2007年05月30日
生きる目的
今日は何のために仕事して、なんのために生きているんだろう。
多くの人はそんなこと考えずに、ただ毎日を生きていたりするよね。
ある人は、よりよい生活のため、お金のため、家族のためだったりする。
もちろんそれも大切だけど、それらは全部死ぬ時に置いていかなきゃなんないものばかり。
地位や名誉や財産や愛する家族や、貴重だと思っているものが多ければ多いほど、死の間際の無念さは大きいだろう。
持っていけないんだから。
時間や命を投資して獲得した富が大きければ大きいほど、死に際してはそれらに対する執着がさらなる苦痛をもたらすことにもなりかねない。
それじゃあ、死ぬ時に持っていけるのものは何だろう。
それは今生で学び高め、自分のものとした「徳」だけだ。
人によってはマイナスのカルマを積んで、「マイナスの徳」すなわち「悪徳」を積んでいく人もいる。
「徳」は死後の平安や喜びにつながり、「悪徳」は苦しみや恐怖につながっていく。
そのような観点から見れば、生きる目的はただひとつ、いかに人生で「徳」を積んでいくかということになる。
そうなると毎日の生活は、ただ生き残って生きながらえていくというものから、より高い霊性を獲得するための修業的な性格に変わっていく。
だから人生の目的は、死というものを覚悟したところに見えてくるものだと思う。
そして「死」の時は、想像しているより早く訪れるだろう。
この1年があっという間にすぎてしまったとすれば、10年30年も言うに及ばない。
自分が必ず死ぬということを自覚するのは、とても大切なことだ。
死んだらすべてがおしまいになるってことを本気で信じている人には伝える言葉もないが、死後も自分という存在が続いていくということをどこかで感じている人は、僕の話を聞いて欲しい。
僕は自分の内なる体験から、これだけは断言する。
「死」は肉体の「死」であり、存在は未来永劫にわたって続いていくということを。
したがって今生での生き方は今生だけに留まらずに、その責任はずっと抱え持って行くことになる。
それを知れば、自分勝手な生き方など許されるはずもない。
本当に幸せになりたければ、道はひとつしかない。
いかに今の人生で徳を積んでいくかということだ。
それはいつも「いまここ」から始めていくことなので、あなたが何歳でも関係ない。
次回は、「徳」を積むということに関して詳しく述べてみます。
Posted by Toshiro Abe at 13:56│Comments(1)
│心のメッセージ
この記事へのコメント
阿部さんならとっくの昔にご存知かもしれませんが、「退」という漢字を仏教的に解釈すると、
「陰で徳を積む、そしてその徳をアピールしないことに価値がある」
という意味があるそうです。
このことをアメリカの某大企業の創業社長に高僧が伝えたところ、
「なんでそんなことをするんだ?いいことをしたならしっかりアピールすれいいではないか?」
との言葉が返ってきたそうです。う〜ん、アメリカ〜ン!笑
今は込み入った事情で無職ですが、毎日16h/24hほどを仕事に持っていかれている会社員は一度三日ほど山小屋にでも籠って、
16hを賭すその意味は何なのか?金の為?名誉の為?社会の為?家族の為?家族の為なら精神が壊れてしまってもいいの?
こんなことを一度考えてほしいと思います。
そしてこうした問い掛けを全くしてなさそうな方に限って、現代社会にうまく適応して生きていそうに見える。
例え死ぬまで現代社会に適応出来なかったとしても、私は常に、こうした問い掛けを持っていたい。
そして適応出来ない者なりの生き方を、全身全霊を賭けて探したい。
本田 良
「陰で徳を積む、そしてその徳をアピールしないことに価値がある」
という意味があるそうです。
このことをアメリカの某大企業の創業社長に高僧が伝えたところ、
「なんでそんなことをするんだ?いいことをしたならしっかりアピールすれいいではないか?」
との言葉が返ってきたそうです。う〜ん、アメリカ〜ン!笑
今は込み入った事情で無職ですが、毎日16h/24hほどを仕事に持っていかれている会社員は一度三日ほど山小屋にでも籠って、
16hを賭すその意味は何なのか?金の為?名誉の為?社会の為?家族の為?家族の為なら精神が壊れてしまってもいいの?
こんなことを一度考えてほしいと思います。
そしてこうした問い掛けを全くしてなさそうな方に限って、現代社会にうまく適応して生きていそうに見える。
例え死ぬまで現代社会に適応出来なかったとしても、私は常に、こうした問い掛けを持っていたい。
そして適応出来ない者なりの生き方を、全身全霊を賭けて探したい。
本田 良
Posted by 本田 良 at 2015年11月18日 12:25
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