2021年05月23日

愛への道

今日の記事はあまり愉快ではないけれど、大切なことだと思います。

先日、若き日の恋愛話をしましたが、どんなに相手を愛したつもりでいても、いま思えば単なるエゴの所有ゲームでした。

当時からこのことは心のどこかで知っていましたが、エゴはすぐに自分を正当化してしまいます。

まさに自己欺瞞。


相手を愛する本当の目的は、相手からの愛と体が欲しかっただけなのに、表面では純粋な愛だと思い込む。

それも意図的にではなく、自然に思い込めてしまうから凄い。


エゴによる自己欺瞞は見事です。

もしかしたら人間は自分をだます天才かもしれません。

その一方で、こんなに愛しているのにと真剣に思うのです。


愛への道



あるとき、自己というものが実際には存在せず、存在だけが存在していると知ったとき、やっと本当の愛に出会いました。

存在自体が愛だったからです。


その愛は、困っている人を助けたり、近しい人に親切だったり、人々を明るくさせるために笑顔でいたりと、そんなこととは関係ありません。

そういう「形」ではないのです。


むしろ、誰かを幸せにしてあげようとか、誰かの役に立とうとか、そんな意図が全く消えた状態です。


ただ「ありのまま」でいること。

これ以上の誠実さはありません。


それができるのは、自分も他人もないという理解の上でのこと。

この理解があれば、「ありのまま」でいられます。

与えるとか、受け取るとか、そのような二元性は消えています。


開くことこそが愛です。

開いた結果、周囲からどんな反応が返ってこようと、それによって影響されることもありません。

なぜなら、相手が相手でいることも認めているからです。


愛の本質は、どれだけ自分に正直になるかにかかっています。

どれだけ自分に対して開けるか。

自分に開いたとき、それは全体に開いたことになり、そこに流れるのが愛です。


まずは自分をごまかしていることを潔く認めること。

誰もが同じだと思えば勇気も出ます。


自己欺瞞は想像以上に手ごわいですが、真実の道を歩むならそこと取り組むしかありません。


宇宙的な愛だとか、高度文明からのメッセージだとか、そんなファンタジックな話より、足元にある自分と関わることが真実の救済に繋がっていくのです。


本来のスピリチュアルの道は英雄の道ではなく、荒涼たる砂漠を独りで歩くことに似ています。

たとえ何かが達成されても、天から花びらが降り注ぐわけでもなく、ただあるがままをあるがままとして生きるだけです。


でもその喜びは比類なきものとなります。


愛を知るからです。



・・・・・・・・・・



今夜21時の瞑想会アドレスです。

https://youtu.be/Niw8v6gRjt0

愛への道

先週の講演に出てきた興福寺に行って、阿修羅像に会ってきました。

ささやかな土産を買ってきたので、今日の瞑想会で抽選で3名様にプレゼントします。








Posted by Toshiro Abe at 09:00│Comments(31)
この記事へのコメント
「I」に「私」という意味があること

「I」が「愛」と発音できること

「I」が「1」という数字になること

偶然ではありません。

これらの一致は

「I(私)はI(愛)であり
I(愛)はI(1つ)である」

という真実を宇宙が示しています◎

愛によって宇宙のすべての現象は
完全に1つにつながって展開されています◎

宇宙全体は常に完全に一体です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年05月23日 09:32
つい先日、

経緯とか省きますが、自分自身が心底くだらないとガッカリしていた、
正にその最中、そんな『くだらない自分』を『愛しく感じる』ことが起きました。
少し後で、違う、と思いました。
『心底くだらないとガッカリしていた』のですから。
『そんな自分』が『愛しく感じること』『ができる隙間』なんて、
全く無いと思うくらいに。

で、思い出したのは、時々聞く、
『悟り』とは『自分が悟る』のではなく、
『悟り』が『訪れてくれる』もの、というメッセージ。
「あっ、これだっ!!」
と、思いました。

心底・・・これ以上もなく、『くだらない自分自身』と思い込んでいても、
そこに『愛しさ』が『訪れてくれた』のだと。

以前、いわゆる「無明」には気付いたことがあったのですが、
(ちなみに、そう気付いた後、
 中島みゆきさんの曲「世情」の
 「包帯のような嘘を見破ることで
  学者は世間を見たような気になる」
 という一節が、正にそのまんまを示していると感じました)
その、『無明のすべて』が救われた感じがします。
なんでって、こんなにもくだらない自分自身すら、
『愛しさ』などが『現れる場』と『全く離れていない』と気付けたので。
この気付きで、『訪れてくれた』というよりも、
『愛しさ』とかは『本来あるもの』であって、そうと気付きさえすれば
いつでも触れられるもの、とも腑に落ちたので。

この気付きで、最初は、『くだらない自分』を『愛しく感じた』のは
『自分』だ、と思ってました。
それは、時々でも感じていたことでした。
でも、今回は、
『心底くだらないとガッカリしていた』のだから、
『そんな自分』が『愛しく感じること』『ができる隙間』なんて、
全く無いはず、と気付いたんです。
その結果、こういう気付きになりました。
『くだらない』という『概念』に限ったことではなく、
心底、本当に、そのように思い込んでいたことに
『正直になれた』ので、このような気付きが起きたのだろうと思ってます。
そういう意味で『自己欺瞞』て、本当に、微妙でややこしく、
でも、そうと気付けば物凄くシンプルなことが多いのかもしれないですね・・・・・。
Posted by ただの「自分」 at 2021年05月23日 11:26
こんにちは、今日のお話は言葉の範囲を超えていますね、自分を開く鯵の世界受け止めたとしても言葉で返すことは出来ないのではないでしょうか、そこが魅力の世界なんですが。
Posted by makotoazuma at 2021年05月23日 11:32
 わたしも愛と肉体が欲しくて精神的にも経済的にも守ってもらいたいと、という欠乏感不足感恐れなどからの恋愛をドップリしまくっていましたよー。
 「こんなに好きなのに!!」って(大滝汗・・・)。
 で、相手のせいにしてその関係はENDのパターン。

 今は更年期に入り生理がほとんどなく、性欲があまりありません。
 そんな最近おもうのは、あんなに相手を求めていたのはホルモンもかなり関係していたんじゃないかと。

 
Posted by ナッツ&コーヒー at 2021年05月23日 11:48
>ただ「ありのまま」でいること。

>それができるのは、自分も他人もないという理解の上でのこと。

>相手が相手でいることも認めているからです。


人だけじゃなくて、できごとやあやることが、認められないとき、相手を変えようとか何かしらの反応が起きるのは、こちら側(わたし側)にべきやならればならないなど、信条信念や誓約(自分にたいしての誓い)など(これらを総称して観念)があるからだと分かりました(*´ー`*)

相手や出来事が世界が悪いわけでもなかった(*´ー`*)

わたしが観念を通してみてた世界だけだった~

ありがとう~
Posted by ともこ at 2021年05月23日 12:28
自分はない、というのは禅の決め台詞ですが、

わりとその伝統では、自分の重さに苦しんでおり、その逆像としての一瞥的な、あるいは溶解的な解放という残像を自分として持っているようにも思います。

ある世代のハイを求めるスピリチュアリティにもそれを感じます。

愛も何かしら、そうした文脈で捉えている向きを感じますが、

それだけでなく、じわじわと世界や人類を変容させてゆき、宇宙を転換させてゆく深淵な要素もあると思います。

それも含めてSelfの夢ではあるけども喜びの創造としての人生の意義のように思います。
Posted by 招福ひよこ堂@Kyoto at 2021年05月23日 12:30
わぁ、すごく難しいお話です。

難しいながらも、あぁ、私は相手が相手であることを認められていないなぁと思いました。

ひとつ思い出しました。

Even a chance acquaintance is decreed by destiny.
→ 偶然の出会いさえも、運命のなせる業。
日本語では、「袖振り合うも多生の縁」が近い言葉で、私が本当に大好きな諺です。

たとえば私を悲しませる人も、怒らせる人も、あんなに愛していたのに振られた人も、逆に私が傷つけた人も、みんな巧妙に仕組まれた出会いと計画であり、みんな愛なのですね。

>開いた結果、周囲からどんな反応が返ってこようと…
きっと、他人に期待しないようになって、いろんな感情が湧いてくる自分を俯瞰できるようになるのかなぁ~。と思いました。

私には、「こうなんじゃないかな?」と思う程度で、実感としてはまだ分からない世界です。
ただ何も分からないなりに、貪欲に吸収したいという意欲だけはあります(笑) というわけで、何度も読み返してみます。
私にとってすごく大事な記事のような気がするのです。阿部さん、どうもありがとうございます。
Posted by キビタキ at 2021年05月23日 12:58
>経緯とか省きますが、自分自身が心底くだらないとガッカリしていた、
正にその最中、そんな『くだらない自分』を『愛しく感じる』ことが起きました。

素晴らしいですよね!

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年05月23日 13:08
体験を通して神を知った時、直感的に、それまで漠然としていた神の本質とは、愛なのだ、ということが、身にしみるようにわかりました。
太陽は在るだけで、私たちは、太陽から多くの恩恵を受けています。
太陽には、何の意図も、見返リを求める心もありません。(愛という観念も持っていないでしょう)
愛は、エゴを超えており、神の愛は、私たちの小さな心では、推し量ることはできないのですが、その体験以来、名前や形のあるモノの背後に、神の愛を見ることができるようになり、人生は180度変わりました。
孤独を感じることが多かった砂漠のような心に、神の愛が流れ込み、砂を噛むような想いで生きていたことが嘘のようになり、どんなことが起きても、嘆き悲しむことはなくなりました。
この世には、時々、愛に溢れた人を見ることがありますが、それは、その人を通して、神の愛が現れているからだということが、わかるようになりました。
阿部さんに感じる愛も、そういうことだと思っています。
私たちは、自分がやっていると思っていますが、そんな自分はいないのです。
誰でも、神の現れですが、その現れ方は、様々です。
ハートが大きく開いている人は、そのハートから、神の愛がこの世に放出されています。
それは、人間的な現れとなって、弱肉強食の殺伐としたこの世を潤しています。
今日の記事は、阿部さんが自分自らの体験をご自分の言葉で語って下さったものだと思いますが、現象的には、エネルギー的に見ると、そういうことが起きているのだと感じます。
太陽光線のように、神の愛は、一種のエネルギーとして働いているので、単なる観念ではなく、この世を動かす力(シャクティ)でもあります。
その力が働いているからこそ、この世は、この世として存在しているのです。
たとえ、それがリーラ(幻想、神の戯れ)だとしても、人間には、リーラがあることは否定できません。
この世のすべては、神の力によるものです。
その力は、愛そのものであり、有らしめる力として、あらゆるものに働いています。
自分が、完全に神に生かされている存在だと思えれば、そこに神の愛を感じることができるでしょう。
自らの力で生まれて来て、考え行動する自分はいなかったのです。
そのことを先ず認めることから、自己探求は始まることでしょう。
自己探求の中で起こる神の再発見は、個我に、言葉では言い表せない歓びを与えてくれることでしょう。
イエス・キリストが語っていた神の愛を知ることで、人生を肯定的に生きることができるようになります。
自分は、独りではなかったのです。
ただ気がつかなかっただけで、神は自分と共にいて下さったのです。
神は、真の自己として、ハートの中にいらっしゃいます。
ハートは、愛の座であり、ハートを開くと、愛が溢れますが、その愛は、自分の愛ではなく、神の愛なのです。
意図もなく見返りも求めない愛が、人間間で働き、この世を背後から動かしています。
この愛を見失ってしまうと、愛のない世界が展開して行きます。
愛を思い出した人が増えれば、愛溢れる世界が展開して行くことでしょう。
この世は、私たちの意識が創り出しているのですから、この世の在り様は、人間の意識次第であり、自分の意識が、自分が体験する世界を創り上げているのですから、自分の中に愛があれば、愛ある世界を体験することでしょう。
Posted by 神の愛と世界の現れ from M-online at 2021年05月23日 13:25
先日、夕方、畑の道をジョギングしながら近くの神社へ手を合わせてきました。何かお願いしようかと思いながらみんなの健康、村、県、国、世界のコロナが早く収束する事をお願いしました。参道には花をきれいに手入れする婦人が。軽くあいさつを交わし帰って来ましたがこんな日常に「愛」を感じてます。あぁ生かされて、幸せだなぁと。
Posted by 尚太郎 at 2021年05月23日 13:34
>>自分はない、というのは禅の決め台詞ですが、

自分がないというのは禅だけでなく仏教全般の基本ですよね。仏教は無我にてそうろうって。それが現世利益やあの世志向になっていった。。
阿部さんが面白いのは仏教語をあんまり使わずに仏教よりもっと仏教を語るところと心得ております。
Posted by 割り込み at 2021年05月23日 13:44
>むしろ、誰かを幸せにしてあげようとか、誰かの役に立とうとか、そんな意図が全く消えた状態です。


ただ「ありのまま」でいること。

これ以上の誠実さはありません。

ゼロ?のような感じでしょうか・・。
あべさんこんにちわ。
今日の北海道は雨のち曇り、ストーブをたくほど涼しいです。
今日はペンテコステのオンライン礼拝で聖霊について学びました。

>まずは自分をごまかしていることを潔く認めること。

誰もが同じだと思えば勇気も出ます。

聖書によりますと天から聖霊が下るとき、すべての不自由から解放されます。
まことの平安。数千年前の今日、失意のただなかで祈るイエスの弟子たちの集団におこった奇跡を記念する礼拝です。キリスト教会の始まりの日。

奇跡のコースは受講していませんが、皆さんが目指す先は同じだと思います。夜の瞑想会に参加します。
Posted by さつき姫 at 2021年05月23日 13:58
本日も素晴らしいブログありがとうございます。

読みながらワクワクがとまりませんでした。ただの自分さんのご経験談もわかるわかると読ませて頂きました。

このような場を作って頂いて本当あべっちありがとう❤️
Posted by まゆ at 2021年05月23日 14:08
ファンタジックから 荒涼たる砂漠を独り歩く 比類無き喜び。
まさに、そんな感じです。いつもシックリ来る お話しをありがとうございます♪
Posted by ひろみぃ at 2021年05月23日 14:13
今日のブログの言葉、身につまされました。
宝物の言葉です。感動しました。
本当にそのとおりなのに自分では思いつきませんでした。

今2006年のブログから読んでいます。
阿部さんのブログを読んでいるとどこにも出かけなくても心が満たされて、夜「ああいい一日だった」って思えます。

本当にありがとうございます!

サンガもイベントが散りばめられていて楽しみです♪
Posted by 江本真名美 at 2021年05月23日 15:45
『ささやかな土産を買ってきたので、今日の瞑想会で抽選で3名様にプレゼントします。』



え~なに欲しい~。欲しい欲しい欲しい~ヾ(≧∀≦*)ノ〃

これにつられて瞑想会参加しちゃおうって思っちゃいます(* ̄∇ ̄*)


ちょっと!


記事の他のところでめっちゃ感動もしたのよ(笑)

それなのに最後欲しい欲しい~でした~(笑)
Posted by すずめ at 2021年05月23日 18:39
模察と申します。

生まれたての赤ん坊になり切れば、愛とは与えられっぱなしであることだと感覚的に理解できるのではないかと思います。

何も知らないまま、宇宙(全体)から身体を与えられて産まれる。
産まれたばかりで何も知らず、何もせずに湯船で綺麗に身体を洗われ、寒くないようにと服を着させられ、お乳を与えられる。
与えてくれるのは、宇宙の一部である親と称される存在なのだが、産まれたばかりで宇宙(全体)を対象として捉えることができないから、親だとも認識できない。
(産まれたての赤ん坊は、宇宙(全体)と一体で分離感はないからです)

こうして与えられっぱなしのまま成長するにつれ、物を対象として認識しはじめると同時に自我が芽生え(分離感)、言葉を覚える。
言葉とは二元で、分離感を感じてる時に現れる現象に過ぎないけれども、言葉をたくさん覚えると、与えられるものに好き嫌いが生じはじめ、疑問や拒否や迷うことなどを覚えはじめる。
こうして開きっぱなしだった心が徐々に閉じ始める。
疑問や拒否や迷いまみれになると、どんどん苦しくなり、やがて愛が何であるかが分からなくなる。

しかし、そうした苦しみも心の幻想に過ぎないのです。
身体が大人になった今でも、全体(宇宙)から全てを与えられっぱなしで、身体は全てを受けっぱなしのまま開けっ放しのまま。産まれたときと何ら変わりはないのです。

思考・考えをすっかり手放して、いまここのあるがままにあれば、愛でいっぱいの産まれたばかりの頃と、今は何も変らないことに気付けます。
思い出すと表現しても良いのかもしれませんが。
Posted by 模察模察 at 2021年05月23日 19:07
すごーい、読み込みたい内容の記事です。


自己欺瞞、自分をごまかすことをやめて、自分に正直になること。


『開くことこそが愛

愛の本質は、どれだけ自分に正直になるか


自分に開いたとき、それは全体に開いたことになり、そこに流れるのが愛です。』


美しいと思いつつ、

『まずは自分をごまかしていることを潔く認めること。

誰もが同じだと思えば勇気も出ます。


自己欺瞞は想像以上に手ごわいですが、真実の道を歩むならそこと取り組むしかありません。』


ここが浮き彫りになってくる感じです。
Posted by すずめ at 2021年05月23日 19:39
自分にセンスが無くても、素敵なファッションを見れば真似ができるように「愛の形」を知ると 真似ができます。
「愛の形」は完全無欠で 足す必要も削る必要もないから、何一つ変えることなく、その通り真似るだけ。
あなたが風なら風になる。あなたが雨なら雨になる。
いつも あるがままに 在るから。。在りたいから。。どうか。。。
Posted by まるまる at 2021年05月23日 20:43
「あるがまま」

という言葉には

「自我=自分」

の状態で

行われる行動も

含まれるのでしょうか?

何をもって

「あるがまま」

なのでしょう?
Posted by 金玉かゆい at 2021年05月23日 20:43
>本来のスピリチュアルの道は英雄の道ではなく、荒涼たる砂漠を独りで歩くこ>とに似ています。

この一文、心に刺さりました。

日々の凡界上の営みと同じく、地道な積み重ねこそが真実にたどり着くただ一つの道と痛感します。

どこにも辿り着かないのかもしれませんが、この瞑想の習慣は続けていきたいと思います。
Posted by ナムジ at 2021年05月23日 23:42
今晩は(☆▽☆)そうだよ!!皆あるがまま=わがまま。じゃ地球は無法血帯になるな(笑)節度、調和心は必要じゃな←お前は誰だ?だって人間は我がままだから人間なんじゃね?正解なんて何処にも無いから、しかーし愛されたいに決まってるっつうの❤️愛はエネルギー源❤️生きる全て❤️クーダらねーとツーブやいてー♪ファンタジックストーリー〜♪夢をみてる今宵の月のように(ノ◕ヮ◕)ノ*.✧
Posted by ピエコ at 2021年05月24日 01:49
他人などいない、二つとない、
すべてはひとつ、などのメッセージを
阿部さんをはじめ、色々な人が
言っていますが、他人に対する感謝、
罪悪感、喜びを共有、悲しみを共有、
妬み、みたいな事は、そのひとつの中で
行われてて、一人よがりみたいな感じですか?

最近、自分がした事は自分に返ってくるなと、しみじみ思うことがありました。

あの人に、あんな事をしてしまった、
こんな事された、等々、
これって他人がいないと成立しない考え方ですけど、心の底から理解できたら
楽になるな。と思いました。

ちなみに聞いてみたいのですが、
理解した。という経験があると、
電車や街中で見掛ける人、全員が
あれも自分、あの人も自分・・・

いつもそんな感じになるのでしょうか?
Posted by せな at 2021年05月24日 14:01
電車や街中で見掛ける人、全員が
あれも自分、あの人も自分・・・

いつもそんな感じになるのでしょうか?

?自分ではないです。自分と同じ「素」を持つ方々・・・として、表面上の自我意識がほとんど気にならなくなりますよ。
私と同じように。自我なる表層の意識を信じている人達として認識されます。

あ、きれいなお姉さんには、違った見方が訪れます(笑)
Posted by AQU@ at 2021年05月24日 18:59
せな様、

阿部さんでなくて、若輩者の私で申し訳ないのですが、ちょっと気になったので、私の思うことを書いてみます。

>他人などいない、二つとない、
すべてはひとつ、などのメッセージを
阿部さんをはじめ、色々な人が
言っていますが、他人に対する感謝、
罪悪感、喜びを共有、悲しみを共有、
妬み、みたいな事は、そのひとつの中で
行われてて、

ここまでは、その通りだと思います。

>一人よがりみたいな感じですか?

ここまで言っちゃうと、ちょっと頭の中の言葉で考え過ぎというか、突き詰めすぎのような気がします(^-^;
独り善がりというのは、人間の考え方というか、エゴの領域に入ってくるのかなぁと思います。

また、せなさんの2つ目の質問に関してですが、自分=他人というよりは、私は自分≒他人という理解でいます。
それを多くの方は自分≠他人と思ってしまうから、苦しいのだと。

根源的なものは一緒、欲求や感情も一緒、生かされている大元は一緒、肉体をとっぱらえば共に学ぶただの魂という意味では一緒ですが、それぞれの魂が学ぶべき、体験すべき事柄は当然違って来ると思います。
みんな地球では演者であって、その役割はみんな違いますが、向かうところはひとつと言えばいいでしょうか…
もっと簡単に言ってしまえば、みんな同じ人間だ♪ で良いと思います。
どうしても嫌いな人を、=自分だなんて思わなくていいし、思う必要もないのです。その人を、その人として認めること(ま、同じ人間だもんね♪)ぐらいでちょうど良いと思います。

せなさんはとても真面目な方なのだと思います。
決して嫌味ではないですよ。本心でそう思います。
言葉に振り回される必要はないですよ。言葉で説明できる範疇にないことを、みなさん半ば無理やり言葉で表現しているだけだと思います。
それぞれが、それぞれの体験を自分なりの言葉で表現しているだけです。ですので「?」と自分の魂が思うことを、言葉で理解しようとしなくて良いと思います。
もちろん、だからこそこうして質問されているのだとは思いますが^^;

せなさんが欲するものも全て足元に在りますので、言葉に惑わされず、言葉に使われず、宗教もスピリチュアルも道具、手段みたいなものですから、もっと肩の力を抜いて、楽に生きてみませんか?
上に書いてらっしゃった感謝、罪悪感、喜び、悲しみ、すべての感情をめいっぱい人間らしく楽しんでいれば、それで良いと思いますよ。

※個人の見解です(笑)
Posted by キビタキ at 2021年05月25日 11:02
あー 気楽になったぁ
ありがとうございます。
Posted by ひろ at 2021年05月26日 02:28
コメントに対するお返事
ありがとうございます。


そうなんです。
頭の中の言葉で考えすぎ、
その通りだと思います。


しかも、一人よがりなんて、
いつかの阿部さんの講演会で
聞いた事が頭に残ってるだけ
だとコメントした後に思いました。


前に瞑想を朝晩、それぞれ一時間くらい
づつやってて、思考に気づいてるぞー!
って感じでやってたのですが
いつからかパタッと止めてました。


前にネットか本で読んだか聞いた
内容で、悟りなんてものは、
人としてやることやり尽くした後の
飽和状態のあとに訪れるもの
っていうメッセージに触れて、
あーそうかも知れないなと、
自分はやり尽くして無いなと
妙に納得してました。


池田晶子さんという人が本を
出してるって聞いて、
読んでみたのですが
難しくてページか全く進まない状態で・・あの論法というか、何というか
「そう、だから私なんてものは無いじゃないか!」
っていう感じがチンプンカンプンで。


どこをどう辿ったらそうなるの?
とは思うのですが、世の中の哲学者って
自発的に「私を私というのは誰なんだ」っていう感じで発狂するくらい突き詰めて、わかるという道筋を踏んでる人もいて、探求とはこういう事なんだろかと、びっくりしてました。
自分には、そこまでの自発的な
探求心は無かったので。

そんな感じで、スピリチュアルって
なんだっけ~って生活していたの
ですけど、最近色々考えることがあって
自分のした事は返ってくる。みたいな。


自分を責めてる人は、他人を責めるし、
自分を許せる人は他人を許せるし、
自分の体験として、前にどっかで聞いたようなことは本当だなとしみじみ
思います。


なんていうか、自分にすることは
は他人にすることと同じだなって
最近初めて自発的に思ったんです。



長々とすみません。



最近は職場の人と、よく口ゲンカ
になって、相手が憎いとか、
引きづるような感じでも無いですけど。


そこでふと思ったのが
瞑想してた頃はこんな感じじゃ
無かったなって思って。

スピが逃げの口実、というか
今ならはっきりわかるのですが
内にこもってたんです私。
精神的に。


引きこもりとか、
コミュ障っていうわけでも
無いんですが、20数年も
社会人というか、働いてれば
色々な対処の仕方も身に付きますが、
最近は前よりオープンになったなと。
前は頭の中で文句いうだけで、
ストレス溜めてたなって。


なんていうか、私に必要だったのは
スピリチュアルとかでなく、
当たり前の生活?毎日?


最近のコメント欄でありましたけど、「愛なんです」っていうのをみると、
よくわからないし。
前なら耳障りのいい言葉で納得した気になってたのですが、最近は色々あって
瞑想とか思考に気づくとか
身に付いてないなーとか感じてて。


頭でっかち気質なんで、
自分で気付かないと、意味無いなとも
思うのですが、自分とか他人とか
すべてはひとつとか。


知ってても知らなくても、
毎日の生活は続いてくので
淡々と、もうちょっと軽く
生きていきたいと思います。


淡々ってのもどっかで
聞いたような・・・

長々とすみません、
よくわからない文章で。


書いてたらスッキリしました。
ありがとうございました。
Posted by せな at 2021年05月26日 22:36
>知ってても知らなくても、毎日の生活は続いてくので

・・・私も、真理知識と論理については相当にあたまでっかちです(笑)

ですが最近になり、あなたのように日々の生活にあっては、愛も、ひとつも、私を私と思うのは誰か?・・・などのスピ定番定理が役に立ってないと気づいたひとりです。

論理智で、真理を悟ったような人は意外と多いのですが、日々の心地良さに生き始める人は少ないと思います。
あなたからは、そこへの移行を感じますので、後押しさせて頂きました。

書いてスッキリするのは、真理智だからです。心にとっての正解ですよ(笑)
Posted by AQU@ at 2021年05月27日 10:43
本当にそうですね。私もAQU様に同じです。
阿部さんのブログに限らず、言葉を養分にできればそれは素晴らしいですが、咀嚼できなければもう食べなくてもいいし、とりあえずよけておいて、またあとで挑戦でもいいと思います。逆に、今の自分には必要としていない養分だとも言えますね。結婚は縁とタイミングとよく言いますけど、結婚に限らず、悟りとの出会いも全てがタイミングだと思います。
そのとき、知識として知っていたか知らなかったかで気持ちが違うのだろうなぁと思うし、私も全然、口で言うだけで実感できないことの方が余程多いです。

私は、この世に在るすべてのものに感謝の気持ちを忘れないようにだけはしています。口に入る植物や動物から、物質的なもの、見えないものまで...。あとは、その日その時のことだけ考えるようにしています。
たったこれだけでも、実践するのは私にとって非常に難しいのですが(--;)
なので、すべてはひとつ~などはいったん忘れて、一緒に軽く生きていきましょ!
Posted by キビタキ at 2021年05月27日 20:31
>開くことこそが愛です。

少し前に、エゴって吸引力みたいなものかもしれないと感じました。
己の存在のためにエネルギーを欲しがる。

でも、自然界にあるもの、全ては相互に関わっていて、単独に存在するものはないと知れば、それも当然の理なんですよね。
生きるために必要ですものね。空気も吸わず、一切の食べ物も食べずに生きている人はいませんよね…。(もちろん、必要なものを受け取ったら、手放す…吐き出す・排出することも必要で、そうやってエネルギーは循環している。
こういうところからも、全ては一つだと洞察することも可能ですね。)

以前、どこかで愛は自己不在の時だけ在る、なんて聞いて、当時意味不明だったんですけれど、なるほど、愛は分け隔てをしないですものね。開いていると言えばそうですね。

>開いた結果、周囲からどんな反応が返ってこようと、それによって影響されることもありません。

そんな愛が、誰かから得るものはなく、既にあり、自分の中にあったと知れば、誰かから得ようとする必要性もないですよね。

>なぜなら、相手が相手でいることも認めているからです。

愛に目覚めている?人なら、どんな人でもありのままに認められるでしょうし、

知的に理解する人なら、この人はこの生き方なのだと、やはりありのままに認めることができますね。

体感なくても、理解することはできますね。そういう意味では、言葉や文字で伝えることにも意義がありますね。

その時(その場で)は、意味がわからなくても、ある時、
「これのことか!」と、ピタッと一致する時が来て、腑に落ちることもあるかもしれませんよね。
(私は、度々ありました。阿部さんのブログも、そうです。)

自分の自由を認めることができれば、相手の自由も認められますね^ ^
Posted by ロータス at 2021年05月28日 19:11
キビタキさん

>阿部さんのブログに限らず、言葉を養分にできればそれは素晴らしいですが、咀嚼できなければもう食べなくてもいいし、とりあえずよけておいて、またあとで挑戦でもいいと思います。逆に、今の自分には必要としていない養分だとも言えますね。

まさに、そうですよね!
完全同意です^ ^


必要のない知識は、当人にとって負担になるというようなことを聞いたことがあります。
(特に、スピ系・悟り系で言えることだなぁと思いました。もちろん、スピ系・悟り系に限られたことではないのですが(汗)
それでも、気になるなら…それは、その人にとって必要なことなのでしょうね。
だから、その時は、わからなくても、きっと、後でわかるようになる。
私は、そうでした^ ^)
Posted by ロータス at 2021年05月28日 19:15
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