2011年04月14日

仏道を習うというは

最近、僧侶の皆さんとのご縁が増えてきました。

このブログや書籍をとおして、出会うことが多くなっていったのです。



僕も仏教は大好きです。

でも僕は仏教徒ではありません。

そもそも仏教を宗教だとは思っていません。



釈迦の出現は、宗教を大きく変えました。

それまでは、神を学ぶのが宗教だったのに、釈迦は人間を学ぶことを教えたのです。


哲学でも神学でもなく、大地に根付いた存在としてのリアリティーを追求したのが仏教です。

何ら突飛なことを謳っていません。


それがいつのころからか、釈迦や諸尊菩薩を拝むことが主流になっていきました。

新興宗教の中には、釈迦の化身と称する教祖を崇拝することを奨励しているものまであります。

まったく本末転倒です。


釈迦自身や教祖を崇拝するのではなく、自分自身が1人のブッダになることが釈迦の教えです。



人生とは何でしょう。

それは、いったん忘れてしまったものを思い出すというプロセスです。


僕たちは、あらゆる記憶を消去させて、人生ゲームに参加しました。

中でも一番重要なのが、自分は誰かという記憶でした。

その一点を思い出せば、他のすべてを理解できます。



仏教とは、自分を知ることなのです。



仏教がはらんでしまった全ての迷信を削ぎ落して、本来の純粋な教えに戻すことが、僧侶の皆さんの役目だと思っています。


及ばずながらこのブログも、その一点を追求していきたいと考えています。





今日もここに来てくれてありがとうございました。






仏道を習うというは   仏道を習うというは



・・・・・・・・・



【お知らせ】


「阿雲の呼吸 in 札幌」が5月14日に開催されます。

もっと早くとの声もあったのですが、雪に閉ざされてしまう地方の方にも来ていただけるよう、この時期に設定しました。

黒斎くんと僕が出会ったのが札幌。

そのとき、縁を取り持ってくれた花咲ともみさんに、今回もお世話になります。


詳細はコチラから。



Posted by Toshiro Abe at 09:48│Comments(74)
この記事へのコメント
おはようございます♪


わぁ、記事シンクロです~。
でも阿部さんほど知的じゃないなぁ☆彡


今日も愛に溢れた一日でありますように(^-^)/
Posted by 麻美 at 2011年04月14日 09:58
阿部さん

おはようございます☆

わたしも仏教徒ではありませんが、

人間釈迦が大好きです。

シッダールタが求めたものと、阿部さんが思い出したもの(いまここで私たちに教えてくれているもの)は、本質的に同じことだと感じています。

いつも本当にありがとうございます。

再会を心より楽しみにしております(^o^)/


りょう
Posted by りょう at 2011年04月14日 09:59
何故、いったん忘れて思いだすゲームに参加してるのか、分かりません。自分が思い出すとも思えないし。
Posted by コハナ at 2011年04月14日 09:59
あべっちおはよ~。

ぼくもお釈迦さんは好きです~


でもお釈迦さんよりあべっちが好きです~(爆)
(分かってないw)


今日は暑いなぁ。

暑くていい日だなぁ。
Posted by ss at 2011年04月14日 10:10
初めてコメントさせていただきます。

仏教が宗教ではないという意見、僕も同感です。

そもそもの釈迦の説いた教えというのは、
人間としてこの世界とどう向き合って生きていくか、
という人生観、哲学のようなものだと思ってます。

釈迦の教えについて勉強し始めたのは最近ですが、
僕自身もこのブログで勉強させてもらいながら
深く追求していきたいと思っています。
Posted by Yoshi at 2011年04月14日 10:14
阿部さん、おはようございまーす。

仏教とは、自分を知ること!(*^_^*)!

ハッとしてグッと今日も楽しみます(^^♪

いつもありがとうございまーす!
Posted by みく at 2011年04月14日 10:25
仏教については、な~んも知らんけど、今日もこうして、アベッチブログ読めて、「いまここ」で幸せ~。ありがたや~。

って、同じようなコメさっき、某美女ブログで書いた気がするな。
まっ、いいか(笑)
Posted by ラブ☆マエピ at 2011年04月14日 10:25
追記。

仏は「ホットケ」と言うし(笑)
Posted by ラブ☆マエピ at 2011年04月14日 10:29
いつも今ここにいるじゅえるん(ツイッター経由)でございます。

草木とお話してることが大好きです。

神は自分の中に入ってるものだし

宗教は一つのものの考え方なんだろうなと思う今日この頃です。
Posted by じゅえるん at 2011年04月14日 10:33
おはようございま~す♪

釈迦の言葉を受け継いだと称される弟子たちが、今の各派の仏教の基礎となっているようですが、
わたしも阿部さんに出逢って真理を知るまで本当に翻弄されてきました。

わたしも宗教でない仏教が好きです。
この世に救われる唯一の最高の教え(法)なんていうものは無いですね。
自分を救えるのは自分だけ。
南無人生...ですよね。^^
Posted by 由未 at 2011年04月14日 10:43
おはようございます。

仏教が宗教でないという阿部さんの意見に賛成。

仏教という漢字分解すると、人が無(ム)になる教え

すなわち阿部さんが言ういまここを学ぶことなんですね。

納得です。
Posted by Hiraokatarou at 2011年04月14日 10:45
>コハナさん
例えば、何にも置いてない部屋に10人で遊びにきて。部屋の中には「すご六」だけが一つだけ置いてあって。でも誰も「すご六」の遊び方なんて知らなくて。でも部屋の中には他に何もないから、みんなでそれをやってみようって事になって。ルールは分からないけど、こーじゃない?あーじゃない?なんて思考錯誤してるうちに、仲間の一人が「さいころ振って、出た目だけ進むんじゃない?」って気づいて。「ああ、きっとそうだ!」と思った人はそのルールで「すご六」を始めて。でも「違うんじゃない?」って思う人は、まだルールがわからないまま、振り出し地点のまま居て。ルールを見つけてさいころを振った人は「あがる」。何故始めたかって、そこに「すご六」しかなかったからだよ♪
Posted by yu-ko kiyohara at 2011年04月14日 10:51
小学校4年生の頃、カトリック派の外国人神父と、激しいプチ宗教論を交わしたことがあります(笑)
僕は養護施設育ちなもので、その施設自体がキリスト教で出来ていました。

子供達を集め、『公教要理』という、キリスト教の教えを教え込まれてたわけなんですけど、僕は信者でもないのにこの時間に参加するのが苦痛でたまりませんでした。

そんな中でのプチバトル。

『僕は仏教のほうが絶対正しいと思う!』

子供ながらに他の連中が見てる前で雰囲気ぶち壊し。そんな記憶がまだ頭にあります。

『仏さんは人間だろう!イエズス様は神の子なんだ!』

その神父は顔を真っ赤に、がなりたてました。
彼はその施設の二代前の園長。

僕の思いがけずに投げ込んだ波紋は、神父、職員へと駆け巡り、そこからの軋轢の激化は言うに及ばず。

『言うことだけは一人前のくせに中身が全く伴ってない。ただ頭がいいからと、人をバカにしている』
そんなことを言われ、くやしさを噛み締めながら一人周囲の神父・職員とバトルを繰り広げ、高校三年までの卒園の間、辛い日々でした。

でも僕の心の声は間違いじゃなかったと今になって実感できました。


ただ、そのことが尾を引いてるのか、いざ人前でしゃべったりしようとすると、抵抗を感じますね。

今、小説を書いてる最中ですが、これも、もし世に出たら、批判の的になるだろうな、と、具にもつかない考えにとらわれたりすることが、ままあります。

途中で書けなくなってしまうことも度々。

でも阿部さんのblogで気づかせてもらったので良かったです。

『誰かに見せるためじゃねぇだろ?楽しんで書いたらいいじゃねぇか、そんなの(^O^)』

なんだかとりとめもなく、長くなってしまいました。


今、思います。

『これで良し!』
Posted by すずき at 2011年04月14日 10:54
わあ!!
阿部さんが札幌に?!

嬉しい~
仕事休まねば!
Posted by 歌丸 at 2011年04月14日 11:04
忘れてしまったことを思い出した時、
やっと、初めて、地に足を下ろすことができた
という気持ちになりました。
Posted by sai at 2011年04月14日 11:04
いつもありがとうございます(^v^)

私も子供のころ、すずきさんのように、宗教に対しては、

よく抵抗していた経験があります。

当時、キリスト教にどっぷりだった母が、

家族をおいて、毎週末、教会に通っていた頃、

「そんなとこ通っても、イエス様は喜んでない!!」

と、子供ながらに母に訴えた事があるそうです。

実は、この事は私も忘れていたんですが、最近になって

母から教えられました。

子供って、結構もっともな事を言ったりするんですよね・・・。
Posted by 栗子 at 2011年04月14日 11:20
皆指差しているだけさ。

指している先をどこだと思うのは、指している人じゃないだけだと思うなっ。
Posted by ぷ~すけ at 2011年04月14日 11:23
2日前 目の前で 犬が車にひかれた所に遭遇しました。
目の前で さっきまで犬の形をしていた生き物が 肉の塊になった。
生きてうごいていたのに 死んで動かない。
いまここを 頭でつもりになっていた自分を感じ 出来事にパニックになっている自分。
東北の被災者の方の状態を 少し体感した。
家族に 友人に 自分の感情に寄り添ってもらい 大声で泣いた。
気持ちを消化したら 足が地についた。
肉体がある ない の先にある真実が 腹に落ちた。

今日も 阿部さん
ありがとう!

いまここに 感謝です
Posted by みどりいろ at 2011年04月14日 11:45
わかりません。
わかりたいのに、わかりません。

自分を思い出す?
悟る?

それは瞑想を続ければ切り開くことができるのですか?

この悲しい世界が幻想になるのですか?

一向にその気配はなく、今日も美しくも悲しく残酷な現実が目の前を支配します。

思考をなくせば、誰でもあなたのようになれるんですか?
Posted by めい at 2011年04月14日 11:45
悟りを得られても来世でもまた忘れて一からやり直しになるのだろうか。
また、思い出せずに死んだら、それこそ一からやり直しなのだろうか。
どうせならセーブした箇所からスタートしたい…。
Posted by アヤム at 2011年04月14日 11:51
修正…悟り→仏陀の悟りでは無く、究極体験自体の事。
これ(究極体験)自体を求めることは間違いなので無いか。
薬物で変容意識を体験しても悟りでは無いだろう。
自分は何時の間にか目的の履き違えを起こしていた気がする。
Posted by アヤム at 2011年04月14日 12:02
私も20〜25年程前に、法相宗の唯識をかじった事がありますが、唯識はまさに臨床心理学だと思っていました。
当時のトランスパーソナル心理学や、量子物理学ともいろいろな面で重なる事が多く面白かったです。

当時は、地下鉄サリン事件の前ということもあり、新興宗教も勢いがありましたが、唯識で書かれていることを伝えるだけで教祖になれるじゃん。なんて思った事があったなあ。(懐)
Posted by 今日は匿名(いつも匿名ですが) at 2011年04月14日 12:04
yu-koさん、ありがとうございます。
すごろくですか。笑って泣けました。ここで「何故」という気持ち手放してみようかな。あきらめて委ねてみようかな。
Posted by コハナ at 2011年04月14日 12:13
仏教について、阿部さんのおっしゃるとおりだと私も思います!!
神様を偶像化して拝むことが私は苦手です。
なので自分自身が創造主であることを教えている本来の仏教の考えが好きなのですが、ここで疑問があります。
お寺によっては、大日如来やお不動様や観音様を拝む風習がありますが、
これは何を意味していると思われますか?
自分の中にあるそれらの存在を引き出しているという理解でよいでしょうか??
Posted by picolu at 2011年04月14日 12:26
死んだらみんな

お花になっちゃった。

それもよし。

ありがとうございます。
Posted by まんまるおひさま at 2011年04月14日 12:28
イエス キリストのメッセージも解釈により教えが歪曲されています。

聖書には真実が書かれていない。 最も大切な核が。

驚くべきことです。 それもただ起こったのでしょうかね(はぁと
Posted by セス at 2011年04月14日 12:33
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー 
みんなで行こうよ!悟りの世界へ!! 般若心経唱えると気持ちE!
Posted by らっきょ☆ at 2011年04月14日 12:40
いったん忘れてしまったものを思い出すと
宗教で伝えたいことのホントやウソが区別できるようになりました。
もともとは同じことを伝えたいだけですよね。
Posted by 雲水 at 2011年04月14日 12:41
ハァ~♥ 今日も今日とてリンゴが旨い(*^_^*)
Posted by ホクレ at 2011年04月14日 12:41
もともと仏教には神も悪魔もない。あるのはただ生きている種々雑多な人間だけ。
この人間に正しい知識を与え、それを生活の中に知恵として生かしていく。
それを正覚として、正覚を得たものを仏と言っているにすぎない。
ただそれだけの事なのだが、それだけでは凡夫は寄ってこず、しかたがないので
利益等の餌を与えていくのだが、時にはその餌もまた大きな正覚に通じてゆく
場合がある。

山岡荘八 伊達政宗1巻より

コメントを読んでたら頭に浮かんだので思わず引用しちゃいまいした。
Posted by ダンボール at 2011年04月14日 12:46
幻想にどっぷりと浸かるには、宗教は一役買いました。
私達一人一人の中の神を見つける時代・・・・神になる時代・・・・
そろそろ目覚めるときなのでしょう。

私たちはどうあるべきか、愛のある社会を築くにはどうしたらいいのか、
誰にどんな言葉をかければよいのか、今、何をすべきか・・・・

その道しるべは、誰かの言葉に共感する、私たち一人一人の
心の中に生まれる。「ああ、私はこうありたい!」と。

イスラム教の主人が言います。アッラーを何よりも愛している、と。
アッラーに祈りを捧げる毎日。
一方で、ムハマッドの教えが行動規範。彼がただ一人のマスター。

でも、世の中には、こんなにたくさんのムハマッドがいます・・・
すばらしい言葉の数々、すばらしい本の数々、すばらしい人々・・・

型にはまらず、宗教の垣根を超えて、
そろそろ平和に 神の、宇宙の、”真理”を共有しましょう。
そういう時代だと信じています。
Posted by 平和 at 2011年04月14日 12:47
阿部さん、こちらこそいつも愛あふれるブログ更新ありがとうございます。

今日も光り輝く愛あふれる目の前のことに感謝の気持ちで生きていきます!
Posted by tomo at 2011年04月14日 13:05
あべっちほんとうまいこというねぇー))))))) (パタリ.

>平和さん    合致♪ ( \^v^/
Posted by ドゥービー at 2011年04月14日 13:30
阿部さん   いつも素敵なメッセージをありがとうございます

釈迦の提案は、「空」という「概念」・・この一点・・だったのではないかと思います、それは、般若心経に集約されていて、中でも「空即00・色即00」・・の八文字に極まっていると思います

ムリとは思いつつ言葉で言えば 「そこには総てのものが在り且つ何も無い」

そのことに気づく為の近道が、瞑想によって、「矛盾」という「モノサシ」を捨て去ることなのでしょう

したがって、「禅」は持ち合わせているMETHODにおいて釈迦の意識にもっとも近いものだと思います。

今日もありがとうございます。
Posted by 陽満里 at 2011年04月14日 13:30
>picoluさん

おもしろかったんで、調べてみました。
仏像には順番があって、1.如来(大日如来とか) 2.菩薩(観世音菩薩とか) 3.明王(不動明王とか) 4.天(帝釈天とか毘沙門天とか)
悟りを開いたのは1の如来だけだそうです。
だから如来を拝むのは、悟っていないらしい私たちの中に如来はなく、それと一体化せよってことなのかな?
その他の観音様とかは私たちの心の中に居られるそうで、それらを拝むことで、そのあらゆる自分の仏の存在に気づいて、苦しみから解放されましょうってことらしいです。

どちらにしても、神仏を拝めば幸せになるなんてことは無いですよね。^^
みんな悟ってるんだから、みんな大日如来と同じってことですかね。(笑)
なんかおもしろいよね。
なんて、遊んでたら、仕事に遅れそうです~(^^)
Posted by 由未 at 2011年04月14日 13:35
全く関係ない話ですが、
阿部さんの大好きなバンプと
傑作漫画「スラムダンク」著者の井上雄彦さんの
コラボCMが明日から放送されるみたいですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110414-00000048-spn-ent

井上さんが現在連載中の「バガボンド」という漫画の中で

「全ての人の人生は完璧に決められていて、
 それが故に完璧に自由だ」

というセリフがあります。

何百万という読者がいる漫画の中で
こんなことが語られる時代になったのですね。
Posted by リアル at 2011年04月14日 13:40
極  めて
楽  な
 考え方で

素 極
  楽 しんで


生活の中で  極 力
    端を 楽 にしながら

自分も 自由に  楽しめることで
宇宙貢献をする。

それが仕事


端楽   ということ かな。
Posted by 神ng at 2011年04月14日 13:48
はからずも

投稿番号が

36番目


弥勒でした。


言霊

数霊

たまたまでしょうが。(笑)
Posted by 神ng at 2011年04月14日 13:50
キリストは仏陀の500年ぐらいあとに生まれて、仏教史跡もキリスト生誕地近くにまでおよんでいるので、仏陀の教えの影響は受けていたようですね。

もともとはキリストの教えも、仏陀と同じように真理を追究する科学的なものであったようですし。

やはり人間は弱いので、膨大な時を経る間に楽な偶像崇拝のに変わってしまったんでしょうね。
Posted by taizou at 2011年04月14日 13:52
私は仏道について、何ら無知ですし、これからも頭で理解しようとは思わないと思います。

お釈迦様ブッタについては、15年前に、手塚治虫さんのマンガで触れ、経験の浅かった私なりにとても感動し、夢中で読んだ覚えがあります。

夢中になって読んだ事が、その後に大きく影響するという事はなかったのですが(笑)、ここに繋がったのかなって思っています。

阿部さんのブログで、すんなりと私の中に入る、この感覚がとても心地よく、私のいまは、それで十分だという事ははっきりとわかります。

解ろうとする事がストレスになっていないからだと思います(笑)

コメントをされている沢山の素敵な方達とも、ここで触れながら、すんなりと心地よく入る感覚を大事にしたいなと感じます。

阿部さん、今日もありがとうございます。
Posted by がじゅまる。 at 2011年04月14日 14:11
私は宗教には帰依しない、と決めています。

いかなる宗教も信仰すると、排他的にならざるを得ないように思います。

「自分の信じる神だけが正しい。」と確信してしまうと、他の宗教も
無宗教の他者も全部否定してしまいます。

過去も現在も、宗教的な対立でどれほどの血が流されたことか。。。

自分の信じる「正しい道」を歩む為に、全てが正当化される
危険性があります。

宗教戦争では血も涙もない、女子供も関係なく、
正しく根絶やしの殺戮が行われた怖ろしい
歴史上の事実を忘れることができません。

「どっちが正しい?」という考えを持つこと自体が危険です。

人間の持つ、「正邪の判断」など、勝手なものです。

他者との間で「正しいもの」を競い合うなど愚の骨頂でしょう。

真理は、自分自身の中にあるもの。

阿部さんの言われるとおりだと確信しています。


有名な斉藤一人さんの講演で、

「どっちが正しいか?よりもどっちが楽しいか?」

が断然良いと言われました。

どっちが正しいかを競い合うと、ケンカになるけれど、

楽しいことを追求するならケンカにならない。

「オレも楽しい、キミも楽しい、良かったネ!」

ホント、そのとおりだなぁって感心したものです。^^


正しいことより、楽しいことがイイですね。^^

クリスチャンじゃないけど、教会でのコンサートは
大好きです。

南無人生。
Posted by 松原 at 2011年04月14日 14:11
通りがかりのものです。

確かにお釈迦様はご自身を崇拝させることは戒めた感じです。

そして人間は仏性があるから、それを顕現していくことを教えたのでしょう。

しかし結論はそうでも、現実に自分が全然そうなっていないなら、何の意味も無いのです。


ただそれはそれとして、神様と仏様の違いの説明に、

かなり短絡的なものを感じました。

唯一神についてもっと勉強したほうがいいように思います。

何故なら現実問題として仏教徒はお釈迦様を尊敬し崇拝するから

安らぎを感じるわけです。

ここにポジティブに集まっている人も

阿部さんを崇拝している要素があるから

安らぎを感じているでしょう。

芸能人を崇拝している人もいれば、

お金を崇拝している人もいるわけです。

もし自分の仏性が感じられたら、

このブログに来る必要はないし、光すら感じられないでしょう。

所詮は外の世界にしか過ぎません。

思考をある時は否定し、しかし自分の思考態度は否定しない。

その辺の区別がついていないと、支離滅裂になってしまいます。
Posted by シャンデリーヤシャンデリーヤ at 2011年04月14日 14:28
一番驚いたのは「人間は罪の子である」 ってことW

その次は、
「~をすれば(このときは献資だったかな)神様とパイプが繋がる」
だったかなw


こんなジョークはツボだな・・・・。
 
ある黒人男性が、白人の教会に入ろうとしたが拒否された。毎年彼は受け入れてもらえるよう志願したが、毎年違った理由で断られた。しまいに彼はひざまずいて祈った。「イエス様、私は長い間一生懸命この教会に入ろうとしました。でも彼らは受け入れてくれません。助けてはくださいませんか?」
『がっかれしてはいけないよ、ジョージ』、イエスの声が返ってきた。
『わたしはお前よりも、もっともっと長い間、あの教会に入ろうとしたが、彼らはわたしもいれようとはしないのだよ』

どの偉大な宗教も、最初は純粋なところから始まった。
しかし真実はコピーできる類のものではないのだ。コピーすればするほど、画質は暗くなり、染みができ、しまいには最初に何があったか読めなくなってしまう。見えるのはススのようなトナーの斑点ばかりだ。

         ~アラン・コーエン<人生の答えはいつも私の中にある>

神に祈るかわりに、神から祈るときがきた。 いまいる場でできるかもしれない

>方便、迷信を削ぎ落として、本来の純粋な教えに戻す役目 byアベッチ

その為に、いまこの時代に生まれたひとりひとり。 地球の転換期に。
Posted by ドゥービー at 2011年04月14日 14:51
いつも端的なる文章力に感服しています。 ちょっと気になったので余計なことを申しますが、このブログはひとつだけ読んで批評できるものではありません。通りがかりの方がもっと勉強するようにと言い放つのは早計かと存じます。唯一神についても過去ログで納得がいく説明がございました。
Posted by 柴山筑山 at 2011年04月14日 15:05
本当に、そうですよね・・・

私もそう感じていました・・・

9年前、大きな悩みがあり、ある宗教団体に入信しましたが
仏教もお釈迦さまも好きだったので・・・

でも、違うんですよね・・・最初から違和感がとれず・・・

上も下もないと言いつつ、あるしね(笑

それで納得して、頑張ってる人は、それはそれでいいと思う。

批判はしない・・・私はここにいるから・・・

阿部さん、今日もありがとう~!
Posted by mika at 2011年04月14日 15:49
シャンデリーヤ さんへ


勘違いしているようなので、一言。

人間は崇拝するから集まるのではないです。

私、阿部さんという人間を崇拝してはいませんよ。


いまここ のメッセージに共感を感じるからというだけで、

崇拝というイメージは全く違います。

崇拝するというのは、ホントに危険な行為であると

思いますよ。

自分を正しいと思う余り、

コレコレを勉強しろ、とか言うのもお門違いですね。
Posted by 松原 at 2011年04月14日 15:59
初めてコメントさせていただきます。

阿部さん、いつも心に響くメッセージをありがとうございます。
阿部さんのお言葉の数々に温かな愛を感じます。
これまでに2度、コラボにも参加させていただきました。
楽しくて、そして色々な気づきをいただいて、本当に感謝しています。

こちら神戸でも、桜の花が満開です。
ひとつひとつの花は小さくて、可憐で儚いけれど、
たくさん集まった桜の木は華やかで見事ですね。
一本の木の中で調和していて…みんなで手を繋いでいるみたい。
自然の美しさを見ていると、目には見えない大きな何かが働いてるんだな…と感じます。

あなたの笑顔は私の喜び。あなたの涙は私の悲しみ…
愛を持って生きて行きたいです。
全ての人が幸せでありますように…

阿部さんに出会えて本当に良かった^^
これからも、日々のメッセージを楽しみにしています。
Posted by kokoro at 2011年04月14日 16:01
時々寄せられる、敏郎さんに意見するコメントを見ると、「釈迦に説法」と言う諺が思い出されて、可笑しくなるのは僕だけだろうか。

目覚めた人のコトバは聖なる次元からやって来る。

誰の内にもある真実のスペース。

マインドが、マインドに語っているのではないハートのコトバ。

先に目覚めた人への信頼は自己信頼に他ならない。

彼らは、私たちの内なる可能性の証人なのだ。

彼らへの敬意は、自己への敬意以外のなにものでもない。

彼らのメッセージをマインドで解釈すると取り逃がす。

エッセンスを取り逃がす。
Posted by ナラヤナ at 2011年04月14日 16:28
♪。・:*:・゜

わたしは、他のわたしを見ることが
できることに心からの喜びを感じる
わたしがいまここにいるからこそ見える
わたしの姿

どの他のわたしも、かけがえのない存在
それぞれが共鳴して、光は目映いほど透明に輝く

〜わたしは何者か〜

それを小さなわたしは体感した。
絶対的な至福と歓喜と愛
それが本当のわたし。

わたしは見た。
体感したかどうかに関わらず
わたしは何者かを
<認め、確信>し
他のわたしが悟りを生きているのを。

体感した人もしていない人も〜すべては
素晴らしい存在で同じでひとつという真実
変わらないものは、唯一それだけ

ありがとう♪
Posted by スピカ at 2011年04月14日 16:36
それぞれに段階があり、階梯がある。

共感でも意見でも,阿部さんにはokなことでしょう。

意見に関しての仲間の意見もokでしょう。

ひとつ、可笑しくわらうということはあまりいただけないかも(はぁと
Posted by セス at 2011年04月14日 16:43
>由未さん

調べていただいてありがとうございます^^
そういえば前にたけしの番組で順位のことを解説してたのを思い出しました!おもしろいですね☆ (誰が決めたんだって話ですけど。笑)
大日如来は宇宙そのものともいわれてますよね。
崇拝とは、私たちの中にあるそれらの存在に気づく(コミットする)ことによって安らぎを感じる為なんでしょうかね。。
個人的に不動明王が好きです^^ 
Posted by picolu at 2011年04月14日 17:15
私が住む町に、仏舎利塔というものがあります
なんと、あの、釈迦様の御遺骨が祭られているというのです!

外国人観光客の団体さんがバスで大挙して乗りつけ
ありあがたそうにお参りをしてゆきます

私も年に数回は訪れてお線香をあげ、
こうべを垂れていました

自分がお釈迦さまと比べても、
少しも劣った存在ではないと気がつくまでは
Posted by まさゆき at 2011年04月14日 18:26
忘れてしまっていることだけは確かなんだと思います
確かに、すっからかんに忘れてる・・・
Posted by ペンギン at 2011年04月14日 18:27
数日前の 比叡山での質疑応答の中で 
阿部さんのエネルギーはどこからくるのですか?という質問に
阿部さんが「共感です。共感が力をうみだすのだと思う」とおっしゃっていたのが 凄く印象に残っています。
私達は肉体をもっていて分離しているように見えるけれど その瞬間(共感)はほんとうにその隔たりを無くして繋がり、大きく広がって行く自分と相手、そしてその空間の一体となったエネルギーを感じます。この世で肉体をもって(分離している)いるからこそ、得られる喜びだと思います。
魂が喜ぶ、あるいは、喜んでいる魂の中に喜こぶ自分がいる、そんな感じがします。
三次元ではない、「自分がなくなる」「全てがひとつだった」というワンネス体験にこだわっていたけれど、現実の、今目の前のひとを受け入れる(ありのまま見る)、自分の心を開いてみる、その人(達)と共有しているいまこの瞬間を見過ごさないでいこうと思います。

自分の中に灯りをみいだすこと そこから逆に目の前の事(ひと)がちゃんと目に入ってくる気がしてます。ありがとうございます。

  
Posted by pao at 2011年04月14日 19:29
「人生とは、自分が神である事を思い出すための壮大なゲームなんだよ。神は人間を通して人生を経験するために、記憶を消したのだ」by神との対話

>釈迦自身や教祖を崇拝するのではなく、自分自身が1人のブッダになることが釈迦の教えです。

全ては一体であり、人間と神も一体である^^
Posted by 近藤 at 2011年04月14日 19:53
最近「十牛図」関連の本を読んでいます。禅の悟りの段階を、十枚の絵で表したものです。(去年の12/21の『いまここ』で少し触れられています。)

禅の入門書なので、阿部さんが「いまここに生きて下さい」と言われても、よく分からないという人には理解の助けになるかもしれません。

金沢市の図書館には20冊あった!面白いのがあればいいけど…
Posted by ごん太 at 2011年04月14日 20:03
♪。・:*:・゜

paoさん こんにちは。
共感が力になる。わたしもそう感じています。

わたしの場合、色のついた光同士が共鳴し
重なり合っていくことで
より透明になっていくイメージです。
それは、人と人の共鳴でもあり
自己の魂と思考と身体の共鳴でもあります。

>自分の中に灯りをみいだすこと 

paoさんに灯りが既に灯っているのが見えます。

ありがとう♪
Posted by スピカ at 2011年04月14日 20:13
『悟り→仏陀の悟りでは無く、究極体験自体の事。』

アヤムさん、さとりんさんの言ったこと、まだ引きずっておられるのでしょうか!?
他にも居られるのなら、彼の目論見? も有る程度は叶ったということに成るのでしょうか(><)
彼は悟ってはいないという事なので、二元対立の世界に囚われている事に成ります。

なら、いくらでも彼の話は崩せます。
単なる空想ですョ。
もう忘れたほうが良いと思います。

・・・・・いらぬお世話スイマセン^^;
Posted by おわら at 2011年04月14日 21:18
松原さんが紹介された斉藤一人さんのことは知りませんが

「どっちが正しいか?よりもどっちが楽しいか?」が断然良いと言わ

れました。----

いい言葉ですね 気に入りました 仏教用語の意味を理解するより

的を得てます また紹介してください
Posted by 純 at 2011年04月14日 21:38
こんばんは。阿部先生そして皆さん

何だかんだ言いながらプロ野球がスタートしました。野球に興味無い

方々申し訳ありません。球界の盟主の某球団のなべ何とかさんは世間

のヒンシュクを一斉に浴びていましたがようやくセ・パ同時開幕

私は福岡市の博多区出身な者ですから、福岡ソフトバンクホークスの

前身の福岡ダイエーホークスからの熱狂的なファンです。

とくに巨人時代から王会長が大好きです。今現在東京の大田区に在住

しているのですが、暇さえあれば、スカパ(衛星放送)で欠かさずに

ソフトバンクの試合をみています。今日は帰宅して途中から見ていた

のですが、ダイエー時代からの主力選手松中信彦選手(平成唯一の

三冠王)が3000塁打という記録をこつこつ積み上げてきまして

今日達成しました。そのインタビューで松中選手は「感謝」という

言葉しか見つかりません。この「感謝」という言葉の響き何と素晴ら

しい事でしょうか?日常当たり前に過ごしていますが、日々それこそ

「感謝」の連続ではないでしょうか。禅や仏教それはそれで大変素晴

らしい事だと思いますが、まずは私の場合は日常何事も無事にそして

健康に過ごせる事に「感謝」したいと思います。

実家の父が今年病気になり手術が成功した事にも「感謝」したいと思い

ます。
Posted by マトリックス at 2011年04月14日 23:00
悟りを忘れているんだとしたら、盲目の状態で生きている人間ってそ

れだけですごい事をやっているんだなぁ~って思いますよね。もう生

きてるだけでみんな素晴らしいし奇跡ですよね。盲目同士だから、ぶ

つかったりケガしちゃうんでしょうか?


ちなみに矢沢の永ちゃんのコンサートでみんな盛り上がって一体感が

あるのはワンネスなのでしょうか?
Posted by 悟り猫 at 2011年04月15日 04:03
皆さんこんにちは(^-^)/
皆さんのコメントを読んでて
以前から気になってたことを
思い出したので書きます。

釈迦とイエスが出会ったら
どうなるか?
以前から気になってたん
ですが、皆さんはどうなると
思いますか?
僕は想像するに結構
気が合う二人に
なるんじゃないか…と
思ってますが
実際どうなるんだろう?
Posted by kazooon!! at 2011年04月15日 07:27
敏郎さん、みなさん、おはようございます♪

大変のごぶさたです。^^

人生いろいろありますが
乗ってけ 乗ってけ 乗ってけ さーふぃん♪ の如く。

今日もありがとうございます。

こちらは、とってもくつろぎますのだ。^^

とびきりに素敵な日を!!!
Posted by Luna at 2011年04月15日 08:14
〝自分自身が1人のブッダになることが釈迦の教え〟


元々、自分の中に在ったものを思い出すこと

かもしれませんね


ありがとうございます
Posted by ponsun at 2011年04月15日 08:15
Kazoooonさん、

もちのロンでさぁ~~♪
Posted by 銀魂 at 2011年04月15日 08:19
阿部さん、皆様、
おはようございます。

kazooon!! さま、
話しは若干それますが、
ブッタとイエスが現世にバカンスにくる、マンガ
聖お兄さんってのがありますよ〜
もし、未読なら、一度如何ですか?
Posted by ゴトウ at 2011年04月15日 08:59
このブログのコメント欄も、
阿部さんの意思とは関係なしの方向に進んでいるような気がします。

阿部さんの悟りの意味が、
捻じ曲げられ、自分勝手な解釈となっているような気がします。

ブッタの言葉が宗教になったように・・・。

「いまここ」の本当の意味を、しっかりと伝えるべきかもしれません。
Posted by 雲虚 at 2011年04月16日 20:44
>雲虚さん
きっとね、分母を大きくしたいんじゃないかな。大勢の人が興味を持てば、それだけ分子が増える可能性になるから。分かりそうな人にわかるレベルの話だと、分母は小さいままだから。
分母を大きくすればすぐに満身創痍だけど。そんなの覚悟済みなんだと思います。
本当の意味をしっかり伝える事が可能ならば・・・悟りなんて言葉、御釈迦様の時代に無くなってたんじゃないかな♪LOVEYOU♪
Posted by yu-ko k at 2011年04月16日 21:34
仏典に「犀のようにひとり歩め」って言葉がありますけど、

これ、お釈迦さんの言葉にも頼るなよ。ってことですよね。
Posted by 笹岡 at 2011年04月17日 00:51
yu-ko kさん

分母を大きくすると、得られる数値は小さくなります。
分子が増えても、分母が大きすぎると・・・。
仰っている意味が理解できないのですが、・・・。

本当の意味が理解できる人を二人作る。
その人が、また二人に伝える。
ねずみ算です。
そのほうが、間違いはないと思うのですが・・・。

なにを焦っているのでしょうか・・・。

スイマセン。
議論するつもりはないんです。

「いまここ」「あるがまま」の本当の意味を伝えてもらいたいと思っているだけなんです。
Posted by 雲虚 at 2011年04月17日 20:28
「法によって生きよ」ってことですね。最古の仏教国スリランカではブッダに帰依することはあまり重点を置かず 、「ダルマ(法)によれ」と言っています。個人崇拝じゃないんですね。
仏教は強制めいた感じがなくて一番気持ちのいい宗教です(私にとっては)。日本の仏教者、空海や道元もおもしろい。
Posted by 小次郎 at 2011年04月17日 20:38
♪。・:*:・゜

雲虚さん こんばんは スピカです。

以前スピカが雲虚さんのように思っていた頃
大切な方から頂いた言葉とスピカの思いをあなたに贈ります。
******
ブログのコメント欄は、いわば大きな川の流れです。
一部では逆行してしぶきがあがっているように見えても、
川は海に向かって流れていますから、心配は要りませんよ。
雲虚さんや阿部さんがひとりで(何人かかっても)この川全体の流れを
変えることはできませんし、その必要もありません。
ブログのコメント欄では、みなさんがそれぞれのペースで成長しています。
******
わたしは、ブログのコメント欄自体が進化していくことを
阿部さんは受け入れて委ねて(阿部さんの言葉でいうとお任せかな。)
いらっしゃるのだと思っています。

「あるがままを受け入れる」とはそういうことではないでしょうか。
進化しかないのだから。

ありがとう♪
Posted by スピカ at 2011年04月18日 00:58
>雲虚さん
1分の1より50分の45の方が大きいって事。数学的には小さいけど。
あなたが「本当の意味」を知ってるなら、コメント欄に書けばいいんじゃないかな?結構コメ欄読んでいる人多いんだから。知った人がそれぞれ伝えていかなきゃ、ねずみ算は進まないしね♪
Posted by yu-ko k at 2011年04月18日 04:40
自分はわかっていて、他はわかっていないという思い込みが一番のやっかいな罠であります。
そこにおちいると、抜け出すことは非常に困難です♪
何故か・・・・・・・   わかるひとはさいわいです。
Posted by 木蓮 at 2011年04月18日 04:55
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