2021年10月19日

根本的な救済

大抵の場合、我々はこの世界から自分が切り離されていると信じています。

そしてたとえいまが順調にいっていても、この先何があるか分からないと感じています。

だから心休まる時がありません。


いつも頭は、何か最悪なことが起きたときの対策を考えていたり、そうならないようにいまの内に打てる手段を準備しておこうとしたり、心休まる時がありません。


上手くいっていようといまいと、いずれにせよ心も体も緊張したままです。


これはそもそもの、「自分は切り離されている」という誤解から生じているのですが、この分離感はかなり深い所に巣くっているので、おいそれとは消えてくれません。

何十年にもわたって間違った観念を固めてきたからです。

だから繰り返し真実を学ぶ必要があります。


ZENサンガも、この一点を東洋と西洋の教えを交えながら伝え続けています。

ノンデュアリティとかアドバイタとか呼ばれる非二元の教えを純化したものが、日本では禅という形で伝わってきているのですが、歴史の中でその大部分は形骸化してしまっています。

その真髄を取り出すことに成功した一つの例が、このサンガだと自負しています。

昨日紹介した阿(おか)さんも、このサンガについて、やっと自分の居場所を見つけたと言ってくれていますが、これからも創意工夫しながら、多くの人が分離という夢から覚めるお手伝いをしていきたいと考えています。



根本的な救済



年齢と共に時間経過の加速度が増していきます。


不慮のアクシデントや、決定的な病、そして死という結末が否応なく迫ってきている中で、もう時間が少なくなってきたという焦りを感じている人もいることでしょう。

自分は人間としての「生老病死」という宿命から逃れられないと思っているかもしれません。


でも違うのです。

これらの不安は、不確実な人生の状況になんとか折り合いをつけて、自力で生き残っていかなければならないという妄信から来ています。



自分が世界から分離した個であるということを信じて疑わない状態から、それが本当に真実なのか改めて向き合おうとすることは、根本的な救済に一歩踏み出したことを意味しています。

今日の文章をここまで読んでくれた人は、すでにその道に踏み出しているのだと思います。

でなければ、途中で放り出してしまったでしょうから。


先ほどはZENサンガを自画自賛してしまいましたが、もちろん他にもあなたに合ったものが見つかるかもしれず、いまの情報化社会は危険な面も多々ありますが、使い方次第では有史以来の人類規模での飛翔に繋がると思っています。


このブログも、そんなお手伝いの一端を担えれば幸いです。









Posted by Toshiro Abe at 12:02│Comments(15)
この記事へのコメント
阿さんの「やっと自分の居場所をみつけた」と言う言葉。
思わず、あ~っと嬉しい感情が湧いてきました。
24日の配信楽しみだす。
Posted by にゃお at 2021年10月19日 12:10
本当の救済とは
本当の自分を実感し↓
本当の自分に安らぐことです←(*´▽`*)→

本当の自分とは
無常の肉体・精神ではなく
胸の中心に常にある光です◎

本当の自分とは
有限の肉体ではなく
無限の光です◎

意識がなくなって
胸の中心に常にある光に安らいでいるのが
深い眠りです◎

意識があり
胸の中心に常にある光に安らいでいるのが
深い瞑想です◎

自分の中心から外れるほど↑
心が不安定になり~~~
苦しみが生じます→(>_<)←

自分の中心にいるほど↓
心が安定し―――
苦しみが滅します←(*´▽`*)→

自分の中心にいることが中道です◎

自分の中心に常にある光に安らぐことが
本当の救済です◎

仏   法    僧
ブッダ ダルマ サンガ

ブッダとは中道の成就者です◎

ダルマとは中道に基づいた修行法です◎

サンガとは中道を実践する者たちです◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年10月19日 12:20
ビッグバンが覆されて過去を遡ればそのまま未来に繋がってると科学の世界でもいわれだしました
Posted by わっか at 2021年10月19日 12:21
>大抵の場合、我々はこの世界から自分が切り離されていると感じています。

正直、そもそもこういうメッセージが何を指し示しているかについて、
あまりピンときてなかったと思います。
でも最近、たまたま『孤独』とは何か?について考えたことがあって、
それは自分の場合、『周囲の他人』から外れる『孤独』というよりは、
たった今こう起こっていることについて、間違っているかのように言われて、
それを真に受けて自ら「こう起こっている自分は間違っているのかも」とか
思ったりしてしまう時・・・
つまり、『こう起こっていること』が『世界』『宇宙』から『外れてしまっている』
かのように思い込んでしまう、そういう『孤独感』だと気付きました。
なので、『周囲の他人の言葉』を信じて、そういう『孤独感』を抱えたまま、
なんとか『周囲の他人』に合わせることができたところで、当然、
『その孤独感』が解消されるはずも無い、と腑に落ちました。

それまでもずっと、なんとなくですが、
何が起こっても「こう起こっている、これでいい」と思うまでもなく、
ただそう起こるがままに生きられている状態に在るのが、
一番気楽で安心できるはずで、だから根本的に、そういう『誤解』を解きたいと
思ってましたが、改めて、やっぱりそういうことが必要だと感じました。
Posted by ただの「自分」 at 2021年10月19日 12:31
阿部さん、

今日もブログを書いてくれてありがとうございます。

なまけたり、やりたくないことを先延ばしにしているのを分かっていて、それが結局、不安につながり、いつも目の前に起こる状況になんとか折り合いをつけようとしている自分がいます。
Posted by Blue at 2021年10月19日 12:34
もう時間がありません
死にたくない
Posted by 自分 at 2021年10月19日 13:12
阿部さん、こんにちは。そうですよ、阿部さんのブログはいろんな方々のお手伝いになってますよー。僕もその一人です。
Posted by 永井新吾 at 2021年10月19日 13:16
『このブログも、そんなお手伝いの一端を担えれば幸いです。』



ありがとうございます(^_^)


よろしくお願いいたします♪
Posted by すずめ at 2021年10月19日 15:53
知識(後の人や弟子が体系化したもの)は、最初は指針や参考になるかもしれませんが、知識の詰め込みはなんの役にも立たない、夢に埋もれるだけではないか(この世では役に立つかもしれませんが)と思いました。

阿部さんがやっていることや、阿さんの師匠が言われたことは、その逆ではないかと。

一端得た知識(理解)は全部捨ててしまえ、と。
Posted by 新しい猫 at 2021年10月19日 16:24
この世の有限性(死)からくる不安、恐れなどの解放を
この世のものに求めるのではなく、
私たちの本質である唯一の実存・パワーなる神にお委ねして、
聖なる調和を見させていただきましょう。
Posted by チェリーボンボン at 2021年10月19日 17:54
>世界から分離した個

一瞬たりとも、生命から分離した人間は、この世にはいませんが、分離感が生じているとしたら、生きているだけでは、自分の人生に満足できず、何か物足りないということなのかもしれませんね。

分離は幻想ですし、分離しているという感覚も、全くの錯覚なのですが、その錯覚の中で、確実なモノを求めて、もがいているというのが、私たち人間の大方の姿なのでしょう。

今は、生命そのものとして現れている個のわたしが、生命の源から分離できるはずがないのですが、神の力(シャクティ)は、マーヤー(幻妄の力)でもあるため、生じている錯覚は、簡単には消滅しませんが、それでも、錯覚は錯覚なので、いつか必ず、消滅します。

それが、どのタイミングで起こるか?は、予め予測することはできませんが、錯覚は永遠のものではありませんので、始まりのあるものには、必ず終わりがやって来ます。
それが、この世に働いているダルマ(自然の法則)なのですから、永遠でないモノは、必ずいつか滅します。

全ては、自動運転、ダルマ(自然法則)の通りに流れているだけなのですから、この世で働いているダルマ(因果の法則)を信じることです。

ヴェーダンタでは、人間の人生の目標(プルシャールタ)は、4種類あると言われています。
①カーマ(欲望、性欲、情熱、憧れ、感覚への歓び、耽美的な生き方、愛など)
②アルタ(富、財産、生計)
③ダルマ(道徳、倫理)
④モークシャ(輪廻からの解脱)

この目標は、自分が決めているようで、持って生まれたサンスカーラ(前世からの記憶)によって決まっていると考えられています。

自分では、何故か?は、よくわからないけれども、阿部さんのブログに出逢い、阿部さんのメッセージに心惹かれる、という場合は、プルシャールタが④である可能性が高いと言えます。

これは、(サンスカーラという)ダルマによって決まっていますので、自分の意思で、故意に変えることはできません。
ただ、最初は④ではなかった人が、何かのきっかけで、自然と④になる人はいることでしょう。

仏教では、釈迦の教えを聞くことは、声聞として、修行の一つとされているようですし、ヴェーダンタにおいても、聖典に書かれていることをよく熟慮することは(昔は、文字で書かれた本はなく、すべて口伝でしたので、グルから口伝された内容を暗記して覚え、その上で熟慮したようですが)、声聞と同じく、繰り返し真実を学ぶことにより、正しい智識を元に熟慮することにつながり、それが修行の一つとして、重要視されているようです。

人生の進路を決めている羅針盤の針は、固定されてはいないので、真実を学ぶことは、羅針盤の針を向ける方向を定める際に、大いに役立つことでしょう。

進むのは自分ですが、本気になれば、やがて、導き手(目に見える導師、目に見えない導師)が現れて、短縮の道を教えてくれることもありますので、諦めないことです。

真の自己である真我(アートマン)は、個の魂(ジーヴァ)のハートにあって、常に探求者の心を見ていますので、ジーヴァに準備が整った時、必ず、何らかの形で現れて下さることでしょう。

この世は、因果の世界ですから、それが起こるまでは、探求者として、求め続けること、瞑想や声聞を続けることは、とても大切です。

古い言葉ですが、継続は力(シャクティ)なり、と言われることがありますが、この力は、本来、誰にでも備わっていますので、大いに発揮して、ゴールに向けて、少しでも進路を進められると良いですね♪
Posted by 永遠の探求 from M-online at 2021年10月19日 19:14
〉Blueさん

難しいですよね。
逃げ癖がつくのも困りものですし、
逃げずに頑張りすぎて限界越えちゃうのも困りもの。

逃げたい!という感情に執着することなくやることをやって、
逃げちゃダメだ!という感情に執着することなく逃げるときは逃げる。
そんな感じでしょうか。
Posted by パンマン at 2021年10月19日 20:12
未来ってそんまま過去に繋がってんだってね

この世って「記憶」が流転してるだけじゃあ。。


きおくを祓い助けたまえてんりおうのみこと♪
Posted by ビッグバンが覆された at 2021年10月19日 20:35
>大抵の場合、我々はこの世界から自分が切り離されていると信じています

神と分離したと信じていることが唯一の問題なのだと奇跡のコースでは教えられていますね。

そして、そのように信じたことに大きな罪悪感を感じていて
自分では直視出来ない。
(イエスを裏切ったユダのような…それ以上?)

そこでイエスは、兄弟の罪を許してキリストであると見るなら、自分の罪も許され自分がキリストであることを知ると教えておられます。

(今の僕は全ての人は役者であり、本当はキリストなんだ
我らはたったひとつのキリストなんだと見る練習をしております)

そうすれば、しばらくの間、罪のない状態でこの世界を生きることになる。
(奇跡のコースで言う実相世界、幸せな夢。この時、神に最後の一歩を踏み出すようにとの招待状が送られる)

そうして、遂に、神が最後の一歩を踏み出す。
(神が幻である自我の自分とこの世界を消滅させる)

God is…

今はそんなビジョンでおります。

祝福☆祝福☆

おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2021年10月19日 20:58
24日の配信、参加したいなぁ〜(><)
家族に、飲み会に行ってくる!と言って、参加しようかなぁ笑
真実の死生観、めちゃめちゃ気になるテーマです!
Posted by はるか at 2021年10月20日 14:02
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