2019年04月15日

知識と経験

来てくれてありがとう。







昨日のコメント欄でのやり取りで、匿名さんの「自分を好きになれない」ということへの回答として、


「その自分が幻想だったことを見抜いたとき、自分を含んだ存在全体を好きになる」


と書きました。



そのことに対する緑のたぬきさんのコメントです。


>思うのですが、見抜くとは結局のところ、信じると言う事と双璧を成してるのはないでしょうか!?

>見抜いたと言う事は、出て来た答えを信じたと言う事かなと。

>答えが客観的に正しくても、己にそれが信じられないなら、未だに解ったとは言えないと思うわけです




見抜いたことを自分が信じられなければ、見抜いたことにならないのではということですね。


言いたいことは分かりますが、見抜けば信じる必要はありません



「見抜く」というのは内なる経験であり、答えと自分がひとつになっています。


一方で「信じる」ということは、○○を信じるということであり、信じる対象があります。


この両者はまったく違います。



>答えが客観的に正しくても、己にそれが信じられないなら、未だに解ったとは言えないと思うわけです



見抜いた答えを客観的に信じる必要はありません。

信じるとか信じないとかではなく、事実として経験されるだけです。


たとえば、熱湯に触れて、「熱い」という経験をしたとします。


そのとき、「この熱さは客観的に正しいだろうか」と問うでしょうか。


どんなに理屈をこねても熱いものは熱いのであって、その体験は揺るぎません。


熱いということを信じるとか、信じられないとかではなく、ただ熱いのです。


これが経験というものです。


知識と経験



話は少し変わりますが、真理の情報に触れていると、何が内なる真実で何が外から得た情報なのかを混同することがあります。


そして単なる知識にもかかわらず、それを持ち運んで分かったつもりになってしまうのです。




たとえば釈迦が


「多くの修行をしてきたが、修行によって悟ることはなかった。すべての人はすでに悟っているのだ」

と言えば、だったら修行などいらないと思ってしまいます。


大変な修行をするより、「修行などいらない」という言葉を信じたほうが楽であり早道だからです。



でも、その人は時間の問題でこう言い出します。


「人が最初から悟っているのは分かったけれど、いまだに自分はそんな気がしない。どうしたら悟りを実感できますか?」


早い話が、何もわかっていないのです。



確かにあらゆる存在は、最初から悟っています。


悟りとはあるがままをあるがままに認識することであり、だれもがその能力を持っています。



ところが人は知性の発達とともに、そのあるがままの上にありとあらゆる解釈を投影し、自分本位の思考の世界を作り出し、その中を生きているのです。


その思考の世界の主役は、これまた「自分」という思考です。


自分とは単なる思考に過ぎなかったということを見抜くのは、自分は思考に過ぎないという言葉を信じることとは違います。


したがってこの真実を看破するために修行をするわけです。


修行などいらないということを学ぶのと、修行をして修行などいらないと分かるのは別物です。




だからと言って、修行しなさいと言いたいのではありません。



真実の言葉を信じることと、経験的に見抜くことは違うという話でした。



頭でっかちにならないように、お互いまずは、いまを生きるとしましょう。





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・・・・・・・・・・・


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Posted by Toshiro Abe at 11:03│Comments(30)
この記事へのコメント
自分、私、あらゆる思考、言葉を無視したって、事は起きますもんね..体がかゆくなったらかくし、座りたくなったら座るし、あくびやくしゃみは勝手に出るし
わたしは本当によくぼーっとしてしまいますが、そういう時、力を抜いているときに、あー全部自分なのかぁ、これこれ、、って、言葉に敢えてしなくても、いい感じに気持ちよくなって更に脱力します。何も考えようと作為的なことがなくなるし、思考もただあるだけ。きっと、その時の感覚こそメッセージが指す、本当であるところの自分をよく感じてるんだろーな、って。
それでまた頭使って、の繰り返しです。脱力、気楽さ、リラックス。できない時はあるけど、一度味をしめたらこっちのもんです! 無用の要〜
阿部さんが言うように、ほんと、何だってよくなってきます笑
Posted by ばくすい at 2019年04月15日 11:30
自分の思考や集めてきた知識に執着している間は、
真実を経験しにくいのかもな。
阿部さんには、毎日言葉にしにくいことを言葉にてもらって、
内側のどこかに共鳴しているのを感じています。
Posted by 風 at 2019年04月15日 11:50
心が頭の中の想念に向かうほど、頭でっかちになります。

心が胸の中の光に向かうほど、心が光り輝きながら大きく広がっていきます。

心が光り輝きながら大きく広がるほど
心から幸せを感じます◎

心が平安になり満たされていきます◎

←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2019年04月15日 12:11
小難しい話し飽きたー。笑
女の子にモテるシリーズモテるシリーズ♪
Posted by pino at 2019年04月15日 12:27
最近人生で最大の「不快」な思いをしました。

それで、家族の目の前で号泣するという、
今までの自分では考えられない行動をしたんですが、

その瞬間に、その泣いている自分を全く
他人事のように、
「これって、本当に自分がしているの?」
「この人うまく演じてるな」

みたいな感覚になりました。

それからというもの、
「ああ、今目の前のことを100%することしかないのか」

ということがはっきりとした部分と

「これすらもする意味あるの?」

というある意味絶望感の間を行ったり来たりしています。

ゲームを成立させるためには、これをしないといけないんだろうなと
思う部分と、
そのゲームをした後に何があるの?

という冷めた部分が同居している感じです。

何を書きたいのかよくわかりませんが・・・。

この世界は、「あえて無駄を体験してみる」
みたいな感じなんですかね。
Posted by トモヒト at 2019年04月15日 12:37
今ここに関係のない、頭で繰り広げられる過去をなぞったストーリーと、止まない思考にウンザリし、瞑想しながら「もう!ほんとに嫌だ!」と、バッサリ切り捨てたら、何だかスッキリしました。

また、阿部さんと智子さんに助言頂いた、全ては後姿、全て通り過ぎる。という言葉に救われました。

よかった、これも通り過ぎるんだって
思うだけで救われます。

マインドがあれこれ考えるのって、結局は自分が大好きなんだなって思いました。
Posted by Joy at 2019年04月15日 12:41
ご安心ください

「知識」だけではなく、「経験」にも成功も失敗もありません。

今を生きるだけだな~と思い、後ろを向くとうさぎ君が目を開けた状態で、寝ていました。
Posted by TOMO at 2019年04月15日 14:26
ややこしや〜〜〜
頭で処理しようとするとパンクしそう。
頭のキャパもないですから、当然なんですけど。(私)

瞑想的に思考も含めてただ眺めていると、
事を単純に感じるんですけどね…(頭使いたくない怠惰マン)

けど、頭の処理能力あるのは羨ましい。(ほんとに)
ってのが、いま、湧いてます。 (いま)
Posted by 薄茶色 at 2019年04月15日 14:48
>修行などいらないということを学ぶのと、修行をして修行などいらないと分かるのは別物です。

そーなんですよねー。

>頭でっかちにならないように、お互いまずは、いまを生きるとしましょう。

その時その場で、必要と『感じる』こと、を行うだけですね・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2019年04月15日 14:49
模察と申します。

いまここで、目を閉じてから目を開くと、"見ること"という経験が起きます。
"見ること"という、いまここで起こっている経験は、一切疑うことができません。
「一切疑うことができない」の別の言い方は、「信じることしかできない」です。

"見ること"が起きると、次に思考(自我)は黙っていることができません。
必ず思考(自我)は問いを発します。
「何が見えるのか?」

思考(自我)は答えを発します。
「自分の身体」、「人」、「犬」、「ビル」、「山」 etc.

問いと答えは、全て知識です。
『こういう形をした物質は、この名前で呼ぶことを知識として覚えなさい』と。
「人」とか「犬」と呼ぶことが正しいことであると教えられたので、そう呼ぶことを闇雲に信じています。

「何が見えるのか?」以降のすべての知識は疑うことができます。
「疑うことができる」の逆の言い方は「信じることができない」です。

"見ること"という経験がいまここで起こっているレベルまでは信じることしかできないですが、
「何が見えるのか?」以降の思考(自我)は信じることができない。

と、見抜けばということだと思います。
Posted by 模察模察 at 2019年04月15日 14:55
はじめまして、こんにちは^^

あなたは悟っていますよ、と、言われた時に、ギャーギャーわめくやつが、自我的なやつで、
それを、じっーと見てるやつが、真我的なやつかなと思います(^_^)

自我的なやつのエネルギーをなだめてあげるには、ある程度の時間とか修練とか必要な気します。
でも、悟ってるのを忘れているのも、聖なる催眠というやつで、、、
Posted by 匿名希望 at 2019年04月15日 15:03
>早い話が、何もわかっていないのです。

ほんと・・・この通り、と思うんですよ。
これ、決して『見下し』とか『非難』ではないんです。
ただの『事実』でしかないんです・・・自分にとっては。

「いまを生きる」とか「その時その場で必要なことをする」とか言っても、
それが『正しいか』なんてわかんないんです。
でも、それがわかろうがわかるまいが、いまを生きてようが生きてまいが、
『いまここ』・・・目の前の『現実』は、関係無く移り変わりますし、
それに反応する思考や感情も、関係無く湧いてくる訳なんですよ。

だったら、「いまを生きて」いるかいないかなんて関係無く、
その時その場で必要と感じること、良いと思うことをやるしか無いじゃないですか。
何もしたくないからボーッとしてたい、休みたいと感じるなら、当然それでもいいですし、
思考や感情だけでなく、『それを判断している自分』ごと当てにならないから、
ひたすら流したり瞑想しても当然いいですし、
と言うより、たった今起こってる『それ』しか無い、と思うんです・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2019年04月15日 16:27
ラディカル系の非二元の本など数冊程度熟読すれば、
頭での理解は可能だと思います。
しかし、一瞥体験(神秘体験)のようなものを求めていると、
探究に終わりはないような気がしています。
なぜなら、体験は主観的なものであり、
客観的なゴール(苦しみが完全に消滅する?)が見えてこないからです。
阿部さんがいつか言ってみえたように、
「空を知りつつ、好きなように色を生きる」程度でいいんじゃないでしょうか。
少なくとも、深刻さと悟りは真逆のものだと思われるからです。
♪のんびり、ゆったり、お気楽に♪
Posted by あき at 2019年04月15日 17:59
頭で理解出来ても、心で身体で腑に落ちる事が無いと信じられないですが、それでも今を生きていく!
天河行きが、あと数日後、ドキドキワクワクこの時間がとても幸せだと思っています。
柿坂宮司さんとお話出来たら良いと思っています。コメントこればっかりです。
でも何年越しの思いがやっと叶うので♡
Posted by 春羽 at 2019年04月15日 18:00
ばくすいさん、レム睡眠のレムでございます^_^

コツ、教えて下さ〜い。
Posted by レム at 2019年04月15日 18:20
熱いとはどういうことか、を熱いのを味わったことのない人に説明して伝えるのは不可能ですよねー。
熱いとぱっと手を引くとか、あとですごく痛くなるとか、の知識は身に付いても、どんなに言葉を尽くしても「あの熱い感覚」は絶対味わえないですよねー。
熱いものに触るしかない。

というわけで熱さを味わいに(?)、あと少しで初めて天河神社に行けそうです^ ^
Posted by パンマン at 2019年04月15日 18:39
>頭でっかちにならないように、お互いまずは、いまを生きるとしましょう。

ここが今日の記事のポイントや!

見抜いた~

(^o^)/

ブッダ☆ブッダ☆

おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2019年04月15日 20:52
ご返事ありがとうございます。
正にですね、これは凡夫として肝に命じて於かねばなりません。

因み、僕の真我のイメージは「空っぽ」という感じであり、だから真我というのは単なる言葉の概念なんだと思ってます。
けど三次元としての脳は、このような概念(言葉)を用いないと理解できないのだと思われます。
だからこの世以上の次元のことは、本当は未知と言えるんでしょうか。
最終的に阿部さんが言わんとして居られるのは、「私」はカラッポで居ないがゆえに、主役など居なくてただ経験だけがあると言う事なんでしょう・・・多分ですが。
だから自我が何をするにもそれは新たなストーリーでしかないと。

真我を夢に例えれば分り易いかもでして、夢も現実もそれを見ている「私」という感覚は同じだと思います。
けど、夢の中の「私」は狭義的で窮屈な感じを伴ないます。
しかしそれに比べて現実の「私」は、広義的で開放感があります。
これと同じで、真我は拡大であり自我は収縮という感じでしょうか。
そしてその主体は意識であり、これが無限に拡大すれば希薄になってカラッポ(私はいない)となるんでしょうか!?
(あくまで比喩であり僕の主観的説明に過ぎません。)


>「答えが客観的に正しくても、己にそれが信じられないなら、未だに解ったとは言えないと思うわけです」

これは僕のコメントだったんですが、実はお聞きしたかったのはあのコメントの後半部分でありまして、例えば赤ん坊には過去が不足してるゆえに、過去の記憶イメージから生じる未来のイメージが浮かばないかと。
だから、心は今現在に傾斜しているので我々よりも「いまここ」に生きてると言っても良いのでしょうか!?
また、彼らは目覚めたいと思えば直ぐにも目覚めるのかも知れませんが、そもそもその様な思い(知識からくる欲求)が無いからそれはNOだと言えます。
なので、目覚めるのは真我としての意識かも知れませんが、それには自我として意識(意欲)が無いとダメなのではいかなと。

そこで、もしもここでアファメーションを持ち出すなら、アファメーションすること自体に意欲が潜んでいる分けでして、「いま生れた」「いま到達した」「私はいない」などの言葉が有効だとするなら、それはその言葉を自我意識が信じて疑いが無くなった時であり、そうなって初めて自我は自らを退くのではないでしょうか(言葉の綾です)、そして同時に真我意識が目覚めるのではないかなと。

なので見抜くのは真我意識であり、我々自我意識(真我の錯覚意識?)にはそれは不可能であれば、せめてNIKE瞑想のように^^; 言葉の力を借りて目覚めの波長に迫って見るのも有りではないかと、このように思ってしまった分けなんですけど・・・(*´ω`;)ゞ

すいません、阿部さんの回答から外れてるのかも知れません。
それと、文章力がイマイチですから^^; スルーして頂いても結構です。
ほんにありがとうございました <(*_ _;)>デワデワ
Posted by 緑の狸 (三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年04月15日 21:06
経験だけが実力であるなら
スピリチュアルの教師はいらないですね。
信じることを強要しますから。

信じるのは宗教ですね
経験だけが実力
Posted by ss at 2019年04月15日 21:19
この肉体という乗り物に乗って、地球という星に旅行に来たと捉えてみるのはどうかしら?

寿命が旅行の滞在期間☆

旅の内容はカルマ次第☆笑

何度生まれ変わるとしても二度と同じ旅はない。

乗り物の肉体も違うだろうし、生まれる土地も違うだろうし、出会う人や、時代がそもそもちが~う。

ほんとに一回限りの時間旅行。

旅行が終わればもといた家に帰るだけ。

本来の姿に還るだけ。

だから、あなたにだけ与えられた人生旅行を楽しんだらいいと思うわ~☆(^_-)

もっと言うと誰もの人生にHave a nice tripって言えたら素敵ね。

Let's enjoy~♪


(なんだか突然?やってきました思考です。誰だろう?笑)
Posted by ようこ at 2019年04月15日 22:13
すみません、冒頭に書いた文章が抜けてました。汗

それが阿部さんの書かれたこちらの文章です。
>> 真実の言葉を信じることと、経験的に見抜くことは違うという話でした。

誠に失礼しました <(*_ _;)>
Posted by 緑の狸 (三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年04月15日 22:55
匿名さんも緑の狸さんも真理について遇直なんだな~と感心しています(^^)

私もそうでしたが、体験が起きる前から真理についての話しは触れ続けていましたv

起きてからはより知識が浸透していくというか、理解が伴った豊かさはあります(^^)

メッセンジャーさんが言っていたんですが、悟る前鬱で悟った後でも鬱は鬱。

でも悟った後の鬱は
いま鬱症状が起きてるだけで「私の」鬱じゃなくなってるから苦しみはなくなっているんですね~といっていて、 

本当にそうだな~と実感しています(^^)
そこに楽さが生まれるんだな~と感想です♪

知識と経験があってはじめて理解(府に落ちる)ができるんだなと両方大事に思います♪←私はそうです♪
Posted by ともこ at 2019年04月16日 08:31
模察と申します。

「私はいない」とは、

『"私はいる(=在る)"と固く信じていたが、疑ってよくよく調べてみたら私はどこにも見つからなくて、”いる(=在る)"だけだったと知りました(見抜きました)』を短く表現した言葉に過ぎないのではないでしょうか。
"私はいる(=在る)"という観念が消えるだけです。

"良い人”だと信じていた人に騙された経験がある方は多いと思いますが、
騙されていたことを知ったら(見抜いたから)、その人のことは信用はしません。
"良い人"という観念が消えます。

知ったから(見抜いたから)、次は"悪い人"だと決め付けて信じたらどうなるでしょう?
悪口を言い始めたり、復讐したりするなど自分で自分を傷つける行為が始まると思います。

「私はいない」を言葉で信じると、『私はいないから何をしても責任はない』とか、『私はいないから生きてても無駄だ』とか、あまりよろしくない思考が湧いてくる可能性があります。

ですから、阿部さんは言葉として信じることではないとおっしゃってるように思います。
Posted by 模察模察 at 2019年04月16日 11:24
こつ、、ただ何もしない。
本当に動きをストップしてぼーっとして何もしない っていうのを出来るなら、あ、やってみよー って思った時にするけど、動いてても、テレビを見てても、話をしてても、何をしてても、その、真っ最中(ing)に自分から出てくる言葉や思い、行動を否定せず、否定する思いが出てきても、ぜんぶありのまま、置いとく感じです。頭の上の方とか、なんかとにかく、ただ出てくるだけ、にしとく、というか。
私は瞑想して(阿部さんとともこさんのnike瞑想の無料動画は、ほんと話も含めてリラックスできます^^;) 心臓の鼓動に心を向けると、それらを離れやすくなる気がします。
戯論を離れたり..
全体性を感じるぞ、とか思わずに、ただ気持がいいので、またそのように過ごしてみよ って思ってたら、普通の生活の中に、そういう態度が増えてきました。、、と、いうことが起こっているのだと思います。
レム睡眠さんに伝わるかな... ただの私の報告で申し訳ないですが、何か伝わればいいな。 あ!外で空気を感じながらやると更に気持ちいいです\(^^)
阿部さん、長くなってしまった。すみません!
Posted by ばくすい at 2019年04月16日 11:25
ばくすいさん、ありがとうございました。

なんとなくわかります。
難しいことじゃないんだけど、なかなか気持ちいい〜が、長続きしなくて。

やってみます。
やっぱ力入ってたんかな。

ありがとうございました。
Posted by レム at 2019年04月16日 14:02
緑の狸と申します(^^;

アファメーションというのは、その人の琴線に触れたもの(潜在意識が良しとしたもの)であれば、それが一番良いと思う分けです。
多少なりとも機の熟している人だからこそ、そこに何かを感じてそのアファメをやろうとする分けでしょう !?
なので、自分にとってマイナス或いは何も感じ得ないアファメなら、そもそも唱えようとは思わないかも知れません。

ところで、目覚めを体験しても、また元に戻ってしまうのが一瞥体験でしょうか。
なら、そんな人にこそアファメが有効なのかも知れません。
「我即宇宙」というようなアファメも、難なく受け入れられるのではないでしょうか!?

https://www.youtube.com/watch?v=njOPNef_p_A
「【究極奥義】引き寄せの現実創造を極めると・・・ 」

そこで思ったのですが、常に「宇宙=自分」として在るには、もしかしてこういう言葉(アファメ)が有効だったりして・・・・『宇宙(創造)が私を生きている』。汗
Posted by 緑の狸(三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年04月16日 22:33
>ところで、目覚めを体験しても、また元に戻ってしまうのが一瞥体験でしょうか。

すでに常に「いまここ」にあると認識されるだけです(^^)

戻る場所がなく、
これからなるものでもなく、何かをされた先にあるものでもなく、

常に「いまここ」にあるものです(^^)
直接体験してるそれだけですv
Posted by ともこ at 2019年04月17日 06:51
あ!瞑想の時、力が入ってないか、のチェック、いいと思います!最近意識するようになりました。 目を瞑って静かにして、なんか気が散ると感じた時は、どこが力んでるかチェックをしてみたら勝手に緩むものなんですよね。 その部分が
阿部さんがいってた、瞑想はお掃除、坐禅は充電 みたいな表現、しっくりくる!
瞑想でなくても、寝る寸前の時とかもいいですよね。 記事へのコメントではなくなってしまってすみません(゚o゚;
非二元の話、二元の話、いつもほんとハッとします。阿部さん本日もありがとー!
Posted by ばくすい at 2019年04月17日 16:52
>> 常に「いまここ」にあるものです(^^)
>> 直接体験してるそれだけですv

ありきたりなことを言うやもですが、敢えて言葉で例えるなら、
それは一瞥体験と言うより、連続体験と言った方が良いのではないでしょうか!? (´з`)ゞ
Posted by 緑の狸(三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年04月17日 20:16
連続体験いいですね(^_-)☆
Posted by ともこ at 2019年04月17日 21:17
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