が思っていたような決別ではなかったのだと思いました。


当時はTM瞑想のことも何も知りませんでした。


TM瞑想(超越瞑想)とはマハリシが提唱したマントラ瞑想で、NIKE瞑想のルーツです。

マントラは言葉自体ではなく、その言葉を想起したときに発生する微細な波動のこと。

伝授とはマントラの言葉を教えることではなく、マントラの波動を発生させるためのエネルギーワークのようなものです。


僕自身もたくさんの瞑想法を学んできましたが、現代人にはこれが最良の瞑想法だと確信しています。

ちなみに僕たちにマントラ瞑想を指導してくれたボブさんもマハリシの弟子でしたが、5年ほど前にLAで当時のマハリシの高弟に会った時も、すぐに意気投合しました。

真理は一つだからです。


ちなみにポールは、2009年に子供たちにマントラ瞑想を普及させるためのチャリティコンサートを開いたそうですが、そういうことはあまり報道されません。

やはり瞑想というものが特定の宗教行為に見られてしまうからでしょうか。



話が少しズレてしまいましたが、真理は一つであり、それは時代や国境を超えた普遍的なものであることをビートルズの楽曲は教えてくれています。


どうぞ「Across the Universe」を観てください。

きっと深い感動を覚えると思います。


世界が平和であるためには、あなたが平和であること。

なぜなら、あなたが世界だからです。






  


Posted by Toshiro Abe at 11:44Comments(13)

2021年05月26日

ニャンとかなるさ

天河に暮らし始めて1年以上が過ぎました。

なぜこんなにもこの地に惹かれるのかわからないけれど、毎朝窓を開けるたびに思わず口を突いて出てくる言葉。

「いい所だなァ」


玄関の外では、お約束のように子供たちが待っています。

黒猫です。


近所のオバアちゃんが、

「黒猫が寄り付く家は繁盛するのよ」

って。


がははは!!

もう僕の将来は約束されたようなものだ!!

だっていまや4匹もの黒猫が居つくようになったのだから。

実はいま、天河は黒猫ラッシュなのです。


4匹となるとけっこう迫力ですよ。

智子さんの十数匹とは比べ物にならないけれど、もしかしたらこの子たちの命を救うために天河に来たのかと思ったりします。

最初は人間をすごく警戒していたけれど、いまは僕の足にすり寄ってくるようになって、愛しくて仕方ありません。



猫にまつわる不思議なエピソードはたくさんあります。

たとえば、

昔、庭に入り込むようになった野良猫が子供を産んだのですが、ある日僕の顔を見て

「この子たちをよろしくお願いします」

とはっきり言ったことがありました。

もちろん「ニャー」なのですが、なぜかその時は完全に言葉が伝わったのです。


この母猫はまもなく死ぬのだと直感しました。

案の定、見かけたのはこの時が最後で、彼女が命懸けで僕に子供を託したのは明らかでした。

みんな引き取り、一番長生きした子は15歳くらいまで生きてくれました。


他にも不思議なことは沢山ありますが、思い当たるエピソードを持っている人もいるのではないでしょうか。





人間は何でも分かったような顔をして生きていますが、こうして生きていることも含めて何もかもが不思議です。

だからジタバタしないで天にお任せするしかないですよね。

そう思ってしまえば気も楽になります。

自力で何とかしようとするから、日々の重圧に耐えられなくなるのです。


この黒猫たちも自らの運命を完全に任せきっているように見えます。

だからしなやかなのでしょう。


そういえば犬と猫の違いで、こんな話を聞いたことがあります。

犬は自分を可愛がってくれる飼い主を神のように思うのだそうです。

ネコは自分がこんなに可愛がられるのは、自分が神だからだと思うとか。


なんとなく納得する話ですね。



さて、また神たちにご飯をあげてきます。


・・・・・・・・


瞑想会プレゼントの当選者の発表です。

競争率は200倍強でしたが、当たる人は当たるんですね。

スマホの抽選アプリで選出しました。


それでは当選者の発表です。

阿部敏郎の場合はA・Tとなります。


仙台市のS・Mさん


大分市のT・Yさん


横浜市のH・Sさん


全員女性です。



おめでとうございました(^^)





  


Posted by Toshiro Abe at 09:00Comments(16)

2021年05月24日

だって大丈夫なんだから

ちょっとイメージしてみてください。

存在する全てがあなただとしたら、何が不安でしょうか。

不安や怖れは、全体から個人として切り離されていると信じているからではないですか。


いつも言うように、すべてはあなたによって作られ、この世界にはあなたしか存在していません。

あなたが世界なのです。



昨日の瞑想会トークで、「心配するな、大丈夫だから」と言いながら、どう説明しようかと思いました。

これは内なる経験から伝えていることで、元気づけようとか、安心させるためとか、そんな意図ではないのです。


大丈夫なものは、大丈夫だとしか言えません。



だから何度でも言ってやる。

「大丈夫だからね!」



今日も新しいいまを感じながら過ごすとしましょう。



昨日のトークをご覧になる方はこの画像をクリックしてください。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:08Comments(31)

2021年05月23日

愛への道

今日の記事はあまり愉快ではないけれど、大切なことだと思います。

先日、若き日の恋愛話をしましたが、どんなに相手を愛したつもりでいても、いま思えば単なるエゴの所有ゲームでした。

当時からこのことは心のどこかで知っていましたが、エゴはすぐに自分を正当化してしまいます。

まさに自己欺瞞。


相手を愛する本当の目的は、相手からの愛と体が欲しかっただけなのに、表面では純粋な愛だと思い込む。

それも意図的にではなく、自然に思い込めてしまうから凄い。


エゴによる自己欺瞞は見事です。

もしかしたら人間は自分をだます天才かもしれません。

その一方で、こんなに愛しているのにと真剣に思うのです。






あるとき、自己というものが実際には存在せず、存在だけが存在していると知ったとき、やっと本当の愛に出会いました。

存在自体が愛だったからです。


その愛は、困っている人を助けたり、近しい人に親切だったり、人々を明るくさせるために笑顔でいたりと、そんなこととは関係ありません。

そういう「形」ではないのです。


むしろ、誰かを幸せにしてあげようとか、誰かの役に立とうとか、そんな意図が全く消えた状態です。


ただ「ありのまま」でいること。

これ以上の誠実さはありません。


それができるのは、自分も他人もないという理解の上でのこと。

この理解があれば、「ありのまま」でいられます。

与えるとか、受け取るとか、そのような二元性は消えています。


開くことこそが愛です。

開いた結果、周囲からどんな反応が返ってこようと、それによって影響されることもありません。

なぜなら、相手が相手でいることも認めているからです。


愛の本質は、どれだけ自分に正直になるかにかかっています。

どれだけ自分に対して開けるか。

自分に開いたとき、それは全体に開いたことになり、そこに流れるのが愛です。


まずは自分をごまかしていることを潔く認めること。

誰もが同じだと思えば勇気も出ます。


自己欺瞞は想像以上に手ごわいですが、真実の道を歩むならそこと取り組むしかありません。


宇宙的な愛だとか、高度文明からのメッセージだとか、そんなファンタジックな話より、足元にある自分と関わることが真実の救済に繋がっていくのです。


本来のスピリチュアルの道は英雄の道ではなく、荒涼たる砂漠を独りで歩くことに似ています。

たとえ何かが達成されても、天から花びらが降り注ぐわけでもなく、ただあるがままをあるがままとして生きるだけです。


でもその喜びは比類なきものとなります。


愛を知るからです。



・・・・・・・・・・



今夜21時の瞑想会アドレスです。

https://youtu.be/Niw8v6gRjt0



先週の講演に出てきた興福寺に行って、阿修羅像に会ってきました。

ささやかな土産を買ってきたので、今日の瞑想会で抽選で3名様にプレゼントします。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:00Comments(31)

2021年05月21日

開経偈

一見すると残念なお知らせですが・・・

「あなたの人生は、これ以上よくなりません」


これは何度となく繰り返してきたメッセージです。

当然反発を生むと思いきや、納得してくれる人が多いのは、ここが変わり者の集まりだから。

いや、人生への洞察が深まった人たちが集まってくれているからだと思います(^^)

でなければ「人生はこれ以上良くならない」なんていう言葉を聞いて、またここに戻って来るなんてことはないでしょう。


たいてい人が惹きつけられるのは、自分の夢や希望を強化してくれる話です。

「きっといつか良くなる。だから、私の言う通りにしなさい」

ってね。





でもどこまで行っても、あるがままのいまがあるだけです。

将来を心配する人は、あいかわらず将来を心配しているだろうし、もっと成果を上げたいと思っている人は、その時も同じように頑張って生きていることでしょう。


年間の売り上げが100万円だろうと、1億円だろうと、やっていることは同じ。

さらなる売上に向かって奮闘しているのです。


活動の規模が大きくなれば、むしろ問題が増えています。

たしかに生活の快適さはお金で買えますが、マインドの質は変わりません。

人生の舞台装置が豪華になっても、そこで繰り広げられるドラマは同じなのです。

言っていること解りますか。



もしあなたが、自分の人生はこれ以上よくならないということを認めることができたら、それは自分への最高のプレゼントになります。

不毛の繰り返しから抜け出ることに関心を持つからです。

それが六道からの解脱です。


六道とはマインドが作り出す世界であり、きわめて多くの人がこの夢の中にいます。


夜見る夢も同じで、やっぱり六道の世界を繰り広げることになります。

だから心底幸せな夢を見ることは少ないのです。

夢の中で幸せだと思っても、それは夢の中で夢を見ているからであり、時間の問題で落下していきます。


阿修羅、人間、畜生、餓鬼、地獄

もう十分です。

この無限の繰り返しから抜け出る知恵に出会ったとしたら、それは何万年もの時間の節約になることでしょう。


開経偈はそのことを言っています。


無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)

百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)

願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)



根底からの救いをもたらす、この上なく深い仏の教えには

永遠の時を経ても出会うことは難しいことです

でもいま私は、その教えを受けることができました

この真の意味を理解したいと心から願います




これは本当の話で、それくらい私たちは六道のマインドの世界に取り込まれたまま、気の遠くなるような歳月を生きてきました。

もう十分だと思える人が増えてきたのが、この大変革の時代の本質だと思っています。


より良い夢を生きるためではなく、夢から覚めるために生きるのです。


いまがその時。





  


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2021年05月19日

欲求の方向

若い頃はずいぶん沢山の恋愛をしました。

しかもその時その時は真剣でした。


この人となら幸せになれる。

今度こそ運命の相手を見つけた。

と、そのたびに思いました。






いったい何が起きていたのか。

ズバリ、欲求不満だったのです。

性的な欲求だけでなく、魂が足りない何かを埋めようとしていた感じです。


しかし時間が経てばいつも同じ結果が待っていました。

一向に満たされない心の不満は、相手への不満として現れてきたのです。

相手を間違えたから満たされなかったのだと思いました。


そしてまた新しい女性に向かうわけですが、まさに愚かさの繰り返しです。



この場合の愚かさとは何でしょう。

それは、内なる欲求を相手が満たしてくれるはずだと思ったことです。

他の人を通して幸せになろうとしたのです。

だから欲求の対象を次々と変えていったのです。


多くの人が、夫や妻や親や子供に不満を持つようになります。

彼らに対して満ち足りなさを感じるのです。

これは欲求が外側に向かっているからに過ぎません。


本来すべての欲求不満は自分自身にあります。

問題は外の世界ではなく、内側の心なのです。


その後、少し大人になってこのことが解り始めたことが、真理への一瞥へと繋がりました。



もし何かに欲求不満を感じたら、その方向を自分に向けましょう。

自分に対する欲求不満は、精神の道を歩くための推進力になります。

それが全ての問題の根っこを断つことに繋がっていくのです。


・・・・・・・・・・

【お知らせ】

今月と来月のハートマントラ伝授は満席となりました。

6月末にもう一クラス増設します。

伝授ご希望の方はコチラからお入りください。





  


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2021年05月18日

声聞(しょうもん)

阿部のケースを語れば、まずは宇宙全体の理解に対する不意の一撃があり、その後この身に何が起きたのかを調べる中で仏教に出会います。

道を求めての出会いではなく、確認としての出会いでした。


経験豊富な高僧が阿部を面白がってくれるのは、仏教語を使わずに仏教の話をするからだと思います。


真実は一つであり、その地平に立てば誰とも対立することはありません。

でも宗教という組織を構成する人たちは、自分たちだけが正しいという立場を取らないと組織の存在理由がなくなるので、思想的な対立を生むことになります。


伝統宗教、新興宗教に関わらず、このような体質が、本来の宗教性を我々から遠ざけてきたと考えています。

真実以上に組織の存続が優先されてしまうからです。


本当の宗教性とは、どこか彼方に待ち受ける崇高な教えを学ぶことではなく、むしろ近すぎて見えなくなってしまった自らの本質を再発見することです。

一切の権威は幻想です。

権威というものは、人間のマインドの中にしか存在していません。

ある種の共同幻想でありリアリティではないのです。


巨大な伽藍も教会も不要です。

そういうものは、一般の人間が卑小な存在だというイメージを持たせてしまいます。

特権を持った一部の人間の都合を満たすだけです。





そうやって華美な幻想を捨てて地平に帰ってきたとき、本当の教えに触れる準備ができます。

ここからがスタートです。


まずは真実に対して心を開くことが求められます。

自説を抱えながら教えを聞くのではなく、空っぽの状態で学ぼうとする姿勢です。


通常、人というものはすでに自分の考えを持っていて、教えを聞きながら自分の考えと照らし合わせます。

それはある種の攻撃的な態度になります。

反論の準備をしながら聞いているからです。

これを「頭で聞く」と言います。


次の段階では言葉をハートで受け止めるようになります。

話の意味を論理ではなく感覚として理解しようとする聞き方です。

表面的な言葉に囚われず、何を言おうとしているのかを心で感じようとするのです。

これを「心で聞く」と言います。


頭で聞くときには心に疑いがありブロックしていますが、心で聞くときには垣根が消えて交感が始まります。

すると平面的だった言葉に奥行きが生じ、意味が立体的に伝わることになります。


この段階は頭で聞くよりはずっとマシですが、まだ十分ではありません。

どちらも部分的だからです。



最後の段階としては、存在全体で聞くという聞き方があります。

完全なる信頼を基にした全面的な聞き方です。


これが「声聞」(しょうもん)の意味するところです。


声聞によってある種の悟りを経験することは可能です。

なぜなら、完全に何かを信頼したとき、すでに悟りが起きているからです。


もし人生の中で本当に信頼できそうな真理に出会ったなら、迷わず自らを空っぽにして、存在全体で聞くことをお勧めします。


これが一番の早道です。





  


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2021年05月17日

六道を超えて

昨日のチャットに、瞑想誘導の個所も残してほしいとあったので、久しぶりに全編をアップしました。

これなら瞑想にも使えそうですね。


昨夜は自我が作られる5つの段階・・・五蘊について話しました。

そして最後の蘊(うん)である識蘊(しきうん)が織りなす6つの世界、六道について話しました。


いままでにも書籍やブログで紹介してきましたが、マインドの状態を判断するのに解りやすい分類ですね。


大切なのは六道の天上界を目指すのではなく、六道自体から抜け出すこと。

なぜなら六道は輪廻していて、ぐるぐると巡っているだけだからです。






今日も時間を見つけて、いまここに立ち止まり、肩の荷を降ろしましょう。

すると六道から抜けていたりします。


秘訣はリラックスすること。

たったいま、ほっと一息つくことです。


動画はコチラ

https://youtu.be/EYyvkV5pxWQ




  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(18)

2021年05月16日

無題

昔、聞いた話です。


お父さんが子供に教訓を与えていました。

人間のエゴを虫に例えた話です。


「いいか、早起きしてはだめだ。

早起きの虫は早起きの鳥に食べられてしまうから」


子供は聞きました

「だったら遅く起きればいいんだね」


しかしお父さんは言います

「遅く起きる虫は、遅く起きる鳥に食べられてしまう」


子供は戸惑いました。

「じゃ、どうしたらいいの?」


お父さんは答えました。

「どうすることもできない。

何をしたって負けは見えているから」





エゴが何かに挑んだとしても勝ち目はありません。

たとえ善行を積んだとしても、奉仕に明け暮れたとしても、その背後にエゴがあったら負けは見えています。


何をしたかではなく、エゴがそれをしたかどうかがポイントなのです。


エゴとは戦士です。

上手くいっていないと思える状況に挑もうとします。

そのような状況は次々と現れ続け、いずれエゴは消耗してしまうことでしょう。



それでは、負けないことはできるのでしょうか。

仏陀も老子も、それは可能だと言います。


秘訣は闘わないこと。

闘わなければ負けはありません。

負けるべき者がいなくなるからです。

これこそが人生の奥義です。


河の流れに完全に身を任せ、流れと一つになるのです。

なぜこれでいいのか。

それはどんな河も、いつかは必ず海にたどり着くからです。


右に流れても 左に流れても

どっちだっていいよ Let it be



このことを忘れずにいることです。


そうすればまた何かと闘い始めた時、

「またやってる」

と言って力を抜くことができます。


教えなどではありません。

ただ力を抜くだけだから。


すると物事は収まるところに収まっていきます。

ゴールは間近です。


いやゴールはすでに手にしています。

あなたがリラックスしたときがゴールなのだから。


あなたがこの存在に深く寛いだ時、ゴールがいまここにあったことを見出すことでしょう。



「おかえり」



・・・・・・・・・・・


今夜21時の瞑想会です。


アドレスは

https://youtu.be/EYyvkV5pxWQ







  


Posted by Toshiro Abe at 10:11Comments(14)

2021年05月15日

誤解を癒す

もう17年も前のことですが、沖縄でウィークリー講演会を始めて3回目が終わった時、「これでもう話すことはない」と思いました。

それが300回以上続くのだから、メッセージというものは無数の表現があるのでしょう。

このブログも同じで、すでにどれくらいの記事を書いてきたことやら。


ところが、伝えたいことはたった一つのことです。

それを体感として理解するお手伝いをしているのだと思います。


それは日常の生活からは夢にも思わないこと。

それまで現実だと信じていたことが、みんな夢まぼろしのごとく消えてしまうようなことです。


でも消えたそちらが真実で、普段の生活は幻想のようなものだと見抜くのは、無駄なことを大きく減らしてくれます。





無駄なこととは、例えば人の目や、自分を見張るもう一人の自分。

自分を見張るもう一人の自分とは、観照であるところの本当の自分とは違います。


むしろ分裂した自我のようなもの。

自我が自我を見張っているのです。


失敗してないか、みっともなくないか、馬鹿にされないか、ちゃんと生きているか、安全か、

これが分裂した自我が自分を見張る理由です。


分裂した自我の別名は「怖れ」。

この怖れは、自分が全体から分離してしまったという誤解から来ていて、個人レベルから国家レベルまで、すべての問題を作り出している元凶でもあります。



僕がやりたいのは、その誤解を癒すことです。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:38Comments(17)

2021年05月12日

遠い記憶の中に

もう6年も前になるけれど、非二元のメッセージを伝えるキャッチコピーとして

「私はいない」

という言葉を繰り返しました。


これはかなりの不評で、たくさんのお叱りを頂きました。(笑)


「いない?いるじゃないか」

というわけです。


そのとおり、いるんです。

でもいるのは「私」ではないという話です。


いまここにこうして存在していることは紛れもない事実です。

このことを否定できる人はいません。

でもこの存在は「私」という個人ではなく、全体意識がそれぞれを通して表現されているということを言ってきました。





何度もこのテーマでお話ししてきたのは、人生で理解すべきはこれしかないからです。

ズバリ自分とは何者なのかという理解です。


自分が全体の表れだったことが解った時、人生での葛藤や苦しみが終わります。

全てが一つであれば、何の摩擦もないわけです。


我々はこの境地を遠い記憶として知っているので、なんとかしてまたその完全な状態に戻りたいと願います。

そしてその代用品として、少しでも自分が満足できるものをかき集めるのです。



そろそろ決着の時間ですよ。

すでに何万年にもわたってさ迷ってきました。


これ以上取り逃がすのはやめましょう。

もう十分に苦しみました。



もう十分です。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:40Comments(36)

2021年05月10日

神秘の酒

人がお酒を好きなのは、しばしの間自分を忘れることができるからです。

いつのまにか自分というものが重荷になってしまったのです。

でもお酒による影響は一時的なもので、またすぐに神経症的な自分が現れてきます。


実はこの存在には、決してさめることがない神秘の酒ともいうべき酒があります。

その酒こそが天地の「真理」です。


♪あなたーを待つーわーテニスコート


ではありません。

いつも古くてスマンm(_ _)m



さて、いったんこの酒の味を知れば、人はもうそれまでと同じではいられません。

永遠に何かが変わってしまうからです。


深刻さが消え、欠乏感が消え、そこに探し求めていた全てを発見します。

あとは楽しくやるだけです。



前にも紹介しましたが、禅の十牛図の10枚目の絵。

よく見ると、この絵の中に出てくる覚者はヒョウタンの酒瓶を持っています。

この酒こそが神秘の酒なのです。





この酒を一口飲んだ人は心からの安心感を持つことになります。



今回の動画は安心をテーマにお話ししました。

お時間があるときにどうぞ。


ZENサンガや諸々の活動が、あなたの酒瓶になれますように。









  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(20)

2021年05月09日

あの体験よ、もう一度

ここで紹介してきたメッセージは思想でも信条でもなく、実際に起きた体験をもとに綴っています。

それは普段の生活とは比較にならないくらいリアルな体験であり、疑いようのない真実です。

簡潔に言えばマインドが消えた状態ですが、この状態は死の間際にあらゆる人が体験することも確信しています。


少数ではあるけれど、生きている間にこの体験をする人もいます。

しかもこれは何の前触れもなく起きるので、それが起きるシチュエーションは人によってまちまちです。


ある人は小高い丘の上から夕陽を見ていた時、突然いままで感じたことがないような歓びに包まれて本当の自分を理解したりします。


その時はマインドが消えていました。

しかし次の瞬間、マインドが出てきて言います。

「なんて素晴らしい体験だ。私は悟ったのだ」


ところがしばらくすると、その体験はどこにも見当たりません。

素晴らしかったという印象が残っているだけです。


するとまたマインドが言います。

「あのエクスタシーの時間をもっと体験しなければ。せっかくの悟りを自分に定着させるのだ」


そして同じ丘に登り夕陽を待つのです。

何日も何日も、あるいは何年間も続いていきます。


マインドは繰り返します。

「達成できないのは努力が足りないからだ。もっと頑張れ」





ある人は違法とされているドラッグによって垣間見ることもあります。

実際にはドラッグのおかげで一瞥したのではなく、その瞬間にマインドが消えていたのです。


この場合は夕陽を待つより深刻な結果が待ち受けています。

あの瞬間よもう一度とばかり、薬に溺れていくからです。



もう二度と同じ体験は起きません。

それが起きたのはドラッグのゆえでもマインドのゆえでもないからです。

マインドの言うことを真に受けないこと。

真に受けていたら何も始まりません。



なぜ同じ一瞥が二度と起きないのか。

その理由は、一度目は文字通り「不意」を突かれて起きたことだからです。

何が起きるかの予測もなく計画もありませんでした。


いまや一瞥を待ちわびるようになりました。

それがマインドであり、マインドがある限り歓喜の次元は見失われることになります。



真理を垣間見たら、もう真理については忘れることです。

それは達成すべきものではなく、すでにいまここにあるからです。


マインドの約束を信じないこと。

何かになろうとしないこと。


ただあるがままのいまに寛ぐことができれば、ここがゴールです。


真理はいつもあなたをノックしています。

それを招き入れるには、心の中のおしゃべりを止めることです。



今日は日曜日。

考えるのではなく、感じることに重きを置きましょう。

本当は何の問題もないことを感じてみてください。


そうやって夜を迎えましょう。

今夜21時の瞑想会アドレスです。

https://youtu.be/NWWMEiQ7Uvk





  


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2021年05月08日

何故?

奈良県の天河神社に「禊殿」と呼ばれる場所があります。

ご神体は神殿の背後にある高倉山という小さな山。

日本列島の中で最初に隆起した場所で、頂上は水晶で出来ているそうです。

僕が天河にご奉公していた30年前、この禊殿が大好きでよく来ていました。

不思議な光の玉に遭遇したこともあります。



さてコロナ騒動が起きる前に天河で瞑想リトリートをさせてもらったとき、通常は閉ざされている禊殿の扉が全て開かれ、そこで瞑想させてもらいました。

その時、いまでも忘れられない小さなエピソードがあります。


参加者の一人が宮司さんに

「私たちのために何故ここまでして下さるのか」

と訊ねた時、宮司さんが言ったのは

「何故はないんです」

という一言でした。



「何故はない」

いつも漠然と感じていることを見事に言い表してくれた言葉でした。


これはすべてに言えることです。

私たちはあらゆることに何故の答えを探しています。

そもそも何故生きているのかさえ知らないで生きているのだから。


人生の意味を考えるのが哲学かもしれませんが、何千年経ってもいまだに答えはありません。

「生」をマインドで説明することは不可能なのです。

何かを説明するためには、その対象より大きいか、超越していなければなりません。

マインドという卑小なものが、広大な「生」を説明できるはずがないのです。


マインドを超えた時、その答えがあります。

その答えとは皮肉なことに

「答えなど必要ない」

というもの。


全体と一つになった時、誰もがそのことを感じることでしょう。

「生」は神秘であり、解明すべき対象ではないのです。



だから生きるとしましょう。

どんなに困難でも、どんなに不条理でも、ただ生きるのです。


答えなどありません。

いまと一つになるくらいまで徹底して生きるのです。

いつか必ず死ねるので、それまではこうして与えられた機会を生き切りましょう。


死と共にすべてが霧のように消えてしまうのなら、何のために生きるのかとマインドは言いますが、そんなことを考える暇があったら、心のままに生きることをお勧めします。






この一年間、僕は天河で暮らしています。

大好きな沖縄を離れて、快適な我が家を離れて、何故天河に暮らしているのか。


何故?(笑)



天河の神に呼ばれたのではないか。

何かこの地でやるべきことがあるのではないか。


自我が喜びそうな理由はいくらでも見つけられますが、ただこのように起きているのであって、この流れを信頼して生きることにします。



全体から見れば誰もの人生は完璧です。

そこに「何故」が入り込む余地はありません。

全てはこのようにして起きているのだから。


あなたを生かしている源を信頼してください。

何が起きても源の思召しです。


大丈夫、あなたは一瞬も見失われていないから。



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6月のハートマントラ瞑想の日程が出ました。

詳細はコチラです。






  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(25)

2021年05月07日

瞑想と思考

瞑想に入ろうとしても最初にてこずってしまうのは、絶え間なく湧き出してくる思考です。

今日はこのことについて書いてみましょう。


まず理解すべきは、瞑想時だから思考が湧くのではなく、生活の中でも四六時中湧き続けているという事。

瞑想を始めると、その思考がありありと見えてくるのです。


瞑想以外の時間では、フォーカスが外側の世界に向かっています。

出来事に関わっているので、内側の思考に無自覚になっているのです。


生活の中でもランダムな思考はいつもあるのですが、人は外側の世界と関わるのに忙しく内側の思考に気づきません。

瞑想したから思考が押し寄せるのではなく、瞑想によって思考が明らかになるのです。


私たちは自覚していないだけで、普段は完全に狂っています。

もし思考を録音できる機械が発明されれば、どれくらい支離滅裂かがわかるでしょう。

瞑想を始めた当初は、ここでつまずいてしまうのです。


しかし少し慣れてくると、思考に関心を向けなくなってきます。

相変わらず思考は湧き続けるのですが、まるで流れる川の水を見ているように、そこに影響されなくなってきます。

思考にエネルギーを与えなくなるのです。

すると思考の流れが穏やかになってきて本当の意味での落ち着きを取り戻し始めます。





思考とは言葉の群衆です。

次から次へと絶え間なく言葉が湧いてきます。

これは教育の副産物のようなもので、絶えず言葉を学びながら育ってきたことも影響しています。


いまや言葉は単なる言葉以上のものになってしまいました。

言葉によって表されるものを、リアルなものだと思ってしまったのです。

言葉自体は真実でありません。

神という言葉は神ではないし、愛という言葉は愛ではないのです。


「あなたを愛している」

と言われればいい気持ちになるのは、愛という言葉を愛だと思っているからにすぎません。


そのうち、「愛している」という言葉を求めだします。

それくらい言葉を信奉しているわけです。


まずは言葉の不毛さを理解することです。

でないと、湧いてくる思考が現実と同じくらい現実になってしまうことでしょう。


言葉の不毛さを見抜けば、生きるのがずいぶん楽になります。

苦悩も落ち込みも言葉によって起きますが、いま伝えたように言葉はリアルなものではないのだから。


この理解が、思考から離れることを容易にしてくれます。

思考が大事なものだと思うからしがみついているのです。


次に瞑想するときは、今日伝えたことを応用してみてください。


瞑想以外の時間も、言葉(思考)に惑わされなくなりますよ。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(22)

2021年05月06日

弥陀の誓願

昨夜コメント欄に頂いた質問です。

>全人類が夢から醒める事はあるのでしょうか?


この答えは意外なものになるかもしれません。

もし答えるとしたら


全人類など存在していない。

存在しているのはあなただけだ。

全人類もそのあなたの思考の中に存在している。


したがって

あなたが目覚めれば全人類も目覚める。

となります。


このことを強烈に感じたのは初めて全体意識に包まれたときでした。

その全体こそが自分であることがわかるというのは、存在の基本認識へのどんでん返しです。

最初から自分しか存在していなかったのだから。



その時、阿弥陀の誓願を思い出しました。

「最後の木の葉一枚が悟るまで、私は悟りの門に入らない」


森羅万象すべてが悟るのを見届けてから私も悟ることにしようというわけです。

この言葉は究極の自己犠牲であり、愛そのものだと受け止めていました。


しかし全体から見れば、すごく当然なことを言っていたことがわかります。

なぜなら、自分が悟ったときは、森羅万象全てが悟っているからです。

それは二つの別々なものではないのです。


反対から言えば、もし何か一つでも取り残されていたら、自分も悟っていないことになります。

このからくりの表現の一つが「阿弥陀の誓願」ではないかと思いました。


人はなんでも対象化して考えるので、阿弥陀という存在が空の上からこの世を見下ろしているかのようにイメージするのかもしれませんが、もちろんそんな存在はいません。

すべてはあなた自身だからです。






最初に戻りますが

「あなたが目覚めれば全人類も目覚める」

全人類というものが思考の産物にすぎないということが分れば、このことも分かりやすくなるでしょう。


運動家は世界を変えようとします。

神秘家は自分と取り組みます。


運動家が成功したことはありません。

幻想に戦いを挑んでいるのだから当然です。

外側の改革ではなく、内側に目を向けた者だけが成功を手にしてきました。


世界中を捜し歩いて神を見つけた人はいません。

自分の中深く入っていって神を見つけられなかった人もいません。



>全人類が夢から醒める事はあるのでしょうか?


全人類のことなど忘れてしまいましょう。

そして自分自身と取り組むのです。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(22)

2021年05月05日

問題が消える時

夢の内容を良くしたいという思いと、夢から目覚めたいという思いがあります。

前者のほうが圧倒的多数であり、夢から覚めることさえも夢の内容に加味しようとします。


夢から覚めたいと思うには、夢を夢として認識しなければなりません。


もし夢を夢として見破ることができたら、その時はすでに目覚めかけています。

それはちょうど夜眠っている間に見ている夢から覚めるのと似ています。

夢の中で、「もしかしたらこれは夢ではないか」と思い、それがきっかけで夢から覚めたことはありませんか。

あんな感じです。



夢から覚めるというのは、夢の中の自分が目覚めるのではありません。

それまでリアルだと思っていた夢の世界全部から目覚めるのです。


世界が霧のように消えていきます。

消えるというよりは、幻影だったことが明らかになっていくのです。


その後にまた世界が戻ってきます。

今度はいまここのあるがままの世界です。


山はあいかわらず山であり、川は川のままです。

でも何かが違っています。


それが禅の十牛図の9枚目に当たります。






世界を対象として見る自分が消えているのです。

ただ世界(全体)があり、それ自体が生きています。


何一つ分離はありません。


いったんこの世界を垣間見ると、こちらの世界こそがリアルであり、それまで見ていたものは自分の想像の投影だったことがわかります。

その時あなたの物語が終わり、抱えていた心労も消え去ります。


すると他の人たちが思い悩んでいる姿を見て助けてあげたくなることでしょう。

なぜなら、その悩みは夢だからです。



夢の世界では問題が山積しています。

個人的な問題もしかり、世界規模の問題もしかりです。


これらの問題解決が生きる理由になり、毎日問題と取り組んでいますが、一つ解決したかと思うとまた新しい問題が生じてくる。

その繰り返しが何千年間も続いてきました。



いまや問題は一瞬にして根底から解決することができるのです。

それが目覚めるということ。


しつこく繰り返しますが、チャンスは「いま」です。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:15Comments(17)