2024年03月18日

凄い時代

昨日の記事に頂いたコメント


>自らが「仏」たることを思い出して、更にその精神に生きる時代・・・それが「凄い時代」であると私は想う。。。 ぽよぽよ~~~。


まさにそのとおり。

このような解釈ができる人は宗教家の中にも少ないです。

彼らは釈迦や経文に恐れ入っていて、それを学ぶことが正しい姿勢だと信じているからです。

宗教家がそうなのだから、宗教にすがってきた民衆に救いの可能性はありません。


凄い時代



昨年の暮れに、宗教界のリーダーや文化人たちが集まる会に招かれて、発言の機会を得ました。

そこで


「真理を語る場に社会の肩書を持ち込んでいる時点で失格だ。

宗教こそが我々を真理から遠ざけてきた。

権威や伝統を振りかざして民衆を惑わしてきた。

この罪は大きく、いまこそ素直に謝るべきだと思う。」


というような発言をしてきました。


場は息を呑んだようになり、当然反感も買いましたが、一部の参加者からは「よく言ってくれた」という意見も貰いました。

あのような場で僕に賛同するのは勇気がいたと思いますが、これも時代が変わり出した証しだと思います。


現代は外側の権威に惑わされるのではなく、自らの仏性(ぽよぽよ)を生きる時代です。


そんな時代に生まれたことを喜び合い、まさに今日という日をぽよの精神で生きましょう。

でも人は一人だと自らの思考の世界で完結してしまう。

だからサンガが必要なのです。


宣伝するわけではないですが、今日の最後に「ぽよぽよサンガ」を宣伝して終わるとします。(笑)










Posted by Toshiro Abe at 10:50│Comments(6)
この記事へのコメント
仏という字は「ほとけ」と読めます。

「ほとけ」の語源は「放解け」とされています。

「解放される」ということです。

執着から解放されて
苦しみから解放されるということです。

インドの経典にあるムクタ、ムッタ、ムクティ、ムッティ、ヴィムクティ、ヴィムッティという言葉が解脱(げだつ)と漢訳されて
仏教では解脱という言葉が伝統的に使われています。

チッタ・ヴィムッティという言葉は
心解脱、心の解脱と翻訳されています。

心の解脱は現代日本語で
心の解放ということができます。

外の無常の現象に向かって↑
心が浮かれて喜んだり、落ち込んで苦しんだりするほど
心が不安定になります→(>_<)←

中の常住の光に向かって↓
心が安らぐほど↓
心が安定します←(*´▽`*)→

仏の教えとは
外の喜びと苦しみ両方から解放されて
中に安らぐことです◎

中に安らぐ中道が仏道です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2024年03月18日 11:00
いつも配信くださりありがとうございます。
阿部敏郎さんの仰る通りだと思います。
以前教えてくださりました思考を離れるやり方等本当にシンプルで分かりやすく素人の私にもよく理解できました。
これが宗教だと煩悩を消すだとか本当に分かりづらくて理解出来なかったと思います。
いつも教えてくださり本当にありがとうございます。
応援してます。
Posted by ぽよきなこもち at 2024年03月18日 12:26
え~~~・・・・・自分の場合、
いちいち『教え』と『実践』を『分ける必要』は無いと、
勝手に思ってます(笑)

どっちかと言うと、もし『分けている』なら・・・
例えば、
「『ああ聞いた』『のにできない』」
「『伝えている教え』『の通りに実践できていないではないか』」
↑とかなんとか『分けている、他でもない、この自分自身』に
気付く必要がある・・・

自分はそのように、勝手に感じ、思いつつ、日常の実践を続けています。

このコメントも勝手に起こってきたので悪しからず(を
つうか書いたそばからぶ~めらん刺さって目の前真っ赤ですよあはははは(爆
だからこそ大事なことだと思いつつ、このまま投稿させて頂きます・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2024年03月18日 13:40
宗教界で、何らかの役割を演じている方々の中には、ご自分の果たされている事柄を「職業」「仕事」と考えている方もいらっしゃることでしょう。

そのことを批判するわけではありませんが(職業的にそういう役割を果して下さる方は必要でしょう)、仏教においても、キリスト教においても、又、他の宗教においても、信者である一般人を教え、導く立場にある(と思われる)聖職者やお坊さんと呼ばれる方々が、皆、一度は、真の真理を求めたことがある求道者、探求者であり、その上で、ある程度の答えを得た人々であるか?は、別の話なのでしょう。

阿部さんの発言に、賛同するお坊さんもいらっしゃったようなので、人の考えや意見がそれぞれなのは当たり前ではありますが、同じように感じている人もいた、ということのようですので、目覚めの方向に向かっている人もいる、と言うことの表れなのでしょう。

阿部さんのブログを読んで、阿部さんのメッセージに触れ、理解しようと努めている人、もしくは、感化されている(洗脳されている?笑)人には、息を呑むような発言ではないと思われますが、初めて聞く人々には、青天の霹靂、思いも寄らない言葉だったのかもしれませんね。

意識の拡大は、個人差がありますので、人それぞれの反応の違いは、仕方のないことではあります。

集団と個人の違いもあるでしょう。

宗教になると、どうしても、集団の色合いが強くなるようで、集団相手だと、真の真理(ダルマ)からは遠ざかってしまうのかもしれません。

サンガというと、お釈迦様の時代から、ある程度の集団になりますが、サンガに参加する人々は、自然と、何らかの形の求道者、探求者ということになり、向いている方向が同じなので、同士的なつながりや感覚を共有できる場として、参加者間の相互作用が、求道心や探究心を強めてくれる場となるのかもしれませんね。

ヨーガでは、アシュラム(道場)が、ヨーガ修行の主な場であるとされ、ヨーガの主な教え(スートラ)は、アシュラムで学ぶことになっているようです。

しかしながら、スートラの内容は、実践した上で、スートラに対してかなり高度な理解がないと、他者に伝えられないため、スートラを解説できる人材は少ないのが、現状のようです。

お経も、唱えるだけなら、練習すれば、誰でも唱えられるようになると思いますが、そのお経の意味することを、他者に伝えることができる人材は、やはり少ないのではないでしょうか?

阿部さんが、真の真理を伝えるメッセージを、長年、発信されてきたことは、多くの人が知っています。

サンガは、人が集まれば、形成できるわけではなく、そこには、中心となる人物が必要です。

その中心となる人物により、サンガの趣きは、違ってきます。

阿部さんが付けたサンガの名称は、「ぽよぽよ」なんですね。

ヨーガでは、主に、「サット・サンガ」とすることが多いようですが、「サット」とは、「実在」そのものを示すサンスクリット語なので、中心となる人物が、本当に「サット」なのか?を考えると、気軽に名付けることは、憚れるように感じます。

どのような道を、どのように辿るか?、そのプロセスは、個人的なストーリーだと感じていますが、時には、道連れがある旅の体験も起こることがあるでしょう。

ストーリーが、どのような流れになっていようとも、個々人のプロセスを、それぞれの人が、それぞれに楽しんで、最後まで、自分の旅を楽しめると良いなと思います♪
Posted by 魂の源への帰還の旅 from M-online at 2024年03月18日 15:22
今日という日をぽよの精神で生きましょう。

ありがとうございます。
Posted by おにぎり太部留 at 2024年03月18日 22:10
阿部さんみたいな人が増えてきたら宗教界も商売あがったりだと思いますが(笑)そろそろ数千年来の大清算の局面という事ですね。

今夜の尊師と上祐さんの話を聞いて今年の春分の日が外側から内側への大きな転換点になるような気がしてきました☆

ボブさんを迎えての瞑想伝授当日が楽しみです☆
Posted by とっと at 2024年03月18日 23:02
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