2007年11月30日

アセンションプリーズ



さあ、今日も書くぞ!




って・・・何書くの?




何書くの?・・・そりゃあなた、メッセージでしょ。




何のメッセージ?




そんなこと今さら聞かないでよ。さんざん書いてきたのに。


たとえば、

すべては「ひとつ」だとか・・・

過去も未来も存在しなくて、いつだって「いまここ」だとか・・・

個別意識は幻想で、実際には「大いなる意識」しか存在していないとか・・・

人生は夢のようなものだとか・・・




すでに書いたんだったら、もう書かなくていいじゃない?




そんなこと言ったって、2012年の12月22日まで書き続けるって、自分と約束したし・・・




自分との約束なんか、すぐに破ってきたくせに。今回もどうせ続かないよ。




そういう投げやりな言い方はやめてほしいな。

とにかく2012年の・・・・あっそういえば、先日「アセンション」をけんさくしたんだ。










森田健作






違うよ。検索!ムカッ
(最近、オチが甘い)


そしたらけっこうたくさん出てきて、それが「精神世界ランキング」にいっぱいあった。

で、この際だから、僕もそこに参加しようって、昨日からクリックボタンをここに貼り付けているわけ。




2012年・・・ホントに地球がアセンションするのかはわからないけれど、そうやって期限を設ければ、「いつか、いつか」って言っていたことを、最初にやり遂げてしまおうっていう想いにもなる。


実際に時間感覚はますます速まっていて、10年前の倍くらいのスピードで過ぎているような気がする。


テクノロジーの進歩や、いままでの社会システムの老朽化や、この先何が起きてもおかしくない時代だと思うので、大変革の準備だけはしておいてもよさそうだ。



アセンションは地球規模って言うけれど、結局は自分が地球なわけだから、まずは自分自身が自我の囚われから自由になって、全体意識を悟ってしまえば、そのとき地球全体が悟るんだ。


数学みたいに個を足し合わせたのが全体じゃなくて、「個=全体」だから。



こういうことを頭で解釈しようとすると難しいけど、みんな心のどこかで感じているんじゃないかな。


この世には自分しかいないってこと。





気がつけば、また同じことをグタグタと書いている。

これしか言いたいことないし・・・




よし、これからも張り切って書くぞ!

  


Posted by Toshiro Abe at 08:29Comments(8)

2007年11月29日

続・超なまけ者の修行法




昨日「慈眼施」をやってみて思ったこと。

けっこう普段は無意識に、悪い目つきで人を見ていたなって。

あわてて目つきを変えたりもしたけど、無意識な生活パターンに意識が持ち込まれただけマシだったかな。



それにね、優しい目になると少しいい男になったような気がした。


この際だから、目だけじゃなくて顔全体でやってみようか。




あるんだな、そういう布施明、じゃなかった、そういう布施が。

それじゃ、今日は二つ目にいってみよう。




昨日の慈眼施(じげんせ)とあわせてやれば効果覿面。







今日のちょこっと修行は「和顔施」(わがんせ)

別名「和顔悦色施」(わがんえつじきせ)とも言って、ニコニコと朗らかな笑顔で、相手を見ましょうという意味だよ。


反対の言い方をすれば、自分の気分がどんな状態でも、しかめっ面をしたり、嫌な表情は慎もうってこと。



昨日も言ったけど、他の原因で不機嫌な顔をしていても、そんな顔で見られた相手は、自分に原因があるような気がしてしまうからね。


まちがっても相手にそんな気持ちを与えないためにも、いつもニコニコしていることを心がけようってわけだ。




気持ちのいい笑顔に逢ったときは、なんだか心が救われる気がするよね。


僕の友人で、ラジオディレクターしている、匿名希望じゃない梅ちゃんって男がいるんだけど、彼の顔なんか、歩く「和顔施」みたいなもので、いつだってニコニコしてくれる。


いつでも何処でも誰にでも同じような笑顔でいるってことは、かなり怪しい社交的な笑顔だって思っていたけど、それでも憮然とした顔で見られるより100倍いいよ(笑)


彼自身、その行為が布施行にあたるなんて思っていないだろうけど、知らず知らずに仏の行をしているわけだ。



笑顔はいいよね。

気持ちがいい。



そう言えば、向和尚が事あるごとに唱えているマントラ(真言)に、地蔵菩薩のご真言がある。


ちょっと変わった響きで

「オン カカ カビサンマ エイ ソワカ」

って言うんだ。


このカカていうのは、カッカッカっていう笑い声で、呵呵と書くらしい。



困ったことや苦しいことがあったとき、お地蔵さんの前に佇んで手を合わせると

「カッカッカ、大丈夫だよ、気楽にいきなさい」

って勇気づけてくれるんだ。



僕らが意識してこの「和顔施」を行えば、それはお地蔵さんと同じ菩薩行にもなるわけで、世の中を少し明るくする。



難しいことを考えるよりは、単純に笑顔を心がけたほうがずっといいよね。



顔は笑っていても目つきが恐いと何にもならないから、昨日の「慈眼施」とあわせてやってみよう。


これで今日からあなたも地蔵菩薩だ。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:11Comments(6)

2007年11月28日

超なまけ者の修行法

もう11月も終わりか。

今頃、方広寺は寒いだろうな。

7年前に最初にホームページを作ったとき、向和尚と方広寺周辺の写真を撮って回ったのが、ちょうど今頃だったっけ。


寒かったよな。

これがそのときの写真。





懐かしいな。




あれから僕は、暖かい沖縄でぬくぬくと暮らさせてもらっているけど、修行僧のみなさんは今朝も早くから、坐禅したり読経したりしたんだろうか。


修行するぞ 修行するぞ 修行するぞ 修行するぞ 

修行するぞ 修行するぞ 修行するぞ 修行するぞ 


ここまで言うと嘘くさいし危ないけど、どうせ同じ一日を過ごすなら、何か修行らしきことに触れていたいと思うのも、これまた人情。




じゃ、何か日常的にできる簡単な修行を紹介しようか。


アセンションに向けての、悟りへの道シリーズその1



「なまけ者の悟り方」って本があったけど、僕みたいな超なまけ者のためのシリーズです。








僕らが悟るための方法で、よく言われているのが波羅蜜(はらみつ)という修行法。

有名なのは六波羅蜜といって六つあるんだけど、今日はその中でも一番簡単に生活の中でできるのを紹介するね。



その名も「布施」

もちろん布施明じゃない。


施しをするってこと。



何を施すのかっていうと、金銭や物ばかりじゃないんだ。

もっと行動レベルでできることがあって、それも七種類伝えられている。



「無財の七施」って言うんだよ。



今日はその中のひとつをやってみよう。

それが習慣になったら、また他のも紹介するからね。




慈眼施」(じげんせ)

目つきのことだよ。




僕らは一日のうちでたくさんの人達と顔を合わせるよね。

目と目が合うことも頻繁にある。


自分じゃ気がつかないけど、自分の心配ばかりしていると、つい目つきが険しくなって、眉間にシワが寄っていたりする。


そんな時に目を合わせた相手は、その不機嫌な顔つきが自分に向けられたみたいに誤解してしまうこともある。


悪気はなかったのに関係に距離ができちゃうことだってある。




だから目つきはとても大切なんだ。


そこで、いつも優しい目を心がけて、人と目を合わせるときも、温かいエネルギーを相手に送ろうって意識するわけ。

出会った相手に、安心感や喜びを与えることになるから、それが布施だよ。



誰かの心が少しでも平和になれば、世の中も少しだけ平和になる。


この世の波動を作り出しているのは、自分自身だって思えたらいいね。



そうやって優しい目つきを心がけていると、気持ちまでもが優しくなってくる。

それに、不断の気づきも持ち運べる。


だから修行になるんだ。




どう?これなら簡単に始められそうでしょ。



最初はちょっとそのことを意識するだけでもいいからやってごらんよ。


僕も今日は慈眼施の一日にしてみます。



これで世の中ちょっとだけ明るくなるはず。





それじゃご一緒に



じげんぜビーム!






これも布施
  ↓









こっちは布施明
   ↓


  


Posted by Toshiro Abe at 10:14Comments(4)

2007年11月27日

Have a good day!




今日の沖縄は雨。

自転車通学の息子を高校へ送ってきた。



今は一人書斎に入り、大好きな音楽をかけて、お気に入りの香を焚いて、こうしてパソコンの前に座っている。

窓の外では雨音が静かに街を濡らしている。


椅子の上で足を組んで、深い呼吸を繰り返してみる。


外側で起きていることが自分から離れていく。



たくさんの人に支えられ、こうして生かされていることのありがたさを誰に感謝しようか。

妻や子や大切な人達・・・あなたに会えた幸運を誰に感謝しようか。


僕を通り過ぎていったたくさんの人達。

幸せや、喜びや、悲しみや、憎しみや、いろんな感情を与えてくれた人達。

関わってくれたすべての人達にありがとう。



そのすべては今の自分になるために必要なことばかりで、人生には何一つ無駄はなく、まったく無駄に思えた退屈な時間も、遠回りさせられたと思ったことも、すべては必要で大切な出来事だった。





人生は完璧だ。

すべての人の人生は完璧だ。



完璧なる神は、完璧なものしか創ることができないのだから。

巨大な宇宙からミクロの細胞にいたるまで、すべては完璧なバランスの中で刻々と運動を続けている。




我々をはるかに超えた知性が存在する。

そしてその力は、あなたの中であなたを生かしているその力だ。



そんな完璧な力に任せてみよう。




いまがどのように見えようと、それはそれでうまくいっているのだから。

小さな自分が、はるかなる知性に抵抗するのはやめよう。




その力に降参して流れに身を任せてみよう。


そうすればいつか必ず海にたどり着く。



じたばたしなくても大丈夫だ。



僕らの面倒は天が看てくれている。






Have a good day! 








今夜も「いまここ塾」やってます。  


Posted by Toshiro Abe at 10:07Comments(6)

2007年11月26日

無理やり笑えば福来たる!

おはよう。

また月曜日だ。

3連休明けの月曜日は、いつもよりも気合が必要な人もいるかもしれないね。



なんだって気の持ちようだよ。


とりあえずは、

「息を吸って私は静か」

「息を吐いて私は微笑む」


でもってニッコり笑ってみよう。



現実がつまらないからつまらない顔になるんじゃなくて、つまらない顔しているから現実がつまらないんだ。


よし、それじゃ僕があなたを笑わしてあげよう。





・・・・・・・・・










がちょ~~ん!










ん?これはもうやったか・・・





それじゃ・・・














 しぇ~~!





















だめかガ-ン

















 死刑!


















すまん、これというネタがない。





50歳過ぎてるし・・・







ま、とりあえず笑うのがいいよ。



気分は変えられるからね。

その気になれば変えられるよ。




現実が気分を作っているんじゃなくて、気分が現実を作っている。

だから人のいないところに行って、無理やり笑うのが一番。

人がいる場所で無理やり笑えば、みんなが気を使ってくれて楽かも。





機嫌がいい人も、さらに笑ってみよう。




笑えば余裕が出てきて、自分に向かってきた嫌な波動も、正面から受け止めないでかわせるしね。




それじゃ、ご一緒に。


「笑う門には福来たる!」






今日もいい一日でありますように。  


Posted by Toshiro Abe at 08:37Comments(14)

2007年11月25日

窓を開けて深呼吸




昨夜は久しぶりのギターとピアノだけの弾き語りライブ。

このスタイルが本来の僕で、曲間に「いまここ塾」みたいなことを喋ったりする。

深夜12時近くまで25曲も歌ったのに、次が最後の歌だと言うと「え~っ!」って言われる僕のライブは、年齢のわりにはかなり過酷だ。


以前は酒を飲みながらのライブで、テキーラをストレートでぐびぐびとやりながら、終わる頃にはボトル一本空けていたりしたので、翌朝がきつかった。

最近はお酒をやめたおかげで、今朝の体調はすこぶるいい。



ブログを見たのがきっかけでライブに来てくれる人も増えてきた。

そのことはすごく嬉しいことで、なぜそんなに嬉しいのか考えてみると、ここ(ブログ)には僕の活動の本質が純粋な形で表されているからだと思う。


いろんな講演会に呼ばれると、その対象者によって演題を決めるけれど、どんな入り口から入っても、伝えたいことはひとつで、それはここに書き続けていることだ。


ライブコンサートも、歌や雰囲気を通して、そのことを分かち合うのが目的だ。


だから、ここのメッセージから入ってくれた人は、そのことを受け取る用意ができているので、やっていてやりがいがあるのだと思う。





「いまここ」


この一言にすべてが含まれている。



過去などどこにも存在していない。

それは個々の頭の中に記憶としてあるだけだ。


未来もどこにも存在しない。

それは過去という素材を基にした、想像でしかない。



いつだって存在は「いまここ」にある。


草も木も、動物達も、そして僕らの体の機能、心臓も肝臓も血液も何もかも、いまここに生きて、いまここに活動している。


人間だけが、人間の心だけが、過去や未来にあって、「いまここ」を見失っている。



すべての後悔は「過去」のものだ。

全ての心配は「未来」のものだ。


それは存在していない。




窓を開けて深呼吸をしてみる。

耳を澄まして、かすかな音まで全部聞いてみる。

静かな気持ちがよみがえって来る。



今も刻々と現実は新しく生まれ続けている。

さあ、もう考え込むのはやめて、「今」と一緒に生きてみよう。



それこそが「生きる」ということなのだから。




今日もここに来てくれてありがとう。



  


Posted by Toshiro Abe at 10:12Comments(6)

2007年11月24日

水と氷




おはよう。

すいぶん寒くなってきたみたいだけど、ここ沖縄は今でも日中は車の中でクーラーをかけているよ。


やっぱり日本は縦に長いんだね。





さて今日も釈迦の話をしてみよう。




釈迦というと、あまりにも偉大なイメージで、自分からはかけ離れた人のように思ってしまうけど、それもひとつの落とし穴だよ。

この世には、あなた以上の人も、あなた以下の人も、ひとりも存在していない。


あなたも僕も釈迦も、同じ成分でできているけれど、この世に現れている形態が違うだけだ。



ちょうど水と氷のような関係だ。



それはどちらも同じH2Oで、同じ成分だけど、水は流れていて、氷は固まっている。


覚者(ブッダ)は、何一つ過去を持ち運ぶことなく、瞬間瞬間を流れるように生きている。

一方僕らは、自分や世界を過去の観念で決め付けて、固まった人生を送っている。



常にいま、新しい「今」が生まれている。

毎日が同じように見えるかもしれないけれど、実際には何一つ同じことは繰り返されていないんだ。


街の景色も、毎日顔を合わせるその人も、昨日とは何かが違っている。


それなのに、同じにしか見えないのは、僕らの見方が固まってしまったからだよ。



僕らは、「今」という新しい現実に、過去の知識を重ね合わせて、過去を経験してしまうんだ。

だから何の感動もない。


過去の知識や観念を持ち運ばないこと・・・その生き方をブッダというんだ。


ブッダ達は予測不能だ。

あらかじめ決められたスタイルがないから、何を言うのか何をするのかまったくわからない。



一方、僕たちはある程度の予測がつく。


「これはしてはいけない」「するべきだ」「ねばならない」をたくさん持っていて、こういう場面ではこうするだろうというパターンを生きているからだ。





それを象徴する釈迦のエピソードも残っている。


あるとき、弟子が釈迦に尋ねた。

「道を歩いていて、もし腹をすかせた人が倒れていたら、悟った人(ブッダ)はその人を助けますか」


釈迦の答えはこうだ。

「助けるかもしれないし、助けないかもしれない」



それは起こることであって、することではない。


「すべては起きている」


そこに「やっている者」は存在していない。

この感覚が無我の境地であり、ブッダフッドと呼ばれるものだ。




僕らは社会にしつけられて、しつけられたから人格者になれたと思っているけれど、本当は生まれつき、大いなるものの一部としての完全な叡智を携えている。


しつけは外側から与えられた条件付けであって、僕らを縛り付けている鎖のようなものだ。

それは自由な感覚を奪い、人をロボットや操り人形のようにしてしまう。



もう一度、生き生きした感覚を取り戻すには、そんな条件付けから解放されることだ。


自分を信じられなくて、自分の行動を見張りながら、間違いを犯さないように用心深く生きているあいだは、条件付けがなくなることは恐怖かもしれない。


その恐怖が結晶化したものが「自我」だよ。




なんだか今日はスラスラと気ままに書いてしまったけれど、こういう話は大好きで、始まったらなかなか終わらない。


「いまここ塾」って、いつもこんな調子で話が展開していく。



こうやって文字にすると、かえってわかりにくくなってしまう人もいるかもしれないけれど、また機会をみて、同じことを違う言い方で書いてみます。

きっと、いつか腑に落ちるときがくると思います。



僕たちは一人ひとりが、まったく違う環境で生きているけれど、その一方で同じような罠にはまっているのです。



今日も最後まで読んでくれてありがとう。








昨夜は母家で大城友弥君を囲んでのライブコンサートがありました。
(ライブのもようはhttp://omoya.ti-da.net/

梅ちゃん、照ちゃん、友弥君、笑いと涙をありがとう。


今夜は僕のソロライブです。


お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:59Comments(4)

2007年11月23日

金の靴



おはよう。

今日もここに来てくれてありがとう。



初めて読む人は、2日前のものから読んでみてください。

そのほうが内容をよく理解できると思います。



今日は釈迦にまつわるエピソードを紹介します。


それでは、はじまり、はじまり。


・・・・・・・・・・・・・




釈迦たち一行が旅の途中で、ある町にさしかかったときの話だ。

一軒の商店に美しい靴が飾られていた。

その靴には金細工がほどこされ、各所にダイヤモンドが埋め込まれていた。

さらに内側をフカフカの生地であつらえた、大変豪華な靴だった。


その靴を一目見た釈迦は「これを履く」と言い出した。

高弟がすぐに代金を支払うと、釈迦はその靴を履いて歩き出した。


釈迦が着ていたのは薄い布地でできた粗末な服なので、靴だけがキラキラと輝いていた。


釈迦はまんざらでもなさそうな顔をして歩いている。


が、この出来事は時間と共に、弟子たちの間にさまざまな波紋を生んでいった。



そしてあるとき、その中の何人かの弟子が釈迦に直訴した。


そのうちの一人が言った。

「お釈迦様。お釈迦様は常日頃から私たちに欲望を捨てろと説かれております。
欲望こそが私たちを迷いの世界に縛り付ける元凶だとおっしゃいました。
だから私たちはすべての財産を捨て、あなたに従って旅をしているのです。
そのあなたが、よりによってこのような靴を履いて満足されているのは納得がいきません。
我々は騙されているのではないかと、弟子たちの間に動揺が広がっています」


釈迦は黙って聞いていた。


二人目の弟子が言った。

「この靴が幾らしたかご存知ですか。
あの店に支払った代金を、国中の貧しい人達に施したら、いったい何人の人を助けることができたでしょうか」


釈迦は黙って聞いていた。


三人目の弟子が言った。

「はっきり申し上げます。
その靴は着ている服と不釣合いで似合いません。
我々が粗末な服を着ていることは、衆生へのメッセージにもなっているのです。
評判にも傷がつきます。
もう一度考え直してください」


釈迦は黙って聞いていた。



多くの弟子たちが、沈黙する釈迦の動向をじっと見つめていると、ついに釈迦が喋りだした。


「もしあなたがプレゼントを抱えて、友人の家を訪ねたとしよう。
あなたはどうしてもそのプレゼントを友人に手渡したかった。
しかし残念ながら友人は留守だった。
あなたは門の外で、そのプレゼントを抱えている。
さて・・・その時、そのプレゼントは誰のものだろうか」

弟子の一人が答えた。

「まだ友人に手渡してないのだから、そのプレゼントは持っていった本人のものでしょう」


「そのとおり」



釈迦は静かにこう続けた。



「あなたたちがいま私に言ってくれた言葉は、すべてあなたたちのものだ。
なぜなら・・・私は留守だ



・・・・・・・・・


これ以上の解説はやめておきます。

それぞれにこの話を受け取ってみてください。



僕はこの話が大好きです。




  


Posted by Toshiro Abe at 09:42Comments(10)

2007年11月22日

Let it be その2




おはよう。


こんな話は誰も興味を持ってくれないんじゃないかって、心のどこかで思いながら記事をアップしているんだけど、それが予想に反して多くの人が支持してくれた。

そのことを知る方法のひとつが、ランキングボタンを押してくれる人の数。



そういう人が世の中に増えてきたのか、それともそういう人だけがここに来てくれているのか・・・


でもとにかく僕自身はずいぶんと勇気づけられています。




調子に乗って、今日と明日の2日間にわたって、また釈迦のエピソードを紹介しよう。

僕ごときが覚者(ブッダ)の話をするのは気が引けるけど、これもお役目だと思って許してください。




この話の中には2つの教えが含まれています。

長くなるので、今日はまずその教えの解説をして、明日実際のエピソードを紹介するね。




教えの1つは昨日話したこと。

本当は個としての自分は存在していないってこと。



とはいうものの釈迦も肉体を持っていた。

だから僕たちが外側から彼を見たときは、彼というパーソナリティー(個性)がその肉体の中に住んでいるように見えてしまう。

でも実際には、そのような個は存在していない。


個が存在していないとき、そこにあるのが神性だ。



それはキリストも同じで、彼を生きていたのも神性だった。

だから彼は「私は神だ」と宣言した。


それを宣言したのはキリストという個性ではなく、大いなる意識(神性)だった。


なのに民衆は彼を、神の名を語る冒涜者として処刑してしまった。


民衆には個性以外のものが見えなかったからだ。

僕たちには自分の資質以上のものを、他者の中に見る事は出来ない。




釈迦やキリストの中には個別意識は存在していない。

存在の基盤である「大いなる意識」が、そのまま純粋に表現されているだけだ。


彼らが大いなる意識を達成したのではなく、彼らの不在のもとで大いなる意識が発現されていたのだ。


違う言い方をすれば、彼らは「大いなる意識」の乗り物で、中空の竹のようなものだ。

彼らは留守だ。




もう1つの教えは、他者の意見というものの本質だ。

たとえば誰かがあなたを非難したとする。


通常僕たちはそれが自分を評価し判断した結果の意見だと思ってしまう。

だから心を痛めたり、ストレスを抱えたりするんだけど、実際にはそうじゃない。

他者にはあなたのことは見えていない。


他者が見えているのは、自分という要素を、あなたの中に投影した姿だ。


したがって相手があなたに何を言おうが、それはあなたのことではなく相手のことなのだ。


あなたが何か人助けをしたとしても、そのあなたを見て、美しい人だと言う人もいれば、偽善者だと言う人もいる。


言ったその人が、どんな世界観の中で生きているのかというだけの話だ。


だから他者の意見に深刻になってはいけないよ。




さて、今回紹介したい釈迦のエピソードは、そんな2つの教えが含まれている話だよ。


昔から僕がとても好きな話だ。




それじゃ、明日をお楽しみに。


アハハ・・・テレビの連ドラみたいだね。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:57Comments(5)

2007年11月21日

Let it be



真実はきわめて単純だ。

「すべてはただ、あるがままにある」

ただそれだけ。



そこに自分がいろんな解釈を持ち込んで、あーでない、こーでもないとやるから問題が生まれるわけだ。


起きている出来事が苦しみを作り出しているんじゃなくて、自分というものへの囚われが苦しみを作り出している。



なぜ苦しむかと言えば、そもそも「個としての自分」なんて存在してないからだよ。

ガ-ン 今日もぶっ飛んだ話になってしまった。



ないものをあると思って固執するから、それが苦しみになるんだ。



ちょっと堅苦しい表現になるけど、頑張って付いてきてね。

どうしても伝えたいから。




「個としての自分は存在しない」

それを仏教では「諸法無我」といって、3つの基本的真実の1つというほど大切な教えだ。


別に仏教に指摘されるまでもなく、僕らはそれぞれが全体意識によって生かされていて、この世には「大いなるひとつ」しか存在していない。



結局、大切なことは、いかにして自分という幻想から離れるかにつきる。



僕たち人間は、ある時は慈悲にあふれ、ある時は薄情になり、ある時は力強く、ある時は恐怖におののく。

自分というのは、瞬間の刹那的な体験なんだけど、僕らはそこに継続して体験している固定された主体があると考える。

それが自我だ。


その自我を、無明、愚かさ、迷妄と呼ぶ。



「私」は存在していない。

それなのに皆、「私」にしがみついている。

この「私」こそがすべての苦しみの原因だ。


ところが人は、苦しみの原因を「私」以外に見つけ出すんだ。

家族や仕事やお金や人間関係や・・・

中には、前世だとか言い出す者もいる。 


人の苦しみは前世のせいなんかじゃない。

前世も今回と同じように苦しんでいたけど、その苦しみは前々世が原因じゃなかった。



いまここで目覚めれば、そのときやっと長い長い悪夢が終わる。



僕の文章力の限界もあって、わかりにくいかもしれないけれど、究極的な事実はこれだけだよ。


だからこの世には、凄い人も凄くない人もいない。

みんな夢を見ているという点で同じだから。



うまく言えたかな。




日日是好日(にちにちこれこうにち)

雨の日も曇りの日も、それぞれに素晴らしい。


今日もそんな心境で生きようね。




こういう話に興味を持ってくれる人はどれくらいいるんだろう。






僕はもうひとつブログをやっていて、そこにも同じようなことを書いているんだけど、なぜかそっちのほうが力が抜けて分かりやすい文章になっています。

今も書き終えてみてそう思いました。



興味があったら覗いてみてください
    ↓
http://orionza.ti-da.net/  


Posted by Toshiro Abe at 09:05Comments(6)

2007年11月20日

分裂せしもの 汝の名は心



僕の心はいつも分裂していて、こうしたいと思った瞬間に、それを妨げるほかの意見が心の中で鳴ったりする。



半分は肯定的で、半分は否定的。

半分は前向で、半分は後ろ向き。


いつも心は両方だ。

そこに問題が生じる。



そのことを百足(ムカデ)君を例にして話してみよう。







ムカデ君は器用にも、百本の足を交互に出しながら、スイスイと歩いていた。

何も考えずに、それこそ彼の歩き方はトータルだった。


あるとき、他の虫が彼に聞いたんだ。

「ムカデ君はすごいね。僕なんか6本の足だけでも歩くのが難しいのに、君は百本だ。
どうやって交互に出しているの?」



どうやって?



さあ、ムカデ君は初めてそのことを考え始めた。

そのとき、初めて「心」が生じ、彼は分裂した(心は分裂だから)

観察者と観察される者ができちゃったんだ。



そうなったら、多くの混乱が彼を襲った。


それまでは、彼に心はなかった。

だからトータルに歩いていたんだ。

何一つ問題はなかった。


いまや、どうやって歩くのかという考えが生まれた。

考えと共に問題(トラブル)がやってきた。


問題とは考えることの副産物なのだ。



ムカデ君は、それっきり歩けなくなってしまったそうだ。



これは、僕ら人間が陥ってしまった状態とよく似ている。



考えないことの大切さってあると思う。

無心を達成すれば、ストレスは全部消えてなくなっちゃうだろう。

何も考えずに、やりたいことに没頭できたら、生産的な仕事ができるだろうね。



やっぱり瞑想が大切だ。




ブログの記事はこれが1.040個目。

1年4ヶ月のわりには、ずいぶん書いたな。


他にやりたいこともあるし、そろそろ終わりにしようと思う時がある。

でも急にやめないほうがいいし・・・



そうやって分裂していく僕であった。







今夜も「いまここ塾」で会いましょう。  


Posted by Toshiro Abe at 08:15Comments(15)

2007年11月19日

釈迦のエピソード




先日の宮古の講演では、釈迦にまつわるエピソードをたくさん話した。

そしたらコメントに、釈迦の話が面白かったって書いてくれた人がいたから、今日は釈迦の話の中でも、その時話さなかった違う話をするね。



今日の話は、僕らはいったん「こうするべきだ」「自分はこうあるべきだ」って決めてしまうと、どんな時にもその態度で生きようとするけれど、それは間違いだよって話。


状況は刻々と変化しているので、どんな信条も持ち運ばずに、その瞬間その瞬間、もっとも適した行動を取りなさいって教えだ。




話の内容はこうだよ。



ある時、弟子達が集まって坐禅をしていると、そこに猛毒を持った一匹の毒蛇が現れたんだって。


その毒蛇は、坐禅中の一人の男に近づいて行った。


坐禅は目を閉じないので周囲の状況は見て取れる。


近づいてくる蛇を見て、彼は内心恐怖を感じたんだけど、それでも体を微動だにせず、落ち着き払うことに努めた。



きっとお釈迦様なら、どんなときも平然としていることだろう。


ここは、動揺を抑えて静かに坐っているべきだ。


そうしなければ、今までの修行が台無しになってしまう。



蛇は彼の身体にまとわりついてきた。


やがて首筋の辺りまで登ってきた。


彼は必死で身体を硬直させ、恐怖に打ち勝とうとしたが、蛇は無慈悲にもその男の首筋に噛み付いた。


で結局・・・その哀れな男は死んでしまったんだって。




後でその出来事を聞いたお釈迦様は、一言こう言ったそうだ。



「可哀そうに・・・馬鹿な奴だな・・・」





どんな正しく見える行為でも、その瞬間にはふさわしくないことだってある。


形を生きようとすると、大きな間違いをしでかす事だってある。



信条を持ち込まないで、その瞬間のできごとにフレッシュに対応するのが一番だよ。



「こうあるべきだ」とか「こうするべきだ」とか、それらはみんな過去からきているから、そんな言葉に縛られないようにしよう。




新しい今日を、新しい自分で生きるんだ。


あれ?この言葉さえも「新しい自分で生きなきゃ」って縛られたりしてね。




アハハ、自由に生きようぜ。


あれ?また「自由に生きなきゃ」って決めつけたりして。





もう何も言わないよ(笑)





今日もいい一日であることを祈っています。



  


Posted by Toshiro Abe at 08:42Comments(8)

2007年11月18日

親として




どんな日曜日を過ごしていますか。

このところめっきり涼しくなったね。


なんて言いながらも、あいかわらず半袖のTシャツ一枚なんだから、沖縄はやっぱり暖かいのかな。




宮古島はさとうきび畑が広がっていて、時間が止まったみたいだった。

沖縄本島とはまた一味違った趣のある島だ。


でもそこに暮らす人が抱える問題は、どこもあまり変わらないみたいだ。




講演が始まる直前、ある女性から相談を受けた。


「最近、子供が高校に行きたがらない。強く言えば反発するのでこれ以上は言えない。でもそうすると子供の思い通りになってしまって、どうしていいかわからない」

それが悩みで、疲れきっているみたいだった。

でも話を聞いてみたら、わが子よりずっと一生懸命に勉強してきていた。



その女性は2日間の講演会の両方に参加してくれて、終わった後に「すごく気が楽になった」って涙ぐんで喜んでくれた。


だからといって、すぐに現実が解決したわけじゃない。

でも彼女の気持ちが楽になれば、家族みんなの気持ちが前向きに明るくなるだろう。




子供も高校生くらいになれば、もう大人と同じような理解力を持っているので、親の言うことの中に矛盾や社会の形式だけを押し付けているような点を見抜いている。

だからたいていの場合、押し付けてもことは動かない。


その子が自らその気にならない限り、何も解決しないだろう。


じゃ、どうしたらいいのか。

それはそれぞれの親子関係で違うだろうから、一言では言えないけれど、僕の家の場合を話そうか。




僕は以前、テレビゲームばかりやっているわが子に、ギターを教えたいと考えていた。

ところがまったく興味を示さない。


親としたら、将来子供がロックスターかなんかになって、会場の片隅でそんな息子の晴れ姿を見て・・・なんて淡い夢を持っていたのだが、それは無残にも打ち砕かれた。


だいたい、そんなふうになってもらいたいのは僕であって、彼の人生は僕のものじゃない。



まったくあきらめていたら、最近になってギターを教えてほしいって自分から言ってきた。

どうやら高校で知り合った友達と、ロックバンドを結成したみたいなんだ。


エルレガーデンというバンドの曲をやるから、自分のパートを教えてくれって、まったく弾けない子が何を甘いことを言っているのかって思ったけど、これはチャンスとばかり特訓を始めた。



けっこう夜遅くまで練習していて、ひとつできるようになる度に喜んでいる。


またそのうち放り出してしまうかもしれないけれど、僕は彼の人生の流れを信頼している。

何がどうなろうと、きっと乗り越えていけると信じている。


彼以上に彼を信じている。


子供は子供なりに、自分のことを考えているんだと思う。

外からはうかがい知れないけれど、きっと将来に対する不安や、自分に対するさまざまな感情を持っていることだろう。



僕ら親にできることは、子供が自分に自信を持てるように励ましてあげることじゃないだろうか。

君は君のままでいいんだということを、欠点をたくさん抱えたありのままの姿、それが人間なんだってことを教えてあげて、気を楽にさせてあげることじゃないだろうか。



もし子供が木に登り始めたら、やみくもに「危ないからやめろ!」と言うよりは、黙ってその姿を見ながら、もし落ちてきたときのために、気づかれることなく木の下で命がけで受け止める準備をしているような親でありたい。


親であるのと同時に、仲のいい友人でありたい。

親子の立場や役割を離れても、一対一の人間同士として対等に関わりあえるような仲でいたい。



そして彼には、このことを伝えていこう。



自由に生きたらいい。

どんなときも、何があっても、僕はいつだって100%君の味方だから。


僕が生きている間は、何があっても君を守ってあげよう。

僕が死んだら、その現実を受け入れて、そのときの自分を生きなさい。


人生は結果のないゲームだから、あまり深刻になりなさんな。



今日もいい日でありますように。



最後まで読んでくれてありがとう。




  


Posted by Toshiro Abe at 09:31Comments(13)父と子

2007年11月17日

現実とバーチャルと本当の自分




最近、いろんな地域でいろんなジャンルの人達が、このブログを読んでくれているみたいで、話をしてみると僕以上に僕のことを知っていて驚いてしまう。


彼らと現実の社会だけで会ったとしたら、おそらくは挨拶とあたりさわりのいない会話で終わってしまっていただろうけど、ブログを読んでいるとなると話は変わってくる。

少なくとも僕自身は、かなり心の奥まで書くことが多いし、時には親しい人にさえ話さないことを書いたりもするからだ。



このバーチャルな世界で、現実以上の出会いがあることになる。





もっとも、この現実と呼ばれている世界だって、どこまでが本当の現実だかわからない。


五感から受け取った情報を元に、僕らは現実を認識しているつもりでいるけれど、それだって怪しいものだ



たとえば体や物質だって、本当にあるのかないのか・・・科学者達は、これらはみんな幻想だという。


物質を構成しているのは原子だけど、その原子はほとんどが空間でできている。

たとえば一個の原子を東京ドーム球場の大きさだと考えると、原子核は球場の真ん中を飛んでいる一匹のハエくらいの大きさらしい。


あとは外野席のあたりを、ごく小さなエレクトロン(電子)が飛び回っているだけで、それ以外はなにもない空間だ。



しかもその原子核を構成するプロトン(陽子)やニュートロン(中性子)だって、もはや物質とは呼べずに、むしろエネルギーのようなものだという

それが無数に集合して物質という強固なるものを作り出しているわけで、それは単に空間の集まりに過ぎない。



僕らはいったい何を知覚しているのだろう。




こんなことを考えたことある?

僕らが今までの人生で知覚してきたことや、結論を出してきたことは全部間違いで、今までのことは全部夢だったって。


今まで誰とも出会わなかったし、誰とも別れなかった。


本当は何ひとつ起きていなくて、ずっと自分という意識が夢を見ていただけだった。



ずいぶん突飛な話に聞こえるかもしれないけれど、そっちのほうが本当だと思う瞬間が人生で何度かあった。

それは超リアルな体験で、その瞬間から見たら普段の生活はすべて夢のようなものだ。



その体験では、時間も空間も消えていて、ただ「自分」という意識が、いまここで超リアルに脈打っている。


「なーんだ、全部夢だったのか」


とてつもない安心感とエクスタシー。



それは意識が到達する最高の高みで、すべての魂の源で、すべての魂の宿命で、早かれ遅かれ、すべての魂はここに行き着くことを確信した。




このことをみんなに伝えなきゃって思って、会う人会う人に言って回った。



「僕らは宇宙そのものだったんだ。すべてはひとつだったんだ」

あの頃、ずいぶんたくさんの友達が僕から離れていったよな(笑)





あれから24年。


ずっと同じことを言い続けてきて、今じゃいろんな人達が、こんな話を自分から聞きに来てくれる。


いま見てくれているあなたもその一人で、こんな突飛な話を繰り返す僕のブログを、たびたび訪れてくれるんだからね。

やっぱり時代は変わったんだと思う。





話は戻るけど、現実はバーチャルみたいなもので、バーチャルは現実に近づいていて、そのうち僕らの生命活動は、その見境がつかなくなるかもしれない。



でも唯一変わらないもの、それが時空間を超えた本当の自分だ。

それはいまも「いまここ」で、僕らが思い出すのを待っている。



予言されているように、本当に僕らは、地球規模でその感覚に移行しようとしているのだろうか。



だったらいいな。


本当だといいな。




最後まで読んでくれてありがとう。







PS

宮古での体験は、また明日にでも報告します。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:10Comments(3)

2007年11月16日

上も下もない




今から宮古島に行ってくるよ。


1年半ぶりか・・・ずいぶんご無沙汰してしまった。


宮古はとてもご縁のある場所で、数十年前から何度も訪れている神気に満ちた島だ。

今回は初めて講演会でお邪魔する。


今夜はいつもライブをさせてもらっているT&Kハウスさん

明日は市の行政が主催する生涯学習の講演会だ。


全く違う雰囲気なので、全く違う話になるだろう。



話の内容はいつも違うけれど、テーマはひとつだ。

それはこのブログにも書いていることと同じで、伝えたいことはひとつのことでしかない。


それをいろんな言い方で話させてもらっている。


僕自身は取るに足らないあたりまえの人間だけど、神様のいたずらで、そんなメッセージを伝える役目をさせてもらっているような気がする。


じゃ、何を伝えているのか、そのひとつのことを一言で言うと・・・



言えない



ひとつのことなのに、一言で言えないところがもどかしいところ。

それどころか、言葉では言えない何かだと思う。


それを言葉にして喋ったり書いたりしているのだから、僕も相当なもんだ。




それでもあえて一言で言うと・・・


僕らは同じものでできている、ひとつの命だと言うことかな。

いや、過去も未来も無くて、いつも「いまここ」ってことかな。

本当は自分なんて存在していなくて、大いなる意識があって、それが本当の自分で・・・



結局うまく言えない。



どんな話をしても、言葉は聞く人の観念によって様々に受け取ってしまうので、なおさら伝わりにくくなる。

それでもたくさん喋った中で、ほんの一言でも心に残る言葉があれば、それで十分なのかもしれない。



さて、今日このブログを開いてくれたあなたに、何かひとつお伝えしよう。


それじゃ、「僕たちはひとつの同じもの」って話。


同じものってことは、この世の全ての人たちは対等ってことだよ。

人はよく心の中で「この人は自分より上だ」とか「下だ」とか言って、密かに競争したりするけれど、この世にはあなたより上も下も存在していない。


本当はみんな対等だ。


対等という言葉も正確じゃないかもしれない。


だって「対等」というのは、まだ微妙に2つを比べているからね。

実際には1つなので、比べることもできない。


まったく同じものなのだから。



それは今僕が吸っている空気と、あなたが吸っている空気と、同じものってことに近いかもしれない。


同じ成分の同じ空気を吸っている。

しかもその空気はひとつに繋がっている。



でも場所が違えば、その空気の空気感が違うよね。


それが個性なんだと思う。

個性は違うけど、同じ空気だから、そこに上も下もない。


僕らも個性は違えど、同じ成分でできているから上も下もない。

しかも根っこではひとつに繋がっているんだ。



うん、なかなか分かりやすい例だったかもしれない(自画自賛)



そんなわけで張り切って宮古の皆さんとお会いしてきます。

明日は耳の不自由な人たちも来てくれるというので、今日はこれから通訳してくれる人と打ち合わせしてきます。



それじゃあね。



  


Posted by Toshiro Abe at 08:10Comments(7)

2007年11月15日




東の窓から秋の爽やかな陽が差し込んでいる。

沖縄は今日もすごくいい天気だ。


今、目が覚めた。



というのも昨日の深夜、突然智子さんが叫んだ。

「コーちゃんがいない!」


びっくり!


コーちゃんというのは、小太郎と名づけた猫で、数ヶ月前に母家に入ってきた迷い猫だ。

まるで自分の家に帰ってきたみたいに、堂々と入ってきたらしい。

まだ生後まもなくて、栄養失調で死にそうな感じだったから、すぐに獣医に連れて行って、事なきを得た。


ここは住宅地だが外に出すのが不安で、小太郎はいつも家の中にいる。


それがどのようにしてか外に出てしまったみたいなのだ。



家族総出で深夜の静まり返った街で捜索が始まった。


みんな寝ているので、あまり大きな声は出せない。

でも小さな声だと猫に聞こえないかもしれない。


したがって、ささやくような息混じりの声を、そのままボリュームをマックスにしたような変な声で、近所中を呼んで回った。

「コーちゃん! コーちゃん!」

時たま見かけるのはよその猫だ。

初めて会う大人の猫に驚いて、どこかに行っちゃったのかな。


あきらめかけたとき、息子が僕を見つけて、

「いたよ」。



あーよかった。



いままで犬のことばかりだったけど、いつのまにか猫に対してもかなりの感情移入をしていたのがわかった。

よほど安心したのか再びベッドにもどってバタンキュー。



それで今目が覚めたってわけ。



それにしてもここまで愛されて幸せな奴だ。

だからといって、彼(小太郎)のほうから、何か人間にサービスがあるわけじゃない。



自分の気が向けば身体を寄せてきて「ゴロゴロゴロゴロ」

気が向かなきゃ、こちらがどんなに猫なで声を出して「コーちゃん」なんて言って擦り寄って行っても知らん顔だ。



あるがままといえば、こんなにあるがままの存在はない。

わがままといえば、こんなにわがままな奴もいない。

笑顔のひとつも見せるわけじゃない。

どちらかと言えばいつも仏頂面だ。


なのに愛されている。



僕らは、好かれようとして心にも無いこと言ったり、不機嫌な時もナイスな態度をとったりしているのに、それでもみんなから愛されるわけじゃない。

猫のほうが得しているよね。



そう言えば人間も赤ん坊の時は猫に似ているな。

大人に愛想笑いするわけじゃなく、自分の気分しだいなのに、それでもみんなから愛される。



やっぱりあるがままがいいのかな。

あるがままで邪気が無いのがいいのかもしれない。



ま、いいや。

今日も誰かと会ったら、最高の笑顔で愛嬌を振りまくとしよう。

たとえ作り笑顔でも、そのほうがお互い気持ちがいいしね。

邪気を抱えてニッコリ攻撃だ。



よっしゃ、今日の目標。

誰と会っても最高の笑顔で、その場を明るくしていくぞ。

もし尻尾があったら、振りたいくらいだ。


猫にできないことをやってやる。



そんなわけで、みなさんもいい一日を。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:48Comments(9)

2007年11月14日

母親に対する瞑想 3




母親を対象にした瞑想の最終回です。 


これを読んだ人の中には、居心地の悪さを感じる人がいるかもしれません。

いまさら言われなくてもわかっていると思う人もいるかもしれません。


自覚していないだけで、多くの人にとって、この世における最初の失望が両親に対するものであり、その結果として、両親や世の中全体を信頼できなくなります。


この失望が骨格となり、我々の根源的無知(自我)を形成しています。

それはつねに周囲や自分を見張りながら、聖なる自己の本質から、ますます離れていってしまうのです。



わかりやすい例として、感情の問題があります。

我々が幼い頃、発揮する感情の多くは、大人に受け入れてもらえませんでした。 


大人自身が自分の感情を抑圧していて、それが社会に適応する手段だと信じているので、子供にもそれを要求します。


「しつけ」というものです。



その結果、我々は自由な自分の感情や欲求を押さえつけることを学びます。

そうやって不自然な自分を完成させたとき、周囲は自分を「大人になった」と評価してくれたのです。


しかしその代償は大きく、無邪気さは失われ、意識の拡大への道も閉ざされてしまいました。



両親に対しては感謝の気持ちを持っているのと同時に、さまざまなうらみつらみを持っているのが普通です。


そのこだわりを癒すことは、我々が大いなる自分に戻っていく最初のきっかけになると思います。


そのためには、違った視点から両親との関係を見つめなおすことが効果的です。



前置きが長くなりましたが、昨日の続きを書いてみます。


母親があなたを生んで育ててくれた事実を、母親の視点から見てみましょう。


これは慌しい日常のさなかに読むよりも、一人きりの時間と場所を作って、じっくりと読んでもらえたらと思います。









あるとき、母親は気づきました。

あなたを妊娠したということを。


自分のお腹に命が宿ったとき、どんなことを感じたのでしょうか。

「男の子かな、女の子かな、どんな子供なんだろう」

無事に生まれてくることだけを願っていたのかもしれません。



だんだんと大きくなっていく自分のお腹に向かって、何を話しかけていたのでしょう。


どんな気持ちだったのか、ちょっと想像してみます。



やがて月日がたってあなたが生まれます。

生まれたばかりのあなたを抱いて、何かあなたに話しかけたかもしれません。

まだ口もきけないあなたに向かって、どんな言葉をかけてくれたんでしょうか。

どんな子供に育ってほしい、どんな人生を歩んでほしいと願ったんでしょうか。



そんな母親が、その人生をとおしてあなたに与えてくれたことはどんなことがありますか。

オムツを替えてくれたり、ミルクを飲ませてくれたり、一緒に遊んでくれたり、あなたが病気をしたといっては、寝ないで看病してくれたり・・・


きっと知らないだけで、無数のことをしてくれたのだと思います。


今までの人生を振り返って見て、あなたは母親にどれくらい与えてきたという実感を持っていますか。


もしそうしてこなかったとしたら、それは何故ですか。




今見てきたように、あなたの母親は、あなたの母親である前に、一人の人間としての人生がありました。


喜びがあり、悲しみがあり、夢を持ち、希望をもち、一生懸命に生きてきた一人の女性としての人生がありました。


ここまで想像してみて、あなたはどれくらいそれを感じ取ることができましたか。



あなたの母親にも、いつか必ず死ぬときがやってきます。

あなたはこれからの人生、そんな母親とどんな関わりを作り出していくのでしょうか。



・ ・・・・・・・・




父親に対しても同じように、一人の人間としての人生を想像してあげましょう。


親を親として見るのではなく、一人の人間として見ることは、とても大切な視点です。

そのように切り離して見れば、縁があって多くのことを与えてくれたその人に、自然な感謝が湧いてくるのではないでしょうか。



僕たちは自分自身に対しても、両親やその他の人達に対しても、多くの誤解を抱えています。

僕たちは実に、思い込みの束のような存在です。



だからこそ、「気楽さ」を奨励するのです。

力を抜いて、優しい自分で暮らしましょう。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:01Comments(6)

2007年11月13日

母親に対する瞑想 2




それじゃ、昨日の続きです。


初めて読む人は、とりあえず昨日の内容から読んでみてください。


そこに書いてあるやり方で気持ちを落ち着けて、気持ちの準備をします。


同じワークをするのでも、散らかった気持ちでするのと、落ち着いた気持ちでするのとでは、まったく体験が変わってくるので、心を静めることが大切です。



まずは今日の内容を何度も読んで概要をつかみ、瞑想で順を追って描いてみるのがいいでしょう。


そこまでの時間がない人は、次の文章を数行ずつ読みながら、あなたのイマジネーションを働かせて、その場その場で必要なこと思い描いてみてください。




それでは始めましょう。






さて今日は、母親の人生をより深く感じてみることにします。

母親にも一人の人間としての人生があったという当たり前のことに、あえて時間を使ってみるのです。



あなたの母親にも子供の頃があったし、両親がいました。

ちょっと想像してみます。

生まれたばかりの頃、どんな赤ちゃんだったのか。

母親が赤ん坊の頃の姿、思い描くことはできますか。



やがてカタコトの言葉を覚え、ヨチヨチ歩きをはじめます。

少しずつ成長して、外に出て遊ぶようになり、花を摘んだり、ママゴトをしたり、その時代の遊びはどんなだったでしょう。



そして小学校に上がります。

小学生だった頃の母親、どんな少女だったか想像できますか。


どんな髪形をしていたんでしょうか。

おとなしい子だったんでしょうか、それともお転婆だったんでしょうか。


学校でもいろんなことがあったはずです。

友達と喧嘩をしたり、先生に怒られたり、いじめられたこともあったかもしれない。


いろんな経験をして成長していきました。



やがて中学に上がり、思春期を迎え、様々な複雑な気持ちを抱えていたかもしれません。

少女から大人に変わるデリケートな時期です。

悩んだり、恋をしたり、いろんな経験があったことでしょう。




そして母親の青春時代。

どんなことが好きだったんでしょうか。

読書をしたり、スポーツに熱中したり、何かその時代の流行があったのかもしれません。



そのころどんな夢を持っていたのでしょう。

将来何になりたい、どんな人生を歩みたいと願っていたのでしょうか。



そんなあるとき、一人の男性と出会いました。

あなたの父親です。


最初にその人と会ったとき、何を感じたのでしょうか。

そして付き合いが始まり、いつしか結婚を意識します。


どんな気持ちだったんでしょう。

「よし、この人とならやっていける」

そんな気持ちだったかもしれません。



やがて結婚生活が始まります。

どんな生活だった知っていますか。


うまくいくことばかりだったんでしょうか。

それとも大変なことや辛いことがあったんでしょうか。


・ ・・・・・・・・・


この続きはまた明日にしましょう。


ここまでのところうまく描けた?

こういうことってあまり考えたことないよね。



親を親としてではなく、ひとりの人間として捉えることは、とても大切なことです。


明日は、あなたが生まれ、あなたが育っていく過程を、母親の視点から眺めて見ます。




それではまた明日






今夜も「いまここ塾」です。

また様々な観点からお話させてもらいます。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:03Comments(1)

2007年11月12日

母親に対する瞑想




このブログは近い将来にアセンション(地球規模の次元上昇)が起こるということを前提に書いています。

正直言うと、本当に起きるのか起きないのかの確信はありません。



でも起きることを前提にすれば、毎日をなんとなく生きているよりも、自分を見つめなおす真剣さが増すように思うので、あえてその立場をとっています。


もし本当に起きるとしたら、準備をしておくのに越したことはないしね。


アセンションと言っても、それは魂の進化ではなく、我々の本来の姿に戻っていくことです。



それは禅のアプローチにも共通する点があります。

禅の「悟り」も、本来の自己の本質に帰ることだからです。



アセンションのために必要なのは、高い資質を得たり、洗練された人格を身につけたりすることではなく、本来持っている宝を見えなくしている心の曇りを取り除いていく作業です。



そのひとつが、根源的ストレスである、親に対する感情のこだわりなのです。




昨日の話をまとめてみましょう。


僕たちは幼い頃、親に完璧さを求めていました。

無限の叡智からやってきた僕たちは、生まれながらにして完璧とは何かを知っていたのです。

完璧さとは、究極的には「愛」のことです。



しかし地上の親は、一人の人間であり、多くの欠点を携えています。

いつも無条件の愛を与えることはできませんでした。


その失望と苛立ちが、子供の心にさまざまな障害をもたらします。


大人になったいま、自分の親を「親」としてではなく、あたりまえの一人の人間として認め、受け入れることができれば、心の深層に巣食ったトラウマは解消されます。




そのために僕は、簡単なイメージ瞑想を奨励してきました。



今日はその内容を紹介しましょう。






イメージ瞑想とは、坐禅のように心を無にする瞑想ではなく、反対に特定のイメージを心の中に描いていく瞑想です。


最近スポーツ選手がやっているイメージトレーニングとよく似ています。




まずは一人きりになれる時間と場所を用意してください。


そして楽な姿勢で坐ったら、目を閉じて体の力を抜いてリラックスします。


そのときに背筋を伸ばすことをお勧めします。

集中力が高まるからです。



次に呼吸を整えます。


鼻からゆっくり息を吸って、体いっぱいに吸ったらいったん止めます。

息を吐くときは、時間をかけてできる限りゆっくりと吐き出していきます。

全部吐ききったらまた一旦止めて、その反動でツーっと吸い込みます。


これは坐禅の調息(ちょうそく)というテクニックです。



そんな深呼吸を繰り返しながら、気持ちを落ち着けていきます。

 


ワークショップの中では僕の声でイメージ瞑想を誘導しましたが、今日はあなた自身でできるように、その概要を書くことにします。

何度も読んで頭の中に入れてください。




それでは始めましょう。


まずは目の前に母親を連れてきます。

顔の表情や姿かたちを、よく描いてみます。


母親の性格や、あなたとの関わりで思い出すエピソードなど、楽しかったことや、辛かったこと、嬉しかったことや、悲しかったことなど、できるだけ詳しく思い出してみます。


そうやって母親に集中し、母親のイメージを心の中に定着させていくのです。


考えてみると僕たちは、毎日の生活が忙しすぎて、親のことをじっくりと描いてあげたことは少ないようです。




目の前の母親は、どんな人生を歩んできた人でしょうか。


やりたいことをやってきた、そんな人生だったんでしょうか。

それとも家族のため、子供のためと言いながら、一生懸命に働いてきた人なんでしょうか。



どんな時に喜びを感じてきたんでしょう。

どんな時に悲しみを感じてきたんでしょう。


そのことをよく感じ取ってみます。

あなたはどれくらい母親のことを知っていますか。



そうやって母親の人生を、いいとか悪いとか判断せずに、客観的に思い描いていくのです。




明日は、さらに踏み込んで、母親の人生を子供の頃から想像し描いて見ましょう。



このレッスンは、母親に対するこだわりに、ちょっとしたメスを入れることができます。

そうやってこだわりや執着が薄れた分だけ、本当の意味での愛と感謝が湧き出すことでしょう。







いつもここに来てくれてありがとう。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:05Comments(7)

2007年11月11日

宇宙からの旅人




おはよう。

今日は日曜日か。

夕べのフォークナイトは面白かったね。

昨日母家に来た人は、笑いすぎてお腹が痛いんじゃない?


笑いにしろ悲しみにしろ、ああやって思い切り感情を吐き出すことは必要だと思う。

大人になると自分の感情を管理し始めて、多くの場合抑えてしまうからね。


押さえられた感情は消えてなくなるわけじゃなくて、他の場面で顔を出す。

日々の何気ない言動に影響を与えている。



だからずっとやってきたワークショップでは、感情の解放、感情の完了というところに重きを置いてきた。


特に両親に対する感情の完了は特に必要だと思っている。


今までに数千の人達と、ワークショップをとおして心理的に極めて近い距離間で出会ってきたけど、その人たちに共通する点がいくつかあった。

そのひとつが両親に対するなんらかの否定的な感情を抱えているということ。



表面的には親に対して感謝しか持ってないと言い切る人も、もっと深く入っていくと、必ず見たくない感情が出てくるものだ。


おそらく例外なく、我々はそのような感情や、何かしら親を受け容れられない面を持ってしまうのだろう。



もし必ずだとしたら、それはもはや個人の問題ではなく、我々人間の宿命だと言うことになる。


それじゃ、何故そのようなことになるんだろう。



今日はその話をしてみよう。

いろんな説明が可能だけど、今日は最近流行のスピリチュアル的な観点から話してみるね。






僕らの肉体は、両親の精子と卵子の結合によってできるよね。

したがって両親から肉体的な特徴を受け継ぐことになる。


でもね、「その肉体の中に住む者」・・・魂・・・は、その時にできるんじゃない。


それは彼方なる次元からやってきた。

それは全知全能の叡智、とてつもない存在の分霊だ。


僕たちは全員、そこからやってきた宇宙からの旅人だ。



何しにやってきたかといえば、今までの無数の繰り返しの生の中で満たされなかった願望や、学びを完成させて、究極の覚醒に至るためにやってきたんだ。


したがってその目的に最も適した環境や条件を選び、その人生でどんな体験をするのか、どのような人生を送るのかをあらかじめ知っている。

生まれたばかりの赤ちゃんは、それくらい神なる資質をたずさえているんだ。

だからあんなに輝いているし、神々しいわけだね。



そんな赤ちゃんにとって最も親密な存在が両親だ。


まだ神なる記憶を持ったままの赤ちゃんは、両親の中に聖なる父、聖なる母の姿を投影する。

彼ら(赤ちゃん)にとっては、最初はすべてが神聖なものだからね。


ところが物心がつき始めると、最初の失望が忍び寄る。

両親がつけている仮面を感じ取り、その不完全さを次々に見せられることになるんだ。


その失望感は相当なものだと思う。


その最初のショックは、その後の人生でますます増えていく。

だって両親は完全な存在なんかじゃなくて、欠点だらけの未熟な存在なのだから。



親になればわかるよね。

僕たち親が完璧な存在のはずがない。



この地上の人生における両親が、理想の期待を裏切るたびに、苛立ち、失望し、怒りを抱えていくことになる。

それが僕らの最も根源的な怒りであり、ストレスの原因になっていると思う。


でもそれらは滅多に意識の表面に出てくることはないんだ。

その代わりに、自分の人生観や考え方ややり方に影響を与えている。


両親から受けた影響というのは、目に見えるものだけじゃなくて、見えないものが凄く大きいんだよ。



なんとなくわかった?


さて、それじゃ次回は、そんな根本的ストレスを緩和させるアイデアを書いてみるね。

それもずっとワークショップでやってきたことだけど、このような場でそれぞれの人が活用できたら素晴らしいものね。



そんなわけで今日はこれにて終了。







そうそう、昨日の昼間の講演会に、たくさんの自著を持っていたんだけど、あっというまに売切れてしまった。

あんなに多くの人達が最後まで真剣に聞いてくれて嬉しかった。


感謝 m(_ _)m
  


Posted by Toshiro Abe at 10:59Comments(4)