2007年08月16日
流れのままに
昨日のコンサートでは、大きな幸せを受け取りました。
来てくれた人の顔がみんな輝いて見えました。
舞台の上で感じました。
ここにいる人だけでなく、全ての人はみんな祝福されているって。
僕たちは自分の身に起きた不幸な出来事や失敗を悔やんだりしますが、大きな観点から見たときは、それも含めて全部必要で、起きるべくして起きてきたのです。
釈迦の言葉に「タタータ」というのがあります。
起きる事が起きる。
それ以外は決して起きない。
こうなればよかった、こうならなければよかったと思ってはいけない。
それ以外は決して起きなかったのだから。
今日はそんな話をさせてください。
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2007年08月02日
悟りの瞬間 2
悟りの体験については、まだほかにも共通点があるみたいなんだ。
今日も引き続きその話をしてみるね。
本当に悟った人たちが「自分は悟った」って言わないのは何故だろう。
昔から
「知った者は言わず」
「言う者は知らず」
と言われている。
向和尚にはそこをあえて話してもらった。
だって知った人が話してくれなかったら、誰もそれを話さずに、僕たちに貴重な情報が届かないものね。
さてそれではなぜ、知った人は言わないのか。
今日はその話だよ。
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2007年08月01日
悟りの瞬間
今日はとても興味深い話だよ。
それは悟りの瞬間について。
昔から多くの人たちが、悟りの経験をしてきている。
その人たちの証言にはいくつかの共通点があるんだ。
いつの日か僕たちもその経験をすることになると思うけど、それがどんなものなのかあらかじめ知っておこう。
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2007年07月28日
究極体験
それはS○Xの10万倍の快感だった。
↑
(ソックスではなく○は伏字)
10万倍というのは比喩で、実際には比べ物にならない、まさに次元の違いがあった。
今までの人生で僕に快感をもたらしたあらゆることは、単にこの体験の代用品だった。
それは自己と時間の両方が消えうせた、「永遠」と「全体」に乗っ取られた体験だった。
あまりにもリアルで、人生の全てが霧のように消えうせてしまうほどにリアルで、それは疑いようの無いものだった。
たとえ全世界がその体験を否定しようと、ゆるぎない確信は生き生きと心の中で脈打っていた。
同時にそれはあらゆる人の基盤であり、いま時代は大きく変わろうとしていて、僕の役目はこの体験を多くの人に伝えることだと直感した。
全ての仕事を整理して、自分の役目を全うするために新たな旅に出た。
音楽時代の友人達にも説いて回ったが、誰ひとり耳を傾けてくれなかった。
それどころか親友までもが影で「アイツは宗教にはまった」と言いふらしていたくらいだ。
現実社会では徹底的な孤独の中に突き落とされたが、実際には孤独感はまったくなかった。
宇宙の全てが自分と共にあったからだ。
あれから20年。
いま、多くの人が話に耳を傾けてくれるようになった。
そして予感どおり、時代は大きく変わりだした。
旅の途中で、一人の禅僧と出会った。
それまでにも多くの僧侶や聖職者達と出会っていたが、誰ひとり究極を分かち合える人がいなかった。
でもその禅僧と会話をしたときに直感した。
「この人はすべてを知っている」
それが向和尚だった。
現在は臨済宗大本山方広寺の教学部長をされている。
あの日の体験は様々な言い方で昔から伝わっているが、その中のひとつに無位の真人(むいのしんにん)というのがある。
向和尚も若くしてその境地を獲得し、今に至っている。
伝統的な禅の立場から見て、それがどういうことなのか、向さんの実体験をもとに文章を寄稿してもらった。
これは、今後あらゆる人が向かうべき道なので、その道しるべとしてもお伝えしておきたいと思う。
裏ブログの<随(かんながら)神>の今日の記事にアップしました。
http://orionza.ti-da.net/
いま巷で禅がブームになっていますが、禅は知識ではなく、まさにこの境地を獲得することが、その存在理由だと思います。
何かを感じてくれたら押してください。
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人からどう思われようと、これからもダイレクトに役目を全うしていこうと覚悟を決めています。
今日も読んでくれてありがとう。
あなたとの出会いに感謝します。
追伸
本日、小禄のジャスコで、沖縄のサンゴを守るイベントがあります。
2時から一時間、僕と智子さんのステージもあるので、時間がある人は遊びに来てください。
2007年07月12日
全ては「ひとつ」
おはよう。
沖縄は台風の影響で少し風が出てきたね。
この週末のイベントは全部中止かもしれない。
実はね、今日の記事・・・すでに2つ書いたんだよ。
でも自分で気に入らないんだ。
書きたいから書いているんじゃなくて、書くために書いているみたいになってしまったから。
伝えたいことはいつもあるよ。
それはね、
あなたの中であなたを生きている存在と、僕の中で僕を生きている存在は、まったくひとつの同じものだっていうこと。
僕はあなただし、あなたは僕だし、全てはひとつだ。
ただそれだけが伝えたくて、いろんな言い方で話し続けてきたけど、それをみんなが知れば、この世の問題は消えてなくなると思う。
ただ知るだけじゃダメだ。
それを体感して確信するんだ。
どうやったらそれが可能になるのか。
僕は楽天主義かもしれないけれど、いま人類が抱えている地球規模の問題が最悪になったとき、それを打破するために地球のバイブレーションが一気に上がって、人類の意識に影響を与え、そこでみんなが悟るんじゃないかって期待している。
みんなで「せーの」で悟りたいね。
そしたらみんなで愛し合って与え合って、仲良くやっていこうね。
そんな世界を夢見て、今日も一日生きていくのであった。
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いつも応援ありがとう
やっとストレートに書けたから、この記事をアップします。
2007年06月02日
なーんだ、そうだったのか

おはよう。
いつも思うのは、僕のブログを見に来てくれる人は精神世界マニアの人達だなって。
そういう世界をキャッチするアンテナを持った人の数が増えているから、こんなブログも人気ブログの仲間入りをさせてもらっているんだと思う。
今日もようこそマニアックな皆さん。
それじゃそんなあなたに、のっけから超ぶっ飛んだメッセージを一発。
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2007年05月27日
静かな朝に
昨日遅くまでライブをやっていたというのに、今朝は早くに目が覚めて、久しぶりに早朝坐禅なんかしっちゃった。
やっぱり、すごく気持ちがいい。
いつもとは全然違う感覚が訪れるんだけど、こちらが本当の感覚なんだと思う。
それはとてもピュアなもの。
余分なものがなくて、生まれたときからずっと一緒にあった自分という変わらない存在が、静かにいまここにある。
いつもはあたりまえすぎて、あまりにも自分すぎていちいち認識しないんだけど、それはいつも自分として一緒にあったなって思う。
それは地球いっぱいに偏在していて、すべての人の中に生きていて、僕達はその純粋意識の上に独自のこだわりや執着を貼り付けて、それが自分だと思っている。
本当はすべて自分なのに、小さく限定した自分を、まわりから守って生き残ろうと頑張っている。
その努力はまったく無駄なもので、全部手放しにしてしまえば、これからも起きる事が起きて、それでいいんだって思う。
言葉にするのは難しいけど、みんながそれに気づけば、とてつもない幸せととてつもない安心がいますぐに訪れるのにな。
そんなことを感じている、静かな日曜日の朝です。
今日もここに来てくれてありがとう。
2007年05月25日
続・死について

さ、それじゃ「死」についての話の続きをするね。
医師が脳死状態の80代の患者の人工呼吸器をはずした問題。
もし自分が患者だったらどうしてほしいかな。
僕も死を望むだろうな。
そしてできるだけ気持ちよく安楽死したい。
モルヒネやらコカインやら、このときとばかりにたくさんもらって、夢心地で逝きたいものだ。
僕の母も妻も安楽死賛成派なので、もし家族が死を待つだけの状態になったら、なんとしても楽に死なせてあげたいと思うだろう。
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2007年02月26日
朝の話の続き 秘訣編
まずはリラックスすることだ。
1人の時間を作って、深呼吸し、軽く目を閉じて、人生でやっている全てのことから一旦手を引くんだ。
世の中へのいっさいの干渉をやめるんだ。
そして耳を済ましてみる。
じたばたしてもしなくても、事は起きるように起きていく。
やっているのは自分じゃない。
手放して(あきらめて)天にお任せするんだ。
そんな感覚を思い出して、深呼吸を繰り返し、落ち着いた気持ちを感じていく。
落ち着けば「愛」の感覚は近くなる。
ものは試しだ。
そこから始めてごらん。
秘訣はリラックスすることだよ。
2007年02月26日
朝から哲学(愛と恐れ)
おはよう(^o^)/
今思いついたことを書くね。
でもこの話は、ちょっと難解に聞こえるかもしれない。
うまく書けるかな。
時間があるときにじっくり感じてみてね。
僕らのすべての感情は「愛」と「恐れ」の2種類に集結させることができる。
これは心理学者がたどり着いた一つの結論だ。
でも僕は思う。
すべての感情は「愛」に集結すると。
なぜならば、「恐れ」とは「愛」の無い状態であって、「恐れ」という実体があるわけではないから。
実体は「愛」だけだ。
宇宙には「愛」しか存在していない。
う~ん、ちょっと難しい表現になっちゃったね。
例えて言えば、それは「光」と「闇」の関係に似ている。
「光」は実体だが、「闇」とは「光」の無い状態のことだ。
話についてきた?
何を言いたいのかといえば、怒りや苦しみなど、嫌な感情を消そうとするのは、闇を消そうとするのに似ている。
でも闇を消すことはできない。
実体でないものをどうやって消すというのか。
闇を消す方法は、闇と取り組むことではなく、そこに「光」を持ち込むこと。
そうすれば闇はたちどころに消えてなくなる。
闇は光の前では、まったくの無力だから。
たとえ何千年にもわたって暗闇をやってきた洞穴の中に入ってマッチを一本すれば、その闇はたちどころに消えて無くなる。
「私は何千年も頑張ってきた闇だ!マッチごときで消えてたまるか!」なんて主張しない。
同様に恐れも、ほんの少しの「愛」を持ってすれば、たちどころに消えてなくなる。
恐れは愛の前では、まったくの無力だから。
「恐れ」とは自我の特性。
固執や執着がもたらす幻想のこと。
そこが理解できた時、こう思った。
自分の苦しみの大きさとは、自分の思い込みの強さだって。
手放して、委ねる事ができたら・・・・
自分をいい意味であきらめることができたら・・・
それをするには、愛が必要だと思う。
そのためにはどうしたらいい?
それはね・・・愛を求めるのではなく、愛そうとすることだよ。
拙著 随(かんながら)神 でも最後にそんな話が出てくる。
今物語は、やっと方広寺にたどり着いた。
http://orionza.ti-da.net/
またゆっくり読んでみてね。
本当は皆、愛でできている
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2007年02月19日
一番伝えたいこと
ねえ、もしあなたが生まれたときからずっと家の中にいて、外の世界があることも知らなくて、広い野原の開放感も、花や緑や、蝶や小鳥も知らなくて、新鮮な空気も吸った事がないし、大空の青さも、エメラルド色の海も見た事がなくて、知っているのは家の中の灰色の壁と、そこにごたごた飾ったいろんなコレクションと、窒息しそうな狭い空間と、そこに置かれた数限りない家具だけだとしよう。
自分が幸せじゃないのは家具やコレクションの数がまだ足りないからだと思っていて、あいかわらずそんなガラクタを集めることが人生だと思っている。
まわりのみんなもそうやって生きていて、コレクションの数や質を自慢したり、家具の多さが人生の成功だと信じているから、それ以外の可能性なんか考えもしない。
外の世界を見た事があるという人の話を本で読んだり聞いたりしても、そんな話は信じられないし、そこがどんなに素晴らしい所でも、慣れ親しんだ狭い空間のほうが安全だと思って動こうとしない。
そんなあなたの耳元で「火事だ!火事だ!焼け死ぬぞ!!」って嘘を叫んだ人がいて、その声に驚いて無我夢中で家を飛び出したら、初めて外の空気と色彩感溢れる本当の世界に出会う事ができた。
その素晴らしさを初めて知ったあなたは、あなたを外に連れ出すために耳元で嘘をついた人を責めるかい?
それとも自分を救うためにあなたに関わってくれたことを感謝するかい?
今までに地上に現れた本物のブッダ達がやってきたことは、そういうことなんだ。
彼らは家を破壊するためにやってきた。
だから本物のブッダは、生きている間には理解されず、ある者は迫害され、ある者は殺されてきた。
誰も自分の家を壊すことになんか興味を持たないからね。
自分が生涯かけてかき集めてきた物を手放したくないんだ。
そして彼らが死んで、自分に直接影響を与えなくなってから、彼らを神格化して宗教を作り、外の世界をまことしやかに語り、また新しいコレクションを手にするのさ。
「嘘も方便」
外に出た者だけが、それを知っている。
多くの人の目にとまりますように・・・
あなたの応援がその道を開いてくれています
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2007年01月19日
魔法の言葉
今朝はどんよりとした暗い朝。
雨の日もありゃ風の日もあるさってね。
いずれにせよ、いいことも悪いことも全ては通り過ぎて行くんだね。
昔ある王様が賢者達に頼んで、あらゆる苦難から救われる魔法の言葉を指輪の裏側に刻んでもらったんだって。
ただし、絶体絶命になるまでは見ないという約束でね。
その国がほろぼされそうになって、敵の軍勢に取り囲まれて王様の命も危うくなった時、緊張のピークで取り乱しながらふとこの指輪の事を思い出して裏側を読んで見たら、
「これもまた過ぎ去る」
って書いてあったんだって。
それを読んでスッと力が抜けたら、何故か敵の軍勢がどこか他の場所に行ってしまい、その間に味方の軍を立て直して事なきを得たって話。
僕はこの話は本当の話かもって思っていて、そんなふうに気持ちの持ち方で現実が変わることってあるよね。
「これもまた過ぎ去る」
これは真実の言葉で、過剰な執着やストレスからくる苦しみを消し去ってくれる魔法の言葉だ。
起きていることの全ては通り過ぎていく後姿だって思えば、どんな状況も乗り越えられるよ。
今日もいい一日でありますように。
これもまた過ぎ去る
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2007年01月15日
汝それなり
おはよう。
また月曜日の朝だね。
今朝はちょっとおかしな話をするけど、引かないでつきあってね。
昨日の昼間、サンエーのスターバックスで新刊の打ち合わせをしていたんだ。
そしたら何かの瞬間にすごく心身が軽くなって、店にいる人たちがみんな神様に見えてきた。
だけど本人たちはそのことに気づいていなくて、それぞれの人生を生きている。
「あなたは本当は神様だよ」って言いたくなったけど、ただの変なオジサンになっちゃうからやめたんだ。
自分という存在は、宇宙の至高の存在で、宇宙に自分以上のものなんか一つもないのに、みんなそんなことは夢にも思っていない。
比較することにすっかり毒されてしまって、自分より凄いものがこの世にはたくさんあるって信じてしまったんだね。
たとえばキリストだったり釈迦だったり、それは自分より遥かに高い存在だって思っているんだ。
でも僕は命をかけて宣言するよ。
「あなたがそれだってこと」
ちょっとぶっ飛んだ言い方になっちゃうけど、この世にはあなたしか存在していないんだってこと。
ヒンズー教にウパニシャッドっていう聖典があるんだけど、その中でもっとも真実を突いた一言とされている言葉がある。
父と子の会話の中で、子供が父親に尋ねるんだ。
「神って何? 真理って何?」
すると父はこう答える
「汝それなり!」
(あなた自身が神であり真理だ)
この世には自分以上のものなんか存在していない。
それらは全部自分の頭が作り出している幻想だよ。
僕はせっかちだからこんな言い方しかできないけど、いつかもっとうまく言える日が来ると思う。
さて、いよいよ明日は月一のライブ

会場に神々が集まって、祝祭の宴の始まり始まり!!
たくさんの神様のお越しをお待ちしています。
ここには真実を突いたメッセージがたくさんあるよ。
今30位前後にある「天使のささやき」は、とても簡潔に究極メッセージを伝えてくれています。
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って言っていたら、あれよあれよの20位です。
僕も時折訪れては、心に潤いを頂いています。
2006年12月08日
決め付け

それじゃ、朝の話の続き。
本当は存在していないのに「自分」という固定されたものを創りだしたって話、わかった?
僕の言い方の問題もあってわかりにくかったかもしれないけど、いろんな言い方で説明してみるから付いて来てね。
どこかではっと解るかもしれない。
本当はすべての人は解っているんだよ。
だけどあまりにも近すぎて、あたりまえすぎて見えないんだ。
海の中の魚が、海を見れないのと似ている。
近すぎて見えない。
海の中の魚の子供が、大人の魚に「海ってどこにあるの?」って聞く話があった。
これと同じで僕たちも
「真理はどこにあるの?」
って聞いたりする。
さ、それじゃ「自我」の話しの続きをするね。
自我というものの性質を見ていくと、それは「観念」という骨組みによって出来ているのがわかる。
自分も自分の周囲も瞬間ごとに新しく生まれているのに、ある一定の態度で決め付けようとするのが「観念」だ。
真実を言えば瞬間瞬間すべてが新しく生まれ変わっている。
存在は生きているので、何一つ滞ることも、何一つ繰り返されることもない。
全体が生きている。
全体が呼吸をしている。
そして僕たちはその全体を担う細胞だ。
同時に全体そのものでもある。
全体は刻々と生きている。
新しく生まれ変わっている。
それなのに我々は過去から学んだ「観念」によって、無意識に決め付けて固定化してしまう。
自分を、世界を決め付けてしまう。
それは流が凍りつくのと似ている。
世界は人の数だけある。
世界とはその人の観念が投影されたものだからだ。
同じやりかたで自分自身のことも決め付けている。
我々は、「こういう人間だ」などという小さな枠には決して入りきらない無限の存在だ。
全ての決め付けは誤解から生まれている。
あなたも僕も、どういう人でもどんな人でもない。
この先、どうなるか、どんな人として生きるのか、何一つわからない。
すべては瞬間瞬間に新しく生まれているからだ。
あの人はこうだとか、自分はこういう人間だとか、何一つ言い切ることはできないのだ。
自分が、自分自身や世界を、どのような観念の眼鏡で決め付けているのか、そこはきわめて重要なポイントだ。
なぜならその世界観、自分観によって、人は自分の人生を創り出しているからだ。
続きはまた明日。
2006年12月08日
自分
おはよう・。
今朝は久しぶりに、いい朝日が撮れる予感がしていたんだけど、屋上で日の出を待つにはちょっと寒かったので、ぎりぎりまで部屋で待とうとしてブログを覗いていたら、いつのまにか外は明るくなっていた。
さて今日も生きているわけだけど、生きているのは誰だろう。
「そりゃあ自分だよ」
それじゃ、その自分って何?
「う~ん、そう言われるとよくわからない」
僕らが何か経験する時は、同時にその経験を意識している者がいる。
自分に起きた考えや感情や出来事を意識している存在がある。
あなたは今、「自分」がこのブログを読んでいると感じているよね。
そして数分後に社長と出会えば、その時は社長用の「自分」がいる。
その時に感じる感情や思考や態度は、もうすでに今とは違っている。
本当は「自分」というのはその時だけの断片的な経験なんだけど、僕らはそれをひとつに結んで、「継続している自己」という概念を作り出しちゃったんだ。
それが「自我」と呼ばれているもの。
「自我」とは本来存在していないにもかかわらず、混乱した人間の心が作り出している、偽の自分のことだ。
我々はその「偽の自分」を自分だと確信しているので、その自分に喜びを与え、苦しみから遠ざけ、安全を確保し、さらには高めようとしている。
それが日々の活動となっているわけだ。
その絶え間ない防御と野心は、本当の自分を見ることの妨げになっている。
そして自我の持つその緊張感は、心からの安心感や満足感を遠ざけている。
無条件の幸福を手に出来ない原因は、まさにこの「自我」の存在があるからなんだ。
僕らの本当の成長は、このことを理解し、実際に自我の束縛から解放された自由で限りない本当の自分に戻ることだと思う。
自分が自分の事を考えるのは難しいね。
ちょうど自分の舌が、自分の舌を味わえないのとよく似ている。
過去から未来にかけて、一貫した自分という存在が生きているという感覚こそが、あらゆる幻想の原点で、それは時間という幻想と同時に生まれているんだ。
過去や未来という「時間感覚」と「自我」は密接な関係にある。
これらのことは伝統的な禅の思想では、どのように説明されてきているのか、そのうち向和尚に教えてもらおう。
今日は朝からちょっと哲学してみました。
その時その時の自分を生きてね。
今を生きるブヒッ
↓
2006年12月05日
天国と地獄 2
いま思ったんだけど、人生がどこかに向かう旅だと思うから、自分の人生はうまくいっているとかいないとか感じちゃうんじゃないのかな。
人生はどこにも向かっていないよ。
だっていつも「いまここ」しかないもの。
何を達成するかなんて地平線にぶら下がった勲章みたいなもんで、真実はたんに「いま」があるだけ。
もし人生がよりよいゴールを目指す旅なら、成功する人と失敗する人がいるけど、そんな目的地は存在していないから、したがって人生に失敗なんてありえない。
だから何度でも言うよ。
気楽に行こうぜ。
どこへ?
どこにも行きゃしないよ。
だって「ここ」しかないんだから。
いったいどこまで行ったつもりになっているの?
この先どこに行こうって言うの?
このことが解れば、人と争ったり競争したりすることがなくなるのに、みんなで勘違いしているから地球がおかしくなっちゃったんだ。
本当は比較や競争をやめて、みんなで楽しむことしか残っていないんだけどな。
持っている能力を与えあって、みんなで楽しくやろうじゃないか。
最近、どんどん社会の波動と乖離していく自分を感じる。
50歳過ぎたヒッピーなんて聞いたことないけど、そんな可能性を感じる今日この頃だ。
2006年10月13日
輪廻転生Ⅱ

輪廻転生が事実であるならば、なぜモハメッドやキリストはそのことを説かなかったんだろう。
実は釈迦もそこに重点を置いていなかった。
彼らはそのことを知らなかったのか。
そんなことはありえない。
深く存在の真実に行き着いた者なら、そのような事実も当然のように見ていただろう。
では何故そこを伝えなかったのか。
その答えはインドを見ればよくわかる。
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2006年10月04日
地球意識(永遠の今)
ふとした瞬間に永遠を感じる事がある。
それはとても素晴らしい体験で、あらゆる魂の本当の姿が見える。
永遠って気が遠くなるくらいに長い時間のことじゃないんだ。
永遠って時間がなくなった状態。
長さじゃなくて、たった一つ、ただ今だけがある状態。
永遠って今のことだから。
今までもこれからもずっと今で、今しか存在していないのがはっきりわかる体験。
それが永遠の体験。
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2006年09月19日
マーヤ

またずっと海を見ていた。
今日の中城湾はさわやかに晴れ渡り、時折吹く夕暮れの風が肌に気持ちいい。
毎日いろんな出来事が目の前を通り過ぎていくけれど、立ち止まって深く自分の中に戻ってくれば、自分はどこにも行っちゃいなかった。
いつも「いまここ」にいた。
今までも
何ひとつ起こりはしなかった。
この先も
何ひとつ起こりはしないだろう。
そんな理解の中から見ると、我々が抱える喜びや悲しみは、本当は実体のない泡みたいなものだ。
夢から覚めたとき、いつだって人生ゲームの全ては跡形もなく消えうせてしまう。
それなのにまた夢の中に巻き込まれて、やがて夢を見ていることも忘れて、喜びや悲しみの世界をさ迷うことになる。
そしてまた目覚めて・・・
いつまで続くことやら。
でも大丈夫。
この宇宙の絶対君主は自分自身で、夢の長さも、夢の中のルールも気の済むまま自由に創り出していて、好きなだけ道に迷うことができ、好きなときに目覚めることができるから。
だから本当は・・・大丈夫なんだよ。
もう一度おまかせしてみよう。
写真はたった今、ベランダから見た中城湾
沖縄の日暮れは長い。
2006年09月16日
(続)気づきのわかちあい
じゃ、昨日の続きね。
それがある時、何気なく外の景色を見ていたら、自分と景色との境界が消えて、見えるもの聞こえるものが全部自分だと感じた。
鳥が飛べばそれは自分が飛んでいて、風が吹けば自分が風になっている。
全部がひとつに繋がった有機体で、それこそが「自分」・・・え?ということは?な~んだ、みんな同じものでできていて、僕達は全員同じものだったんだ~!!
まてよ、この感覚はあの時のと同じだ。
あの時は稲妻が走ったような衝撃があったけど、大切なのは衝撃ではなくこの状態に自分をチューニングすることだったのか。
あの衝撃を遠く捜し求めていたから、こんなに近くにあった真実が見えなかったんだ。
僕等はたまねぎみたいな存在で、自分の見せかけや鎧や仮面を一枚脱いでも、また次のがあって、それを脱ぐとまた次のがあって、最後の1枚を脱ぐと、そこには何も無い。
ただしタマネギの中心には僅かな空気が閉じ込められていて、全部の皮がむけた時、閉じ込められていた空気(それまで自分だと決めていた限定された自己)と、外側に遍在していた空気とがひとつに溶け合う。
もともと同じものだから、なんの努力もなく自然に溶け合う。
自分が消えたわけじゃない。
自分が全体になった。
もっと正確に言うと、もともと全体だった事を思い出したんだ。
それが完全に開いている状態。
開くとは自分がいなくなること。
開くとは全てがひとつであることを理解すること。
開くとは恐れが消えて愛と安心に満たされること。
開くとは本来の自分に戻ること。
衆生本来仏なり
・・・・・・・・
衆生近きを知らずして 遠く求むる儚さ(はかなさ)よ
たとえば水の中にいて 渇(かつ)を叫ぶがごとくなり
<白隠禅師>
ちなみに掲載した上の写真は、あなたの本当の姿だよ。







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