2017年02月22日

あらゆる過去も未来も含んだ、いまここにあるすべての命たちへの連帯感

ライラさんのコメントです。


いつも野良猫たちに出会うと、どうしても挨拶したくなってしまうのですが、ここ2年位は機会あれば立ち止まって、相手の目をジーっと見つめるようにしてるのですが、自分もあの子も感じているこの在るという感覚は同じだ。と感じたことが何回もありました。

それからというもの、ものすごく猫の気持ちがわかるようになりました。

猫友達がいっぱいです!猫なら簡単なのになー。

人間だとどうして難しいんだろうね。マインドが邪魔をしているからかな。




こういう感覚を持つのはいいですね。

動物だけでなく植物にも試してごらんなさい。


たとえば道に立つ一本の街路樹。

ベランダの観葉植物。



思考を挟まずに、ただじっと見つめていると、存在を認められたその対象はイキイキしてきます。


そして、その中を生きる命が同じものだとわかると、とても深い連帯感が湧いてきます。


その連帯感が慈愛と呼ばれ、菩薩の特徴の一つになります。



反対に、この命を自分だけのものとして固執すると、他に対立していきます。

比較や競争を始めるのは、決まってこのタイプの人たちです。



この先に起きていくであろう人類規模での意識変革の方向は、個から全体へと進みます。


個別意識から全体意識へのシフト。


自分の中で生きる命が、自分固有のものでなく、全体を生かしている命と同じものだという発見。


その後にやって来る、すべての生命に対する連帯感と慈愛。

人類全体がそんな質のエネルギーに変われば、地上の問題は消滅します。


あらゆる過去も未来も含んだ、いまここにあるすべての命たちへの連帯感


セミナーをやっていたころ、みなさんに夢の未来図を描いてもらうと、だいたい同じような絵になりました。

心のどこかでそうなることを知っているのではないでしょうか。


それは大いなる計画であり、すでにその計画は成就していて、あとはこの次元の宿命である「時間」という中で、それが現象化するのを待つばかりです。


ちょうど空き地に建つ建物の構造が、すでに細部まで決定されているのに、現象化するまでには完成するまでの工期が必要なのと同じです。



これは最初に時空間を超えた次元を垣間見たときに直感したビジョンです。

もうすでに決定されているということを、なんの疑いもなく認めることができました。



だからすこぶる楽観主義なのでしょう。


これは論理的に導かれた結論ではなく、有機的な直感です。



だから心配ない。


本当になんの心配もいりません。


これからも受け入れがたいことは起きるでしょうが、それも必要で起きることであり、結果良ければすべてよし。



そう言い切れるのは、運命のいたずらで一足早く結果を見せてもらったおかげ。


これが人生で得た一番の贈り物だったので、こういう場で分かち合っています。







今日も来てくれてありがとう。

白蛇形の幸運力があなたに流れますように。


あらゆる過去も未来も含んだ、いまここにあるすべての命たちへの連帯感
   
 



・・・・・・・・・・・・・・・




【お知らせ】


3月の瞑想伝授のスケジュールが決まりました。

初めてマントラ瞑想をする方にはハートマントラがお勧めです。


以下の日程です。


沖縄

3月12日13時



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3月18日12時

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東京

3月24日12時

3月25日16時


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Posted by Toshiro Abe at 11:10│Comments(52)
この記事へのコメント
植物も、犬も、すごく分かり合えます。
そういうことだったのですね。
阿部さん、心あたたまるメッセージありがとうございます。
Posted by のりこ at 2017年02月22日 11:17
コメントが途中できえてしまったので再送信します。
今日もありがとうございます。時折、不安にとりつかれることがありますが、終わりよければすべてよし、という言葉に救われています。良い一日を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年02月22日 11:18
わたしの天命とは何でしょうか?

わたしの天命とは

いま心を集中して

いま心を輝かせて

いま心から幸せを感じることです。


あなたの天命とは何でしょうか?

あなたの天命とは

いま心を集中して

いま心を輝かせて

いま心から幸せを感じることです。


みんなの天命とは何でしょうか?

みんなの天命とは

いま心を集中して

いま心を輝かせて

いま心から幸せを感じることです。


わたしとあなたとみんなが

いま心を集中して

いま心を輝かせて

いま心から幸せを感じると

わたしとあなたとみんなのハートが輝き合い

世界に至福の光が広がっていきます。


世界が至福の光で満たされていきます。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2017年02月22日 11:19
今日の記事もとてもステキです。相手の中にあるのも同じ意識だとみんなが体験した時…まるでオセロの圧勝みたいに、いっきに世界が変わりそう。わたしは植物が好きで、彼らと繋がる一体感は本当にしあわせ。一緒なんだ〜〜って。

一方で、阿部さんは戦争は無くならないとおっしゃいませんでしたか?あれ、違うかただったろうか…
Posted by よこてぃん at 2017年02月22日 11:24
今朝はなんだかとっても変なのです。


いつもと変わらずに目が覚めて、

いつもと変わらずに身支度を整えて、

いつもと変わらずに会社に向かい、

いつも通りの電車に乗ろうとホームに立ったら、


目の前の見ず知らずの女性がなんだかとっても愛おしく思えて、

その隣のカバンの中をゴソゴソ覗き込んでいる女性も同様に愛おしくなり、

ホームで駅員さんのサポートのために朝のラッシュ時にバイトに駆り出された若い男の子にも同様で、


ホームの向こうに広がる青空を見たら、なんだか泣きたくなって。


なんなんだぁぁああ!!


胸がジーンとなるほどに、心の中はあたたかく、

そして満たされた感覚。


なんだかわからないけれど、ここに書きたくなって書きました。


地球にいかされてるすべてのいのちが、なんだかやけに大好きだ!
Posted by むつみ at 2017年02月22日 11:27
いつも白蛇形パワーありがとうございます。

>ちょうど空き地に建つ建物の構造が、すでに細部まで決定されているのに、現象化するまでには完成するまでの工期が必要なのと同じです。

阿部さんはこの工事の「現場監督」みたいなお役目なんでしょうね。
Posted by an at 2017年02月22日 11:29
この世には『私しか居なかったら』と想像してみます。
そこには"私"という意識は無いし、"在る"という意識も無いことでしょう。

その、『私しか居ない世界』に猫が突然現れたとします。
その瞬間、猫が存在するという意識(気付き)と同時に"私"が存在するという意識(気付き)が現れます。
もし、猫と私という言葉を知らなかったら(or 分別がなかった)としたら、"存在する"という意識(気付き)だけがそこにあります。

ライラさんが感じられたことは、おそらく猫と私という分離意識が一瞬消えて、存在するという意識に気付かれたのでしょうね。

私が猫を愛するためには、私と猫が存在することが前提です。
嫌いな人を嫌うためには、私と嫌いな人が存在することが前提です。
愛するにしろ嫌悪するにしろ、大前提は全てのものが分け隔てなく存在することです。

道端に咲いている花に気づいたら、その気づいた瞬間が私と花の現れ(存在)です。
ですから、何かに気付くということは存在そのものなのです。
Posted by 模察模察 at 2017年02月22日 11:34
こうやって円になってみんなで手を繋ぐって、本当にパワフル♡

パワフルでとっても自然な感じで(≧∇≦)
なんでだろう?!


でも大人の場合はちょっと勇気がいるね(^-^;)
Posted by えんじぇる at 2017年02月22日 11:52
私も猫も犬も牛も会うと目を合わせてじっと見つめますね。
彼等は”今”にしかいないですよね。
ヒトは雑念が多すぎるんじゃないでしょうか。
それを全部とり払ったらどうなるんだろう?
新人類誕生?
Posted by メジロ at 2017年02月22日 11:52
いつもありがとうございます。
クリクリ
今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2017年02月22日 12:30
存在が、花しているという、すてきな詩の表現方法がありました。存在という窓から、独自の見方をすべて許されている人間は稀有の存在なんですね。アリガタヤアリガタヤ、気づけてよかった、すべてのいのちと連帯します、こころ穏やかに。
Posted by z at 2017年02月22日 12:34
阿部さん

いつもありがとうございます(*^o^*)

安心の中で生活していると、「全てうまくいっている」という、根拠のない自信につながります(*^^*)

今日も、ご縁に感謝申し上げますm(_ _)m
Posted by K.N at 2017年02月22日 12:39
阿部さん、これが山川草木悉有仏性ということですよね?
Posted by さく at 2017年02月22日 12:42
阿部さん、いつもありがとうございます
Posted by ゆりん at 2017年02月22日 12:46
むつみさんの感じてることを

多くのひとが感じだし、

そのことを感じて、実感した人は

自転車に一度乗れたら

何年間があいても乗れる様に

感じようとすれば

いつでもその世界観で生きれる

ニュータイプの人類に

進化してるのですね。

100匹目の猿 の逸話の様に

人類の意識が ひっくり返るのは

時間の問題だと感じます。

教育によって刷り込まれた

常識、例えば「進化論」

競争原理ばかりがクローズアップして

知られてますが

彼の本当に言いたかったのは

「変われるものだけが 生き残れる」

ということだと聞いていますよ。
Posted by 神生粋流 at 2017年02月22日 12:48
えんじぇるさん


輪になって手をつないだり◎

輪になって座って瞑想したり◎

輪になって踊ったりすると◎

ひとりひとりのハートの光が力強く共鳴し合って輝かせ合うんです◎


https://www.youtube.com/watch?v=2umSTuwIxyU

https://www.youtube.com/watch?v=YGrU6mY8fG8

https://www.youtube.com/watch?v=V7h0jtjwia0


阿部さんは「車座になって座ったこと」「輪になって座ったこと」がきっかけになり◎

「すべてはひとつ」という真実を実感することになりました◎

https://www.youtube.com/watch?v=vv8yghRZfYo
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2017年02月22日 13:10
個人意識バリバリの億万長者に

食べていけない貧しい人たちに、あなたのものを分けて下さい

と頼んでも、断られる可能性が高いわけです

しかし

その億万長者の意識が全体意識にシフトして、
貧しい人たちの気持ちが手に取るようにわかるようになると
自分の持ちものを分かち合うことは自然に起こるのでしょう

米国の億万長者たちで自分の財産のほとんどを寄付する人が
増えているようですが、
一歩先に進んでいるのかも知れませんよね


愛☆愛☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年02月22日 14:39
私が数年前に感じた慈愛は、存在(在るということ)に対して湧いてくる慈しみのようなものでした
そこには、人だとか、植物だとか、動物だとか、あるいは物体だとか現象だとか
そんな区別を超えた、ただ存在に対する「喜び」のようなものでした
その感覚は、当時のような鮮明かつダイレクトなインパクト自体は無くなったものの、今はただこの根底に静かに佇んでいる、という感じです
そこに、「なぜそのように感じたのか」という、理由や理屈はまったく介在することはありません
ただそのような慈愛そのものも、「ここに在った」だけ、という完結です
ほとんどの人が描いたという未来図、見た感じ「すべてはひとつ」という感覚なのでしょうが、それは皆さんの思考が描くような「ひとつ」ではないと思います
実際の「ひとつ」は、これは何である、というような区別や、それぞれの「個」という認識を超えた、それよりも前に最初から在った感覚、と言ったほうがいいかもしれません
まさにそこには、すべてが渾然一体となった「ただひとつ」が在るだけです
それが、みなさんが描かれた絵に隠された秘密のようなもので、実はなにも秘密はなく、すでに明らかで、最初の最初から在ることです
Posted by かみゆ at 2017年02月22日 14:49
模察さん

「気付き」というのは、実は逆のことなんですよ
存在、ただ在る、ということを、細分化(分離)しているのが気付きなんですよ

あ、これは私だ、
あ、これは猫だ、
あ、これは木だ
あ、これは花だ
あ、これは石だ

この「あ、」が、存在(ひとつ)から個(あれとそれ)に細分化されていることなんですよ
だから気付きそのものが、「個人」なんです

全体とは、これは私だとか、これは猫だとか、そういう「部分」が無いことであって、そういう部分に「気付いていないこと」、なんです

>私が猫を愛するためには、私と猫が存在することが前提です。

そうじゃなくて、その前提が無いことなんです

むしろ、在るという意識しかない、ということなんです
そしてそれに気付いている存在(私)が無い、ということなんです
Posted by かみゆ at 2017年02月22日 15:09
こちらこそ、いつもありがとうございます。
Posted by ようこ at 2017年02月22日 15:17
本当のエクスタシーは、そこにあります。

あなたも わたしも 同じいのち。

あなたと わたしを 比べる次元ではなく、

まったく同じものとして感じる次元。

この感覚が 最高の エクスタシーでした! \(^o^)/

少しでも 存在の中に 存在を見ようとしてみると、

少しずつ、わたしの内側に変化が訪れるかもしれない。

存在はどこでも いいんですよね。
全部 それ だし (^-^)

ただ、
ただ感じるってのは やっぱり難しいものです。

思考を挟まずに ハートの奥深くで感じてみる

その存在を。


猫は形であり、
わたしたち人間も形です。

ほんとうの 『わたしたち』というのは、
もっともっと 大きく広がります。

形を超えて 広がります、つながっています。

そこに あるものが いのち

いのちは、なんとも 形容しがたい。

ひとりひとりが 自分で感じてみるしかないものです。

感じられない人はいません。

切り離された人はいません。

ただ、人の言葉の中に わたし(自ら)の真実を見ることは不可能です。
(人の言葉は 参考には なります)

自分で やってみるしかない! ようです。
Posted by 薄茶色 at 2017年02月22日 15:33
阿部さんは、例えるなら、未来に建つ新築のマンションを実際に見てきたのだと思います。
そしてそれを元に完成イメージのイラストを描いてくださったり、どんなマンションなのかをお話で説明してくださってるのだと思います。
でも私たちから見たら、「ほんとにこの空き地にこんな立派なマンション建つの?」などと疑ってしまうのだと思います。
けれど、工事が始まってるのを見たり、資材が運び込まれてるのを見たり、「ここにキレイなマンションが建つんだよ!」と言う人が増えてきているので、少しずつ信じられるようになってきているのだと思います。
私にはどんなマンションが建つのか分かりませんが、いつかマンションが建つということは信じようと思います。
その方が気楽ですから。
今日も更新ありがとうございました。
Posted by marimo at 2017年02月22日 15:33
今から35年前に…知人から《島秋人》死刑囚の詩を紹介されました。若い頃は、縁起が悪いと滅茶苦茶※敬遠しておりましたが、当ブログと接して急に思い出しました(笑)
死刑執行の少し前、次の様に語りました(唄う)

*笑む今の 素直になりし
このいのち 在るとはしらず 生かされて知る

島秋人
Posted by ブラフマン at 2017年02月22日 16:06
さーて どうなるんでしょうね いつ頃 変わるんでしょうかね?
Posted by ひよどり at 2017年02月22日 17:37
今日の お話には関係ありませんが、(ス スミマセン…)

”こういうものだ!”と 誰かが 言い切り、

その言葉を受けて
”こういうものだ!”と 誰かが 受け取ってしまう。

そういうことって
よくあることだと思います。


実際には、真実は自分でしか 感じられないのに。

外側は参考になるけど、
内側が絶対 なのに。


そういう 流れも 起きているから、
そこにも なにも言えやしないけれど、


そこに 言いたくなる これも 起きている。


って オーーーイ ! \( ˆoˆ )/


これが噂の人間世界が織りなすドラマか? 笑


うさぎと ただ、 一緒に部屋にいるときが 好きです


なんの意味も なーーーーい!! \(^o^)/爆発
Posted by 薄茶色 at 2017年02月22日 17:58
阿部さん、いつもありがとうございます。

連帯感、味わえたらいいなあ。

近頃は、道で出会う猫にも犬にも鳥にも
目が会えば挨拶するようになりました。

鳥や猫は人間の気配だけで逃げることもあるし、
犬は飼い主ではない人には吠えるけれど、
まあ、いいや。

人に対しては、あまりじっと見つめると
圧迫感や敵意を感じさせてしまうかもしれないので、
挨拶をしています。なるべく笑顔で。

自分から挨拶することを続けていると
自分が一番ハッピーになれますね。

明日から植物にもしてみよう。

今日もクリックします。
真言となえます。
Posted by たれびよ at 2017年02月22日 18:20
阿部さん。こんばんは。今日の記事は、自分に対して考えさせられる物です。命を自分だけのものとして固執していないかという事。なにか、自分に固執感を感じます。僕は、猫好きなので、道で会う猫たちには、必ず立ち止まり、目を合わせ手を振ります。しかしそれは僕が、単に猫好きだというだけ。全ての生命に対する連帯感と慈愛とまではいたっていないような気がします。少し、寂しいです。今日のブラフマンさんのコメント心に染みました。ありがとうございます。僕は、なんだかまだまだだと思いました。でもとても大切な記事
ありがとうございます。m(_ _)m
Posted by 永井新吾 at 2017年02月22日 18:25
marimoさん

> でも私たちから見たら、「ほんとにこの空き地にこんな立派なマンション建つの?」などと疑ってしまうのだと思います。

その前に、購入できるかどうか、入居できるかどうか考えてしまいます。 orz
Posted by rakuni... at 2017年02月22日 18:56
かみゆさん

おっしゃること分かります。
在る(全体意識)はその通りだと思います。

ところで、在る(全体意識)を感じているのは誰でしょう?
「在るけれども無い」という表現も良く聞きます。

これについて何か感じることはおありですか?
Posted by 模察模察 at 2017年02月22日 20:54
今日もやっぱり阿部さんから力を頂きました。

いつもありがとうございます。 m(_ _)m
Posted by Ann at 2017年02月22日 21:59
小さくて目立たない花にでも、「あ、そこにいたのか」と気づいた時に妙な連帯感が湧いてきます。優しくてうれしい気持ち。生きているのは私だけじゃないというような…うまく言えないけど不思議な感覚です。動物や鳥もそう。見つめられたり見つめたり。
Posted by Ally at 2017年02月22日 22:18
薄茶色さん
前回のコメント、ありがとうございます。
やはり、もしかして、ひょっとして…
共鳴なのかも!
♡(*゚O゚*))))ビバ
Posted by Ally at 2017年02月22日 22:31
模察さん

>ところで、在る(全体意識)を感じているのは誰でしょう?

その問い自体が存在していません


>「在るけれども無い」という表現も良く聞きます。

>これについて何か感じることはおありですか?

さあ・・・?( ̄∇ ̄;)))( ((((;_△_)しらん・・・
Posted by かみゆ at 2017年02月23日 00:11
絵は描けませんが・・・・・

昨日、


「どうしてそんな事するの!?」
「したかったから」

「寝ていいと思ってるのかっ!!」
「寝たかったから」

「そんな事言わなくてもいいじゃない」
「言いたかったから」

他に理由なんて無いですよね。
それでも、相手を気遣おうとすると、相手が理解できるような、
納得できるような『理由』を『作らなければ』ならない。

確かに『社会生活』には、不可欠なんだろうと思いますが・・・・・

せめて、自分の心の中でくらい、

「どうしてやったの?」

ではなく、

「そうしたかったんだよねぇ~」

と思っても、バチは当たらないんじゃないか?

と思いました。


と浮かんできて、某所に書きました。
その後、この記事を読んで、今は、

「そうしたかったんだよねぇ~」

すら、思う必要の無いくらい、『現れるまま』がいいのかな、とも思います。

『現れるまま』がいいという事は、

「そうしたかったんだよねぇ~」

と現れてもいいという事ですが(笑)

敢えて手をつながなくても、自分も、他の人も、

「『そうしたい』から『そうしている』」

事だけはわかっているし、わかり合っているのがいいですねぇ。

という事は勿論、『敢えて手をつないでも』いいですけどね。


世界中の全ての存在が、『この存在自体』を、楽しめている世界でありますように・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2017年02月23日 02:41
おおぞらさん


そうですよね!

輪になると自然に溶けていく感じ♡

どうもありがとう(^_^)
Posted by えんじぇる at 2017年02月23日 02:52
あぁ〜なんだ。

ぎゃぁ〜てぃ。

....なんだよ。




o '  ← お。
Posted by 日和る at 2017年02月23日 07:14
嬉しい!そういう未来を感じている方がたくさんいらっしゃること知れて! ありがとうございます^ ^

今日夢の中で、阿部敏郎さんに会いましたよ〜(・∀・) 浜辺でライブされてました!多分沖縄でした。
Posted by eraliy at 2017年02月23日 08:03
かみゆさん
「無」を探求するモノにとっての「無」は「無常のただ一つ」で。
「この一つは固定されていない」というのが「無(無常)」なので、
「一つだけが起きて、それが縁で連続していく」。
ヴィッパサナーはその「絶対存在する一つ」が無常に変化しているさまに「気づく」という話です。
「唯一性」から「気づいているものは誰だ」という問いがあって「その一つは自覚ができない(自らを気づけない)んだ」という理解に進みます。
唯一の全体である、言うなれば本当の自己は「一つゆえに」自らを自覚できずに「架空の私」を想像する事で「認識(自らの把握)を試みている」という感じ。
言葉を恐れずに言うならば「本当の私を認識するのは 想像上に作られた偽物の私であり、なおかつ本物は自ら自分の認識出来る可能性がない事を偽物の私だけが知ってしまう」。
これで「一切皆(本物も偽物も)苦」という事なんじゃないかな?って。

で「偽物と本物は向かい合って互いを知りあっている(くうを観るまるまるは、くうに見られているまるまるである)」と考える事が出来るので。
「まるまる(全体)の在り方」を見て「それを自分と認識してくれるなら」「私がどう在るか」という事が大事なんだろうという感じ。

このあたりが まるまるの決着地点。
「誰か」にはこういう「考察経過」もあるという事で ご理解いただけるといいんじゃないかな?
Posted by まるまる at 2017年02月23日 08:10
野良猫の目ねぇ〜。
狩猟の目しかみえない。

考える。
ねずみをクワえてる。
トカゲをクワえてる。
白いハト、よく襲われてる。
頭だけ食われてからだが残って羽が散々。
二回目の白いハトは、朝気づいて、助けてやった。
もう飛べないほど傷ついてたよ。
地べたに羽広げて向かって来た。猫は構えてた。
あわてて庭に出て拾い上げた。猫は逃げた。
白いハトは斜め後ろの家が飼ってる伝書鳩。

家んちの庭での出来事。

ブログでも猫の写真見掛ける。
癒しだね。

飼いたいとも思うけど、飼ったらどうする?

食卓にトカゲ、クワエて来ない?

のかな。

ぞぞぞっ。
Posted by 日和る at 2017年02月23日 08:11
いつもありがとうございます。

幸せとは何か?

色めがね。

表と裏どっちも正しいよ。どっちも間違い。

自我と投影。
Posted by まっす~ at 2017年02月23日 08:41
阿部さん。おはようございます。今朝の散歩から、帰って来ました。今日は、通りすがりの花々や木々達をなんとなく意識しながら歩きました。「この寒いのにみんなたくましく生きているんだね」と共感が湧いてきました。その動物や植物をなにとはなしに、いただいている。生かさせていただいている。人間だけが、偉いんじゃないんだな、という気持ちになりました。本当にありがたい事だなーっとお礼を言いたくなりました。自然さん本当にありがとうございます。。m(_ _)m
Posted by 永井新吾 at 2017年02月23日 09:38
今朝目覚め前、無は感謝でできてるイメージがありました。
まさかねー、無は無。何も無いところ。言葉で表せないものでしょ?と自分の感覚を笑ってしまいました。
でも、どうしても、そのイメージが浮かんできて、仕方ないのです。

無の中には、罪、懺悔?許し、愛、感謝、がそろって、無になってるイメージです。変ですけど、常識外れですが、自由にイメージを膨らませる事を自分に許したら、無はフリーエネルギーのみなもとかなあ(笑)って思えて仕方ないのです。

阿部さんはいつも大丈夫と楽観的な事を言うのはそうゆうことなのか?と何気に勝手に解釈してます。

だから、あらゆる過去も未来のなんとか
なんとかのなんとかの連帯感という表現になってるのかな?って勝手におもった。

背中が昨日から変です。ストーブにあててないのに、ストーブの前にいるようなあったかさ?ジワジワがずっととまりません。
もしや、あの白蛇さんのせいか((°°;)?、降参いたしました。敬服です。
Posted by ふ at 2017年02月23日 09:38
かみゆさん

わざわざ変な問いにお答えくださりありがとうございます。
頂いたお答えも真だと思います。
>その問い自体が存在していません
私以外に他の誰も居ないのですから、この問いは成立しませんね。

「在るけれども無い」も、言葉では表現できないことを無理矢理表現していますので、分からないから『しらん』としか言いようがありませんよね。

ですが、全体意識は在るけれども"無い"のです。
自我という個別の意識が在るなら、全体意識も在ります。
自我という個別の意識が無ければ、全体意識もありません。

つまり、自我という意識と全体意識は不可分なのです。
私という個人が気付く(意識)ということは全体意識が気付いていることそのものなのです。

このもう一つの見方は、無(空)の視点に立脚するとこう見えるという観念として現れます。
まるまるさんが観念としてかみ砕いて書いてくださった通りだと思います。
(まるまるさん、ありがとうございました)

無(空)である全体としての私は、何も知りませんし何にも気付いていません。
全体の私が、全体の私を知るための鏡として「個の私」や「意識(気付き)」や「万物」など全てを在るものとして創造しているように感じます
(この表現も私の観念に過ぎませんのでご注意ください)
Posted by 模察模察 at 2017年02月23日 10:23
無が感謝の件で付け足し。
無が感謝のイメージを確認するため、ホオポノポノの誰の責任か?というものを参考にしてます。後は阿部さんの初期のブログの記事の中に、全ての罪は許されてるみたいな記事を目にして、もしかして、なのかなあ?という発想が生まれてきました。私の中の真実はこれ!っていう感覚です。

ひんでんうんそわかー。感謝┏○ペコッ
Posted by ふ at 2017年02月23日 10:30
まるまるさんが話されていることも、模察さんが話されていることも

分離がある、が前提の話ですよね

その時点で、分離はない、が前提の私の話とはかみ合っていないと思います
Posted by かみゆ at 2017年02月23日 12:28
かみゆさん

話しを噛み合わせる必要はないとは思いつつコメントします。

まるまるさんも私も"分離はない"を否定しているわけではないのです

『分離はある と 分離はない』(=在るけど無い)は不可分です。
コインの表裏みたいなものですから、"分離はない"ことのみが真実ということはないと思われませんか?

確かに私の"2017年02月22日 11:34"のコメントは、片方の見方で書いたものですが....

いまはそう思われなくても構いません。
しかし、真理が分かったと思っても、それはそう思った瞬間に決めつけ(思い込み)たんだということは忘れられないことを願います。

かみゆさんなら何時かきっと気付かれることと思います。
Posted by 模察模察 at 2017年02月23日 13:27
模察さん

ごめんなさい、なんか今日の阿部さんの記事で勝手に解決しちゃったみたいです 笑
たぶん模察さんでしたら、そのようにおっしゃるのでは、と少なからず予想はしていました
ですがもしも、そうではないのかもしれない、ということが前提になければ危うい、と思っていらっしゃるのでしたら、それは確信とは違いますよね
確信というのは、例えるなら、思考の外からやってくるようなもので、それまでの理解力では到底いたることのない新しい閃きのようなもので、そこには”疑い”の入りこむ余地が感じられません
確信には物理的な体感が伴います
それは今までの知識ではどうにも理解が及ばなかった内側の靄のようなものが、瞬間的に晴れるようなものです
ですが、その先に起こる、それにまつわるあらゆる解釈の中には、思い込みの可能性がまったく無いとは言い切れません
気付きとは、新たな知識の獲得ではなく、全体に具体性が現れることではないかな、と今回の件でそのように決着いたしました
それが「分離」ということではないかな、と思います
ですから、存在が在るようで無いのではなく、分離が在るようで無い、のだと、やっぱりそのように思います
Posted by かみゆ at 2017年02月23日 18:37
むつみさん
もしかして、目覚めの体験ですか。
もし、そうなら、おめでとうございます。
シェアしてくれてありがとうございます。
どんな感じなんだろう、私もわくわくしてきました。
Posted by いーないーな at 2017年02月23日 23:39
今ブログを見てみたら、自分のコメントを取り上げられていて、かなりビックリしております。

そして今朝の事なのですが、自転車に乗って買い物に行く道中、道端のアスファルトに小さな白い花がアスファルトを突き破って咲いているのを目にした時、心が揺さぶられて涙が頬を流れ落ちました。どんな場所で芽吹いても、くじけることも嘆くこともせず、ただ生命を全うするその健気さにただただ感服しました。生きて在るということはなんて素晴らしいことか!生命の神秘、このことこそ子供たちや人類に伝えていきたいなと改めて思った一日でした。

阿部さんどうもありがとうございます!
Posted by ライラ at 2017年02月24日 06:15
今朝、風になりました。
以前のバイト先の建物と建物の間を通り抜ける風になってました(笑)。
次生まれ変わったら、風になりたいと思ってた夢叶えられそうです。
でも、風も場所を選びたい(笑)
いつかの日か、
阿部さんの心の中も感じられるかも(笑)
痛みという者は存在しないけど、心の痛みにフォーカスすると、自分もそれそのものになれるんですね。もしかして。

ありがとうございました。
感謝。

ひんでんうんそわかー
今までは自分だけに唱えてました(笑)
Posted by ふ at 2017年02月24日 08:54
私、ふと思ったのですが、目覚めがあってもなくても大丈夫なような気がします。目覚めがなくても、いつも真摯に幸せを見いだし、今を大切に生きている人は沢山?いるような気がします。誰かの役に立ってることを知ってるか知らないか分からないけど、無農薬野菜をみんなに食べてほしくてつくり与える人。(目覚めはないかもしれないが)心から育てている人。猫さん虫さんに植物さんに愛を感じる人。いつも、綺麗に使ってほしくて、愛を持ってトイレ掃除をしている人。コンビニの店員さんだって、心からの笑顔で相手の心を解きほぐす人もいる。家族の幸せを願い、心から料理や家事を楽しんでる人。学校のPTAの役員さんも、楽しい企画を考えて子供たちに幸せを与える人。猫の保護活動している人。目覚めがなくても、心から人生を楽しんでる人はいると思う。
だから、目覚めた人だけがオーケーみたいな思考はいらないなあと反省している。
目覚めの体験があっても、そこで留まれば目覚めの体験だけをいつまでも記憶したままの状態で満足したままもありですよね。私はこのパターンなので。
だって自由だもん。
結論、目覚めがなくても大丈夫!
私は引きこもりで人格障害だったから、目覚めがないと、復活できませんでした。
目覚めがなくても、幸せを与えている人は沢山います。おっしゃ。おわり。
Posted by ふ at 2017年02月24日 12:05
私の中で差別意識があります。
心から頑張って生きてる人は役に立つ人。
人を困らせるひとは駄目な人という発見がありました。

今に行ってきまーす。
Posted by ふ at 2017年02月24日 15:44
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