2022年11月27日

Welcome to the real world.

何年も前の話ですが、とある場所で初めて奇跡のコースの内容を知りました。

内容と言っても、レッスン編の一日目だけですから、膨大な情報量を持つ「奇跡のコース」全体から見れば、わずか数千分の一にもなりません。

でもその一行を読んだだけで、この教えが真実であることが分かりました。


そこには、

目にするすべてのものに

「これには何の意味もない」

と言おう、というようなことが書かれていました。


まさに真実です。

このことを言い続けて、実際に何の意味もないことが見えてくれば、その延長上でストーリーが消えます。

ストーリーとは、自分がいまどんな人生を送っていると思っているかの全てですが、それが消えていくのです。


自分が抱えている苦悩のすべては幻想だということを、このようなアプローチで導こうとしている姿勢に共感を持ちました。


僕が幸運だったのは、最初に知ったのが香咲弥須子さんだったこと。

あとになって香咲さんがNYで活躍する先生だったということ知るのですが、あまり時間をかけずに意気投合しました。

その後、僕と円融寺の阿(おか)さんとの対談講演の時、彼女が飛び入り登壇することになって、その時の彼女を見て、「この人ホンモノだ」と確信しました。

ホンモノというのは、真理を体験的に知っていて、それを自分の言葉で話すことができるという意味です。


香咲さんが飛び入りしたこの時の動画は、ZENサンガの会員募集の時に何度かご紹介したから覚えている方もいるでしょう。


Welcome to the real world.


奇跡のコースとは、ズバリ、夢から目覚めて「いまここ」に再誕するためのガイド書です。

まさに禅と同じ目的を持っています。


そしてどちらも、目覚めはいま起こるという態度でいます。

しかも両方ともに教義ではなく実践なのです。


後で知るのですが、奇跡のコースを学ぶ西洋人中には、禅に関心を向ける人が多いそうです。


1年前に向禅師と香咲弥須子さんと僕の3人で「禅と奇跡のコース」というトークイベントをしました。

大好評だった理由は、洋の東西で違うアプローチをとりながら、同じ真理に導こうとする共通の思いが伝わったからではないでしょうか。


12月5日19時から、「禅と奇跡のコースⅡ」を開催します。

詳細はコチラです。




今夜21時は瞑想会です。

アドレスはコチラ










Posted by Toshiro Abe at 10:46│Comments(8)
この記事へのコメント
真実とは何でしょうか?

真実とは
生じて滅する無常の現象を認識している自己は
生じもせず滅しもせず常に存在していることです◎

生じて滅する無常の現象(頭の中の五感と想念)に向かうほど↑
生じて滅する無常の現象の存在感が強くなり↑
苦しみと喜び両方の存在感が強くなり、騒々しくなり、不安定になります~~~

生じて滅する無常の現象(頭の中の五感と想念)は本質的に不安定です~~~

生じもせず滅しもしない常住の自己(胸の中の光)に向かうほど↓
生じもせず滅しもしない常住の自分の存在感が強くなり↓
安らぎの存在感が強くなり、静かになり、安定します―――

生じもせず滅しもしない常住の自己(胸の中の光)は本質的に安定しています―――

生じて滅する無常の現象(頭の中の五感と想念)は実在ではありません。

生じもせず滅しもしない常住の自己(胸の中の光)は実在です◎

「アッタ ディーパ

 自己を帰依処としなさい。

 自己を灯明としなさい。

~ 仏陀の言葉 ~ 」
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2022年11月27日 11:10
阿部さん、こんにちは

たしか、「七福神」のメンバーの人に、阿部さんが言ったんだったかな

「人生にゴールはない。あるとすれば『いま』がゴールだ」

これにすごくそのメンバーの人が共感した、っていうエピソード(だったと思う。違ってタラゴメンナサイ)

いまがゴール、つまりゴールという瞬間が連続してずっとある、という意味に私は捉えてます。

とある、ここに集う人にはあまり縁がないかもしれない(笑)A■業界の伝説の監督(”全裸”の人の方ではアリマセンよ)の著書に「”一瞬の連続が永遠”です」って書いてありました。この人も瞑想を日々日常に、あたり前に実践してる人です。
どんなアプローチでも同じ山の裾野にいる。あとは自分次第。そして誰にでも、本当は最初からぜんぶ与えられている。
そんな気になります。
Posted by 南部鉄瓶 at 2022年11月27日 11:57
たまたま最近、

>「これには何の意味もない」

について、ピンと来はじめているようです・・・・・。

あーだこーだと思ったり感じてる、それら全て・・・・・
「またズーンと思い感覚になってる」だとか
「また妄想してた、結局こう繰り返すだけかなぁ~」
とかなんとかあーだこーだ思ったり感じてる、それら全て
『↑と、たった今思ったり感じている、
 他でもない、この自分自身』が

           ただ在るだけ

と気付いてきました。
『他でもない、この自分自身』『のエネルギー』が、
解放される、その度に。

ほんと・・・そうと気付いてしまえば当たり前過ぎますが、
『意味』が『あろうが』『なかろうが』

            ただ在る

って、ただそれだけなんですよねぇ~・・・・・。
『意味』が『ある』とか『ない』とか『後付け』しているだけで・・・・・。
Posted by ただの「自分」 at 2022年11月27日 12:10
人生は、コース(進路、進行、過程、成り行き)そのものですものね。

そして、「奇跡の」と付くのは、人生をそのように考えていない人には、意外で新鮮な響きがあり、改めて、自分の人生をそのような視点から眺めることができるようになれば、人生の意味が、違ってくる可能性があると感じます。

誰の人生も、どのような人生も、奇跡に満ちていますし、奇跡の連続です。

数十年前は、そう思ったり感じたことはありませんでしたが、今は、そう確信しています。

人生に意味はない、というのも(究極の真理においては)真実ですが、同時に、ストーリー展開には、意味がある、ということを痛切に感じています。

ダルマが支配するこの世界では、ある一定の法則のもとに、ストーリーは展開しています。

現象と究極の真理は、相反する世界なので、現象の一つとして存在する私たちには、究極の真理は、簡単には理解できない世界と言えますので、その違いを受け入れることができるブッディ(智慧、理性)が必要です。

永遠、無限、不変。

究極の真理に至る道(コース)は、人に個性や好みがあるように、数多く存在しています。

自分が歩きやすい道を行けば良いのです。
そして、多分、その道は、精神的傾向(ヨーガでは、プララーダ・カルマが関係していると言われています)によって、決まっていると感じます。

どのような人生であっても、すべての人生は、「奇跡のコース」。

そう思えるようになってからは、人生の意味が変わり、ここかしこ、いたる所に、神の愛を感じるようになり、自分が生きている世界が変わってしまいました。

教師役の人にも、いろいろな人がいますし、教えてくれる手法や方法も、それぞれですので、自分に合った先生、メソッドに出会うことも、コースの中の出来事とは言え、選択によっては、学習における進み具合が異なってくることでしょう。

最終的には、内なる神が、導き手となり、内側へと引き込む力として現れるため、探求者は、自然と究極の真理へと誘われることでしょう。

人間の形と名前を持った存在は、人間を外側から内側へと誘うことはできますが、その力だけでは、究極の真理が明らかになるには、不十分でしょう。

一般的には、真の自己である内なる神が現れる(真我実現)までは、外側の教師が必要である場合が多いと言えますが、中には、必要でない場合もあります。

“真の自己である真我(アートマン)は、神そのものである”と明らかになるまで、探求の道は続くことでしょう。

精神的な探求という意図を持って歩んでいなくても、人生は、“奇跡のコース”と言えます。

究極の真理を知っていようと、無かろうと、誰の中にも、真我として、神がおり、究極的には、誰もが、神なのです。

現象の“わたし”の中に、永遠の“わたし”が実在しているのです。

“わたし”は、誰か?

その答えが明らかになるまで、必要なことが起きて、進むことになっている方向へと、運命の力に誘われ、奇跡のコースを辿って行くことでしょう。

コースには、山も谷もありますが、どのようなコースであっても、希望を失わず、身体と心を通して、この世における人それぞれの“聖なる旅”を楽しめると良いですね。
Posted by 聖なる旅 from M-online at 2022年11月27日 13:38
私、常々想っていたことなのですが、、


非二元のメッセージが時に嫌われる理由について。

というか、私が嫌いな理由について。

ズバリ、信頼がないから。


私が傷や痛みだとすると、真理の次元からは存在をしていない、幻想だということは解るのだけど、


この次元ではその幻想である私や傷や痛みが存在をしていて、それを癒したいわけだから、非二元のメッセージを聴いて楽になる、癒されるケースもあるかもしれないけれど、それだけでは簡単には楽にならない、癒されないケースもあるのではないか?
(非二元のメッセージに接して感じたことを元に書いています。。)


それだけでは簡単には楽にならない、癒されないケース。。


どうしたら癒されるのかは、よく考えてみたい?、感じ取ってみたいです。。


共感がないからね。非二元のメッセージには。

いきなり高次元に、、いきなり高次元になんて言えばいいかな。。

いきなり高次元に連れて行かれるっていうか(笑)

この世からあの世に帰るのって、、

というか、私(傷や痛み)を通してこの世でさまざまに体験が出来るだろうからね。それを癒すのが人生というところ、あるだろうからね。

傷や痛みからすると、丁寧に扱って欲しいということなのかも。非二元のメッセージで、掃除機で吸い込んでしまうような、高速のお掃除はやめてねみたいな、、

傷や痛みを高速で片付けないでねみたいな。。場合によったら、そういう私(傷や痛み)もいるのかも。。


それがほら、過去生での思い残しとか。。それを癒したくて今生やってきて、思い残しを持ってしまった相手と今生でこそ癒したいって望みがあるとかね。(または思い残しというエネルギーを癒す機会を望んでいるとか)解らないけど(^_^)

解らないけど、解らないからミステリー、神秘的、なんか、ロマンス(^_^)
Posted by すずめ(スズメ改め) at 2022年11月27日 15:40
『しかも両方ともに教義ではなく実践なのです。』


ならば禅の実践を日常に取り入れたいよね。

禅の実践を取り入れることもままならないのに、奇跡のコースを紹介されても入ってこないよね。


逆に、禅の実践よりも奇跡のコースを実践したいと想う人は、奇跡のコースと縁があるのかもしれない。


禅の実践とは?


瞑想と併用したいよね。おそらく。。

日常生活と瞑想で終わってしまって、禅を取り入れるまでになかなか至らない、至らなかったかも。。(禅サンガを振り返り)


お三方の話を聴くことがあれば、禅の実践について、少しは何か解るかな?


まあ私は。。あべさんのそばにいたいだけだったけどね。

ほんとうなら、ただ共に在れるだけでいいっていうかね。。


ただ手が繋げたら、ただ手を繋いだら、ただ抱き締め合えたら、抱き合えたら、それ以上は要らないよね。


ご飯を食べることばかりに一生懸命になって(物質的に豊かになることばかり追い求めて)

いまここで共に在れることの奇跡を、感じてこれなかったよね。

外側ばかりに幸せを追い求めて、その手を握ることさえなかったよね。

父との関係で悔やまれること。。その手を握ることがなかったこと。

思い切り、抱き合うことのなかったこと。
Posted by すずめ at 2022年11月27日 20:15
>そこには、

目にするすべてのものに

「これには何の意味もない」

と言おう、というようなことが書かれていました。


まさに真実です。

このことを言い続けて、実際に何の意味もないことが見えてくれば、その延長上でストーリーが消えます。

ストーリーとは、自分がいまどんな人生を送っていると思っているかの全てですが、それが消えていくのです。

・・これには何の意味もない?
そうなのですね。
そうなのですか。
これには何の意味もない。
本当はそうなのでしょうか。
サッカー日本の負けでしたが、之にも何の意味もない?

自分の(他者の)抱える苦悩のすべては幻想?
静かな何もない雪の夜。
何時もありがとうございます。
Posted by さつき姫 at 2022年11月27日 21:36
>すべての人生は、「奇跡のコース」。

す。素晴らしいコメントです!

宇宙からわたしらを見れば・・・全部を与えて個人と言う独立した意識迄体験させているのに・・・なんと、不平不満と戦争と闘争と憎しみに辟易とした人類を勝手に創り、勝手に想い込んだいきものであることか・・・至福さが服を着ているという奇跡に、気がつきなさいよ・・・なんて思ってるかもしれませんね(笑)
Posted by AQU@ at 2022年11月28日 13:48
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