2009年05月11日

その時考えよう

数日前、リビングのサイドテーブルの上に西村京太郎さんの推理小説が置いてありました。

その手の本はめったに読まないのですが、パラパラとめくっていくうちに、すっかり引き込まれてしまって、この数日間、時間さえあれば読んでいました。

そんなわけで、気分はすっかり十津川警部です。

横顔も少し渡瀬恒彦に似てきたかもしれません。


いよいよ来週から、東京と大阪でいまここ塾が始まるし、来月は博多もあるし、できたら「おお、阿部さんってけっこう素敵じゃん」って思われたいし、このまま渡瀬恒彦を維持していたい今日この頃です。


というのも、先週本土から沖縄のいまここ塾に来てくれた若い女性が、

「私、安心しました」

「え?なんで?話の内容が聞きたい話と一致していたの?」

「ううん、そうじゃありません。阿部さんが普通のオジサンで安心しました」

「・・・・・・」


あはは、まあいいか。

やっぱり普通のオジサンでやらせてもらいます。



さてこのところ、ぶっ飛び路線から、現実路線にシフトしてブログを書いていますが、今日もその路線で行ってみます。

ここで「あー僕は幸せだな」なんて言っていても、そんな気分になれない人から見たら、何の助けにもならないでしょうから、今日は落ち込み解消に少しでも役に立ちそうなことを書いてみます。



かく言う僕も、昔は不幸な気持ちを感じる天才でした。

一番の得意技は心配と不安です。

うまくいっている時は、いつかうまくいかなくなるかもしれないと心配し、うまくいかないときは、このまま最悪の事態になるのではと心配しました。

未解決の問題があれば、そのことばかりを考えていました。

とにかく心配が好きで、心配していれば最悪な事態を防げるような気がしていたか、あるいは最悪になった時の心の準備をしていたのかもしれません。


心配ばかりしていたら幸せな気持ちにはなれません。

身体は重くなるし、気分は滅入るし、せっかくの一日が台無しです。

なんのためにそんな気分でいるのかと言えば、幸せになりたいからです。

幸せになりたくて不幸な気分を味わっているわけです。


思考まみれで幸せを感じていることはありません。

むしろ幸せな時は、あまり考えていない時です。

したがって、幸せになりたい人へのアドバイスは、「考えないこと」の一言に尽きます。


もちろん、先のことを考えて対策を講じるのも大切なことです。

しかし、同じことばかりがいつも頭の中をめぐっていたら不健康ですし、たいしたアイデアも出てこないでしょう。

考えない時間を持つことは、考えをシャープにする秘訣です。


「考えないこと」

これは、ついうっかりすると思考まみれになってしまいがちな傾向に、ちょうどいいバランスを与えてくれます。



そのやり方ですが、僕自身は、いつも考えるのを後回しにしています。

たとえば、「お金が足りなくなったらどうしよう」と思ったら、それは「その時考えよう」となります。

「失敗したらどうしよう」と思ったら「その時考えよう」と思います。

時間という幻想を逆手にとって利用するんです。

これはけっこう効果的です。


どんな不安も心配も「いま」というこの瞬間のことではありません。

それは必ず先のことです。


であれば、心配も先延ばしにしてしまうのです。

「その時考えよう」


もうお分かりだと思いますが、「その時」はやってきません。

だっていつも「いま」だからです。


「いま」この瞬間には何の問題もありません。

1分後の事は知りませんが、少なくとも「いま」の中にはありません。

そして驚くことに、これからもずっと「いま」なのです。



反対に、過去のことで落ち込んでいる場合もありますよね。

そういう時は、くよくよ考えているだけで、どうどうめぐりの思考の中で、にっちもさっちもいかなくなっています。


ああ頭に来る→こんな気分を変えたい→何故こんな気分なのか→だってあんなことを言われたから→気分を変えるにはあんなこと言われないことだ→でも言われてしまった→ああ頭に来る→こんな気分を変えたい→何故こんな気分なのか→だってあんなことを言われたから・・・・・

決して出口のない循環思考です。


この回避法は先日伝えましたよね。

どうしても考えてしまうなら、せめて考えのサイクルを変えるのです。


あんなこと言われてしまった→この出来事の何が素晴らしいんだろう→そうか彼は自分が嫌われるリスクを背負って何かを教えてくれたんだ→ありがたい→私はなんて幸せ者なんだ→何故こんなに幸せなのか→だってあんなこと言ってもらえて学びになったから→ありがたい→私はなんて幸せ者なんだ・・・


え?そんな風に思えないって?

それは心の底から納得しようとしているからですよ。


無理無理でいいんです。

とにかく思考の悪循環を断ち切ればそれでOK。




それ以外のことは、「その時考えよう」


せめて「いま」だけは、幸せな気持ちでいようねニコニコ




・・・・・・・・・・



さて、明日の「いまここ塾」は199回目。

中城村の吉の浦会館(895-6994)で開催します。

明後日は「水曜の会」。

こちらは那覇市西町「てぃるる」(866-9090)の和室です。

  


Posted by Toshiro Abe at 08:25Comments(37)

2009年05月10日

シャンタン

外側ではいろんなことが起きるけれど、自分の内側深くに、何も影響されていないまるで深海のような静けさがあります。

この数カ月、日常生活の中でもその部分を感じられるようになってきています。


僕は今頃になって急に成長しだしたことを実感しています。

それは一番近くにいる家族がよくわかるようです。


これも全体から見れば、大きなうねりの中のひとコマなのでしょうね。

僕たちは確実に次なる次元に向かっているようです。




あなたの内側にある、もっとも深い部分。

「あなた」という基本的な感覚を感じることができますか。


それは、幼いころからずっと持っていた、何も変わらないあなた自身です。

年老いることのない、内なる身体です。


そんな内なる身体を感じる習慣を持つようにしましょう。

それは全身で「いま」を感じている状態です。



僕はそれに「静寂」という名前を付けています。


「かんながら」の物語に、シャンタンという男が登場しますね。

シャンタンとはサンスクリット語で「静寂」を意味しています。


彼は実在の人物をモデルにしていますが、実在の彼も自らをシャンタンと名乗ることで、常に内なる静寂を感じているようでした。

名前というのは、いつも大切な何かを忘れないための、うまい方法だなと思ったのを覚えています。

当時すでに50歳くらいの初老の男性でしたが、オショー・ラジニーシの初期のサニヤシン(弟子)でした。

いま、どうされているでしょうか。



僕はよく、飛行機の中でも瞑想をします。

高度1万メートルの上空では、人間の思考圏から離れるからでしょうか、とても深い境地に入れます。


しかし考えてみれば、機内では「ゴー!!」という轟音が鳴り響いているはずなのに、なぜか静寂に包まれるのですから不思議です。


静寂とは、外側の無音状態のことではなく、内なる身体が持つ特性なのだと思います。

だからその気になれば、どこでも静寂を感じていることは可能です。


それは心の動揺やストレスをすべて消し去ってくれます。

思考も最小限に減らしてくれます。


そんな状態になりきることが、高い次元に存在することだと思います。


肉体はあいかわらず存在しますが、同時に内なる身体を感じている状態が、アセンションと言われる次元上昇の結果訪れる境地なのではないでしょうか。




今日もここに来てくれてありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:48Comments(25)

2009年05月09日

宣言

最近テレビを見る人がずいぶん減ってきたようですね。

特にネットの世界が生活の一部になっている人は、その傾向が強いんじゃないでしょうか。


ニュースでは今日もどこどこで殺人事件があったとか、事故で何人が死んだとか、そんなことをクローズアップして伝えています。

まるでこの世は危険に満ちていて、人間の本性は一皮むけば悪魔であるかのごとくです。

でもよく考えてみれば、そこに報道されている内容は、極めて稀な出来事であり、実際に自分の人生に起こる可能性はほとんどありません。


1億3千万人の中の、ごく一部の人に起きた悲しい出来事を、全員で共有させようとしているかのようです。

僕たちはいつの間にかそのようなムードを真に受けて、自分の人生とオーバーラップさせていないでしょうか。

思考は、自分の現実に起きたことと、単なる情報を、同じように持ち運んでしまうからです。



さて、僕たちが住んでいる実際の世の中はどうでしょうか。


僕の周囲を見回して見ると、善良で優しい人たちで溢れています。

そこには平和があり、穏やかさがあり、温かさがあります。

そして世界全体が平和であることを願っています。



もちろん人間ですから、各自それぞれに問題を抱えているでしょうが、それでも努めて明るくふるまい、一生懸命に生きています。


あなたの周りの人たちもそうじゃないですか?


僕たちはなんて幸運なのでしょう。


こんなに平和な世の中で、多くの素晴らしい人々に囲まれ、今日もこうして生かされています。


花が咲き、鳥が遊び、青い空が広がっています。

いまここに、命の賛歌が聞こえてきます。



何を探しているのですか。


足を止めてみましょう。

僕たちはもうとっくにたどり着いています。



ないものを求めるよりも、すでにあるものに感謝するのです。

そうすれば、もっと幸せがやってきます。




僕は「いまここ」に幸せがあることを宣言します。


この世がとても平和で美しさに満ちていることを宣言します。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:55Comments(31)

2009年05月08日

この出来事の何が素晴らしいのか

皆さんの前でお話したり、こうして毎日ブログを書いたりしている内容は、元をたどれば25年前に一瞬にして得た答えがベースになっています。

おそらくわずか数秒の出来事だったのでしょうが、そこに「存在」に関するありとあらゆる答えがありました。

大げさに言えば、宇宙の叡智とつながったということだと思います。

同じ経験をした人はわかると思いますが、それは立体的な体感なので、言葉をいくら駆使しても届きません。

それでもこうして言語化しようとするのは、自分自身にとっても、その答えを蘇らせるために有意義だからです。


さて今日もその中からひとつ拾ってお話しさせてください。


「人生で起きることには何一つ無駄はなく、その全ては自分自身に最も素晴らしいことが起きている」

というものです。


これは理性や思考でとらえたら、とてもじゃないけど素直には受け入れられない言葉です。


いまこんなに苦しい出来事が起きているのに、何を言っているのか。

殺された人や、事故にあった人にまで同じことを言うのか。


とまあ、こんな調子で否定されてしまっても仕方がない言葉でしょう。


それでも断言します。

「人生で起きることには何一つ無駄はなく、その全ては自分自身に最も素晴らしいことが起きている」

これは真実であり、これ以外の真実はありません。



このことを理解するには、人間の目線では難しいかもしれません。

宇宙的自己から見た真実と言えるかもしれません。


理屈では説明できませんが、一片の疑いもないリアルさで真実を垣間見てしまえば、あとはその真実を生きるしか残っていないのです。


したがって、僕の人生観の根底には、この「人生で起きることには何一つ無駄はなく、その全ては自分自身に最も素晴らしいことが起きている」がいつも脈々と生き続けています。

しかもそれは、人生を限りなく気楽なものにしています。

だからこうして、みなさんと分かち合いたいのです。



確かに、その瞬間には受け入れられない出来事は起きます。

しかし次の瞬間、「これも今の僕にとって最高の出来事なんだ」となり、次に「それは何故だろう。この出来事の何が素晴らしいのだろう」と続きます。


このような習慣は、放っておけばマイナスにしか考えられない思考パターンを逆流させます。


思考の95%は否定的(心配、不安、裁き、後悔・・・)なことです。

それは自分を守ろうとする思考の使命で、うまくいっている時さえも、将来この状態が続くはずがないと、様々な不安材料を探しだします。

ましてや、受け入れがたいことが起きた時は、我を忘れて、動揺したり、不安におののいたり、後悔したり、落ち込んだり、犯人捜しをして誰かを責めたりという方向で、思考が渦巻いていきます。


ところがそこに、「この出来事の何が素晴らしいのだろう」という考え方を持ち込むと、いい意味で思考が機能障害を起こし、いつものパターンにはまらずに済むのです。


たとえば会社をクビになったとき

「本当は100%好きな会社じゃなかったけど、自分から辞めるのは怖くてできなかった。それを会社のほうから背中を押してくれたということは、天がもっといい場所があるって教えてくれているんだ」

みたいな感じです。


もちろん最初は無理無理の理由しか思いつかないと思いますが、それでもマイナス思考に取り込まれていくよりはずっとマシです。



現実は現実。

どう考えようが現実は変わらないのですから、どうせ同じ現実に対処するなら、元気な心のほうがいいですよ。



嫌なことが起きたらチャンスです。

これを試すチャンスです。


最初は、思考や感情を無視して、強引に思いこもうとしてみましょう。

だんだんコツがわかってきます。



それにね、これは単にプラス思考を勧めているのではなく、宇宙の真実を紹介しているのですよ。



健闘を祈ります(^o^)




・・・・・・・・・・・




さて、お待たせしました。

向禅師が来沖します。

向さんについては<随(かんながら)神>の中でも紹介しましたが、温かくて、しかも真理をズバリ言葉にしてくれる貴重なお方です。


来週「いまここ塾」が200回を迎えるので、それを記念して、僕とコラボ講演をしてくれます。

詳しくはコチラから。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:21Comments(39)

2009年05月07日

人間関係

今日から仕事復帰という人も多いのでしょうね。



今日は現実的な話をしてみます。


昔、方広寺で、企業幹部を集めて研修会をやっていたころがありました。

そこでは、個人セッションがあって、ルールは他言無用で本音で語り合うというものでしたが、そこで企業人たちの様々な悩みや苦しみを聞くことができました。


自分が正当に評価されていないのではないか。

自分は過剰に評価されていてプレッシャーが激しい。

この先、仕事を失うのではないか。

この仕事に向いていないのではないか。

目立ちすぎてしまうのではないか。


へえ、そんなものかと思うくらい、たくさんの悩みがありました。


そのことで病気になって入院経験を持つ人もいたり、家庭生活にも影響を与えていたりと、事態は深刻でした。


どれもこれも、自己に対する十分な気づきがあれば避けられるものばかりでした。

もし組織を構成するメンバーたちが、健全な自己認識を持ち、他者の中にもそれを見てとれたとしたら、お互いに足を引っ張り合ったり、中傷合戦をしたり、嘘をついたり、言い争いなどの非生産的な行為で、無駄にエネルギーを消耗することはなくなります。

したがって、あらゆる組織における、もっとも的確なマネジメントの方法とは、各自の内面にある自己価値を高めていくということだという結論を持ちました。



また話が難しくなりそうなので、今日はもっと具体的な話にします。



そんな企業人が持つ悩みの中で、最も多かったのが、人間関係の悩みでした。


これは企業内だけでなく、僕たちの人生全般にわたって浸透している問題かもしれません。




どんなに心が通じ合ったと思った人も、実際にはまったく違う解釈の現実を共有している場合があります。


誰もみな、人を傷つけようとして生きているわけではなく、むしろ良かれという気持ちで接していても、それぞれの世界観のずれや、ほんの少しの配慮のなさが、取り返しのつかない事態になったりします。


誰が悪いわけではなく、そういう難しさがいつも潜んでいるのが人間関係かもしれません。


実は、人間同士の距離間を縮めると、何かの出来事をきっかけに、少しずつ心の中で封印してきた感情が外に表れてきます。

これは自分の意に反して、必ず起こる現象です。


すると僕たちは、その感情を相手のせいだと思い、心の中で相手を責め出します。


これは特に異性との愛情関係で起きやすいですが、同性同士でも心を許しあえば時間の問題で起きることになります。

上司と部下や、同僚などの間柄もしかりです。


相手が大切な人であればあるほど、その感情は強烈になります。

それを味わうのが嫌ならば、いつも心理的な距離を保ちながら、ちょっとクールな大人の関係になればいいのですが、感情タイプの人はどこまでも接近したくなってしまい、結局は傷つくことが多くなります。


どんな人間関係も、逢ったばかりの頃に惹かれあっている時は、相手の美しいところばかりが見え、やっと理想の人に出会えたような気になります。

しかし時間がたつと、相手が必ずしも自分が思っていたような人間ではないことに気づき、裏切られたような気になります。

そのようなことが起きた時、僕たちは心の中で相手を責めたり、あるいはこんなに好きだった人のことを憎み出している自分を責めたりしますが、そんな必要はありません。


それは相手や自分が原因なのではなく、関係性が持つ宿命のようなものだからです。


実際には、そこからが本当の人間関係の始まりなのかもしれません。



みなさんも同じような経験はありませんか。

人間関係は難易度が高いですが、自分を映し出してくれる鏡のような役割もあって、自分がどんな人間なのかを教えてくれます。



自分の姿は、他者の目の中でまったく違う姿で映っていたりもします。

実際の現実は、どんなスリラー小説よりも奇抜ですね。



リラックスして、いまを生きることで、あなたの仕事を生産的なものにしてくださいね。


今日もここに来てくれてありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:57Comments(27)

2009年05月06日

男の更年期?

昨夜、いまここ塾が始まる前、会館の同じフロアーにあった図書室に入ったら、すぐに目にとまった一冊の本。

タイトルは

「男の更年期障害」


以前なら何の興味も持たなかったであろう本がやけに気になって、本番直前まで読んでいました(笑)。


医学的な本だったのでホルモンの分泌云々の話が中心で、ちょっと難しかったのですが、どうやら男性にもそのような症状があることだけはわかりました。


男の場合は、身体的変化というよりは、社会での立場的変化による心理的障害のほうが大きいような気もします。

これまでの男性は、会社や仕事と結婚するみたいなところがあって、社内での役職が高ければ高いほど、それを失った後の自分が、急につまらない存在に見えたりします。

聞いた話ですが、趣味に興じるしかなくなって、囲碁センターなんかで、やたらと過去の自分の高い地位を披露して嫌われている老人がいるとか、笑えない話もあります。


それともうひとつ、家庭内での立場も危うくなるんじゃないでしょうか。

父親は外で生活費を稼いできて、それによって一家を支えているという自負があります。

しかし生活というものは、家庭での会話だったり、家族の交流だったり、そんな人間同士の触れ合いによってできているわけです。

お金を稼ぐというのは、その生活を維持するための二次的な行為なのに、まるでそれが一番大事であるかのように錯覚してしまうのが男です。


しかも母親の場合、我が子は自分の体の中から生まれてきたわけで、その存在に対する感覚は男とはまったく違うように見えます。

愛情の質や、関係性の質もまったく違います。

母親という存在は生物的なものですが、父親という存在は社会的なものなのかもしれません。

したがって退職して家庭内での役割が変われば、急に無用の長物になってしまう危険性があるわけです。


そんなこんなで、この年齢での男の危機は身体的更年期障害だけではないように思います。


そう言えば男性は女性に比べて、心を開いて会話をしたり、楽しむことが苦手ですよね。

お年寄りの集まりを見ても、お婆ちゃん達は、大きな口をあけて笑い転げていますが、お爺ちゃん達は、たいていムスっとした顔で何やら話しこんでいます。

これはやはり、男女の気質的な違いがあるのでしょう。


大雑把に言えば、男性は思考タイプで、女性は身体タイプなのではないでしょうか。

感情というのは身体の思考みたいなものなので、だから女性のほうが感情豊かなのかなと。

それはいいとか悪いとかの話ではなく、与えられた役割の違いだと思います。



さて話は変わりますが、この世はいわゆる男性社会です。

男性社会というのは思考中心の社会とも言えます。

感じることよりも考えることが重要視されます。

学校教育を見ても、感性の発達よりも知性の発達に力を入れています。

その結果、科学が進歩し、生活も快適になってきました。


しかしそれが行き着いた先は、環境破壊であり、核の脅威です。

これらは、人間の思考が作り出した産物です。


核を作り出したのは、狂人ではありません。

極めて知性的な人たちです。

核爆弾を罪のない民間人の上に落としたのも狂人ではありません。


作った人も使用した人も、合理的思考を重ねた上での行為だったのです。

言うまでもなく、極めて愚かな蛮行です。

ここに知性や合理的思考の限界を見ることができます。


これらの問題を、いま世界的な規模で解決しようとしていますが、根本的な解決は当分先のことです。

その理由は、思考が作り出した問題を、思考が解決しようとしているからです。


この問題を解決できるのは、彼らではなく、新しい人類たちです。


それは思考を超えた命の本質(大いなる存在)を感得した者たちです。

男性性と女性性を統合した、新しい人間たちです。


そんな人たちが急激に増えて、人類の文化が根底から変化するのだと思います。

もうその変化の波は始まっています。


まだまだ書きたいことはありますが、今日はこの辺りにしておきますね。

こういう話を始めると終わらなくなってしまいます。



・・・・・・・・・・



いまここ塾 in 博多」は、キャンセル待ちになっています。


「あの世に聞いた この世の仕組み」の雲 黒斎さんとのコラボ講演CDは明日から発送を再開します。

お待たせしてすみませんでした。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:01Comments(15)

2009年05月05日

虚無僧

どんな連休を過ごしていますか。

僕はあいかわらず、家でじっとしています(笑)


今日は、死んでしまった友人の誕生日だったなって、生きてた時は祝ってあげたこともないのに、そんなことを思い出しました。


人は死んだらどうなるのか。

禅の立場から言えば、それは死ぬ時にわかることで、いまは生きているんだからしっかり生きろとなるんだけど、それでもやっぱり興味ありますよね。


深い次元の話をすれば、死んでも何も変わりません。

だって死なないんだから。

それでも常にその次元にいられるわけじゃないし、自己という感覚を抱えた通常の僕らにとってはどんな経験になるのでしょう。


僕らは基本的には変化を避けようとします。

もちろんよりよき人生を望んでいるのですが、いまある環境や関係は失いたくないと思っている人が多いと思います。


でもそれはできない相談で、どんな出会いも別れがつきものだし、いま目の前の大切な人とも、いつか必ず別れの日が来るのです。

そのような物事の終わりは、一種の死を連想させると思います。

古くは学校の卒業から、あるいは長年携わってきた仕事を辞める時、恋人や親しかった人との関係が終わった時、財産や所有物を失った時、身体の一部が失われた時、もう二度と同じ経験ができないというやり切れない気持ちになります。


死はそれら全てを一気に奪い去っていくので、死に行く時の虚しさや寂しさは言葉を超えていることでしょう。

その中には、何より大切だった自分自身や、それが作り出した人生も含まれているので、死にたくないと考えるのは当然のことです。



でももう一歩踏み込んで、それら死と共に消えうせるもの全てが、自己同化していた幻想にすぎないと理解していたとしたら、話は変わってきます。

実際に、奪われるもの全ては、最初から自分のものではありませんでしたし、逆から見れば、何一つ失うものはありません。

さらには、物事の終わりは常に次の始まりにつながっていて、終わりと始まりは表裏一体だということを知れば、また違った経験になることでしょう。



僕たちが何かを失うことを恐れるのは、それがなくなった時に感じる、つかみどころのない虚無感があると思います。

しかしその虚無感は、もともとの僕たちの状態であり、敵ではありません。

その感覚と仲良くなれたら、もう怖いものはありませんね。




虚無僧になって、尺八でも吹いてみませんか。



  


Posted by Toshiro Abe at 10:40Comments(18)

2009年05月04日

いま思ったこと

「あるがままでOK」の続きです。

このことを考えるうえで、つい見逃してしまう真実があります。

うまく言い表す自信がないのですが、とりあえず書き始めてみます。



それは、固定された「自分」など存在していないということです。

僕たちは何でも固定した実体として、自分自身や現象を捉えてしまいますが、実際にはすべては刻一刻と移り変わっているのです。

この世の全ては現在進行形で流れ続けています。

そのことを諸行無常といいます。


昔聞いた話ですが、中央アジアのある地方の言葉には、名詞が存在せず、すべては動詞で言い表すのだそうです。

たとえば、山のことは「山している」

川は「川している」

自分は「自分している」というわけです。


その話を聞いた時、なるほどそれは言い得ていると思いました。

一見動かぬ実体のように見える山も、何万年のあいだにはすっかりその姿を変えているか消滅してしまっているかもしれません。

ただ目に見えないだけで、いまだってほんの少しずつ変化しています。

確かに、いまは山をやっていますが、それは永久的なものではないのです。



僕たちに至っては、肉体を構成する細胞も瞬間瞬間に入れ替わり、考えも感情も人柄も刻々と変化しています。

やがて肉体は朽ち果てて死を迎え、また新たな存在としての表現が始まります。

あなたも僕も変化しつつけているのです。


したがって、「あるがままの自分でOK」という言葉は、正確には「あるがままに変化し続けているこのプロセスでOK」ということになります。



究極的には、「自分」など存在していないのです。

「自分」という感覚は、その瞬間の刹那的なものであり、固定化されて継続しているものではありません。


僕たちは時間という幻想を持っているので、過去から未来に向かって、「自分という実体」が生き続けていると思っています。

しかし実際には、常にいま、「自分という現象」が刻々と生起しているだけです。


その真実を見抜けば、肩の荷はすべて下ろすことができます。

あらゆる幻想が消滅するからです。



これは感覚的に掴む話です。

これを理解すれば、「あるがままの自分でOK」というのは、自分を超えて、森羅万象全ての流れをOKだと認め、信頼することに繋がっていきます。


僕たちは、あまりにも自我が作り出す思考の世界に囚われすぎていて、真実の姿が見えなくなっているんです。

真実は「いまここ」が存在する、ただそれだけの話です。



最後にもうひとつ違う観点からお話します。


自我は無条件に何かを認めることなど絶対にできません。

それをしたら自我が消滅するしかないからです。


だから「あるがままでOK」などとは到底思えないのです。

殺人をしてもOKか、戦争でもOKかという具合に、偏向的な議論をしかけてきて、真実を煙に巻こうとします。


それしか自我が生き残る道がないからです。


結局のところ、いかに思考の世界から抜け出すかということ尽きます。

思考の世界(自我の世界)にいながらにして、「あるがままの自分でOK」と心から認めることは不可能だと思います。



あれこれ言いましたが、何かを感じてくれたら嬉しいです。



・・・・・・・・・・・・・



休日の5日も6日も、那覇で講演しています。

明日は「いまここ塾」、明後日は「水曜の会」です。

どちらも19:30から「てぃるる」(866-9090)でやっています。

誰でも入れますから、どうぞお気軽にいらしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:22Comments(25)

2009年05月03日

良い人

僕たちは無意識に、自分ではない誰かさんを演じています。

「あるがままの自分でOKだよ」なんて言われても、頭では受け入れても、実際にはOKだと思っていません。



何故でしょう。

その理由の一つは、僕たちはいままで、あるがままの自分で100%愛してもらったことがないからです。

いつも条件付きでした。

自分がある一定の条件を満たした時、社会から受け入れられるような気がしているのです。

だから、自然にそんな自分を生きるようになったのです。




私は優しい人間です。

ほがらかで。

いつも家族と仲良く暮らしてます。

どこから見ても変な人じゃありません。

急に怒ったりしません。

ひねくれて、裏を読んだりしません。

正義大好きです。

自立してます。

前向きに生きてます。

感謝してます。

許してます。

みんなを受け入れています。

差別しません。

人を見下したりしません。

法を守ってます。

悪いことは嫌いです。

遅刻はしません。

約束守るし。

真面目に働く私です。

金の亡者じゃありません。

物欲は卒業しました。

SEXは適度につつましく。

浮気なんて考えたことありません。

もちろん変態じゃないし。

税金は一銭もごまかしません。

いつも社会のためを思って生きています。




これが私です。

これがあるがままの私です。


こんなノーマルで、正直で、良い人の私を、誰か愛して下さ~い!!


だから私は今日も、ノーマルで、正直で、良い人を生きているんです!!



でも心の底ではしっかり知っています。

本当はそんな自分じゃないことを。


だから

「あるがままの自分でOK」って言われてもねエ。



でもね、本当にあるがままの自分で100%OKなんですよ。

この先も、あるがままの自分にしかなれません。


あるがままの自分って、まさにいまの自分です。

もう少し問題が減ったあかつきの、もう少しマシになったあるがままの自分じゃないですよ。

いまのそれですよ。


あはは、しつこいですね。


でも、もう諦めたほうがいいですよ。

社会が押しつけた理想像を真に受けないことです。


もちろん、自分の中には美しいものもたくさんあります。

でもある時は、性格破綻者で、多重人格で、分裂気味の自分もいて、それでいいんですよ。


人間はね、どこまでいっても、プラスとマイナスがセットなんです。

それが人間種という生き物なんですから。



社会の中では、それなりの自分を生きればいいだけの話です。

でも根っこから、そんな理想の自分にはなれないことを覚えておきましょう。


だって、あるがままなんだから。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:24Comments(47)

2009年05月02日

無題

地方都市の貧しい家庭に生まれました。

幼いころはおとなしくて手のかからない子供だったそうです。

でも記憶に残っているのは、近所の年上の子供たちに虐められたこと、貧乏を笑われたこと、それを跳ね返すために小学校に上がってから力で周囲を制圧したことです。


しかしわずか3カ月で転校することになり、転校した学校では今までのような強がりが通用せず、嘘で自分を大きく見せて身を守りました。

みんなから嫌われていて、せめてみじめな本当の姿を知られないように明るく演じつづけましたが、人との溝は深まるばかりで、こんな自分だから仕方ないとあきらめていました。


学校の勉強にはまったく興味が持てませんでしたが、中3になったとき、母から真顔で勉強してほしいと頼まれ、働いてばかりだった母を喜ばせてあげようと猛勉強しました。

成績はトップクラスになり、最難関校に合格しました。

この経験は、その気になれば何にでもなれるという自信になり、その後の破天荒な人生に少しは役立ちました。


高校は寮生活でしたが、やはり周囲に馴染めず、何も疑問を持たずに教師や社会に従順な生徒たちが信じられず、わずか半年で勉強を放棄しました。

高2の時、生きることは無意味だという結論に達し、死ぬ方法ばかり考え始めました。

毎日が味気なく、どこまでやったら教師が怒るかと、極端な反抗的態度を取り続けましたが、そんな僕を恐れてか、みんな遠巻きに眺めるだけでした。


結局は3学年で退学処分同様の形で学校をやめ、上京しました。

都会に出て華やかな仕事に就けば、何かあると思ったのです。


憧れの東京でしたが、やはり誰と会っても馴染めませんでした。

どうせ儚(はかな)い人生なのだし、金を稼いで、女と遊んで、危ない遊びにふけって、やりたいことは何でもやってやろうと思いました。

そして、がむしゃらに生きました。


一通り、人にはできないような経験もしましたが、だから何だという思いが残るだけでした。

快楽はその時だけの慰めだとしても、他の可能性を知らず、頑なに欲望を追いかけました。


どこまで行っても何もなく、そのうちまた死の誘惑が訪れました。

人生はうまくいっても幸せじゃないし、いかなきゃいかないで不幸だし、この世は生きるに値しないという思いがよみがえってきたのです。

今度の自殺願望は、思春期のそれとは違い、やるだけやった後の虚しさがあった分だけ絶望的でした。


しかし本当に死ぬだけの勇気もなく、おめおめと生きながらえて、やっと息を吸っているような状態で、夜な夜な心の谷底をさまよっていたら、突然彼方から答えがやってきました。



「汝、それなり」


!!



その一瞬で、僕の人生は終わりました。

自殺をしても残ったであろう「自己」という幻想が、きれいさっぱり消えて無くなったのです。

生きながらにして完全に死ぬことに成功した瞬間でした。


その日から、同じことを言い続けています。

「すべてはひとつであり、あなたがそれだ」と。



僕ごときが話しても何の説得力もないことを知りつつ、話さずにはいられずに話し続けています。

きっとこれからもずっと話し続けることでしょう。




この世にまだ何かあると思っている人は、とことん夢を追いかけてがむしゃらに生きればいいと思います。

そしてそこに何もなかったと知ったときが、新しい旅の始まりです。


それは必死に生きてみて初めてわかることです。

だから結局は、一生懸命に生きるしかありません。


精神世界のブームに乗って、ショートカットしてわかったような気になっても、生ぬるい救済の中で自分をごまかすだけで、気がつけばまた振り出しです。

安全地帯に逃げ込むことなく、リスクを背負って生きることをお勧めします。

生きるとは危険を生きることなのです。


冒険してみましょう。

冒険しただけ新しい可能性と出会っていきます。


頭でっかちになってはいけません。

評論家になってはいけません。


生きて、生きて、生きてください。


そして本当に消耗したら、僕のところに来てください。



きっとその時も同じ話をしていますから。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:48Comments(48)

2009年05月01日

せ~の!!

数日前から「神」という言葉を多用しています。

最初はちょっと抵抗もありましたが、書き続けていると、これほどズバリと真実を表す言葉はないと感じます。

そもそも僕たち自身が神の分身なのですから、神を語るのは僕たち自身を語ることでもあります。


ここにはたくさんの神々が集まってきますが、それは違う個性から表現されている同じ神の姿です。

僕たちの本質はひとつであり、それが神なのです。

それ以外に神はなく、神はひとつです。

そこから「一神教」がうまれます。


ところがその考え方は、後世、人間の自我の解釈によって、「我々が信じる神こそが唯一の神だ」というように歪められ、争いの原因になってきました。

神の子はひとりですが、それは特定の誰かを指すのではなく、僕たちの中にある神は同じものであり、そこにおいては誰もがおなじ「ひとり」の存在だと言う意味です。


同時に、この世には同じものが何一つなく、僕たちは唯一無二の個性を持ち、それぞれに違う香りを発揮して、全体としての豊かさに貢献しています。

ひとつなのに、現象としては同じものが一つもないというのが、この宇宙の神秘です。


その個性の違いが「八百万(やおよろず)の神」として表わされていて、それは全てのものに神が宿っているというアニミズムにつながり、西洋の一神教とも矛盾なく共存することができるのです。


真実はひとつであり、神もひとつ(ひとり)だけですが、その解釈の違いによって論戦が起こり、あるいは聖戦の名の下で戦争が起こってきました。


もう僕たちは、すべてを統合する真実を感じ始めています。

この感覚を世界中の同胞と分かち合って、そして世界が一つになればいいと思います。


それはひとつの文化になることではなく、ひとつの宗教になることではなく、お互いの違いを認め合い、補い合いながら、その底辺に流れる同じ一つの真理を共有するような世界です。


その同じ一つの真理こそが、神であり、愛なのです。


昨日のコメントで、T.さんが言うように、すでに真理は言い尽されていて、後は実践あるのみです。

それは、体験的に真理に気づくということ、体験的に自分が神だったことを思い出すことです。



世界中が「せ~の!」で思い出せたらいいんだけどな。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:31Comments(31)