2021年10月20日

思いの世界

人それぞれが、勝手に自分で作り出している思いの世界を信じていて、その世界は人によって全くと言っていいほど違います。

人間関係だけに限っても、あの人はこういう人だとか、こう考えているに違いないとか、そんなふうに人を決めつけているけど、多分それは間違っています。

そもそもその人がどういう人かとか、何を考えているのかさえも、その人の中でコロコロ変わっているわけで、何一つこうだと決めつけることはできません。

しかし思いの世界は決めつけでできています。
思いの世界

人々が作り出しているそれぞれの世界は、基本が疑いと不安でできているので、誰もが悩みや苦しみを抱えて生きることになります。

自分を傷つけたり人を傷つけたりするのも、その思いの世界が原因であり、思いの世界を後にしたとき初めて人は解放され、愛の可能性が芽生えてきます。

思いは愛を考えることはできても、愛することはできないのです。


キリストの言葉

「心貧しき者は幸いだ。天の王国は彼らのものだ」


「貧しい」という言葉を「少ない」とし、

「心」という言葉を「思いの世界」とすれば、


「思いの世界が少ない者は幸いだ。天の王国は彼らのものだ」


多分このように言いたかったのだと思います。


・・・・・・・・・・・・・


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Posted by Toshiro Abe at 12:02│Comments(11)
この記事へのコメント
模察と申します。

>思いは愛を考えることはできても、愛することはできないのです。

思いが考える愛とは。
「この人はこうだから愛せるが、あの人はああだから愛せない」といった様子で条件付けますよね。
思いとは、いまここのあるがままを条件(or定義)付けて、肯定したり(赦したり)否定(赦さなかったり)する働きです。

『いまここのあるがまま』や『起こることが起こっている』は無条件です。
無条件ですから全てが赦されています。
その様子を一言で言い表すのが愛です。

条件付けたり否定したりする働きのある思いは、愛することはできませんよね。
Posted by 模察模察 at 2021年10月20日 13:37
「わたしは平安をあなたがたに残していく。

 わたしの平安をあなたがたに与える。

 わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

 あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

~ イエス・キリストの言葉 ヨハネの福音書14章27節より ~ 」

自分を愛して
自分の心を平安にして
周りを愛して
自分の心の平安を周りに広げることがイエスの愛の実践です◎

心が外に向かって散らばるほど↑
心が騒がしくなり、苦しくなります→(>_<)←

心が中に向かって集中するほど↓
心が静かになり、安らぎます←(*´▽`*)→

愛は胸の中心に集中しながら宇宙全体に広がっている永遠の光です◎

愛があるところに平安があります◎

平安があるところに愛があります◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年10月20日 13:38
>人間関係だけに限っても、あの人はこういう人だとか、こう考えているに違いないとか、そんなふうに人を決めつけているけど、多分それは間違っています。
というより、『そのように決めつけている傾向そのもの』が
『他でもないこの自分自身』に起こってますしね~。
つまり、『あの人はこういう人だ』とか思っている
『こういう人』とは、実は『自分自身』とも言えるのです、
なんちゃって(笑)

にも関わらず、『人それぞれ』に『生まれながらの気質』というものは、
やはりあるのでしょうか?
『思い』と『気質』の関係性についての解説を期待しています。
たぶん、『気質』という『方向性』によって、
『同じ思いのエネルギー』に在っても『受け取り方』等が全く違ってくる
みたいなことな気がしてますが。
Posted by ただの「自分」 at 2021年10月20日 13:55
私の自我であなたの自我を見ます。
あなたの自我で私の自我が見られます。
自我とは倒錯であり存在しません。
すべての人の自我の奥に実存する
神の愛を見ることにしましょう。
「夢の中の登場人物は、全員自分自身です。」
Posted by チェリーボンボン at 2021年10月20日 14:42
思いがいろいろあって、辛くなってしまうことあると思う。。

私もそういう時があるから。(さっきそうだった)


どうしたらその辛いときから離れるかって、その思いを浄化していくことを思いついた。

その思いを浄化していくことが瞑想であったり、浄化とまではいかなくとも、気分転換で思いが変わったり、繰り返すようなら思い切って向き合うとか、いろいろあると思うのだけど、

その「思いを浄化していくこと」が、今現在やっていきたいことの大きな枠組みみたいなところがある。

こころが思いの世界だろうから、その心、個人のみならず全体の心まで(私達は繋がっていると思うので)、浄化する(解放する)ということが、人類に求められてるんじゃないかって、

なんか壮大な話になっちゃいましたけど、そんな視点をもってやっていけたらいいなと想います(^_^)

(というか、そう思うことでこころが落ち着いた感じでした。)


ありがとうございます。


P.S.

先日の命のイベントは、この「思いを浄化していくこと」が、「愛のちからによる癒し」という形で行われた。という印象があります(^^)
Posted by すずめ at 2021年10月20日 15:15
昨日何の気なしにAmazonプライムでめちゃ久しぶりに見た「ホノカアボーイ」。
チャーミングなお爺ちゃんがオバケになって「所詮、体は言葉と思いのお家だよ♪」って。
ウン、きっとそうなんだろうねぇ〜♪
思いだの何だの、この体というお家で湧き上がっては消えてゆくものですね。
Posted by はなこ at 2021年10月20日 18:48
>思いは愛を考えることはできても、愛することはできないのです。

少なくとも、この地球上では、私たち人間だけが、「愛」を体験し、理解できる唯一の生物と言えるかもしれませんね!

人を愛する、人を愛さない、人から愛される、人から愛されない、など、「愛」の体験には、いろいろありますし、自分の中にある「愛」の表れ方や表現方法にも、いろいろありますし、体験を通して「愛」を学ぶことも、すべて人間だからこその体験と言えます。

「愛」は、対象あってこその体験であり、観念ですので、この二元世界においてのみ体験できる人間的な体験でもあり、それ故、人間は、どんな形であろうとも、対象としての「愛」を求めるのかもしれませんね。

私たちは、ミルクがどんなものか?を知識(観念)として知るために、この地球に人間として在るのではなく、ミルクそのものを味わうために、いまここに人間として在るのですから、「愛」のリアル体験、大いに楽しみましょう♪

どのような体験も、永遠なものではないため、必ず、過ぎ去りますが、(始まりがあるモノには、必ず終わりがありますが、それは、ダルマ(自然の法則)として、あらゆる現象に働いています)人間だけが見ることができる夢の世界で、一人一人が、この形である間だけの体験を通して、神の創造の世界、リーラ(神の戯れ)を心から楽しみ、お別れの時が来たら、思い残すことなく、歓びと共に、あらゆる存在の源である永遠の至福の大海へと、還って行かれると良いですね♪
Posted by 永遠の至福♪ from M-online at 2021年10月20日 23:06
たまに、自分は妄想の世界の住人だなと思います。
自分の中の設定が何か一つ変わるだけで、世界が違って見えたりします。
でも、愛はどんな状況でも変わらないです。
Posted by ゆき at 2021年10月20日 23:39
たぶんですが、
>人間関係だけに限っても、あの人はこういう人だとか、こう考えているに違いないとか、そんなふうに人を決めつけているけど、
↑という理由は、そもそも『決めつけて欲しい』からですよね。
しかも『自分の望み通り』に。

にも関わらず、

>そもそもその人がどういう人かとか、何を考えているのかさえも、その人の中でコロコロ変わっているわけで、何一つこうだと決めつけることはできません。
↑なんですよね(笑)

そうわかってしまえば簡単なことで、
じゃあいちいち他人が自分の望み通りに決めつけてくれることを期待しない、
↑とか、
これから決めつけないようにしよう、
↑みたいな『決めつけ』も相変わらず起こってくる訳ですけどね~(笑)
でまた迷うんですよ。
「あれ?簡単なはずなのになんでかまた元に戻ってる??」

自分はバカなんで、延々々々『同じループ』を繰り返しましたし、
きっと今も、気がついてないところで繰り返してると思います、
これに限らず。
なので思いました、
「あ、もうこうでしかないや」
って。延々々々繰り返せば、さすがに認めざるを得ませんよね。
で、その途端、劇的に楽になったり、愛を感じた気にもなったり
するんですよね~(笑)

なので思うんです。
大切なのは、『わかったつもり』で『わかってない』とか思い込んでる
思考や感情とかを無くそうとすることではなくて、
ただ素直に『ありのままの事実』を自覚して、認めることなんだろなと。
ちなみに『ありのままの事実』←と思い込んでるこれだと思うんです、
『ありのままの事実』として『認める必要があるもの』は。
Posted by ただの「自分」 at 2021年10月21日 18:00
カトリックの家庭に生まれ、聖書の言葉に影響を受けながら育ちましたが「心貧しき者(心の貧しい人々)」とはどういう意味か分かりませんでした。

どこかのホームページで、専門家と呼ばれる人たちが、くどくど解説しているのを読んで余計に分からなくなった(笑)経験もあります。

阿部さんの解釈で納得です。そういうことか、マインドが薄まれば幸福でいられる・・・みたいな
Posted by たー at 2021年10月21日 20:42
自死する覚悟も持てず、それを神が悲しく思ったのか病気になりました。

なんて~なんて~ってなるけども
瞑想しても坐禅しても死は怖いし何もわからなかった
結局何もなかった

諦めました
諦めて惨めに喚きながら死んでいこうと思います


生まれた瞬間から命を否定され、虐待、いじめ、犯罪被害とあらゆる劣等を浴びてきて生きていていいのか、生きていて申し訳ない、をずっと抱えていましたが、ここまで逆切れしてある意味自己中に、ある意味自己愛を取り戻せ、ここまで生きられたのは阿部さんのお陰です。

そしてコメ欄の方々のお陰です。
特にジョン檸檬さん、自殺の記事のまきしまくんさんのコメには何度も自死を止めてくれて助けられました

本当にありがとう
Posted by 自分 at 2021年10月21日 22:34
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