2016年02月13日

Kさんの場合

昨日、ひょんなことからメールをもらいました。

このブログの長い読者で、ここの記事だけでなく、みなさんが寄せてくれるコメントによっても、大いに助けられたとありました。


きっとコピーして保管していたのでしょう、その中のKさんからのコメントを送ってくれました。

読んでみて、確かにこういうことってあると思いました。



・・・・・・困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。

そして、あきらめたのです。

もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。

いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。

世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。

それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に。

わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと。

自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。

そして、ここに!

この胸の、ここに!
説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。

わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、溢れ出るその愛の故に、酔いました。

それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。

そんな人が出てきたのです。

まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。・・・・・・




勇気を与えてくれる文章ですね。

たった一瞬でも内なる愛を味わえば、その人は同じままではいられません。

真実(愛)は人を根底から変えてしまう力があります。

ほんの一瞬でいいから、地球中のすべての人にこの次元が顕わになれば、その瞬間に問題の多くは消えてなくなることでしょう。

そんなストーリーを夢見て、ずいぶん長い時が経ちました。



Posted by Toshiro Abe at 14:54│Comments(128)
この記事へのコメント
その方のコメントは、よく覚えてます。
Posted by moku at 2016年02月13日 15:01
うわ〜〜〜

どうもありがとうございます。
Posted by マウイ けいこ at 2016年02月13日 15:02
うわ〜〜〜

どうもありがとうございます。
Posted by マウイ けいこ at 2016年02月13日 15:02
フーン、 とうなりながら読ませて頂きました。
私もそうなりたいものです♪
Posted by きよみ at 2016年02月13日 15:03
すべてに、OK。
いま、沖縄の陽射しが熱い!
Posted by てつ at 2016年02月13日 15:07
私もこの方のコメントはよく覚えています。
私にも金銭を出してくれる人が現れないかなーと羨ましくもありました。私も金銭的に困っていて、本当にどうしようもない状況でした、今も....


素晴らしいですよね。
Posted by ny子 at 2016年02月13日 15:09
起こることと戦うことを止めたとき、違う次元が現れますね。
Posted by クゥ at 2016年02月13日 15:11
涙が出ました。
胸に熱いものがこみ上げ、私も暖かな愛に包まれました。

このブログで大切なことを発信し続けてくださっている阿部さん、
そして一緒にこのブログを読んでいる仲間の皆さま達に、
心からありがとうございます!
Posted by ひろ at 2016年02月13日 15:14
…これ以上、どうすればいい?

菜穂さんに「大丈夫だよ。」って、抱きしめてもらいたいよ。
Posted by zensou at 2016年02月13日 15:16
今話題のKさんかと思ったw
Posted by N at 2016年02月13日 15:23
今日もまた素敵なお話をシェアしてくれて、ありがとうございます。
昨年、私もそのような近い経験をしました。もう駄目だ、もう終わりだ、このまま死んでしまうのかもしれない。心底もう疲れはて、全て神にお任せしよう。と降参した瞬間、家族、親や兄弟や友達、今まで私と関わってくれた人達の顔が走馬灯のように頭の中を駆け抜けて、全てに感謝の気持ちと愛で満たされ、涙、涙で泣き崩れた事がありました。
自分で自分を解放した瞬間だったのでしょうかね。
Posted by Candle at 2016年02月13日 15:27
分離なんて実際はないけれど、分離してる感覚は不安になる。
でも ひとつに戻った時の感覚は ホッとする。

ホッとするようなメッセージをいつもありがとうございます
Posted by 薄茶色 at 2016年02月13日 15:31
このようなことが起きると、
私たちは、それを、所謂"奇跡"として捉え、
それを起こしてくれた"神のような存在"を想定します。
私たちを包み込むかのような"愛"としか呼べないようなとてつもなく大きな存在を感じたりします。
それは、もうひとつの世界を垣間見た瞬間かもしれませんね。
すべてを手放した時に起こる"奇跡"のような出来事も、ひとつの現象であり、"顕れ"には違いありません。
しかし、それは、サレンダー(自己放棄)した者のみが体験できる"至福体験"とも言えます。

しかし、"至福"を感じるのは、"奇跡"を体験することにあるではなく、
神を識ることこそ、歓びだと感じます。

そして、神を識る歓びは、何も、"奇跡"体験を通してばかりではありません。

日々の生活の中で、そんな瞬間が訪れることもあるでしょう(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月13日 15:38
この方のコメント、
2012年2月17日の”福音”という題名で
阿部さん取り上げてますね。
とても勇気づけられた記事でした。
保存してあるのでたまに読み返してます。
Posted by みつ at 2016年02月13日 15:54
内側のハートが開かれたら

外側の運気も開かれた


というとても貴重な体験談ですね

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年02月13日 15:54
>わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

ここの「覚悟」ですよね、これが 普通に幸せのなかに いますと、それを「覚悟」する必要がないので、その「覚悟」がどのようなものかは 知識でしか判りませんね。しこたまな 苦しみが、その心境へと 導くことが よくありますが、
苦しみを 望む 人もいませんので、自力で「覚悟」できることは ありませんね。

>神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間

・・・きれいな 受け止め方ですね。自我の持つ 観念に縛られなければ
必然 現象化されてくるのが 神の心・・・って 私は思います。
Posted by アクア・・・でおくれたな(笑) at 2016年02月13日 16:08
zensouさんの言葉、

>…これ以上、どうすればいい?

未来に何かを求めることにより出てきた言葉のように感じます。
その求めることをあきらめるに至ったのがKさんではないでしょうか?

何も求めず今ここにいる至福、それが幾多の解釈を経て一般社会に残った1つの形が謙虚という道徳だと思います。しかしそれはたくさんのことがそぎ落とされてしまっているように思えてなりません。

何もしないことを説く覚者の言葉がありますが、言葉だけの理解にとどまってしまうと、知らず知らずのうちに何もしないことをしようとしてしまいます。求めないことを求めてしまいます。じゃあどうすればいいんだ、とまたしても何かすることを求めるかもしれません。このループから抜け出そうとするのもやはり同じ穴の狢。

「自分の方から何かしようというのは、ことごとく考え方です。」
井上哲玄老師

もしかしたら当たり前のように思っている「あれをすればこういう結果を得られるはずだ」という考え、これもまた後からくっついたものだと思います。用があるのは何かがくっつく前のありのままの今。すべてをあきらめたことでKさんはそこに触れたのかもしれません。

zensouさんに説教をしているように聞こえたらごめんなさい。自分自身に言い聞かせているところが多分にあります。このようなきっかけをくれたKさん、阿部さん、zensouさんに感謝します。
Posted by 万年筆 at 2016年02月13日 16:53
そういえば…

昨夜Web講演会を見終えたあと、

胸の奥が膨らんで充満した感じがしました(^_^)


阿部さん、講演会の中でハートの話しに触れてましたね。


ちなみに禅は、ハートではなく肚(ハラ)を意識するものなのでしょうか?

ハートと肚について、お話し伺えたら嬉しいです(^^)


ラドンナでのライブ、いってらっしゃいまし(^^)/
Posted by ようこ at 2016年02月13日 17:03
全てを明け渡すことで、全てがうまく運び始める…
これはよく聞くことでもあり、
勇気の持てる事例だなと思うのですが、同時に、
「断末魔の絶望の縁に立った者だけへのご褒美」なんだな…
という落胆も同時に感じてしまうのです…。
僕らの毎日は、なんとかして絶望の縁を避けて生きているわけですが、
こういう事例を聞く度に、人生の矛盾、逆説的な仕組みに、
悶々としてしまうのは、僕だけでしょうかね…(笑)
Posted by yappa365 at 2016年02月13日 17:37
〉地球上のすべての人々に、このような次元が顕になれば。。。

すべての人々が、このような次元が顕になることを望んでいるとは限りません。
少なくとも、個人的には、60億の人々がそれを願っているようには、感じません。

サレンダー(自己放棄)しようと覚悟したからこそ訪れた自己の内側が静かになった瞬間に、
それまで在ったのに気付かなかった存在の本質に触れる体験が起きた、と言えるかと思います。

その瞬間に、人智では計り知れないパワーが働き、もうひとつの次元への扉が開くことがあります。

具体的には、とても非日常的であり、
人間がやっているとは思えないような超自然的な出来事、現象が起こります。
人は、それを"奇跡"と呼びますが、
"奇跡体験"をきっかけに、それまで線形的な世界に在った人間は、非線形的な世界へ踏み込むことになります。

こうして、人は、この二元世界と同時に存在しているもうひとつの世界の存在に目覚めていくのです。

こういうことは、実は秘かに起こり、表に出て来ることは少ないと感じます。

本来、"奇跡"とは、非常に個人的な体験であり、それ故、同じことは二度と起きない、ということになります。

人にあっては、目に見えない世界からのギフトですが、
全体においては、時々起こるちょっと珍しい"現象"であるだけで、
それが普遍的な意味を持つようになるには、もうひとつの世界への扉が完全に開くことが必要です。
Posted by Jnana at 2016年02月13日 17:41
愛☆愛☆
Posted by 甲賀忍者 at 2016年02月13日 17:57
現状への抵抗を諦めたということですね。

現状を不服に思うとしたら、それは過去の良かった頃の未練や、未来への良き生活を夢見ている分けかもで、ならそこには自力(エゴ)が発生してる分けでしょうか。
でもKさんのように、今の現状なる苦しみを諦めて受け入れてしまえば、過去や未来への意識の移行は、重要性が無くなって失せてしまうかと。

阿部さんも2012年02月17日のコメント欄に残されてますが、過去の未練を絶ち、未来を思い煩うのを絶ち、いま起こっていることだけに、ただ無心に成って対処してればいいかと。
過去や未来に意識(エネルギー)が拡散せねば、Kさんのように? 無意識も含めた全意識(全エネルギー)が、潜在意識を介してその時に必要な需要と供給へと働いた分けでしょうか。

そして、この方の胸に込み上げてきた喜びとは、神(他力)に自身を明け渡した時に生じたエネルギー(高揚感とよく似た感じのもの)のことじゃないかなと。
もしそうならですよ、別にこの方のように地獄を味わうこともなくってですね、現状に対して抵抗することなく、逆にその苦しい現状に対して「イエス!」と叫んで受け入れる。
そしてそのとき、過去や未来なる迷いを投げ捨てて、完全なる決意を固めてしまうなら、おそらくそこには、高揚感にも似た喜びが現れても可笑しくはないかもと(爆汗)
このような迷想に耽っている始末なのですハイ(爆迷想)

ささ、夕餉のひとときに (.*^◇^;)_旦~~ <味噌茶>
Posted by 茶呆 at 2016年02月13日 18:15
私は絶望したから、明け渡しが生じたとは言えないと思うけどな。
闇の中では豆電球でも眩しくみえるし、ずーと今を否定して拒否して
苦しんでた人が、いきなり力を抜いて今を受け入れたら、堰を切ったようにドバーッと(笑)ハートが開いたりしたかもですよ(^^)
Posted by あか at 2016年02月13日 18:16
戦わずして勝つ。
Posted by rakuni... at 2016年02月13日 18:28
阿部さん、ありがとうございます。もっと謙虚になりたいと思いました。
Posted by のぐ at 2016年02月13日 18:37
記事を書いていて 思ったのですが、二元って 単純に言えば相対する概念を

比較しているだけですよね?

頭脳が比較して それぞれが認識されるだけのことですよね?

真理でも なんでもない人の生理みたいな 選択の基準にすぎないものですが、

非二元って 選択の自由がないって ことですか?

選択している人は 誰ですか?誰も いないんですよ・・・が 回答かな?
Posted by アクアの質問(笑) at 2016年02月13日 18:48
こんにちは♪
久しぶりにコメントします。
大変な、死にそうなくらい辛い思いをしないと、全てを手離し神に委ねることが出来ないのでしょうか?
だから、いつまでも私達はこのように、あーでもない、こーでもない、と言い続けるばかりで。
えい!!っっって!!全てを手離せたら
と、頑張ってみてます。
Posted by いわごん at 2016年02月13日 18:49
私もこの日の記事を保存していました。
同じ日のコメント欄にはもう一人、トパーズさんが印象に残るメッセージを
書いてくださっていて、よく覚えています。
あの頃よく顔を出されていたトパーズさん、優。さん、懐かしいなあ。
お元気でしょうか。
Posted by きらり at 2016年02月13日 19:00
「個」を捨て去った時、「真我」が現れたんですね~!

真我は「全体」であり「神」であり「愛」です!^^
Posted by 近藤 at 2016年02月13日 19:07
近藤さん、いつもありがとうございます♪
って、私が言うのも変ですが(笑)
そう思います!(^o^)

その通り!と思う度に、
いつも内側から歓びが溢れてきます♪
(誰の?って、突っ込まないで下さいね、笑
エネルギー体として、歓びのエネルギーがハートから溢れて来るのです、笑)
Posted by Jnana at 2016年02月13日 19:16
あかさん、まさに我々は絶望したとしても今を受け入れないのかも知れません。
その結果、自分を自殺に追い込んでしまう分けでしようか。
つまりそれは、いまこことなる現状からの逃避なのだと思う分けです。

そうじゃなくて、逃避せずに非情なる現状を受け入れるには、何らかの自覚がいると思われます。
その自覚とはつまり、受け入れようと決心することだと思う次第なのです。

その時、過去や未来に浮遊していた無意識的エネルギーが、いまここなる地点に治まって、炎のごとく燃え盛るのだと思う次第なのです。
ここにKさんは喜びを感じたのかも・・・(爆妄想)
Posted by 茶呆 at 2016年02月13日 19:20
絶望を受け入れるって、なかなかですね。。
私は受け入れ拒否しちゃいます。

そのかわり頭で考えて考えて、思考で解決しちゃいますね。
思考で思考を消すタイプ。
でも、それはキリがない(>_<)

ジャックウェルチは、経営してて悩みはないのか?の質問に
悩みなんて勝手に通り過ぎていっただけさって笑ってたけど、
これが理想ですね^^;
Posted by あか at 2016年02月13日 19:35
"個"から"全体"へのシフトは、
"個を明け渡す"ことで起こる、とよく言われていますが、
"個"自らが、それを望んだから起こる、というわけではありません。
"望む"ということ自体が、エゴだからです。

むしろ、サレンダーは、エゴを手放すことですから、
自己が望む、望まないに拘わらず、起こること、とも言えます。

全体においては、"個人"という観念は無いわけですから、
全体に起きている、と考えれば、誰に起きようと関係ない、とも言えるかと思います。
人は、誰に起きて、誰に起きない、と気にするかもしれませんが、
そもそも、そんな"個人"はいない、のですから、
そして、起きても起きなくても、誰でも全体であることには違いないのですから、
肉体がある限りは、自分の役を全うすることだと思います(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月13日 19:39
戦いたければ戦えばいいし、
それに疲れたら諦めるし、
諦めて「疲れた~~~~~・・・・・」という感覚に浸かると、
あれ不思議、とっても幸せなんです。
偏頭痛起きてても幸せなんです。偏頭痛が今確かに起きてるのは分かるんですけど、でも、幸せです。
幸せなんですけど、偏頭痛が起こっているのも確かなので、
「幸せ」から「偏頭痛」に、
「無理させてるね、ごめんね、いつもありがとうね、ゆっくり休もうね」
と、愛を送る。
そんなストーリーに浸っています。
それが、けっこー、幸せです。
ご飯食べて、今日はゆっくり寝ます。
Posted by 好きにするさぁ~ at 2016年02月13日 19:42
きらりさん
セーターくるりのきらりさん?
どうぞ♪「おはぎとカルピス」お
いとくよ♪  ● 旦





今日の記事
優しいオッサンの一瞥に似てます♪



『これ』一瞥ってのは

大いなる源泉『これ』に最後、

『これ』
「もともと『これ』やったんや。
いつまでこっちにおるねん。
とっとと体験してこんかい!やりたいことをやれ!!!!」

って突き返されて、

「逆一瞥」して
 
 二元(現実世界 主) 今 にもどります。
地上着地、グランディングですね。


優しいオッサンは、

「精神世界に価値を持たせてはいけないんだ。」 って

『一瞥 逆一瞥』をとおして、さいご言ってましたね。


現実世界ありきのスピリチュアル。
二元あっての非二元。

 今 を大事に生きろ と♪


たこ焼きでも買ってきます(^^)
Posted by 愛ラ-雲国際レディオホテル- at 2016年02月13日 20:13
あくあのおっさん、やさしいおっさんと

はなしてみればぁ〜。

広がるんちゃう?

しらんけど。
Posted by 日和る at 2016年02月13日 20:27
これは、はなおかしゅうへいさんのブログの中の文章そのままのコピーですねー
そのブログのことばを誰かがコピーしたのでは無いでしょうか?
今はそのブログはありませんが、とても素晴らしいブログでしたので保存して何度も読み返してます。
Posted by あ at 2016年02月13日 20:54
そういうのを

立つ瀬が無い

といふ。
Posted by 日和る at 2016年02月13日 21:00
智子さんとのステージ、素敵だったんだろうなあ
Posted by 通りすがり at 2016年02月13日 21:22
思いついた言葉…まず、安心すること

それから頭で考えた言葉…ただ理由もなく安心する

運命に抗うのではなく、運命に寄り添う
Posted by rakuni... at 2016年02月13日 21:32
面白かった(⌒‐⌒)

謙三さん、なるほどやった(⌒‐⌒)

最後まで沖気ってわけねー(⌒‐⌒)

しらんけど(⌒‐⌒)
Posted by みちばた at 2016年02月13日 21:48
この方のコメントが取り上げられた過去の記事、覚えています。正確な日付を みつ さん、ありがとうございます。おかげで読ませていただきました。
もう闘うのを止めた。大いなる自ずに全ておまかせする。こういう心境には自然になったのでしょうね。日々、少しずつ、自分出来が付かない内に。
Posted by 高橋 at 2016年02月13日 22:48
まぁ何でしょうかね、今日の自分の結論を言えばですね、

自分に起こる苦の現象や、それに対する自分の反応に対し、勝手にやっててくれと・・・。

開き直るというか、そのような感じですかね(笑)
Posted by 茶呆 at 2016年02月13日 22:53
rakuni... さん が たぶん いや きっと


自分の内に入ったコメントは、初めてだと  思お。

その気になったのかな。


しらんけど。
Posted by 日和る at 2016年02月13日 23:10
あと、諸々の妄想に対しても。

俺は今、目の前のことにしょうたれてるんだから勝手にやってくれと。

今日は一応こんな感じで・・・・・(爆)

お休みんしゃい♪
Posted by 茶呆 at 2016年02月13日 23:24
rakuni... さんを思うと

ニコルさんを思い出すんですよ。

なぜなんでしょうね。

勝手に思い出さんといてって

言われればそうなんですけどね。


これが、自分の世界を作り出す種なんでしょうねぇ。

そんなどようのよるでした。

みなさん。 

おやちゅみん。
Posted by 日和る at 2016年02月13日 23:39
あさん・・・え?(笑)

ひよるさん・・・やさしいお兄さんの ブログ・・・前に読んできました。

お互いに 一瞥として 思っている体験が 違いますので、

平行線で 交わることが ありません(笑)

あ~~~、今日は じばくで おわりました。少し、うけをねらいました。w

みんな 大人だと 思いました。ち~~ん。
Posted by アクア at 2016年02月13日 23:43
昼間は…
自分が存在していると思い込んで
(自分と世界に分離し)
愛がなんだかわからなくても

ぐっすりと眠れば…
自分は消え去り愛の中へ



一瞥体験した人が語る自分がいなかったと
誰もが朝起きた時に自分がいなかった
というのは同じこと

特別な人なんかいない


みんながブッダ


至福☆至福☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年02月13日 23:45
この事に触れれば触れるほど、
ほんと自分にできることはなぁーんもないじゃんよ、感が
募ります。

でもそれでいいのだ。

私の大切なストーリー。

今日も1日お疲れ様。
Posted by サウナ at 2016年02月14日 00:13
特別な"人"はいません。
それぞれが、それぞれの役割をやっている。
その中身は、みな同じモノから出来ている。

それを"真我"とかアートマと呼んだりしますが、
それこそが、"真の実在"です。

"それ"だけが在ります。

"真の実在"からすれば、"個"はなく、すべてがひとつなので、役割もありません。

役割があるのは、肉体がある間だけなので、
役割を楽しめるのも、人間である間だけです。

賢者も覚者も、人間である間だけの役割であり、
覚醒について云々するのも、今だけのお楽しみです(笑)

すべては、リーラ"顕れ"であり、
非実在の"夢"なのですから、
何も心配することはありません。

そして、同時に、
すべての存在は、真我であり、アートマであり、
大いなる存在である"神"なのですから、
すべてのモノは、等しく完全であり、唯一無二の存在なのです。
Posted by Jnana at 2016年02月14日 00:14
僕自身も同じような経験が。

体が思うように動かず、追い詰められて、お金も済む場所もすべてを失う恐怖を味わい・・・

どうにもならず、もうこの体でなんとか生きていかなければならないと腹をくくった時、回復が始まりました。

素直に無抵抗に明け渡せれば苦労はないのでしょうが(^^;
Posted by よしのり at 2016年02月14日 00:15
昨年夏ブログを閉鎖。
花岡修平さん。


惜しい人を日本のスピリチュアルは手放したみたいです。


『大いなる源泉』
二の神『マリヤ』さん。

花岡修平の名前が現れたのは、

『大いなる源泉』
二の神『マリヤ』さんの
 恩寵 ですね♪






心から安心して、至福の中でおやすみなさい
Posted by 愛ラ-雲国際レディオホテル- at 2016年02月14日 00:25
私も
この方のコメントはよく覚えています

心に染み込むような感覚が湧き
何かが溢れ出てくるような感じも覚えています

とても印象深いコメントでした
Posted by choppa at 2016年02月14日 00:38
存在するすべてはいしき(不変)である これが目覚め
Posted by なう at 2016年02月14日 02:35
おはようございます。おさわがせしてすみませんでした。
ひとつ、正確な情報を提供します。>同じこと・・・じゃないですよ。夢をこわすかもしれませんが、夢(睡眠状態)と覚醒とは 別です。覚醒に伴うのは自覚。
Posted by アクア at 2016年02月14日 07:41
阿部さん おはようございます

今朝は本州も生暖かく、窓を開けて久しぶりに朝瞑想をしました。
Kさんのシェアも手伝って、これまた久しぶりに 神に全託 の意識を思い出し、静かに座っているだけの幸福な時間を過ごせました。

残念ながら、瞑想はまだ起こってきませんが、このような時間があるだけでも幸せです^_^

全託でふと思ったのですが、
神への 生け贄って、もとは神への全託精神だったのでは?と。
それが自我の恐れで、他人の肉体を差し出すことを思いつき、または動物で代替すればいいと思いつき、、とだんだん間違った解釈になっていたのではと。

朝から妙な発想ですね

でも今日はハートチャクラ前回で過ごせそうです!
阿部さん いつもありがとうございます。
Posted by 今日は匿名 at 2016年02月14日 08:09
全託は、サレンダー(自己放棄)ですね(^o^)

神は、生け贄など必要としていません。
すべてである神が、人間の命(肉体)を必要とすることはありません。

神を愛するとは、そういうことではありません。

誰かを愛したとき、その人のために何かしてあげたい、
その人に気に入られるにはどうしたらいいだろう?とか考えます。

そうやって、自分の意識を愛する人の方へと向け、
何事においても、自分より相手を優先して考えます。

神と人間とを分け隔てて考えているとは、エゴだけなのです。

人間を含むすべての存在は、大海の一滴どころか、大海そのものです。

それを別のモノだと思っているのは、エゴという自我意識だけなのです。

神を愛するとは、このエゴを取り除き、
最終的に、すべての存在の源である"神"に戻ることです。
 
今も"神"であるのですが、
エゴである自我意識が、そうである、とは思わないだけなのです。

このエゴ(自我意識)だけが、自分は人間だと思っているのです。

この世界には、ただひとつなるエネルギーが、形を変えて存在しているだけです。

今もそうなのですから、
源に戻るのは、そんなに難しいことではありません。

神は愛、それがわかれば、
愛に戻っていくだけ。

神であるこの宇宙の全存在を愛することは、
神を愛することなのです。

自分より他を優先することが、愛であり、
"愛"だけが、この二元世界で人間が、自ら、
それを通してサレンダー(自己放棄)することができる唯一の行為なのです。
Posted by Jnana at 2016年02月14日 08:54
朝、めざめたら歯が痛い。
歯ぎしりしたよおだ。よお。


そう、この方だけ抽象表現だけ。
だから、たあげっととして、一途に茶々を入れまくった。

他の一瞥者とは表現の共通性がみれない。
でも、少しずつ一瞥者の発言を取り入れるテクは持っている。
専門か、興味かインド哲学の愛読者なのであろう。

心理学でいう「思い込みによる同一化」。

残念な事は、阿部さんがその抽象表現の「ふみ」を
取り上げた事。
眼力が低下したのかとも思えてくるのは、しかたがないことなのか。
(阿部さんは彼女を一瞥した者と見ている)

彼女の思い込みはさらに加速するだろう。

読み手の誤解も広がるであろう。

「Jnanaさんは、覚醒などしてない!」

ウルトラ万人向けタロウ地球を救ってぇ!




で、目が覚めたよ。

おはよぉサンです。

あ、日曜討論が始まる?
しらんけど。
Posted by 日和る at 2016年02月14日 08:54
日和る さん

"わたし"は、覚醒などしていませんよ。

覚醒した"わたし"など存在していません。

いつも書きたいことを書いているだけです(^o^)

と、そういうことが起きているだけ、です(笑)

お気に障るようでしたら、スルーして下さいね(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 09:00
Jnanaさん

あは、ははははは。

んん〜♪     ハヤイ! 

はやコメありがとう。


なら、阿部さんにもちゃんと伝わったかな。


おはよぉさんです。

すがすがしいって  いいでふね。

今日も一日。善い日でありますように。


ねぇ  日曜討論まだぁ?
Posted by 日和る at 2016年02月14日 09:13
阿部さん?(笑)

阿部さんには、いつも感謝しています。
コメント欄を解放して下さって。。。

有り難いですね(^o^)

ありがとうございます♪
Posted by Jnana at 2016年02月14日 09:28
おはようサン


アクアさん

夜に寝ていて夢を見ている時ではなく
ぐっすりと眠って自分が消えている時のことです

無と無は全く同じただひとつの無…

ですから

どんな人の一瞥体験も同じです

覚醒に伴う自覚…
この自覚は自我ということでありましょう

自我があるかぎりそれが世界に投影されて

あの人にはまだまだ自我があるとか
あの人は悟りを開いたすごい人(自我)

と見えるのでしょう


ブッダ☆ブッダ☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年02月14日 09:30
覚えています。というか、折に触れ思い出す心に残るものでした。
Posted by 南部鉄瓶 at 2016年02月14日 09:48
今、目を通させて頂きましたが、先日、心が助けを求めたため、読み返そうとした「アシュター・ヴァクラ・ギーター」に、

その文面と内容の自然さが匹敵し、似通って感じられ

勝手に騒いだり、反応したりする心が説得させられます。。
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:26
今、目を通させて頂きましたが、先日、心が助けを求めたため、読み返そうとした「アシュター・ヴァクラ・ギーター」に、

その文面と内容の自然さが匹敵し、似通って感じられ

勝手に騒いだり、反応したりする心が説得させられます。。
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:26
今、目を通させて頂きましたが、先日、心が助けを求めたため、読み返そうとした「アシュター・ヴァクラ・ギーター」に、

その文面と内容の自然さが匹敵し、似通って感じられ

勝手に騒いだり、反応したりする心が説得させられます。。
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:26
機能障害???のために、ワンクリックで、お経のように、トリプってしまいました。。。

<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:32
機能障害???のために、ワンクリックで、お経のように、トリプってしまいました。。。

<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:32
機能障害???のために、ワンクリックで、お経のように、トリプってしまいました。。。

<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
Posted by Y-be at 2016年02月14日 10:33
日和るさん、

> rakuni... さん が たぶん いや きっと

> 自分の内に入ったコメントは、初めてだと  思お。

意外にするどい。

ニコルさんはよく存じ上げませんけど。。
Posted by rakuni... at 2016年02月14日 11:01
 
 
 
 
 
   今



 現実(マーヤー) に 在る 。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Posted by 愛ラ-雲国際レディオホテル- at 2016年02月14日 11:47
グドアフタヌーンです♪
夢の話は例え話ということで・・・('◇')ゞピッ
まぁでも、例えとして使う分には非常に都合が良い分けでして。

夢の中のキャラクターは、自主的に目覚めることはないと思います。
だいたい、夢とさえ気づいてないなら、目覚めようともしない分けでして。
自分が居るのに、その自分自身が夢体(幻想)などとは、決して思わないかもで。
だから、自力で目が覚めることは決して無いと、この様に思う分けです。
ゆえに他力本願というか、眠気を満たすまで現実(実体)の自分は眠りこけてる分けでして、そのために夢の自分(夢体)を見続ける羽目に陥る分けでしょう。
だから理屈から言うと、いくら夢の自分が目覚めようと頑張ったとしても、現実の自分の眠気が治まらない限り、何をしたって無駄と言えるんでしょうか(嗚呼)

そこで何を言いたいかというとですね、夢体(幻想)の自分が現実(実体)の自分に働きかけることなど無理なので、あと有効な手立てはですね、夢の自分は本体の自分が目を覚ませば消える分けなので、本体の自分を騙す意味で雲隠れすれば良いかと。
そうすればですね、本体の自分は夢の自分に乗り移って夢を見てる分けですが、その乗り移る自分が居なければ、自ら夢の世界に身を晒すしか無い分けです。

そういう次第でして、この本体の自分を騙して(暗示を掛けて)、自分が消えた様に見せかける方法が、諸々のメソッドだと思う分けです。
瞑想もしかりで、夢の自分は居なくなる分けでしょう。
それと同時に、夢の自分に乗り移ってた本体の自分が、夢の中で姿を現す分けかと。
まぁでも、これは夢の中で夢に気付くようなもので、実際にはまだ目を見開いていない分けです。
そして、目を見開いた時こそ本体の自分は現実(言い換えるなら「無」)へと移行する分けでしょうか(爆妄想)
Posted by 茶呆 at 2016年02月14日 11:58
心を観察する。

これが「自分と心」「自分の心」というくくりでは一時しのぎの解放しか起きない。これが多くの場合の観察。「自分」と「心」、「自分」の「心」、このくくりだと解放が永遠になる。イノベーション。

自分という素粒子を包んでいる素領域。心という素粒子を包んでいる素領域。存在をひとくくりにしない。自我は自我としてひとくくり、他の感覚は別のくくり。ポジションは無くなる。全体が全体として存在している。そこにリーダーは居ない。ワンネスはここだろう。自我が指導者である限りワンネスは見えない。

なるほど!

「あなたとわたし」自我は自我でひとくくり。心は心でひとくくり。これが集合意識。悲しみは悲しみでひとくくり。「あなたの悲しみ」とひとくくりにするから見えなくなる。そこで起きている「自我」と「悲しみ」。これ新鮮だ。
Posted by よしの at 2016年02月14日 12:08
rakuni...さん


意外と、するどい。
は、ボケとツッコミ。
まんが、ドラマ、映画の定番です。


外に「鋭さ」を持てるのなら、
そのベクトルを内に向けたら

早いのでは?

ニコルさんもしかり。


そんな風に思えた、




にちようのおひる。ひよるです。
Posted by 日和る at 2016年02月14日 12:53
あさん
わたしもはなおかしゅうへいさんのブログ(真我が目覚めるとき)を拝見していました。
読んだときにもしや?と思いましたが、気づかれた方がいらっしゃって、同じような思いでブログを読まれていた方がいたのが、うれしかったです。
ブログが閉鎖されたときはすごくさみしかったですが、愛に溢れた内容でしみわたるものがありましたね。
同じように阿部さんからも全体の愛が感じられいつもここに立ち寄っています。
数年前に、苦しい時期があり阿部さんにたどり着きました。
生きている間にこのメッセージに触れることができ本当に感謝しています。
Posted by taro at 2016年02月14日 13:38
× 自分が居るのに、その自分自身が夢体(幻想)などとは、決して思わないかもで。

○ そもそも、夢の中に居ると思考ること自体が、夢(主観世界)に入って行く分けですし。
Posted by 茶呆 at 2016年02月14日 13:42
なんで封鎖されたのか気になります?

参考として、どんな理由が有ったのか知りたいものです。
Posted by 茶呆 at 2016年02月14日 13:47
Jnanaさんは、なんかグルみたいですね♪
自身で動画配信したり、サットサンやったりなさる予定はないのですか?
なんかそうなったらすごく良さそうなのに~
Posted by かみゆ at 2016年02月14日 14:34
かみゆ さん

グルですか?(笑)
"導師"という意味ですよね?

そういう印象があるのですね。。(^o^;

このコメント欄への投稿は、楽しみでやっています。

それ以外の理由はありません。
多分、それは、みなさんと同じです(^o^)

コメントから、どんな印象を受けるのかは、その人の心の反応なので、
それに対する言葉は浮かびませんが、
個人的な感想として受け取らせて頂きますね。

ありがとうございました♪

(それから、阿部さんのブログのコメント欄への投稿以外は、何もやっていません。
それは、これからも変わらないと思います(^o^))
Posted by Jnana at 2016年02月14日 16:32
Jnanaさん

(´◉Д◉`)えー、なんかもったいないですねー
もし流れでそういうことがあったら
ここで告知してくださいねー
動画とかで他の皆さんとやり取りしてるところなんて見れたら
なんかすごく面白そうだから♪ ワァ─ヾ(*・∀・)シ
Posted by かみゆ at 2016年02月14日 16:48
かみゆ さん

"もったいない"。。?
そう感じられる理由が、よくわかりません(^o^;

阿部さんのブログのコメント欄にコメント投稿するだけでも、
十分楽しいと感じています(笑)

それに、"わたし"が起こせることなんて、何もないと、思っています。

覚醒(真我の目覚め)は、その人の個人的なストーリーの中で起きていくことです。
人的な力は、まったく作用しません。

もうすでにあるストーリーが展開していくだけで、
そういうことになっているなら、
そうなるだろう、ということなのです。

でも、誰もストーリーがどう展開していくかはわかりませんから、
そこが面白いところだと感じます。

時間軸のある二元世界では、
起きることになっていることだけが起きます。

覚醒も、そういうことだと思います(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 17:08
そういえば、「わかりかけのRadio」が4話に変ってます(汗)
前回の3話、半分ほど聞いて逃しちゃいました(爆汗)
もう今回は早めに聞いてしまいます。
感想など浮かびましたらコメっちゃいます^^
住民の方々には、またまたご迷惑おかけします(爆迷想)
Posted by 茶呆 at 2016年02月14日 17:15
Jnanaさん

単純に、Jnanaさんと他の方との、そういうやり取りする場があったら面白そうだなーと思っただけであんま深い意味はないですよ♪
ただ単にそういう興味が湧いただけなんで~(。-∀-)♪
Posted by かみゆ at 2016年02月14日 17:34
かみゆ さん

そうなんですね。

(多分)そういうことは、起きないと思います。

そうなる必要を感じないし、
そうなることが、楽しいと感じないので。。。(^o^;

ありがとうございました♪
Posted by Jnana at 2016年02月14日 18:25
戦うことをやめたとき、すべてが愛であることがあふれ出たのでしょうか。
素晴らしいですね。
Posted by 開 at 2016年02月14日 18:31
Jnanaさん

あ・・・σ( ̄∇ ̄;)そうなの?
私は誰かがJnanaさんに質問して、それに対する答えがJnanaさんから、どんなものが出てくるのかな~って考えたらちょっと面白そう♪って思ってしまいました
まぁ私の勝手な期待ですね( ̄∀ ̄*)ゞ

この件はスルーで 笑

こちらこそありがとーでした♪
Posted by かみゆ at 2016年02月14日 18:37
言葉、観念では、けっして行き着かない。。。

次元を越えるとは、頭の理解ではないのですよね。
 
もし、言葉でエゴが消滅するなら、
本やブログを読んだり、講演会に参加したりすることで、
もっと簡単に、多くの人がわかっていかれると思います(^o^)

どうやら、そういうことは起きていない、という事実からすると、
言葉では、真我は目覚めない、ということなのでしょう。

言葉は人間が造ったものなので、
神さまには、影響を与えられない?のかもしれませんね(笑)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 19:31
最近のJnanaさんの恩寵のおかげで、阿部さんは、だいぶ助かっていらっしゃるんじゃないかと思います。

私からJnanaさんに、質問があります。

人は、その時々に応じて、まるでグラデーションのように色合いが変わっていきますが、(あゆかさんのお弟子さんの観察からの引用です)

○Jnanaさんは、以前の、カイヴァルヤさん?でしょうか?

○これも、興味本位で聞くのですが、「Jnana」とは、何か意味づけが、おありなのでしょうか?

因みに、私の「Y-be」は、名字のあだ名にちなんで、「よしべい」→「Yoshi-be」→簡略しようとして行って、変化していったものです。(どうでもいいことですが。。(^_^)。。)

それに、私たちもアクアさんたちのように、Jnanaさんの境地に少し、関心があるのですが、

○Jnanaさんが、楽しい、心地良いと★“感じない”時★には、その出来事に対して、どのような感覚や認識がもたらされるのですか?

また、今現在進行中の、Jnanaさんという“器”を通して、それらの不快な類いの現象は、ただ起きることが、起きていると、

自然な出来事として、平静に捉えられるのでしょうか?

○更に〈しつこいですかね‥(^_^)〉、

既に、以前のコメントで、ご自身の心境?を明かされていて、感銘を受けたところが、あったのですが、

自分たちが(それぞれが)楽しいこと以外、どのような出来事も、現象も、気にしなくなっていった(無意識)、このリアルな夢の世界は、(人間の感覚と認識だけですが)

どのような互いの関係性や、社会風紀となっていくでしょうか?

ここで、コメントさせて、頂くことは、何世にも渡って転生しながら、命がけしか、質問出来ないような事柄や、

何千年もかけて、やっとのことで、聞き終える“量”を消化させて、いただけるので、とても貴重だと、最近感じています。。<(_ _)>
Posted by Y-be at 2016年02月14日 19:48
当時、この方のコメントを読んで衝撃を受けた事を改めて思い直しました。彼からほとばしる光の色は純粋純白!まるでキリストの再来にように思えました。
その方のブログを何度も訪れ、来る日も来る日も彼のコメント全てを指でなぞる日々が続きました。でも読めば読むほど、私に襲いかかる絶望感の度合いは日増しに強くなっていきました。
彼の生き方は正に純粋そのもの。神に自分の全てを捧げようとする完全無欠の求道的な生き方を見せつけられるたびに、彼は正しく雲の上の人となってしまいました。
そして得た一つの結論。それは、「私には無理。彼の真似は出来ない。」 でした。
「今世にいる自分を全て肯定し、今世の限られた人生を後で後悔せぬよう、残された日々を全力で生きぬくこと」
これが今の私のスタンスです。
Posted by takemis at 2016年02月14日 19:59
過去記事を読ませていただいて涙が出ました(^_^)
この方の境地が分かるような気がしました

どなたかのコメントにありましたように、

こちらのコメント欄への投稿は、私も楽しみの1つです。
多分、それは、みなさんと同じです。


今日はバレンタインデー
感謝とともに♡
Posted by とも at 2016年02月14日 20:15
Y-be さん

答えが浮かんだご質問のみ、お答えさせて頂きますね。

カイヴァルヤ、というHNを使っていたこともありますね。
HNのことでは、阿部さんを含め、いろいろな方に、ご注意を受けていますが、
HNに執着がないので、本当は何でもいいと思っています。
その時、何となくしっくりと感じたものを使っています。

Jnanaとは、サンスクリット語で、"智慧"という意味です。
Jnana yoga というのがあって、
"これではない""これではない"と、観念を削ぎ落とすことで、
"それ"に至る、というヨーガ(行)です。

"わたしは肉体ではない""わたしは感情ではない"。。。。"わたしはいない"。。というふうに、
すべてを否定することで、自己の不在に至る道です。

やり方によっては、"自己否定"になりかねないので、厳しい道だとされていますが、
どうやら、この方法が、少し形を変えていますが、
ノン・デュアルティの影響で?流行っているようですね(^o^;

それから、どんな人でも、肉体がある限りは、瞬間の反応はあると思いますよ。
菜穂さんも、よく笑うようですし。。(^o^)

乗り気がしなかったりするのは、そこにエゴを感じるときです。
本質から出てくるモノは、言葉でも、メッセージでも、行為でも、
そこには、利己的な意図がまったく感じられません。
そういうモノに触れたときは、歓びのエナジーが溢れてきますね♪

あとのご質問は、現象界のことですか?
現象界のことは、よくわかりません。

人間が認識しているすべての"現象"は、マーヤなので、
それについては何をお答えしたらよいのか?わかりません。ゴメンナサイ。。

現象の解釈は、人の数だけあります。

ということで、よろしいですか?

あまり、ご参考にならないお返事で、
申し訳ありませんm(__)m
Posted by Jnana at 2016年02月14日 20:28
終わりかけのコメント欄にインドからこっそりとこんにちは

全体からの分離感、これは全体を知った時に消えるのではなく、そんな全体などどこにもないと知ったときに消えるもの

全体を垣間見たと宣言するような経験があろうとあるまいと、人生は一生、六感と思考と感情だけでつづられていく

だから、全体を知らないという劣等感を持ってはいけない

Kさんの話も、一瞥の体験もすべて、「これもまた過ぎ去る」

「奇跡」「私はいない」「時間はない」などの言葉は、ひとつの因果関係の終わり(出口)に書いてあるもので、その入り口や途中で知るべき言葉ではないのだろうと思う

言葉を理解することはとても大切だけど、価値ある言葉を手放すことも同じように大切

そうすれば、言葉のほうから平安を携えて、あなたとのところに戻ってくるでしょう
Posted by ちゃぶ台 at 2016年02月14日 20:41
 
アヴェマリヤ
 
Posted by 愛ラ at 2016年02月14日 20:52
そうですね♪

どんな体験であっても、
すべては"現象"ですから、過ぎ去ります。

自分がしていることは何もない。
"体験するわたし"はいない。

"それ"に至れば、自分が操作するゲームは終わりますね(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 21:12
そうですね♪

どんな体験であっても、
すべては"現象"ですから、過ぎ去ります。

自分がしていることは何もない。
"体験するわたし"はいない。

"それ"に至れば、自分が操作するゲームは終わりますね(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 21:13
Jnanaさん

あは、ははははは。

よくいうよ全く。

主要HNだけじゃなあぁいいいいいい!!

「自分を褒め称える」 成りすましHNも沢山あります~よおおお。

これも言わんとだめ!!
よ!

オシリぺんぺんするよ!!!


ん?

くちゃい。
Posted by 日和る at 2016年02月14日 21:23
ご無理を言ってすいませんでした。<(_ _)>助かります。

最後まで、目を通させて頂いて、

>>答えが浮かんだご質問のみ、お答えさせて頂きますね。(これで、ほぼ、伺いたい衝動が消えました。(^_^)。。)

>>人間が認識しているすべての"現象"は、マーヤなので‥(とは言え‥)

>>それから、どんな人でも、肉体がある限りは、瞬間の反応はあると思いますよ。(ということで‥)

>>現象の解釈は、人の数だけあります。

(という締めくくりで、私の認識が一応、終わりました。ありがとうごさいました。<(_ _)>)

私も、筋的には、“マハラジ”仕込みなので、否定系の探究の上、今の認識がありますが。。

これも、これがわかったところで、概念を更新しているだけなので、

世間的人間の観念から離れて理解をすれば、起きることが、起きて、自然で、法則に則っているとは言え、

個人というくくりを(泡教授論を思い出します。)、概念を、形成し直したり、更新しているだけなのでしょうね。。

重ねて、ありがとうごさいました。魂は無いですが、魂がやや満たされる思いを致しました。(^_^)
Posted by Y-be at 2016年02月14日 21:28
穏やかに過ごせるわけでいのかな?

気持ちは、変わらない。(⌒‐⌒)

変わらないのだということが、わかっただけかな?(⌒‐⌒)


含みがなくて楽しい。ありがとうございます。
Posted by みちばた at 2016年02月14日 21:28
自分を褒めて、何になるのですか?

よくわかりません。

そんなことしても、虚しいだけでしょう。

それだけです。
Posted by Jnana at 2016年02月14日 21:31
私の経験から、
「明け渡し」は、エネルギーが垂直に縦ったところで
起きやすい...(自分でやらないから、起こるとでもいうのか...)

阿部さんへ
「自から」と「自から」のシェアーメッセージを
gmail の方へ送りました^^
ご確認よろしくお願いします。
Posted by aya at 2016年02月14日 22:38
   ↑
  ?
Jnanaさん

虚しいですよね。なんでやったの?

>よくわかりません。

やったことも覚えてない?。アクアさんが問い詰めたのも覚えていない?
本当に覚えていないなら。深層に閉じ込めたね。無意識に。
深いね。

>それだけです。

短い文体になっちゃったよ。覇気がきえたかなぁ。
Posted by 日和る at 2016年02月14日 22:42
甲賀忍者さん

>この自覚は自我ということでありましょう

自覚するのは 自我ではありません。

そんな 初歩的な理解を 私は しないですよ(笑)

自覚=自我・・・ま・さ・か・・・阿部さんは 知っていますよ。

それを 記事にも書いています。

自覚するのは わからない 何かであると・・・。
Posted by アクア at 2016年02月14日 22:49
 
 
マーヤー(マリヤ)
 
 
 
 
 
心から安心して
至福の中で グナイ♪(グッドナイト)
Posted by 愛ラ at 2016年02月14日 22:49
ひよるさん・・・わかってよ。
Posted by アクア・・・ at 2016年02月14日 22:56
ぼくの おやくめ おわったかな。

もう いいのね。

じゃ、寝ます。

おやちゅみん
Posted by 日和る at 2016年02月14日 23:04
記事で紹介される前日の夜に、
ナマ(?)で花岡さんのコメントを読んだときの感動を今でもはっきりと覚えています。
湧き上がる言葉にならない気持ち
共振しているような感覚・・・

それを阿部さんは翌日の記事で
「福音」とタイトルをつけて紹介していましたね。

まさに福音。
阿部さんのブログに出会えて幸運だと思いました。
Posted by おでん具 at 2016年02月14日 23:15
実在感のある"夢"と
実在感のない"夢"

どちらも、サット(真の実在)からすれば、
アサット(非実在)なのです。

"自我"そのものが、アサット(非実在)なのですから、
自我が認識しているこの世界は、アサット(非実在)なのです。

真の実在以外は、すべて非実在であり、
"夢"のようなモノ。

夜見る"夢"だけが、"夢"ではない、ということになりますね(^o^)

"それ"だけが在る。
"それ"は、"夢"(顕れ)を造り出している源。

この世を在らしめているパワーの源泉。
源泉から、すべて(の顕れ)が生じています。


それでは、良い夢を♪

お休みなさい(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月14日 23:34
それでこの方は、今どのような心境でどのように生活しているかが、知りたい所です。おそらく、そこが一番重要な箇所とも言えますので。
Posted by サクランボ at 2016年02月15日 01:42
アクアさん


覚醒に伴う自覚…

ということは

覚醒していることに気づいている存在がある

ということですね


せ~の

そこがないところ


無☆無☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年02月15日 01:42
久しぶりに、本当に久しぶりにブログを拝見しました。


問題がおこる度に、同じような壁にぶち当たっている虚しさを感じながらも、終わりのない迷路のなかをグルグルと回り、出口を見つける努力をしていまいます。
そして外側に答えを見つけようとしてしまう。

K さんのコメントを拝見して、ハッとしました。

自分の力でどうにかしようとしているうちは手放しているつもり、ハートを開いたつもり、降参しているつもり、に過ぎなかったのだ。とはっきり分かりました。

今日、このKさんのコメントを読めたことに感謝します。
Posted by AY at 2016年02月15日 03:06
あらためて精神統一することができないのは(私が存在しないのは) 一度も精神統一を失ったことがないからです
Posted by なう at 2016年02月15日 05:05
甲賀忍者さん・・・お互いに がんこものどうしですね(笑)

先にあげた 阿部さんの記述が みつかりませんでしたw半年以内ですが。
大いなる存在を大いなる存在として認めて(自覚)する者が なにかは 判らいないっていう意味合の記述でした。

無・私はいない・何もない・何もなかった・誰もいない 等の記述がありますが
では 無を無として 認める個人(自我)がいるのか?何もないのに?自覚?
何も なかったことを 感じるのは何も者か?誰もいないのに それに気が付いているのは誰なのか?もし 論理的に自我を自覚として理解するとすれば
無を体験しているのも 自我、私がいないを体験するのも自我、何もないことを体験するのも自我・・・

で 阿部さんも たとえば↓のような記述をされます。
>自分という存在は、大いなる意識が見ている夢の登場人物です。

大いなる意識を 認めて(認識)しているのは 誰?自覚があるから 自我ですか?

違いますよね(笑)

私が 書く 自覚って、思い出した意識そのものであって、それは

自我意識が 夢(誤解・感想・意見・意志)として 見抜いている
そのものの意志?なんです。

ああ 私も 相当に頑固者です(爆)面白かったです。またね~♪
Posted by アクア・・・がんこなこせい(笑) at 2016年02月15日 06:42
自我はなくなる事ないんじゃないかな?

大いなる存在?とやらに包まれ、どれだけの愛に気付いても
その中に私がいる。って感じだと思う。

わたし、が完全になくなったら、わたしはダレ、ココはどこ?
とすら思う事もできなくなりますよ(笑)
それは単なる脳死か植物人間状態と同じになりますが、
道が悟りから完全にそれている。
わたしを消す事が悟りではない。

如何なる境地に達しても、何度も悟りを開こうとも
今、ココに完全に在ることが出来ないなら、
それは何の力にもならない。今、ココに完全に在る事が出来ないなら
それは囚われている証拠じゃないかな。

従って禅では、それらの境地や心境に浸る事を魔境といって
一切を捨て切る。
悟りも、特別な心境も、捨て切る事が出来ないなら、
それは囚われとなり、肥大化するから。

つまり、自我が完全になくなるコトはない。
なくしたければ、外科的に脳みそを取ってもらうしかないな(笑)
Posted by あか at 2016年02月15日 07:11
では悟りとは何か?

囚われからの完全解放。
その境地が解脱。

わたしを消したければ、脳みそを取り出して、焼けばいーのかな(>_<)
こわいよー(笑)
Posted by あか at 2016年02月15日 07:20
<  あさの添削  >

HNの解釈のズレ

>その時、何となくしっくりと感じたものを使っています。

◎みんなの解釈  バツが悪くて.......
Posted by 日和る at 2016年02月15日 07:47
<   宿   題   >※ 過去コメントより

問     ウォーリーをさがせ!

    ...... なりますね(^o^)

ポイント    絵文字♪
Posted by 日和る at 2016年02月15日 08:06
ひよるさんも・・・かなり がんこですね(爆)   お・は・よ・う・・・さん。w
Posted by アクア at 2016年02月15日 08:32
うん!   あとは  阿部さんに   お・ま・か・せ ♪
Posted by 日和る at 2016年02月15日 08:57
アクアさんが書かれたこと、
論理的に考えれば、その通りでしょう。

すべての存在を在らしめている宇宙根元の力、シャクティが、
動きにあっては、プラーナとなり、
それが人体にあっては、クンダリニーとなります。

いまのところ、これ以外の表現を知らないので、
専門的な?用語使いはお許し下さいね。

シャクティはあまりに微細なので、人間が識ることは不可能とされています。

プラーナは動きがあるので、クンダリニーとして識ることが可能です。

このクンダリニーが目覚めると、"個"は消え、
プラーナが宇宙根元の万物創造力なるシャクティと合一します。

真の実在とは、このシャクティのことを指します。
人間が識ることが出来るのは、ここまでだと思います。

"思い出された自己"という表現が、具体的には何を表現されているのか?よくわかりませんが、
違う観点で、ご参考までに、書かせて頂きました。

もうひとつの世界の全容が明らかになるには、まだまだ時間が必要だとは思いますが、
流れは、その方向に行っているようです。
科学も、精神世界も、いつかは同じひとつの真理に行き着くことでしょう。

種明かしされた推理小説ほど、面白味のないモノはありません。

二元の世界に在る間は、識らないからこそ味わえる識る歓びが、人間にはありますね。

"いまここ"に在る間は、
それぞれに、すでに在る個のストーリーの展開を楽しみましょう♪

終わってしまえば、すべて"夢"なのですから、
それが予めわかっている、というだけで、
誰でも、すでに用意された"夢"を観ている、ということには変わりありません(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月15日 09:01
Jnana さん

>識らないからこそ味わえる識る歓びが、人間にはありますね。

>すでに在る個のストーリーの展開を楽しみましょう♪

同意・・・同意・・・同意・・・は・げ・し・く・・・・♪

PS:思い出された自己・・・この感覚が通らないことが非常にもどかしいです。
Posted by アクア at 2016年02月15日 09:13
水をさすような コメントでした。
(>_<)
Posted by 打ち水 at 2016年02月15日 09:20
 
場を無視してしゃべりまくるキングキドラ
「ワタシヲミテ」  「ホメテ」  
「ワタシ、タノシンデル」「アハハハ」
Posted by 日和る at 2016年02月15日 09:24
管理者の方へ 個人への著しいイメージの低下を思わせるコメントは

消去されても よろしいかと 進言いたします。
Posted by アクア at 2016年02月15日 09:45
アクアさん


ぼくのことですね。
個人への著しいイメージの低させてしまいました。

阿部さん消して下さい。
Posted by 日和る at 2016年02月15日 09:59
自分の中にあるものが、
言葉や行為となって(形となって)顕れています。

コメントしている本人が、
自分のイメージを下げている
ということに気付くしかありません。

他人に向けた言葉は、
空に向かって唾を吐くのと同じです。

面と向かって言えないことも、
ネットの世界では、平気で言える。

ネットという顔が見えない世界で、
そういう形で楽しんでいるのでしょう。

それも顕れ。

すべては過ぎ去ります。

浮かんでは消える雲と同じです(^o^)
Posted by Jnana at 2016年02月15日 10:05
アクアさん

言われる真理は、充分理解しました。

コメ欄を抜けるきっかけにもなります。


ありがとうございました♪
Posted by 日和る at 2016年02月15日 10:10
いつかわ、回りに集まり、言葉はでなくちがう感覚に包まれているかな(⌒‐⌒)

しらんけど(⌒‐⌒)
Posted by みちばた at 2016年02月15日 10:28
コメント欄 ちゃんと選んでるみたいだよ。
私のコメント削除されてたし。
(^_^)
Posted by 打ち水 at 2016年02月15日 10:49
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。