2023年04月21日

ループ人生

そもそも言葉では伝わらないことを言葉にしようと取り組んできました。

なぜ言葉で伝わらないかというと、言葉は徹底して二元の世界の道具だからです。

言葉は真理そのものではなく、真理について語るに過ぎません。

真理は直接体験の中にしかないのです。


難しいことではなく、水についての長い論文が喉の渇きを潤すことができないのと同じで、渇きについての論文を読み、議論を重ねるより、一口水を飲めばそれで決着します。


だからと言って真理への解説が無意味だとは言いません。

それは真理に至る地図のようなものだから。


ループ人生


しかし間違った地図を頼りにしていたら、いつまでたっても目的地に到達することはできません。

だから

「ここだよ」

と宣言するのです。


真の救いとは、どこかにたどり着くことではなく、最初から「ここ」にあったことを見抜くことです。

間違った地図は、「いつかどこか」にユートピアがあると説きます。

その地図を描いた本人が行き着いていないのに。


行き着くわけがありません。

そんな場所はないのだから。

「ここ」以外に存在は無いのです。


この声明は正しい地図です。

でも地図に過ぎない。

「そうか、ここしかないのか」と頭で分かっても、「ここ」への直接体験がなければ道に迷ったままです。


真理が分からないのは、あまりにも単純だから。

何一つ隠されずに、いまもここで明らかです。


人類の集団催眠は、こんな単純なことから目をそらさせています。

そしてさも重要な真理がどこかに隠されているかのように振舞います。


多くの人は希望の中で生きているので、「いつかどこかに」という地図が大好きです。

希望を抱えたまま生きて最後を迎える。


もう何千年も同じことを繰り返したのだから、これ以上先延ばしにすることはない。


「ここ」への直接体験を「いま」することしかありません。




真理は「いまここ」です。












Posted by Toshiro Abe at 10:30│Comments(9)
この記事へのコメント
色がないことを言葉で「透明」と言います。

音がないことを言葉で「静寂」と言います。

動きがないことを言葉で「静止」と言います。

文字・絵がない紙を言葉で「白紙」と言います。

物体がないことを言葉で「空間」と言います。

想念がないことを言葉で「空(くう)」と言います。

言葉がないことを言葉で「沈黙」と言います。

苦しみがないことを言葉で「安らぎ」と言います。

言葉は理解と誤解の両方をもたらします。

自分が言葉を超えている永遠の安らぎであるという真実は
自分で実践して、実体験して、実感することが大切です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2023年04月21日 10:40
阿部さん、今日も有難うございます!カワヒラ君の本を読み直し、気付いたことがあります。あの日の私は、身体が冷えていただけではなく、心も冷えてました。そんな私に、あの野良猫ちゃんが、いきなり膝の上に乗ってくれて、心地よい重さと温もりで、私が温められていました。有難い体験となりました。 今日のメッセージより、感じたこと。
もう、どこにも探しに行かず、いまここに、本当の自分に焦点を当てていく、実践を続けます。現状、こんな感じです^_^メッセージ、お待ちしてます!
Posted by すみこん at 2023年04月21日 10:55
>だからと言って真理への解説が無意味だとは言いません。
>それは真理に至る地図のようなものだから。

そうですよねぇ~。
『この渇き』を無くす方法を知るためには、
>渇きについての論文
↑とかが必要なこともありますもんね~。

>しかし間違った地図を頼りにしていたら、いつまでたっても目的地に到達することはできません。
うわそれは大変ですね、いつまで立っても『渇いたまま』だなんて
ミイラにはなりたk・・・ミイラでもいっか?(を

>だから
>「ここだよ」
>と宣言するのです。

そうそう、たった今『ミイラ』なら『ミイラ』でおもしr 凹rz
↑なんてボケは置いといて、
自分の場合、この例だと『渇いてる』なら『渇き』に『お任せ』してますね。
そしたら『渇き』が勝手に『どうにか』しようとしてくれます。
どうしようもないとわかれば、勝手に諦められます。
そこまでの『渇き』の経験は無いですが、そこまでの『呼吸困難』ならあります。
その時も、必死に息を吸おう、吸おうと『抵抗し続けて』いたところ、
「あ、もうダメかも」と『諦め』かけたところに、
「吸ってだめなら吐いてみれば?」と思考が起こってきて、
なので必死に吐いてみたら、『吐いた分だけ』空気を吸えて、
今こうして駄文を書けています(笑)
でないと上り坂の途中で倒れてたでしょうね~。
まぁどっちにしても
「たった今、生きたいように生きているし、生きたいように生きた」
とは思えてますけどね。
何しろ、呼吸困難に陥った理由も、スピリチュアルをかじり始めて、
喘息を病院に行かず『自分の意識だけ』でどうにかするという
チャレンジの真っ最中だったので(笑)
こんなん↑が『自我』か『エゴ』か『彼方から起こってきたこと』か
なんて知りませんが、自分は、そういった区別なく、
『「たった今起こってきたこと」を眺めている』『たった今ここ』
を、常に意識するように心がけています・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2023年04月21日 11:00
模察と申します。

>真理は「いまここ」です。

真理とは、『確実な根拠によって本当であると認められたこと。』
人間だれしも、産まれた時から今日まで、一度たりとも「いまここ」以外に生きたことはないのですよね。
一度たりとも、他人の「いまここ」を生きたことはありません。

人間の人生、つまり過去の経験や知識、思想などは十人十色でどれ一つ同じものはありません。
けれども、「いまここ」しか無いという真実は、誰にも否定することが出来ません。

言葉は二元・相対の世界。
真理(絶対)を理解することは不可能。
ですから、言葉で紡がれる『思考・考え』を相手にせずに放っておくのです。
Posted by 模察模察 at 2023年04月21日 18:42
阿部さん、ありがとうございます。
Posted by おにぎり太部留 at 2023年04月21日 21:47
>真理は直接体験の中にしかないのです。

>「そうか、ここしかないのか」と頭で分かっても、「ここ」への直接体験がなければ道に迷ったままです。

>「ここ」への直接体験を「いま」することしかありません。

>真理は「いまここ」です。

阿部さんが目的地は「ここだよ」と宣言された「地図」がどのような地図なのか?は、詳細にはわかりませんが、多くの指導的立場を表明されている方々は、自分が辿ったプロセス上で、他から受けた指導やヒント、共感する教えを元に、目的地を明確にし、そこに達するために、それまでの工程(プロセス)で必要とされる準備として、自分で試して効果のあった手法や訓練法を明確にして、指導されるのでしょう。

きっと、それぞれに、何らかの根拠や理由があって、ある種の宣言をされ、目的地を設定し、そこに至るのに必要なメソッドを明確にして、活動されているのでしょう。

ヨーガの場合は、ある”体験”が起きた後に、他者への指導を始める方々が多いようで、古今東西、ヨーガの世界で「聖者」と呼ばれ、指導的な役割を果たされた方々に、共通して起きているある”体験”があります。
それは、ヨーガで言われている”ニルヴィカルパ・サマーディ”(無分別三昧)です。

”ニルヴィカルパ・サマーディ”とは、どのような体験であるのか?は、体験した人にしかわかりませんので、他者が、その体験を頭や言葉で理解することは、不可能と言えますが、真の指導者は、”ニルヴィカルパ・サマーディ”が生徒に起こるように、そのために必要な準備を整えることができるようにと、段階を追って、個人の進み具合に合わせて、指導することができることでしょう。(実際に、そのような指導的役割を果たされた多くの方々が、いらっしゃいます)

真の指導者は、己の内に(内在神として)いらっしゃるのですが、最初の段階では、外側の世界にいる指導者を必要とする人々が多いため、そのような人びとには、肉体を持った指導者が必要です。

「真理」とは何なのか?それさえもわからない段階では、「真理」について(智識として)知ることから始めなくてはならないでしょう。

最初の「真理」についての耳学問的な「声聞」の段階を経て、次の段階として、実際に、その「真理」を身を以って理解するために、「真理」を「直接体験する」というプロセスが、一般的な道と言えるでしょう。

「真理」が、いつまでも、「知識」のままでは、生きる上で何の役にも立ちませんし、そもそも、「真理」は、学ぶ「学問」ではありませんので、「真理」が「知識」で終わってしまわないように、頭ではなく、心身を使う何らかの方法を実践することが必要と言えます。

インドで「大聖者」として知られているラーマ・クリシュナは、、「人間は、ミルクについて(知識として)語ったり、議論したり、知識を得るために、生まれて来たんじゃないんだよ。ミルクを飲んで、ミルクを味わうために、生まれて来たんだよ」という趣旨の言葉を弟子たちに語っており、実際、彼は、「真理」についての智識も持ち合わせていましたが、「真理」そのものを体験し、味わうことが歓びだと語り、「内在神」としての「神」について語り、集まって来る人々は、識字率が低い人々が多かったこともあり、実践として、バクティ(神への信愛)マールガ(神への絶対帰依)の道を説きました。

最終的には、どの道も、目的地に通じています。
どの地図も、その人にとって必要だから、その人の前に現れたのです。
目の前に広がっている地図の通りに、示された道を辿ってはみたけれど、自分が求める目的地ではなかった、というようなことも起こるかもしれませんが、それも、必要だから起きたのであり、十分に学んだ後は、また、新たに歩み始めるために、その時の自分が辿るに適した新しい地図が現れることでしょう。

目的をもって歩むことは、無限ループではありません。

すべての修行、探求は、個人に起きている「ループ人生」からの「解放」と真の「自由」のために起きているのですから。

途中で行き詰まっても、過ちから学び、再び、立ち上がり、新たに歩み始めることは、生きている限りは、十分可能ですので、先ずは、やってみることです。

己の直感を信じて、やってみることで、開かれる道もあります。
やってみないことには、何も変わらないでしょう。

「直接体験」が起こるには、それが起こりやすい「土壌作り」が、何よりも(もちろん、知識よりも)大切なのです。
Posted by The Path for Liberation from M-online at 2023年04月22日 01:06
コメントを読んでると


もう、知ってる人もいれば
知りかけてる人もいて

知らないというか忘れてる人もいて


そして俺もまだ今ここを忘れたままの人間なんだけど


今日はなんだか気持ちが良い
Posted by としあき at 2023年04月22日 09:45
阿部さん、おはようございます。

昨日、2時間半くらいかけて山の中を延々と歩いていました。

入山した時は「新緑がきれい」「鳥のさえずりが気持ちいい」と思いましたが、延々と歩いていると もはやそれが当たり前のことになってきて、途中から空腹で考え事すらしなくなり、ただただ歩くことに集中していました。

下山した直後に見つけたコンビニで買ったコーヒーとサンドイッチの味は格別でした。

そして、帰るために電車に乗ったら、車内は帰宅中の学生でいっぱいでした。みんなスマホに夢中です。この光景もまた良しと思いました。
Posted by t0shiyuki at 2023年04月22日 11:44
阿部さん、こんばんは。
お元気ですか?

人は自分が思った通りの世界を作って生きてるんだなあ、とよく思います。
オレ幸せだなあ、こんなチャランポランがこんなに幸せを感じてるなんてホント、運がいいなあ、って思ってきょうも一日が終わる。
世界は書き割り、人生はお芝居。私がよく思う言葉です。
過去はもうない、未来はまだない。一瞬の連続が永遠。
フトンを敷いてさてお風呂入ろう、さあ寝よう、見れば私のフトンの上には犬が大の字になってイビキかいてます。
そおっと、「失礼します、少し場所空けてください」とお願いしながらフトンに入る。
幸せだな、「いま」幸せならそれは幸せが永遠なのだな、と思います。
Posted by 南部鉄瓶 at 2023年04月23日 01:01
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