2019年10月31日

色(しき)の世界の話

来てくれてありがとう。








今日はアベッチのマインドの中を覗いてみます。


子供のころ、人同士の争いや、動物への虐待を目にするたびに、どうしてこんな世界に生まれてしまったのだろうと思いました。

もしかしたら他の惑星で罪を犯して、罰としてこの地球に送り込まれたのではないのかと。


と同時に、自分が生きている間にすべてがひっくり返るような世の中の大変革が起きるという確信めいた予感もありました。


なぜそのように思ったのかはわかりませんが、いまその予感が現実のものになろうとしています。


僕と同じように感じていた人もいるのではないですか?



何かがきっかけで(僕は貨幣経済の破綻だと考えています)、いまの体制が維持できなくなり、社会全体を再構築することになると思うのです。


いったん社会のすべてが崩壊し無秩序の世界が現れるかもしれませんが、すべては良くなるという思いを持ち続ければ、必ずや新しい秩序が生まれてくることでしょう。


既得権を守ろうとする人には痛みが伴うでしょうが、変化を受け入れる人には、むしろ世の中の立て直しにワクワクすると思います。



そもそもいままでのこの社会システムが本当に人を幸せにしてきたのか。


みんながあたりまえだとしている家族という単位や結婚制度。

行政のありかたや、お金のからくり、そして教育。


それらは本当に人が幸せになるために機能してきたのでしょうか。

多くの家庭や社会全体を見ていると、むしろ人を惨めにさせてきたのではないかと思えてなりません。


これらすべてを一回チャラにして、先入観を挟まずにゼロから社会を再構築する時が近づいてきたと思うのです。






この世の仕組み(色の世界)は、すべての人がその命を輝かせ、生きる喜びを持ち、人生を全うできるようでなければなりません。

いまは個人がなにかの犠牲になることで、やっと秩序を維持しているように見えます。


家族のため、子供のため、会社のため、生活のため・・・

自分のために使える時間やお金が足りなくても、それは自分のせいのように思わされています。

いくら働いても豊かになれない理由を、個人の運や能力不足のせいにしているのです。


それは違います。

経済と社会の仕組み自体に問題があるのは明白です。


この先はますます人が働かなくてもいいようになっていくことでしょう。

有り余る生産力と供給が、そんな社会を現実のものとしていきます。


「働かなくては生活できない」

という考えは前時代的なものになっていきますが、我々の世代が馴染むのは時間がかかりそうですね。


考え方次第で、いますぐにでもこの地上をユートピアにすることは可能です。


そのためにはいままでの文化や社会システムが崩壊することが必要で、それは計画せずともそうなっていくように見えます。



いささか荒唐無稽なストーリーですが、アベッチの中ではあたりまえのことのように捉えています。


忘れないでほしいのは、すべては良くなっていくということ。

崩壊にうろたえることなく、しっかりと地に足を付けていまを生きていればいいのです。


そのとき人類史上初めて、支配者と被支配者という関係が終わりを遂げます。


AIやロボットやインターネットの更なる進化が、世界の変革を後押ししてくれることでしょう。



勝手なことを言いました。

すいぶん大雑把な表現になってしまいましたが、適当に読み流してください。



もしかしたら僕と同じように感じている人もいるかもしれません。

このような予感は、多くの人に一斉に訪れることがあるからです。


そうやって時代が変わっていくのでしょう。
















  


Posted by Toshiro Abe at 09:48Comments(48)

2019年10月30日

空(くう)の世界の話

来てくれてありがとう。







あなたが、「自分」と「自分にまつわるストーリー」から身を引くと、元々の本質である自由の感覚が訪れてきます。


自分が誰でもなかったことが分かり、誰かに成ろうとしなくてもいいんだと知ります。

すると身体はくつろぎ、ハートが開き始めます。


そのとき初めて、いまを生きるということの意味が分かり、存在に対するゆるぎない信頼が訪れるのです。



いまを生きるというのは、信頼と共にあるということです。

信頼がなければ一瞬先が心配になり、再び身構えて緊張状態に入っていくことでしょう。



たいていの人は不信の中で人生を送っているので、身体の筋肉が収縮しています。

自分は宇宙から忘れられた孤児で、運命という気まぐれな風に翻弄されて生きていると感じているわけです。

それが慢性的な不快感となります。



一日にほんのわずかな時間でもいいから、すべてのストーリーから身を引いて寛ぐこと。

この習慣があるのとないのとでは毎日が大きく変わってきます。






なにか役立つことをメッセージしようとすると、結局は瞑想の大切さになってしまいます。


瞑想は現実逃避だと言う人がいますが、その人が言う現実とは、現実という名のストーリーに過ぎません。

そのストーリーから逃避するのではなく、離れていくのが瞑想です。


するとそこに本当のリアリティを見出します。



それはいまここにある目覚めた純粋意識であり、本当のあなたです。


しかもなんたることか、この宇宙には「それ」しか存在していません。


「それ」が、無限かつ永遠なる空(くう)と呼ばれるもの。


しかも「それ」が、あなたなのです。















  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(18)

2019年10月29日

サイレント

来てくれてありがとう。







昔、方広寺のワークでやっていた散歩の実習を天河でも始めました。

ルールは簡単で、誰とも話さず各々が無言のまま思い思いに散策するのです。


誰とも話さなくても自分の内側ではあいかわらずおしゃべりが続きますが、意識を五感に向けることで、「感じる」ということに重きが置かれます。


「感じる」と「考える」は同時にはできないので、五感に意識を向けることで内側のおしゃべりも静まってくのです。



そしていつもなら見過ごしてしまう道端の石ころや、あたりまえの植物たちや、その葉っぱ一枚一枚を、何も考えずに(評価せずに)ただじっと見てみます。


まさに、あるがままと共にいる時間です。



普段、いかにわれわれが固定観念を通してものを見ているか、あるいは見えているものさえ見ていないか。


そのような態度を横において目の前のものをじっと見ていると、いままで見えなかったものが見えてきます。



複雑な樹皮の凹凸。


そこに生活する小さな虫たち。


一枚として同じ形のない木の葉。


さらには肌に触れる空気の感触。



いかに普段、ちゃんと見ていないか。

気づかないだけで、いまここには無数の命の活動があるのです。


たいていの場合、人は自分本位に作ったストーリーを現実として抱えていて、その現実に対して、あらかじめ埋め込まれた観念が反応して、そこに生じるドラマに一喜一憂しています。

朝から晩まで、そのストーリーの世界をやりくりしながら生きています。


ほとんどすべては思い込みなのに。






このように、「ただ見る」ということをするだけで、ストーリーの世界からリアルな世界に戻るきっかけとなります。


「いつか覚者になれば、いつもいまここを生きられる」と言う人もいますが、そんな「いつか」を待つのではなく、いつだってこうしていまここに戻ってくることができます。

そしてそうやってリアリティに触れている時間、あなたは覚者(ブッダ)です。



覚者とは、だれか特定の人のことを言うのではなく、まさにいまここにおいてどんな状態で生きているのかという存在の質のことです。


覚者と呼ばれる人がストーリーに巻き込まれている場合もあれば、一般の我々が覚者として存在している時もあります



「この人は○○だ」というような固定された個人はいません。


だから、「○○な人になろう」という姿勢は的外れなのです。



毎日通い慣れている通勤の道で、ふと足を止めて、かたわらの街路樹をじっとのぞき込んでみてください。

そしてただその木と一緒にいるのです。


するとその木は、イキイキし始めます。



人間の意識のパワーはとても強くて、じっと見つめた対象に生命を吹き込みます。


この世のすべては、あなたの注目によってその存在感を増しているのです。


あなたの大切な人に対しても同じこと。


注目は愛です。













  


Posted by Toshiro Abe at 10:04Comments(42)

2019年10月28日

人生の岐路

来てくれてありがとう。








思いがけず誕生日メッセージありがとうございました。

天河でも宮司さんがどこでお聞きになったのか、誕生日を祝う準備をしてくださっていて恐縮しました。


「お誕生日おめでとう」

この言葉は僕以上に母が喜んでくれた気がしました。

この場をお借りしてみなさんに御礼申し上げます。




昨夜の天河神社


いま、人生の岐路に差し掛かっている人は多いと思います。

時代そのものが曲がり角だからです。


いまの生活のままでいたいと願っても、否応なく新しい方向に流される人もいることでしょう。


そういう時は迷いも生じますが、人生に失敗は許されないなどと思わないでください。

いまを生きることに徹すれば成功も失敗もないのだから。


そして人生のすべてが自動運転だということも忘れないように。

何一つ、あなたのせいではありません。



頭の中であれこれ考えるより、いま目の前の「これ」と共にあること。

「これ」はどこかに向かう過程ではなく、これそのものが結果です。


いまを生きるとは、そういうことです。




今日は今年最後の天河リトリートの最終日。

宮司さんはじめ神社関係者の皆さんには並々ならぬご協力をいただきました。

おかげさまで6月から10月までの5か月間に250名の方を天河にお招きすることができました。

ご縁を結ばせて頂いていること、とても嬉しく思っています。






いつもありがとう(^^)









  


Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(37)

2019年10月27日

夜空

来てくれてありがとう。







今年最後の天河リトリートは、命の祭り、祝祭のリトリート。

本来はだれもが生きているだけで喜びを感じられるのに、様々な不満や恐れがその上を覆ってしまって、ダイレクトな喜びを感じる機会が減ってしまいました。


そんな感覚を復活させることが目的の3日間です。



昨夜は禊殿での祈りと瞑想。

その様子を最後まで見守ってくれた宮司さんが、夜の「元伊勢」を案内してくれました。


ここは伊勢神宮が開かれる前に大神宮があった場所で、少し行くと磁石が効かない場所があるそうで、立っているだけで不思議な感覚に包まれます。


宮司さんはここに大神宮を復活させ、さらには33mもの月の塔を建てようとしています。



さて昨夜はあいにくの曇り空。

残念ながら星一つ見えません。


前回はプラネタリウムのような星空が広がっていたのにね。



すると宮司さんが
      

「空に向かって『ウォーーーー』と唱えてみてください」

と。



すると参加者が全員で

『ウォーーーー』


本当に夜空に届くような声で唱えました。



ちなみに「ウォー」とは、「オーム」の頭に「ウ」を付けたもので、「ウ」は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を表しているそうです。


50人が一斉に大声で唱えるのだから、知らない人が見れば完全に変な集団。


ところがやる側はそういうことが全く気にならなくなるのだから、やはり場の力は強大です。



声を出し始めて5分もしたころでしょうか、元伊勢の頭上だけ雲の穴が開いたかのように、ぽっかりと星空が顔を出しました。


ええっ?と思いながらも、天がこの声に呼応している手ごたえのようなものがあって、みんなの声はさらに高まります。


すると、星空はみるみる広がっていき前回のような大宇宙が出現しました。






こうして書くとただの偶然みたいですが、こういうエピソードが当たり前のように感じられるのが天河です。



宮司さんはこの現象に驚くこともなく、淡々と


「それじゃ帰りましょうか」

って。




かっけー!!





いよいよ今日はメインイベント。


またご報告しますね。




いつもありがとうございます。

クリックしてもらえるとありがたいです。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(22)

2019年10月26日

パーな日

いま天河に来ています。

もうかれこれ一時間もPCの前にいるのに、書くことが何も出てきません。


どうしよう。


こんな日もあるよね。

頭がパーになった感じ。




ところでこのバナーですが、協力してくれる人は一日一回クリックしてくれるとありがたいです。

せめてもの恩返しに、天河の福の神である白蛇の宇賀神パワーを封じ込めておきます。


南無白蛇形宇賀耶惹耶蘗陛施多摩尼貧転吽娑婆訶






  


Posted by Toshiro Abe at 09:55Comments(18)

2019年10月25日

質疑応答

来てくれてありがとう。







永井新吾さんのコメント

僕は障碍者年金というものをもらっていますが、無職です。これじゃ~ダメですよね。


どうしてダメなのか。

そもそも、何一つあなたのせいではありません。


こうでなければならないという、善悪、上下、優劣、これらは全部その時代の都合に合わせて作られたものです。

そうやって作られた価値観によって、それぞれが人生ストーリーを心の中に展開しています。

本当はいつもいま、ただこうしてあるがままにあるだけなのに、人間の数だけストーリーが作られているのです。



どうせストーリーを生きるなら、すこしでも気楽なストーリーがいいのではないですか。


たとえば現状への言葉を変えてみる。


「いまは好きでもない仕事をしなくても、こうして生きていられる。ラッキー!」

とか。



さて、結局のところ、多くの問題はお金に関係していますよね。

本当は無限の富があるのに、なぜか不自由な範囲でしか生活させてもらえない。

生活費を支払ったら、好きに使えるお金が残らない。


こんな生活しかできないのは自分が力不足だからだ。

健康じゃないからだ。

努力が足りなかったからだ。


そうやって自分のせいにしてきた人が多かったし、周囲の目も厳しい。

これじゃ病気にもなってしまいます。



で、こういう世の中は、もうすぐ終わると思うんですよ。



( 一一) もうすぐっていつだよ。



あ、そういう質問も来てましたね。



たけしさん

でも・・・「この先」っていつ頃とお考えですかーーー?
数年後?数十年後?




知りたい気持ちはわかるけれど、ここは言い切れないんですよ。

もう始まっているけれど、この先ど~んと前に進むのか、それともまだ時間がかかるのか。



で、なにがどうなるかということですが・・・


一つ言えるのは働かなくてよくなると思います。



こんな言い方をすると

「でも働きゃなきゃ食べられないし、生活もできないし」

って。


働かない生活は、一部の恵まれた人にはできても、いまだって生活で手いっぱいの自分がそんな恩恵に預かれるはずがないと思っているかもしれません。


ところがそうじゃないんです。

だから根本的な大変化なんですよ。


前出の永井さんだって自分をダメだなんて思わなくて済みます。




神様大好きさんのコメント

無我の阿部さんには肉体的自己感覚も心理的自己感覚もないのでしょうか?


本当は誰もが無我であり、あらゆる自己は幻想です。

でも同じように肉体的自己感覚も心理的自己感覚も持ち合わせています。


もし違いがあるとすると、その自己感覚と同一化しているか、離れているかの違いだと思います。

僕もいつも離れていられるわけではないですが、それでも心の底に全体が流れているので、そのおかげで気楽です。




瞑想者さんのコメント

(無条件に)心が満たされている人が多数になってくると、この権利(お金)の意味(パワー)は減少していくのではないでしょうか。


その通りだと思います。





いつもありがとう。










  


Posted by Toshiro Abe at 10:59Comments(26)

2019年10月24日

お金って何?

来てくれてありがとう。








たけさんのコメント

「お金が無くなる」ということはもう何年も前からいろいろなところで言われていますが、その大変革はいつ頃なのでしょうか?」



僕はお金が無くなるとは思いません。

お金というアイデアはとても便利だからです。


変わるのはお金に対する理解と付き合い方です。

お金とは何なのかということを調べだす人も増えていて、幼い頃から学校教育などで繰り返されてきた刷り込みに疑問を持ち始めました。






この傾向を後押ししたのが今回の消費増税だと思います。


デフレの最中にまた増税?

なんで?



( ̄д ̄) 政府の借金もたくさんあるし、次世代に借金は残せないし・・・



ああ、そうですか・・・

でもさ、日本人はこんなに働いているのに、しかも技術大国、貿易も黒字、世界中に沢山のお金を貸しているのになんで国民が貧乏で、政府の借金は増え続けるの?


そもそも政府の借金ってなに?

なんかおかしくない?



というわけです。


これはまだまだ序章ですが、この先は魂が泣いて喜ぶくらい面白いシーンが見られますよ。


そしてお金のことだけでなく、何もかもが変わっていくのです。




ワクワク




また書きます













  


Posted by Toshiro Abe at 09:37Comments(26)

2019年10月23日

いよいよ大変革が始まった

来てくれてありがとう。







いま人の心の内側も、外側も、大きな変化の時を迎えています。

これはあらゆる分野の人達が予感していることで、その予感が少しずつ実感に変わってきています。


まずは外側の変化ですが、これはただの変化ではありません。

根底から社会の仕組みが変わってしまいます。


まず知るべきは、新しい社会はいままでの社会の修正ではなく、いまの延長線上にはないということ。

いままでの変化がどこかに飛んでしまうくらい全く違う社会が出現するのです。


たとえば、縦型社会から横型社会への移行もその一つです。


誰が偉いとか、誰が力があるとか、そんなことは意味をなさなくなってきます。

そんなことより、生きとし生けるものすべてが互いを尊重し合い、調和を持って生きることの方が大切になるからです


なぜそうなるのか。

最も大きな要因は、人々の「お金」への概念の崩壊です。


お金は、社会や個人を形成していく上で、とてつもなく大きな影響を与えています。

お金の仕組みが社会の仕組みだと言ってもいいでしょう。


ところが最近になって、お金は実体だという幻想から次々と人が目覚め始めています。


実体だと考えている人は、金本位制のようなイメージから、お金には何らかの裏付けがあるから間接的ではあるが実体だと思ってしまったのです。


そういう人は、この世界の豊かさは有限だから自分がより多く確保しなければと考えます。

このような考え方によって国を発展させようとしてきたのがいままでの社会ですが、この考え方は競争や対立を生んできました。

だから誰も幸せになれません。


まずは世界の富は無限にあることを知ることです。

引き寄せの法則も、この事実に基づいています。


引き寄せという言葉を聞いただけで拒否反応を起こす人は、いままでの常識を握りしめている人です。

内側の変化は、このことを理解するのも容易にしてくれるでしょう。



その気になれば瞬時にして貧困をなくすことも可能です。

誰一人、お金に困っていない世の中。


国際社会との均衡を保ちながら、まずは日本でそんな夢のような現実が出現する。

それが各国に影響を与えだすのではないかと思っています。






この大変化の時代は、個人の生活も人生への考え方も変わり始めることでしょう。

すでにいま、大きな変化に直面している人も多いのではないですか。



こういうときこそ、すべては上手くいっていることを忘れないように。



あなたの意思も含めて、あなたを超えたものがやっているのだから安心すること。

内側の変化も、あなたがやるのではなく自然に起きてきます。


すべては自動運転だということをお忘れなく。


あなたはただ新しい流れに逆らわずに、その流れを信頼して生きればいいのです。




もっと詳しく知りたい人もいるでしょうから、また書きますね。













  


Posted by Toshiro Abe at 10:19Comments(35)

2019年10月22日

本当の安らぎ

今日もわかったような物言いになってしまうことをお許しください。

読む前にクリックしてくれるとありがたいです。






分かち合いたいのは、誰かが知っていて誰かが知らない話ではなく、話そのものを超えた話。


話そのものを超えた話って何だということになりますが、話を超えてしまったら何も話せなくなるわけで、どうしようもありません。



でも無数の角度から「それ」に向かうことはできます。


たとえば、


「自分とは誰か」ということを徹底的に問う道


自分の内側の思考と感情、そして五感を通してやってくる外側の情報の両者を、徹底的に観照する道


利他に徹することで己を減らしていく道


ただ黙して坐る道


これらの実践は、マインドの世界にすぐにハマリこんでしまう習性を遠ざけます。


ただし、何かに成ろうとか、悟りを得ようとか、そのような目的でやれば、いつまでたっても修業自体が自己満足になってしまうでしょう。

ポイントは満足を追求して止まない自己を超えていくことです。





本当のあなたは、あなたが信じて疑わない自己より、圧倒的に偉大な存在です。

誰もが握りしめている自己は、「記憶の集積」に過ぎません。


その自己は自分のことを、個人的な過去を持った存在だと信じています



本当の自分を探す旅は、「自分は誰なのか」ということについて持っている考え、評価、イメージ、信念、そしていままでの人生というストーリーを全部横に置くところから始まります。

このことは読み流さないで、自分を知るための手掛かりにしてください。



そして最終的には、あなたが同一化しているマインドや肉体があなたではなく、マインドや肉体として現れている源のエネルギー(意識)こそが本当の自分だと知ることで、初めて心の中に平和と安らぎが生じてきます。


それは、もの心ついてからずっと外側の世界に探し求めてきた、本当に欲しかったものです。

それはすでにあなたの内側にあるのです。



ですから逆に、自分の内側に無条件の平和と安らぎを感じたら、源と共に在るということになります。



秘訣はどこまでもリラックスすること。


どこまでも力を抜いていくこと





一日のうち一分間でもいいから、マインドの世界から離れてみましょう。














  


Posted by Toshiro Abe at 11:40Comments(17)

2019年10月21日

「それ」はここにある

来てくれてありがとう。








昨日の続きです。


大切なのは知識ではなく、実際にいま、どのように自分が存在しているかということに尽きます。


ひっきりなしにマインドが繰り出すストーリー(自分では現実だと思っている)を生きているのか、

それともいまここにある、あるがままの命に落ち着いているのか、どちらかです。



今日はほんの5分間、大切なことを試してみましょう。


まずは軽く目を閉じて、ゆっくり深呼吸します。

その時自分が深く息をしているということに意識を向けてください。


何度かそんな深呼吸を繰り返して、気持ちが少し落ち着いてきたと感じたら、いつもの自然な呼吸に戻していきます。


思考が湧いてきても構いませんが、その思考をしているのはあなたではなく、勝手に湧いているという態度で、思考から離れています。


思考とともに、日常を含めたありとあらゆるストーリーからも離れていきます。


時間の世界の中で繰り広げられているあらゆるゴタゴタから完全に身を引いて、あなたは静寂の中に落ち着いています。


出来る限りいまここに存在するように心がけてください。

この広大無辺な空間に同調していきます。



十分に落ち着いたら、また最初のように深呼吸をします。

そして一息ごとに、海面に上がってきます。

その時、海底の静寂を持ったまま海面に戻ってくるようにしてください。


そして日常に戻ります。








この広大無辺な空間が本当のあなたであり、これはあらゆる存在が共有しているものです。

生まれもしないし、死にもしないし、いまここに永遠にあり続けているあなたの本質です。


まさにあなたが、宇宙そのものなのです。


宇宙と繋がっているのではなく、宇宙そのものだということ。

繋がるには二つが必要ですが、「そのもの」は一つです。



人によっては、あまりにもストーリーと同化してしまっているので、目を閉じてもすぐに思考のお喋りに巻き込まれてしまうでしょう。


そこから離れるには、

思考が海面の波だとして、自分は海底に潜っていく錨(いかり)だというイメージを持つのも効果的です。


実際の話、この世で起きているあらゆる現象は海面の波のようなものです。


いろんな波が来ては去っていきます。


暴風の高波もあります。


でも海底のあなたは何も影響されていません。



人生で最も大切なのは、海面に現れている波の主人公としての自分ではなく、海底に鎮まる永遠の自分を感じながら生きることです。


それはどんな人の中にも、いまも無条件に在り続けているのです。













  


Posted by Toshiro Abe at 10:22Comments(17)

2019年10月20日

無題

来てくれてありがとう。







数日前の「ただの自分」さんからの質問

>『時間』とは、『思考だけ』の問題ですか?

>自分は、『時間』とは『物質』の『変化』や『動き』の過程だろうと思ってますが・・・



ただの自分さんは禅サンガのwebトークでも、瞑想会のチャットでも、そしてこのブログにもよく質問をくれます。


すでに身内だと感じているので率直に言います。

ただの自分さんはとても勘がいいのですが、時折何かが違う。

それはマインドから理解している時に起きています。



>時間とは思考だけの問題ですか?


その通りです。

もっと正確に言えば、時間(過去・未来)は存在していません。

いまだけが在りますが、その「いま」は時間の一部ではありません。


過去は、あなたが過去について考えた時だけ存在します。

未来は、あなたが未来について考えた時だけ存在します。


これは数日前に書いた言葉ですが、そういうことです。



マインドは、

「この氷が溶けたのは時間が経ったからだ、したがって時間は存在する」

と考えます。


この考えに対して言葉で説明したとしても、マインドには理解することはできません。


マインド=思考=時間=分離した私

これはみんな同じものの別名であり、根源的な錯覚です。



このことは言葉ではなく、実際に体験するしかありません。

体験と言うよりは、「体験しているいま」です。


いま、いまの中に在るのか


それとも


マインド(時間・ストーリー)の中にいるのか


これだけが存在のチェックポイントです。


大切なのはマインドの中身の精査ではなく、まさにいまに在ることです。





このブログではマインドの世界の生き方も解説しているので切り替えが難しいかもしれません。


でも時折立ち止まって、本当は何も起きていないことを感じてみましょう。



ほらね、いまだって、あるがままのいまがあるだけでしょ?


これ以外はマインドの中にしか存在していません。

そしてマインドの中身はすべて幻想です。



この洞察が、一切の苦しみからの救済となります。




いささか言葉を使い過ぎたようです。


これ以上書くのはやめますね。





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Posted by Toshiro Abe at 09:57Comments(16)

2019年10月19日

来てくれてありがとう。







聞いた話ですが、良寛さんも、一休さんも、人生の最後まで恋をしていたとか。


人を好きになったりするのに、年齢の限界はあるんでしょうか。

歳をとると多くの人が自分に言い聞かせて、恋心を持たないのか、それとも老いはそのような衝動を消していくのか。

若いころのような情熱はないものの、そんな気分が全く湧かないのもさみしい気がします。


なぜ多くの宗教や社会が、性をタブー視してきたのでしょう。

このことが人類に及ぼした影響は計り知れないのではないでしょうか。



今日は僕のストーリーを書いてみますね。


初恋と呼べるものは、中三の頃だと思います。

それまでは女子のことなど目に入らず、もっぱら同性の友達と遊んでいる方が楽しかった。


それが中3になって初めて下級生の女の子を好きになります。

胸がドキドキして、雨が降れば濡れてないかと心配になり、会えない時間もずっとその子のことを考えている。



(*^▽^*) 若者よ、それが恋だ。



そうかこれが恋か。

急に大人になったみたいな気分だ。


僕は悩んだ挙句、その子に心を打ち明けることにしました。


そして一世一代のラブレターを書いたのです。


何を書いたのかは覚えていません。

でも「好きです」ってことは伝えなきゃと思ったからたぶん書いた。



そしたらね、その手紙、突き返されたんです(涙)


この瞬間の衝撃は、

体の中で大ダイコがドーンと打ち鳴らされて、

寒気を伴った電流が体中を走った感じって言うか、


とにかく気恥ずかしいやら、悲しいやら。





でもまだこの時は、相手を性の対象としては見ていませんでした。

当時は性に関することなどほとんど知らなかったのです。



高校に入ると状況は一変します。

同級生や先輩がいろいろ教えてくれるのです。

射精というものを知ったのも高校に入ってからだから、遅いほうだったかもしれません。


でも性への興味をいくら持ったとしても、悲しいかな男子校。

しかも寮生活。

やっと性エネルギーに目覚めたというのに、女子は生活圏内にいないのです。

しかも性は野生のエネルギーであり、一番強いのだから、それを人に知れないようにこっそり処理して、そんなことはおくびにも出さずに学校生活を送るのだから、何かが歪んでいきます。


当時は社会の風潮もまだまだ性に厳しかったし、いけないもの、いやらしいものとして価値観を植え付けられたような気がします。


その結果、性欲が収まらない自分に対して自己嫌悪を持ったりもしました。

いま思うのは、性は自然の力なので勝ち目はなく、友人たちもみんな同じ悩みを抱えていのだろうと。


もしあのころ、人生で最も甘美な経験として性エネルギーを解放できていたら、違った性格になっていたかもしれません。



さて、

思春期に目覚めた性エネルギーは、いったい何歳くらいまで続くのか。

恋はいつまでできるのか。


ちなみにまた僕の母の話ですが、彼女は90歳を過ぎてデイケアに通う時、ちゃんとお化粧して、できるかぎりのオシャレして行っていました。


亡くなる一年くらい前に母が言った言葉を忘れません。


「私をじっと見つめるお爺ちゃんがいるのよ」


はい、恐れ入りました。



僕たちは誰一人例外なく性の交わりによって生まれてくるのだから、性が最も基本的なエネルギーと言えます。

そのわりには、社会ではほとんど話題に上りませんね。


野生の喜びを、知性によって封じ込めてしまった感じです。




このあたりが変わっていくと、世の中はもっと楽しくなったりして。




そんなわけで

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Posted by Toshiro Abe at 09:43Comments(16)

2019年10月18日

ダイレクトにいまここ

来てくれてありがとう。







僕と向禅師の活動名は「いまここ塾」

20年前の方広寺時代からの名前で、なんか硬いイメージだけど、伝えたいことの象徴でもあるので、いまも使っています。


ブログにもいろいろ書きますが、どんな言葉も真実そのものではなく、真実に「ついて」の言葉になります。

言葉は、全てを対象化してしまうのです。


したがってどんな真理の書もみんな方便であり、その方便に異論を指しはさむ人は完全に混乱した人です。

自分では正しいと思っていますが、どこまでいってもマインドの世界に過ぎません。



真理は「いまここ」にあります。

大上段から宣言しなくても、いまもこうしてあるがままにただ在るのです。


この「在る」ということが、あなたの本性です。


それは自己とは関係なく存在していて、あなたが何もしなくてもいつも「いまここ」に在ります。

それは個人的なものではありません。


これが言葉で言えるギリギリであり、この先何を語ってもそれは単なる説明になります。



いまに在ること。

時間という幻想からいまに帰ってくること。


いまという真実は、過去と未来という怪物に覆い隠されています。

その怪物は実際には存在しないのですが、あなたが彼らにエネルギーを与え続けるので、イキイキと在り続けるように見えるのです。


もし「いま」に完全に目覚めたとしたら、その2匹は霧のように消え失せます。

だってもともと、いなかったのだから。






これが瞑想の第一段階です。

存在(いまここ)と共に在ること。


初めのうちは思考がひっきりなしに往来することでしょう。

でもそれも次第に弱まっていきます。


秘訣はただ、リラックスすることです。

すると無思考の状態が現われます。


そのとき、過去も未来も消えています。

なぜなら、彼らはただの思考だったからです。


過去は、あなたが過去について考えた時だけ存在します。

未来は、あなたが未来について考えた時だけ存在します。


このことに気づいたとき、一切の幻想が剥がれ落ち、あなたはいまここに現臨します。


これが神という体験です。

神とは偉大な対象ではなく、ダイレクトな体験なのです。



苦悩の内容を解決しようとしても堂々巡りです。

苦悩そのものの根っこを断ち切りましょう。


あなたが「いまここ」に目覚めた瞬間、大いなる解放が起きます。

このことが基本的な人生観になれば、あとはどんなストーリーでも自由に描くことが可能になるのです。



これが

「空即是色」

の教えだと思っています。




そんなわけで今日は

南無白蛇形宇賀耶惹耶蘗陛施多摩尼貧転吽娑婆訶

のご利益の分かち合い








  


Posted by Toshiro Abe at 09:55Comments(18)

2019年10月17日

諭吉~!!

今日の記事は内容が薄い。

したがって






最近、リトリートに参加してくれた方から、よく言われることがあります。


「諭吉瞑想始めてから、臨時収入が次々と入るようになりました」


「私も諭吉瞑想で、いいことばっかり起きています」


ええっ?マジ?



(;一_一) アンタ自分が提唱しておいて、そういう報告にびっくりするわけ?


これは喜びの驚きと言うか、まさか本当に効くとは・・・!!



(;一_一) いまなんか言った?


いやいや、ちょっと口が滑っただけで。

もちろん効果はあると思っていましたよ。

それにしても期待以上の反響で、むしろ戸惑っているわけです。






そもそも諭吉瞑想の基本目的は

多くの人が持ってしまったお金に対する否定的な観念や罪悪感を一掃するためのもの。


顕在意識では「お金が欲しい、欲しい」


と言いながら


潜在意識で


「お金?お金は下品なものだ」


とか


「お金なんか追いかけたら周囲にどう見られるか」


とか


「私にはお金を稼ぐ運も能力もない」


とか


「今回の人生はお金が入ってこない運命だ」


とか


潜在意識のほうが顕在意識より力が強いので、結局はお金に縁のない状態が続いてしまうという考えから、潜在意識のお金に対する観念を前向きにするためのワークなんですよ。


そうやってお掃除を終えてから、引き寄せの法則のセオリーを生きれば、その効果は何倍にもなると考えているわけです。



それが


「諭吉~!!諭吉~!!」

でダイレクトにお金が降って来るなんて。



いや、これはメデタイ。

僕もまた始めよっと思った令和の秋です(^^)



で、一つ言えるのは、もし、

「自分の人生はお金に縁がないようになっている」

なんて考えていたとしたら、それは100%誤解だってこと。

その考えがいまの人生を創っているのです。


昨日も伝えたように、人生は一から十まで自分の作品であり、自分が宇宙の主なんだから、その気になればどうにでもなることを忘れないこと。


いまはまだ、お金に直結するアイデアや人との縁ができていないだけで、まずは素直に望むことから、新たに展開していくことがあるのです。


で、後になってみれば、その時そういう考え方に変えようと思ったことも、実際に人生が変わっていったことも、全部決まっていたという見方もできます。


いつも言ってきたように、もしすべての出来事が決まっているならば、どう決まっていて欲しいかを生きるのがベターな生き方ではないかと思うわけです。


そんなわけで、心当たりがある人は、いまから考え方を変えていきましょう。



そうなると、今日はやっぱこれでしょ。

「諭吉~」と心で唱えながらクリックすれば効果的です。








  


Posted by Toshiro Abe at 09:14Comments(15)

2019年10月16日

波動を高めて生きる

来てくれてありがとう。







人間にはそれぞれ固有の雰囲気がありますよね。

それは場所も同じで、すべては一つであるのと同時に、人にも場にもそれ特有の波動があります。


僕が天河にこだわるのもそういうことですが、時折、

「みんな同じだと言いながら天河を特別のように言うのはおかしい」

と指摘されることがあります。


理屈ではそうかもしれないけれど、大好きなんだから仕方がない。


なぜ好きかと言えば、やはりあの場の波動が好きなのです。

もしかしたらそれは神の波動なのかもしれないけれど、そうなると神とは何だという話になるので「場」ということにしておきます。



話を戻すと、人にもその人特有の波動があります。

いわゆる雰囲気です。


誰かのそばに行くと、なんとなく嫌な感じがすることってありますよね。

その人が何かを言うわけでも、何かをするわけでもないのに、まるでエネルギーが吸われていくみたいな感じがするのです。


事実そういうことは起きています。

人は自分のエネルギーが枯渇してくると、無意識に周囲の気を吸おうとするから。


逆に特定の人のそばに行くと、訳もなく元気になることもあります。

僕の母は、生前そういう人でした。


彼女は一人暮らしだったのに、いつも誰かが家に訪れていました。

それも若い人が多いんです。


母はいつも、

「私と喋るとみんなが元気になる」

と言っていました。


それを受け継がせてもらったのか、僕にも少しそんなところがあります。

母には敵いませんが、同じように言われることも少なくありません。


それは単に気質なのかもしれませんが、基本的に楽観して生きていることが大きいような気がします。


母も同じでした。

戦争で幼児を二人亡くしているのに、いまを生きることに徹した人生でした。


口癖は

「いまが一番幸せ」


人は見たいように見ることを知っているので、人の目を気にすることもありません。

人からあれはダメ、これはダメと批判されても、それはその人の世界での意見であって、自分のことではないのです。


深刻な人を見ていると、みんな生真面目な人が多い。

考えに幅がなく、選択肢が少なくなっているから、いろんなところに摩擦を作る。

そして人や自分を裁きまくるのです。


所詮人生は何から何まで自分が決めていて、生き方のルールを決めたのも、ルールを守っているかを見張るのも、そして罰するのも全部自分自身です。

実際には完全なる独り舞台であり、観客さえいません。


それが分かれば身体から力が抜けます。

すると気が充満して楽しい気分になり、引き寄せの法則が言うように、それが運気として現れてくるのです。



同胞よ

ユーモアの精神を忘れちゃだめだよ。

本当は徹頭徹尾なんだっていいのだから。


茶化しているわけではなく、本当の話だ。



だから、パーっと生きよう(^^)





今日のクリックのお礼に、たくさんの運気を念じておきます。

南無白蛇経~!!効くんだなこれが。








  


Posted by Toshiro Abe at 08:21Comments(27)

2019年10月15日

自由恋愛

あるとき柿坂宮司が、何人かの前でぽつりと言いました。


「神様が一番お困りなこと・・何だと思いますか?」


僕はいろいろ考えて、環境問題のことか、それとも核のことか、なんて思っていたら


「一番お困りなのは男と女の関係です」

って。



ほう、そうきましたか。


言われてみればギリシャ神話でも神様同士の男女問題がいろいろ描かれています。



そして

「嫉妬は醜いですな」

と。



ふむふむ確かにそうかも。


自分の過去を振り返ってみれば、そのことは良くわかります。


男女が共に愛し合う時、相手が他の人を好きになったとしたら、心からそのことを祝福できる人はどれくらいいるでしょうか。

たいていは嫉妬心のようなものが湧いてきます。


その嫉妬心の中には

「こんなに愛しているのに許せない」

という気持ちがあったります。


まるで愛とは所有することのようです。

物なら所有できますが人間は所有できません。

もし所有したとしたら、その時は人間を物にしてしまっているということです。



結婚や愛の契りは永遠に結ばれるべきという幻想がありますが、そんなことは起きないのではないでしょうか。

だって、一瞬先は、気持ちがどのように変わるか分からないのだから。


心が変わるのは生きている証であり、もし変わらないとしたらそれは死んでいるということです。


「あなたを一生愛し続けます」

というのは、その時の気持ちを言っているのであり、本気でそのことを約束する人がいるとしたら、その人は人間のことを何もわかっていないということです。

時間の問題でその人は約束を維持するために努力することになるでしょう。

そして努力は、愛ではありません。

ありもしない形を理想とすることで、多くの男女関係が苦悩に変わっていくような気がします。





本来は、すべての人間が自由であるべきです。

なぜなら一人一人が全体であり、何かに属するようなものではないのだから。


いまのように、結婚した男女が子供を育てるという仕組みの中では、家庭が何より重要視されますが、それが本来の人間の自由と幸せを損ねているようにも見えます。


表に出てこないだけで、実に多くの夫婦が愛ではなく、夫婦という形を維持することが目的になっているのではないでしょうか。


結局は社会レベルでの意識の成長が必要なのだと思います。


互いに愛し合う時には自由に愛し合う。

そしてその人との愛と学びが終われば、また新しい相手と出会っていく。



しかしそううまくはいきません。

いままでにも例えばヒッピーたちのコミューンのような形で、自由恋愛の場が設けられたことがあります。

誰一人、誰の所有物でもなく、自由に恋愛しセックスするようなグループです。


結果としてそれらの試みがことごとく失敗したのは、そのような形を維持していくだけの意識の成長が伴っていなかったからです。


常に相手を祝福しあえるような人間社会が誕生するには、我々一人一人の意識が、所有や嫉妬というレベルから抜け出て、全体としての個人を互いに尊重しあえるくらいに高まっていることが必要なのでしょう。


その時は神様も、困ることがひとつ無くなっているのかもしれませんね(^^)




思いついたままを書きましたが、ちょっと言葉足らずだったかな。

このまま載せますね。












※複数のHNで投稿されたコメントは掲載されませんのでご了承ください。




  


Posted by Toshiro Abe at 10:42Comments(19)

2019年10月14日

特別な自分

この世で最もありふれたことは

自分を特別な人間だと思うこと

自分は人とは違うちょっとユニークな人間だと思うこと


この思いがあるから、人はあるがままの自分を見るのを怖がるのだろう。

見ていけばいくほど、特別な面なんか何もないことが分かるからね。


そしたら特別でありたい自我の立場はどうなる?

自我は特別さの中でしか生きられないのだから。


自我は特別だったら何でもいいんだ。

特別劣っていてもいいし、特別不幸でもいい。



世の中を見渡せば、特別な人たちであふれている。

でもその人たちは知らない。

自分以外の誰もが、同じように自分を特別だと思っていることを。



自分が砂丘の一粒の砂のように、とことんありふれた存在だということを心底認めてごらん。

90%じゃなくて100%認めるんだ。

すると背負っていた荷物が全部消えていく。


正しい人でなくてもいいし、責任感が強い人でなくてもいいし、成功者でなくてもいい。



自分が全体であるというのは、何一つ特別なことはなく、ただこうしてあるがままにあるってこと。




秋だね

















  


Posted by Toshiro Abe at 08:48Comments(20)

2019年10月13日

ヌーディスト村

来てくれてありがとう。







昨夜は10時半くらいにどうしようもなく眠くなり、朝7時半に目が覚めた。

9時間の爆睡です。

だからでしょうか。

久しぶりに長編の夢を見ました。



旅行なのか仕事なのか分かりませんが、僕はアジアの小国に滞在していました。

その地でいろいろあるのですが、覚えているのは帰国する日のこと。


空港に着いたら荷物を持っていないことに気がついたのです。

かろうじて小銭が入った財布はあるのに、パスポートもチケットもスマホもクレジットカードもない。


泊まっていたホテルの名前も分からない。

なにより言葉が通じません。


電話もできずに途方に暮れていたら、小さな個人商店の若い女性が手招きします。

助けてくれるのかと店の中に入って行ったら、急に緑に囲まれた広場みたいなところに出て、綺麗な池があるのです。


その池の周りにはなんと、全裸の男女が大勢ではしゃぎまわっています。


僕がそこに入って行ったら、みんなが僕を見ています。

見る理由は僕が服を着ているからだと分かるのですが、脱ぐに脱げない。

脱がないと恥ずかしいというおかしな状況なのにやっぱり脱げない。



それにしてもそこで目につくのは、裸の彼らがみんなイキイキしていること。

みんな自然で、あるがままの自分を楽しんでいる。


なんだこれは。

まさにあるがままだ。


ちょうどあるがままの自分についてブログに書いたばかりだったなんて思いながら、自分の不自然さを思い知ることになるのです





その時、衣服というのは寒さへの対策ではなく、自分のあるがまま(野生)を隠すためのものではないかと直感しました。


僕たちは衣服という名の「社会」を身にまとっているのです。

衣服によって野生を隠そうとしている。


その野生の代表格が性欲。


人は自らの野生を隠したり抑圧したりするけれど、その戦いには勝ち目はなく、その結果自己否定や自己嫌悪が起きているのではないかと感じたのです。


そしてイキイキするというのは、野生が発揮されているときではないかと。



マインドがイキイキすることはありません。


むしろそのマインドが消えたとき、

社会通念や、良識や常識でできた見えない鎖をぶち壊したとき、そこに本当の命が発露するのではないでしょうか。


僕たちはイキイキする喜びを捨てて、味気ないプラスティックのような良識を選んだのかもしれません。



よし、帰国したらヌーディスト村を作ろう。

そこで真の人間性を開放するのだ。


なんて思うだけで、実際にはできっこないことを夢の中でさえ知っていました。

だって僕はここでも最後まで服を脱げないでいるのだから。


そんなこんなで目が覚めそうになるのですが、僕は夢の中に留まろうとします。

その理由は、まだパスポートやチケットを手にできてないから、もう少しこの地で頑張らなければと思ったから。


これって、実際の人生でお迎えが来たとき、まだやり残したことがあると言って抵抗するのと似ていますね。


本当は人生という夢から覚めればすべて解決なのに。



内容がありそうでなさそうでありそうな今日の記事でした。





何かが伝わった人はクリックしてください









  


Posted by Toshiro Abe at 10:19Comments(19)

2019年10月12日

仮面の告白

来てくれてありがとう。







昨日の記事で、僕たちが本当の自分の顔を隠してしまった話をしました。

しかも自分に付けた仮面はひとつじゃない。

二つでも三つでもない。


状況に応じて瞬時に付け替えているのがわかりますか?


友達といるときは、友達用の仮面があり

家族といるときも

仕事関係者といるときも

無意識にその人用の顔に付け替えています。


おそらくは人間関係の数だけ、微妙に違う仮面があるのではと思います。


このことをよく見ていったとき、あることに気がつきました。


なぜそれらの仮面を落とせないのか。

なぜ本当の自分ではいられないのか。


その理由は、本当の自分を愛していないからではないでしょうか。

と同時に、本当の自分では愛されないと思っています。


恋愛中などは特にその傾向が強まります。

相手によく思われたいという気持ちが高まって自分ではない自分を演じ続ける。


だからいくら相手が自分を好きだと言っても、それを信じるのが難しいのです。

だって相手が好きな自分は本当の自分ではないから。





さてそれでは、どうして人は自分を愛せなくなってしまったのでしょう。


それは家庭や周囲が繰り返し、「いまのあなたのままではダメだ」と言い続けたからです。

社会が僕たちに為してきた条件付けは、僕たちの中に自己嫌悪を刷り込んできました。


そうやって教育する親や教師、そして社会全体がすでに自己嫌悪に陥っています。

自己嫌悪は他者を批判することで自らを癒そうとするので、この世がこんなに生きづらくなってしまったのです。


この世から愛が消えてしまったのは、誰もが自分を愛せなくなってしまったから。

愛せないだけでなく、愛されてもその愛を信じられなくなっています。

自分を愛せないのだから、誰かが愛してくれても受け取れるはずがありません。



この社会を正気に戻すには、ある種の体験的ワークが役に立つと思っています。

あるがままの自分でOKだという、心の底からの実感と安心感を取り戻すのです。


アメリカ西海岸のエサレン研究所のような施設が、この日本にもあればと思っています。



本当の自分を取り戻すことを目的にした村の建設。

ホテルを作りたいと言ったのは、その手始めに過ぎません。


僕は先にいなくなりますが、次の世代がその村を活用してくれたらと夢見ています。













  


Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(28)