2021年01月20日

自性すなわち無性にて

「無自性の中に 自我がある仕組みを 教えて下さい」


という質問をもらいました。

もともと自己と呼べるような主体はないのに、なぜ自己という感覚が生じるのかという質問です。


このことについては大昔から研究がされてきました。

昨日も引き合いにだした般若心経の中でも、五蘊(ごうん)という言葉が出てきます。

これは何もない空間(無性)の中に、自己という偽の中心が誕生する過程を説明したものです。


このブログでは13年前に、僕なりの言葉で五蘊を解説しています。

あの頃は真理に触れるようなことを書くと「お前に何が分かる」とばかりバッシングされたので、鼻につかない言い方を工夫していました。

当時の記事を読むと、そのあたりが思い出されて懐かしい。


その時の複数の記事がこれです。

クリックしたら一番下の記事から読んでください。

五蘊


自我はあらゆる苦しみの素ではあるけれど、この世を生きるためには必要なものです。

自我がなければ人と話をすることもできません。

覚者とは自我が無くなった人のことではなく、自我を使うに至った人のことです。


普段の我々は、この世を生きるための道具である自我に乗っ取られて、自我のシモベになっています。

家来が主人の座に居座っているわけです。

この自己催眠から目覚めることが新しい冒険の始まりになります。


ところが自我はとても狡猾ですばしっこいので、自我を見抜き手放すのは容易ではありません。

自我は自我を捨てることさえするのだから。


そこで瞑想の出番になります。

しつこいようですが、僕のメッセージを集約すれば

「瞑想しよう」

に尽きます。


自性すなわち無性にて



坐禅も同じです。

瞑想と坐禅は異なるアプローチですが、どちらも本性に行き着く道です。


最高の芸術作品とも言える「白隠禅師坐禅和讃」の一句


直に自性を証ずれば

自性すなわち無性にて

すでに戯論を離れたり



これが坐禅の真髄だというわけです。

坐禅和讃の中に、あらゆる答えがあります。


しかもこの経文は大和言葉でわかりやすくて美しい。



以前ダイヤモンド社から発刊された僕と向禅師の共著

「みんながブッダ」

の中で、向禅師が坐禅和讃を読んでいます。


白隠禅師坐禅和讃


今日はこれを何度も聞いて過ごしましょう。

世の中は騒々しいけれど、真理はとても静かです。



今夜も瞑想会でお待ちしています。

アドレスは

https://youtu.be/kIH5raCmu0U



・・・・・・・・・・


【お知らせ】

向さん同様、長年にわたって共に活動してきた雲 黒斎さんと、2月3日にオンラインで瞑想イベントを開催します。

ずっと温めてきた企画で、いまこの時代に満を持しての登場です。

詳細は明日ご紹介します。







Posted by Toshiro Abe at 10:40│Comments(12)
この記事へのコメント
10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」
と尋ねることによってである。

「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。

そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

そのとき真我は実現されるだろう。

11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。

どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。

それに対して現われる答えは
「私に」だろう。

そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。

微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。

心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。

心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。

心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。

このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。

人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。

もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。

~ ラマナ・マハルシ対話集「私は誰か?」より ~

https://ooinarukuu.ti-da.net/e5639474.html
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年01月20日 10:49
>自我は自我を捨てることさえするのだから。
最近、ほんと、そんな気がしています。
なんでって、
「実は思考や感情が湧いてくる『元の自分』を
 『忘れてしまっている』ことが多いんじゃないか?」
と思ったので、気を付けてみると、本当にそういうことが多いと気付いたので。
『思考』や『感情』が起こった時、『思考』や『感情』そのものや、
それらが指し示す先にばっか意識が奪われていて、それらが湧いてくる
『元の自分』を忘れてしまっているということです。
実際、『元の自分』を思い出せたら、即解放されるのでわかります。
「あ、ハマってた」って。
で、またハマるんですけどね(笑)
とりあえず、こんな↑感じで『ハマってたこと』に気付きやすくなってきたのは確かなので、
それを喜んでます。
ちなみに「あ~、ハマってるなぁ~、どうにかしないとなぁ~」て時は、
『こういう↑思考』にハマってるところですね。
Posted by ただの「自分」 at 2021年01月20日 11:53
>家来が主人の下僕になっている。。(笑)

「わたし」という想いは、個体から発せられるすべてに自動的にラベルのようにくっついてしまうので、生きている限り、このラベルを完全に落とすことは不可能でしょう。
庭に生えてくる雑草が、抜いても抜いても、自然に生えて来るように、このラベル貼りも根絶することは不可能です。

しかし、本当の主人が現れれば、自我は本当の主人を知ることになるので、自分は下僕だということがわかり、大勘違いは消滅します。
そして、これは同時に、"わたし"というラベルは、御主人様のお陰で、ラベルとして機能しているのだ、ということがわかります。
その知性が備わった"わたし"は、大勘違いすることなく、本当の御主人様のために、下僕として仕えることができるようになります。
この知性が機能すると、本当の月と水に映った月を区別できるように、本当に実在するものと、その実在からの反射で実在するかのように見える幻を識別できるようになるため、ヨーガの世界では、"識別智"と呼んでいます。
"識別智"は、真の実在を悟る直覚智によってもたらされます。
識別智が完全に機能すると、自分が主人だという勘違いは起こらなくなり、完全に神の下僕として、機能するようになるので、神の信任を得ることができるようになります。(反対に、大勘違いが正されていない場合は、識別智が機能していないということになり、神の信任は得られないでしょう。)

神の信任とは、例えで言えば、神の庭の管理を任され、管理人として、その庭を自由に耕せるようになるようなものです。
自分のものは、何一つありませんが、神の庭での仕事に歓びを感じ、真の御主人様のために役に立つことに歓びを感じ、任期が終わるまで、その庭を神が共に楽しんで下さることでしょう。
神の歓びが自分の歓びとなるため、下僕としての自我は、最高の愛を神に捧げられるようになり、バクティ・ヨーガ(神との合一)は、成就することでしょう。
Posted by 神の下僕 from M-online at 2021年01月20日 12:08
自我は決して悪者ではありません。

自我を自我とみなし使えばオッケー。

上手に付き合っていきましょう〜^ ^
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2021年01月20日 12:14
過去の記事『五蘊』を読んで、昔から阿部さんは本当にみんなにわかりやすく説明してくれているなぁ~と思い。。。
今日の奇跡のコースから、『延命十句観音経』の記事も読んでみたい♡と思い、全部読みました。
すごく奥が深く、なんとなくわからなかったところがわかりかけてきました!
まだまだ分かり切るには程遠いけど、何回も何回も読みたいと思わせてくれる内容でした。
阿部さん、素晴らしいブログを本当にありがとうございます!
Posted by まるるん♪ at 2021年01月20日 13:45
阿部さんから、毎週2回、瞑想会のお知らせが届きます。(昨年の秋に、Rebirthマントラを伝授して頂いたからだと思いますが)

今年は、阿部さんや智子さんのお言葉通り、毎日の瞑想を習慣化しようと決意し、ただ今実践中です。
 
今日も、瞑想会のお知らせが届きました。
これまで、この案内メールを頂いていたにも拘らず、瞑想会には参加していましたが、瞑想を日課にしてはいませんでした。
こんな不真面目な生徒であっても、先生はいつも変わらない愛を注いでくれる。。。今日のメールを読んだ瞬間、先生に、心から感謝の気持ちが湧きました。
今は、アーサナ、プラーナヤーマ、マントラ、瞑想という流れで実践しています。
新しい発見がある度に、驚きと歓び、感謝の気持ちが溢れて来ます♪

もちろん、瞑想を教えて下さった先生にも、心から感謝しております♪

阿部さん、智子さん、週2の瞑想会の開催、いつもありがとうございます♪

今夜も楽しみにしています(^^)

(勝手とは思いましたが、近況をご報告させて頂きました、笑)
Posted by 永遠のリーラ from M-online at 2021年01月20日 18:08
>直に自性を証ずれば 自性すなわち無性にて

わかってしまえば 自性は無性。自我は無我。

自我は 一つの身体を我と認知する事。
私なら「まるまるが私」→これが自我。
無我は 一つの全体を我と認知する事。
この場合「私達が私」。

自我は「自分にとって最善」を選択し続け、無我は「私達にとって最善」を選択し続ける。

例えば 腹ペコの二人がパンを一つ貰ったとする。
自我と自我だと 喧嘩になって勝者が食べる。
無我は自我に「半分ずつな」という。
自我は無我に「お前は無我だから俺が貰う」という(自我は勝者が食べれるから心理戦で勝つ為にこう言う)
無我と無我だと 半分ずつ分け合う。

母と子なら 母は子供に全部あげちゃうかも知れない。
子供は 貰ったら食べちゃう(それがどういう事になるか知らないから)。
同時に子供は半分にしても「全部よこせ」とも言わない(自我が未成熟だから)
母が空腹で死ねば子供は路頭に迷ってしまう訳だから、半分にして二人とも生き残った方が「私達にとって良い事」だと考えるのが「仏性」。
全部あげちゃうのが「慈悲」だと思って、そういう「犠牲的精神」を嫌ってる人が多いし、だから「覚者」だと言われれば「清貧だろ~謙虚だろ~全部よこせ」となる。そう思ってるから そういうものにはなりたくないのが自我だ。
勿論 それが想像領域の「仏性」なんだから 勘違いは仕方ない。しかし 勘違いだ。

自我は一人で考えているけど 無我は仏が考えている。
だから禅の修行(公案等)では「自分の考え」は論破され続ける。
最後の自分の反論は「師匠と絶交」だ、逃げ出す事だけが一つ残された「自分の考え」だ。
自我は通常これを行使するが、同時に「悟るチャンスを失う事」になる。
「悟れない事」と「自分の存続」がここで計りに掛けられる。
だから「悟るしかない」という想いがなければ確実に悟れない。
「悟るしかない」人は 反論の余地もないけど 脱げる先も もうとっくにない。
そして 一つのアイディアも出なくなって「自分の考え」が枯渇する。
枯渇した先に「ある」のが仏性だ。

この時わかる「私は師匠に論破されたのではなかった、仏に論破されたんだ」と。
全ての問答の末「仏の答えの方が良かった」という経験において「私は自分の考えに固執しなくなった」。

「悟りたい」気持ちは突然沸いてくるもので、自分の考えではないので、そのままお任せしてれば必ず悟る。
これを唯一邪魔するのが「悟りたくない」とか「悟らなくてもいい」という「自分の反論(考え)」です。
「悟りたい人」を応援してる♪

衆生本来仏なり 此身即ち仏なり
Posted by まるまる at 2021年01月20日 18:58
瞑想…

奇跡のコースのレッスン40に

私は神の子として祝福されている。

というのがありますが、それを感じながら目を閉じれば
30分なんてあっというまで、もっと感じていたい!もっと瞑想していたい!と思うのでは?

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年01月20日 19:25
 五蘊の稿、拝読させていただきました。なかなか伝えずらいお話を一気に伝えて頂きました。 2007年の投稿なんですね。不思議なことですが,文章から艶のようなエネルギーを感じます。以前私は、いまここで、お世話になっていましたので、この文章は新鮮でした。この文章を読んで喜んでいるということは、私もマニアックな括りなんですね。納得です。

 では、行ってきます。今夜も気まぐれプーちゃん会えるかな~
   
Posted by makotoazuma at 2021年01月20日 19:58
WEB瞑想会について
昔のように伝授を受けた方のみ参加できるようにしていただきたいです
特に水曜日は智子さんを攻撃するようなコメントがしつこくあり、また智子さんもスルーすることなくひとつ残らずコメントを読み上げてくださいますが…安全安心の場であってほしいなと思うのです
感じるか感じないかの差はあったとしても瞑想で害はないのだから、やるかやらないかはご自分で決めたらいいのになといつも思います
不安で背中を押してほしいだけならば、やはりそれなりの聞き方ってあるよな……と
Posted by ななし at 2021年01月21日 04:06
昨日の瞑想会は、お風呂で瞑想してて、長湯になり、後半のみの参加となってしまいました(*'▽')
智子さんの、質問へのお返事には、とっても清々しくなりました。
智子さん、素晴らしすぎます!(^^)!

お風呂(サンガの様々なお話、阿部さんのブログ、先達のあらゆる角度からのコメントを含みます)で温まり、アーサナして、瞑想する、、、

かつては、そんな暇はないのだ~!他にやるべきことがあるだろ~!と、チャチがバンバン起こってましたが、最近は随分と静かになってきました。

♡ トラディショナルヨーガのアーサナと呼吸法をしていて気づいたのですが、自然と普段の動作がゆったりしてくるようで、特に調理をしているときが顕著です。

このような場があって、よかった~、ありがた~い、です。
Posted by 寿々 at 2021年01月21日 14:34
勇気ある、ななしさんの言葉に激しく同意します。
長年大切にしてきた私たちの場を土足で上がり込まれたような悲しみを持ちました。
Posted by 今日は匿名 at 2021年01月21日 21:41
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