2016年11月11日

瞑想への質疑応答 2

まるまるさん

>坐禅では 思考を抑えるのに 静かになるまで数息観を使いますが、マントラ瞑想では 静かになるまでマントラを唱えるのではないんですか?


TM瞑想では、マントラを繰り返し唱えることで精神統一を起こし、空の意識に入っていこうとします。


しかしボブさんが提唱するマントラ瞑想は、マントラを一度しか唱えません。

いや、唱えもせず、単にイメージするだけで同じ効果が現れます。

なぜなら、本来のマントラとは、マントラの言葉自体のことではなく、それをイメージした後に発生してくる微細な波動(量子のようなもの)だからです。


ヒンズーの経典には、万物はマントラから生成されていると記されているそうですが、マントラを量子と置き換えるとその意味がよく分かります。


このボブさんの革命的な方法は、瞑想をさらに深く、そしてさらに容易くすることに成功しました。

僕はこの瞑想法に出会ったとき、これこそが現代人にとって最も効果的で簡単な瞑想法だと直感しましました。


一度そう確信すると、良いも悪いも突き進むきらいがあって、まるでボブ瞑想の伝道師みたいな役割になりましたが、ボブさんがマントラ瞑想に与えた功績は、もっと評価されていいと思います。


ちなみにNIKE瞑想もボブさんの瞑想法を踏襲しています。

ボブさんからは瞑想について多くを学びましたが、こうして独立した理由は、ボブさんがサイキックに関心を持つ人で、瞑想の構成にも神秘性やインドの神々の香りが強かったからです。


禅的な環境で生きてきた僕たち夫婦には、霊とか超能力とかいったスピリチュアルに関することを生徒さんに伝えるのが苦手でした。

瞑想とは特別なことではなく、誰にでも備わった自然な質であり、そのあたりのムードを一新したかったのが理由の一つです。


そこで、この瞑想の素晴らしさを保ったまま、身体や精神の改善といった現実面にフォーカスした構成に組み替えました。



>マントラ瞑想では、思考が静かになるまでマントラを唱えるのではないんですか?


マントラの波動が、瞑想者を思考から離してくれます。

無心になろうとしなくても、思考が湧き続けていたとしても、深い境地に誘われます。

そのことを信頼して身を任せるのがボブさんのFF瞑想であり、NIKE瞑想です。



FF瞑想とNIKE瞑想の違いは、大きく分けて三つあります。


ひとつは、使用するマントラの違い。

マントラは古代から伝わるものであり、ボブさんも自分の直感でイメージしたマントラを、必ず古代の文献に照らし合わせ、一致しているものを使用すると言っていました。

NIKEでは各チャクラの調整を促すために、チャクラに対応したマントラを使用しています。


ただ、すべての基礎となるのはハートチャクラ用のハートマントラであり、これだけはFF瞑想もNIKE瞑想も同じものです。



瞑想への質疑応答 2


二つ目の違いは、マントラを機能させる方法。


マントラは文字にすれば単なる言葉ですが、その本質は波動(量子)です。

瞑想者のエネルギーを動かすことでマントラを機能させることが出来ます。

その時間帯を伝授と呼んでいます。


伝授と言ってしまうと、AさんからBさんに手渡すというイメージがありますが、実際には元々その人の中に眠っていたものを動かすことです。

そのやり方がFF瞑想とNIKE瞑想では違います。


FF瞑想の場合はグルプージャを斉唱しながら儀式を行います。

受講してくれた人の中には、ちょっと驚いた人もいたことでしょう。

瞑想に対して宗教チックな先入観を持っていた人は

「やっぱりか」

と思ったはず(笑)


実はこの儀式は、受講する人のためにするのではなく、教師が自分のエネルギーを高め、場のエネルギーを動かすために行うものです。


その中で最も影響を与えるのは、教師の「声」です。

身内で恐縮ですが、智子さんは声だけで人を癒す力を持っていて、ボブさんが心底認めるくらい、その力は突出しています。


本人は気づいていませんが、生まれながらのヒーラーなのだと思います。

若いころはシンガーとして華々しい活躍をしていましたが、それも全部、いまの活動のためだったのではと思うくらいです。


したがってNIKE瞑想では儀式を行わず、ガヤトリーマントラの唄の力だけでエネルギーを動かします。

エネルギーの動かし方は他にもありますが、彼女の「声」は、NIKE瞑想の最も大きな特徴です。



三つ目の違いは、受講費の改定と、毎週のWeb瞑想会によるフォローです。

これによって、マントラ瞑想を実践する人の層が広がればと思っています。




じゅんちゃんさん

>以前どなたかが、FF瞑想は受けられますか?と言った質問をされていて、暫くお待ちください。と言うような回答だった記憶があります。

> 私もFF瞑想に興味があるのですが 待ち・・・の姿勢でよろしいでしょうか。



FF瞑想(フルフィルメント瞑想)もNIKE瞑想も、最初のマントラは同じです。

その後のFF瞑想のコアオブライフプログラムは、我々がFF瞑想時代にハートマントラを受けてくれた人に対して、続きとしてたまに伝授しています。

料金が違うので、これから受ける人に同じプログラムを提供することは控えています。


FF瞑想はとても優れた瞑想法であり、そのプログラムに興味がある人は、「フルフィルメント瞑想」で検索すれば、各地の教師を見つけられます。



zensouさん

>性欲を克服しきれないヨギも多い。


あはは、そりゃそうです。

そもそも性欲は克服すべきものではないし、修業して性欲がなくなったという人は、たぶん他の理由で性的不能になったのでしょう。

もちろん、あらゆる欲に対する表現の仕方は、その人の人間性の成熟度によって変わりはしますが、そのことと精神霊的な進化とは関係ありません。


なぜこのような誤解が蔓延したのか、ここには歴史的に複雑な理由があり、このことは重要なので、たびたび講演でお話しさせてもらってきました。


「性欲を克服した高い精神的境地」

この誤解によって、どれだけ多くの人が惨めな人生を送ったことでしょう。


いずれにせよ、性欲と闘っても勝ち目はありません。



>禅でも30年座れというでしょ?

>そして、瞑想法ですが、やっぱりミックスしちゃうと「混ぜるな、危険」になるようですね。



禅で30年坐る。

この言葉は、人間のマインドの落ち着きのなさを示すものだと思いますが、実際には30年どころか、一瞬で十分です。

「いまここ」に入るのには時間は要りません。


時間がかかるのは、マインドの中に様々なこだわりや、傷、劣等感、罪悪感などが無数に溜まっているからです。

それらを長期の坐禅によって解放していくことは可能ですが、時間がかかります。


そのことを早めてくれるのが瞑想です。

むやみやたらと各種の瞑想を乱用するのはお勧めできませんが、真実を理解した指導者がいるならば、併用の効果は確かにあります。


究極たる坐禅を、現代人がどう活用していくか。

このあたりのことを、白隠によって完成したいまの修業体系に取り入れることを、各派の管長にも話してきましたが、伝統の壁は厚いというのが率直な感想です。


僕は常々、伝統を原理主義のように守るのではなく、伝統が保持してきた本質を、いかにその時代に翻訳するかが大切だと思って活動してきました。




今日の話はこのくらいにしておきます。





今日もあなたを信じて、さりげなく置いておきます。


瞑想への質疑応答 2




・・・・・・・・・



12月11日

博多講演会

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「スパービジネスマンとの対話」

は、残り席わずかです。

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Posted by Toshiro Abe at 11:36│Comments(33)
この記事へのコメント
「わたしは

 無上の平安であるニルヴァーナを求め

 無上の平安であるニルヴァーナを得た。

~ 仏陀の言葉 ~ 」


「静寂・平安の実現が真我実現である。

~ ラマナ・マハルシの言葉 ~ 」


どんな瞑想法・修行法でも

心身の浄化・リラックスが進んできて

最終的にハートに安らいで

平安になり満たされていけばOKですね

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年11月11日 12:01
阿部さんこんにちは。
私の住む地方もいよいよ冬です。
あわててタイヤ交換して、あわてた他の人からもタイヤ交換頼まれ筋肉バキバキ関節ゴキゴキです(笑)

きのう、私のコメントにちゃんと答えてくださって、とてもうれしいです。ありがとうございます。
阿部さん瞑想ってすごいですね。
あまり知識や専門的な深い部分に触れなくても、呼吸を意識してゆっくりと(カワヒラ君の本のオマケを参考にしてます)、きのう教わった「10まで数える、数えたらまた10まで数える」って、寝るとき(寝ながら?)やっているんです。
いつの間にか寝てます(笑)
Posted by 南部鉄瓶 at 2016年11月11日 13:13
阿部様


FF瞑想とNIKE瞑想の違いも教えて頂きありがとうございます。
随分と違うのですね。

FF瞑想の提供ではなく
チャクラ瞑想の提供

承知しました。

回答ありがとうございました。
Posted by じゅんちゃん at 2016年11月11日 13:32
>ニルヴァーナ
>真我実現

お釈迦様は「あらゆる存在には真我(アートマン)は存在しない」
(諸法無我)とお説きになっています。

したがって、真我はニルヴァーナではありません。たしか高校の
社会科(倫理)の授業で、仏教はバラモン教(ヒンドゥ教)の真我
(アートマン)を否定した、と習いました。

では、無我(ニルヴァーナ)になると意識はどうなるのか、肉体か
ら派生する意識(=有身見)が無くなると、宇宙に広がる智慧と
慈悲そのものになります。

生きとし生けるものの生命がすべて、仏陀の体となるわけです。
阿部さんも大空さんも、私もあなたも・・・・みんな仏陀なのです。
「みんながブッダ」(ダイヤモンド社)。
Posted by さっかん at 2016年11月11日 13:39
>実際には30年どころか、一瞬で十分です。

問 AとBどちらかを師事しなさい。

A 3分瞑想?
テレビでやってたヤツ
やったらなんかすげぇのキター

B 身心脱落 只管打座!
座禅一筋30年
我いまだ大悟に至らず。

悲しいかなBでファイナルアンサー
Posted by そこ笑うとこ at 2016年11月11日 14:42
いつもありがとうございます。

相対性のおりなすファンタジー

上があるから下がある、幸せがあるから苦しみがある。

それだけのことなんでしょうねw

目の前の現象にリアリティー(偽)が無くなりつつある。

本当のリアリティーが剥き出しになったらすごそうwあるがまま・・・どんなやろ
Posted by まっす~ at 2016年11月11日 15:23
>>禅的な環境で生きてきた僕たち夫婦には、霊とか超能力とかいったスピリチュアルに関することを生徒さんに伝えるのが苦手でした。

瞑想とは特別なことではなく、誰にでも備わった自然な質であり、そのあたりのムードを一新したかったのが理由の一つです。


★★、賛成です!

率直に、しかし、理解し、否定せず、ついでに、謙虚に・・

素晴らしいですね。

考えると、ノンデュアリストも、スピリチュアリストも、人間は、自分が〈自分の真実〉を悟った“時の”「性格」や「根性」、「精神性」が、多くの人の場合、固定してしまい、

その変化や、成長を止めてしまうことが多いみたいですけど・・

いつもは、まだまだ、出来ないけど・・

尊ぶ、人間性?の一つとして、見習いたいものです。

今日も、ありがとうございます。

お疲れさまでした。
Posted by y-be~ at 2016年11月11日 15:24
三年ほど前に名古屋で受けましました。
確かに智子さんの声が素晴らしく、伝授が始まると訳もないのに涙脆くなりました。
あれはなんだっねでしょうか。
おかけで瞑想が気持ちがいい。
次回はルートマントラに伺います。
Posted by かずとママ at 2016年11月11日 16:26
瞑想は、瞑想教師が必要なぐらい特別な事なんですか?

言い換えれば、瞑想教師という肩書で活動する人が存在すればするほど、瞑想が特別な事になるような気がします。
Posted by tokumei(特命) at 2016年11月11日 16:59
以前、瞑想会で阿部さんご夫婦にハートマントラを伝授して頂きました。その時に「今日来てくれた人には伝授の後のフォローやWeb瞑想会の招待?などのインフォメーションなどをメールで送りますので」と阿部さんがおっしゃっていましたが、そのメールはいまだに届いていません。宜しくお願い致します。
Posted by Candle at 2016年11月11日 18:04
阿部さん。こんばんは。僕は詳しい事は良く解らないんですけど、わずかな時間でも瞑想の時間として、とることは、とても贅沢な事かもしれませんね。
あっそれと「スパービジネスマンとの対話」に参加させていただきます。
いよいよ生阿部さんと初対面。楽しみにしています。よろしくお願いします。
Posted by 永井新吾 at 2016年11月11日 18:25
さっかんさん


仏陀が最初に説いたとされている原始仏典の初転法輪や五蘊無我に関する説法をご覧ください。

仏陀は

「五蘊(肉体・感覚・表象・意志・識別)は我では無い(anattan 我ではない)」

と語っています。

「 初転法輪 」

http://ooinarukuu.blog.fc2.com/blog-entry-4021.html 

「 五蘊無我に関する原始仏典 」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html


仏陀は晩年から入滅直前に説いたとされている原始仏典の大般涅槃経には

「わたしは自己に帰依することを成し遂げた」

「自己を帰依処としなさい」

「自己に帰依するとは四念処を実践することである」

と語っています。


後世の仏典から

「我が無い」

という表現が登場するようになりました。


漢文や日本語で

「無我」と書くと

「我では無い」という意味にも取れ

「我が無い」という意味にも取れます。


原始仏教研究の大家であった中村元先生は

「anattan」というパーリ語を

「非我」、「我に非ず」と訳す場合がありました。


仏典はたくさんあります。

仏典に対する解釈書はたくさんあります。

仏教の修行者はたくさんいます。

仏教学者はたくさんいます。


ですから、仏陀の教えに関する解釈は人によって違いがでるのは当然のことです。


「高校の社会科(倫理)の授業で、仏教はバラモン教(ヒンドゥ教)の真我
(アートマン)を否定した、と習いました。」

と、さっかんさんが書いていますが

わたしが持っている「新倫理 数研出版」にも同じことが書いてあります。


しかし、原始仏典には

「五蘊(肉体・感覚・表象・意志・識別)は我では無い(anattan 我ではない)」

「わたしは自己に帰依することを成し遂げた」

「自己を帰依処としなさい」

「自己に帰依するとは四念処を実践することである」

と語る仏陀の言葉があります。


これを機に、ぜひ仏陀の教えが最も忠実に残されているとされている原始仏典に触れてみてください

「 初転法輪 原始仏典 」

http://ooinarukuu.blog.fc2.com/blog-entry-4021.html 

「 五蘊無我に関する原始仏典 」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html


大般涅槃経は「ブッダ最後の旅 岩波文庫 中村元 訳」で出版されています。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年11月11日 18:35
貴男は誠実な方ですね。

先日は大変失礼極まりない醜態をお許し下さい。

これを、  待っていました。

             。
Posted by メリオダス at 2016年11月11日 20:08
衆生本来仏なり

300年も前から
みんながブッダと言われているわけですよね

感動です


ブッダ☆ブッダ☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年11月11日 20:16
いつもありがとうございます。
 
今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2016年11月11日 21:04
「みんながブッダ」(阿部敏郎・向令考共著)より引用しますよ(^^;

P95(道元禅師の言葉)

仏道をならふというは、
自己をならふなり。
自己をならふといふは、
自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の身心及び他己の身心をして
脱落せしむるなり。

以上引用終わり。

無我を道元禅師は「身心脱落」と解釈したようです。大空さん
は、無我を「真我」と解釈したようです。

まあ、道元禅師の解釈のほうが教科書的で、大空さんの解釈
のほうが、少数派でしょうね(^^)/

どっちにしても、「みんながブッダ」(-人ー)ナームー
Posted by さっかん at 2016年11月11日 21:23
キリスト教は、イエス・キリストの教えという意味ですが、
必ずしも、イエスの教えそのものではないという指摘もありますし、
それは、仏教も同じでしょう。

それに、たとえ、どんな聖者の教えであっても、
教えは、教えであって、真理そのものではありません。

対象化され、抽象化され、言葉に置き換えられた時点で、
真理そのものからは分離してしまいます。

真我であるアートマンを語ることは不可能です。

有限なる者が、無限なるモノを語ることは、
無限を有限に閉じ込めようとするようなもの。
やろうとしても、できる人はいないでしょう。
 
海を体験すれば、海がどんなものか一瞬にしてわかります。

真我も、これと同じです。

このために、いろいろなヨーガがあり、
瞑想があり、修行があるのです。

そして、人生があり、生と死があり、地球があり、宇宙があるのです。

実際には、有形のモノはナイのですが、
無形のモノはアルのです。

この無形のモノを知ることによってのみ、
人間は、永遠につながることができます。

自分の本性を悟ること。

これこそ、人生の目的であり、人間が生まれてくる理由です。

自分が誰なのか?何なのか?

それがわかったら、もう生まれてくる理由はありません。

マーヤ(幻想)は消え、夢の世界は消滅します。

"わたし"は消えますが、
真の自己であるアートマンは、存在します。

すべての存在は、アートマンである、ということが、
霊的な探求の奥義であり、ただひとつのゴールなのです。
Posted by 霊的な探求の奥義***** at 2016年11月11日 22:45
> 性欲と闘っても勝ち目はありません。

はは、我々みんな、性欲の奴隷さ~

色欲が克服できたら、

モテない人(モテることに気付かない人と言い換えよう)は

自由になれる気がするのさ~

どうしても止めたきゃ、抗鬱剤があるさ~
Posted by rakuni... at 2016年11月11日 23:03
阿部さん、こんにちは。いつも興味深く読ませてもらっています。
瞑想の詳しいお話し、ありがとうございます。
近所にフルフィルメント瞑想を伝授してくれる教室があるので、
さっそく、予約入れました。
Posted by こうすけ at 2016年11月11日 23:22
さっかんさん

仏道・中道・苦しみの滅尽に至る道を開いた仏陀釈迦牟尼の言葉を聞いてください。

「 初転法輪 」
http://ooinarukuu.blog.fc2.com/blog-entry-4021.html 

「 五蘊無我に関する原始仏典 」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年11月11日 23:43
松山でFF瞑想の頃にハートマントラの伝授を受けました。
今でも思い出しますが、智子さんのグルプージャ?には驚きました。
人の声というのは方向性があると思うのですが、
智子さんの声は1点から生じて全体に行き渡るような声でした。
Posted by ふろいで at 2016年11月11日 23:51
みんながブッダと言うのは、抵抗があります。

私も、あなたも、みんなという現れのうちですが、

ブッダが、我をわすれて色々な私やあなたになり、

世界中で、夢や、思い込みの、人間社会のルールに縛られ、苦汁を舐めている。

苦汁に堪えきれず、おかしくなる人もいれば、悪さをする人もいる。

搾取、詐欺、盗み、殺し、他の生き物たちを自分たちの慰みや、快楽、或いは、資源や、贅沢な食事習慣のために、徹底的に利用し、貪る。


自分たちの周りを見回したって、世界中を観たって、「仏心」や、万物に「慈悲心」を注ぐ人は皆無に等しいではないですか?

えっ、黙って、静かにしてれば、みんながブッダ?

それって、人としての現象が起こる前ですよねー?

すべての人、すべての現れが、ブッダ?

自分がどうしても、馴染めない人、嫌いなタイプもブッダ?生理的に不快な人もブッダ?

トランプ氏も、ブッダ?

振り込め詐欺もブッダ?

強盗や、人殺し、数多の犯罪者たちもブッダ?

テロリストもブッダ?

紛争や、戦争を積極的に起こす人たちも、ブッダ?

みんな、どうひいき目に観ても、「仏」には?見えないんでけど。

いったい「ブッダ」とは、どのようなものだと、定義で、使ってらっしゃるのですか?
Posted by y-be ◐ at 2016年11月12日 02:17
なるほど。

伝授ではなく、元々、その人のなかに眠っていた潜在能力(自然治癒力)
を引き出すのですね。

いや~

演歌が身に染みる年齢になってきた…。アイドルに、「演歌うたって!」っていっちゃう。「釜山港へ帰れ」「氷雨」「津軽海峡冬景色」なんか、好き。。

ダイアナ・ガーネットさんていうアメリカ人がライブで「津軽海峡冬景色」歌っていてね。速攻、握手会いって、「演歌はジャパニーズ・ブルースですから!」って、いってあげたよ。その曲のCDは出てないんだけど。。

10代、20代前半のアイドルよ。
演歌歌え。

そして、ボクとハグしよう☆
Posted by zensou at 2016年11月12日 03:45
性欲について

ブッダは王宮時代に500人の美女とやり尽くしたから、性を捨てられたのだと思います。現代もミャンマーなどのテーラワーダ仏教国では比丘はマスターべーションすら禁止です。

私の知る情報によると不浄随観の瞑想をやるそうです。アスバといって死体を
観察していく瞑想をして、性欲を沈静化させます。(ちなみに、私はチベットの鳥葬で、死体が鳥に食べられていく動画を見てやっています。)

怒りと愛欲がなくなるのは不還果になってからですから。
Posted by zensou at 2016年11月12日 04:47
ご説明ありがとうございました。
何度も読み返してみましたが よくわかりませんでした。

>無心になろうとしなくても、思考が湧き続けていたとしても、深い境地に誘われます。

これを読む限り「禅」とは全く違うんだなという事だけはわかりました。
禅、坐禅は「無心になろうとする理由がある」からです。
この縁を理由に座り、なりきり、縁起が続きます。
龍樹が「善悪の問いが先で くうは後」という様な事を書いていたと記憶しますが、禅(釈迦の教え)では それによって「理由がある」だと思います。
もしも坐禅が「深い境地」を目的に座るのでしたら マントラ瞑想の方が 早くて簡単という意味で 優れていると 考える事は出来ます。
そういう目的ならば「坐禅30年」はもったいない無駄な時間なのでしょう。
「なろうとして 成る」が「なりきる」ですから「なろうとしなくても成れる事」は 次の縁起に続かないような気がしました。
わからないというのは この辺の部分においてが大部分です。
勿論「理由を他わない人」にとっての救いかリラグゼーションになる可能性においては 全く 理解できます。
そういう活動であるという意味ならば よく理解できます。
Posted by まるまる at 2016年11月12日 07:49
さっかんさんは我が強いから、この間阿部さんにかみついて今回大空さんにかみついたんでしょうね。さっかんさんには我を無くしてほしいです。無我になってほしいです。人にかみつくのをやめてほしいです。
Posted by さっかんさんへ at 2016年11月12日 09:05
ブッダが我を忘れて色々な私やあなたになっている

と書いておられますね

そして…

この現象界がどんなにリアルであっても
本当は幻想であり起きているようで起きていない

と見抜かれますように…

ブッダが我を忘れるというあり得ないことは
夢の中という幻想の中で起きていることであって

起きているようで起きていないのであります


ブッダ☆ブッダ☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年11月12日 12:42
ゴータマは王宮に居た頃500人もの美女

とヤル……なブッダ(〃・〃)さすがヤ

それでこそGo玉子(〃_〃)様やでホンマ

性欲は聖欲である。

物欲は仏欲である。

食欲は触欲である。

そ仕手…日興欲…。

当たりツモ!を

ヒットヅマ♪と言ってもよい。

履いて行こうツモ(〃_〃)ハイ
Posted by 徹まんアコム at 2016年11月12日 19:52
徹まんアコムさん

HN統一しないと、日和るさんに怒られっど~

あ、いま、いないんだっけ
Posted by rakuni... at 2016年11月12日 22:34
五欲の誘惑を断ち切るには心経を唱えるべし(〃_〃)オゥ無!

ほんに はらへった しんきょ〜〜(〃人〃)チ(リ)ーン$♪

訳*行けよ 行けよ ゴハンに 行けよ

行けば わかるさ

ありがとう




アシュタール!(〃•〃)フッ
Posted by 無言くん禁欲日記(1時間限定) at 2016年11月13日 00:53
^^今日は教えていただきたいのですが

ひとつだけ質問させていただいてもよいでしょうか

最近アジズさんの本をよんだのですが


たぶん

私 私 私 ととなえてるとき

その想念をとなえてる存在が

そのあたりに(頭のなかというかうしろらへん)あります

それがアジズのいうステートオブプレゼンス

なのでしょうか?

その牛(ステートオブプレゼンス)が確立されるまで

笛をふいてはいけないとアジズさんは
アジズとの対話という本で十牛図を引用して話されてます

調子のよいとき

私私私という心連呼が

胸のあたりにうつりますけど

そうすると

私がやわらかにひろがってくる感じがします

次に努力が不自然に感じられて

リラックスして

やるのやめてしまうんですけど

それが無努力(無条件)の愛・あるがままでいいのでしょうか

Posted by なう at 2016年11月13日 07:16
なうさん、しつこく迫ってすいません・・・・・暇なんで(^^;

>それが無努力(無条件)の愛・あるがままでいいのでしょうか。
愛(真我)の位置に立つなら、全てはあるがままではないでしょうか!?
我々自身がそもそも神であるなら、その神がしてる行為は全て神の御業(つまりあるがまま)だと思う分けです。

けど問題なのは、神(あなた)は真に目覚めたくて追及してるのかどうかで、ほんとは別にどうでもいいのかも知れなくて。
そういう場合は、単に追及を戯れてるだけかと。
これではいくら追及しても、夢の中の遊戯に終わってしまい兼ねません。
だから要は、全てを犠牲にしてまでその覚悟があるかどうかで、これこそ神の真の欲求だろうと思う分けです。

なので、貴方の問いが真の欲求(渇望)から発してなければ、それは神の戯れ(自我の問游び)であり、答えを聞くのは真我ではなく自我の方ではないでしょうか。
その証拠に、一度聞けばそこで追及が終わってしまい、次の問いが生じて来るのだと思うからです。
つまり、自我が納得してしまって潜在意識にまで答えが降りて行かないのだと思います。
それゆえ心(潜在意識)を開いて聞く必要があり、それが難しいなら文明の利器を応用すればどうかなと・・・(爆呆想)

例によって、面白かったなら幸いです(*´з`)ゞピッ
Posted by 脱線マン♪ at 2016年11月13日 10:45
瞑想やめちゃいましたよ〜。やっぱり一人でやるのは限界があるのかなぁって、良い訳です。人生は甘くて優しいもの。適当にいけばいいですね。
Posted by クゥ at 2016年11月14日 08:57
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