2013年01月10日

内在している目覚め

一昨日書いた、

”あなたが内側で感じている「自分は存在している」という感覚は、あらゆる人、あらゆる生命体が内側で感じているそれと同じものなのです。”

ということに対して、neutrinoさんが、

その内的感覚に近いものを、日頃、私達は、無意識の内に感じているのではないかと思うのです。

と書いてくれました。



そのとおりです。

ここは一番伝えたいポイントです。


僕はよく、映画のスクリーンの話をしますね。

映画を見ていると、その内容に引き込まれて、映像の背景にあるスクリーンの存在を忘れてしまうという話です。


僕たちが普段意識している、自分や、自分を取り巻くすべての人や、起きている出来事や、人生と呼んでいる物語は、スクリーンに映された映画そのものです。

そして実体は何かと言えば、映された映像ではなく、それを映しているスクリーンだけです。


僕たちは「スクリーン」なのです。


どんな映像が映っていようと、スクリーンはいっさい影響されていません。

ピュアなまま、いまここに在り続けています。

僕たちは誰一人例外なく、いまここに存在する目覚めた純粋意識であり、それ以外のすべては幻想です。


このことを体感することを、「目覚め」だとか、「さとり」だとか言いますが、これらの言葉は大げさで、周囲からの反感も買いやすいので、本当は使いたくないのです。

でも他に適当な言葉がないので使用しています。

せめて、「目覚め」も「さとり」も、どこかの偉い人に訪れる現象ではなく、ご飯を食べるのと同じくらい当り前なことだということを、くどく伝えておきたいと思います。


さて、スクリーンのことですが、不思議なことにこのスクリーンは一枚しかないのに、それぞれの人が、個別の映像を映し出しているのです。

ここが宇宙の神秘であり、僕たちが惑わされてしまう要因です。


neutrinoさんが言うように、僕たちはいつも無意識にこのスクリーンを感じています。

もちろんいまも感じています

無意識に、あたりまえのように感じているのです。


だから、スクリーンの存在に気づいた時(さとりの瞬間)に、人はこう思うのです。


「な~んだ、これか」


目覚めとは、さとりとは、この世で最も当り前な体験です。


内在している目覚め


人類の歴史は、こんなに単純かつ当たり前のことを、大げさに扱い、権威づけてきてしまいました。

そのことが、僕たちの目覚めを遠ざけています。

自分にはまだその資格がないと思ってしまうのです。


資格がないどころか、あなたはすでに「それ」を手にしていて、いままでもこれからも、無くすことはあり得ません。



だから結局はこの言葉になってしまいます。


「心配ないよ」



「大丈夫だから」



ここまでの話は何度も繰り返し伝えてきましたよね。

明日は、もう少し踏み込んでみます。








内在している目覚め   内在している目覚め



Posted by Toshiro Abe at 11:20│Comments(99)
この記事へのコメント
くどいくらい毎日言っていただいて、トレーニングしてます!
明日もお願いします!
Posted by ともとも at 2013年01月10日 11:27
その感覚は無意識のなかでしか感じとれないものなのでしょうか。
意識のあるときには感じ得ないのでしょうか。

それと、普段自分がリアルにいきいきと感じているこの世界が幻想ということなのでしょうか。
それは人間の脳がそのように見せているのでしょうか。
Posted by たま at 2013年01月10日 11:49
ブログの更新をメールで通知いただけるようになり,毎回読めるようになりました。ありがとうございます。

明日も楽しみにしています。
Posted by けんけん at 2013年01月10日 11:53
明日もお願いします!
Posted by みか月 at 2013年01月10日 12:08
こんにちは。
いつもブログを拝見させていただいています。

私にはいつも虚しさがあります。
自分が不安定で、完全ではないというような欠乏感がいつもあります。

現実的に言えば伴侶と呼べるような女性がいないことがその欠乏感を感じる理由のようです。

このような自分は不完全で、自分には重要なものが欠けているという欠乏感が「目覚め」という低確率な意識現象が起きればなくなってくれるのではないかと僅かな期待を抱いています。

この欠乏感と虚しさが早くなくなってくれることをただ願う毎日です。
Posted by 求道者リュウ at 2013年01月10日 12:09
たまさんへ

この感覚は意識的に感じることが可能です。

たとえば僕たちは、無意識に空気を吸っていますが、意識的に吸うことも可能です。

でもそれをするには、自分が空気を吸っていたことに気づかなければいけません。

僕たちは生まれた時から欠かさず空気と共にあったので、空気の存在を忘れています。

それと似たことが、存在のレベルで起きているのです。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 12:10
わー、ありがとうございます!
あしたも楽しみです
Posted by さと at 2013年01月10日 12:47
こんにちわ

スクリーン自体であった自分を発見する。
それが目覚めであるという阿部さんの伝えたいことについてですが、
これだけだと片手落ちなのではないか?と思い質問させて頂きます。

確かに、肉体レベルでの慣れ親しんだ自分の奥には、その現実を映し出していた器である自分。
そしてさらにはそれを生み出す原因となっていた因子エネルギーなどが存在しています。

しかしながら、本来の自分というのはそれら全ての次元を含めたすべてであり、
それはエネルギーの流れです。

スクリーンである意識も肉体レベルの意識も、いわば並列レベルである意識であって、
そのふたつはまた同時に密接に関連付けがなされている一連のエネルギーの流れでもあります。

つまり、大丈夫なんだ。スクリーンだったんだという認識は、意識を移行しただけであって、
何も解決に至っていない、逃げであると思うのです。

肉体、スクリーンはひとつのエネルギーの流れであり、さらにはその奥にも集合的な流れがあり、
人類の流れ、惑星の流れと、エネルギーは流れ続けています。
意識を広げれば、拡げるほと広範囲のエネルギーの流れを感じることはできますが、
だからといって、目の前の現実が夢や幻なわけではなく、しっかりとした事実・現実であることには
変わりはないですよね。

本来の目覚め・覚醒というのはその奥の流れを気づくことではなく、奥からの流れから現れた目の前の自分に割り振られた現実。その現実に対して地道に真摯に生きていく。
そういうことなのではないでしょうか?

遊びとしてそのスクリーンである意識に気づくのはいいとしても、それは本質の道ではないような気がするのですが、いかがでしょうか??
Posted by ash at 2013年01月10日 13:04
そう思います。

古来「もんのすごい修行」とか「どえらい知識」を積み上げたあとに至る境地だから、と、すごく勿体つけて、そんじょそこらの人間には到りえない境地だよ、と作り上げられたイメージがるから、自分が感じている「それ」が、それを指すとは、思わないんですよね。

でも、阿部さんがつねづね書いておられることを、ものすごく素直に読んだら、最初からそのまんまのことを、繰り返し書いておられる、でしょう?

すごくそのまんまを書かれていると思うけど、「ああでないこうでない」と百家争鳴しながら、「それ」をまた、別々の角度から見て語りあうのも、きっと私たち人間の自我として楽しみなんですね。

「まんまのまっただなか」にいただけでは、「ああ、わかった!」という楽しみがないから、そういうふうにしたがる仕組みなのかなあ。

それを上手に開示してくださった阿部さんに、感謝申し上げます。
Posted by トパーズ at 2013年01月10日 13:27
阿部さんへ

今日のお話とても良かったです。

あした続きお願いしますね。
Posted by yu-ri at 2013年01月10日 13:28
さて、スクリーンのことですが、
不思議なことにこのスクリーンは一枚しかないのに、
それぞれの人が、個別の映像を映し出しているのです。


この事をよく考えちゃいます、昨日も、さっきも(笑)
いまいち世界観がつかめないというか
自分が空間(意識)そのモノだというのは感じたんですが

自分が映画の主人公だと、自分以外の人は脇役なんだけれど
その脇役の人から見れば、自分は脇役であり
そうすると、登場人物全てが主役であるのかとか色々考えちゃいます
スピンオフドラマみたいなのが入り交じっているのか?なんて

考えるよりも 感じるんだ!!

ってのもわかっちゃいるけど
まだ思考するのを楽しんでるみたいです
明日も楽しみにしています。
Posted by kenji at 2013年01月10日 13:34
阿部さんこんにちは(^_^)

今日、仕事で大寝坊してしまい、職場には車がエンストしたということで伝えました。

自分がリーダー格なので、こういう時にとても罪悪感を感じてしまいます。

こんな時の対処法を教えてください。

それとも、これのスクリーンに映し出される映像だから、大丈夫だよとあっけらかんとしてればいいのでしょうか?

ご指導よろしくお願いしますm(_ _)m
Posted by イーファン at 2013年01月10日 13:42
スクリーンに映るドラマは人間の数だけあって、どのドラマも主役はもちろん「見ている本人」で その中に 敵と味方という配役や、仏性という存在がある。
でも、はっと気付けば、皆共演者で
全部自分が設定した と 気付きます。
世界が私そのものだったこと 仏もその中にいるということ
何で 満たしても良い ということ
身近な人が同じ物質(スクリーン)を見ていても 全然違うドラマを見ていることに気付きますよね、解釈や受け止め方が全然違う。
似たストーリーを見ている者同士が共感しやすい。
マンダラで言うとどの辺にいるのかな?

あ( ̄▽ ̄;)? まだ枠の外?(^_^;

ああ、マンダラじゃなくて、六道輪廻図の方かもね(笑)
Posted by 藍 at 2013年01月10日 13:57
ashさんへ

>スクリーンである意識も肉体レベルの意識も、いわば並列レベルである意識であって、そのふたつはまた同時に密接に関連付けがなされている一連のエネルギーの流れでもあります。


いつも感じるのは、文字情報の交換による相互理解の難しさです。

さてその上で、このような認識は、あなたが言う「全ての次元を含めたすべて」からのものでしょうか。

それとも、様々な可能性を総合的に吟味された中での認識でしょうか。


もし前者であれば、何もお話することはありません。

僕たちは表現が違うだけで、完全に一致しているからです。


もし後者であれば、お互いにロジックの展開となり、不毛な論争になってしまうので、お話する余地がありません。


>つまり、大丈夫なんだ。スクリーンだったんだという認識は、意識を移行しただけであって、何も解決に至っていない、逃げであると思うのです。


これに関して言えば、解決すべきものもなく、逃げる対象も、逃げる主体も存在していません。

まことに一方的なブログではありますが、共感できる人のために書いているので、違和感を持たれた場合はスルーしてください。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 14:02
こんにちは!

結局は、皆、全てが「在る」状態なんですよね^^
日常は、スクリーンを見てアタフタしている感じ。。
最近、そのことがよく分かり、実感もし、
本当に「大丈夫なんだ」と思うようになりました(*^-^)ニコ
Posted by あき at 2013年01月10日 14:07
阿部さん、いつもいつも、わかりやすい表現で書いてくれて、ありがとうございます。

同じような感覚をいろんな人が表現してくれるけれど、やっぱり小難しい場合が多いような気がします。

だから、偉そうに聞こえてしまうのかもしれません。

だけど、このブログは、
「ただの一人の人(おっさんといってもよろしいでしょうか!?)が、友達に、感じたことを書いてまーす」
というスタンスなので、みんながスラッと読めるのです。

明日も楽しみにしています。
Posted by とらこ at 2013年01月10日 14:09
「僕たちは「スクリーン」なのです。」


まさに僕たちは











                              」

というスクリーンですよね。


スクリーンである自分に気づくためには

スクリーンの中で展開されているダイナミックな現象に対する執着を手放していき

スクリーンである自分自身に意識を向け続けることですね^^
Posted by 大空 at 2013年01月10日 14:16
阿部さんのブログを知って一ヶ月。
殆どの記事を読まさせて頂きました。
なにか最近突然チャンネルがあった感じです。
世界がキラキラ輝いて、毎日ワクワクが止まりません。
こういう感覚や感情が自分の人生に訪れるとは思ってもみませんでした。
私以外でも阿部さんのブログで物の見方がガラリと変化した方いらっしゃるのではないでしょうか?
後どいうい訳か異性に爆発的にモテるように…f^_^;)
ただ、身近な人間は拒否反応示してきますね。
なんか変わっちゃったね、と言われます。とりとめもない文章で失礼いたしました。
明日も楽しみにしています!
Posted by PAO at 2013年01月10日 14:33
 「みんながブッダ」昨日ようやく本屋で巡り会って(?)読みました。
 後半の「いまここ禅道場」はgood. 繰り返しパラパラめくっております。
 それにしてもCDの対談・・・(自分で)間を空けずにしゃべっておきながら、向さんに「相槌ばかり打ってないで、あなたも何か話しなさいよ」とは(笑)

::::::::

 スクリーンの例えは、水は濡れているのか濡れていないのか、みたいな話でしょうか?
 
 
Posted by ∑。)))K∑。)))K at 2013年01月10日 14:37
この無意識ってやつがやっかいですね。

>この感覚は意識的に感じることが可能です。

お~~~~っ!!そうかっ!!

自分にも出来るんだからみんな出来るはず!!

素敵な気付きでした。ありがとうございます。
Posted by ほこぴー at 2013年01月10日 14:37
み~んなが主役!みんなのコメント読んでて突然やってきた

この一言(笑)  そっかぁ!!!

脇役なんていないんですよね。

阿部さんも主役私も主役み~んなも主役!!
Posted by mii at 2013年01月10日 14:40
阿部 さん


一昨日のコメントを取り上げて下さり、ありがとうございます。
阿部さんのスクリーンの喩えは、分かり易いですね。
私もそこからイメージを膨らませてみました。
(長文です。申し訳ありません)

私のイメージするスクリーンは、映画を映しだすスクリーンとは少し違っていて
スクリーン自体が、躍動感(エネルギー)に溢れ、波立っています。

その躍動する波(波動)そのものが、この世(有限界)なのだと思います。
(なので、個別の映像という概念ではなく、どちらかと言うと、大いなるひとつの映像(という表現を使うなら)があるのみではないかと考えます。
しかし、三次元に属する人間の眼球を通して見ると、70億の違った三次元立体世界が存在しているかのように見え、
また、その眼球もエゴ(自我)によりフィルターがかかっているので、
大いなるひとつの映像、そのままを見ることはありません)

波は、その振幅の大きさにより、目に見えない世界(精神界)から目に見える世界(物質界)へと変容します。
私達の三次元は、この波動の最大値をとっていると思われます。

ですが、どんなに形を変えても、この有限界は、元をただせば、本来は、一つのスクリーン(空)であることには変わりありません。

問題は、私達(に限らず、全てのものは)この躍動するスクリーン(空)である訳ですが、
いかにして、これを肉体を持っている間に(これは、自意識がある間にという意味になります)
認識、自覚するのか、ということだと思います。

例えばの話で恐縮ですが、
パンの材料である小麦粉。
パンからは、小麦を連想することは難しいですが、
私達は、知識でわかっているので、
小麦が、小麦粉になり、その小麦粉を使って
パンが出来ていると認識できます。
でも、その知識がない子供たちは、パンから
原料である小麦を連想することは出来ません。
(スミマセン。卑近な例えで^^;)

同じように、私達は、もともとは、躍動するスクリーン(空)であり、
その躍動する波の大きさの違いで数々の次元が生まれ、
私達が属するこの三次元は、その一つである、ということだと思います。
(数々の次元というのは正確ではありません。
 次元は、人間が生み出した概念だと考えます。)

それで、話はまたパンの話に戻りますが
(スミマセン、お腹がすいているのではありません^^;)
パンの原料は、小麦だと知っていても、
小麦そのものを知らない、見たことがないということがあると思います。

私達の空(躍動するスクリーン)に対する認識もこれと同じで、
覚醒したる人々は、空を悟り体験を通して知っていますが、
そうでない人々は、私達の源(ソース)は、躍動するスクリーン(空)だと知っていても、
実際には、悟り体験がないために、この躍動するスクリーン(空)自体を知らない、ということが起きています。

ただ、パンと小麦の関係と違っている所は、
この両者の関係を認識しているのは、第三者の私ですが、
空と私達の関係をこれに置き換えると、
パンは小麦であることを覚えているか、自覚しているか、ということだと思います。
パンには不可能でも、私達、人間には、脳が与えられていますから、
この脳が持つ認識、意識を通して、自分の源(ソース)を自覚することは可能と考えます。

そして、まずは、この源(ソース)への認識が第一歩、始まりである、と、
ボブさんがおっしゃっている通り、
(正確には、まずは、覚醒すること。そこから新しい人生が始まる)
この認識が、万人に共通のものとなって初めて、新しい宇宙の人生(?)が始まるのではないか、と思うのです。

それでは、どうやって、この認識に至るか、が大問題である訳ですが、
古今東西、悟りを開いたと言われる人々のように(阿部さんも含まれます)、徹底した修行によらなければ、その認識を得ることが出来ないというのでは、
万人に共通の認識となるのは難しい、と言えると思います。

そこで、少なくとも、パンは小麦からできている、というような定理(?)の如く、
私達は躍動するスクリーン(空)である、という認識を、私達が共通認識として持つことができれば、それは、小さな一歩、であると考えます。
(阿部さんのブログの読者なら当たり前のこのことが、世間一般では、当たり前として通らない、という現実があります)

パンは、どんなことが起ころうと、やはり元をただせば小麦であり、小麦でなくなることは、在り得ません。
そして、同じく、私達は、躍動するスクリーン(空)そのものなのですから、
どんな姿になっても、元をただせば、躍動するスクリーン(空)であることに変わりなく、
また、そのことを完全に忘れてしまった訳ではなく、
私達は意識(有意識、無意識を問わず)は、そのことをどこかで覚えている、意識しているのではないか、と思うのです。
(何故なら、私達の意識は、肉体に完全に閉じ込められている訳ではなく、
自由自在に、意識の世界を飛遊しているからです)

つまり、私達は、その躍動するスクリーン(空)そのものなので、
どうしたってソレからは離れようがないのです。

波動の振幅が大きくなった結果、躍動するスクリーン(空)そのものの姿からは、遠ざかることになりましたが、
瞑想などを通して、(無)意識の波にアクセス出来るようになると、
一瞬にして躍動するスクリーン(空)に通じる(思い出す)ことが出来るのは、
(無)意識の領域では(潜在意識、と言い換えられるかもしれません)、
源(ソース)である空である本来の自分の姿を忘れていない証である、と言えるのではないかと思います。

ここまで、一昨日のコメントの続きを書いてみました。
書いたことは、あくまで、実証することのできない世界についての考察なので、異論、反論あるかと思います。
(特に目に見える世界のみに目を向けている人々には、理解し難い世界かと思います)

阿部さんが常日頃言われていること、書かれていることを、言葉を換えて書いただけのような気もしますが^^;
お許しを頂けるようでしたら、気付いたことがありましたら、また、いつか続きを書かせて頂きます。

長文、失礼いたしました。
読んで頂き、ありがとうございましたm(_ _)m

(本当に分かち合いたい情報は、ここからで、
 どのようにしてこの躍動するスクリーン(空)を肉体レベルで認識、意識、感じることができるか、だと思いますが、
 これは、かなりの難問ですので、もう少し時間をかけて、言いたいことが明確になったら、書かせて頂きます)
Posted by neutrino at 2013年01月10日 15:29
よーくわかった! も 納得いかない も
自分の言語認識と世界観の中でとらえたために起こるもので、
どちらも同じくらい あやうい と 感じてしまいます。

私は 体感していないことは 「よくわかりました」とは言えない・・・

体感で「わかった!」となるよりほかに 「わかった」はないのだろうなー

考えすぎると エゴの罠におちてしまうので、
とにかくひたすら考えないで体感する練習が必要なんでしょうね。
Posted by アラヤクリ at 2013年01月10日 15:35
阿部さん

ご返信ありがとうございます。

>いつも感じるのは、文字情報の交換による相互理解の難しさです。

難しいですね。私の「解決」という言葉の使い方が悪かったです。

解決すべきはないという見方は、体の感覚を離れ解き放たれた空の中に溶け込んだ意識の見解ですよね?
そして、その意味では解決すべき問題はないという言葉には同意できます。

そしてそこにとどまりさらに意識を広げるとあらゆる世界が作り出されるエネルギーの流れがありますよね。

そして、そのエネルギーの顕現された現象として、目の前の現実や肉体意識があります。

つまりは空も現実の現象も一つのつながった流れですよね。

なので、「夢なんだ」と現実を表現してしまうと、全ての否定に通じ、自分自身(すべての次元のエネルギーを感じている存在の意味です)を放棄するような誘導にも捉えられかねない誤解を生むのではないか?

現象も空の感覚も同じ流れのものであり、真摯に向き合う必要があるという意見は一致しているのかな?と思います。

ただ、その現象を夢・幻なんだよというミスリードがあるんじゃないかな?とおもい、書き込みさせていただきました。
それは、マインドに自分を明け渡してしまい、依存へと誘導させてしまう危険性もあるなぁ。と感じたからです。

特に議論をしたいわけではないので、お気を悪くされたら申し訳ございませんでした。
Posted by ash at 2013年01月10日 15:35
ashさんへ

きっと実際に会ってお話すれば、すぐに済んでしまうのでしょうね。


あなたは、文章の危うさを指摘してくれたのだと思います。

あらゆる面に配慮しようすると、文章がまどろこっしくなってしまい、難しさを抱えながらのブログ生活です。


あなたからまっすぐな姿勢を感じたのでレスさせていただきました。

ありがとうございました。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 15:54
いつもありがとうございます。
Posted by ほったん at 2013年01月10日 15:57
ashさんが書いておられる
「誘導にも捉えられかねない誤解」ですが
誘導と捉えて、誤った理解をした人がいたとして
その方にはその方の「次の関門」が生じて
やっぱり、何とかかんとか真理に通じる扉に手をかける。
もしまたそこで「誤った理解」が生じたら
再び、新たな枝をとおって、真理に通じる扉を求める。

私は、人が書いたものをどう理解するどう誤解するも
その人の範疇であって
差し出した側に責任を持たせることには「?」です。

もちろん、ミスリードを意図している、
迷い道に引き込もうとして、それを書いている、と思うなら
どうかひとりひとり、まゆにつばして、審美眼を鍛えてね♡と思います。

それすらも、一人ひとり与えられた「大丈夫」な世界のことだと思う

危険性を感じるなあ、という立場は
どこにいる立場なのか、私はよくわからなくなります。
大丈夫、という意味を、読み手がどう捉えても、どう捉えられなくても
阿部さんには、その言葉を使う以外に、今適切な言葉がほかにないのでしょう。

私も、「大丈夫」という言葉の、深い意味の全てを汲み取れるわけじゃないけど
今のところ、これを言い表すのに、「大丈夫」以外に最適な語が、思い浮かびません。


でも、「あの恐れ、この恐れ」と、たくさんの恐れを握っている人が
「阿部さんがそういうんだから大丈夫」という使い方をしたら
それは、残念だけど「分かるまで、迷路が続くかもしれないけど、その先にも必ず真理はあるから、大丈夫だよ」と、言うしかない気がしています。

その語を受け取って使いこなす側次第で、どんな結果も生まれるのじゃないかと思うものですから。
これが発信する側のジレンマだろうなあと思って書きました。
Posted by トパーズ at 2013年01月10日 16:05
阿部さん、皆さんこんにちは。

最近何ですが、瞑想している時にふと、思考を客観視している存在があることに気付きました。

あれ?

なんだこれ?


って、最初は思ったんですけど、ああ〜本当の自分だと理屈抜きで感じたんです。

と、同時に自分以外のスピ系のことや瞑想など全く触れたことのない人や、ムカつくなぁ~って感じてしまう人の中にも同じようにそれが存在している、という事が瞬時に理解出来てしまったのです。

何だかとてもホッとしたような気持ちになりました。

自分から見て、嫌だなと感じる人は、私の中に嫌だな感じるものが存在しているよ、自分の中で気付いて感じてねって教えてくれているのだと思うのです。

それに気付くと、ムカつくなという思いが、ありがとうに変わるんですね(笑)。

そして、不思議なことに自分の中の嫌な部分に気付いて感じてあげると、相手から感じていた嫌な感情や感覚が無くなって行くことに気付きました。

相手は自分、とか合わせ鏡だという表現が在りますがまさにその通りだと思いました。

自分が何をしているか、ではなく、その場その場でどのような姿勢で在るか、の方が大切だというのが解りました。


でも、まあ、相変わらずに相手を無意識に批判して堂々巡りをしている思考があるんですけどね。

長い間、それを当たり前として生きて来ているので、批判ということを自然に、オートマチックに勝手にやってしまっているんだと思いました。

そういうことに気付けたことに、心から感謝です。

自分の中に存在している神様にありがとうです。
Posted by ミラクル at 2013年01月10日 16:09
さとったら全て

問題解消!っていうのも

世間に根深い誤解

なのかもしれませんね

理解の深まり、存在の変容…

ただ「それ」である…

…言葉じゃなにも!?
Posted by 風 at 2013年01月10日 16:23
あってもなくても私は私だった。

何かを得れば何かを付け足せば幸せになれると思ってきた。
それを得たそれを付け足せた。

でも得るまえの私と得たあとの私は変わらなかった。

だったら、得たらこれをしようと思ってることはいましよう。

自分を追い立てることなんてしなくていい、

自分時間でいきます。
Posted by あきたこまち at 2013年01月10日 16:50
阿部さんありがとうございます。
何度も何度も是非お願いします〜
Posted by まりこ at 2013年01月10日 17:20
現実的な悩みで大変恐縮なのですが、何か意見が聞ければと思い初めて書込みます。

デザイナーとして独立し12年たちますが最近仕事が減っていき貯金をおろさないと生活出来なくなりました。阿部さんが30歳の頃感じた様な絶望感と不安に支配され何もする気が起きません。
妻も働いていますが、中高生3人と家のローンなどある程度収入が必要な47歳です。

人間は生かされてるし、悟りやスクリーンの事、未来は存在せずいましかないと理解は出来きても、現実に希望が持てず、心配ない、大丈夫と
なかなか思えません。

今の仕事をなんとか続けるのか?就職先を探した方がいいのか?
悟れば解決するのか?いまここをどう生かしたらいいのか、迷うばかりです。
Posted by ロング at 2013年01月10日 17:34
♪そのうち なんとか なるだろう♪
Posted by yoitomake at 2013年01月10日 18:19
大変パニクってます。私の大事な人が病に倒れました。
一命は取りとめましたが予断を許しません。

深呼吸して今にあるよう心掛けていますがいろいろな考えがよぎりどうしていいかわかりません。
自我と思いっきり一体化してるのもわかっていますがどうにも落ち着きません。

私は今、彼女の為に何をしてあげられるのでしょうか?
何もしてあげられない自分に腹が立ちます。

今日の内容とズレますがどなたか助けてください。
Posted by りんご at 2013年01月10日 18:23
「目覚め」とは、既に目覚めている事に、気づくだけ!^^
Posted by 近藤 at 2013年01月10日 18:36
ロングさんへ

あなたの気持ちよくわかります。

僕も似たような思いを抱えていた時期があるからです。


少しずつ時間をかけて、いまのあなたに役立ちそうな視点からも書いてみます。

もう少し待ってください。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 18:46
>2013年01月10日 15:29
>neutrinoさん
例えばの話で恐縮ですが、
>パンの材料である小麦粉。
>パンからは、小麦を連想することは難しいですが、
>私達は、知識でわかっているので、
>小麦が、小麦粉になり、その小麦粉を使って
>パンが出来ていると認識できます。
>でも、その知識がない子供たちは、パンから
>原料である小麦を連想することは出来ません。
>(スミマセン。卑近な例えで^^;)

すごくわかりやすい例えでした身近なものだからイメージしやすくて、話していらっしゃることが頭にスーっと入ってきましたありがとうございます
Posted by Satomi at 2013年01月10日 18:49
りんごさんへ

気の利いたアドバイスはできませんが・・・。


誰もが直面することに、いまあなたは直面しています。

目をそらさずに、ありのままの状況と、ありのままの自分を見てください。

責めたり、批判したりすると、ありのままが見えなくなります。


いま自分に何が起きているのかを、じっと観察する中で、何かしらの洞察が得られるかもしれません。

あなたに起きていることすべては、あなたの意識の目覚めに必要なことだけですから。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 18:55
阿部さ〜〜〜ん

比叡山の一日目「阿雲の呼吸」で阿部さんが「徐々に悟る人もいるよね」とお話されていて、自分はそうなんじゃないかな〜とウスウス思っていたのですが

やっぱりそういうのあるみたいです。

さっき、カウンセラーと話をしていて
ひとつの事柄が胸にストンと落ちた感覚があって、そしたら「もういいよ」(おかえり、みたいな感じで)という言葉が腑に落ちて

この世の(というか自分のこれまでの人生の)仕組みが バカバカしいくらいの 虚構 で
一人相撲 で
一言で言えば「なーんだ」
であることに気づきました
そうしたら可笑しくなって可笑しくなって。笑っちゃいました。
ヒャッハーとはなってませんが、ずっと「んふふふふ♪」な気分です。

なんちゃってワンネスは6年前に体感しました。
ホンノチョッピリ愛の体験は3年前でした。
そして今回ソフトに「なーんだ」を感じて。

こんな摺り足で進むプチ悟りもあるんでしょうか。
私らしいですが。(*´∀`)
Posted by アラヤクリ at 2013年01月10日 18:56
りんごさんへ
気休めにしかなりませんが、彼女のことをひたすら「祈って」下さい。他の浮かぶ思考を無視、又は右から左へ流し、祈る今ここに集中して下さい。上手い言葉が思い当たらずすみません。
Posted by めたぼぱぱ at 2013年01月10日 19:16
阿部さん、めたぼぱぱさん
ありがとうございました。

私は傷つきたくないあまり人に心を開かなく、友達と知り合いをハッキリと分けます。
彼女と出会った時も私に近づくのは何か裏があるみたいな感じでいました。しかし彼女はずっと私の側にいてくれました。私が離れようとしても遠くで見守ってくれました。

今私は彼女の気持ちを素直に受け取れなかった事、彼女を大事にしていなかった事をとても後悔しています。自分自身に対しても同じ事が言えるような気がします。彼女は私にそれを教えてくれたのかな?
彼女が回復する事を祈り、めいいっぱいの愛を送りたいと思います。

本当に、返信ありがとうございます。
Posted by りんご at 2013年01月10日 19:29
阿部さん 早速のご返信大変感謝しています。

まさか阿部さんから直接コメントがあるとは思ってもみなかったので、何故か心がふるえて涙が止まりません。今迄殆ど泣く事がなかった僕です。

何故か救われた様な繋がっている様な気持ちがしています。
ありがとうございました。
Posted by ロング at 2013年01月10日 19:54
みんなひとつですやん(*^_^*)


特別はないんです(*^_^*)
Posted by めぐりな at 2013年01月10日 20:18
そりゃあ阿部さんだってコメントに返事書きたくなりますよ(*^_^*)


あなたが書きたくなるように(^_^)v
Posted by めぐりな at 2013年01月10日 20:20
ブログって難しいですね(*^_^*)


けれど阿部さんはブログを介して真実を伝えるという役割を与えられたんですね。


ところで 阿部さんはこのブログ(いまここ)を削除することは出来ますか(*^_^*)?


最初の頃ならいざ知らず もうこのブログには多くの意味が詰まっています。


しかし意味自体はわたし(あなた)が与えたもので ブログを削除したところで消えるものではありません。


物事を長く続ければ続けるほど 辞めることに勇気がいったりします(*^_^*)


けれど物事に程度はないし 幻想なんですよね。。。


最近思ったことです。


どうぞスルーして下さい(*^_^*)
Posted by めぐりな at 2013年01月10日 20:46
阿部さん、ありがとうございます^^
阿部さんに出会ってから、何が起きても動揺しなくなりました。

すべて、何とかなる。
なるようになる。

とても気が楽です^0^
Posted by ショコラ at 2013年01月10日 20:59
起きている出来事は、スクリーンに映された映画そのもの。
僕たちは目覚めた純粋意識。
純粋意識たちによって創られる僕の幻想???
すみません、幻想から抜け出せない僕がいます
Posted by Powanko at 2013年01月10日 21:22
アラヤクリさん

こんばんは!

「徐々に悟る人」います。ここにも一人。

私も最初のは「なんだこれかー」と、顔がニタニタしただけ。そしてそのふわふわ感もたった3時間ほどで終了。短かったなー。

おとといも、ちびっと来ました。暇だからドラマに巻き込まれてみようかな、ちゃんと自分を客観的に見ながら…。なんて考えていたら、突然、あの人もこの人も役割を演じてくれているだけで、しかも中身はみんな自分だー、ドラマなんかどこにもなかった、と理解して。そのときもふわふわしたけれど、それも、ものの3分で終了。

女の人は普段から悟りに近いところにいる人が多いから、穏やかに悟っていく人が多いかも知れない、って、以前、阿部さんも書いていますよね。
Posted by PANDA at 2013年01月10日 21:31
すべてはスクリーン。

スクリーンに発生する視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考・感情はただただ情報(波)。

その情報が発生した時に「私の」視覚・「私の」聴覚・「私の」嗅覚・「私の」味覚・「私の」触覚・「私の」思考・「私の」感情というように「私」をつけると自我として私があるように思う。

実際は、情報が発生して消えているだけで、「私」はいない。

それが腑に落ちるかどうか。
Posted by vcion at 2013年01月10日 21:55
めぐりなさんへ

このブログを削除することはありません。

ここのメッセージの多くは、阿部というチッポケな個体を超えたところからのものであり、さらには過去、現在、未来の三世諸仏(あらゆる人たち)へのものだからです。


でも辞めることはあり得ます。

それは突然起こります。

そのことに勇気も必要ありません。

辞めたくなったら辞めるし、それは明日かもしれないし、50年後かもしれません。

いままでもそうやって生きてきましたし、これからもそうです。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2013年01月10日 22:04
阿部さん

コメントありがとうございます(^_^)


そうですよね。


至極当たり前のことですよね。
Posted by めぐりな at 2013年01月10日 22:09
敏郎さん、みなさん、おこんばんは☆

体験も感情も、すべては自分を通り過ぎてゆくもの。

それを知ってから、ウソのように
生きるのがラクになりました。

人にも自分にも物にも体験にも・・
執着するものなど、何もない。

それでも思考は、頭の中をあっちらこっちらと駆け巡るけれども
常に湧き起こる感情と一緒に、ただ受け止めて
どんどん流していけばいい。

とにかく、その瞬間だけを一生懸命に生きればいい。

と、気づきました。^^
Posted by Luna at 2013年01月10日 22:16
例えば『この人はわたしのことを否定ばっかりするな。。。』と感じる人がいるとする。


それは全く自分。


『そうじゃないやん!そうじゃないやん!』とあなたは心で言うてるでしょ(*^_^*)


つぶやきです(*^_^*)
Posted by めぐりな at 2013年01月10日 22:32
あべさん、明日の記事楽しみにしてますね( ^ω^ )それとコメント書かれてる皆さん、ありがとうございます。目からウロコなことばかりです!

自分が所謂悟りを経験すると、空気や壁さえも自分だったんだという気づくと聞きました。
想像しかできませんが、そんな境地に至ると、なんというか、もうそれだけで十分な気持ちになると思います。
改めて阿部さん(の奥の自分?)の忍耐強さと内からくる愛を感じますね。
Posted by ふらっと at 2013年01月10日 23:13
あたりまえ~、あたりまえ~、あたりまえ意識~~♪

ずっと~そこに~在るのが当然~、でもない~♪

ホントに大事なものは~すでに~、持ってる~♪

あたりまえ意識~♪
Posted by かっちゃん☆ at 2013年01月10日 23:21
PANDAさん

そうなんですね、PANDAさんもゆっくり徐々に悟ったのですね。

どうしても、一気にパーーーンといくほうがインパクトがあるし、
そういう至高体験は魅力的だから、
強烈な体験を求めてしまうけど、

おいしいものを すこしずつ な、 まるで懐石料理のような悟りも
悪くないですね。

次は何が出てくるのかな~?という楽しみもありますね。
(その前にちょいと苦しい時があったりするんですが、それも慣れてくると
「今度はどんな気づきがくるのかな?」なんてちょっと期待したり・・・)

これまでの周期で行くと、三年後にまた なにかヒャッハー!!!がくるのかな?
それまで、スクリーンに映し出されたものを楽しみます。
Posted by アラヤクリ at 2013年01月10日 23:30
阿部さん
大事な家族を突然失いました
毎日、心が引き裂かれる思いです
このような身内の死も、映画としてとらえるのでしょうか…
それは、どうしても出来ません
悲しみ、という言葉が軽々しくも聞こえます

どうしようもない…
これはわかっているのです
人生における様々な辛い悲しみは、どのようにとらえたらよいのでしょうか…
Posted by さ迷い中 at 2013年01月10日 23:37
>ロングさんへ

阿部さんのお返事がくると思うので、必要ないと思いますが、
同じような仕事、同年代なので少し体験を書きます。

デザイン業界も日進月歩・・・っといっては大げさかもしれませんが、
新しい感性が次々と要求される世界だと思います。

ふと気づくと、自分の時代には考えられなかった作品が現れ、
20代30代の人たちは新鮮な感覚で、日々デザインをしています。

毎日しごと探しをしている中で、30代のある若手のデザイナーに、
自分のつくったものが「古い」と言われました。
それは、その人だけの印象かもしれませんが、
中高生の子どもがいる私は、そこでふっきれました。
仕事を変えることにしました。

デザインだけの仕事になると少なくなりますが、
デザインとレイアウト、それに事務、あるいは教育関係、
というふうにいろんな業種にまたがるような仕事は必要とされてます。
むしろ、そういう器用な仕事は人材不足です。
デザインだけの仕事は、若い人にゆずることにしました。

職をかえて1年たち、役に立たせてもらってる今の仕事を、
ありがたいと感じています。
加えて、阿部さんのブログで、精神的にも助かってます。
なにかこだわりを手放すと好転するかもしれません。
Posted by Pika at 2013年01月11日 00:24
さ迷い中さん

はじめまして。私事で恐縮ですが。。。
今日は主人の一周忌でした。
癌闘病中、突然脳梗塞で旅立ってしまいました。

主人が他界して3ヶ月は眠れず食べられず
身のおきどころがなく、自分で自分を持て余していました。

グリーフケアや精神世界の本を読みあさりました。
そして黒斎さんのブログや阿部さんのブログに出会い
1年が過ぎました。

日にち薬といいますが、
手のつけようのない痛みも少しづつ薄らいでいきます。
「大丈夫です」
今でも気持ちの浮き沈みはありますが
感情を味わっているわたしの中に
それを静かに受け止めている「私」が存在しています。

私たちは色々な体験を通して様々な感情を味わい、
それを表現するためにこの世に生まれてきたのだと信じられます。

主人は存在しています。
あなたの大事な人も存在し続けています。

私は主人が危篤の時には「逝っちゃ嫌だー」と年甲斐もなく取り乱し
まわりの目も気にせず、大声で泣いてしまいました。
冷静になるとちょっと恥ずかしいですが、
自分の気持ちを表に出せたことは良かったと思います。

私は眠れず食べられずで体重が6キロ程落ちた時、
安定剤を処方していただいて一時的に服用しました。
一時的にはそれもありかなと思います。

今はお辛いでしょうが、最終的には「大丈夫」です。
私の場合、つらい喪失の後には
このブログとの出会いと「気づき」が待っていました。
主人に感謝しています。

どうぞ安心してください。
応援しています。
Posted by はちきん at 2013年01月11日 00:50
こんばんは

アラヤクリさん PANDAさん

わたしも徐々にです。

最初にそれに気付いたときは「えっ、、なにこれ??こっちなの!!」って感じで、一気に気が抜けて「な~んだ」(笑)でした。
その気付きの半年くらい前に自分が自分らしく生きていないことに気付き、今までの自分はニセモノだ!これからは私らしく生きるぞ~私、私、、って思っていた私すら違ったんだもの(笑)

その後も普段の生活の中で徐々に気付きは訪れています。
その為に特に何をするわけでもないのですが、「不断の気づき」でいられるようにということは意識しています。

>どうしても、一気にパーーーンといくほうがインパクトがあるし、
>そういう至高体験は魅力的だから、
>強烈な体験を求めてしまうけど、


わかります(笑)
私もこの罠に嵌って一時それを追い求めていていましたが、開花の仕方や味わいは人それぞれだということ、悟りは自分が起こすものでなく起きるものだということ、大げさなものではないということが腑に落ちたら、自分に起きた体験を尊重して自らの開花を楽しもうというスタンスに変わって行きました。

目覚めを花にたとえて、目覚めていない状態がつぼみで0、満開が10とすると、
0から10の状態にバーーンと一気に開花する人もいれば、
0→1→2→・・・と徐々に開いて行く人、
元々1とか2の半開きの状態から開いて行く人もいるかもしれない、、
み~~んな違う開き方なのに他人様の覚醒体験と比べてもしょうがないじゃん。
そんな風に思えたのです。

アラヤクリさんとPANDAさんのお話聞けてよかったです。

ありがとうございました^^
Posted by 雪光(ゆきひかり) at 2013年01月11日 01:30
おはようございます


    立♪


映♪  私   体♪


    像♪

 
とてもリアルに見えるこの現象界も

価値判断を手放して眺めれば立体映像のように流れていくんですよね


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2013年01月11日 07:27
アタリマエは、空気みたいなもんだから失わないと気づけない。
だから、喪失って体験から沢山のことがうまれる。
絶望と希望も
闇と光も
希望が欲しかったら、とことん絶望をしたらいい。
絶望をしてることが希望だから。
ふたつでひとつ
結局ひとつになるしかないっていう仕組みは、なんて、愛された子供達なんだろう、僕達は。
どこに行こうが何をしようが結局守られている。
どうやったって、すべてうまくいくようになってるね。
Posted by 「おわりのはじまり」 at 2013年01月11日 08:34
「おわりのはじまり」 さん

本当にそうですね。
ソレしか存在しないので、自作自演、とも言えますが・・・。
なので、

>どうやったって、すべてうまくいくようになってるね。

そういうことになるでしょうね。
でも、あちら側(マクロの視点)から見た場合と
人間側(ミクロの視点)から見た場合とでは、
お互い、スパンの長さ(時間軸)が違うので、
それぞれの現象ひとつとっても、
違って見えてしまうのは仕方のないことなのでしょう。
そこを理解していれば、後は、お任せ、
お好きなようにお話を展開して下さい、
と言うしかありませんね(笑)。

人間は、この世に於けるただひとつの存在の自作自演の物語の中で、
それぞれの役を演じ、物語を創り上げている出演者であるだけなので、
ストーリーの流れは、作者にお任せするしかないですものね。

「おわりのはじまり」さんのご意見、
とても、しっくりきました。

ありがとうございました^^
Posted by neutrino at 2013年01月11日 08:54
スクリーンに写っているんだと思っていたら
実はスクリーンの向こう側で生の役者が代本を手に演じている・・・
可能性はないのでしょうか。
Posted by ちお at 2013年01月11日 09:44
いくらかわかるようになりましたが、記憶とか感情がわかりにくくさせていますね。
Posted by ゆず at 2013年01月11日 09:59
はじめまして 
降参のススメ 読ませていただきました  軽いのりでしかも中みは深いものでした 繰り返し読んで必要な箇所は自分のものにしていこうと思っています
 

ところで人生はスクリーンの映像のようなものだとおっしゃる方はたくさんいますが 自分というのは客席で映像を楽しんでいる存在だと思い込んでいました 自分とは客席にいるのでなくスクリーン自体だったのですか!! 驚きです
Posted by ひまわり at 2013年01月11日 10:08
数年前、仏壇に向かうことが多くなって来た時期がありました。
不思議とお経も暗記してしまい、暇があればお仏壇でお経をあげていました。
そんなあるひ、心の底からたとえようのない感謝の念が沸きあがってきて、ここころは震え、涙も止まらず、全ての存在に、ここに至る全てに感謝していました。

私は悟ったと思いました。

でもそれでも日常はかわりなく続いていきます。
そんな中でやはり相変わらず悩み、心配事にイライラもしていると、悟った気になっていたんだと思いました。

そしてその後も何度も、心が震えて感謝の念が湧きおこり全てを許せる状態になったり、やっぱり日常に埋もれてしまったりを繰り返して・・・

その時はやってきました(笑)
日常の行為を丁寧に心をこめてやっていた時でした
『な~んだ、これか』がきたのです(笑)

今までは洗濯ものを干している時など、寒いなー面倒くさいなー明日大丈夫かなー、等々心ここにあらずでしたが、今目の前にあるタオルと向き合ってみるとこのタオルがどう干したら一番喜ぶかと考えながら、干す。
今目の前にあるリンゴはどうやって切ったら一番いいかに集中している。
そんな風に『いまここ』にいることが、悟りなんだと気付きました。

悟りって、こんなんなんだ。って

それから私は“人生は修業だ”と思うのは違うなぁと、
人生は堪能するものだと感じました。

どんな感情が感情が沸きあがってきても、実際それは自分のものではなかったりするんじゃないかなって、感じたりします。

と、話が脱線しそうなのでこれで(笑)
阿部さんのお話に自分の整理をするために書き込ませて頂きました。
ながながと失礼しました。
Posted by さくら at 2013年01月11日 10:13
ちおさん

阿部さんのおっしゃる
僕たちは「スクリーン」なのです。

は、話を解り易く伝えるための比喩(方便)です(^^)
なのであなたがおっしゃる可能性はありません。
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 10:19
先程の自分のコメントに違和感を感じたので(笑)、
訂正させて下さい。

>人間は、この世に於けるただひとつの存在の自作自演の物語の中で、
それぞれの役を演じ、物語を創り上げている出演者であるだけなので、

人間は、
「それぞれの役を演じ、物語を創り上げている出演者であるだけ」、
では、ないですね。

そうなると、物語を作っている存在と物語の中の出演者は、
別の存在となってしまうので、
(私達人間を含めた全ての存在が、大いなるひとつが分化した顕れである、
という理解ですので)

(多分)全ての存在が、物語に出演することでひとつの物語を作っている
ということなのだと思います。

これが、大いなるひとつの自作自演、ということですね。

自分自身も(あらゆる存在が)、大いなるひとつ、である、
(ただ、そのことに気付いていないだけ)
と頭で理解しているだけなので、
こんな勘違いが時々、生じてしまいます。
(人間から見ると、役をやらされている感が拭えませんが、
 大いなるひとつ=私、であるなら、やらされている訳ではありませんね)

あれこれ書いて混乱してしまいました。
お詫び申し上げますm(_ _)m
Posted by neutrino at 2013年01月11日 11:15
Luna さん

今のLuna さんの境地は般若心経ですね。
とても共感します♡


さくらさん

>人生は堪能するものだと感じました。

>どんな感情が沸きあがってきても、実際それは自分のもの
>ではなかったりするんじゃないかなって、感じたりします。

さくらさんのコメントに賛同いたします♡(^^)
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 11:22
目覚めとは当たり前の体験と言われても、自分にはそれが分かりません。

様々なスピリチュアル系のセミナーに参加してきましたが、悟りに対する知識だけが増えた気がします。
悟りを追い求めて40数年、ひょっとして自分は一度も理解、体験を得ずに、このまま死んでいくのだろうか・・・・と考え、空しくなっています。
自分の人生、というか、自分自身にあまり興味がありません。
そのせいか、定職に就かずいつもぷらぷらと根なし草のように漂う人生を送っています。
悟りを追い求めるだけの人生が空しくなってきました。
Posted by 通行人A at 2013年01月11日 12:00
neutrinoさん

今朝8時ごろ 「自作自演」の言葉が出て来ました。
なのでその後で、いまここのコメ欄をのぞいてneutrinoさんの
コメントを読んで、意識の繋がりを実感しました(笑)

そしてコメントのなかで、うん?と思った部分(でも指摘不要と感じた)
も先程neutrinoさんが追加コメントされていて、
不思議な思いに浸っております(^^)
ありがとうございます♡


阿部さん

人生劇場に於いて、わたしが了承した以外のことなど、何ひとつ起きない!
そう確信いたしました(^^)

阿部さんやここを訪れる皆さんとの交流のお陰様です。
ありがとうございます♡
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 12:08
真在(まある)  さん

真在(まある)さんとシンクロですか!
嬉しいです!^^

やはり、わたし達は、意識の世界では、繋がっている、ということでしょうか?
(最近、意識の世界のことが、とても気になります)

ここ数日、コメント欄でのおしゃべりが過ぎて、
ボロボロと、いろいろなものが剥がれ落ち、
自分を改めて客観視する良い機会となりました。

体験無くしては、何かを真実のように語ってはいけませんね。

と、反省しつつも、
ま、こんなことも、こんな時もあるのでしょう、
という所に落ち着いておりますが^^;
(本当に、反省している?^^;)

これも、また、全て流れては消えていく「いまここ」を愉しんだということで、
係わって下さった方々に、心から感謝申し上げます^^
Posted by neutrino at 2013年01月11日 12:47
neutrinoさん

ずっとneutrino さんに対して、勿体ない!と思っていたことを
やっと言語化出来る(明け方言葉が浮かんだので)ように
なったので、お伝えしますね。

ちょっと厳しい感じの?指摘になるかも知れませんが、
neutrino さんとわたしの間には確固たる信頼関係があるので(笑)
ちょっと偉そうに指摘させてもらいますね!(^^)

>体験無くしては、何かを真実のように語ってはいけませんね。

これです↑
neutrino さんはいつも謙遜されて、悟っていない私が、とか
覚醒体験のない私が、とか、個自分のコメントに度々そういう
言葉を添えられますが、

それは言いかえれば、
「悟った人の言葉でなければ真実ではない」
「覚醒体験のない人の言葉は真実ではない」
「覚醒体験のない私には真実は語れない」

とういう意識があるからですよね?
体験あってことその真理。
真理を語るには体験したという資格が必要。
体験至上主義??

でも、です!
neutrino さんご自身が真実、真理と確信されているものが
間違いなく既にもう、neutrino さんご自身の中にありますよね!?
学びの過程で得られたものや、気付かれた真理が!

neutrino さんはそのこと(気付いていること)に無自覚でいらっしゃる。
覚醒体験がなくとも、neutrinoさんご自身が既に答え。
既に真実!


neutrinoさんに、賢者テラさん記事をお薦めします。

http://ameblo.jp/eyeofgod/entry-11445938162.html

「覚醒体験をするから、覚醒者なのか?」

これもまた超シンクロなのです(^^)v
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 13:28
真在さん

あっぱれのタイミングです。


neutrino さんは、きっと本当の意味で
今日いろいろなことに「お気づき」だと思いますよ。
遅からず早からず、この日を迎えるまで
ご自身が、そのための準備されていたことが、ここに出たと思います。

ご自分が、まさにその奇跡を呼んでいることに
気づかれたら、みんな一緒に、大笑いですね(^^)

あなたのことであり、わたしのことであり。

>人生劇場に於いて、わたしが了承した以外のことなど、何ひとつ起きない!
> そう確信いたしました(^^)

そのとおり、ですね。
Posted by トパーズ at 2013年01月11日 13:56
めぐりなさんへ

>例えば『この人はわたしのことを否定ばっかりするな。。。』と感じる人がいるとする。
>それは全く自分。
>『そうじゃないやん!そうじゃないやん!』とあなたは心で言うてるでしょ(*^_^*)
>Posted by めぐりな at 2013年01月10日 22:32

ここのところを詳しく知りたいです。
私はクラスメートと仲良くしたいと思っているのですが、
なんとなく「私はみんなからあまり相手にされていないな」とか
「無視はされないけど、特別親しくしてくれようとはしないな」と感じ、
悩んでいます。
でもこれは自分、なんですよね?
私が自分のことを、相手にしていない、大切にしていない、
ということの表れなんでしょうか?
突然の質問、本当にすみません。
お返事いただけたら 嬉しいです。
Posted by laula at 2013年01月11日 13:58
 こんにちは

 本当に、スクリーンは思考なしに、ただ観るだけでいいんですね

 ワンネス    

 自分のあるがままを 存在を 愛しくかんじます^m^
Posted by つるつる♪ at 2013年01月11日 14:50
真在(まある)  さん

>賢者テラさん記事をお薦めします。

ありがとうございます^^
今、読ませて頂きました^^

むふふ、な内容ですね(笑)。

賢者テラさんのご了解を得ていないので、
内容を転載できませんが、

なんほど~、そういう考えもあるのね、的から、
へ~そんなんでいいの?的な考えまで
賢者テラさんのご意見に、様々に反応する自分がいることを感じました。
(これも新しい発見ですね^^;)

ひとつ言えることは、
こういう考えもアリ?って世の中になってきたのだという事ですね。
(というしか、ない?^^;)

これほど、スピ系の本が巷にあふれ、
スピ系のブログの数もハンパでなく、
手にしたい情報をすぐ手に出来る世の中ですから、
少し努力すれば、ある程度ならスピ的理解を鵜呑みにし、
あたかも覚醒体験あるかのように、
それらしいコメントは書ける訳です(私のように^^;)

でも、やっぱりそれは理解であって、体験ではない。
海がどんなものだか(頭で、理屈で)理解していても、
実際に海を見たことがなければ、
やはり、海を知らない、ということだと思っています。

そんな風に思っている私ですが、
賢者テラさんのご意見に、なるほど~、と思ったのが、
”覚醒体験をした、ということが自分が覚醒者であることの一番の拠り所になっている人” 
という箇所でしょうか?

阿部さんも、ご自身の体験記の中で書かれていましたが、
覚醒体験をする前に、一年以上、
oshoの本を一行、一行、読んでは、瞑想し、
その意味を十分理解、体感しようとされた、ということですから、
覚醒体験をする前に、「悟り」や「存在」や「大いなるひとつ」に対しての十分な理解があったと思うのです。

その上で、悟り体験がやって来たので、
すぐにその体験の意味を理解することができた、
のだと私は理解しています。

何故なら、もし、予備知識(こんな言葉を使ってしまいご免なさい)がなかったら、
体験がやって来ても(そんな事は起きないかもしれませんが)
体験は体験であるだけで、何の意味も持たない、こともあり得るからです。

つまり、悟り体験があっても、
深い理解と気付きがなければ、(それは後付でも構わないと思いますが)
ただの体験、ただの神秘体験で終わってしまうだけで、
それは、個人の中で完結した個人的な体験で終ってしまいます。

今、阿部さん達、何人かの覚者の方々は、
その体験から得た智慧をひとりでも多くの人とシェアし、
それをひとつのきっかけとして、その波動を世界に広げていき、
世界の変容を促したい、(謂わば、世界変容計画?)
というようなお気持ちがあるのだと理解しています。

そのことを、比叡山、延暦寺のリトリートで強く感じました。
(そういう意味では、新しい世界計画は、始まっている、と言えます)

そのような大計画(?)の中では、
体験者の言葉は、大きな導きとなります。
多くの人を導くからには、やはり、人間的責任が伴う、と感じます。
なので、伊達に、真理と確認、確証したものでないことを
あたかも真理であるかのように言うのは、あとあと間違いや誤解が生じ、
やはりマズイと思うのですよね^^;

いうことで、覚醒していない、のに、覚醒した、覚醒している、
と思い込むことは、やはり、私には出来ないのですよね・・・(誰が何と言おうと←ちょっと頑固?^^;)
もちろん、私は、覚醒体験至上主義(?)ではありません。
悟り体験あっても、体験しただけの人は、中にはいる、と思っています。
なので、悟り体験ある人が上で、悟り体験無い人が下、という考えもありません。
でも、体験者の言葉とは、やはり体験しただけに、
その体験者から発せられる言葉には、重みがあるし、
人に気付きを与えるパワーがある、と感じます。(阿部さんのように)

またまた長くなってしまいました。
さっき、おしゃべりの弊害について反省したばかりでしたが、
ちゃんと反省していなかった、という証拠でしょうか?^^;

今回は、いろいろなご意見がある、ということを示して下さり、
ご紹介下さいました真在(まある)さんのご親切には、心から感謝いたします(^o^)/
読んで頂きまして、ありがとうございました^^

(過去のある体験を、若さゆえの無知から、その意味を全く理解できず、
 葬り去ろうとしていたことへの猛反省から、今があります。
 どうぞ、そっと見守ってやって下さいね)
Posted by neutrino at 2013年01月11日 15:05
neutrinoさん

もはや多くを「理解」しなくていいから、深く感じることにしませんか。
というか
つねにおいて「感じている」あなたを、あなたの主体にしませんか。

あなたが感じたままに表せばよいので
安心して、「感じる」ままにいませんか。

分かってみたら、きっと言葉が消えます。
Posted by トパーズ at 2013年01月11日 15:25
トパーズ さん


はい、そうですね^^
思考に頼るのは、いけませんね。
(頭でっかち、になり過ぎですね^^;)

ありがとうございます^^
Posted by neutrino at 2013年01月11日 15:41
 

 やっと理解できたことは、主体的に生きるということでした。

 自身を主人(創造主)とした生き方

 お奨めは、

 『大いなるひとつ』阿部敏郎 著と

 2013 『人類が神を見る日』 著:半田広宣の本

 絶対、 素晴らしくマッチします。

  ↓  半田さんの本から一部、抜粋


自己にとっての人間の内面、つまり物質世界とは、他者の世界の中に埋没してしまった意識・・いや、もっと単純に言ってしまえば、僕らが他者と呼んでいるものそのものに違いない。
この領域にはいった意識は主体性を持つことができず、絶えず他者の視線を意識し、物事に対する価値判断をも他者に委ねてしまう。
Posted by  イーグル☆彡 at 2013年01月11日 17:39
トパーズさん

>あなたのことであり、わたしのことであり。

この言葉に触れて、内側からこんこんと湧き上がる泉のような
不思議なエネルギーが、歓びに振動を増しました♡

後方からの手厚いフォロー、心よりありがとうございます!
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 18:02
neutrinoさん


>どうぞ、そっと見守ってやって下さいね


いつでも「それ」は見守ってくれていて、それこそが「愛」なのだと思います。


どうぞneutrinoさんの信じる(これだと思う)道を歩んでくださいね^^
Posted by 雪光(ゆきひかり) at 2013年01月11日 18:18
相手に感じることは スクリーンではねかえってきます。
 
 スクリーンとは、自分。。。

 巡り回って 還ってきている。。。幻想をみてるだけ。。


 
Posted by  パピヨン at 2013年01月11日 18:37
雪光さん

そんな雪光さんが大好きです♡
Posted by 真在(まある) at 2013年01月11日 18:54
Laulaさん

ブログが更新されたので、めぐりなさんがご覧かどうかわからないので、
お呼びじゃないのですが、
参考までに、私なりに感じたことを書かせていただきます。

Laulaさんの投影がどういう形で起きているかというと、
ご自身が「余り相手にされていないな」と感じ「特別親しくしてくれようとしないな」と感じ、
それを強化している、という意味によみました。
あなたは相手にされない自分、特別親しくない自分という自己イメージを、繰り返し自分に与えている。
仲良くしたい、という思いと同時に、真逆の尻込みする心を育てているので、
近づくことができない、ということはないでしょうか。

クラスメートの表情に対してその判断を加えずに、
判断のないフラットなところから話しかけてみる、というのはどうでしょう。
空気を読んで「相手の思いを察する」ことを良しとしてきた身には意外かもしれませんが、
そうした屈託のなさでアプローチするのはいかがでしょう。

もともとは、お互いに対しての感情は「無」ですね。
知り合う中で、「相手はこんな人」というイメージを持ちますが、
相手に対して持ったイメージというのは、あなた自身の「人物の見方、読み方」を映したもの。
「こういう表情をするときは、こういう感情がある」と判断する根拠となるのはあなた自身の行動。
「私がこういう行動をするときは、こういう感情を載せている」という判断が行われているのではないでしょうか。

その判断を横に置いて、仲良くしたい気持ちだけで始めてみては、と思います。
Posted by トパーズ at 2013年01月11日 20:37
Laulaさん

そしてこれは逆の言い方になるのですが
「仲良くなりたい」あなたの心の裏側に、
あまり相手にしたくない気持ち、無視はしないけど特別親しくしようとは思わない気持ち
が、生まれていることはないですか?

もしそれがあるとしたら、そう感じた自分をまずは認めて
すると相手の表情も「まあ、そんなもんだよね」と許せたりして
結果的に自分の心と、相手のそれとを相殺して、フラットにする、ことができるように思いますが。
Posted by トパーズ at 2013年01月11日 21:01
トパーズさん 真在(まある)さん 雪光(ゆきひかり)さん


最初は私と甲賀忍者さんとのコメントから始まった今日の一連のやりとりに、
いろいろなご意見を頂きまして、ありがとうございます。

ここ2、3日、いつもにもまして饒舌だったのは、
(長文ばかりのコメントで失礼しました)
阿部さんのブレイクスルーというメッセージに触発されたから、
と言ったら言い訳になるかもしれませんが、これが理由です。

日頃、感じていること、思っていること、を真面目に、
ある程度、誰にでもわかるように書いてみようと、思ったからです。

でも、それは、誰かの考え、意見、教えであるだけで、
自分のオリジナルであるものは、何一つありませんでした。
(これが、いつも、心に引っかかっていました)

自戒を込めて言うなら、
阿部さんやその他の覚者の方々のメッセージを、
きちんと論理的に理解し、咀嚼し、自分の言葉に置き換える、という作業は、たとえ、その論理を支える揺るぎ無い体験がなくても、
やろうと思うならば、誰にでも出来る、ということだと思います。

数か月前は、よくわからなかった阿部さんのメッセージも
今では、ある程度は、何が言いたいのか、わかるようになったのも、
くり返し、根気よく、ひとつのことを丁寧に諭して下さり、
私達を真理へと導こうと決意されている阿部さんの熱意と誠意の賜物です。
そして、いまここコメント欄のみなさまのお陰です。
そのことは、いくら感謝をもってしても、感謝しきれるものではありません。
本当に、ありがとうございます。

昨日の阿部さんのコメント欄の書き込みに

>ここのメッセージの多くは、阿部というチッポケな個体を超えたところからのものであり、さらには過去、現在、未来の三世諸仏(あらゆる人たち)へのものだからです。

とあり、はっとしました。

今日初めて、過去に於いて、真理を探究し、悟りを得た方々(三世諸仏)が、
私達の身近で、私達が目覚めるのを待っていて下さるような不思議な感覚を持ちました。

私やみなさんの悟りは、自分のためだけではない、と改めて確信した次第です。
(自分のための悟りなら、悟らなくてもいい、と思っている所があって、
 このようなことを書いてしまい恐縮ですが、
 けっして自分のための悟りを否定しているわけではありません)

今回の「悟り」についてのコメントでは、みなさまからさまざまなコメントを頂きまして、
本当に有り難く、感謝申し上げます。

なんといっても、こうして、いまここのみなさまとコメント欄で、
あれこれ言って、分かち合い、つながることが、本当に楽しく、心癒されています。
いつも、コメント欄でお付き合い下さる常連さんには、特に感謝しています^^

言葉が多いのは、本当にいけませんね。
しばらく、静寂の中で自分と向き合い、トパーズさんのアドバイスの通り、
感じることに意識を向けてみようと思います。

オリジナルの気付きがありましたら
その時は、ご報告させて頂きますね。
(一応、これで、コピーは、卒業したい、と思います^^
 ありがとうございましたm(_ _)m)
Posted by neutrino at 2013年01月11日 21:19
laulaさん


初めまして(^_^)

そうです。

他人は存在しません。

私たちは他人が存在すると思っているから問題を作るのです。


そして自分の外側に問題解決の手段を委ねます。


それだといつまで経っても問題は解決しないし 新たな問題を作り出すのです。


他人だと思っているのはあくまで『あなたが見ているその人』に過ぎません。
Posted by めぐりな at 2013年01月11日 22:06
真在さん


私も真在さんのこと大好きです~♪


neutrinoさん


>なんといっても、こうして、いまここのみなさまとコメント欄で、
>あれこれ言って、分かち合い、つながることが、本当に楽しく、心癒されています。


私もです^^

感謝、感謝です♪
Posted by 雪光(ゆきひかり) at 2013年01月11日 23:04
トパーズさん

ありがとうございます!!!
私が自分でこの思いを強化しているんですね。
確かに、自分で自分のこと「私はおもしろくないやつ」とか
「何の魅力もないやつ」というイメージを持っていて、
実際にそれが証明されるような場面によく出遭い、
さらにこのイメージを強くしています(泣)
いつも人の顔色、ご機嫌をうかがうので、すごく疲れて
人付き合いには積極的になれずにいます。

そしてよくよく考えてみると、仲良くなりたいくせに、
どこかしら「私はあなたたちとは違うのよ」とか、
「他に親友がいるからここでは別に友達いらないし」と
思っている自分もいました。これは初めて気が付きました。

クラスメートに対して何の判断も加えずフラットな気持ちで、
そして自分に対してもつまんないやつだからと判断せずに
話しかけてみたいと思います!
そういう自分を想像したら、胸のあたりが開いた感じがしました。

トパーズさんからアドバイスいただけるなんて感激です!
本当にありがとうございました!
Posted by laula at 2013年01月12日 00:51
めぐりなさん

先ほどはご挨拶もせず、いきなり質問をぶつけてしまい
申し訳ありませんでした。
めぐりなさんの言葉がまさに、今の私のキーポイントのような
気がして、つい焦って質問してしまいました。

他人は存在しないんですね。(自分も?)
他人だと思っている存在は、みな私の心を映し出しているのですね。
阿部さんをはじめ、目覚めや悟りを得た方がたは
みなさんこのようなことをおっしゃっているのですが、
私はなかなか「そうか!わかった!」とはならず、
どうしても他人は他人で私とは別物に見えてしまい・・・

でもこれからも阿部さんのお話やみなさんのコメントを
読ませていただきながら、なるべく思考は使わず感じることで
少しでも「真の私」の理解を深めていきたいです。

お返事、本当にありがとうございました!
Posted by laula at 2013年01月12日 01:08
laulaさん

『他人は存在しない』というのは『相手にどう思われたいか』と相手ありきで 考えるのではなく『自分はこの人をどう思っているの?』と自分に問いかけてみるんです。


そうしたら自分が与えたものがそのまま返って来ていることがよく分かります(^_^)
Posted by めぐりな at 2013年01月12日 01:18
めぐりなさん、ありがとうございます!

私は、「相手は私のことどう思ってるのか」「どう思われたいのか」
「この人によく思われるためにどうすればいいのか」と
主役が相手になっていました。

私はどうなのか、よくよく考えてみると確かに、心の奥底で
「この人はたいしたことないヤツだな」って思ってるところがありました。
でも、皆がそうではなく、「この人はよさそうな人、本当に仲良くしたい」
って思ってる人もいるんです。
本当に仲良くしたいって自分の意識では思ってるんですが、
結果が伴わないということは、実は自分では気づかない潜在意識で
何か違う意思があるんでしょうか。

それと、瞬間的に「この人あんまり好きなタイプじゃないなぁ」と
思ってしまった場合、心で素直に感じてしまったものは変えられない
ですから、そういう人とはやはり、友達にはなれないのでしょうか。

何度も何度も甘えてしまい、すみませんm(_ _)m
Posted by laula at 2013年01月12日 09:08
laulaさん、
しゃしゃり出て書いてしまいましたが、周囲はあなたを投影している存在だ、という言葉が、頭の理解から心に落ちるまでには、この問いが必要だったんでしょうね。

キーポイントの言葉に気づいたあなたの内なる導き?そして即行動。
そういうのが、大事ですよね。


めぐりなさん、
コメントに気づいてくださって、良かったです。
私の言葉にミスリードがあれば、どこかで修正が加わるだろうから~、
と思いつつ、勝手にlaulaさんに声をかけましたが
ご本人の目にも止まって、ご回答いただけてなによりです。

「あなたは私」「他人は存在しない」と言葉があれど
わからんものはわからん、これはどうなの?と
正直な問いがあるから、素直な解が生まれる、ってありますね。

私も一緒に考えさせて貰って、言語化の機会となりありがたかったです。
Posted by トパーズ at 2013年01月12日 09:25
laulaさん


それと、瞬間的に「この人あんまり好きなタイプじゃないなぁ」と思ってしまった場合、心で素直に感じてしまったものは変えられないですから、そういう人とはやはり、友達にはなれないのでしょうか。


価値判断をしないことですね(^_^)


瞬間的に『あんまり好きじゃないな。』と思うのは過去の記憶に基づいています。


『思いこみ』や『決めつけ』というヤツです。


価値判断をした時点であなたはその人をありのままには見ていません。


『laulaさんって○○な人やねんね。』と言われたらどうですか?


『プラスになることならいいや。』と思いがちですが それすらも価値判断です。
Posted by めぐりな at 2013年01月12日 22:36
めぐりなさん

何度もありがとうございます!

私はすぐに価値判断をしてしまっていました。
クラスメートに限らず、すべて、あらゆることにおいて、です。
それは、自分の経験や知識から確信していたのですが、
ただ決めつけていただけと分かりました。

これからは判断するのをやめようと思います。
周りのことも、自分のことも、価値判断しないで過ごしてみよう!って
思ったら、なんだか自由になった気がしました。
価値判断することにより、自分で生きるスペースを狭くしていたのかも
しれません。

たくさんのアドバイスいただき、感謝の気持ちでいっぱいです!

トパーズさん、せっかく気づかせていただいたので、行動したいと思います!
行動していくうちに、頭の理解から、体感に変わりたいです。

本当にありがとうございました!
Posted by laula at 2013年01月13日 15:07
『価値判断』という言葉は『色目がね』と言い換えることが出来ます(^_^)


『この人はこういう人』と色目がねで見られたら嫌ではありませんか(^_^)?
Posted by めぐりな at 2013年01月19日 10:53
最新のコメントって 

こういうことぉ〜(^^)
Posted by ロング at 2014年03月06日 01:35
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。