2010年01月12日

お元気ですか

みなさんのコメントで、レスしたいものがたくさんあります。

実は、ここはネット環境が決して良いとは言えず、持参したパソコンの不具合も生じたりと、日本にいるときのようなテンポで対応することができません。

しかも僕自身の意識が、まだ半分違う世界にいるときています。


何度もフリーズしてしまう画面に向かいつつ、今日もできるだけのことをしてみます。



SSさんのコメント

目覚めを望むことで、目覚めが逃げないか?
というのが、「目覚めを求めなさい」と聞いたときによぎる、私の思考による不安です。
このような質問、おそらく過去にも幾度となくされていると思いますが、いかがでしょう?
でも、求めることで、どんどん近づいている感覚もあるんです。



これは道を歩むうえで必ずと言っていいほどぶち当たるジレンマです。

おっしゃるように、悟ろうと思えば悟れません。

なぜなら、悟りとは「いまここ」のあるがままの自分に目覚めることなのに、悟りたいという思いは、いまとは違う別の自分になろうとすることだからです。

いまここにあるものを、将来に求めているのです。


さらには、悟りたいと言っている自分は誰かという問題も残ります。

それが、いつもお馴染みの、表面的に捉えている自己の欲求だとしたら、不可能です。

と言うのも、悟り(目覚め)とは、その自己が消滅した時に残るものであり、自己の欲求が叶った結果ではないからです。


今日の僕は、ほぼ思考停止状態で、うまく言えている自信がないのですが、何となくわかってくれますか。


以上のような理由から、「目覚めを望むことで、目覚めが逃げる」というのは事実です。

しかし一方で、そのことを強く望むことが、目覚めへの道を開いていきます。

あきらかに矛盾していますね。

営さんが言うように、「強く求めて執着しない」ということが、わかりやすい態度かもしれません。



言葉というのは、本当に不完全なものですね。

その時の意図に従って何かを書けば、他のタイミングで伝えた内容とズレが生じてしまうことがあります。

頭が冴えわたっている時ならば、思考を縦横無尽に駆使して、このようなことも難なく説明できるのですが、どうやら今日はこれが限界のようです。

意識は冴えているのですが、頭がどうも・・・


ま、こんな日もあるということで、これに懲りずにまたここにいらして下さい。



先ほど、満天の星空を見上げていたら、その不思議さに圧倒されてしまいました。

僕たちがここで生きていることは、奇跡の中の奇跡ですね。

人間は実際には何一つ知らないのに、わかったような気になって日々の生活を送っています。

ところが、何一つ知らないということを認めたとき、すべてを知っている存在とひとつになります。

それは、いつもは隠れている本当の自分です。



あはは、やっぱり思考停止しているみたいです。

いま、現地時間で深夜の3時、日本時間の明け方5時になります。

ここまで書くのに2時間以上もかかってしまいました。

これから記事をアップすると、読者登録している人の携帯が鳴ってしまうので、日本時間の8時半にセットしておきます。



今日はもう寝ます。


読んでくれてありがとうございました。



Posted by Toshiro Abe at 08:30│Comments(51)
この記事へのコメント
おはようございます。新しい年も気がつけば、あっという間に今日です(笑)
そして多分 あっという間に明日になるのでしょう(笑)‥

時々皆さんの「悟り」へのこだわりを感じてなりません。悟りはダイエットのように目に見えるものではなく(笑) テストのように点数で合格点に達したからもらえるごほうびではないのですから(もちろん私も悟ってないです)でも悟るために生きているのじゃない‥
日々のなかで自然を感じたり感謝したり‥ご縁あって親しくなった周りの方々の幸せを願ったり‥できることをする‥
笑顔でいられることに沸き起こる至福感を感じる‥そう‥
小さな小さな幸せで満足なのです。だから、皆さんが悟りということに執着されているのが不思議でしようがないのです。
そのようになりたい‥と願うのはよいことなのかもしれません。
でも
どなたかもおっしゃってましたが、日常の平凡な出来事のなかにそれはあるように思えてなりません。
足元にある、春の芽吹きを感じましょう。
人の優しさを感じ、愛を感じれたらなお最高♪
いま 私は幸せです。
Posted by katsuko at 2010年01月12日 08:58
阿部さんおはようございます。
瞑想中にお邪魔します。

瞑想を始めて半年が過ぎますが、瞑想の目的が思考を停止させるものといわれますが、私の場合瞑想中に思考が活発になり、停止させることができません。そのうち思考していることさえ気がつかないうちに思考しているような状態。
こんな状態でいいんでしょうか?
瞑想したあとはすっきりしていて、あまりこだわらなくなっているし気分も良いのでので瞑想は止める気はないのですが。
こんな状態では思考を停止させることはできないのではと少々思いあぐんでいます。
Posted by すみ子 at 2010年01月12日 09:24
この地上にこうして存在させていただいて阿部さんの記事を読ませていただいている。
当たり前と言えば当たり前だし、不思議な神秘と思えば真に不思議なことに思えてきます。

この幻想世界、私の肉体・・・つねれば痛いし、リアルに血も出ます。
この超立体スーパーリアルな幻想世界の方が本当の世界に見えるのも無理ないなぁ’なんて思ったりします。

このように本当の世界と幻影が180度逆転しているように、あらゆることがパラドックスになっている・・・なんて直感しました。

そうそう、現象世界で願うと必ず現れると言う人と、願えば現実の状態が「そうでない」と思っているから、そちらが現れるという人が多いですよね。

強く願って後は執着を手放す・・・これがベストなようですね。

阿部さんに確信を頂いたようです。

ありがとうございます!
Posted by しょうこ at 2010年01月12日 09:31
我は神なり人は神なり消えてよくなるみんなが幸せでありますように神様ありがとうございます
Posted by Walter at 2010年01月12日 09:31
目覚めとは

自分の中にある普遍的エネルギーの

体感ですね。


これは、常に在るのですが

自我(思考)が遮っているのです。


自我は

本来幻想である自分というものを

あたかも実在するように作り上げ

純粋意識(真我=普遍的エネルギー)を

見えなくして

自我意識にすり替える天才です。


それに対して思考で対処しても

自我の罠に取り込まれるだけです。


ですから、意識すればするほど

蟻地獄のように自我の罠にはまっていき

目覚めにくくなるのです。


その自我を少しでも違った視点で捕らえようとする試みが、

瞑想なのです。


瞑想によって、

自我が本来の実在とは異なる幻だと体感したときに、

真の実在(真我=普遍的エネルギー=静寂)が、

顕れてきます。


ですから、瞑想する基本として

自我意識と異なる意識があるという

前提を持たなければ

何の意味もありません!


今は体感できなくても

そういう意識が絶対に在る!

と思い続けることが

目覚めを求める強い想い(意思)です。


ただし、

目覚めの切っ掛けは

全ての人が

瞑想だけとは限りません!


カトリックのシスター鈴木秀子さんのように

臨死体験で目覚める方もいらっしゃいますし

立花隆さんが『宇宙からの帰還』で

書かれているように

宇宙に滞在することで

目覚めた宇宙飛行士の方も

いらっしゃいます。


ですから、今は瞑想に興味がない方も

目覚めの可能性はないわけではありません。


そういう方も何の気兼ねも無く

訪れてこられるブログであることを

希望いたしております。


至福!


黒木元広 拝
Posted by 黒木元広 at 2010年01月12日 09:46
おはようございまーす☆
心底求めなければ、
何も始まらないと思います。
それしかないと心が求めているのだから
それが欲しいと、トコトン願うのは
自然で正直ではないでしょうか。
あとは、やっぱりお任せ!で
きっと、なるようになりますね^^
☆ありがとうございました☆☆☆
Posted by tomatoma at 2010年01月12日 09:53
阿部さん。

皆さん。

おはよーございます。

目覚めを思考する人間に目覚めを体験した人間が言葉の表現で伝える
事自体が至難の業なんですよね。

どうしても物理学や医学のように直接的に方程式や映像で表現出来ませんから。

では何故僕は阿部さんの言葉に引きつけられるのか、多分心の奥で共振共鳴してるからだと思います。

狂信ではなく共振です。

毎日のブログの更新はもう2年以上続いていますが中途半端な気持では
なかなか出来ないとおもいます。

このブログから発信される「もう1つの次元からの言葉」は奇跡の扉を
開放する唯一のエネルギーである事を僕は今信じています。
Posted by 大工見習い at 2010年01月12日 09:54
おはようございます
目覚め、瞑想の壁について最近私も大きな変化がありました
瞑想中の意識の先にある薄いベールのようなものが長年越えられずに
切羽詰ったような、行き詰ったように感じていました。
そんな時にふと、阿部さんのブログにふと辿り着き、「いまここ」というキーワードを頂いて強い閃きを得た気がします。
目を閉じ意識の中にある大きな過去、未来というTVのスイッチを消し、真ん中に浮かび上がるいまここの自分を感じる…
そしてそのいまここの自分から ~すべき、~するんだ ~しなければ!
そんな全ての価値観、概念を手放してしまう
そうすると、あら、不思議と今まであれほど困難だったベールの先に簡単に辿り着くことが出来た感じがしました。

まだまだこれからの私なのですが大切なヒントをひとかけら頂いた気がして感謝しています。
Posted by もこ at 2010年01月12日 10:00
わかりやすいですよ。
Posted by matanki65 at 2010年01月12日 10:20
おはようございます(^^)

私も、かつて、ssさんと同じことを思いました。

目覚めを強く望む自分。
一生懸命に瞑想し、一生懸命にブログを読み、一生懸命に・・・の日々。
一方、
目覚めても目覚めなくても、いまここにあれたらそれでいいではないか・・
と思う自分。
いったんは楽になる、でも、やはり、内実、目覚めたい!・・・(笑)
が・・・・目覚めは来ない。いや、それどころか、
欲すれば欲するほど、がんばればがんばるほど、遠くなる。。

もう、おなかいっぱいで、
悟りとか目覚めとか、文字を見ただけでも、なんだかイヤだと感じるような、
それでいて、見ないではいられない・・・・(笑)

・・少々体調を崩し(元から?)ました。・・・こう見えて繊細なんです。(^^ゞ (笑)

そして、私の今の時点で思うこと・・
中途半端に「手放した」つもりにならない方がいいかも。
つまり、それも自我のはからいってことがあるから・・・。

とことん望めば、そして、望むことで目覚めはこないにしても、
望んでいるという自我を否定するのではなく引き受け、
同時に、努力では得られない、と、心の深いところでナットクするというか、
いわゆる「絶望」することで、
・・・・・自然に「お手上げ」「お任せ」の状態がくるのではないか・・・?
自我ではなく、深いところからの意志がはたらくというか・・・。

ほしいほしいと思っていた物が、
遠くにあるのではなくて、すぐ手の届くところにあって、
いつも一緒にある・・・・
と、感じるようになるのでは・・?
と。

ただし、あくまでも、仮定の話ですので~~~~(笑)
あんまり参考にならないかもです(#^^#)
ごめんなさい!

もちろん、別の道もあると思います~(^^)
Posted by 野乃すみれ(のの) at 2010年01月12日 10:42
意識半分、パソコン環境の良くない中
ブログUPして頂いてありがとう(^o^)丿
阿部さんのみぃ~んなへの愛を改めて強く感じました.:*。

求める意識はしっかりと 流れに任せてリラァックスゥ~.:*。
Posted by ぽろん.:*。 at 2010年01月12日 11:00
明け方、夢を見ました

夜空に浮かぶお月様が、三日月になったり、五つの小さな星が五角形の形になったりして、

クリスマスのイルミネーションのように交互に点滅して、とても綺麗でした(^-^)
チェンマイの星空がワープしてきたのかもしれませんね(^o^)
見上げてごらん~♪夜の星を~♪

早く思い出して、自由になりたいな~

強く願って、思し召すですね(~o~)

今日もありがとうございました<(_ _)>
Posted by ターコイズブルー at 2010年01月12日 11:01
言葉はどうしても一側面しか表現できないので、
それを超えた世界を表現しようとすると、
それを体験してない人にとっては矛盾してるように聞こえてしまいます。

良く言われることですが、、、
3次元(立体)を表現するのに、2次元(平面)で表そうとすると、
三角形である。そして、円である。

2次元しか体感できない人にとっては矛盾でしかありませんが、
3次元を体験できている人にとっては、円錐として納得できます。

一度体験してしまうと、な~んだ。。。なんですけどね。。。

阿部さん、会いたくなってきました。
ハグしたいです~♪(^0^)
楽しみに待ってま~す♪
Posted by ザッハ at 2010年01月12日 11:08
結局私たちが生涯をかけて手に入れようとしているのは
「自分自身」ではないでしょうか。

ある人は仕事を通じて「自分の存在」を確かめようとする。

ある人は子育てを通じて「自分の存在」を確かめようとする。

ある人は消費行為を通じて「自分の存在」を確かめようとする。

ある人は社会活動を通じて…またある人は…

やり方は違うけど、それは「自分を知りたい」「私が何者なのかを確かめ
たい」ということの代理行為なのではないでしょうか。

そして「悟る」とは「”自分の正体”を悟る」わけですから
探し求めていた「自分自身」を手に入れることが出来る
つまり
本当に欲しかったものをようやく手に入れることが出来るわけです。

自分自身を求める上でのパラドクス・矛盾に直面することは、私たちが普段
目をそらし、気付かない振りをしているカラクリ(自分で自分に仕掛けている
ワナみたいなもんですが)に気が付く大きなきっかけになると思います。
Posted by 小倉太郎 at 2010年01月12日 11:22
目覚めって、
「目標」や「対象」にしちゃうと、
その、つくった距離は決して、ちじまりまりませんよね、、求めるものでも無く
勿論、追うものでもなく自分自身や物事の内面をを感じようとする心の働きに沿っていると出現してくるもののような気がします。

内面に向かう、孤独な心の作業のような気もします・・が目覚めた人~ 教えて~
Posted by abc at 2010年01月12日 11:26
思考と言葉を駆使したものよりわかりすく感じています。

チェンマイからの更新 ありがとうございます。
Posted by hiyori at 2010年01月12日 11:31
おはようございます。
いつもありがとうございます。
まず、はなから既にもう『悟っている』ことを前提に、悟っているけど『忘れている』だから思いだしたい。という方向?で探求してみるとたどり着ける気がします。
持っていないという前提で探す場合どうしても外側?を探してしまうので外側には『ない』とわかるまでたどり着かないですよね。
外側にはないとわかるまで探せば外側をあきらめて悟りの方(内側?)へ向かうってことかなと。
だったらまず『持っていることを認めて』最初から内側を探せば早いってことかなと感じます。
だから瞑想なのかなと。
ホントは内も外もないけど言葉だとこんな感じでしょうか?
悟りは一番当たり前で普通で100%全員に当てはまっていて呼吸しているのと同じかそれ以上に当然で自然なものだけど、認識?したことがないからどれがそれか探したい(悟りたい)
深刻にならずリラックスすることが大事だと感じます。
私もふと力んだらリラックスして戻るようにしてます。
長くなりすみません。
Posted by うめ at 2010年01月12日 11:45
阿部さん、ごくろうさまです。

このまえの
>何故なら瞑想とは思考から離れることであり、大いなる一つと自分とを隔てているカーテンを取り去る作業だからです。
 
は妙にしっくりきました。
大きな鏡の前に、立って
小我なる自分のすべてを映しだしてもらう。
ような感覚でしょうか。

流行りの「事業仕分け」に似てますね(笑)
Posted by よしよし at 2010年01月12日 11:53
 う~ん。
 私もmatanki65さんと同様、わかりやすいと思う…。
 
 というか、
 どんなに言葉を駆使しても、
 わからないものはわからない気もします。
 
 「…強く求めて執着しない…」を

 「プロセスは大切にするけれど、結果は求めない…」と、

 私なりの言葉で表現してみました。

 
Posted by 博文 at 2010年01月12日 12:13
全てが
自分の現れです

今、目に映るモノ

自分から発せられる言葉

発せられた言葉
どう受け取るか?

自由の中で
自分がそう決めて
判断しているんです

苦しいと思う事も
そう

嬉しいと思う事も

誰がこうなったら
こうだと
決め付けてるのでしょうか?

自分自身ですよね

世の中を作ってるのも自分なんです

全て自分

自分と向き合うのは
とっても苦しいと思います

あたしも相当
苦しかったですから
(笑)

だけど求めてやみませんでした

何なのかもわからず
だけど
必ずわかるような気がして

求めていれば
必ず自分が教えてくれると思います

全て現れですから

どうか
自分からのメッセージを受け取ってください
Posted by きらきら☆ at 2010年01月12日 14:33
阿部さま
いつもありがとうございます。
気になるのですが…目覚めたら仕事をする気が失せたりしないのでしょうか…
細やかな日常で満足出来るので、仕事面で必要以上の向上は望まなくなるのでしょうか…

仕事と目覚めの関係が気になります…
Posted by 福山 at 2010年01月12日 14:39
阿部さん、皆さんこんにちは。

まずは瞑想好きになってみる、というのはどうでしょう。

喰わず嫌いせず、とりあえず座ってみたら、意外に楽しい世界が開けてる、ってこともあります。

あほらしいと思っていた茶道然り、瞑想然り。

先入観にとらわれず、いっちょ行ってみましょ〜!
Posted by nk at 2010年01月12日 15:08
これだけ多くの顔も知らなければ住む場所も違う人たちが
きっと同じ方角にある何かに向かって真剣に考えてる…

なんか凄いことに思えて勇気が出てきますね…
本当にみんなひとつに繋がってるんだろうなぁ…
Posted by もこ at 2010年01月12日 15:22
疲れているのに、ブログアップお疲れ様です。

求めると手に入らない。

求めるのをやめた時に…そこにあったと気づく。

でも、求めようと強く望んで執着しないのが大事なんですね。

今日もありがとうございます。
Posted by 方位鑑定士 at 2010年01月12日 15:38
阿部さん、こんにちは

>さらには、悟りたいと言っている自分は誰かという問題も残ります。

>それが、いつもお馴染みの、表面的に捉えている自己の欲求だとしたら、不可能です。

>と言うのも、悟り(目覚め)とは、その自己が消滅した時に残るものであり、自己の欲求が叶った結果ではないからです。

私は目覚めを求めていますが、それがいわゆる自我の逃避願望か、あるいはもっと深いところから来るものなのかの区別がつきません。
両方のような気がするのですが・・・・・

どのように区別を付けるべきでしょうか?
単なる自我の逃避願望としての目覚めならば的外れな毎日を送っていることになりますので
Posted by 三瀬鳥 at 2010年01月12日 15:39
「絶望」は目覚めへのチャンスと言われますが、私はずっと「絶望」しています。
そして、目覚める気も全くいたしません。
これは、私にまだ「絶望」が足りないからなのでしょうか?
もっと苦しめばよいのでしょうか?
生き方も、絶望感も、私は中途半端なのでしょうか?

もう疲れました。
楽に逝くにはどうしたらよいのでしょうか?
Posted by emanon at 2010年01月12日 16:51
 ほんとにここに生きているのが、うれしい。
思考にまみれて、我が家に帰って、
パソコン開いて
文章読んだら
のうみそとろけました。
 至福。
Posted by やまめ at 2010年01月12日 18:09
ネット環境が整わない中、更新してくださり、
ありがとうございます。
阿部さん、みなさん、
素晴らしい時をお過ごしくださいますように!

本日もありがとうございました!
Posted by 麻美 at 2010年01月12日 18:13
阿部さん、みなさん

それを意識しなくなったとき、それが自動的になったときがそこにたとりついたということですよね。

ありがとうございます。

真夏のオーストラリアより
モナカ寅次郎
Posted by モナカ寅次郎 at 2010年01月12日 19:35
阿部さん、皆さんこんばんは。

1月9日の記事にお世話なコメントを書かせて頂きましたが、
説明不足でした。

本当に言いたかったのは、
まさしく、今日の阿部さんの記事と同じようなことでした。

求めることは全然構わないけれど、拘りすぎて焦ってしまっては
(自我の思うつぼ)元も子もない、という意味でした。

お詫びして、訂正させて頂きます。(ごめんなさい)

それにしても、阿部さんの更新には本当に頭が下がります。

でも、お体には十分気をつけてください。

毎度有難うございます。
Posted by 日光東照宮 at 2010年01月12日 19:47
阿部さん。こんばんは。

こちら日本は、1月12日の午後8時です。

集中瞑想の最中、毎日ブログの更新ありがとうございます。


阿部さんのブログと瞑想を支えに、元気で暮らしておりますよ。

今日は「強く求めて執着しない」という言葉を胸に刻みました。

どうもありがとうございました。
Posted by 山隈寛子 at 2010年01月12日 20:06
阿部さん 皆さん、こんばんは

「ただ目覚めた自分で在る」というのはどうでしょうか?
意識の状態の忠実なコピー機である宇宙に結果はお任せという気持ちで。

大ぼら吹きかもしれません でもどんな大ぼらも心底信じられたらそれが真実に変わります。

発想の逆転です。 目覚めるために瞑想するのでなく、目覚めたから瞑想する自分で在るんです。

今まで散々幻想の世界に苦しめられてきました。 今度はこちらから宇宙にはったりをかましてやりましょう。

ま そんな気楽な気持ちで楽しんでいきましょう。

 
Posted by AKIRA at 2010年01月12日 20:53
emanonさんへ


>もっと苦しめばよいのでしょうか?
生き方も、絶望感も、私は中途半端なのでしょうか?


私の経験から少し感想を述べさせて頂きます。

最も分かりやすい判断材料として次のものがあります。

物欲、金銭欲、地位、名誉等生きていく上で、
一般的には最も必要とされているものですが、
いったん、これらを心から必要ないという認識
に至ったことがあるかどうか。

これって絶望から ”気づき” に至る一つの過程だと思います。


>もう疲れました。
楽に逝くにはどうしたらよいのでしょうか?


そんなものはありません。(自身で探したことがありますから)
間違いありません。(そうしようとは思いませんでしたが...)

いったん全てを手放してみてはいかがでしょう。
場合によっては、仕事すら。(可能な環境にあればの話ですが)

いじらないことです。

厭な事象はいじると、ますますエネルギーを得て悪化していきます。

放っておくと必ず好転に転じます。

そこから先は向うから ”事” がやってきます。
起こってくるというやつです。

そこからが不思議な世界の始まりです。
あなたが望むいろんなことが、
知らないうちに一つずつ叶っていきます。

もう少しの辛抱です。(辛いのはわかります)

いい意味でヤケクソになってください(え〜ぃ!どうにでもなれと)

長くなりました。有難うございます。
Posted by 日光東照宮 at 2010年01月12日 21:04
emanonさん、はじめまして。

>これは、私にまだ「絶望」が足りないからなのでしょうか?
>もう疲れました。
>楽に逝くにはどうしたらよいのでしょうか?


本当の「絶望」って、逝くことにすら望みを見出さないことです。

小倉太郎は「逝っても何も変わらない」と、逝くことにすら絶望しました。

つい私たち、絶望のさなかにもどこかで逃げ道
つまり「今以外の楽な場所」を探しがちです。

「絶望」って実は「今ここ」以外にどこにも逃げ場所は無い
と、観念する事です。
Posted by 小倉太郎 at 2010年01月12日 21:49
阿部さんレスありがとうございました。
なんとなくは分っているんです。ですので、分りやすい説明でございました。

目覚めを望んでいる自分をありのままに受け入れて、このままでいます。すべてのことに執着せず、その方針にも固執せず流れるままに。

最近、毎日何かしら感動して涙がでるんですよね。不意に聞いたラジオや、ワイドショーを見てさえも。数年前までは親が死んでも涙が出ないのではないだろうかと考えていただけに、不思議です。
Posted by SS at 2010年01月13日 00:35
阿部さん

こんばんは。

先日の雲黒斎さんの講演会で気づきを得てここ数日なんだかよくわからないんですがいろんなものが自分に落ちてきます。

阿部さんの講演会に行ってもなお、今まで読み進めなかった阿部さんのブログの内容もスル~と入って来てようやく読破できました。

でも、最初のほうは覚えてないんでまた読み直します(笑)

それにしても言葉って面白いですね。
4日前には全然理解というか何いってるのかいまいちわからなかったことがその解釈によってああ、そういうことなんだと落ちてきました。

言葉遊び、これも大いなる一つの戯れなんでしょうかね

私は決定的な体験はしてないんですが、黒斎さんの「あれ、生命が俺じゃん」の言葉でそうだったんだと気づきました。

本当の自分に気づいたらもう今までの自分ではいられないということがよくわかりました。

何も変わらないんですけどね。

これから?の姿勢はただあるがままを受け入れていくことですか。

まだ夢見てる途中かもしれませんが(笑)
Posted by nob at 2010年01月13日 01:24
☆ 日光東照宮様

先日は、コメント有難うございました。


《いい意味でヤケクソになってください》

開き直り ということですね(笑)


苦しいときに逃げずに

何でも来いと

開き直れれば状況は好転するということですよね!


絶望を口に出せる今が、我慢のしどころということですよね。


とことん絶望したときには、外には目が行かず

自分自身の内面(自我)に、

対面せざるを得なくなります。


逃げれば、またいずれ同じ状況を繰り返すのですから、

ここは開き直って自我を認めて

前向きに生きて行きましょうということですね!


正⇔反⇒合の世界ですね!


至福!


黒木元広 拝
Posted by 黒木元広 at 2010年01月13日 07:28
「空腹は最高のスパイス」という名言があります。

腹が減る、食べる、時間が来たから食べるのより

格段に美味しい。

当たり前ですが、空腹と満腹は同時には有り得ず

交互にしか起こり得ない

贅を尽くしたご馳走を食べては吐き、また

食べるために吐いたヨーロッパの貴族たちは

別格ですが。


何もしなくっても腹は減る

どうせなら美味しいものを食べたい

料理も素敵な創作活動として楽しめる

愛する人のための料理ならなおのこと


本当に楽しんで料理すると

食べる前に満足してしまい

他者に食べて貰うことの喜びが

自分の食欲を追い越してしまいますよね。


空腹を楽しみ、縁在ってやってきた食材に感謝し

創造を楽しみ、与える喜びを得、笑顔に触れ

話が弾み、みんなしあわせ。
Posted by 神ng at 2010年01月13日 08:45
今3Dで話題の映画『アバター』、暗喩として、ゲームなどのバーチャルな世界へ没入することを容認しているともとらえられるし、正反対に、目覚めることへの誘い、ともとらえることができておもしろいです。

http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN201001120028.html
Posted by ゆーきー at 2010年01月13日 10:20
コメントありがとうございます。

パソコンの調子がおもわしくないので、質問にもたくさん答えたいのですが、あまりレスできずにいます。

黒木さん。

あなたはとても繊細な人なので、つい言葉を選んでしまいますが、伝えたほうがいいように思うので伝えます。

このブログを大切に思ってくれる気持がわかるので言いにくいのですが、結論を言えば、あなたはいくつかの誤解をしています。

自分が得た情報をもとに(おそらくそれは本ではないでしょうか)、解釈したり判断した結論が、必ずしも事実ではない場合があります。

鈴木秀子さんとは、ずいぶん昔になりますが、何度かお食事を共にし親しくお話しさせてもらいましたが、本には書かれていないさまざまなプロセスがあります。

宇宙飛行士の体験についても、いまここ講演会で何度かお話しさせてもらいましたが、あなたの解釈とは少し違う面があります。


それ以前にあなたは、僕が使う「瞑想」という言葉が、何を意味しているのかを正確に把握していません。

もう一度文章を読んでもらえたらと思います。


あなたが善意から発する意見は、もし僕に対するアドバイスであれば、このような場で発表するよりは、個人的に伝えてくれたほうが、他の人に誤解を与えずに済む場合があります。

それは講演会の中も同じことです。


何度か重なったので、あえてお伝えしました。
Posted by Toshiro Abe at 2010年01月13日 10:45
阿部敏郎様


ご指摘有難うございました!(笑)


久し振りの私の自我に対する

強烈なショックだったので

自我が出番を求めて騒いでおります。


有難うございました!


これを機に、

更に目覚めていこうと思っております。


このブログ上で長々とコメントを

戴き申し訳なく思っております。


以後、気をつけます。(ペコリ)


これからも宜しくお願いいたします。(笑)


やはり、

出会えてよかった!

の一言に尽きます。


有難うございました!


黒木元広 拝
Posted by 黒木元広 at 2010年01月13日 14:12
阿部様 

いつもありがとうございます。

本日占いに行ってきました…。
変化の年だが騙されやすいので注意が必要…
思考の年だからじっくり考えて…
結婚は5年も後…
いろんなことが悪くはない…が良くもない…

自分を過信しているところがあったのでしょうね。
すごく人生つまらなく感じちゃいました…

占いって何なのでしょう…
Posted by 福山 at 2010年01月13日 15:47
阿部さん、みなさん

今日もいろいろなコメントを感じつつ、傍らで夕景をたのしんで
おります。

目覚めっていろんなプロセスがあるんだなぁとみなさんのコメントを読みつつ感じております。

ある日、びっくりするような形で「ガーン」と目覚めちゃう方
あまりにもスローで微小な目覚めを積み重ねてて、もぅ目覚めてるのに気づいてない方

やっぱり「目覚めはこれだ!」って自覚しないと・・って思うエゴくんが私にはべったりついてました。

が、ある友人から自分の見たくない欠点らしきものをズバッと指摘され、エゴくんとの葛藤に疲れ果て、降参~(*_*)って受け入れつつあった時、ある本を読んでてふと目にはいった「物質は一時的な形」。

その直後、アハ体験に似た感覚につつまれました。

なんだか急に全て滑稽に見えて、ニマニマ笑ってました。
自分の周囲が全て映画のように見えた・・。

で、自分とおもってたものが、「空(くう)をつかもうとしてるビニールシート」に感じ、そのビニールシートが無くなって、全体に流れ込む感覚・・。

これが目覚めかどうか・・正直なところ、私、ぜーんぜんわかりません(^^)

瞑想も今はしてへんし、常に恐れでいっぱいやし、経済的なことで悩みいっぱいやし・・。

ただ、体感として残ってるのが、あまりに近すぎて見えへんってこういうことか・・っていう気づきのインパクト。
で、何が変わったか・・今までの「視点」だけです。

劇的に生活が変わったわけでもないし、状況が好転したわけでもない・・。阿部さんがおっしゃる「ただ、いまここに在る」ってことだけでした。

言葉には限りがあって、曖昧で・・。本当に表現って難しいです。

そんななか、阿部さんが日々表現されている「いま、ここ」が
私を含めたこちらのブログに訪れた方が、それぞれの身体を使って体感されているってこと・・ものすごいことだと改めて思いました。

なんだか、脈絡なく長々とコメントしてしまってごめんなさい
m(__)m
Posted by めーやん at 2010年01月13日 17:03
こんにちは。

遠方よりのアップありがとうございます。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

私は今、ちょっとしたアクシデントで骨折中なんですが
このアクシデントで気がついたことがあるんです。
なんていうか表現が難しいのですが
時間が止まっている、というか
踏み台から落下する時のスローモーションが忘れられなくて
落ちていく先の床が近づいて来るというか、
落ちて行きながら(たいした高さでもないし、たいした時間でもないのに)
ただ事は起きているという認識があった、、、
自分がここにいて床の方が近づいて来る、、、
ようするに、いまここ、とはこういうことか、と、、
(なんか違うかも、ですけどねえ、、、)

今、思えば、親が認知症になったことは
記憶を持ち運ばなくても生きていけることを身を持って示してくれたのか、とか
車上荒らしにあった時は、金銭や物欲への警鐘だったのか、とか
他にもいろんな試練を与えてもらいましたが、
今回の骨折が集大成であってくれたらいいなァ、と思っています。
この骨折でさらに良かったのは、幸せのハードルがさらに下がったことです。
ギプスが取れて入浴できた時は本当に幸せでした。
足が気になって寝付きが悪いときもあるのですが(それはそれで思考と
瞑想を行ったり来たりでいいんですけどね)、目を開けたときに
明るくなっていると、ああ眠れたんだと(3、4時間くらいですが)
それでも本当に幸せを感じています。
最近、時間も景色も本当にゆっくり過ぎて行くのも感じますしね。
あの落ちていく瞬間だけでなくずっと止まっててくれたらいいのにな、と
思います。
まだまだまだらな状態なんでしょうね。
瞑想も浅いので深く入れたらいいなあと思います。
長くなってすみません。

今日もありがとうございました(ペコリ)。
Posted by とろりん at 2010年01月13日 18:47
とろりんさんへ

一時期体調を崩していたのですが、
だいぶ良く成ったので、調子こいてコメントさせて頂いています。


>この骨折でさらに良かったのは、幸せのハードルがさらに下がったことです。
ギプスが取れて入浴できた時は本当に幸せでした。
足が気になって寝付きが悪いときもあるのですが(それはそれで思考と
瞑想を行ったり来たりでいいんですけどね)、目を開けたときに
明るくなっていると、ああ眠れたんだと(3、4時間くらいですが)
それでも本当に幸せを感じています。


つい先日、emanonさんにもお世話なコメントをさせて頂きましたが、
本当にそういう事だと思います。

”そういうことに気づく事ができるように成る事” が
ある意味での ”悟り” だと思います。

私が言うのもなんですが、皆様、ご自身を小さく見せ過ぎだと思います。

勝手にそう思っているだけだと思います。

おおもと はみんな一緒です。

毎度有難うございます。
Posted by 日光東照宮 at 2010年01月13日 19:52
元気です♪
Posted by 檸檬 at 2010年01月13日 20:59
阿部さ~ん、日本寒いで~す。ハートはホット、ホットでいきましょう!

いつもは、大まかな下書きをしてから入力をしていますが、本日は思いつくまま書き込みを致します。お許しください。

黒木さん。

阿部さんの黒木さんへのコメント、魂で受け取っていますか?思考で受け取っていませんか?

阿部さんは、最小限の言葉でコメントしていると思います。

黒木さんは、目覚めていらっしゃいますので、ご自身のブログをつくられたら、黒木さんの悟りの中で、ますますご活躍されると感じます。

感謝。
Posted by のぶ at 2010年01月13日 22:21
日光東照宮さんへ

コメントを頂きありがとうございます。
阿部さんと黒斎さんのコラボCDの中の黒斎さんの言葉に「私は悟っているのか?」と問う人には「悟っていない」と答える、という場面があって…。
阿部さんや黒斎さんのように劇的なシーンでその確証を自分で持てれば、自信ある態度もとれるのでしょうけどねェ。
ちょっとした気付きはいろいろありますが、どれも確証までには到っていません。
だから、小さく見せている、なんてことはなくて、ホントにそのとおりのことなのです。
いつか阿部さんのコメントの中に、緩慢な悟りもあるかも、と書かれていたことがあって、それなのかなァとは思ってるんですけどね。
女は、妊娠、出産、子育てを体験することができますし、食物を体内に取り込む、等ということにも日々関わりますので、命の不思議、命そのもの、を考えたり感じたりは男の人より数段多いのでは?と思います。
なので、日々気付きを得ていれば、劇的!な出会いは難しいのかもと思いますね。
で、もういいや、と手放したら、今回の落下を体験するに到りました。
でもまだ、これだ!っていうのをどこかで望んでるフシもある(笑)。

長くなってすみません。
阿部さん、コメント欄再度お邪魔さまでした。
ありがとうございました。
Posted by とろりん at 2010年01月14日 00:17
阿部さん 忙しい中いつもメッセージをありがとうございます(^^)。

思考の迷路の中で迷っているとき、右に行っても左に行っても大差はないのに記憶の奥から正解を探し出して選択。そしてまたすぐに別れ道がきて同じような選択をする。正しいはずなのにたどり着かずに迷うばかり。。。疲れ果てて、結局迷路の中には答えはなく次元を超えなければならないのだと気づく。”答え”は自分がイメージしているようなものではなく、思考・想像を超えたところにある のですね?

思考をとめることができればいいのでしょうが、私には難しいので瞑想で思考との距離をとることをしています。まだまだ雑念だらけの瞑想ですが、瞑想で雑念だらけの自分に気づく時間をもつことがいいように感じます。

日々の些細なことに喜びを見い出すことができるのは”幸せ”だからでないでしょうか。
もしそう思えないのであれば、”答え”を求めればよいと思います。
”強く願って執着しない”、”人事を尽くして天命を待つ(天命に従う?)”という姿勢でいきたいです。
Posted by kyu at 2010年01月14日 02:06
のぶ様

コメント有難うございます!

現在、思考中です!(笑)

黒木元広 拝
Posted by 黒木元広 at 2010年01月14日 10:52
日光東照宮さま
小倉太郎さま

コメントありがとうございます。

もう少し考えてみたいと思いました。

ありがとうございました。
Posted by emanon at 2010年01月15日 00:43
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