2021年10月31日

幻が消える時

昔のノートに

「これからやりたい活動は、みんなが今までの人生を全肯定するサポートだ」

とありました。


なるほど、とてもいい視点だと思います。


多くの人の人生には後悔や罪悪感のようなものがあり、人との比較によって自分の人生を取るに足らないもののように感じていて、そこには嫉妬やあきらめが巣くっていたりします。

もし人が己の半生を全肯定できたとしたら、いまの存在が輝きだすことでしょう。



基本的にはいまも同じように考えています。

ではそのためにはどうしたらいいか。


そのひとつは、まさにいま、無上の喜びに包まれることです。

いまが幸せならば、いまに至るすべての流れを全肯定できます。

悲しかったことも苦しかったことも、その出来事のおかげでいまがあるからです。


一度でもそんな経験をすれば、その余韻が残り続け、自分のありかたに違いを作り出すことでしょう。

でもまた時間の問題で、元に戻ってしまうかもしれません。


なぜならそこには理解がないからです。


ひとたび深い理解が訪れれば、その瞬間に意識が変容し、それは永続していきます。


では、何を理解すればいいのか。


それは

人生という名の、各自の大河ドラマなど存在していないという理解です。


人生の物語は単なる思考であり、現れては消えている刹那的な現象です。

存在しているのは唯一、まさにいまここの「これ」だけです。


幻が消える時


この気づきの一撃が、人生という幻を消し去り、同時に「私」という幻も消し去ります。

そのとき永続する安らぎと至福が香り出すのです。



人の苦しみの大きさは、その人の思い込みの強さに比例していると感じます。

毎回同じ着地点に帰結しますが、まずは、あるがままのいまに落ち着くことです。


あなたが存在の中心に帰っていったとき、実際には何も起きていなかったことを知ることでしょう。

そしていままでも、いまも、ずっと救われていたことを知るのです。


この真実は、誰にとっても福音になります。



・・・・・・・・・・・


今夜も21時から瞑想会をします。

https://youtu.be/R18vEcmfX5g










Posted by Toshiro Abe at 12:40│Comments(10)
この記事へのコメント
カルマ(人の行為)は、ダルマ(自然法則)。
自分がしている行為、自分に起きたこと、それは、個人のダルマ(カルマ)によって生じた結果と見ることができます。(仏教においても、釈迦は「縁起」(因果)を説いた、と言われています)

あらゆる現象は、常に、ダルマによって展開しており、それを人は"あるがまま"と呼んだりしていますが、"因果の法則"が、形として現れた結果であり、それ以外は起こらないことがわかると、生きることが、以前よりも楽になったり、自分やこの世に起こることを、別の視点から眺められるようになる、と感じています。

無我は、無我の体験が起こらないと、自我の中に、無我への納得や理解が起こることはかなり難しいので、自己の存在やこの世にリアリティを感じている間は、自分を含むあらゆる現象は、ダルマによって展開している、という"認識の主体(わたし)が存在する"客観視は、認識しているリアリティを非実在として否定しないため、自我には受け入れやすいと感じています。

それに、実際に、現象界は、ダルマ(因果の法則)に則って動いていますので、"あるがままの世界""あるがままの命"は、この次元においては真実なのです。
(但し、究極の真実は、無(自)我であり、真の自己である真我は、この現象界の存在ではありませんので、ダルマには影響を受けません)

アドヴァイタ(不二一元)・ヴェーダンタのおいては、完全なる客観視(観照者の視点)は、"真の自己である真我だけが実在である"(=無我)という究極の真実の一歩手前の自我の状態と捉えられています。

映画を観るように、世界で起こることを眺めている観照者としての"わたし"。

その観照者としての"わたし"が消えると、映画も消えます。

映画は、観照者が存在することによって、存在することができるのです。

この観照者(自我)を在らしめている力の源が、本当のわたしである真我であり、真我だけが実在している、というのが、究極の真実なのです。

この究極の真実からすると、真我以外は、"わたし"も"この世"も幻(非実在)ということになります。

あるがままの世界、あるがままの命は、真我が実在する証として、顕れていると見ることができます。

人間として在る間は、あるがままの命を生き、あるがままの世界を享受できますが、人生には時間制限がありますので、誰もが今この瞬間の人間体験を、心から楽しめると良いですね♪
Posted by 永遠のダルマと永遠の真我 from M-online at 2021年10月31日 14:06
阿部さん、こんにちは。僕は躁うつ病です。仕事はしていません。58になりました。20~30代の頃はデザイン事務所で活躍。随分仕事をさせていただきました。うつ病になり退社。何度も入院し今に至っています。阿部さんのブログを毎日楽しみにしています。よくあのまま病気にならず順調に仕事を続づけられていたらと思います。戻らぬ過去。かりにあのままなにもなければと思いますが、人生の深みが違ったと思います。随分死ぬ事も考えましたが、今まで生きてこれたのは、やはり救われていたのでしょう。もうほとんど今の人生を全肯定しています。そしてこれからもなに一つ無駄がなく生きて行けると思います。今更ながら阿部さんとのご縁に感謝です。いつもありがとうございます。
Posted by 永井新吾 at 2021年10月31日 14:22
>人生の物語は単なる思考であり、現れては消えている刹那的な現象です。
最近、ちょっとづつ、でも確実に、
そんな感じになってきているように思います。
あーだこーだと起こっていると思ったり感じて、苦しかったり重い時、
意識すべきは『起こっているあーだこーだ』の側ではなく、
たった今『あーだこーだと起こっている』
『と思っている、他でもない自分自身』の側としていて、
『その自分自身』を意識できた・・・自覚できた瞬間、
『その自分自身』が解放される、そういう経験を繰り返してるうちに、
『他でもないこの自分自身』すらも、『その時々』によって違っていると
気付いてきたので。

これは(も)妄想ですが、
>存在しているのは唯一、まさにいまここの「これ」だけです。
自分はたぶん無自覚に、これ↑を『本来の自身』と感じていると思います。
なんでかって、一人称をどう言っていいか未だによくわからず、
家族関係とか、社会の立場とかもピンとこなくて、
正直「みんな一緒でしょお?」としか感じないからです。
同時に、なんでか・・・と言うより、だからこそ?でしょうか・・・
「みんな一緒」と思っているからこそ?すべての言葉や概念等に
脊髄反射レベルで巻き込まれてしまうところもあって、
ずっと、そういう自分をなんとかしたい、と思ってました。

今は、物凄く単純なことだと思っています。
『すべての言葉や概念等』に関わろうとするのではなく、
『すべての言葉や概念等』『と思っている、他でもないこの自分自身』
『だけ』
を意識するだけでいいと。
まあこれ↑も『意識しようとする』必要すらも、本当は無いんでしょうけどね。
『他でもないこの自分自身』は『本来の自身』に起こっていて、
『本来の自身』に起こっているからこそ『他でもないこの自分自身』を
感じられる・・・
・・・そんな、「色即是空 空即是色」に『在り続ける』ことができればと、
今は思っているところです・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2021年10月31日 15:17
こんにちは、阿部さん!
いつもありがとうございます。

昨日、ガイアシンフォニー第9番見てきました。
天河が撮影地の一つになっていて、柿坂宮司が映っていらしたし、斎庭プロジェクトの紹介もされていました。
いい所ですね!
Posted by センチメートル at 2021年10月31日 15:37
阿部さん、いつもありがとうございます。

阿部さんのメッセージ全てを理解することは簡単ではありませんが

阿部さんの「大丈夫、大丈夫」という言葉はいつも僕を助けてくれています。
Posted by 洲鎌直喜洲鎌直喜 at 2021年10月31日 16:31
一枚の絵を見て、小説を書いてごらん!
という課題のように…

阿部さんの写真を見て、人々の発達した脳は想像豊かに様々なストーリーを作り出す。

そんなストーリーは実在しないものなのに、それを疑うことなく、すっかりと本当だと信じている。

喝!

それでは、阿部さんとは誰か?

神による創造は完璧で、
神はもう既に私達全員を完璧な神の子として創造されています。

それ以外のストーリーは全て幻…

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年10月31日 17:49
瞑想会ありがとうございました

子供達のための学校、素敵です。子供達が自分に寛いで生きていけるようになり、それが当たり前になっていく世界、素敵になっていくと思いました

同時に親に対する教育というか、フォローというか、そういうものも出来ていったらなと思いました
ついつい被害者意識になってしまいますが、親もまた苦しいんだと思います
阿部さんしかしらないので世界のどこかでそういう動きがったら、阿部さんの活動とシナジーでもっと加速度的に家庭環境が良くなり、教育がよくなり、世界が変わっていくように思いました

子供の頃に阿部さんの学校を受けて生きたかったなって思う
絶対死んだらもう生まれ変わりたくないと思ってたけど、そういう世界になら悪くないと感じました

私事ですが、半年前と比べて何故かがんの進行が全くありませんでした
瞑想の効果、違うかな
進行があれば痛みが増し耐えられそうになく、さらに働けなくもなりホームレスになるしかなかったので今日で死ぬつもりでした

いま、かなり心身が楽です 理由はありません
いや、進行がなかったことに対して安心したのかもしれません
延長された命、もう少し、生きたいと思います
Posted by 自分 at 2021年10月31日 22:29
あべにゃん

話忘れて下さいって言ってたけど、話返したくなっちゃうね(^^)

あれでしょ、一休禅師の宿をそこと決めなければ、踏み迷う道もなきかな?なんて歌でしたっけ。。


あの、あべにゃんとみつろうさんの唄ね。あれが同じことを指してると思うのだけど、どうですか(^^)


♪大丈夫 心配しないで

起こるすべてが きっといいこと


判断しないで 目の前の出来事を

♪♪♪~

起こるすべてが きっといいこと♪



起こるすべてが全部いいことで~

それは奇跡☆まるでね(^^)

そういう意味で、人生は奇跡のコースと思ったのですが、それと一休さんの歌と同じこと?(^^)


それとほらあれ、夢(幻想)を追い求めようとするって言ってたけど、

あの話に対しても似たようなことを想いまして、、

断捨離じゃないですけど、生きていく上で必要と思って抱えている事や物を、あえて減らしていく作業というのが、私たちの求める幸せを得ることになるのではないか。みたいな。。


言葉で言うの難しいのですが、そんなふうに想うんですよね。。

いまここに寛ぐって、何も要らないことでもあるじゃないですか。


だから、多くのことを抱えようとしなくてもというか、むしろ抱える事や物が少ない方が、命としての喜びは感じやすいんじゃないかって、そんなような感じです(^^)

それでもっと外の景色とかね、咲いている花の様子とか、木々の様子とか、目の前の人の雰囲気とかを感じるように過ごすみたいな。。

すでにあるものに目を向けてそこを慈しむような暮らし方というのでしょうか。。漠然としていますけど(^^)


抱えている事や物が多い私からのお便りでした~笑(^^)

おやすみなさい☆
Posted by すずめ at 2021年10月31日 22:55
阿部さんおはようございます。
北海道は一桁気温の曇り空です。

昨日の瞑想会ありがとうございました。
また見直してみたく思っています。
フリースクールというか子ども食堂というか夜間中学というか
其の3つをミックスしたようなものがあったらいいなーと
漠然と考えていました。

昨日の総選挙の結果に唖然‥なぜ?とかなり落ちこみ中ですが
おこることがおこった、と考えて少しでも動揺を少なくしたいです・・
でも結構なショックを受けています。

自分さん体調が落ち着いていて何よりです。
私はなかなかいまだに瞑想が苦手なのですが
少しでも体調や気持ちが落ち着いて穏やかでおられますように。

今日もいい1日に。
Posted by さつき姫 at 2021年11月01日 09:07
>いままでの人生を全肯定するサポート。。

全肯定は、することではなく、起こることと言えるかもしれませんね。

自我が、自ら自我を全肯定することは、できないように感じています。

分離幻想が消えた時、自分を肯定する自分も、自分を否定する自分も、それは、ただのマインド(自我)の産物だということが明らかになった時、命の本質に触れ、己の中で、命がただただ愛なるエネルギーとして輝いた時、己の中に、命に対する全肯定が芽生え、自分だけでなく、あらゆる人々に対して、全肯定が芽生える(生じる)ことでしょう。

私たち人間は、同じ星に住み、魂に込められた潜在的な目的を果たすために、誰もが、無意識に課せられた課題に取り組み、悪戦苦闘しながら、自分と自分を取り巻く世界を通して、自分が生じた源(純粋なる無限の意識)へと還って行こうとしている同胞と言えます。

誰一人、自分の運命から逃れられる人はいません。
大なり、小なり、起こることが起きて、人生に荒波が立つこともあることでしょう。

起こること(運命)に翻弄されて、生きるか?
起こること(運命)に巻き込まれずに、生きるか?

この選択は、人間に自由に与えられていますので、実践することで、自ずと人生の味わいは異なって来ることでしょう。

自分においても、世界においても、起こることを全肯定することは、難しいです。
しかし、それはマインドの性質ゆえに起きている結果(顕れ)であり、ただの思考なのです。
マインド(自我)を自分だと思っていることが、分離幻想なのです。
分離幻想の中では、全肯定は起こらないでしょう。
反対に、マインド(自我)の正体が、完全に明らかになった時、全肯定がやって来ることでしょう

それを、祝福、恩寵と呼ぶ人もいます。

個人(自我)が、個人(自我)を全肯定することは、構造的に不可能なのです。

そういうこともあり、人は神(の祝福)を求めるのでしょう。

自分のことは、自分が一番良く知っていますが、それでも、知らないことも、沢山あります。
否定は、本当のことを知らないという「無知」から生じていると言えます。

そんな自我に、全肯定が起こるきっかけは、一つしかないと言えるでしょう。

それは、分離幻想が消えること。

これは、自力では起こせませんが、この世に起こるすべては、ダルマ(因果の法則)によって展開していますので、因が果をもたらしますので、ひとたび種子を蒔けば、その種子は、やがて芽を出し成長し、展開の結果として、分離幻想は消滅することでしょう。(それが起こるには、時間のある世界では、時間が必要なのです)

阿部さんの活動は、多くの人をサポートしていると感じています。(種子蒔き。。的な役割と言えるかもしれませんが。。)

これからも、活動、大いに楽しんで、続けて下さいね♪
Posted by 分離幻想の消滅 from M-online at 2021年11月01日 15:04
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