2021年10月28日
真実への道
いまさら誕生日でもないのですが、今年は思いがけず沢山の方達からお祝いしてもらい、生きていることを祝福してもらったような気がします。
ありがとうございました。
このことを力づけにして、流れのままに生きていきたいと思います。
さて今日は直球でいってみます。
イベントの紹介は遠慮がちになってしまうのですが、思いを残さないように書いてみます。
先日、奇跡のコースの香咲弥須子さんと会ってきました。
彼女が禅サンガをとても高く評価してくれていることが伝わり嬉しかったです。
奇跡のコースが教えようとしていることはただ一つ。
この世は幻想であり、人々の本質は愛そのものだということ。
これ以外にありません。
いまや我々は世界中の精神リーダーたちの本を読むことが可能ですが、その人たちの多くが奇跡のコースを学んでいたことを思うと、西洋人には分かりやすいということでしょう。
日本で流行らなかった理由はいくつか考えられますが、いまやっと時が来たと思っています。
愛(神)との最終的な合一は人間を超えた力によって起こります。
しかしその一歩手前までは、学ぶことと実践を通してたどり着けることは、すでに多くの人たちが実証済みです。
その一歩手前と言うのは、愛を生きることで物質的にも精神的にも充実し、思いのままの人生を繰り広げられるということです。
そのように言うと、いったいどこの誰がそうなっているのかと思うかもしれませんが、この阿部敏郎もその一人です。
ということは、偉人でなくても聖人でなくても、そのような生き方は誰にでも可能だということです。
自分にはそうなることが難しく思えるのは、たとえば奇跡のコースの内容に登場する「ホーリースピリット」とか、「ゆるし」とか、「神」などという言葉が、何を意味しているのか自分の中の実感と一致していないからです。
僕も最初はそうでした。
でも実感してみればとても当たり前のことで拍子抜けするくらいです。
そしてこの実感が、揺るぎない確信として真実が内側に定着するきっかけになりました。
ここまでは、きちんと学べば誰でもたどり着ける境地です。
どうしたらいいのかも、この数年間の試行錯誤によって明らかになってきました。
禅は奇跡のコースと全く同じ着地点を持っていますが、禅だけだと難しく感じてしまう人たちもいます。
何故なら禅は「いまここ」に徹していて、瞬時の悟り以外は相手にしないからです。
でもここに奇跡のコースという段階的カリキュラムが加わることで、多くの人に道を開示できると思っています。
そのためには、いますでに禅サンガで展開している奇跡のコースを、もっとわかりやすく、もっと日本人に合ったものに変えながら、最初の内は手取り足取り共に進んでいく姿勢が必要であり、いまサンガでも再構築しているところです。
さて前置きが長くなりましたが、コースに関心が持てない人も、禅と奇跡のコースの一致点を学ぶことは、真実への揺るぎない信頼になり、生きる方向が無駄なく統一されるようになると思います。
たぶん史上初になるであろう、禅僧と奇跡のコースのスペシャリストとの対談をいつまでも残る形でお届けしようと思います。
この二つの世界を繋げるには僕自身も必要だと考え、3人での講演を開催することにしました。
道を求めている人にとっては目からうろこの鼎談になると思います。
すでにご紹介していますが、開催日も近づいてきたので再度ご案内します。
詳細はコチラからご覧ください。
もちろん奇跡のコースも、真実に向かう道の一つに過ぎません。
原文タイトルが
A Course in Miracles
と言っていることからも明らかです。
他にもCourse in Miraclesはたくさんあることでしょう。
禅もノンデュアリティも仏教もスーフィズム(イスラム神秘主義)も道教もヒンズー教もタントラも行き着くところは同じです。
21世紀は宗教の枠を超えて、これらの内容がさらに洗練され、その人その人に合った形で提供されていけば、人類規模の意識変革に大きな貢献をもたらすと思います。
インターネットは使い方次第でその役目の一端を果たすと考えています。
ありがとうございました。
このことを力づけにして、流れのままに生きていきたいと思います。
さて今日は直球でいってみます。
イベントの紹介は遠慮がちになってしまうのですが、思いを残さないように書いてみます。
先日、奇跡のコースの香咲弥須子さんと会ってきました。
彼女が禅サンガをとても高く評価してくれていることが伝わり嬉しかったです。
奇跡のコースが教えようとしていることはただ一つ。
この世は幻想であり、人々の本質は愛そのものだということ。
これ以外にありません。
いまや我々は世界中の精神リーダーたちの本を読むことが可能ですが、その人たちの多くが奇跡のコースを学んでいたことを思うと、西洋人には分かりやすいということでしょう。
日本で流行らなかった理由はいくつか考えられますが、いまやっと時が来たと思っています。
愛(神)との最終的な合一は人間を超えた力によって起こります。
しかしその一歩手前までは、学ぶことと実践を通してたどり着けることは、すでに多くの人たちが実証済みです。
その一歩手前と言うのは、愛を生きることで物質的にも精神的にも充実し、思いのままの人生を繰り広げられるということです。
そのように言うと、いったいどこの誰がそうなっているのかと思うかもしれませんが、この阿部敏郎もその一人です。
ということは、偉人でなくても聖人でなくても、そのような生き方は誰にでも可能だということです。
自分にはそうなることが難しく思えるのは、たとえば奇跡のコースの内容に登場する「ホーリースピリット」とか、「ゆるし」とか、「神」などという言葉が、何を意味しているのか自分の中の実感と一致していないからです。
僕も最初はそうでした。
でも実感してみればとても当たり前のことで拍子抜けするくらいです。
そしてこの実感が、揺るぎない確信として真実が内側に定着するきっかけになりました。
ここまでは、きちんと学べば誰でもたどり着ける境地です。
どうしたらいいのかも、この数年間の試行錯誤によって明らかになってきました。
禅は奇跡のコースと全く同じ着地点を持っていますが、禅だけだと難しく感じてしまう人たちもいます。
何故なら禅は「いまここ」に徹していて、瞬時の悟り以外は相手にしないからです。
でもここに奇跡のコースという段階的カリキュラムが加わることで、多くの人に道を開示できると思っています。
そのためには、いますでに禅サンガで展開している奇跡のコースを、もっとわかりやすく、もっと日本人に合ったものに変えながら、最初の内は手取り足取り共に進んでいく姿勢が必要であり、いまサンガでも再構築しているところです。
さて前置きが長くなりましたが、コースに関心が持てない人も、禅と奇跡のコースの一致点を学ぶことは、真実への揺るぎない信頼になり、生きる方向が無駄なく統一されるようになると思います。
たぶん史上初になるであろう、禅僧と奇跡のコースのスペシャリストとの対談をいつまでも残る形でお届けしようと思います。
この二つの世界を繋げるには僕自身も必要だと考え、3人での講演を開催することにしました。
道を求めている人にとっては目からうろこの鼎談になると思います。
すでにご紹介していますが、開催日も近づいてきたので再度ご案内します。
詳細はコチラからご覧ください。
もちろん奇跡のコースも、真実に向かう道の一つに過ぎません。
原文タイトルが
A Course in Miracles
と言っていることからも明らかです。
他にもCourse in Miraclesはたくさんあることでしょう。
禅もノンデュアリティも仏教もスーフィズム(イスラム神秘主義)も道教もヒンズー教もタントラも行き着くところは同じです。
21世紀は宗教の枠を超えて、これらの内容がさらに洗練され、その人その人に合った形で提供されていけば、人類規模の意識変革に大きな貢献をもたらすと思います。
インターネットは使い方次第でその役目の一端を果たすと考えています。
Posted by Toshiro Abe at 15:14│Comments(22)
この記事へのコメント
奇跡のコースはまさに奇跡でした。毎回、腑に落ち涙がこぼれます。阿部さんの素晴らしいお仕事ぶりにも感動します。覚悟とはこんなに自然に決まるのですね。
Posted by ik at 2021年10月28日 15:51
真実を求め始めるきっかけが、千差万別なら、一人一人が辿る道もそれぞれなのでしょう。
選択肢は、いろいろありますが、個々人の生まれ持った精神的傾向に沿った選択が行われることでしょう。
イエス・キリストが語ったのは、ひとえに「神」についてであり、イエス・キリストにつながる使徒たちも、同じように、今で言えば、バクティ(神への信愛)の道を説きました。
イスラム教は、キリスト教と同じ、在って在る神(ユダヤ教ではヤハウェ、イスラム教では、アッラーとなっていますが、同じ神です)を信奉しています。
新約聖書で、イエス・キリストが語った"父なる神"とは、この唯一神であるヤハウェです。
その一方で、インドで発祥した仏教は、神について語られることはなく、ヒンドゥー教では、創造神としては、いろいろな神が信奉されていますが、それらの創造神は、唯一なる実在の神のこの世における自在変化の形として捉えられています。
バクティとは別に、仏教では、特に実践を重んじる禅は、ヨーガと様式は異なりますが、ジニャーナ(智識)の道と言えます。
ラマナ・マハリシが語った真我探求(アートマン・ビチャーラ)も、ジニャーナの道です。
この世は、相対二元(ドヴァイタ)の世界ですので、アドヴァイタ(一元)は、少し理解し難い面がありますが、究極は、一元であり、それがこの宇宙の実相なのです。
真実は、永遠に変わることはありません。
究極のゴールまで、神と共に行くも良し、神ではなく智識を以って行くも良し。
ゴールは、一つしかないので、同じです。
儚い存在である人間にとっては、ゴールは、"永遠、無限、神聖"と言えます。
真実への道は、いろいろありますので、誰もが、己の道を歩むことを、心から楽しめると良いですね♪
選択肢は、いろいろありますが、個々人の生まれ持った精神的傾向に沿った選択が行われることでしょう。
イエス・キリストが語ったのは、ひとえに「神」についてであり、イエス・キリストにつながる使徒たちも、同じように、今で言えば、バクティ(神への信愛)の道を説きました。
イスラム教は、キリスト教と同じ、在って在る神(ユダヤ教ではヤハウェ、イスラム教では、アッラーとなっていますが、同じ神です)を信奉しています。
新約聖書で、イエス・キリストが語った"父なる神"とは、この唯一神であるヤハウェです。
その一方で、インドで発祥した仏教は、神について語られることはなく、ヒンドゥー教では、創造神としては、いろいろな神が信奉されていますが、それらの創造神は、唯一なる実在の神のこの世における自在変化の形として捉えられています。
バクティとは別に、仏教では、特に実践を重んじる禅は、ヨーガと様式は異なりますが、ジニャーナ(智識)の道と言えます。
ラマナ・マハリシが語った真我探求(アートマン・ビチャーラ)も、ジニャーナの道です。
この世は、相対二元(ドヴァイタ)の世界ですので、アドヴァイタ(一元)は、少し理解し難い面がありますが、究極は、一元であり、それがこの宇宙の実相なのです。
真実は、永遠に変わることはありません。
究極のゴールまで、神と共に行くも良し、神ではなく智識を以って行くも良し。
ゴールは、一つしかないので、同じです。
儚い存在である人間にとっては、ゴールは、"永遠、無限、神聖"と言えます。
真実への道は、いろいろありますので、誰もが、己の道を歩むことを、心から楽しめると良いですね♪
Posted by 人間の永遠の探求 from M-online at 2021年10月28日 16:29
PayPalで、と見たら、6600円じゃなかったです
またあとから申し込みまぁす(^_^)
またあとから申し込みまぁす(^_^)
Posted by 猫琉 at 2021年10月28日 16:44
若き頃より
欧米文化に魅了されてきた
表れのわたしは、
「キリストの愛に生きる」
ハレルヤ!
欧米文化に魅了されてきた
表れのわたしは、
「キリストの愛に生きる」
ハレルヤ!
Posted by チェリーボンボン at 2021年10月28日 17:12
外に向かうと右と左に道が分かれて↑
どちらかの道を歩いているとさらに右と左に分かれるという連鎖が続いていき
「どちらの道を歩けばいいんだ?!」
「自分が歩いている道は正しいんだろうか?!」
と不安になります→(>_<)←
中に向かうと中心点に一点集中していき↓
中心点から光が宇宙全体に大きく広がっていき←・→
「この道は光の道だ◎」
「自分が歩いている道は正しい◎」
と平安になります←(*´▽`*)→
仏陀の中道は自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
日本の神道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
中国の仙道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
イエスの愛の道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
わたしたちはみんなハートから宇宙全体に広がっている永遠の愛の光です◎
どちらかの道を歩いているとさらに右と左に分かれるという連鎖が続いていき
「どちらの道を歩けばいいんだ?!」
「自分が歩いている道は正しいんだろうか?!」
と不安になります→(>_<)←
中に向かうと中心点に一点集中していき↓
中心点から光が宇宙全体に大きく広がっていき←・→
「この道は光の道だ◎」
「自分が歩いている道は正しい◎」
と平安になります←(*´▽`*)→
仏陀の中道は自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
日本の神道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
中国の仙道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
イエスの愛の道も自分が中心点に一点集中しながら光り輝き宇宙全体に大きく広がっていく道です◎
わたしたちはみんなハートから宇宙全体に広がっている永遠の愛の光です◎
Posted by 大空(おおぞら) at 2021年10月28日 17:33
いつも、奇跡のコースの超訳を伝えて頂きまして、ありがとうございます。
正直読ませて頂きながらあーだこーだと起こってくることも多く、
素直に受け取れているとは言えませんが、
それも含めてOKで、かつ、それも含めて『誤解』を解いていけば
いいだけ、と勝手に思いつつ読ませて頂いてます。
当日はリアルタイムで参加はできませんが、後で拝見させて頂きます。
よろしくお願いします。
正直読ませて頂きながらあーだこーだと起こってくることも多く、
素直に受け取れているとは言えませんが、
それも含めてOKで、かつ、それも含めて『誤解』を解いていけば
いいだけ、と勝手に思いつつ読ませて頂いてます。
当日はリアルタイムで参加はできませんが、後で拝見させて頂きます。
よろしくお願いします。
Posted by ただの「自分」 at 2021年10月28日 18:24
阿部さんに質問があります。
キリスト教は真実への道たりえないのですか?
イエス・キリストが全人類の罪を身代わりに背負って十字架上死んだこと
により、イエス・キリストを自分の罪からの救い主であると受け入れて
信じることにより全ての罪が赦されて、イエス・キリストが三日目に
復活したことにより、自分にも復活の新しい体が与えられて死に勝利できる
と確信することにより救われる、というキリスト教の教義では真実への道
たりえないのですか?
キリスト教は真実への道たりえないのですか?
イエス・キリストが全人類の罪を身代わりに背負って十字架上死んだこと
により、イエス・キリストを自分の罪からの救い主であると受け入れて
信じることにより全ての罪が赦されて、イエス・キリストが三日目に
復活したことにより、自分にも復活の新しい体が与えられて死に勝利できる
と確信することにより救われる、というキリスト教の教義では真実への道
たりえないのですか?
Posted by 神様大好き at 2021年10月28日 18:30
>そのように言うと、いったいどこの誰がそうなっているのかと思うかもしれませんが、この阿部敏郎もその一人です。
カッケ~
僕も阿部さん目指します!
キリスト☆キリスト☆
ありがとうございます
カッケ~
僕も阿部さん目指します!
キリスト☆キリスト☆
ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年10月28日 19:35
神様大好きさん
正確にお答えしたいのでいくつか質問させてください。
>キリストを自分の罪からの救い主であると受け入れて、信じることにより全ての罪が赦されて・・・
とありますが、自分には赦されるべき罪があるということですか。
だとしたらどんな罪ですか。
>復活の新しい体が与えられて死に勝利できる
新しい体を与えられて死に勝利した人というのは、たとえば誰のことですか。
新しい体とは、文字通り新しい体ですか。
正確にお答えしたいのでいくつか質問させてください。
>キリストを自分の罪からの救い主であると受け入れて、信じることにより全ての罪が赦されて・・・
とありますが、自分には赦されるべき罪があるということですか。
だとしたらどんな罪ですか。
>復活の新しい体が与えられて死に勝利できる
新しい体を与えられて死に勝利した人というのは、たとえば誰のことですか。
新しい体とは、文字通り新しい体ですか。
Posted by Toshiro Abe at 2021年10月28日 20:04
『奇跡のコース』サボってばかりですが、先日届いたものは「私が作ったものとは別の世界を見せて下さい」と願う、というものでした。
真実に至る門がそこにはあると。
今日は必ず成功する、歓びの日になる、と書いてありました。
何となくそれに従って心の中で真剣に願いました。朝一度きりで忘れてしまいたしたが^^;
その日の夕方、小さな気付きがありました。
だけど、そこに書かれたような「歓び」でもなんでもなく、拍子抜けするくらいに「当たり前」でした♪
真実に至る門がそこにはあると。
今日は必ず成功する、歓びの日になる、と書いてありました。
何となくそれに従って心の中で真剣に願いました。朝一度きりで忘れてしまいたしたが^^;
その日の夕方、小さな気付きがありました。
だけど、そこに書かれたような「歓び」でもなんでもなく、拍子抜けするくらいに「当たり前」でした♪
Posted by はなこ at 2021年10月28日 20:10
自分には赦されるべき罪があるということはその通りですが
具体的には想いによって犯す罪、言葉によって犯す罪、
行為によって犯す罪です。
新しい体を与えられて死に勝利した最初の人がイエス・キリストで初穂であり
キリストを信じるクリスチャンが後に続きます。
新しい体とは復活後のイエス・キリストの体のように
壁を透過したり、テレポーテーションしたりできる特異な体です。
具体的には想いによって犯す罪、言葉によって犯す罪、
行為によって犯す罪です。
新しい体を与えられて死に勝利した最初の人がイエス・キリストで初穂であり
キリストを信じるクリスチャンが後に続きます。
新しい体とは復活後のイエス・キリストの体のように
壁を透過したり、テレポーテーションしたりできる特異な体です。
Posted by 神様大好き at 2021年10月28日 20:25
壁を透過したり、テレポーテーションしたりできる特異な体を手にした人とは、たとえば誰のことですか。
想い、言葉、行為による罪とありますが、何が罪なのか分かりません。
道徳的なことですか。
それとも法律的なことですか。
それとも神という存在が裁いた結果でしょうか。
僕は、罪を犯した人も、罪を被った人もいないと感じているので、罪という言葉が何を指しているのかが分かりません。
「キリスト教の教義では真実への道たりえないのですか?」
という質問に答えたいので、あなたが言うキリスト教の教義をもう少し把握させてください。
想い、言葉、行為による罪とありますが、何が罪なのか分かりません。
道徳的なことですか。
それとも法律的なことですか。
それとも神という存在が裁いた結果でしょうか。
僕は、罪を犯した人も、罪を被った人もいないと感じているので、罪という言葉が何を指しているのかが分かりません。
「キリスト教の教義では真実への道たりえないのですか?」
という質問に答えたいので、あなたが言うキリスト教の教義をもう少し把握させてください。
Posted by Toshiro Abe at 2021年10月28日 20:38
私は阿部さんにキリスト教の正統派の教義で質問しましたが
私は異端的なクリスチャンでイエス・キリストを神の愛を説いた偉大な覚者と
考えて来ましたことを告白します。
宗教神秘主義の神我一体を悟った覚者としてキリストの生涯や教えを
学んできました。
クリスチャンが信仰を表明する使徒信条というのがありますがキリスト教の
教義の要点がコンパクトにまとめられています。
実を言うと聖書のイエス・キリスト信仰に満足できず3カ月前に棄教した
ばかりなのです。
仲良くして頂いたクリスチャンとは音信不通となりキリスト教会の礼拝には
参加していません。
そこで心配になったのが世界中のクリスチャンは真実への道を歩いて
いないのか?という質問が飛び出した訳です。
私は異端的なクリスチャンでイエス・キリストを神の愛を説いた偉大な覚者と
考えて来ましたことを告白します。
宗教神秘主義の神我一体を悟った覚者としてキリストの生涯や教えを
学んできました。
クリスチャンが信仰を表明する使徒信条というのがありますがキリスト教の
教義の要点がコンパクトにまとめられています。
実を言うと聖書のイエス・キリスト信仰に満足できず3カ月前に棄教した
ばかりなのです。
仲良くして頂いたクリスチャンとは音信不通となりキリスト教会の礼拝には
参加していません。
そこで心配になったのが世界中のクリスチャンは真実への道を歩いて
いないのか?という質問が飛び出した訳です。
Posted by 神様大好き at 2021年10月28日 20:48
阿部さんの感覚では加害者も被害者も存在しない、罪を犯す個人は存在して
いないというのが実感だと理解できます。
キリスト教の欠点は人は神の前に罪人であり、イエス・キリストの贖罪を
信じることで罪赦され神の子とされるというのですが、罪の子と神の子が
同居するために罪の意識に囚われ過ぎるクリスチャンが圧倒的に多いところです。
罪の定義ですがギリシャ語の原語は「的外れ」という意味で神に心が向いて
いないということです。神の聖さ・正義の前に出たら罪のない人間は
一人もいないという論理展開で罪深さを自覚させます。
いないというのが実感だと理解できます。
キリスト教の欠点は人は神の前に罪人であり、イエス・キリストの贖罪を
信じることで罪赦され神の子とされるというのですが、罪の子と神の子が
同居するために罪の意識に囚われ過ぎるクリスチャンが圧倒的に多いところです。
罪の定義ですがギリシャ語の原語は「的外れ」という意味で神に心が向いて
いないということです。神の聖さ・正義の前に出たら罪のない人間は
一人もいないという論理展開で罪深さを自覚させます。
Posted by 神様大好き at 2021年10月28日 21:14
そうでしたか。
だとすると、あなたの方向と僕の方向は一致します。
>宗教神秘主義の神我一体を悟った覚者としてキリストの生涯や教えを 学んできました
このようなアプローチは宗教を超えた真実に近づくと思います。
まさに彼の生涯は神秘主義の神我一体を悟ったものだったことでしょう。
さて質問への答えです。
キリスト教に限らず仏教もそうですが、理解が不在のまま妄信していたら、なにごとも真実の道にはなりえないと思います。
真摯に向き合ってくれてありがとうございました。
あなたの中のキリストが花開きますように。
だとすると、あなたの方向と僕の方向は一致します。
>宗教神秘主義の神我一体を悟った覚者としてキリストの生涯や教えを 学んできました
このようなアプローチは宗教を超えた真実に近づくと思います。
まさに彼の生涯は神秘主義の神我一体を悟ったものだったことでしょう。
さて質問への答えです。
キリスト教に限らず仏教もそうですが、理解が不在のまま妄信していたら、なにごとも真実の道にはなりえないと思います。
真摯に向き合ってくれてありがとうございました。
あなたの中のキリストが花開きますように。
Posted by Toshiro Abe at 2021年10月28日 21:18
阿部さん、お付き合い頂きましてありがとうございます。
キリスト教でもマイスター・エックハルトのキリスト教神秘主義などは異端
とされています。人に宿る神性をゴットハイトと呼んで仏教の仏性に近い
ことを書いています。残念ながらキリスト教の信者の中には悟った人は
バーナデット・ロバーツ以外いないようです。無我の体験というタイトルの
本を残しています。
キリスト教でもマイスター・エックハルトのキリスト教神秘主義などは異端
とされています。人に宿る神性をゴットハイトと呼んで仏教の仏性に近い
ことを書いています。残念ながらキリスト教の信者の中には悟った人は
バーナデット・ロバーツ以外いないようです。無我の体験というタイトルの
本を残しています。
Posted by 神様大好き at 2021年10月28日 21:34
>愛(神)との最終的な合一は人間を超えた力によって起こります。
人間を超えた力、体験しましたよ。
21歳の時に。
その力は、すべての人の中に内在(潜在)しています。
その力(シャクティ)は、尾骶骨の辺りに眠っており、クンダリニーと呼ばれています。
ムーラーダーラに眠っているクンダリニー・シャクティが目覚めると、その強大なエネルギー(シャクティ)は、尾骶骨から背骨に沿って上昇し、すべてのチャクラを通って、頭頂のサハスラーラまで上がり、自我の座であるブッディを破壊します。
ヨーガでは、サハスラーラには、シヴァ神がいらっしゃると言われています。
シヴァ神は、破壊と再生の吉兆の神ですから、シヴァ神が目覚めると、自我は破壊され、再生が起こります。
それは、霊的な目覚めであり、「自分は誰か?」への答えでもあります。
この体験が起こった後、何十年と経ってから、そのプロセスのことが詳しく書かれた本に出会いました。
それは、タントラ・ヨーガの本でした。
その時、あの強大なエネルギー(シャクティ)が、ヨーガの世界では、「クンダリニー」と呼ばれている”神秘の力”であることも知りました。
もちろん、愛(神)との最終的な合一をもたらす”人間を超えた力”は、クンダリニーだけではないでしょう。
世界には、いろいろなタイプの精神リーダーたちがいらっしゃいますが、クンダリニーに言及しているのは、ヨーガを通して、ゴールに行き着いた人々だけです。
興味深いことに、あのイエス・キリストが、布教活動を始めた30歳までは、一体何をしていたのか?が、ほどんど聖書にも記載がないために、謎に包まれていますが、インドでは、ヒマラヤのある僧院で、ヨーガの修行をしていたと言われており、その古い僧院が残っている、とヨーガ関連の本に書かれているのを読んだ時、若い時に、聖書を読んで、不思議だった謎が、私の中では、完全に解けたように感じたのでした。(同時に、全く異なる角度から、イエス・キリストを眺めることになり、自分の中の「イエス・キリスト像」は、一変してしまいましたが。。^^;)
卓越したヨーギーなら、40日間程度なら、土の中に埋められても、生き返ることができますし(クンダリニーを頭頂から抜けさせて、又、身体に戻すことは可能なので)、シッディ(神通力)が現れることもあるので、その力で、病人を治したり、数々の奇跡を起こすことは、充分可能なのです。
ヒマラヤの奥地の山々には、そのような力(シャクティ)を持った人々が、今でもひっそりと暮らしている、と言われており、ただ彼らは、滅多に下界に下りて来ないので、出会える人が極端に少ないために、都市伝説のような存在になっているため、年を取らないヨーギーや、瞑想中、ずっと空中に浮いているヨーギーの話などを読むと、信じられない気持ちになるのは、当たり前ですが、自分に起きた体験から、そういう人々も、実際には存在しているだろうと感じています。
この世が夢であり、神の力(シャクティ)は、この夢の世界に働く力として、常に夢を創造しているわけですから、一般人には、不可能なことも、イエス・キリストや卓越したヨーギーのように、神の力(シャクティ)を自在に使える人はいる、と言うことなのでしょう。
個人的には、シッディを使って奇跡を行なったり、生き返りたいわけではなく、ただ、真実を知って、この人生を終わりたかっただけなので、それは、何とか、満願成就したようです^^
>その一歩手前と言うのは、愛を生きることで物質的にも精神的にも充実し、思いのままの人生を繰り広げられるということです。
阿部さんが、8年前に仰っていた物心の豊かさを謳った「アベノミックス」を思い出しました(笑)。
>そのように言うと、いったいどこの誰がそうなっているのかと思うかもしれませんが、この阿部敏郎もその一人です。
阿部さんは、阿部さんで、満願成就した、ということなのでしょう。
>ということは、偉人でなくても聖人でなくても、そのような生き方は誰にでも可能だということです。
それぞれが、それぞれに思い望んだ形で、この人生を終われることが、人間として一番幸せなことだと感じています。
誰にとっても、この人生は、一度きり。
思い残すことなく、心のままに、自由に、我が道を行き、夢の世界における戯れ(リーラ)を、心から楽しめると良いですね♪
人間を超えた力、体験しましたよ。
21歳の時に。
その力は、すべての人の中に内在(潜在)しています。
その力(シャクティ)は、尾骶骨の辺りに眠っており、クンダリニーと呼ばれています。
ムーラーダーラに眠っているクンダリニー・シャクティが目覚めると、その強大なエネルギー(シャクティ)は、尾骶骨から背骨に沿って上昇し、すべてのチャクラを通って、頭頂のサハスラーラまで上がり、自我の座であるブッディを破壊します。
ヨーガでは、サハスラーラには、シヴァ神がいらっしゃると言われています。
シヴァ神は、破壊と再生の吉兆の神ですから、シヴァ神が目覚めると、自我は破壊され、再生が起こります。
それは、霊的な目覚めであり、「自分は誰か?」への答えでもあります。
この体験が起こった後、何十年と経ってから、そのプロセスのことが詳しく書かれた本に出会いました。
それは、タントラ・ヨーガの本でした。
その時、あの強大なエネルギー(シャクティ)が、ヨーガの世界では、「クンダリニー」と呼ばれている”神秘の力”であることも知りました。
もちろん、愛(神)との最終的な合一をもたらす”人間を超えた力”は、クンダリニーだけではないでしょう。
世界には、いろいろなタイプの精神リーダーたちがいらっしゃいますが、クンダリニーに言及しているのは、ヨーガを通して、ゴールに行き着いた人々だけです。
興味深いことに、あのイエス・キリストが、布教活動を始めた30歳までは、一体何をしていたのか?が、ほどんど聖書にも記載がないために、謎に包まれていますが、インドでは、ヒマラヤのある僧院で、ヨーガの修行をしていたと言われており、その古い僧院が残っている、とヨーガ関連の本に書かれているのを読んだ時、若い時に、聖書を読んで、不思議だった謎が、私の中では、完全に解けたように感じたのでした。(同時に、全く異なる角度から、イエス・キリストを眺めることになり、自分の中の「イエス・キリスト像」は、一変してしまいましたが。。^^;)
卓越したヨーギーなら、40日間程度なら、土の中に埋められても、生き返ることができますし(クンダリニーを頭頂から抜けさせて、又、身体に戻すことは可能なので)、シッディ(神通力)が現れることもあるので、その力で、病人を治したり、数々の奇跡を起こすことは、充分可能なのです。
ヒマラヤの奥地の山々には、そのような力(シャクティ)を持った人々が、今でもひっそりと暮らしている、と言われており、ただ彼らは、滅多に下界に下りて来ないので、出会える人が極端に少ないために、都市伝説のような存在になっているため、年を取らないヨーギーや、瞑想中、ずっと空中に浮いているヨーギーの話などを読むと、信じられない気持ちになるのは、当たり前ですが、自分に起きた体験から、そういう人々も、実際には存在しているだろうと感じています。
この世が夢であり、神の力(シャクティ)は、この夢の世界に働く力として、常に夢を創造しているわけですから、一般人には、不可能なことも、イエス・キリストや卓越したヨーギーのように、神の力(シャクティ)を自在に使える人はいる、と言うことなのでしょう。
個人的には、シッディを使って奇跡を行なったり、生き返りたいわけではなく、ただ、真実を知って、この人生を終わりたかっただけなので、それは、何とか、満願成就したようです^^
>その一歩手前と言うのは、愛を生きることで物質的にも精神的にも充実し、思いのままの人生を繰り広げられるということです。
阿部さんが、8年前に仰っていた物心の豊かさを謳った「アベノミックス」を思い出しました(笑)。
>そのように言うと、いったいどこの誰がそうなっているのかと思うかもしれませんが、この阿部敏郎もその一人です。
阿部さんは、阿部さんで、満願成就した、ということなのでしょう。
>ということは、偉人でなくても聖人でなくても、そのような生き方は誰にでも可能だということです。
それぞれが、それぞれに思い望んだ形で、この人生を終われることが、人間として一番幸せなことだと感じています。
誰にとっても、この人生は、一度きり。
思い残すことなく、心のままに、自由に、我が道を行き、夢の世界における戯れ(リーラ)を、心から楽しめると良いですね♪
Posted by 永遠のリーラ from M-online at 2021年10月28日 22:30
禅サンガは凄いコンテンツが多いので奇跡のコースはその中の一つとばかり軽視してきました。
香咲弥須子さんとの対談から興味が膨らんで今はレッスンメールが待ち遠しくなっています。あんまりいい生徒ではないですが、阿部さんの言う通りにしたときはいいことが多いのでこの企画も瞬時に申し込みました。
禅サンガは私の人生を変えてくれましたし、やっと巡り合えた本物の会だと思います。
香咲弥須子さんとの対談から興味が膨らんで今はレッスンメールが待ち遠しくなっています。あんまりいい生徒ではないですが、阿部さんの言う通りにしたときはいいことが多いのでこの企画も瞬時に申し込みました。
禅サンガは私の人生を変えてくれましたし、やっと巡り合えた本物の会だと思います。
Posted by 風来坊 at 2021年10月28日 23:27
>その一歩手前と言うのは、愛を生きることで物質的にも精神的にも充実し、思いのままの人生を繰り広げられるということです。
A,そうなれば幸せになれる。お金にも病にも苦しむことはない。やったぜ
B,それは阿部さんだからだよ。自分には縁がない
C,充実していない私は駄目人間だ。もう終わりだ
、、、もうええっちゅうねん()
念のためですが阿部さんにじゃなくて自分の思考のパターンに突っ込んでます
不快な感情も肉体的な痛みも ふと湧き上がる喜びも自分発じゃない
ただただ ただただ
瞑想直後のいまだけは巻き込まれない
スカっとしてる 快も不快も関係なく
これだけでも阿部さんに感謝ですほんと、、
A,そうなれば幸せになれる。お金にも病にも苦しむことはない。やったぜ
B,それは阿部さんだからだよ。自分には縁がない
C,充実していない私は駄目人間だ。もう終わりだ
、、、もうええっちゅうねん()
念のためですが阿部さんにじゃなくて自分の思考のパターンに突っ込んでます
不快な感情も肉体的な痛みも ふと湧き上がる喜びも自分発じゃない
ただただ ただただ
瞑想直後のいまだけは巻き込まれない
スカっとしてる 快も不快も関係なく
これだけでも阿部さんに感謝ですほんと、、
Posted by 自分 at 2021年10月29日 05:54
キリスト教の「罪」とは「不信(疑心)」。
不信、疑心から「嘘」「隠し」「恐れ」「騙し」「作為」等々が起きるので 信頼して告白する事において 赦されます。
「懺悔(反省)」は「(神を=全体)疑っていた、信じていなかった」と気づく事です。
復活は「死後」とあり身体の死後と思われがちですが、実際は阿部さんが前にイベントで使ってた「リボーン」なので「身体」とは無関係に心が疑いを失えば「生まれ変わった(復活)」という事ですね。
すなわち 私達の中にある「疑う気持ち」が全て払拭されれば ここは「神の国」という事です。
私はキリスト教の教えと 阿部さんの普段から語っている話に差異を感じた事はありませんが、途中経過では 差異を感じる部分があるのかも知れません。
その差異が「疑心」なのですから。
禅の「公案」は「アコース」と 全く同じです。
文章化されている「公案集」の問答だけ読むと理解できないとは思いますが、どちらも「備わってしまった不信感、疑心」を取り除く為の道(レッスン)です。
私の個人的な感想で言うならば 坐禅は思考を使わずただ坐るけど 公案は「思考を使い切る」為にあるように思いました。
つけてしまった思考を使い切る事で枯渇させる。
実際 解けない問いを いつまでも考え続けているといずれアイディアの枯渇がやってくる訳で。
そこまでいけば どうにもならず「お任せ」がやってくるので「自分の考えや思考で行動する事」が否応なく止む事になるというものです。
結局「自らに何らかの策がある」うちは 私達は「疑心」を持ち続けているので その不信感において 世界は天国とはならない。
瞑想中は疑心が止まるけど 瞑想を出ると元通りになってしまう、という段階に「アコース(公案)」で「道中」の疑心も無くなれば 鬼に金棒ですね♪
こういう話をすると「この世の中 疑って掛からなければ騙されてしまう」という正論的反論が必ず出るんですけど これこそが「疑心」のなせる技なんですよね。。
私達は自分が考えているよりずっと「信じられない」し「疑ってばかりいる」事に気づくと一歩進めると思います。
何故「死後の復活」かといえば その疑心は最後の最後まであり続けるから100%そう入れ替えでかからないと「疑心」が残ってしまうからであり そう入れ替えしても 大丈夫であるからこその「復活」であります♪
だらだら長くなってすみません。
いつも阿部さんの活動を100%共感し応援しています♪
遅れましたが お誕生日おめでとうございます。。
不信、疑心から「嘘」「隠し」「恐れ」「騙し」「作為」等々が起きるので 信頼して告白する事において 赦されます。
「懺悔(反省)」は「(神を=全体)疑っていた、信じていなかった」と気づく事です。
復活は「死後」とあり身体の死後と思われがちですが、実際は阿部さんが前にイベントで使ってた「リボーン」なので「身体」とは無関係に心が疑いを失えば「生まれ変わった(復活)」という事ですね。
すなわち 私達の中にある「疑う気持ち」が全て払拭されれば ここは「神の国」という事です。
私はキリスト教の教えと 阿部さんの普段から語っている話に差異を感じた事はありませんが、途中経過では 差異を感じる部分があるのかも知れません。
その差異が「疑心」なのですから。
禅の「公案」は「アコース」と 全く同じです。
文章化されている「公案集」の問答だけ読むと理解できないとは思いますが、どちらも「備わってしまった不信感、疑心」を取り除く為の道(レッスン)です。
私の個人的な感想で言うならば 坐禅は思考を使わずただ坐るけど 公案は「思考を使い切る」為にあるように思いました。
つけてしまった思考を使い切る事で枯渇させる。
実際 解けない問いを いつまでも考え続けているといずれアイディアの枯渇がやってくる訳で。
そこまでいけば どうにもならず「お任せ」がやってくるので「自分の考えや思考で行動する事」が否応なく止む事になるというものです。
結局「自らに何らかの策がある」うちは 私達は「疑心」を持ち続けているので その不信感において 世界は天国とはならない。
瞑想中は疑心が止まるけど 瞑想を出ると元通りになってしまう、という段階に「アコース(公案)」で「道中」の疑心も無くなれば 鬼に金棒ですね♪
こういう話をすると「この世の中 疑って掛からなければ騙されてしまう」という正論的反論が必ず出るんですけど これこそが「疑心」のなせる技なんですよね。。
私達は自分が考えているよりずっと「信じられない」し「疑ってばかりいる」事に気づくと一歩進めると思います。
何故「死後の復活」かといえば その疑心は最後の最後まであり続けるから100%そう入れ替えでかからないと「疑心」が残ってしまうからであり そう入れ替えしても 大丈夫であるからこその「復活」であります♪
だらだら長くなってすみません。
いつも阿部さんの活動を100%共感し応援しています♪
遅れましたが お誕生日おめでとうございます。。
Posted by まるまる at 2021年10月29日 07:50
こんにちは、まず最初にことわっておきますが、私は阿部さんの大ファンです。ブログはすべての記事を読まさせていただいてますし、公演にも以前は参加させていただいた事もあります。
内容について否定するところは一切なく、すべてにおいて肯定しているのですが・・・。
私が以前から感じるようになったのは、講演料が高いなと・・・。今日の記事の中で「コースに関心が持てない人・・」の文言、関心は大いにある、あるのだけれど・・・料金が高いから無理と思っている人も多いだろうなと・・・(超リーズナブルと思ってみえるのかもしれませんが)講演に行くという事は、講演費だけでなく、会場までの交通費もかかりますし、宿泊費だっている人もいるかもしれない、多くのお金を使わせて、本当にそのお金に見合った内容を提供できていますか?
講演では入る人数は限られる、もっと多く人に広めたいのであれば、もう少し料金設定を安く設定し、他の方法で行う事は、できないものかと、どこか金欲を感じ、最近は阿部さんの講演からは距離をおいている、一ファンのくだらない独り言でした。
内容について否定するところは一切なく、すべてにおいて肯定しているのですが・・・。
私が以前から感じるようになったのは、講演料が高いなと・・・。今日の記事の中で「コースに関心が持てない人・・」の文言、関心は大いにある、あるのだけれど・・・料金が高いから無理と思っている人も多いだろうなと・・・(超リーズナブルと思ってみえるのかもしれませんが)講演に行くという事は、講演費だけでなく、会場までの交通費もかかりますし、宿泊費だっている人もいるかもしれない、多くのお金を使わせて、本当にそのお金に見合った内容を提供できていますか?
講演では入る人数は限られる、もっと多く人に広めたいのであれば、もう少し料金設定を安く設定し、他の方法で行う事は、できないものかと、どこか金欲を感じ、最近は阿部さんの講演からは距離をおいている、一ファンのくだらない独り言でした。
Posted by コロコロン at 2021年10月29日 08:54
>でもここに奇跡のコースという段階的カリキュラムが加わることで、多くの人に道を開示できると思っています。
>そのためには、いますでに禅サンガで展開している奇跡のコースを、もっとわかりやすく、もっと日本人に合ったものに変えながら、最初の内は手取り足取り共に進んでいく姿勢が必要であり、いまサンガでも再構築しているところです。
阿部さんのおっしゃるとおり、奇跡のコースは段階的カリキュラムでわたしには
とってもあっていました。禅サンガに入って良かったと思うことの一つです。
ホントに最初は難解で、でも、レッスンは1,2分なので、不思議と毎日続けることができ、阿部さんの日本人に合ったものに変えたものがとても助けになっています。ありがとうございます。
>そのためには、いますでに禅サンガで展開している奇跡のコースを、もっとわかりやすく、もっと日本人に合ったものに変えながら、最初の内は手取り足取り共に進んでいく姿勢が必要であり、いまサンガでも再構築しているところです。
阿部さんのおっしゃるとおり、奇跡のコースは段階的カリキュラムでわたしには
とってもあっていました。禅サンガに入って良かったと思うことの一つです。
ホントに最初は難解で、でも、レッスンは1,2分なので、不思議と毎日続けることができ、阿部さんの日本人に合ったものに変えたものがとても助けになっています。ありがとうございます。
Posted by ねこじゃらし at 2021年11月06日 07:55
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