2023年06月11日
いま思う事
以前は講演や瞑想会とかの前は、何かいい話の一つもしなきゃみたいな構えがあったのですが、いまはすっかり抜けました。
もう知識の分かち合いは要らない。
探求する時代は終わり、感じあう時代に入ったと思うから。
今夜もそんな時間を共有したいです。
21時から
https://youtube.com/live/qzh_ADG4JV8
阿部敏郎
もう知識の分かち合いは要らない。
探求する時代は終わり、感じあう時代に入ったと思うから。
今夜もそんな時間を共有したいです。
21時から
https://youtube.com/live/qzh_ADG4JV8
阿部敏郎
Posted by Toshiro Abe at 14:19│Comments(5)
この記事へのコメント
起こるがままに起こり続けるお話を聞かせて頂く、
そんな時間が、自分は好きです。
今晩も、よろしくお願いします。
そんな時間が、自分は好きです。
今晩も、よろしくお願いします。
Posted by ただの「自分」 at 2023年06月11日 15:16
>もう知識の分かち合いは要らない。
>探求する時代は終わり、感じあう時代に入ったと思うから。
今の阿部さんの心境を言い表しているのかもしれませんね。
心は、一箇所に留まっていることはできない習性があり、心に浮かぶことは、一定ではなく、常に変化します。
ある日、心の正体に関して、ハッキリとした理解がやっ来て、その時、探求が終わった、と感じたのでした。
思い返せば、21歳の時に、クンダリニーが目覚めてから、その正体が何なのか?ハッキリと掴めていない状態が何十年と続いて、その間、心の奥ではモヤモヤ感がありましたが、約十年前に、そのモヤモヤ感が、ある体験がキッカケとなり、一掃され、すべてがハッキリとしたのでした。
これまでに起きた二回の(霊的な)体験により、人智を超えた智慧がやって来て、心の中にあったすべての疑問が晴れました。
探求する者がいなければ、探求は起こりません。
探求は、“知りたい”という心の欲求です。
心は変化しますので、何かを求める心も変化します。
欲しいモノが、物質的なモノから、精神的なモノに変化し、最終的には、霊的なモノに変化することでしょう。
私たち人間は、肉体・精神・霊という三つの体(シャリーラ)から成る三層で構成されています。
人間の中心(ハート)である最奥の領域は、目には見えない、感じることもできない霊的な領域です。
瞑想やヨーガなどの精神的な修行は、この霊的な領域に近づくことを可能にします。
それは、長い年月をかけて、古代の人間たちの試行努力が集まり、わかりやすく体系化され、万人が取り組めるように、今に伝えられています。
少しでも、霊的な領域に近づくには、実践は欠かせません。
霊的な領域と言っても、オカルト的なモノではありません。
それは、私たち人間を含むすべての存在の「源」なのですが、宇宙という概念が浸透した科学が先行する時代には、もっと相応しい呼び方が生まれるかもしれません。
21世紀になり、人間の意識は、五感で捉えられる次元を超えて、新しい次元に突入しようとしています。
肉体(物質)を超え、精神(心)を超えて行けるのは、意識(エネルギー)だけなのです。
意識のパラダイム・シフトが、今、私たちの一人一人に起ころうとしています。
これには、個人的な努力が必要ですが、古来よりもはるかに少ないエネルギー量で、多くの成果が現れることでしょう。
自覚はなくとも、その先鋒を歩んでいる人々がいます。
道を切り開き、足跡を遺して下さった多くの先達に感謝しつつ、自分に示された道を歩んで行きましょう。
どの道を行くか?によって、時間差はあるかもしれませんが、最終的には、終着地に到達し、探求は終わることでしょう。
>探求する時代は終わり、感じあう時代に入ったと思うから。
今の阿部さんの心境を言い表しているのかもしれませんね。
心は、一箇所に留まっていることはできない習性があり、心に浮かぶことは、一定ではなく、常に変化します。
ある日、心の正体に関して、ハッキリとした理解がやっ来て、その時、探求が終わった、と感じたのでした。
思い返せば、21歳の時に、クンダリニーが目覚めてから、その正体が何なのか?ハッキリと掴めていない状態が何十年と続いて、その間、心の奥ではモヤモヤ感がありましたが、約十年前に、そのモヤモヤ感が、ある体験がキッカケとなり、一掃され、すべてがハッキリとしたのでした。
これまでに起きた二回の(霊的な)体験により、人智を超えた智慧がやって来て、心の中にあったすべての疑問が晴れました。
探求する者がいなければ、探求は起こりません。
探求は、“知りたい”という心の欲求です。
心は変化しますので、何かを求める心も変化します。
欲しいモノが、物質的なモノから、精神的なモノに変化し、最終的には、霊的なモノに変化することでしょう。
私たち人間は、肉体・精神・霊という三つの体(シャリーラ)から成る三層で構成されています。
人間の中心(ハート)である最奥の領域は、目には見えない、感じることもできない霊的な領域です。
瞑想やヨーガなどの精神的な修行は、この霊的な領域に近づくことを可能にします。
それは、長い年月をかけて、古代の人間たちの試行努力が集まり、わかりやすく体系化され、万人が取り組めるように、今に伝えられています。
少しでも、霊的な領域に近づくには、実践は欠かせません。
霊的な領域と言っても、オカルト的なモノではありません。
それは、私たち人間を含むすべての存在の「源」なのですが、宇宙という概念が浸透した科学が先行する時代には、もっと相応しい呼び方が生まれるかもしれません。
21世紀になり、人間の意識は、五感で捉えられる次元を超えて、新しい次元に突入しようとしています。
肉体(物質)を超え、精神(心)を超えて行けるのは、意識(エネルギー)だけなのです。
意識のパラダイム・シフトが、今、私たちの一人一人に起ころうとしています。
これには、個人的な努力が必要ですが、古来よりもはるかに少ないエネルギー量で、多くの成果が現れることでしょう。
自覚はなくとも、その先鋒を歩んでいる人々がいます。
道を切り開き、足跡を遺して下さった多くの先達に感謝しつつ、自分に示された道を歩んで行きましょう。
どの道を行くか?によって、時間差はあるかもしれませんが、最終的には、終着地に到達し、探求は終わることでしょう。
Posted by 人間の永遠の探求 from M-online at 2023年06月11日 16:23
学習は知識の分かち合いです。
瞑想は智慧の分かち合いです。
頭の中の知識から解放されて
胸の中の光を感じるほど
心から安らぎを感じます◎
瞑想して心から安らぐほど
自分は永遠の安らぎの光であるという智慧を得ます◎
生じて滅する無常の現象を超えて
生じもせず滅しもしない常住の光が自分であると実感します◎
瞑想は智慧の分かち合いです。
頭の中の知識から解放されて
胸の中の光を感じるほど
心から安らぎを感じます◎
瞑想して心から安らぐほど
自分は永遠の安らぎの光であるという智慧を得ます◎
生じて滅する無常の現象を超えて
生じもせず滅しもしない常住の光が自分であると実感します◎
Posted by 大空(おおぞら) at 2023年06月11日 16:25
こんばんわー。
瞑想会ありがとうございました。
土曜日くらいから、また思いの世界に巻き込まれてしまい
落ち込んでいましたが、今は静かな気持ちでいます。
あくびが出て涙が出ました。
今ここに戻れたのかもしれません。
ずっと今ここにおれたらいいのですが・・
静かで穏やかでおられますように。
安らかで平和でありますように
また参加します。
いつもありがとうございます。
瞑想会ありがとうございました。
土曜日くらいから、また思いの世界に巻き込まれてしまい
落ち込んでいましたが、今は静かな気持ちでいます。
あくびが出て涙が出ました。
今ここに戻れたのかもしれません。
ずっと今ここにおれたらいいのですが・・
静かで穏やかでおられますように。
安らかで平和でありますように
また参加します。
いつもありがとうございます。
Posted by さつき姫 at 2023年06月11日 22:07
模察と申します。
昨夜の動画配信を拝見しました。
その中で阿部さんは、いまを表す表現として「愛(あい)」とおっしゃりました。
正直に言いますと、私には「愛」という言葉はしっくりきたことがありません(苦笑)
私には、「命(いのち)」という言葉が、いまを表す言葉としてしっくりきます。
「愛」と「命」のニュアンスとして共通する意味合いは『もっとも大切なもの』です。
『もっとも大切なもの』と言っても、他に大切ではないものがある上でのことではなく、『これしかない』ということです。
『これしかない』のは、「今(いま)」です。過去も未来もありません。
「愛(あい)」、「命(いのち)」、「今(いま)」に共通してよく使われる形容動詞は「永遠」です。
この「永遠」という単語は、「過去から未来へ果てしなく流れる時間」ではなく、「時間を超えて存在すること」という意味の方で表しています。
>もう知識の分かち合いは要らない。
言葉による知識の伝達は、伝える側と伝える側の語彙・語感に必ず齟齬があるから極めて困難な作業です。(まったく伝わらないというわけではありませんが)
言葉を多く費やして指し示そうとしているのは、『もっとも大切なものとは「いまここ」だけ』、『「いまここ」とは永遠である』だけなのです。
言葉で「いまここ」に在り続けるよう誘うのですが、目的は古来から伝承されてきた坐禅や瞑想の実践に導くこと。
思考・考えを手放して「いまここ」に在り続けることこそが、悩みや苦しみから解脱する唯一の方策です。
思考・考えこそ『もっとも大切なもの』としてきた過ちを正せるのが、坐禅や瞑想の実践です。
昨夜の動画配信を拝見しました。
その中で阿部さんは、いまを表す表現として「愛(あい)」とおっしゃりました。
正直に言いますと、私には「愛」という言葉はしっくりきたことがありません(苦笑)
私には、「命(いのち)」という言葉が、いまを表す言葉としてしっくりきます。
「愛」と「命」のニュアンスとして共通する意味合いは『もっとも大切なもの』です。
『もっとも大切なもの』と言っても、他に大切ではないものがある上でのことではなく、『これしかない』ということです。
『これしかない』のは、「今(いま)」です。過去も未来もありません。
「愛(あい)」、「命(いのち)」、「今(いま)」に共通してよく使われる形容動詞は「永遠」です。
この「永遠」という単語は、「過去から未来へ果てしなく流れる時間」ではなく、「時間を超えて存在すること」という意味の方で表しています。
>もう知識の分かち合いは要らない。
言葉による知識の伝達は、伝える側と伝える側の語彙・語感に必ず齟齬があるから極めて困難な作業です。(まったく伝わらないというわけではありませんが)
言葉を多く費やして指し示そうとしているのは、『もっとも大切なものとは「いまここ」だけ』、『「いまここ」とは永遠である』だけなのです。
言葉で「いまここ」に在り続けるよう誘うのですが、目的は古来から伝承されてきた坐禅や瞑想の実践に導くこと。
思考・考えを手放して「いまここ」に在り続けることこそが、悩みや苦しみから解脱する唯一の方策です。
思考・考えこそ『もっとも大切なもの』としてきた過ちを正せるのが、坐禅や瞑想の実践です。
Posted by 模察 at 2023年06月12日 08:19
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