2012年02月27日

死の瞬間 その3

昨日の講演会がいつもと様子が違ったのは、ことさら精神世界に興味があるわけではなく、そのような書籍を読んだこともなく、でもなんだか面白そうだから行ってみようという人が大半だったことです。

沖縄の場合は、他の理由で僕の名前を知っている人が多いので、「あいっ、あの阿部敏郎ね」みたいなノリで来たのだと思います。


来てみたら

「肉体が死んでも大丈夫、だってあなたは死なないから」


最初は戸惑ったみたいだったけど、すぐに何かを感じだしたように見えました。

普段はすっかり忘れていても、誰もの心の奥に本当のことを覚えている部分が合って、そこが共鳴するのだと思います。



「肉体が死んでも大丈夫、だってあなたは死なないから」


今日は死の瞬間の続きを書いてみます。

前回は死の瞬間にあっても、「実存としての自分」を見失わない人の話を書きました。

でも普通は、無意識の状態で死を迎えます。

普段の生活も無意識(自分では意識的に生きているつもりでも、たいていは思考の世界に埋没して、夢見の状態です)なのだから、死の瞬間に目覚めていられるわけがありません。


そのような場合は何が起こるか。

実は一瞬ですが、さとりの状態を垣間見ます。


肉体という重荷から解放されて、とてつもなく気持ちがいい状態が訪れます。

重荷は肉体だけではありません。

生前に作ってきた様々な心理的な束縛、自分で自分をがんじがらめに縛りあげていた鎖も、肉体以上に重たい荷物でした。

死の瞬間、そこからも解放されます。

一瞬、形を持たない、無限の存在としての自分を感じます。


死ぬほんの少し前まで、どんなに強く生に執着していたとしても、その執着はたちどころに消え去ります。

執着していた対象が幻想であることを見抜き、同時に、死後の瞬間があまりにも気持ちが良くて快適なので、もう一度生前の幻想と重荷の状態に戻りたいとは思わないのです。


しかし、その状態も長くは続きません。

また自我がやってきます。


そう、死後にも自我があるのです。

それは魂の個性のようなもので、長い長い時を経て持ち運んできたものです。

独自のカルマを携えています。


死後の状態において、自我は自我特有の夢を見始めます。

ちょうど、生きている間にも思い込みの世界を作り出し、その中で生きていたのと同じです。

でも物質次元ではないので、その状態での経験は、生きている時の経験とは大きく異なっています。

あえて言えば、夜見ている夢に似ていて、意識内での経験です。


さて、自我は固有のカルマを解消し、さらなる意識の次元に昇ることを望み始めます。

というのも、死後の世界には摩擦がなく、成長のチャンスがないからです。


そうやってまた肉体次元に戻ってきます。

その時に選ぶのは、魂が持つカルマを解消するのに最も適した肉体です。

肉体には肉体固有のカルマがあります。

先祖から受け継いだDNAの中にあります。


魂のカルマと、肉体のカルマが合体して、新しい人格を持った新しい人生が始まっていきます。



今日は、このあたりで止めておきます。


書いた内容は、自らが生死を超える次元の中で感じたことを、いまの僕なりに言語化したものです。

また違うタイミングだと、違う表現になった可能性があります。


僕にとっては確信から書いていますが、読むあなたにとっては、あくまでも仮説だというのを忘れないでください。


このような情報を鵜呑みにすると、新しい先入観になってしまいます。

その先入観は、実際のあたなたの死の瞬間にとって、邪魔になるかもしれません。


あなたはあなたで、あなた特有の経験をするのですから。


でもひとつだけ言えるのは、死は思われているような忌まわしい出来事ではなく、さなぎが蝶に変わるような、次元移行の体験です。


だからと言って、自ら死を早めるのは賛成しません。

どんなに困難でも、その困難を経験するために生まれてきたのですから。


困難はチャンスです。

あなたに超えられない困難は、決して訪れないことも忘れないでください。







死の瞬間 その3   死の瞬間 その3


・・・・・・・・・・


3月の東京大阪の講演会は、残り席がわずかです。

参加希望の方は、都市名をクリックしてください。


明日(28日)は、沖縄いまここ塾があります。




Posted by Toshiro Abe at 11:58│Comments(87)
この記事へのコメント
そうそう、こうゆう話大好き
Posted by faculty at 2012年02月27日 12:06
いつもながら素晴らしい。
ありきたりですが、ありがとうございます。
Posted by タクシードライバー at 2012年02月27日 12:09
ときどきですが、もう人生は終わってもいいかなぁ~

何てことを考えますが(笑)

阿部さんが伝えてくれるような情報に出会うと

もう少し人生を続けてもいいかなぁ~という気持ちになれます

今日もありがとうございました

(-^〇^-)
Posted by 直弘です at 2012年02月27日 12:17
前も書きましたが東大医学部教授で集中治療部長の矢作直樹先生が『人は死なない』という本を書かれ、非常に話題になりました。
数ヶ月でたちまち5刷りでした。
還元主義の最たる西洋医学の、しかも東大医学部の救急治療集中治療部長の先生が書かれたのも話題になった要因だと思います。
ちょうど保江邦夫先生のコムニタの基調講演に来られるはずでしたが、天皇陛下の手術のためキャンセルになりました。
Posted by バッカス at 2012年02月27日 12:23
ヒプノセラピストの中野 日出美さんの著者「137回の前世を持つ少女」という話がとても大好きで10回以上も読み返しています
Posted by 地球クン at 2012年02月27日 12:24
エクセレント!
まるで死の瞬間を体験しているかのような錯覚を覚える内容!
日本人でこんな文章を書ける人は阿部さんぐらいじゃないでしょうか?
って特別視するのは良くないんですよね笑
でも今日の内容は、それくらい死の瞬間を現実のものとして捉えられる素晴らしい話でした(^_^)
Posted by 巽一晃 at 2012年02月27日 12:26
わたし特有の経験による実感。
情熱が、起きてくるんです。
共鳴して、爆発する。

わかっているのにできなくて
(理解が浅くまだ至らずって事)
どうあったらいいんだろう
自分の何が障害になってるかな
何が出来るかな、工夫しながら
とことん自分見つめやり尽くし

無気力、罪悪感、自己否定は
素直な本音を抑圧してきた故
違和感と欺瞞から逃れられず

それらを認める事さえ怖かった
自分の奥の奥の存在の不安感

やりたくない、悔しい、怒り…
止めどなくて戸惑いでも必死で
出来ない自分を存分に思い知り

こんな自分でも、いいんだ…
過去に色々あれど今ここに居る
大いなるモノに生かされて居る

不思議だけどスゴイ事なんだ!
祝福を感じ、なんてありがたい
って、全身で打ち震え泣いた…

そこまで辿り着くルート違えど
誰もが皆同じで、大丈夫なんだ

回転するドリルが深く進み
それぞれのペースで解消が済み
全てぶっ壊し何の思考も
存在できなくなった場に気付く
安らぎそのものであった…

そんな、みんな、かみさま。
Posted by etsu at 2012年02月27日 12:41
「死後にも自我があるのです」 - この言葉で少し腑に落ちました。

エックハルトトール著の「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」という本が好きですでに何回も読んでいますが、この本の中で死の瞬間に最後のさとりのチャンスが訪れるというようなことが書いてありましたが、肉体が死ぬと人間関係やコンプレックスなどのすべてから解放された状態になり、さらに肉体がなくても自分が存在しているということが本当に理解できるのだから、死んだらさとりも何もすべて分かった状態になるのではないかなどと思っていましたが、肉体がなくなっても自我がついてまわるのか。残念。

目覚めなければこの苦しみからは逃れられないということですね。あ~あやだやだ。
Posted by リュウジ at 2012年02月27日 13:02
あー、人生めんどくさい。
もう生まれ変わらなくていいや。
輪廻から卒業しようぞ。
Posted by カビキラー at 2012年02月27日 13:13
ひとみさん

白い紙
空の入り方
面白いですね

ありがとうございます

僕の場合は

『わたしは誰か?』と

1日に何回も何十回も問い続けます

そしたら
時間の世界のものはすべて消えさりますね

大いなる空間だけがのこり、その中にあらゆるものが在る一体感

気持ちがいいですね

それだけで充分
もう、何もいらない

思考や言葉、概念では絶対に辿り着けない境地



空だけが知る

感覚…

感覚こそ
大いなる体験ですね

阿部さん
あまり記事と関係なくて
ごめんなさい

この場所を
ありがとうございます。
Posted by 優。 at 2012年02月27日 13:16
あべさんの言われること、肯けます。
ただ、自ら命を絶ってしまった人も
越えられない壁がなかったのかな?
どうしても、頭で考えてしまう???
Posted by こたびにん at 2012年02月27日 13:23
輪廻で何に生まれ変わるかは、前世の行為「カルマ(業)」によって決まるとされています。
もちろん、前世で何をしていたかなど、誰にも見ることができません。
それが見えると主張する霊能者はでたらめを言っているか、そのような幻覚を見ているにすぎません。
「無我説」とは釈迦がとった輪廻転生を否定するもっとも抜本的な方法です。
それは「輪廻の実体となるアートマン(魂、自我)はない」というもの。
輪廻とは、肉体が滅しても存続する自我、すなわち魂が別の新たな生命に宿るという考え方ですから、主体となる自我がなければありえません。
量子物理上、死ぬと魂も自我もプラズマ化して宇宙へと拡散してしまいます。
臨死体験をしようが、悟りを開いて一瞬、死後の世界を垣間見ようが、死後の世界も前世も、いまここを生きている人間の脳が考えているイマジネーションの産物であることは誰にも否定できないことです。
Posted by 天路 at 2012年02月27日 13:34
「魂の持つカルマを解消するのに最も適した肉体」を選んで産まれて来ているということは、恋愛や結婚をするのに適さない経験をする肉体を選んだのか?( ̄○ ̄;)

だから独身主義の人生を生きているのか?(☆o☆)

でもこの人生が魂のカルマを解消してくれるのであれば、全てはOKなのですね~!!(*^-^)b
Posted by 紫色の火星人 at 2012年02月27日 14:13
こんにちは

木琴のような 雨つぶのような ころころ きらきら
きょうの文字たちは そんなふうに
聴こえたコトバたちなのでした
Posted by みーた at 2012年02月27日 14:17
阿部さん大好きです!!!!!
Posted by きのこ at 2012年02月27日 14:22
私のおじいちゃんが、老衰で亡くなったのを家で看取りました。
家にはおばあちゃんと私しかいなくて、
おばあちゃんが病院に電話をしているとき、目の前で
逝ってしまいました。
死ぬ少し前、薄めを開けて私を見ると、嬉しそうな顔をして、
首を左右にふりながら、楽しそうな嬉しそうな至福の表情のまま息が止まりました。
人が死ぬ時は、呼吸ができなくなって、老衰でも苦しいのではないかと思っていました・・・。
阿部さんの言うように、いろんなものから解放されて気持ちがよかったのでしょうか。
Posted by もーまる at 2012年02月27日 14:28
その3 ありがとう

ございます

過度に信じ込んだりせず

先達の教えとして

受け止めます

結局は当人の意識状態で

百人百様の体験

なのでしょう

教えを固定化、教条化せず

受け取り学んでいく

知恵が必要ですね

一人一人の生を

かけがえのないものとして

尊ぶことでも

あるのでしょう
Posted by 風 at 2012年02月27日 15:26
阿部さんのお言葉にはげまされました。
困難はチャンスですよね。

ありがとうございます!
Posted by サラ at 2012年02月27日 15:41
> 魂のカルマと、肉体のカルマが合体して、新しい人格を持った新しい人生が始まっていきます。

おー,ゲリー・ボーネルさんのいうところの,トライアッドとダイアッドみたい。

http://garybonnell.jp/

※ ご存じない方のために;かなり読みづらい本ですが,『アトランティスの叡智』 (超知ライブラリー5)に詳しく説明されています。
Posted by tada at 2012年02月27日 16:19
なるほど。貴重なお話です。

実存としての自分を見失わないで逝くパターンがいいですね。

ずっと純粋意識のまま在れたら。


出来れば、死んだら無条件にカルマが解消されてくれればいいのですが。
転生はもういいかなって思うので。
Posted by 多田 at 2012年02月27日 16:23
本当は大丈夫なんだけれど
大丈夫じゃない感。
本当は自由なんだけれど
自由じゃない感。
本当は、死なないんだけど
死ぬっぽい感。
なんもなければ、
自由すぎて、守られすぎて
退屈な感。
な~んか区切りないと
たるみっぱなしで面白くない感。


自分で決めてきたスパイスで遊びましょ
Posted by 松坂宏一 at 2012年02月27日 16:36
何十億という多くの魂が望んでくるこの世の素晴らしさに

私はほんの少し、しか気づいていないのでしょうね(笑)

(-^〇^-)
Posted by 直弘です at 2012年02月27日 16:38
「肉体が死んでも大丈夫、だってあなたは死なないから」

「ひとつだけ言えるのは、死は思われているような忌まわしい出来事ではなく、
さなぎが蝶に変わるような、次元移行の体験です。」



とても深遠な意識領域での話ですね。


誰かが死んだことを知らされたラマナ・マハルシが語った言葉を紹介します。


「それはよいことです!

 死んだ人々は実に幸福です!

 彼らはやっかいな、大きくなりすぎた身体を取り除いたのです。

 人々が眠りを恐れるでしょうか。

 眠りは一時的な死なのです。

 死はより長い眠りにすぎないのです。

 なぜ人々は肉体の束縛の存続を望むべきなのでしょうか。

 人にその不朽の真我を発見させ、不滅であるようにさせなさい。


 人が自分自身を粗大な身体と同一視している限り
 想念は粗大な顕現(世界)として現われ、実在と見えるでしょう。

 生命の流れが存在するように
 それは確実に死後も生き残るでしょう。

 それゆえにこういう状況の下では
 他の世界は存在します。

 他方、ひとつの実在は真我であり、
 それからエゴが現われたことを考えなさい。

 エゴが真我を見失い、自分自身を身体と同一視し
 その結果として無智と不幸がもたらされます。

 生命の流れは無数の形をもったもの、生と死を通り過ぎていきますが
 それでも影響を受けることはありません。

 嘆き悲しむ理由はないのです。


~ ラマナ・マハルシ 「不滅の意識」より  ~ 」



 
Posted by 大空 at 2012年02月27日 16:56
魂の個性…独自のカルマ…。
私は、死んでも「私」から解放されないのですか?
以前、阿部さんが、「自分という個の魂がずっと続いて行くわけではない」とか、
「富士の高嶺に降る雪も…」の歌で説明してくださったかと思うのですが。

死後は「私」は無くなって、みんなと溶けて、記憶?を共有して、
そこからまた、「新しい私」が出てくるのではないのですか?
やっぱり死んだ後も、「私」をやって、頑張って「私」のカルマを解消しなくちゃならないんでしょうか…。

もう私は、私をリタイアしたいです。
疲れました。
Posted by 名無し at 2012年02月27日 16:59
[さて、自我は固有のカルマを解消し、さらなる意識の次元に昇ることを望み始めます。
というのも、死後の世界には摩擦がなく、成長のチャンスがないからです。
そうやってまた肉体次元に戻ってきます。
その時に選ぶのは、魂が持つカルマを解消するのに最も適した肉体です。]

死後にも自我があると言うのには驚いたけど、私にとって上記の部分は特に、もの凄く納得のいく解説だ。

だから私はあの両親を選んで、あの環境で生まれ育ち、今の自分があるんだと、納得がいく。

そして私を選んで生まれて来てくれた子供達。。。
彼らは、どんなカルマを解消しに来たのだろうか…。

そんな事を想像するのも楽しい☆
Posted by ひつじ(sauenn) at 2012年02月27日 17:16
こんばんわー

サナギが 蝶へ 変身するってたとえ大好きです!

サナギは 蝶になるまえに 神経や呼吸器以外 すべてを溶解するって・・・・美しくなるための苦行を自らにかしてるんですよね^^

そんな苦しみ(それが苦しいかは 実際わからないけど)を乗り越えて
美しい蝶になるって★  
自分は 「蝶」になったかわからないけど いろんなツライ出来事・苦しみあって なんか 超えられたかなぁ?って感じです。

で 結構 「いま ここ」 理解できたりしてるので 蝶になれたのかなー?
私って感じです。
阿部さんのお・か・げ★

どうもありがとうございます^^
Posted by らっきょ☆ at 2012年02月27日 17:34
名無しさん


名無しさんに

いろいろな想念がやってきては去っていきます。


目の前をやってきては去っていく車が

名無しさんではないように


目の前をやってきては去っていく想念は

名無しさんではありません。


名無しさんは

やってきては去っていく想念でなく

やってきては去っていく想念に「ずっと気づいている意識」です。


この「ずっと気づいている意識」は

静寂そのものです。


ずっと気づいている意識に気づくことで

自分がずっと静寂であったことに気づきます。
Posted by 大空 at 2012年02月27日 17:39
そうか
「臨死体験」だったから
死後自我のことみえなかった
いまここ だから
とりあえず 死後自我については
今度にしよう(笑)
Posted by たこちゃん at 2012年02月27日 17:40
私の私見で、あくまでも仮説です。
いままでの宗教は、死んでから天国や地獄に行くと教えてきました。
自分と良心との関係が天国や地獄を生み出すとすれば、それらが死後ではなく、いまここに存在する気がします。

肉体は霊の影絵にすぎないし、この世はあの世の影絵にすぎない。
実際に主導権を握っているのはあの世側で、私たちはつねにふたつの世界を生きています。

肉体を保持していなければできないことを知っている魂は、肉体に宿りたいという強い自我の願望があるのでしょう。
まさに、この世でいう転職に似た現象なのかもしれませんね^^
Posted by アーサー at 2012年02月27日 18:06
あなたに越えられない困難は決して訪れない!
イヤッホウ!!!
阿部さんには論理的に説き伏せてやろうという姿勢が全くなくて、
可笑しくも暖かい雰囲気を全面的に醸しだされるので、
精神世界的な予備知識や専門用語に造詣がない方でも
すぐに何かを感じ易いのだろうと思います。

死についての体感的見解もこれ凄く実情に即しているのでしょう。
「死せば無に帰す」といった表現は往々にして巷で耳にしますが、
僕もちょっとピンと来なかったんですね。
無とは無いものなのであって、有るものではないから。
無という概念を弄んだ所で、
厳密に言えば、人が想いを馳せられる時点でそれは有ですから。
言葉の定義からしても、宇宙には無はどうしたって無い。
帰せられるような場所があるとしたら、
それは例えば空という名で表されたりする、とにかく絶対的な有だろうと。
だから生命には「有無」ではなく、ただ「変容」があるだけなんだと。

先日の記事で近藤さんのリンクを辿らせて頂きましたら、
エックハルト・トールさんの自我伝の動画が張ってありまして、
「死の反対とは生ではありません。死の対義語は誕生です。」
と仰っていて、流石に上手い事言うな~!と感嘆しました。
どうもありがとうございます。
Posted by 相川 美晴 at 2012年02月27日 18:12
生きるのがしんどいから生まれ変わりたくない。
死んでも解決しない。苦しみを終わらせるには悟るしかない。

今世のうちに何とかしたいですほんとに。(T_T)

カルマ=想念=抑圧された感情

体の過緊張だけでも早く取れないかなぁ。
気が緩むとかえって痛くなるからリラックスできない。きつい。
Posted by ぽむ at 2012年02月27日 18:18
昔誰かが言っていた

死後やあの世の事とか

世間であれこれ

言ってるけど

死んだらわかるよ(笑)

それも本人の心境霊境で

千差万別になる

結局自分の判ることしか

わからないよ、と

やはり生きてる間の

意識のあり方が

臨死の時の体験の質を

決めてしまうのではないか

阿部さんも観念の

押し付けにならないように

慎重に書かれてますね

結局いまここ を目覚めて

生きるって事に

尽きちゃいますね
Posted by 通りすがりのおじさん at 2012年02月27日 18:22
こたびにんさん、こんばんは。
自ら命を絶ち、肉体の頚木から離れる事で視野が広がった方々の第一声は、
八割方、「なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう!」だそうです。
「自分のテーマを探求するに当たってこれ以上ないシチュエーションだったのに
それが分からずに死んでしまった。もう一度やり直そう!」
そして命を絶つ直前の現象界に戻っていったり、
或いは他所の国、異なる人物で似たようなシチュエーションをセッティングして
そこでやり直したり、その辺りは個人の好みで。
ですから、僕らの多くは実はもう何回か死んでる事が少なくないそうです(笑)
何か笑っちゃうような話ですが、でもありではないでしょうか。
Posted by 相川 美晴 at 2012年02月27日 18:39
今日のお話は 
たぶんそうなんだろうな〜とウスウス思っていたことが書かれていて、すごく共感しました。

>死は思われているような忌まわしい出来事ではなく、さなぎが蝶に変わるような、次元移行の体験です。

死を悲しむのは 残されたものたち
死そのものは 単なる通過点

なのでしょう。
Posted by くり at 2012年02月27日 18:40
この肉体の死後何を経験するかも

神の御心のまま

なんですよね
Posted by 甲賀忍者 at 2012年02月27日 18:46
いまここに来るたびに、気持ちが楽になって軽くなります
ほんとにいてくれて良かったなあと思います

さっき思ったのは、「ワタシは世の中に義務なんか
持っていない」ってこと

持ってないのに、世の中にも、私自身にも、
たくさん義務を持ってる気になってて、それに
気がつかなかった

いいことをしなきゃならない・・・
人に良く思われなきゃならない
優れてるって思われなきゃだめだ・・・

立派なひとにならなきゃならない

楽しい好きなことをしてるときだって、
もっとりっぱな業績を残さなきゃだめなんだって
思っていた・・・

しっかりしなきゃならない
ひとに迷惑かけちゃいけない
笑われるような生き方しちゃいけない
ただ楽しいだけの娯楽なんて価値が低い・・・

義務だらけだったし、いまもまだ持っている

でもだんだん軽く、生きてることを楽しめるようになりつつあると
思うし、なりたいです

いまここの雲のきれいさや空気のにおいを

まずは瞑想だ!
Posted by kiki at 2012年02月27日 18:51
>また違うタイミングだと、違う表現になった可能性があります。
>僕にとっては確信から書いていますが、
>読むあなたにとっては、あくまでも仮説だというのを忘れないでください。
>このような情報を鵜呑みにすると、新しい先入観になってしまいます。

精神世界を取り扱うブログの中で
自分の書いていることに自信がある方ほど、その真意に関わらず
上述のようなことを書き添えられているものを見たことがありませんでした。

本日も、真理を伝えていただきありがとうございました。
Posted by yamatonadeshiko☆ at 2012年02月27日 18:52
相川さん、
あたしもそのひとりかもって。
ぷぷっ(笑)

ありったけ、
面白可笑しく
生きよっと♪

ありがとうございました
Posted by etsu at 2012年02月27日 19:11
「精神世界を勉強し精通してくると、“平然と死ネる”心境に至ります。しかし、その先に、“平然と生きる”心境があるのです」by小林正観

「平然と死ネる勇気があるならば、平然と生きる勇気もあるはずだ!」by近藤^^
Posted by 近藤 at 2012年02月27日 19:24
うん、平然と生きているよ。

だって、せっかく生まれたんだもん!(by "Bさん" in PANDA)
Posted by PANDA at 2012年02月27日 20:34
阿部さん、こんばんは。
今日もとても分かりやすいご説明有り難うございます。
困難に直面していた矢先、グッドタイミングです。
自分のベストを尽くします。
Posted by トラックドライバー at 2012年02月27日 20:54
私は、覚醒した状態で、死にたいです。

そうでなければ、来世、もしかしたら、戦争で戦っていたり、屠殺をしたり、しているかもしれないからです。

自己流の座禅をしたりしてきましたが、死ぬと1からやり直しかもしれませんね。

などと、書きながら、来世にとらわれるのは、覚醒の度合いを下げそうなので、いまここに集中して、覚醒を目指したいです。
Posted by ぼんやり太郎は風に揺れる葦 at 2012年02月27日 21:02
あべっち、みなさんこんばんは(≧∇≦)

今夜はどっきり。
死の話大好きです。

相川さんのコメントにどきどき。
自分そうだわ。
前世は外国にて自○して、今回日本で似たような人生送ってますん。
どきどき。

なんてね。

みなさま良い夜を。
Posted by あみ at 2012年02月27日 21:03
私も名無しさんと同じで、
>死後は「私」は無くなって、みんなと溶けて、記憶?を共有して、>そこからまた、「新しい私」が出てくる
と阿部さんは言われていると思っていました。

今日の日記ですと、他でもよく聞く「カルマの生まれ変わり」とどう違うのでしょうか。混乱してきたぞ…。
Posted by こたろう at 2012年02月27日 21:09
疲れた。疲れた。
同じめぐり。
昔は○価学会で困難に立ち向かえ!
その人に越えられない悩みはない!とかで奮闘したけど…
同じような「つぶしにあう」「親兄弟で殺しあう」「精神病でダウンするか?金欠病でダウンするか?」みたいなことの 奮闘に疲れた。

奮闘した結果「なんとかいきていける」程度の居場所とお金を貰い、身体と心の消耗を癒そうと思いストレスを発散させたらお金が無くなりました。
毎日「欠陥人間」と 言われながら生きていますが…
なんでそんなことを体験しにきたのでしょうね?
Posted by ユウコりん at 2012年02月27日 21:27
阿部さん、皆様こんばんは。
「死」から「生」への空間に関しての死後の自我、夜見る夢のようなものという解釈に興味を持ちました。空間に関して、私は「無」的に、時間のない世界からの帰還に対して「瞬時」と解釈してました。でも、思い返してみると、そこに夢はあったかも知れません。いずれにせよ、空間を埋める解釈は私にとって「新しい~♪」有難うございました♪
Posted by yu-ko k at 2012年02月27日 21:38
山岡鉄舟の死にざまを思い起こさせます。

今から涅槃に入ると言って座禅をしたまま死んでいったのは、目覚めたまま元の場所へ帰っていったということでしょうか。
Posted by 洋 at 2012年02月27日 21:45
阿部さん、こんばんわ。

その3~ありがとうございます。
待ってました。

今までも、死後の世界などの本を読んできましたが
阿部さんのお話しが一番わかりやすい、というかしっくりきた。

このテーマ、私も大好きです。

親も年老いてきて、そろそろ…という話しにもなるこの頃。
その時、どう向き合えば良いのか。
見送る立場の私は、何をしてあげられるのか、などなど
知りたいことが沢山あります。
Posted by tonton at 2012年02月27日 22:42
こんにちわ。今、人間関係に苦しんでいます。同じことを繰り返しています。またか、ってかんじ。自分の思いを言葉にすると、相手を傷つけるようです。そして、無視され避けられます。辛いです。これも幻想なんですよね。どうもしなくていい。気に入られようとしなくていい。ただ、頭の中は、相手を批判したり中傷したり。なかなかおさまりません。こんな感じを、場所を変え、人を変え、時を変えて経験します。これはカルマ?こんなざわざわした気持ち、思考の中でも瞑想するといいのでしょうか。いつも、同じことの繰り返し。もう何もやる気がおきません。何もしないのも、何かするのも、自分次第なんですよね。どちらでもいい。安息の領域に入りたい。少し目を閉じてみます。
Posted by やよいの空 at 2012年02月27日 22:53
う、う、うっそう!
スマスマで〜
Posted by みどり at 2012年02月27日 22:54
興味深く読ませていただきました。
ところで、他の生き物は死後、どうなるのでしょうか? 人間だけが特別なのでしょうか? そこのところが気になります。
Posted by 龍神にーぶやー at 2012年02月27日 23:14
ちゃんと聞いたり、学んだことが無かった気がします。

聞いたような気がする。。。気がしていたのかもしれないです。

鵜呑みではないですが、そんな気がします。


覚えてはないんですけど。。。


ありがとうございます。
Posted by maki at 2012年02月27日 23:27
こんばんは。

死の瞬間 その2の

「たいていの場合はこの世に戻って来ることはありませんが、ふたたびこの世(迷いの世界)に戻って、暗闇で手さぐりして苦しんでいる同胞を救おうとする場合もあります。

その場合は、生まれた瞬間まで純粋意識を保ったままですが、やがて肉体との同化と共に忘却状態に入り込みます。

そのような子供は、親や世の中に対して、大きな違和感を持ちます。

そして、実際には高い意識であるにもかかわらず、周りから理解されないために、逆に自分を低い存在だと勘違いして過ごすことが多くあります。」

勘違いして過ごした場合、その後どうなるのか。

是非、続きが聞きたいです。

よろしくお願いします。
Posted by 雪光(ゆきひかり) at 2012年02月27日 23:38
沖縄の人の「あの阿部敏郎ねぇ」は色々ですよね
ラジオでお昼にお茶の間やカーステでお話してた阿部さん、フォークシンガーだった阿部さん…

そう、死は忌まわしいものではない。沖縄人はこの事実を知ってる人が多いですよ
大往生したら御祝いですからwおめでたいんだから

悲しみはあるけど、死は仕方ないというか、受け入れるべき出来事としている。
そこからユタという独特の職業の人がいる。
内地の霊能者とは少し違う。

だから本当のユタはいらない事は一切言わない。死後の世界との橋渡しという役割をテキパキこなすだけ。

私はあれこれ指示したり命令する事を言うユタは怪しめ、と教えられましたよ。
先祖や故人がやり残した事は無いか、望む事は無いか伝えるだけ。
お祓いが出来るユタもいるけど、与えられたそれも役割を果たすだけという感じらしいです。

ちょっと下らない話でしたねすみません
とにかく沖縄の人は死に対してもおおらかですね。
多分内地の人ほど怖がらないんじゃないですか私なんかはたまに神経質すぎないか?と思う時がありますが…
もしかしたら生も死も無い、という事を根っこでは解ってるんじゃないですかね多分この世界には自然の摂理しか無い、という感じじゃないですかね
これって阿部さんの言う宇宙全体から見たら命なんかの実体は無い、空の状態である、っていうのと通じませんかね…???

そういう土壌だから阿部さんの気質に合うんじゃないですか?もしかして本能で感じたんじゃないですか、阿部さん
Posted by ミサイルミー at 2012年02月27日 23:55
「誰も私から死を奪うことはできない、どうだマイッタか!」
と、いくぶん逆上気味に死を恐れていた時期があります。
「あなたのような怠け者はね、死への恐怖を別な形で表しているだけなの」
と、どこかで読んで「バレたか」と苦笑いしたことも。
 カルマは「その都度払い」と聞いて胸を撫で下ろしたり
 ようするに、私は何も知らないのですが
 どう考えても死は私個人の出来事でしかない。
 ならば
 エゴが入り込む隙間も無いほど死に寄り添って生きていけるのか。
 練習するしかないのがプラクティクス。
 そう思いながらコンビニに行ったら、いつものお姉ちゃんがニコッと笑ってとても可愛く見えた。
Posted by ∑˚)))K∑˚)))K at 2012年02月28日 00:26
その4 もあるのでしょうか

楽しみに寝るとしよっ



我いまだ生を知らず…じゃなく

不生不死の意識に目覚めず

いずくんぞ死をしらんや かな
Posted by 一空 at 2012年02月28日 00:59
やよいの空さん

辛いですよね

僕も今でも人間関係…
とくに恋愛の方では
苦しみます

ちょっとした思いが
巨大な自我になり
なにもわからなくなり
迷いの中へと

心に鉛のような重さを背負う感覚…

辛いですよね

僕の場合
そういうときは
まず深呼吸してリラックスするように自分の心に意識を向け覗きこみます

思考に気付きあるがままに思考を見ることができたとき

鉛のような思考が
すぅーっと溶けていく感覚を味わいます

それが救済です

受け入れられた時
同じ苦しみを繰り返さなくなります

あなたの中から苦しみがへります

大丈夫ですからね

ちゃんと愛に包まれています

僕もあなたの愛の一部になれることを願ってます

大丈夫ですからね。
Posted by 優。 at 2012年02月28日 01:53
仮説だとしても 何故か私も全くそのように思います。
この世のあらゆる出来事はリアルですが、それにまつわるあれこれは幻想です。 本当のところ、意味もなく価値もなく ただ あるようにあるものを 魂が味わっているのでしょうか? 
最近は、ゲームに対する真剣さは ちょっと無くなってしまったかも。 
でも、そのどこかで 自我の欲や恐れみたいなものも 何かしら残ってはいるんですよね。
まぁ、完全に無くなることはないのかもしれないけど。でも、それも もう要らないかな・・・。 
いらないものを引き連れているのは 恐れってことなんでしょうかね。 自我は変幻自在だな(笑
Posted by 藍 at 2012年02月28日 02:51
私が、自分自身の内面に<私自身=自我>を見つけたから、人間として生きていることに執着しなくなった。

「これで、いつ死んでもいい」という見極めがついた。

私は内面に<自我=個別意識>を見つけ、阿部さんは<神=全体意識>を見つけた。

阿部さんが「私は神です」と言うのなら、私は「私は私自身です」と、答える。


人の恐れの原因が「自分を消失する=死」であるのなら、それは「ありえない」と言うことが、阿部さんの言いたいことなんだろうと思う。

この「意識」そのものが、<私>であるから・・・。
Posted by 自我 at 2012年02月28日 06:06
いまだ生まれたことも死んだこともないという突極からいえばカルマというのも錯覚であり幻想ですよね。。。

「カルマ」という言葉ひとつにしても、これまで響く情報を得る機会毎に、認識を新たにしてきました。
最初に縁があった人間は神の子であると教える組織では、カルマを取る為には、徳を積んで善行を為さなければならない。そしてこの教えをひろめることが最大の菩薩行である。先祖供養も金額によりラベル付けがありました。
会員も毎月奉納する金額が大きいほど神とのパイプが拡がる・・(><*)
その反面、貧者の一灯ということも説いておられましたが。

こういうプロセスを経て、カルマとは帳尻を合わせてバランスをとることではないという認識に至ったいまです。

「死」というものも、最初に響いたのはエリザベス・キューブラー・ロス博士の『死の瞬間』という著書です。臨死体験の症例研究していた精神科医ですね。 その後も「死」に関して、自死した方はどうなるのかという疑問やヒトラーとか残虐行為をしたといわれてる魂のゆくえも わたしなりに理解しています

阿部さんの書かれることは阿部さんの確信であり、私たちには仮説として読むように示唆されてますが おそらくおなじだとおもいます。
おなじといったら大きな語弊がありますね(≧▽≦*)、とにかく共振しますことをうれしいと感じる次第でっす。《さらに認識を拡大してゆける予感》
鵜呑みじゃなくて存在の核に響くんですものぉ~ ←阿部語録♪
Posted by サーシャ at 2012年02月28日 06:18
おはようございます♪


地球クンさん


「137回の前世を持つ少女」の本、急に読みたくなって瞬間的にAmazonで注文しちゃいました(*´∇`*)
楽しみです~ありがとう~♪
Posted by さくら at 2012年02月28日 07:40
おはようございます、今日もいい朝です^^


太陽が浮かんでは沈むサイクルを繰り返し

昼と夜を繰り返すのと同じように


生命が苦しみと喜びを繰り返し

生じたり滅したりするのは



大宇宙の大いなる静寂の空間の中で繰り広げられる


大宇宙の大いなる営みですね。
Posted by 大空 at 2012年02月28日 08:02
阿部さん 皆さん

おはようございます
今日は223バッチリ見えています〜

今回の『死の瞬間その3』う〜む 難しい

私は、もし感じるなら臨死体験(もちろん感じる人も感じない人もいるのかな?)の時と、出産の時かな?と、思いました

と、いうのも偶然
昨日、娘に「お母さん、出産の時に死ぬ思いをするって本当?」って聞かれ!

「そうだね〜かなりきついね、出産は自分の力じゃどうにもならない、赤ちゃんとの阿吽の呼吸がないと出来ないからね〜」

阿吽の呼吸?

あっ、だから子宮っていうのか?サンドウ、産道つまり参道なるほどね〜

まだまだ、よく解らない事多しですが…一つ一つですね(^-^)

では、皆さん 阿部さん 今日も良き日でありますように
Posted by コネクター223 at 2012年02月28日 09:10
今私はカルマを解消する肉体をえらんでいるのかもしれません。

本当に波乱万丈の人生といってもかごんではないでしょう。

いろいろとありましたが、やっと少し筒落ち着いてきています。

阿部さんのブログむずかしいところもありますが・・・

いつもなぜかほっとします。

お忙しそうですががんばってくださいね。
Posted by サラ at 2012年02月28日 09:11
いつも通りの、思った事を出力いたしやす。

阿部さんのコメント読んでて、飲み込めない自分がいた。
ひっかかってたのは「死」って言葉を、その文脈でどういう意図で阿部さんが使ってるのか、をうまく感じ取れない自分がいた。
人間という生物がその生命活動を終えるの「死」
無になってしまうという概念の「死」

「死」って文字に、色んな意味を人は持たせているのだろうけど、僕は、「お、ここで使う「死」は、どんな「死」なんだろ?」なんて一人オロオロしとりました(^_^;)

あ、長くなっちゃうから次のコメントで別出力させて頂きます(^○^)
Posted by ジョン・檸檬 at 2012年02月28日 09:24
引いてみると面白いなと思いました。

いつも例えでイメージしちゃうのは「野球選手」っす。

僕が野球選手だとして、野球が全てだ、って考えてると、自分のミスで負けたら引きずるだろうし、仮に選手生命絶たれるケガしちゃったら、何をするやら。

でも、一人の人間として、野球をしている。野球出来なくても生きていけると思えれば、「あ、そか、自分は人間だった。」って感じで、また違う感じになる気がする。

次に、その「一人の人間」ってのも、引いて見ると、実は野球選手みたいなものかな?なんて。この人生という劇場で、どう振舞うか。

でも、野球と同じで、嫌な事があると、「なんでオレ野球してんだろ?」ってなる気がする。
それに「何度もやり直せるなら、もう辛いからイヤ!投げ出す~。」って思う事もあるかも。自分はそう思う事があるから(^_^;)

でも~、落ち着いてみると、そんな経験、辛い苦しい嫌だって経験、ふつう自分から望まないっすよね。
今の僕の視点では、考えられない。絶対嫌だよ(^_^;)楽なのがいい、安定してるのがいい、って。せめてこんな酷いのはやめて!他見たら楽そうな人いっぱいじゃん!って。
でも、引いたところからをちょっと意識してみると、「経験」を求めてんのかな?自分を試してんのかな?フランクルの「人生の方が、自分に問いかけてる」って言いたかったのは、これ?
あってるか間違ってるかなんてわかんないけど、経験をする為に、って感じが、なんかするんだな~。

今の自分は、そういう感じがする。あー結局長くなっちゃった<(_ _)>
Posted by ジョン・檸檬 at 2012年02月28日 09:46
人間は、望んでこの肉体を選んでやってきたんですもんね。
だから、文句言ったらバチ当たるわ~(笑)
Posted by オンプ♪ちゃん at 2012年02月28日 10:53
今、ふと浮かぶのは、永劫回帰とか、循環

我々は既にワンネスで地球にお手伝いとして来てる家政婦?ミタさん?

そうだよ宇宙の塵や見えない物質やら物質でないもの(笑)から生まれた皆、宇宙塵(人)なんだ

などと、大それた事言ってみる?旅の途中だから旅の恥は書き捨てだ(笑)

でも、ゴミは持ち帰りましょうね

ジョン・檸檬 さん

そうだね!だからジョンさんは野球選手の人生を歩まなかった〜

なんか、思考パターン似てる、いろいろ行ったり来たりして、無理だな、楽しくありたいもーん になっちゃう

でも、それでいいと それでいいと(重ねて言ってみる)感じる

たかをくくろうか
Posted by コネクター223 at 2012年02月28日 12:09
あっ↑たかをくくる
のは 阿部さんにたいしてじゃないです

自分の思考(自我!?)に対してでやんすm(__)m
Posted by コネクター223 at 2012年02月28日 12:25
たいていの人は自分自身に対して何か絶対的な価値のようなものを求めます。
「私は特別」
「私は何か大きな目的を果たすためにこの世に生まれてきた」
間違いとは言いませんが。こうした考えはたいてい
「自分だけが特別であり、他人はどうでもいい存在か、自分が特別であるための小道具」
という思考へと陥ってしまいがちです。

「私は特別な存在だから、あなたも同じように特別存在なんだ」
というレトリックで、あまい誘惑を施すスピリチュアリストが活躍しやすい世の中ですが、
その語り手は、あなたが心の底で望んでいる
「私は特別」
という心理をうまく利用しコントロールします。

こうなってしまうと、真実が見えないだけでなく、さまざまな悩みが生じます。
「私は特別なはず。でも、今の私はそれと遠くかけ離れている。なぜだろう」
「本当の私はこんなはずではない。どうしたらいいのだろう」
 今の自分は理想の自分とは違う。どうすれば理想の自分になれるのだろうかと悩むことになります。
「自己実現願望」とでも言えばいいのでしょうか。

 この種の悩みは尽きることがありません。なぜなら、他者が作り上げたありもしない架空の自分と比較して、
「あれが足りない」
「これが足りない」と考えてしまっているからです。
Posted by 天路 at 2012年02月28日 16:10
久しぶりにコメントします。

その1では次のように「生まれ変わり」について否定的に書いている。
>だから昔から、霊魂やら、先祖供養やら、生まれ変わりやら、あれやこれや
>俗説が氾濫してきたのです。

しかし、何の補足もなく
その3では「生まれ変わり」ー死後も自我があり、肉体次元に戻るーを説明している。

統一できません。
Posted by 素粒子 at 2012年02月28日 18:04
しんどい状況の時に、
「不利な状況よ、もっと来い!!!」
というドMなメッセージが
みえない所から来た事がありました
今は客観的に言えますが、当時
うそやあってもんどりかえりました。
 どうやら、Mのシナリオのようです。
Posted by やまめ at 2012年02月28日 18:50
コネ姉さん

イチバンややこしいのは、自分が何に飢えてるのか、よくわかってないけど、「飢えてる」って感覚だけは、あるって事だと思うんすよ~。

飢えてる理由は、これかな?あれかな?多すぎて、色んな飢えが絡み合って、渇望状態になっちゃってる。

全て投げ出したくなるのも、実は飢えてるから。
得る為に、投げ出す。投げ出したいのは、実は「得たい」から。
「何もいらない」も、実は「得たい」為の取引。
「全ていらない。必要なモノも得なくていい。だから!得たくないものも無い状態にして!」を、得たい。
生きるを手放すで「得たくないモノが無い状態」を得られると思ってる。
無になれば、「得たくないモノが無い状態」が得られると思ってる。

そこまでして得たくないもの・・・よっぽどのモノなんだろうなぁ。
自分、大変だねぇ。
何がそんなに欲しくないの?あ、つまり、何がそんなに欲しいの?
・・・自分事なのに、最近は、他人事っぽく感じちゃう(^_^;)

でも、変な言い方になりますが、自分で自分がカマトトぶってる感じする。
あれかな?これかな?やってるけど、やってるフリ。
実は、知ってるっぽい。
でも、「知る」に辿り着きたくない感じがする。もしくは、その方法じゃない方法を取りたがってる。それを忘れたフリ、知らないフリしたい。見ずに、向き合わずに、違った道から辿り着きたい。
ムチャな、出来ないやり方で、到達しようとしてる感じ。
そっちの方向に意識を向かわせてる気もする。
なんだか、最近凄くそんな感じがする。「自分」をしてて、それを感じる。

最初にわかんないって書きましたが、「わからない」にすれば、そこから先に行かなくていいから、そうしてる、って感じもするんだなぁ。

うふふ、自分、めんどくさい事をしてるな~。
ゲームに例えるとしたなら、本当に難しいぞ。
クリア?した人の言葉すら、入らないように仕組まれてる感じ。
頭で突き詰めれば突き詰めるほど、抜け出せない感じ。

ん~よし!踊るべな!(^○^)イェイイェイ!
Posted by ジョン・檸檬 at 2012年02月28日 22:04
大空さん、ありがとうございます。

その、不動の意識を知りたくて、色々やってますが、
未だに分かりません。
感じられません。
完全に、感情、自我と一体化してます。

その意識が感じられたら、
自分が、自我、エゴではないことが体感できたら、
どんなにか救われるでしょうね。
Posted by 名無し at 2012年02月28日 22:05
私にも困難は乗り越えられるのでしょうか?
Posted by みかづき at 2012年02月28日 23:14
ジョン・檸檬 さん

あなたは わたし
わたしは あなた と、して勝手に妄想

我、足りることを知れどもその深き叡知を井戸に沈め、知らずと言う

って、感じですか?違うかな?あ、関係ないかもしれないけど

富士山の登山口は幾つもあり、それぞれのビューポイントがあり苦難もある

辿り着く人も居れば、引き返す人もいる

私は、自力登山をしたことがない でも、頂上には立った事がある、もちろん仙人でも役行者でもない(笑)なぜか?は置いといて

だからジョンさんの言うトリッキーな山登りな感じ(表現が見つからない、すみません)です。
でも、頂上に登ったら、あるものが待っていた!何だと思いますか?

東京から来た友人は、ならずに 何と!私が高山病になった、吐き気と頭痛と下痢

やるね!富士山、って思う余裕はなかっかたけど、今は納得

だから、富士山は徒歩で登山しましょう と言う話
Posted by コネクター223 at 2012年02月29日 08:45
コネ姉さん

すんません、抽象的な、そして自分でもボンヤリとしたものの出力をしてしまった為、謎解きのような事をさせてしまったんだろうなぁ・・・と、コネ姉さんの立場を勝手に妄想して書きました(^_^;)

自分でもボンヤリだから、書いて下さった事が、あてはまってるのかどうかも、ボンヤリ・・・ただただ、すんませんです<(_ _)>

ただ、おっしゃってる内容は、受け取れたのかなと。
えと、自分が受け取った内容としては
「自力で登れば、自分が行けるところまで「自分」で行ける。それが登山。
仮に、何かの作用で、自力意外で頂上にポンと着いたとしたら、
それは登山というよりも【頂上にただ居た】って事。」

そんな感じでしょうか?

精神世界の話とか知って、「凄いな、いいな、そうなれたらな。」ってのを仮に「頂上」だとすると、頂上にいるフリしたって、結局高山病になっちゃう。
みたいな感じっすかね。

あれ?さらに混乱が混乱を??

ちなみに、自分が出力した内容に、整合性が無い為、自分で混乱しました(^_^;)次、整理してみます。
Posted by ジョン・檸檬 at 2012年02月29日 09:58
最初は
①人生は劇場だと思う 演じ方は「自分」に問われてる。
でも、劇場から下りたくなる。だって、苦しいんだもん。

それに対し、コネ姉さんは
「そう思う事もあるよね」 って対応して下さったと、僕は受け取った。

でも、僕が次に書いた内容は、それに対してというより、ただ出力したい気持ちが先走った「出力」になっちゃった

②(劇場の話が飛んじゃって)僕は飢えてる。
(だから苦しい、とか書かずに、急に劇場人物になっちゃった感じっすかね)

ああ、僕は飢えてる。どうしてだ・・・

↑で、自分事(演じてる自分)を他人事(劇場にいる理解)で見ようとしてる。
「僕の役は、大変だな。でも、引いてみると、または色んな情報を統合すると、大丈夫みたいだ。何か忘れてるだけみたいだし。早く思い出さないかな。にしてもこの劇はめんどくさいな。」

って事にしようとしてたみたい。
でも~、この見方も~、思考なんだろうなって思う。こういう見方で安心しようとする自分。これ、いわゆる「引いてる」フリな気がする。わかってないけど、わかった事にして、安心しようとしてる気がする。

これに対し、本当に気付きは、フリ(誰かに頂上に連れてってもらう的な)では、ないよ~ん。

と教えて下さったのかな。と、自分は勝手に解釈いたしやした。
コネ姉さんの意図と合ってるかもしんないし、じぇんじぇん違うかもしれないけど、あっしは、そう受け止めやした。

ありがとうございます。
Posted by ジョン・檸檬 at 2012年02月29日 10:13
こういう精神世界への感心が高まったのは 臨死体験???からでした
ほんとに 終わった生への執着は無かったです
大好きな旦那様の事も・・・ そんなこともあったっけ?的な^^;
ただただあちこち廻り見ながら飛んでた感じです

あれから・・・ おかげさまでいろいろ開き直って生きてます^m^
阿部さんの講義で日々改めていろいろ納得です
Posted by light at 2012年02月29日 12:24
ジョン・檸檬 さん

いやいや深読みですね〜なるほど

私はジョンさんのコメントを見て、何となくパウロ・コエーリョの『星の巡礼』を思い出して、著者が巡礼の道を歩いてる→山道→富士山

星の巡礼は、サンティアゴ・デ・コンポステーラを旅する話、微妙に宗教入ってくるけど信仰って感じかな?

このコエーリョさん、もともとブラジルで流行歌を作ってて、ある日突然!巡礼の旅に出た

あれ?なんか阿部さんとダブる妄想はこの辺にしとかないと

でわ、また お話しませういつも ありがとう
Posted by コネクター223 at 2012年02月29日 13:25
私、子供の頃夢を見ているような感覚で体験したことです。

上も下も終わりがないような空間、どこまでも無限につづいているような空間にいて(宇宙みたいなとこ)、私はすごくすごく小さくて硬くて、怖かったです。

私は、体が緊張して硬くなり、痛みがでます。
それが辛いです。

自分では、今世で硬くなったのをゆるめに来たような気がしてなりません。

この感覚・・

疑心暗鬼だったのですが、こちらを読ませていただいて、やっぱりそうなのかと思いました。
Posted by kumi at 2012年02月29日 23:53
kumi さん

おはようございます

私の友人も瞑想で、同じような体験をしました

なに気に、再びコメント欄を読んで 驚きました

なを、現在、彼女はワークショップやアーティストの表現の場を提供する仕事で活躍しています
Posted by コネクター223 at 2012年03月01日 07:47
コネクターさん、おはようございます(^O^)

そうなのですか!!

あれは小学生の時で、自分は変だと思いました。
体験自体も怖くて・・・

ご友人は瞑想でそういう体験をされたのですね。
お会いしてみたい・・・
ワークショップなども、興味あります。

おしえていただけますか?
Posted by kumi at 2012年03月01日 08:23
kumi さん

最近は会ってないので彼女が、どんな感じなのかは解らないのですが(笑)

HPは izu-pv.com/

閉鎖されてたら、ごめんなさいね

kumiさん、これからもよろしくね

私も、スピブログや本を読みましたが
『いまここ』ブログがコメント欄を含め一番に寛げる空間です

阿部さん に 感謝
素敵な皆さんに感謝
Posted by コネクター223 at 2012年03月01日 10:06
コネクターさん

ご親切にありがとうございました(^^)

こちらこそ、またよろしくお願いしますm(__)m
Posted by kumi at 2012年03月01日 16:19
非常に興味深いお話ですが、単純な質問していいですか?
阿部さんは幽霊でもなく、現世で死んだこともないのに、何故そのようなことがわかるんですか?
悟れば誰でもわかることなんでしょうか?
また、お勧めはしないでしょうが、自分を殺した者は通常の死と何か違う罰とかを受けるのでしょうか?
僕自身、そんなことを考えているわけではないですが、最近親しい者がそのような残念な死に方をしたもんで、気になって仕方ありません。
Posted by ガナシー at 2012年03月02日 02:45
はじめまして。自我番号5553です。
黒斎さんとこから来ました。^^


>そのような場合は何が起こるか。

>実は一瞬ですが、さとりの状態を垣間見ます。


数年前に死にかけたことがあります。
阿部さんのおっしゃるとおり、実際そういう場所に行きました。
そして私はアホですので見事、勘違いをしました。

「私は神と交信した。私は特別なのかもしれない・・」

痛い私の誕生でありました。
私は悟ってしまった。もうこの世にはいられない。
解脱してしまうって焦りました。この世が好きなのです。

本当に痛かった私・・解脱なんて一瞬悟りの境地を垣間見たところでできるもんじゃないっていうのに。何焦ってんねんw。

でもこれだけは言えます。
死ぬ瞬間は、どんな人でもどんな死に方でもそれはそれは幸福な瞬間です。これはもうみんなです。(ただ、死ぬまでは苦しいんですけどね。)

自我はあっちにいっても残ってるんですねぇ、知らなかった。すごい勉強になりました。また来ます。
Posted by 自我5553番 at 2012年03月04日 18:06
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